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通訳残留 １０-③ - (2008/11/11 (火) 15:32:02) の最新版との変更点
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<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">◇</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">紫煙が揺れる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">タバコの先から宙に放逐された煙は、しばらくの間ふわふわと頼りなく、カウンター付近の空間を漂っている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">回転する換気扇の羽。拳二つ分ほど開けられたカウンター脇の窓。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">煙は、それらが結ぶ線上に達した瞬間、崩れるようにして移動の速度を急速なものへと変える。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">浮遊から霧散へと移行した紫煙は、最後の僅かな残留をファンに噛み砕かせる事で、その命を終えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">タバコから放たれた煙は、例外なくそのコースを辿り換気扇へと消えていく。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">その光景はまるで冬のカゲロウだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そんな、妙な儚さと寂しさを催す想像をしてしまうのは、きっと窓が開いているからに違いなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">窓から流れ込む空気はとてもとても涼しげで、この古本屋で長らく強い暖房にさらされていた彼には、一筋の光明にも思えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">火照り汗ばんですらいる自らの顔を、冷涼な風が引き締めてくれている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">同時に気持ちも引き締められて、ムワリとした熱で鈍化していた感受性が、覚醒する。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">窓から流れ込む空気には、付近の住宅街から発せられるにおいが含まれていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">カレーやら揚げ物やら、夕飯時に相応しい食欲をそそる香り。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それから環境保護の風潮からか、最近はめっきりしなくなったはずの、石油ストーブのにおい。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">あの、ムワリとした独特の、鼻孔の奥から全身を包むような、ストーブが過熱する香りが混じっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> </span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「このにおい」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「・・・・・・・・・・」（パタパタパタ、カチッ、パタパタパタ、カタタッ</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「なんか随分久しぶり嗅いだ気がするんですけど、あっちの住宅街じゃまだ使ってたんですね。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「・・・・・・・・・・・なにがー？」（パタパタパタ、カチカチッ、パタッ、パタパタパタパタ</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「石油ストーブの臭いですよ。ほら、最近はどこもかしこもエアコンばっかじゃないですか。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」（パタパタパタパタ、カチッ、パタッパタタタタパタッ、カタタッ</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「聞いてます？懐かしくないですか？このにおい」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あ？どこが？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「いや、だってほら、俺らが子供の頃は割りとよく嗅いだニオイですけど、最近じゃめっきりじゃないですか。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「訳分かんねっ。石油臭が懐かしいとかどういう神経してんだ？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> っつか話しかけんな。こちとらＶＩＰで忙しいんだヨっ」（パタタタッ、カタタ、カチリ、カチカチッ、パタタタタタタタタ、パタッ</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「はあー・・・ネットなんかやってないでいい加減、まじめに仕事してくださいよ・・・店主さん。そのうち潰れちゃいますよ？この店・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「るせー。昨日行った回転寿司のバイトがＶＩＰＰＥＲだったんだ。あの野郎。俺のことでスレ立てしてやがる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> ここで見つけたが百年目、ってなｗ無茶苦茶にしてやんぜｗｗｗｗｗ」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「って言うか寿司屋でなにやらかしたんですか（´Д｀；）」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">入口脇のカウンター前に立つ常連の彼のもとへ、不意に風に乗りやってきた旧知の香り。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それに対する彼のノスタルジーを歯牙にもかけず、カウンター上を占領するノートパソコンに向かい続ける、やる気のない古本屋の女店主。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">客である彼は、開店時間にも関わらず平気で遊んでいる彼女を、本気で心配して頭を抱えてみたりする。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">とはいえ駅前に広がる繁華街の、紆余曲折した路地を辿った先にある、この流行らない古本屋では日常茶飯事の光景でもあるので、意味のない行動であったりもするのだが。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> </span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「だいたい―――お客さんもいるんですから・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">常連客は、チラリと背後を振りかえりながら言った。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">書籍間の隙間が目立つ本棚に挟まれた通路。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">ただでさえ狭いその空間は、腰のあたりまで積み上げられた本に席捲されて、体を横にしなければ通れない程である。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そんな店内の半ばあたり。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">カウンターから数メートル離れた位置に一人、お客さんがいた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">もともと大通りから外れていて来店者が少ない上、折からの寒さからか、この日はその『少ない来店者』さえもやってこなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そんな中やってきた『彼女』は、常連の彼を除けばこの古本屋で、今現在唯一のお客さんと言う事になる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">新ジャンル学園の制服を着た彼女は、本を手にとっては本棚に戻し、戻したかと思うと躊躇いがちにまた同じモノを引っ張り出す、という動作を繰り返している。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">どうやら、その本を買うか否かを決めあぐねているようだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">女店主は常連の彼の言葉に、キーを打つ手を止めて顔をあげる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">まるで今はじめてお客の存在に気づいた風に、ちょっとだけ表情を動かす。かと思うと、唐突に手元の灰皿へタバコを突き刺した。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">既にタバコの吸殻で埋め尽くされた中へ差し込むように突き入れると、さっきまで換気扇へ登っていた煙が、途中でプツリと途絶える。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ほら、これでいいんだろ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「いや、いいんだろって俺に言われても・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">こちらを向いてニヤリとされて常連客は困惑する。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">彼からすれば、言われたからやるんじゃなくて、言われる前に消してほしい物であった。仮にも『消せ』と言った彼はお客であり、ここは彼女の店なのだから。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そんな風に思っていると、不意にカウンターを挟んだ店主から声がかかる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「そういやさ、あの辺りってなんだっけ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あの辺りって？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あのコがいる辺りの本棚。なに売ってたっけかなあ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">女店主は、頬をついた手で器用にもメガネを押し上げつつ、余った手で少女の立つあたりの空間を指さした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「さあ・・・っていうか自分の店なんですからそれくらい把握しましょうよ・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「め ん ど く せ え。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そもそも今は目録検索できるようにデータベース化してるからな。パソコンでちょちょい、だ。―――――ほれ。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">古本屋経営者としてあるまじき質問に呆れる彼の脇で、女店主は再びタイピングとクリックを始める。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">パタパタカチカチという音が数秒間続いた後、店主は画面が常連の彼にも見えるようにわざわざパソコンを動かす。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あそこらへんはアレだな。紀行文とかガイドブック。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「なんでそう言うところ『だけ』は無駄にハイテクなんでしょうね？