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木登りと朱いピューマ10 - (2010/07/29 (木) 11:19:07) の編集履歴(バックアップ)


木登りと朱いピューマ 第10話

 
 
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                  ~ 10 ~
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 比べてみなければ分からないほど淡い黄緑色の灯の下、俺は大の字に寝転んでいた。
 体中が、指先に至るまでぽかぽかとした熱をもっていて、
 寝台に敷かれた清潔そうな白い薄布から漂う太陽の匂いとブレンドされて、心地よい眠気を誘う。
 半乾きの黒髪をくしゃりとつかみながら、深く安堵のため息をついた。
 
「フユキ……」
 寝室の入り口がある方角から、俺の名が小さく細い音色にのって聞こえてきた。
 
「おかえり」
 そう呟き返し、寝台の端に身を寄せた。
 一人用の寝台に二人が位置を占めるには、このままで転がっていられる余裕はない。
 
 きし、と軽く寝台が軋んだ。
 二人して同じクリーム色の夜着が腰を下ろす。
 そして頭部に巻いた布をとり、
 頭を小さく打ち払うと、少しだけ重そうな朱色の髪がさらさらと肩甲骨の辺りまで流れ落ちる。
 石鹸のいい匂いがふあ、と鼻腔をくすぐった。
「いいお湯でした」
「ふふっ。随分と疲れが取れたでしょう」
 お互いに顔を見合わせて同時に微笑む。
 また軋む音をたてると、伸びやかな両脚も寝台の上に現れ、
 くるんと回転するように朱奈が俺のほうを向いて横たわった。
 
 心もち俺も身を寄せる。
 そして腕を回して身体の下敷きになっている朱い髪を、梳くようにして後ろ側へ解放してあげる。
 そのまま肩に手をかけ、愛しい人を抱き寄せる。
「このまま、寝そうだ」
 石鹸の匂いと朱奈本人の甘いような匂いを胸いっぱいに嗅ぐ。
「わたくしも」
 吐息が鎖骨の辺りをくすぐって視線を下げる。
 温かい湯で紅味が増した色っぽい唇が目に入り、ためらいもせずに唇づけた。
 二人して唇をぱくつくようなキス。
 時々舌先も混ぜて表面を突つき合う。
 
「ごめん。ここ、赤くなってる」
 二回目の情事で、食卓に押し付けて擦れた頬に息を吹きかけた。
 するとそれは一瞬の間を置いて紅く散り、顔どころか首まで羞恥色に染め上げた。
「フユキの、お莫迦」
 色々と思い出したのだろう。
 柳眉を寄せて、責めるような声を上げる。
 鳶色の瞳もふいと逸らしている。
「ごめん……本当に…ごめん…」
 悲痛にすぎるくらいに、俺は呻く。
「あ…えと…恥ずかしい、わけ…でして…別に怒っては…」
 最後にちらりと見上げて──
 
「あ~~っ!」
 俺の方こそ本気ですまないと思って謝ってはいない。
 雰囲気だけフリをして、冷やかすように笑ったまま。
 朱奈は騙されたと知って、耳を立て眉もきっと吊り上げた。
「フユキはっ!どこまで意地が悪いのですっ!わたくしが、わたくしがっ……」
 怒りにまかせて言葉が続かない。
「どうどう」
 肩を叩いてなだめてみる。
「わたくしはリャマではありませんっ」
「そうだね…俺が好きなのはピューマの女の子、リャマじゃないよ」
「っ!」
 絶句した鼻先にキスをかすめて、もう一度朱奈の口に喰い入った。
 
「……」
「……!」
 思わぬ衝撃に引こうとする朱奈を、後頭部に手を回して阻止。
 歯列をなめまわす。
 口内の粘膜が動いて可憐な下が近づく気配を察して
「……あ…」
 一旦離す。
 開いた口の隙間から中途半端に飛び出した赤い舌先が覗いていて、すごく可愛い。
「悪かった。からかったりして」
 想いをのせて唇だけを触れ合わせる。
 すぐに物足りなくなってこちらから踏み込んだ。
 朱奈の舌はもう待ち受けていて、熱烈な歓迎を受ける。
「ん…ん……ぅん…ん」
 寝ているのであまり顔の角度はつかない。
 奥深くは侵入できないが、その分ぬるぬるの舌を絡める。
 瞼はいつの間にか閉じていて熱い粘膜だけに夢中になった。
 …押し込んで、引き寄せて、逸らせて、追いかけて。
「んちゅ…んく、ん、ん」
 もちろん、教えてもらった通り鼻から空気を取り入れながら、
 それこそ唇が腫れてしまうくらい。
 最後にじゅる、と唾液を吸うと朱奈はびくりと身をすくませた。
 
