小さな龍と猫の姫 序章
運命というのは、時に暴風のように、個人の人生を絡め取る。
人の生きる道など、まるでお構いなしなのだ。
「……ふう」
時刻は昼。空には太陽が輝いている。
今日は記念すべき日である。身を立てるために、これより都へ降り、晴れの姿を示す時であった。
天気は折良く晴れ、出立には絶好の日取りと、誰もが判を押したように言った。実際、朝に歩き始めた時には、どこまででも走っていける気がしたものだ。
しかし、ほんの少しだけその力を過信しすぎたのかもしれない。昼前頃、昼食を取ろうかと思った 頃合で、彼は自分の身体の失調を感じたのであった。
「……参ったな。日暮れまでには途中の里に着けると思っていたけど」
少年は、湿らせた布を顔から取り、こめかみを揉み解した。布はきちんと絞り、荷物の中へ戻す。
今の失調から立ち直るのに、大凡半刻分の時間を使ったと自分の体内時計が言う。より確実に判断しようと彼は天を見仰いだ。
そして、眉をひそめる。
「……?」
太陽は、まだ南中していなかった。それと判るのも、周囲の気温が上がりきっていなかったためだ
。幼きころから森を友とし、自然に親しみ続けた彼は、その一つの違和感を引き金にして周囲の異常を次々と確認した。
一つ、森の木々の流れが、いつの間にか変化している。
二つ、鼻を鳴らして息を吸えば、親しんだ山の空気とは違う緑の匂いが鼻腔を突く。
三つ、道は車が通れるほどの幅で、少年の記憶では自分の過ごした山にこれほどの幅を持つ道は二割とない。
四つ、そのいずれもが自分が歩く予定の道程には存在しないはずである。
迷ったか。……否。あの、己の庭と言えるほどに知り尽くした山で、自分が迷うはずがない。何より空気が違う。周囲を見れば見るほどに、ここは自分の知る地ではないとの確信が深まる。
開け放った荷物もそのまま立ち上がると、不意に横から声が響いた。
「そこのガキ、動くな」
声を掛けられた瞬間、少年は素直に動きを止め、反射的に警戒する。
葉摺れの音に紛れ、人の気配が七つ。それに加え、濃い獣臭がそよ風に混じる。ざわざわと木々を掻き分け、左右から人影が姿を現した。
少年はその姿を見て、一瞬思考を止めざるを得なかった。
「リーダーッ、こいつ、マジなんですか、マジですか、耳、耳がねえっ」
「ヒトだ……こいつヒトだぞ」
「うろたえるんじゃねえバカども。……おい、そこの。俺たちを見て声も出ねえか」
お頭、と呼ばれた『もの』が、口を利いた。重たい、鉛のような声だ。それも十分に驚愕に値することだったが、何より問題は、自分を取り囲んだ七人の容姿であった。
身体は彼らは濃い体毛で覆われ、皆一様に薄汚れた襤褸服を纏っている。――否、体毛と呼ぶのは不適切だろう。その有様ときたら最早毛皮と呼んだほうが相応しい。極めつけには、一人の例外もなく
首から上に、獣の顔が載っていた。
魑魅魍魎の類かと疑うも、相手は人語を解す様子。首領格と思しき眼帯の獣が、呟くように言う。
「その驚きよう……落ちてきて間もないらしいな」
確かめるような響き。オオカミのような顔をして、しかし『それ』は口端を裂き、笑った。
「野郎ども、こいつをふん縛れ。だが、傷はつけるなよ」
「わかりやした、リーダーッ!!」
号令一下、周りの狼人間達が囲む輪を狭め始める。その手には、ギラリと光る円月刀が握られていた。自分に集中する、殺意ではない――しかし害意に限りなく近い、欲望にまみれた視線。
少年はこの事態について、それ以上考えるのをやめた。
――ぱん、と音が響く。
「あ?」
「……こいつ、何の真似だ?」
部下が珍妙な声を上げたのを聞き、狼たちのリーダー――バーゼルは眉をひそめた。
視線の先で、ヒトの少年が荷物を落とし、右拳で左手を打ったのである。両足をぴたりと合わせ、直立不動の体勢をしたまま、少年はゆっくりと頭を下げた。
復位するなり、彼は奇怪な呼吸をしながら腰を落とす。日常を生きるうえで、およそ必要ない呼吸だ。洞窟の中を吹く風笛のような音を立てて吸い、空気を引き裂くような音を立てて吐く。
一呼吸のあと、少年は脇を締め、右手を顎を守るように、左手を胴を守るように構えた。
その構えに見覚えがある。
あれは確か、ライオンの連中がよく使う、素手での格闘術のそれによく似ている――