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">下ろされた長めの髪を肩の後ろにおしやり、続いてタートルネックの襟を軽く整えながら説明する店主へ、彼はわざと冷やかに言ってみる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">この店主、変にメリハリがあるのが特徴で、まじめに仕事をしない半面、こうやって電子目録なんかを完備しちゃってるあたりは意外に抜け目がない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それにしても接客業なのだから、やっぱりもうちょっと普段から態度をよくしたら良いのでは？と常連の彼は思っているのだが、『変なメリハリ』はそこにも影響しているらしい。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">この店主、服装次第で接客態度が良くなったり悪くなったりするのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">具体的に言うと、現在のようにタートルネックのセーターを着て髪をおろしている場合は、べらんめえ口調で愛想もあまり良くない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">逆に髪を束ねて服もカッターシャツに着替えると、女性的な口調と話好きな性格になる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">常連の彼にとって、どちらが好ましいかと問われれば、接客業としてはやはり後者であった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">だが、そちらはそちらでお客がいない間は彼が店主の長話に付き合わされる、という弊害があったりする。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">店主いわく、やる気を出したいときには、髪を束ね服を糊のきいたシャツに変えて気分をスイッチするのだそうだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「彼女・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ん？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ああ、いや、なんでもありません」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あっそ。――――ああ・・・買うんなら買えよなー。こっちも仕事なんだからよお」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ちょｗｗｗｗ聞こえちゃいますってｗｗｗｗｗｗ怒って帰っちゃいますよ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「いいのいいのｗどうせこんな辺鄙な所に来るなんて余程のモノ好きくらいだってｗｗｗ」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「自分で言いますかｗｗｗｗ」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">店主と軽口を叩きながらも、彼は内心ホッとしていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">今現在、常連の彼の視線は店主に向けられていたが、意識の方は、本を買うか買うまいか悩んでいる、新ジャンル学園の少女にあった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">先程ポツリと口にしてしまった少女への意識。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それに対して店主が喰いついたり深く追及してこなかったのは、彼にとってはありがたい事であった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">少女がこの店に現れてから、２０分ほど経つだろうか。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">視線の動きや顔立ちなど、整ってはいながらも人間として見ると、全体的にそこはかとない違和感のある小女。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それが一週間ほど前に来店したのと同一人物だとわかった理由は、言わずもがなである。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">一度しか目にしていなくとも、店主の長話に付き合わされた人物を忘れる事なんて、彼にはできなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">なにせ店主の小難しい講義の主たる被害者は、常連客である彼なのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">どうしたって長話に付き合わされた人間に対しては、同情を抱かずにはいられない。まして、忘れるなどもっての他である。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そんな、常連客に記憶された少女がおよそ２０分前。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">とっぷりと日が暮れた所為で真っ黒にしか見えなくなったガラス戸を開いて、来店した。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それまでいつもの如く緩い調子で、店主との書評に興じていた彼であったが、少女の表情が目に入った瞬間、ギョッとした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">具体的にどこがどう、という訳ではない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">少女は以前来店した時と変わらず、人形みたいに乏しい表情で店内に踏み入ってきた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">けれど、以前とは何かが違う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">以前には無かった何かが、そう、端的かつ短絡的に表現するならば、『ギョッと』させるモノが彼女の表情にあったのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それがなんなのか、常連の彼にはすぐにはわからなかった。わからなかったが、気のせいと否定するにはその『何か』は、些か存在感がありすぎた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">『何か』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">その表情を、何の心構えもなく目にした人間に対して、軽いショックを与えるくらいの『何か』を含んでいる事だけは間違いなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">しばらく考えてみた彼は――その過程で店主の言葉を二言三言無視してしまったらしい。気がついた時には、相手は不機嫌そうにノートパソコンを引っ張り出してパタパタカチリとやっていた。――やがて思いいたる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">―――あれは、やる奴の目だ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">心の中で言葉にした後、まるで頭の悪い中学生が漫画の台詞を真似しているみたいな言い方だと気付き、軽く鳥肌が立つ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">だが、その言葉は、一応は的確に『ギョッとさせるモノ』の正体を、彼に説明したという点においては、悪い物ではなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">『ヤる奴』『やる奴』『犯る奴』『殺る奴』『遣る奴』・・・・・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">時として英語で『do』の訳語とされるだけあって、指し示す意義もスラングを含めれば多岐にわたる―――『やる』。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">何かをしようとする人間とは、結果、例外なく『やる』ものだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">やらなければ何もできないから『やる』のだが、その行為が日常から外れれば外れるほど、『やる』ことに対する本人の意識の度合いは高くなる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そして、その、『やる』に対する意識の度合いがある一定のラインを越えると、他人にも分かる程の『平素との違い』が現れる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">・・・・例えば人生の浮沈がかかった試験に臨む前。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">・・・・例えば誰かと対立していて、その闘いを始めようとする前。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">・・・・例えば普段は滅多に自分の意見を言わない人間が、言わなければならない状況に追い込まれた瞬間に。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">彼の知る限りでも、確かにそう言った状態にある人間からは尋常ならざるモノが感じ取れた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">もっというと、まるで鳥獣が地震を予知するかの如く、それを感じ取った後には大抵なにか『非日常的な事』が、どこかで起こっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">ただ『非日常的』と言っても、大事件に発展する例はまれで、ほとんどはその本人に限り重大なことが起こるに過ぎない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それでも、後で顛末を知って、彼が納得できなかった事は一度もなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">違いは主観的に重大なだけなのか、周囲の人間にとっても大変な事をしようとしているのか、くらいだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">小女は、間違いなく『彼女の日常から外れた事』、場合によっては『周囲の人間にとっても大変な事』をしようとしている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">経験的にそう理解した常連の彼は、ためらった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それは、一方向への抑制ではなく反対のベクトル同士の引っ張り合い。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">つまり</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">『彼女へ声をかけて事情を聴き、表情へ滲み出てしまう程の重荷を、少しは分かちあうべきではないのか』という気遣いと</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">『赤の他人が好き勝手に口を出して、いたずらに彼女の決意を乱すくらいなら、何もするべきではない』という心遣い。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">どちらも一見すると正しいように思える考えが、彼の中でグニョグニョと渦巻いていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">５分くらいパタパタという音を傍らにして考えた彼は、結局、虚ろな瞳の少女とは赤の他人の関係を通すことにした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">どんな問題が飛び出すのか分からないのに、カウンセリングのプロでもなければ悟りを開いた聖人君子でもない彼が、下手に手を出してはまずいという判断からである。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">決断を下して１０分以上たっても、間違っているとは思ってはいない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">思ってはいないが、それでも、『ギョッ』とさせるほどの表情を隠すこともせず、あるいは隠せずに来店したのだから、構ってやるのが道理じゃないか、なんて考えが消えたわけでもなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">頭では行動を決定しているにも関わらず、未だに常連の彼の心はグニョグニョと渦巻き状態である。