19
日本海の孤島から京都に戻ってきて、玖渚を城咲のマンションに送ったその帰り道。
疲れているとはいえ、もう夜も遅いとはいえ、京都に住んでいる人間が、市内でバスやタクシーを使うのは恥だと思ったが。
「…………」
妙な意地などは張らずに、大人しく使っときゃよかった。
暗く人気のない道。
自動販売機の明かりに照らされている。
「よう――俺の敵」
曲がり角を曲がったその先に――狐面の男がいた。
「何を……してんですか?」
この人は出どころを心得ている。ここぞというところを――外さない。
でも今回に限っては、いくら狐面の男でも、運命や物語に、虚を突かれたんじゃなかろうか。
しゃがみ込んで釣銭口に、指を突っ込んでるその姿。
「『何をしてんですか』ふん。そりゃお前、見たまんまのことだぜ」
見たくはなかった。
ってか、あんた一応ラスボス格なんだから、私生活もちゃんとしてくれよ。あんまり情けないと、正義の味方のぼくまで情けない。
「それじゃ、何でそんなことしてんのか、まぁその事情を聞いておきましょうか」
「いいだろう」
ゆらりと立ち上がる。
釣銭を探っていた男とは思えないくらい、その態度は当然のように偉そうだった。
この人、雰囲気だけなら、満点に近いんだけどなぁ。
「寒さもかなり和らいできて、夜風が気持ちのいい最高の夜だ。ちょいとドライブにでも洒落込もうと、俺はクルマを走らせた」
「ええ、それで?」
「一時間ほどかな。そこでガスがないのに気づいて、俺はあっちこっちとスタンドを探し始めた」
狐面の男は《幽波紋じゃねぇぞ》、といらない台詞を吐いたが、勿論ぼくは、断固として聴こえないふりをする。
「ええ、それで?」
無視して先を促した。
「だが結局、ガスが切れる前にスタンドは見つからず、俺は仕方なく鴨川の辺りにクルマを捨てて、てめえの足で探して彼此二時間……」
そろそろいい歳なのに、この人、案外に体力あるんだなぁ。
「ええ、それで?」
「しかし、それでも一向に見つからねぇ」
きっと狐面の男とスタンドの縁が、絶対的に切れてたんだろう。
ぼくは適当にそう思った。
「仕方ねぇから、タクシーを拾って帰ろうとしたんだが、懐をいくら探っても財布がねぇ、ついでに携帯までないときてやがる」
「ええ、それで?」
入れる合いの手が、かなり、どうでもよくなってきたのは、決して気のせいだけじゃない。
「さすがに小銭程度はあったんで、なら公衆電話だと探したが、最近はスタンド以上に、電話ボックスを探すのは至難の業だ」
「ええ、それで?」
いい加減ここまで付き合えば、《帰ってもいいだろう》、そんな風に心のどこかで囁く、もう一人のぼくの声がはっきりと聴こえた。
「まずは腹ごしらえだと、目に付いたコンビニに立ち寄ったんだが」
「いや、小銭しかないんですよね?」
「うん? ああ、その点についちゃ問題ねぇよ。俺だって馬鹿じゃねぇんだ。手持ちは二百四十円。肉まん食っても釣りがくらぁ」
「はぁ……」
そんなに威張らないでほしい。
大人の所持金が二百四十円って、狐さん、かなり恥ずかしいことなんですよ。
「そいで揚々とコンビニに入ったんだが、やはり、というより、こんなのはいまさらだが、運命や物語はまざまざと存在する」
「ええ、それで?」
ぼくもおなかが減ってきた。
中年の戯言を早々に切り上げて、とっとと塔アパートに帰りたい。
「すっかり、否、うっかり忘れていたが、今日はサンデーの発売日だったんだな」
「……ええ……それで?」
いま気づいた。
狐さんが小脇に抱えている本、あれは一体全体何だろうか? そしてサンデーの値段は確か、二百四十円じゃなかったっけ?