「おい、手前ら、油断すん――」
バーゼルが最後まで言葉を口にすることはならなかった。
少年が、地面を蹴ったためであった。
「おごばっ!?」
異様な声が響き、部下の一人が顎をぶち抜かれて後方へ吹っ飛んだ。
「……は?」
誰からともなく、間の抜けた声が漏れる。
少年は、真っ直ぐに突き出した右の拳を、坂を垂れ落ちる水のような速度で引き、ゆらりと次の『標的』へ視線をずらす。
「こ、こいつ、ヒトじゃねえのかッ!!」
『標的』となった狼が、少年の素性を疑った瞬間、芸術的な蹴りが彼の顔面にめり込んだ。
不覚にもバーゼルはその攻撃を見て、美しい、と思った。飛び立つ鳥のような軽やかな跳躍から、空中で身を三度回し、ひねりを加えて斜め上から蹴り下ろす一撃。
あんなことができるヒトなど、聞いたことがない。蹴られた狼はそのまま吹っ飛び、顔面を地面に引きずりながら木立の向こうへ消えていった。
部下達が及び腰になる。それを見て、バーゼルは自分のシミターを引き抜いた。両手に一本ずつ握るのが彼のいつものスタイルである。前に進み出ながら、彼はそのヒトの少年に向けて呟いた。
「おい、ガキ。手前、何者だ」
少年は蹴りを放った体勢からゆっくりと復位し、最初の構えを取り戻した。暫し迷うような沈黙をしてから、小さく、しかしはっきりとした声で言い放った。
「師父『黒龍』(ヘイロン)の元で修行をし、都に戻る途中の修行者にございます。見逃してはいただけますまいか」
年齢を見分けられるほど多くのヒトを見たわけではないが、それでも年に似つかわしくないと思わせる口調だ。着ている服は真新しいが、まるでそれが彼の一部であるかのようにしっくりと馴染んでいる。
ヘイロンという名に、聞き覚えはなかった。バーゼルは少年の素性を探るのを諦め、端的に結論だけを口にする。
「出来ねえなあ、そいつは無理だ。何せ手前らヒトには、売れば遊んで暮らせるような価値があるんだからよ」
言葉に、少年が不可解げに眉間に皺を寄せる。
「戯れを。このような小僧、売り払ったとて飯の種にもなりますまい。……そろそろその被り物を取っては如何です」
落ちてくる人間は稀なれど、その基本的な行動傾向は大体同じだと聞く。すなわち、目の前の種族を否定し、その次にはこれは夢だと思い出す。
「被り物じゃあねェーんだよ。……おい、どけ。このガキは俺が引っ立てる」
萎縮する手下を円月刀の峰で叩き、道を開けさせる。肩幅二人分の距離を開け、対峙した。
見れば見るほどに、脆弱な生き物だ。身を護る毛皮もなければ、分厚い筋肉の鎧もない。およそ戦闘とはかけ離れているはずのその肉体は、しかして二人の部下を戦闘不能に追い込んだ。呻き声は聞こえてくるが、起き上がる気配はない。
「バーゼル=スティンガーだ」
バーゼルは名乗りを上げた。それが通じたか否か、少年は前に出していた右足を引いて直立し、ゆっくりと、五指を伸ばした手のひらと拳を重ねあわせ、深く頭を下げる。
「吼意仁慈拳(コウイジンジケン)が皆伝、鄭孔龍(テイ・コンロン)。……では参ります、ばあぜる殿」
たどたどしい発音で律儀にこちらの名前を呼ぶヒトの子供。思わず微笑ましいものを覚えるが、獲物は獲物である。
最低限必要な息だけ吸い込んで、踏み込んだ。一瞬で間合いに入る。相手は構えを改めたばかりだ。右手に持ったシミターの刃を返し、殴りつけるように振り下ろす。首元を狙った一撃だ。加減はしているが、当たれば気絶は間違いない。
必中の距離になったときも少年は動かなかった。取った、と確信する。しかし、次の瞬間、期待した重い手応えは返ってはこなかった。
バーゼルの剣は、少年の首を素通りする。――否、彼の残像を袈裟斬りにしたのである。
「んなっ……」
右から敵意。バーゼルは二刀を重ね、反射的に胴を守った。そこへ飛び込む、コンロンなる奇態なヒトの影。
「砕ぃッ!!」
裂帛の気合が炸裂し、バーゼルの胴に、二つの刃越しに拳が打ち込まれた。
自分の身体がひしゃげる音を、狼は聞いた気がした。
「ッゴ……アッ!」
反射的に身体を引き、跳躍することで衝撃を逃がす。
バーゼルは手の中の刀を見て、思わず息を止めた。二刀は叩きつけられた衝撃によって歪み、まるで投石器で潰された十字架のように端を反らせていたのである。