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">少女に対する意識が口にのぼったのはそんな彼の心理が背景にあったからだが、傍らに座る女性にとってはあまり興味のない事だったらしい。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">女店主はとくに気にしている風でもなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">自分は少女がなにか尋常ではない、とすぐに気が付いたにも関わらず、この古本屋の店主は何も感じないのだろうか？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そんな風に思い、そこから更に、『だとすると鈍感な話だし理解してて全くおくびにも出さないのなら尚悪い』、という思考に結び付く。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">なので彼は、軽くカマをかけて見る事にした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">なにより、お客さんは本を買うか買うまいか迷っているのだ。ここでアクションを起こさない本屋の店主はどうかしているとも思えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">実際には気付いていて、これから何かしらアクションを起こそうとしているので有って欲しいと願いつつ、彼は口を開く。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「彼女、ずいぶん悩んでるみたいですね？もうかれこれ２０分くらい、ああやってるんじゃないですか？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">言外に『声くらいかけてあげたらどうです？』という言葉を含みつつ、そんな風に言う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">暇そうに頬杖をついていた店主は、その言葉にジロリと瞳を動かした。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ああ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「いや、だってマズイでしょ。ここで何にもしないなんて。本屋なら・・・・・・みたいな？なん、ちゃって？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">店主の返答には奇妙な迫力があり、それに対する心構えをしていなかった彼はちょっとたじろいで後を続けた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">と、常連の彼があれこれと喋る中、店主は不意にポケットから紐を取り出して髪の毛を束ね始める。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">さらにその動きが終わらないまま、椅子から立ち上がったかと思うと、窓を閉め、側の壁にあるクリーム色の換気扇のスイッチをオフにする。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">常連客の言葉なんて聞いてもいない様子で動き回る店主に、彼はポカンとした。その口は言葉を発した形のまま、開いたままである。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そんな常連客をよそに、何時の間にやら店主はカウンターの外へさっさと出ていってしまっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">店内を少女のいる方へズンズンと進んでいったかと思うと、『ヤホッ♪ずいぶん悩んでるみたいね？』なんて、本の山に挟まれて横ばいになりながら声をかけている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">一連の動作は一切のよどみなく行われた。まるで、常連の彼の意識、その間隙を突くような形で。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">事は、面食らった彼の思考が再稼動をしたころには、凡そ全て終わってしまっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">何にせよ店主の行動が、常連の彼の予想の域を出ていたのは、まず間違いがなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> </span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ヤホッ♪ずいぶん悩んでるみたいね？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あっ、、はい、ちょっと・・・難しくて・・・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">店主の声に少女は、手にしていた鮮やかな色彩のＢ６くらいの本から目を離し、俯いていた顔をあげた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">本は、あまり有名ではない作家が書いた鎌倉の紀行文である。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">さらにもう片方の手には、黄色を基調とした有名な旅行ガイドブックシリーズの鎌倉編が一冊見受けられた。店主は『へえ』と口にする。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ふーん・・・どれどれ？ああ、この作家さんのね。お目が高い。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">女店主は、ちょっと失礼、なんて断りを入れて少女から本を受け取ると、吟味するようにしてゆっくりと手の内で回転させる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">じっくりと紀行文の本へ視線を送りながらも彼女の口調は、褒め称えるような言葉とは裏腹に、あまり起伏のない物であった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">その脇で少女は、無表情に店主の査定と思しき行動を見つめている。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">ただ、突然に声をかけられた為か、無表情の中にもどこか所在なげな物がにじんでいた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「よしっ。お客さん、前に来た時はなにも買えなかった訳だし、お茶を御馳走したよしみだっ。ちょいと安くするわよ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">やがて吟味を終えた店主は、軽く勢いをつけて本を少女に差し出しながら、ひときわ高い声でそう告げた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">けれど、割引宣言にも関わらず少女の顔はどこか浮かなかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ん？やっぱり無理かしら？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「・・・・・・・すみません。その・・・買うべきだとは思います。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「『買うべき』・・・・って、やっだなーｗｗｗもうっｗｗｗｗだったら買いなさいってｗｗｗｗｗ」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「いえ・・・でも、それでもまだ、迷ってるんです・・・・買って良いのか・・・買うべきだって解っていても―――迷ってるんです。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">絶妙な営業スマイルを伴い優しく問う店主に、少女の言葉はどこか要領を得なかった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">本について語っているにも関わらず、まるで別の事を言っているかのような。どこか上の空な返答。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">店主はそんな彼女の様子を受けて、口元に薄く笑いを浮かべると、軽く息をついた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「―――お客さん。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">古本屋の女店主は、静かに言う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">その言葉は、話しているうちに再び俯きはじめていた少女が、思わず顔をあげてしまうような、深い響きを持っていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あれよ？ことわざ。案ずるより産むが易しって言うじゃない？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">やるべきかどうかって迷ってたら、サクッとやるに限る。うん。物事って７割方その方がうまく行くものよ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あの・・・後の３割は・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「とっても上手く行く？ってところかしら？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">少女の体全体に染みいった後、心の奥へ達すような響きはしかし、『お客さん』の一言のみに限られていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">あとを受ける言葉は全て、先ほどから変わらない軽い調子のもの。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">まるで、『深い響き？さあ、お客さんの聞き間違いじゃない？』と言わんばかりの、冗談めいた口調であった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">けれど、その落差が少女の心を動かしたのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">声を掛けられてからこっち、始終落ち着かない様子を見せていた少女は、安心したような微笑を静かに浮かべる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">彼女がこの店に来て、初めて見せたかもしれない明るい表情に、女店主は満足げに一言。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「よしよしｗそれじゃあお会計はあっちのレジでね。支払済んだらまたお茶でも出そうかしら？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> ・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> ・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> ・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> ・</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「しかし、やる気出すために髪まで束ねちゃってまあ。なんだかんだ言って店主さんも気にしてたんですね？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">俺、店主さんが仕事であんな素早く動いたの見るの久しぶりですよｗ」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あ？なにがだよ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「いやいや、だってあの子、なんだか知らないけど随分思い悩んでたみたいじゃないですか。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">なにか問題を抱えてるんだって。俺でもわかりましたよ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あーあーそーねはいはい。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「はいはいって・・・・店主さんだって何か気付いたから、ああやって声をかけたんでしょ？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">いやー、さすがっていうかなんていうか。彼女、なんか吹っ切れたみたいでしたよ？