 ゆっくりと、恋人同士の交換を解く。
 すると朱奈の柳眉はもうせり上がっていないし、寧ろなだらかに下がっている。
 ぽう、と上気した顔は無防備すぎて、自然と惹かれるように、
 切り揃えられた前髪の上から額をつつく。
「……っ!」
 覚醒したようで、
「ぅぉ!」
 ものすごい勢いで頭突き、もとい、胸に額を押し付けられた。
 さっきよりも格段に熱い吐息が鳩尾を灼く。
「キス……上手くできた、かな」
「…やっ…」
 高く跳ねるようなのに、やわらかい音色。
「いきなり、まずかった……かな」
「厭…」
 拗ねてむくれてしまった女の子のように。
「俺のこと、キライになった?」
「いや…いや……」
 こちらを向いてくれない。
 
「そういうっ!」
 突如、栓抜きの如く言葉だけが胸元から飛び出した。
「そういう…分かりきった事をわざと尋ねる………フユキが、厭…」
 
 その意味するところがじわじわと浸透してくるにつれ、こみ上げてくる。
 愛しい。この人が本当に、愛しい、愛しい、愛しい──
 
 朱奈を抱きかかえて、ころんと仰向けにしてしまう。
 そして俺の夜着にしがみつく彼女を引き剥がすと、無理やり顔を合わせてのしかかった。
「あい、してる。朱奈」
 今度こそ最深部までずかずかと入り込む。
 でたらめに舌を動かして蹂躙するかのように。
 技巧なんて関係ない。
 片手でピューマの耳を、片手で下あごを愛撫しながら、
 唾液のたてる水音とごろごろと気持ちよさそうに鳴る喉の音を楽しんだ。
 
「ふはっ……」
 飽きはしないけれども、愛しい人を見たくて唇を離す。
(…ん?)
 違和感を覚えて、聞いてみた。
「朱奈、酔ってなさそう……?」
 自分で言うのもアレだが、かなり感情が暴走していたように思える。
 しばらくの間はあはあと呼吸を整えていたが、こく、と喉を鳴らすと、
「お薬を、頂いて、きました。周期…その…発情を抑える、お薬を」
 余韻を交ぜながら、そう答えた。
「……大丈夫? 体に害とか、ない?」
「はい、フユキ。こちらでは一般的なお薬ですから。
 過度に発情してしまった時にしか効果はありません」
「朱奈がそう言うなら」
 
 そこで朱色の彼女は大きく深呼吸した。
「フユキは末恐ろしいです。わたくしは…い、いろいろと学んできましたが……フユキ、
 初めてなどと、嘘でしょう」
 小さく睨みを利かせてきた。
「正真正銘、朱奈が初めてだ」
「…きす、も?」
 
「あ……」
 「ああ」と頷こうとして思い出した。
「前…仕事の担当さん……と一度」
「一度だけ?」
「に…あ、三回、ほど」
 キスとは言っても、今朱奈としているようなそれと比べると、児戯のようなものだが。
 思いもかけず誘われて有頂天になっていたところに、
 彼女の寿退社の報を受けた時はひどくショックだった。
 その人は随分と前から婚約していたらしく、俺はといえば怒るよりも思い切り脱力してしまった。
 遊ばれてしまったというか、マリッジ・ブルーの一種だったのだろうか。
「フ、ユ、キ?」
「あっ、ごご、ごめん!」
 かなり朱奈の目が怖い。
 比喩ではなく、本当に瞳が輝いている。
 皇館で陛下に睨まれた時のように、いや、寧ろ身近な分はっきりと全身が怯えている。
「……もう、わたくし以外に、しないで下さいまし」
「もちろん。絶対朱奈以外にするものか、誓ってもいい」
 小さな花が開いたように控え目で、でもすごく嬉しそうな微笑に、
 怯えは簡単に幸福感へと形を変えた。
 (……っ)
 と同時にひやっとする。
 (これって、遠まわしにプロポーズ、じゃないだろうか)
 羞恥が激しく泡だって、顔が熱い。
 しかし、朱奈は急激に茹で上がった俺には気付かずに言葉を続けた。
「先ほどわたくしは湯につかりながら、考えていたのです」
「何、かな…」
 
「わたくしはフユキを守ってみせます、全霊をかけて」
 その細長い鳶色の瞳に決意の色を加えて、朱奈は言う。
 きっとそれは失敗した【ニヤトコ】がもたらす様々な、不味いこと。
 朱奈だけではなく、俺にも当然関係がある。
「俺も…っ…」
 釣られて言いかけてこらえた。
 何度も考える事だが、
 『こちら』の世界に落ちてきて一日とたたないヒトに何ができるというのだろう。
 
 しばし考える。そして、
「俺は……朱奈の隣を離れない、全霊をかけて」
 最後のところは彼女の言い様を真似る。
 『従者』の意はそのまま『従う者』だ。
 朱奈の迷惑にならない程度に、守られやすいように位置取りを考えよう。
 …でもいつか。
 朱奈を守ってみせると胸を張って言える、その日を目指そう。
 