「見事。中々の功夫をお持ちです。都に行けば警吏の位を得られましょうに」
「ワケのわからねえことを……口走ってんじゃあねえぞ、ガキがッ!!」
バーゼルは二刀を捨て、拳を握り固めた。その筋力とスピードは、一般的な彼らの種族――誇り高きオオカミの氏族においても、なお抜きん出ていると賞賛されたほどのものだ。
――殺しはしねえ。しかし死ぬほど痛い目に遭わせてやる。
バーゼルは誓い、ガードを固め、少年へと弾丸のように突っ込んだ。
もう幾度目になろうか。
バーゼルの鉄拳が唸りを上げて、少年目掛けて真上から打ち下ろされた。両者の身長差、軽く頭三つ分。雲を突くようだと表現されるバーゼルの巨体の前では、少年はあまりに儚く小さく見える。
しかし、バーゼルはこの身長差が何の武器にもならないことを早晩悟り始めていた。
空気を引き裂く音がして、またバーゼルの拳が虚空を貫く。バーゼルはすぐさま自分の体勢を頭の中に描く。右拳を出したまま、若干体重は前に乗り、右の胴ががら空きになっている。
電光のように駆け抜けた思考に従い、彼は突き出した右腕を膂力だけで引き、そのまま円を描くように振り払った。
紙風船の爆ぜるような音が響く。少年の蹴りが、彼の腕と交錯した音だ。手の感覚が一瞬失せ、一瞬後に痺れるような痛みが骨を這い登ってくる。
すぐさま右腕を引き戻した。
少年――コンロンが、弾かれた蹴りの反動を生かしたまま身体を返すのが見えたからだ。
「ッシァアア!!」
ヘビの連中が威嚇する時の声よりも、その声は鋭利だった。身を切らんばかりの寒気のする叫びと同時に、目の前で嵐が巻き起こる。
空中で身を廻し右足の一撃、これは顎をそらして避けた。その足を掴み取ろうとして伸ばした右手が、『逆の』足に叩かれる。
そのまま身を回し、最初の体勢より一巡しての右中段蹴り。変幻自在の足技だ。バーゼルは防御を固め、その足の一撃を左腕で受けた。あたりは静寂。いつもなら五月蝿いほどに騒ぐ部下達が、この攻防を前に息を呑んだような沈黙に沈んでいる。
無理からぬことと思えた。
生半可な打撃など怖くはないという自負があった。しかし、この少年が放つ拳脚の技には、その自信も霞んでしまう。
だが――
バーゼルはバックステップをして、目を光らせて少年を見据えた。
「やるじゃねえか。手前、本当にヒトか?」
「……人以外の種が口を聞くと、お思いですか」
少年の息が弾む。口調から、バーゼルは敵に疲弊の色を感じ取る。
脆弱なヒトは、自分達ほど長くは動いていられない。心肺機能が根底から違うのだ。バーゼルはた
だ正体不明の敵に怯える周囲の部下とは違った。彼には自分が勝てない存在などいるわけがないという暴力的な自信と、そしてその裏を取るための観察眼が備わっている。
「喋るんだよ、これがな。……いや、よくやってるぜ、手前は。だが、そろそろ疲れてきただろ?」
バーゼルは口端を吊り上げた。
黙して答えぬコンロンの額には、じわりと汗が滲み、流れ落ちている。
ヒト、それも骨格、筋力、体力的の全てが未熟な若年。しかも、『落ち』て間もないとなれば、身体に何らかの失調を抱えていてもおかしくない。さらには認めたくない現実を突きつけられたままにこの長期戦だ。消耗し、戦えなくなるのは時間の問題だろう。
加えて、戦闘の展開が彼に逆風を吹かせる。
攻めるバーゼルに対し、少年は防御からの反撃を主体としている。つまりバーゼルが、駆け寄って殴るというただそれだけの動作を取るのに対し、コンロンはその攻撃を回避し、一瞬の間隙を突いて死角へと回りこんで一撃を加える必要があるのだ。
防御に使う神経と、瞬間的な回避に使う運動量が、両面からコンロンを衰弱させにかかっている。
――相手が悪かったんだよ、手前はな。
バーゼルが内心で嘯いた瞬間、そよ風に乗って声が届いた。
「……未熟。功夫が足りません。お披露目は先ずは陛下のご覧じるところと決めていたのですが」
コンロンが構えを解き、だらりと両手を下げた。しかしそれも一瞬、雨垂れを掬うように、両手を碗の形にして持ち上げる。
「致し方ありますまい」
少年は胸の前まで上げた手を、突き上げるように天に翳し、同時に右膝を上げた。
刹那の停止。一瞬後、腕を腰元に引くと同時――踏み下ろす!