本も買っていってもらえたしｗ」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「・・・・ったく・・・めんどくせえ奴だな・・・・あんなのセールストークに決まってんだろ？知るかよ。客のプライベートな問題なんてよ」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「むっ、その言い方は無いんじゃないんですか？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">現に彼女、ああいう精神状態でこの店に来たんですから・・・・・・ああ、っと、、つまりはああいう気持でも来る価値のある店って事なんですから」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「はいはーい。質問。お姉さん質問がありまーす。『ああいう』ってなんだよ、お前よお。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「い、いや、そりゃ、ああいうパッと見で普通じゃないって解る精神状態で、ですよ。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「『で、ですよ』じゃねえよ。説明になってねーっつーのー。そんなの全部お前の想像だろーが」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「う、、いや、まあそれはそうですけど・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「人の心なんてさ・・・誰にも分からないから」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「まあ。。。そうですけど・・・・・・でも全く分からないわけじゃないでしょう？少しは解るもんでしょう？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「まーねー。だけどさ、だからって解ったふりすんのもカッコ悪いだろ？</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">俺は・・・・・・あれさ。つまり自分がわかってることだけやる主義なんだよ。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「なんっすか、それ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「古本屋としては本を買ってもらえないより買ってもらった方が嬉しいって話。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「なんっすか、それ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「――――お前・・・・・・・・・・頭、悪いだろ？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「店主さんの説明が分かりにくいんで「ざけんな。死ね。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> ◇</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">目の前で墨をしみ込ませたような色合いの、木製の壁が動いている。 </span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">いや、実際に動いているのは私の方であって、壁は止まったままだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">デッキブラシを前後させるたび、それに伴って視界が動く。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">ブラシを掴む素手から冷気がしみわたり、全身の筋肉の一筋一筋に針金を通したかのような強張りが常時私を苛んでいた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">その感覚に耐えながら、機械的にブラシを動かし続ける。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">―――ジャカジャカシャカシャカジャカジャカシャカシャカ</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">―――シャッシャッシャッ・・・・・バシャバシャビチャ・・・・・ジャカジャカジャカジャカ</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">放課後の飼育小屋は、水気を含んだ摩擦音に満たされていて、外部の音はあまり聞こえない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">床をこする反復運動は持続したまま、視線を下に向けてみた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">コンクリートの床が、デッキブラシの通過した所から濃い色に染まっていくのが見える。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">薄い灰色をしていた床は、私の視界に限れば、ほとんどが黒に近い灰色になっていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">自分が担当する中の一区画が終了した事を悟り、ブラシを動かす腕を止め、折り曲げていた体を起こす。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「――――――っ・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">床掃除の作業ををやめた途端、筋肉が強張る感覚が酷くなった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">きっと今まで体を動かしていたために、意識の外へ追いやられていた分が、終了と同時に戻ってきたからなのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">一度はシャンと背筋を伸ばした筈の私は、その感覚に耐えようと、柄の先端を両手で押さえる形で体の正面に立て、そこに体重を預けた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">けれども、ブラシを杖代わりにして息をついてみても、攻め立てるようにして続く痛みはひかない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それもそのはずで、原因は１５時過ぎという日が照って十分に暖かい筈の時間でさえも、治まらない冬の寒さ。それから私自身の精神状態にあるのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">休息はまるで意味がない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">―――シャカシャカシャカシャカシャカ、ジャカジャカジャカジャカ</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">そうやって私が仕事の中で、束の間の静止状態にある間にも、飼育小屋のブラシの音は続いていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">ただし音源の片方が消えたせいだろう、いくらか小さく寂しい物になってはいたけど。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">振り向くと私と同じ色のジャージを着た同僚君が、腕まくりをして床をこすっているのが見えた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">彼の向こう側にはこんもりとした山のような黄色と黒の縞模様――虎吉がいる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">今虎吉は、ほし草の端っこで借りてきた猫のように行儀よく掃除の終わりを待っていた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">同僚君はそこから程近い所で黙々と床をこすり続けている。やっぱり男の子だけあって、私が飼育小屋の１０分の１を掃除するのと同じ時間で、その２、３倍の面積を終えているようだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">彼はこちらの視線にも頓着せず、ジャリジャリと力強い動作で、ただただ仕事を遂行していた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">―――筋肉の強張りが一層強まる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">首筋からうなじを経由して、二の腕を覆うように。足の指先からふくらはぎと太ももを通り、股関節へ走りぬけるように。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">結局のところ、この強張りは。体の動きを制限してくるような全身の異物感は、私の精神状態が原因のほとんどだった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">寒いから、というのはあくまで補助的な要因に過ぎない。むしろ、元からあった固い感覚を、強めているだけ、と考えた方がいいのだろう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> </span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"> 『同僚君と話し合う』</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">その決意が固まっても、実際にその話を切り出そうとすると、やっぱりどこかでブレーキが働いてしまう。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">しっかりと意志を持って行動を起こそうとしても、これまで同僚君に対して堆積された苦手意識や怖さのイメージが、私の事を抑えつけてくる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それは、同僚君の実物を前にすると、一気にその輪郭をはっきりと表して、抑える力をいや増してきた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">振り払おうと、無視して同僚君に声をかけようと奮闘しているうちに、飼育委員の当番が割り振られた朝と昼の時間を消費してしまった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">・・・・・・・・・・なんというか・・・我ながら情けないと思う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">もうこの放課後の飼育小屋の掃除の時間をおいて他にはない。これ以上引き延ばせば、きっと、全て手遅れになる。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">まだ私の心の中は、抑えつけるモノと自身の決意の中で葛藤してはいたが、そろそろ言ってしまおうと思う。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">いろいろと不安はあるけれど、何より、そう決めたのだ。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">それに、彼を説得しないと、大切な何かを失ってしまうような、そんないわれのない恐怖が心の奥にあった。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">もしかしたらそのおかげで私は動かすことができたのかもしれない。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">彼の方へ体全体を向けようとするのを、拒否する足を。寒さを伴った緊張で、僅かに震える唇を。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"> </div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「あの・・・・・」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「ん？」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">息を吸う。同僚君は手を止めた。私は、口を動かして。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">「お話が―――あります。」</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">彼はゆっくりと顔をあげ、こちらを見る。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;">小屋の端の方で虎吉が、静かに喉を鳴らすのが聞こえた。