「それにしても、すごい気合だな」
 ぐっと両手を握りこんで、ふんふんと鼻息を荒げかねない朱奈を茶化す。
 暗雲がたれこめていそうな未来でも、今くらい明るい太陽に目を細めてもいいだろう。
 きっと朱奈も同じ気持ち。
「フユキの力も、こっそり当てにしていますので」
「二人のために?」
「はい、フユキ……」
 そこでふっと顔を俯かせると、蚊の鳴くような声音で、
 
「………………ふ、ふっ……ふぅ、夫婦の、ために」
 
 ぽつりと洩らした。
「……ぁえ!?」
 さっきプロポーズなんたらと考えて一人で赤面していたものの、
 こうもはっきりと告げられると素っ頓狂な奇声しか出なかった。
「お厭、でしょうか……」
 獣の耳までしょんぼりとさせ、はっきりと判るほど悲しげな色。
 朱奈はどれほど勇気を駆り立ててカードを切ったのか。
 
「んなことあるかっ!すご、すっごいうれしいぞっ!」
 
 光の速さで感情のトランプをシャッフルし、一番上にきたカードを思い切り切り返した。
 たちまち朱奈の顔がぱぁ、と輝く。
 そして一瞬だけ目を合わせると、すぐに伏せてしまってもじもじと両手の指を絡ませ合うのがいい。
 全力ではにかんでいる彼女が愛しすぎる。
 
 
 
 しかし、
「でも、本当にいいのか? 朱奈」
 俺も湯につかっている間に思い出したことがある。
「俺たちには子供ができない……だろう?」
 
 ふと思い出したのが、
 風呂場でバカみたいに呆けながら、朱奈との情事を思い返していた時というのが情けないが。
 この言葉の持つ意味はひどく重い。
 まあ、この問に対する結構な正論もあるだろう。
 けれどもその正義の味方を怯ませるくらい、重たい事実。
 
「それをどこで!?」
 朱奈にはかなり意外だったようだ。
 鳶色の瞳をいっぱいに剥いて糺した。
「あの男……シキァフといったかな」
「あの時!」
 朱奈は即座に理解してくれた。
 ──ヒトとヤってもガキができねぇんだと
 あの言葉は彼のもつ狂気がちらついて、釣り針の返しのように、心にざくりと居座っている。
 朱奈ががしっと俺の夜着に爪をたてた。
「はい、本当です。他の国ではそれを可能にする技があるらしいですが、
 真実であるどんな証拠もつかめないでいます……わたくしたちでは、無理です」
 
 (違うんだ、朱奈。朱奈にそんな辛い顔をさせたくてこの話をした訳じゃない)
 
「隠していたのでは……」
「朱奈。聞いて」
 厚くもなくて頼りない胸板だが、奥の心ぐらいは頼られるくらいになりたいものだ。
「朱奈が俺のために決意してくれたように、俺も心に決めたことがある」
 心はずっと穏やか。
 まだしがみついたままの彼女の手を取った。
 かわいそうに、かちかちに冷え切っている。
 
「朱奈は、保母さんだよな?」
「はい、フユキ」
 心はもう、温かく綻んでいて溢れてしまいそう。
 朱奈は喜んでくれるだろうか。
 この冷たい手を温めてあげることが、できるだろうか。
 
「それなら、俺は保父になろう」
 
 俺はそう、宣言した。
 一方朱色の彼女といえば、ひどく呆然とした顔をしていた。
「言い方悪かったか。保育士、でもいいんだけれども」
 (保母と保父、似合いの夫婦だと思うんだがな。それほど意外じゃない……はず)
 
「俺たちに子は為せない。けれども世界に血縁のない家族はたくさんあるぞ」
 
「受け持った子供たちを、それこそ二人の子供のように、愛そう」
 
「俺たちの子は、キンサンティンスーユの子供全員というのは……大げさか。あははっ」
 
 やはり実際口に出してみると恥ずかしいもので、あらぬ方角に顔が向いてしまう。
 その代わり、祈るように細い手に力をこめた。
 
「はい、フユキ……」
 喉に何か詰まったような、彼女のかすれた声。
 もう朱奈の手は冷え切ってはいない。
 
「わたくしは、貴方の…妻になります」
「ありがと、朱奈」
 ほかほかと温まった彼女の体温に、満ち足りた気分になる。
「まあ、決意だけでなれるなら苦労はしないが──」
「いいえ、いいえっ──」
 勢い込んだ朱奈に遮られた。
「フユキなら必ず、なれますとも」
 ようやく戻した視線が、俺の可愛い、朱奈をとらえる。
「そうだと、嬉しい。力を貸して欲しい」
「はいっ! 全霊をかけて」
「俺も全霊をかけて…朱奈、俺の……」
 
 「それ」は、まるで教会で誓いを交わすヒトの世界であるかのように──

 
 
 
 
 

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