「――……!!」
戦慄、ただその二文字。
動作だけを見れば、それは児戯以外の何者でもない。
だが、部下が皆一様によろめいたように後ろに下がったのだけは、気配だけでわかった。
コンロンが足を地面に叩きつけた瞬間、一帯が確かに揺れたのである。錯覚であるかないかなど、この際、些少な問題だった。空が落ちてきたような重圧と、目の前にそれを発するものがいるというだけで、十分すぎる。
「……オオオオオッ!!」
バーゼルは吼えた。重圧を寄せ付けまいとするように、ただ、地の底までも届くほどに吼えた。地面を蹴り、加速する。
鋭利な爪を持つその五指を広げ、己の最速を以て飛び込んだ。最早傷つけても構うまいと、割り切った。――否、割り切った、と言うのは正しくない。
殺さなければ殺されると、彼の本能が叫んだのだ。
彼は、そうせざるを得ない状況にまで、たった一瞬で追い込まれたのだ。
コンロンが動く。
その頭から股までを、カギ裂きにするつもりで振り下ろした。風を巻く死の右腕が、彼の頭頂部に襲い掛かり、
止まった。
少年の小さな手が、巨木が如きバーゼルの右腕を支えている。まるで羽毛を受け止めるように、音もなく狼の一撃が静止した。
バーゼルは理解できなかった。何故止められる? 筋肉の絶対量、それが生み出す加速度、そして自身の質量の関係性。狼の知りうる拙い知識を総動員し、あらゆる理論を立てたところで、その所業を説明することは出来ない。
コンロンの手のひらは優しく、静かだった。なのに、背中から這い登るこの寒気は何だ。
彼の細めた目の中に鋼色のきらめきを認めた瞬間、バーゼルは反射的に右腕を引き、再び引き裂くための一撃を放たんとした。
しかしその前に、コンロンがその懐に潜り込む。抱き潰せるような近距離、拳を加速させきることが出来ないような密着状態。
次に吼えたのは、少年であった。
「阿打ァッ!!」
爆発的な発声と同時に、バーゼルの腹に拳が食い込む。
瞬間、臓腑の奥で衝撃が弾けた。
「ご……」
喉の奥が痙攣して、声が凍る。
「打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打ッ!!」
怪鳥が笑うが如き甲高い独特の発声と、胴にぶち込まれる乱打が狼の耳朶で楽章を奏でる。目の前にいるのはヒトではないと、バーゼルはその瞬間に確信した。
引き戻した瞬間に既に打ち込める状態になっている左右の拳。決して力を入れていないように見える緩い握り。矢襖のような拳の瀑布を放ちながら、コンロンは一撃毎に更に摺り足で前進している。
――ということは、あれか、オレぁ今、後ろに押されてるのか?