</span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">◇</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">紫煙が揺れる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">タバコの先から宙に放逐された煙は、しばらくの間ふわふわと頼りなく、カウンター付近の空間を漂っている。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">回転する換気扇の羽。拳二つ分ほど開けられたカウンター脇の窓。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">煙は、それらが結ぶ線上に達した瞬間、崩れるようにして移動の速度を急速なものへと変える。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">浮遊から霧散へと移行した紫煙は、最後の僅かな残留をファンに噛み砕かせる事で、その命を終えた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">タバコから放たれた煙は、例外なくそのコースを辿り換気扇へと消えていく。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">その光景はまるで冬のカゲロウだった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そんな、妙な儚さと寂しさを催す想像をしてしまうのは、きっと窓が開いているからに違いなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">窓から流れ込む空気はとてもとても涼しげで、この古本屋で長らく強い暖房にさらされていた彼には、一筋の光明にも思えた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">火照り汗ばんですらいる自らの顔を、冷涼な風が引き締めてくれている。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">同時に気持ちも引き締められて、ムワリとした熱で鈍化していた感受性が、覚醒する。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">窓から流れ込む空気には、付近の住宅街から発せられるにおいが含まれていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">カレーやら揚げ物やら、夕飯時に相応しい食欲をそそる香り。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それから環境保護の風潮からか、最近はめっきりしなくなったはずの、石油ストーブのにおい。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">あの、ムワリとした独特の、鼻孔の奥から全身を包むような、ストーブが過熱する香りが混じっていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> </font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「このにおい」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「・・・・・・・・・・」（パタパタパタ、カチッ、パタパタパタ、カタタッ</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「なんか随分久しぶり嗅いだ気がするんですけど、あっちの住宅街じゃまだ使ってたんですね。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「・・・・・・・・・・・なにがー？」（パタパタパタ、カチカチッ、パタッ、パタパタパタパタ</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「石油ストーブの臭いですよ。ほら、最近はどこもかしこもエアコンばっかじゃないですか。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」（パタパタパタパタ、カチッ、パタッパタタタタパタッ、カタタッ</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「聞いてます？懐かしくないですか？このにおい」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あ？どこが？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「いや、だってほら、俺らが子供の頃は割りとよく嗅いだニオイですけど、最近じゃめっきりじゃないですか。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「訳分かんねっ。石油臭が懐かしいとかどういう神経してんだ？</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> っつか話しかけんな。こちとらＶＩＰで忙しいんだヨっ」（パタタタッ、カタタ、カチリ、カチカチッ、パタタタタタタタタ、パタッ</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「はあー・・・ネットなんかやってないでいい加減、まじめに仕事してくださいよ・・・店主さん。そのうち潰れちゃいますよ？この店・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「るせー。昨日行った回転寿司のバイトがＶＩＰＰＥＲだったんだ。あの野郎。俺のことでスレ立てしてやがる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> ここで見つけたが百年目、ってなｗ無茶苦茶にしてやんぜｗｗｗｗｗ」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「って言うか寿司屋でなにやらかしたんですか（´Д｀；）」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">入口脇のカウンター前に立つ常連の彼のもとへ、不意に風に乗りやってきた旧知の香り。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それに対する彼のノスタルジーを歯牙にもかけず、カウンター上を占領するノートパソコンに向かい続ける、やる気のない古本屋の女店主。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">客である彼は、開店時間にも関わらず平気で遊んでいる彼女を、本気で心配して頭を抱えてみたりする。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">とはいえ駅前に広がる繁華街の、紆余曲折した路地を辿った先にある、この流行らない古本屋では日常茶飯事の光景でもあるので、意味のない行動であったりもするのだが。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> </font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「だいたい―――お客さんもいるんですから・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">常連客は、チラリと背後を振りかえりながら言った。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">書籍間の隙間が目立つ本棚に挟まれた通路。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">ただでさえ狭いその空間は、腰のあたりまで積み上げられた本に席捲されて、体を横にしなければ通れない程である。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そんな店内の半ばあたり。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">カウンターから数メートル離れた位置に一人、お客さんがいた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">もともと大通りから外れていて来店者が少ない上、折からの寒さからか、この日はその『少ない来店者』さえもやってこなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そんな中やってきた『彼女』は、常連の彼を除けばこの古本屋で、今現在唯一のお客さんと言う事になる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">新ジャンル学園の制服を着た彼女は、本を手にとっては本棚に戻し、戻したかと思うと躊躇いがちにまた同じモノを引っ張り出す、という動作を繰り返している。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">どうやら、その本を買うか否かを決めあぐねているようだった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">女店主は常連の彼の言葉に、キーを打つ手を止めて顔をあげる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">まるで今はじめてお客の存在に気づいた風に、ちょっとだけ表情を動かす。かと思うと、唐突に手元の灰皿へタバコを突き刺した。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">既にタバコの吸殻で埋め尽くされた中へ差し込むように突き入れると、さっきまで換気扇へ登っていた煙が、途中でプツリと途絶える。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ほら、これでいいんだろ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「いや、いいんだろって俺に言われても・・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">こちらを向いてニヤリとされて常連客は困惑する。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">彼からすれば、言われたからやるんじゃなくて、言われる前に消してほしい物であった。仮にも『消せ』と言った彼はお客であり、ここは彼女の店なのだから。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そんな風に思っていると、不意にカウンターを挟んだ店主から声がかかる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「そういやさ、あの辺りってなんだっけ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あの辺りって？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あのコがいる辺りの本棚。なに売ってたっけかなあ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">女店主は、頬をついた手で器用にもメガネを押し上げつつ、余った手で少女の立つあたりの空間を指さした。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「さあ・・・っていうか自分の店なんですからそれくらい把握しましょうよ・・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「め ん ど く せ え。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そもそも今は目録検索できるようにデータベース化してるからな。パソコンでちょちょい、だ。―――――ほれ。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">古本屋経営者としてあるまじき質問に呆れる彼の脇で、女店主は再びタイピングとクリックを始める。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">パタパタカチカチという音が数秒間続いた後、店主は画面が常連の彼にも見えるようにわざわざパソコンを動かす。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あそこらへんはアレだな。紀行文とかガイドブック。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「なんでそう言うところ『だけ』は無駄にハイテクなんでしょうね？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">下ろされた長めの髪を肩の後ろにおしやり、続いてタートルネックの襟を軽く整えながら説明する店主へ、彼はわざと冷やかに言ってみる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">この店主、変にメリハリがあるのが特徴で、まじめに仕事をしない半面、こうやって電子目録なんかを完備しちゃってるあたりは意外に抜け目がない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それにしても接客業なのだから、やっぱりもうちょっと普段から態度をよくしたら良いのでは？と常連の彼は思っているのだが、『変なメリハリ』はそこにも影響しているらしい。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">この店主、服装次第で接客態度が良くなったり悪くなったりするのだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">具体的に言うと、現在のようにタートルネックのセーターを着て髪をおろしている場合は、べらんめえ口調で愛想もあまり良くない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">逆に髪を束ねて服もカッターシャツに着替えると、女性的な口調と話好きな性格になる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">常連の彼にとって、どちらが好ましいかと問われれば、接客業としてはやはり後者であった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">だが、そちらはそちらでお客がいない間は彼が店主の長話に付き合わされる、という弊害があったりする。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">店主いわく、やる気を出したいときには、髪を束ね服を糊のきいたシャツに変えて気分をスイッチするのだそうだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「彼女・・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ん？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ああ、いや、なんでもありません」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あっそ。――――ああ・・・買うんなら買えよなー。こっちも仕事なんだからよお」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ちょｗｗｗｗ聞こえちゃいますってｗｗｗｗｗｗ怒って帰っちゃいますよ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「いいのいいのｗどうせこんな辺鄙な所に来るなんて余程のモノ好きくらいだってｗｗｗ」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「自分で言いますかｗｗｗｗ」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">店主と軽口を叩きながらも、彼は内心ホッとしていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">今現在、常連の彼の視線は店主に向けられていたが、意識の方は、本を買うか買うまいか悩んでいる、新ジャンル学園の少女にあった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">先程ポツリと口にしてしまった少女への意識。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それに対して店主が喰いついたり深く追及してこなかったのは、彼にとってはありがたい事であった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">少女がこの店に現れてから、２０分ほど経つだろうか。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">視線の動きや顔立ちなど、整ってはいながらも人間として見ると、全体的にそこはかとない違和感のある小女。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それが一週間ほど前に来店したのと同一人物だとわかった理由は、言わずもがなである。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">一度しか目にしていなくとも、店主の長話に付き合わされた人物を忘れる事なんて、彼にはできなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">なにせ店主の小難しい講義の主たる被害者は、常連客である彼なのだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">どうしたって長話に付き合わされた人間に対しては、同情を抱かずにはいられない。まして、忘れるなどもっての他である。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そんな、常連客に記憶された少女がおよそ２０分前。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">とっぷりと日が暮れた所為で真っ黒にしか見えなくなったガラス戸を開いて、来店した。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それまでいつもの如く緩い調子で、店主との書評に興じていた彼であったが、少女の表情が目に入った瞬間、ギョッとした。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">具体的にどこがどう、という訳ではない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">少女は以前来店した時と変わらず、人形みたいに乏しい表情で店内に踏み入ってきた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">けれど、以前とは何かが違う。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">以前には無かった何かが、そう、端的かつ短絡的に表現するならば、『ギョッと』させるモノが彼女の表情にあったのだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それがなんなのか、常連の彼にはすぐにはわからなかった。わからなかったが、気のせいと否定するにはその『何か』は、些か存在感がありすぎた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">『何か』</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">その表情を、何の心構えもなく目にした人間に対して、軽いショックを与えるくらいの『何か』を含んでいる事だけは間違いなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">しばらく考えてみた彼は――その過程で店主の言葉を二言三言無視してしまったらしい。気がついた時には、相手は不機嫌そうにノートパソコンを引っ張り出してパタパタカチリとやっていた。――やがて思いいたる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">―――あれは、やる奴の目だ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">心の中で言葉にした後、まるで頭の悪い中学生が漫画の台詞を真似しているみたいな言い方だと気付き、軽く鳥肌が立つ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">だが、その言葉は、一応は的確に『ギョッとさせるモノ』の正体を、彼に説明したという点においては、悪い物ではなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">『ヤる奴』『やる奴』『犯る奴』『殺る奴』『遣る奴』・・・・・</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">時として英語で『do』の訳語とされるだけあって、指し示す意義もスラングを含めれば多岐にわたる―――『やる』。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">何かをしようとする人間とは、結果、例外なく『やる』ものだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">やらなければ何もできないから『やる』のだが、その行為が日常から外れれば外れるほど、『やる』ことに対する本人の意識の度合いは高くなる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そして、その、『やる』に対する意識の度合いがある一定のラインを越えると、他人にも分かる程の『平素との違い』が現れる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">・・・・例えば人生の浮沈がかかった試験に臨む前。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">・・・・例えば誰かと対立していて、その闘いを始めようとする前。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">・・・・例えば普段は滅多に自分の意見を言わない人間が、言わなければならない状況に追い込まれた瞬間に。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">彼の知る限りでも、確かにそう言った状態にある人間からは尋常ならざるモノが感じ取れた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">もっというと、まるで鳥獣が地震を予知するかの如く、それを感じ取った後には大抵なにか『非日常的な事』が、どこかで起こっていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">ただ『非日常的』と言っても、大事件に発展する例はまれで、ほとんどはその本人に限り重大なことが起こるに過ぎない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それでも、後で顛末を知って、彼が納得できなかった事は一度もなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">違いは主観的に重大なだけなのか、周囲の人間にとっても大変な事をしようとしているのか、くらいだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">小女は、間違いなく『彼女の日常から外れた事』、場合によっては『周囲の人間にとっても大変な事』をしようとしている。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">経験的にそう理解した常連の彼は、ためらった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それは、一方向への抑制ではなく反対のベクトル同士の引っ張り合い。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">つまり</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">『彼女へ声をかけて事情を聴き、表情へ滲み出てしまう程の重荷を、少しは分かちあうべきではないのか』という気遣いと</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">『赤の他人が好き勝手に口を出して、いたずらに彼女の決意を乱すくらいなら、何もするべきではない』という心遣い。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">どちらも一見すると正しいように思える考えが、彼の中でグニョグニョと渦巻いていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">５分くらいパタパタという音を傍らにして考えた彼は、結局、虚ろな瞳の少女とは赤の他人の関係を通すことにした。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">どんな問題が飛び出すのか分からないのに、カウンセリングのプロでもなければ悟りを開いた聖人君子でもない彼が、下手に手を出してはまずいという判断からである。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">決断を下して１０分以上たっても、間違っているとは思ってはいない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">思ってはいないが、それでも、『ギョッ』とさせるほどの表情を隠すこともせず、あるいは隠せずに来店したのだから、構ってやるのが道理じゃないか、なんて考えが消えたわけでもなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">頭では行動を決定しているにも関わらず、未だに常連の彼の心はグニョグニョと渦巻き状態である。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">少女に対する意識が口にのぼったのはそんな彼の心理が背景にあったからだが、傍らに座る女性にとってはあまり興味のない事だったらしい。