拳の数は既に数え切れない。目で追いきれない。カモシカの連中が横並びになって掃射する光景が頭に浮かんだ。
熱く焼けた鉄の雨のように、無数の拳が胴を滅多打ちにする。バーゼルは遂に爪を振り下ろすことが出来なかった。指先が戦慄くように震え、声すらも奪われたように顎が反る。
「吼意仁慈拳〝四拳〟が壱式……『百華』」
立ったまま意識を手放しかけたバーゼルの耳に、コンロンの澄んだ声が届いた。
意思に関係なく天に向こうとする鼻先を、震わせながら前を見る。
「……〝三分咲〟ッ! 絶掌ォ!!」
腕を揃えた双掌打。
彼の攻撃を見て取ることは出来たが、それが限界だった。
胴にめり込んだ最後の一撃。自分の体の内側から鳴る破裂音に意識を吹き飛ばされ、バーゼルの思考は闇に溶けた。
吼意仁慈拳。
知るものぞ知る、内家拳の流派の末席。〝勁〟を練り、拳脚によりそれを相手に送り込んで発破する技術――〝発勁〟を操るための想像を絶する修練が故、その修行の最中に命を落とす者も珍しくはない。その門徒を叩く子弟のうち、皆伝の位階を得るものはごく一握りである。
その狭く遠き門をくぐり、皆伝を名乗ることを許された者の実力たるや、推して知るべし。その力、その技、既に人の粋になし。
〝四拳〟が壱式、百華。短時間で練りあげた〝勁〟を、百に渡る数に細分し、連続的な寸勁として叩き込む。自らの中で練った勁を敵の体内で反響・増幅し、最後の一撃により炸裂させる魔拳である。
残心を取る孔龍の前で、狼がその巨体をぐらりと揺らした。発する声すらなく、仰向けに倒れ伏す。その目は見開かれたままであり、彼がいかな驚愕の中にいたか容易に推測しうるさまである。
左手を右拳で打ち、深く礼をした。その後、周囲で呆けたように立ちつくす狼たちを睨み据える。
「さあ、次はどなたですか」
返事はなかった。
ただ、狼たちは我先にと、道を争って逃げ出していった。棒で打たれた犬のような裏返った声は恐怖の表れか、何なのか。孔龍は駆け出していく狼たちの姿を消えてしまうまで眺め――
がくり、と膝を突いた。
「……〝三分咲〟が限界だなんて」
自分の掌を見れば、小刻みに震えているのがよくわかる。好調な時に比べ、勁の伝導率が酷く低かった。加えて、一呼吸で練れる勁の総量も少ない。
通常、『百華』は敵を完全に戦闘不能、或いは死亡に追い込むため、〝五分咲〟――五割の伝導率を目安にして放たれる。
孔龍は、この巨漢に目掛け、人間ならば勁を発動するまでもなく撲殺できる〝八分咲〟を仕掛けた。しかし、現実に放ってみれば、拳速は遅く、練った勁は敵に伝わらず、分散して散っていくのである。
結果、常の二倍の手数を加え、最後に渾身の勁を込めた双掌打を打ち込むことで威力を補う羽目になった。
「……技を崩すとは、なんて無様。師父に顔向けできないな、この様では」
自嘲気味に呟いた。全身を襲う虚脱感は、収まるどころかなお酷くなっていた。始めに敵を二人、先手を打って叩きのめしたその時にはまだ感じていなかったものが、一気に噴き出してきたような有様である。
上体を支えているのさえ辛い。地面に強く手を突き、孔龍は荒い呼吸をした。
息の吸い方を忘れてしまったようだ、と漠然と思い、そこではたと思い至る。勁が思うように練れないのも、通りが浅いのも、その所為ではないか。
気を巡らせるため、丹田に意識を集中し、息を吸う。しかして、呼吸が落ち着く気配はなく、逆に世界が回り始める。頭痛がし始め、手から力が抜けた。
まずい、と思ったときには、孔龍の身体は前へと倒れこんでいた。呼吸を落ち着けようとすればするほど、身体の自由が利かなくなる。かすみ始める意識の中、力を振り絞り地面に爪を立てたが、しかして彼の右手は最早土を掴むことさえできなかった。
そのまま、意識を失う。
半刻後。
「――」
倒れ臥したるは、この一帯を荒らして回る狼の盗賊団『レギオン』のリーダーたるバーゼル=スティンガー。そして、一人のヒトらしき少年。
女はそれを見て、口元に手を持っていった。
「壮観ですわね。この男が倒れているところを見るとは」
フリルのついたスカートの裾を直し、女は一人ごちる。しかして、それにも増して驚きなのは、傍にいる少年がほぼ無傷であることだった。
「けれどそれにもましてこのヒト、面白い匂いが致しますわ。お嬢様へお知らせしなくては」
小さな声で、女は喉を鳴らすように笑った。
その頭頂には、ぴんと立った一対の耳がある。白銀の髪と、つり目がちの目。身長は女性としては高い方であった。女は歌うように古代言語を唱え、くるりと指を回す。バーゼルと少年の身体が、宙にふわりと浮かび上がった。
「晩御飯の前にでも紹介したら、きっとお喜びになるでしょう」
女は足取りも軽く歩き始めた。腕をタクトのように振るたび、宙に浮かんだ一人と一匹が彼女のあとに追従する。
されるがままの男たちは、そうして、森の中から忽然と消えたのであった。