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">女店主はとくに気にしている風でもなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">自分は少女がなにか尋常ではない、とすぐに気が付いたにも関わらず、この古本屋の店主は何も感じないのだろうか？</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そんな風に思い、そこから更に、『だとすると鈍感な話だし理解してて全くおくびにも出さないのなら尚悪い』、という思考に結び付く。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">なので彼は、軽くカマをかけて見る事にした。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">なにより、お客さんは本を買うか買うまいか迷っているのだ。ここでアクションを起こさない本屋の店主はどうかしているとも思えた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">実際には気付いていて、これから何かしらアクションを起こそうとしているので有って欲しいと願いつつ、彼は口を開く。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「彼女、ずいぶん悩んでるみたいですね？もうかれこれ２０分くらい、ああやってるんじゃないですか？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">言外に『声くらいかけてあげたらどうです？』という言葉を含みつつ、そんな風に言う。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">暇そうに頬杖をついていた店主は、その言葉にジロリと瞳を動かした。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ああ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「いや、だってマズイでしょ。ここで何にもしないなんて。本屋なら・・・・・・みたいな？なん、ちゃって？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">店主の返答には奇妙な迫力があり、それに対する心構えをしていなかった彼はちょっとたじろいで後を続けた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">と、常連の彼があれこれと喋る中、店主は不意にポケットから紐を取り出して髪の毛を束ね始める。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">さらにその動きが終わらないまま、椅子から立ち上がったかと思うと、窓を閉め、側の壁にあるクリーム色の換気扇のスイッチをオフにする。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">常連客の言葉なんて聞いてもいない様子で動き回る店主に、彼はポカンとした。その口は言葉を発した形のまま、開いたままである。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そんな常連客をよそに、何時の間にやら店主はカウンターの外へさっさと出ていってしまっていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">店内を少女のいる方へズンズンと進んでいったかと思うと、『ヤホッ♪ずいぶん悩んでるみたいね？』なんて、本の山に挟まれて横ばいになりながら声をかけている。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">一連の動作は一切のよどみなく行われた。まるで、常連の彼の意識、その間隙を突くような形で。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">事は、面食らった彼の思考が再稼動をしたころには、凡そ全て終わってしまっていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">何にせよ店主の行動が、常連の彼の予想の域を出ていたのは、まず間違いがなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> </font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ヤホッ♪ずいぶん悩んでるみたいね？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あっ、、はい、ちょっと・・・難しくて・・・・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">店主の声に少女は、手にしていた鮮やかな色彩のＢ６くらいの本から目を離し、俯いていた顔をあげた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">本は、あまり有名ではない作家が書いた鎌倉の紀行文である。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">さらにもう片方の手には、黄色を基調とした有名な旅行ガイドブックシリーズの鎌倉編が一冊見受けられた。店主は『へえ』と口にする。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ふーん・・・どれどれ？ああ、この作家さんのね。お目が高い。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">女店主は、ちょっと失礼、なんて断りを入れて少女から本を受け取ると、吟味するようにしてゆっくりと手の内で回転させる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">じっくりと紀行文の本へ視線を送りながらも彼女の口調は、褒め称えるような言葉とは裏腹に、あまり起伏のない物であった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">その脇で少女は、無表情に店主の査定と思しき行動を見つめている。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">ただ、突然に声をかけられた為か、無表情の中にもどこか所在なげな物がにじんでいた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「よしっ。お客さん、前に来た時はなにも買えなかった訳だし、お茶を御馳走したよしみだっ。ちょいと安くするわよ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">やがて吟味を終えた店主は、軽く勢いをつけて本を少女に差し出しながら、ひときわ高い声でそう告げた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">けれど、割引宣言にも関わらず少女の顔はどこか浮かなかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ん？やっぱり無理かしら？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「・・・・・・・すみません。その・・・買うべきだとは思います。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「『買うべき』・・・・って、やっだなーｗｗｗもうっｗｗｗｗだったら買いなさいってｗｗｗｗｗ」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「いえ・・・でも、それでもまだ、迷ってるんです・・・・買って良いのか・・・買うべきだって解っていても―――迷ってるんです。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">絶妙な営業スマイルを伴い優しく問う店主に、少女の言葉はどこか要領を得なかった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">本について語っているにも関わらず、まるで別の事を言っているかのような。どこか上の空な返答。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">店主はそんな彼女の様子を受けて、口元に薄く笑いを浮かべると、軽く息をついた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「―――お客さん。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">古本屋の女店主は、静かに言う。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">その言葉は、話しているうちに再び俯きはじめていた少女が、思わず顔をあげてしまうような、深い響きを持っていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あれよ？ことわざ。案ずるより産むが易しって言うじゃない？</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">やるべきかどうかって迷ってたら、サクッとやるに限る。うん。物事って７割方その方がうまく行くものよ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あの・・・後の３割は・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「とっても上手く行く？ってところかしら？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">少女の体全体に染みいった後、心の奥へ達すような響きはしかし、『お客さん』の一言のみに限られていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">あとを受ける言葉は全て、先ほどから変わらない軽い調子のもの。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">まるで、『深い響き？さあ、お客さんの聞き間違いじゃない？』と言わんばかりの、冗談めいた口調であった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">けれど、その落差が少女の心を動かしたのだろう。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">声を掛けられてからこっち、始終落ち着かない様子を見せていた少女は、安心したような微笑を静かに浮かべる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">彼女がこの店に来て、初めて見せたかもしれない明るい表情に、女店主は満足げに一言。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「よしよしｗそれじゃあお会計はあっちのレジでね。支払済んだらまたお茶でも出そうかしら？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> ・</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> ・</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> ・</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> ・</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「しかし、やる気出すために髪まで束ねちゃってまあ。なんだかんだ言って店主さんも気にしてたんですね？</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">俺、店主さんが仕事であんな素早く動いたの見るの久しぶりですよｗ」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あ？なにがだよ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「いやいや、だってあの子、なんだか知らないけど随分思い悩んでたみたいじゃないですか。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">なにか問題を抱えてるんだって。俺でもわかりましたよ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あーあーそーねはいはい。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「はいはいって・・・・店主さんだって何か気付いたから、ああやって声をかけたんでしょ？</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">いやー、さすがっていうかなんていうか。彼女、なんか吹っ切れたみたいでしたよ？本も買っていってもらえたしｗ」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「・・・・ったく・・・めんどくせえ奴だな・・・・あんなのセールストークに決まってんだろ？知るかよ。客のプライベートな問題なんてよ」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「むっ、その言い方は無いんじゃないんですか？</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">現に彼女、ああいう精神状態でこの店に来たんですから・・・・・・ああ、っと、、つまりはああいう気持でも来る価値のある店って事なんですから」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「はいはーい。質問。お姉さん質問がありまーす。『ああいう』ってなんだよ、お前よお。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「い、いや、そりゃ、ああいうパッと見で普通じゃないって解る精神状態で、ですよ。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「『で、ですよ』じゃねえよ。説明になってねーっつーのー。そんなの全部お前の想像だろーが」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「う、、いや、まあそれはそうですけど・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「人の心なんてさ・・・誰にも分からないから」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「まあ。。。そうですけど・・・・・・でも全く分からないわけじゃないでしょう？少しは解るもんでしょう？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「まーねー。だけどさ、だからって解ったふりすんのもカッコ悪いだろ？</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">俺は・・・・・・あれさ。つまり自分がわかってることだけやる主義なんだよ。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「なんっすか、それ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「古本屋としては本を買ってもらえないより買ってもらった方が嬉しいって話。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「なんっすか、それ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「――――お前・・・・・・・・・・頭、悪いだろ？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「店主さんの説明が分かりにくいんで「ざけんな。死ね。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> ◇</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">目の前で墨をしみ込ませたような色合いの、木製の壁が動いている。 </font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">いや、実際に動いているのは私の方であって、壁は止まったままだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">デッキブラシを前後させるたび、それに伴って視界が動く。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">ブラシを掴む素手から冷気がしみわたり、全身の筋肉の一筋一筋に針金を通したかのような強張りが常時私を苛んでいた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">その感覚に耐えながら、機械的にブラシを動かし続ける。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">―――ジャカジャカシャカシャカジャカジャカシャカシャカ</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">―――シャッシャッシャッ・・・・・バシャバシャビチャ・・・・・ジャカジャカジャカジャカ</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">放課後の飼育小屋は、水気を含んだ摩擦音に満たされていて、外部の音はあまり聞こえない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">床をこする反復運動は持続したまま、視線を下に向けてみた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">コンクリートの床が、デッキブラシの通過した所から濃い色に染まっていくのが見える。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">薄い灰色をしていた床は、私の視界に限れば、ほとんどが黒に近い灰色になっていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">自分が担当する中の一区画が終了した事を悟り、ブラシを動かす腕を止め、折り曲げていた体を起こす。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「――――――っ・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">床掃除の作業ををやめた途端、筋肉が強張る感覚が酷くなった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">きっと今まで体を動かしていたために、意識の外へ追いやられていた分が、終了と同時に戻ってきたからなのだろう。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">一度はシャンと背筋を伸ばした筈の私は、その感覚に耐えようと、柄の先端を両手で押さえる形で体の正面に立て、そこに体重を預けた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">けれども、ブラシを杖代わりにして息をついてみても、攻め立てるようにして続く痛みはひかない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それもそのはずで、原因は１５時過ぎという日が照って十分に暖かい筈の時間でさえも、治まらない冬の寒さ。それから私自身の精神状態にあるのだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">休息はまるで意味がない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">―――シャカシャカシャカシャカシャカ、ジャカジャカジャカジャカ</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">そうやって私が仕事の中で、束の間の静止状態にある間にも、飼育小屋のブラシの音は続いていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">ただし音源の片方が消えたせいだろう、いくらか小さく寂しい物になってはいたけど。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">振り向くと私と同じ色のジャージを着た同僚君が、腕まくりをして床をこすっているのが見えた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">彼の向こう側にはこんもりとした山のような黄色と黒の縞模様――虎吉がいる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">今虎吉は、ほし草の端っこで借りてきた猫のように行儀よく掃除の終わりを待っていた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">同僚君はそこから程近い所で黙々と床をこすり続けている。やっぱり男の子だけあって、私が飼育小屋の１０分の１を掃除するのと同じ時間で、その２、３倍の面積を終えているようだった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">彼はこちらの視線にも頓着せず、ジャリジャリと力強い動作で、ただただ仕事を遂行していた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">―――筋肉の強張りが一層強まる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">首筋からうなじを経由して、二の腕を覆うように。足の指先からふくらはぎと太ももを通り、股関節へ走りぬけるように。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">結局のところ、この強張りは。体の動きを制限してくるような全身の異物感は、私の精神状態が原因のほとんどだった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">寒いから、というのはあくまで補助的な要因に過ぎない。むしろ、元からあった固い感覚を、強めているだけ、と考えた方がいいのだろう。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> </font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000"> 『同僚君と話し合う』</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">その決意が固まっても、実際にその話を切り出そうとすると、やっぱりどこかでブレーキが働いてしまう。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">しっかりと意志を持って行動を起こそうとしても、これまで同僚君に対して堆積された苦手意識や怖さのイメージが、私の事を抑えつけてくる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それは、同僚君の実物を前にすると、一気にその輪郭をはっきりと表して、抑える力をいや増してきた。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">振り払おうと、無視して同僚君に声をかけようと奮闘しているうちに、飼育委員の当番が割り振られた朝と昼の時間を消費してしまった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">・・・・・・・・・・なんというか・・・我ながら情けないと思う。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">もうこの放課後の飼育小屋の掃除の時間をおいて他にはない。これ以上引き延ばせば、きっと、全て手遅れになる。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">まだ私の心の中は、抑えつけるモノと自身の決意の中で葛藤してはいたが、そろそろ言ってしまおうと思う。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">いろいろと不安はあるけれど、何より、そう決めたのだ。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">それに、彼を説得しないと、大切な何かを失ってしまうような、そんないわれのない恐怖が心の奥にあった。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">もしかしたらそのおかげで私は動かすことができたのかもしれない。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">彼の方へ体全体を向けようとするのを、拒否する足を。寒さを伴った緊張で、僅かに震える唇を。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><font color="#000000"> </font></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「あの・・・・・」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「ん？」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">息を吸う。同僚君は手を止めた。私は、口を動かして。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">「お話が―――あります。」</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">彼はゆっくりと顔をあげ、こちらを見る。</font></span></div>
<div style="margin:0mm 0mm 0pt;text-indent:10pt;" align="left"><span style="font-size:10pt;"><font color="#000000">小屋の端の方で虎吉が、静かに喉を鳴らすのが聞こえた。</font></span></div>
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