「買っても買わなくても――」
ぼくの視線に気づいたのか、小脇にしていた本を、すっと狐さんは差し出してくる。
「それは同じこと」
表紙は美少女じゃない名探偵だった。
「あんた、本当に何にも考えてないだろ?」
全然まったく同じじゃない。
せめて十円でも残ってればまだしも、手持ちの心許ない全財産、それを綺麗に使い切ってどうする。
「……大体の事情はわかりました。とりあえず、木の実さんと連絡取りますから、そういう真似は、だからもうやめてください」
やるせない。
こんな人と一生付き合っていくのかと思うと、自分という人間が、ひどくいたたまれず、そして可哀想になってきた。
「木の実を呼ぶのか?」
「他に引き取り手がいないでしょ?」
血の繋がった身内ではあっても、哀川さんは、絶対に引き取ってくれそうもないし。
故意に恋して濃いになる。
恐るべきステータス異常から、まるで回復する兆しもない彼女、一里塚木の実さんに、ここは迎えに来てもらうしかあるまい。
「だけどよ俺の敵。若作りだがこれで俺だって、もう結構なおっさんだぜ?」
「ええ、それで?」
言いつつメモリーから、木の実さんの名前を探す。
ぼくは機械には滅法弱いので、グループわけとかはまったくしてない。
順番もランダム。
元々がそんなに数はないが、探すのはそこそこ面倒である。
「そのおっさんがお前、帰れないから迎えに来てくれってのは、ふん、中々に恥ずかしいものがあるな」
「気づいてもらえまし――」
やっと木の実さんの名前を見つけ、ボタンを押そうとしたそのとき、ぼくの視界の端を、何かが物凄いスピードで動いた。
ぼくが来たのとは反対側の曲がり角。
曲がろうとしたんだろうが、ぼくらを見つけてか、慌てて身体を引っ込めたみたいである。
「…………」
「どうした?」
「……何だか怪しい人影が……」
「俺はここにいたが?」
「いや、狐さんじゃなくて」
自分が怪しいって自覚はあるんだな。
「そこにいるんだろ? 出て来いよ――人間失格」
「ほう? いるのか?」
それでもしばらくそいつは、じっと息を潜めていたが、狐さんはともかくとして、ぼくにはそんなこと無駄だと観念したらしい。
代理品。
奴が《陰身の濡衣》に匹敵するだけの、気配を絶つ技術を持っていても、そんなのはそれこそ同じことだ。
「よう――欠陥製品。今夜は可笑しな奴とツルんでんじゃねぇか」
いつものことだけどさ。
そう、余計なことを言ってから、零崎はとてとてと歩いて、悪びれもせずに、ぼくと狐さんの前にその姿を現す。
毎度お馴染みの殺人鬼。
「…………」
こいつもしかして、京都に定住してるんだろうか?
とてもエンカウント率が高い。
別れるときはいつも決まり文句のように《二度と会うことはない》、互いに言ってはいるが、週に一度は約束なしで会っている。
しかしまあ、京都の治安も、どうりで年々悪くなるわけだ。
これでもかと奇人変人大集合である。
最近は少し、いや、かなりお疲れ気味の女刑事さん。
年中消耗戦を繰り広げている沙咲さんに、この二人を紹介したなら、いくばくかは、失った元気を取り戻してもらえるだろうか?
「お前いまさらりと、ひでぇこと考えたろ?」
零崎がジト目になってる。
「まさか。超楽しいとか、マジ楽しいとかは、まだ何とかついていけたけど、鬼楽しいは無理だなって思っただけさ」
ぼくは零崎から視線を逸らして、誤魔化すみたいに狐さんを見た。
「くっくっくっく……」
思わせぶりに笑っていた。
「…………」
でも多分意味なんてない。
この人はそういう人だ。いつだって何も考えちゃいない。そのくせ引っ掻き回すのは、ぼく以上に巧いときているから厄介だ。
本当に。
嫌になるくらい。
「こうして因縁浅からぬ三人が、雁首を揃えたのも何かの縁…………よし、これからどっか呑みにでも行くか?」
「すいませんが狐さん、ちょっと黙っててください」
何がよしだ。
そもそもあんた文無しだろうが。
「ああ、それじゃさ――」
「何だ人間失格。お前また律儀にキャラを守って、ここでおなかが減ったとか、まさか言い出すつもりなのか?」
「何だ欠陥製品。お前目が怖いぞ。そうじゃなくて……いや、まぁそうなんだけど……」
よくわからないことを言いながら、零崎は自分が来た曲がり角の奥を見る。
「縁が合ったのは三人じゃねぇんだ。 さっきぶらぶらと、吉野家かすき家か考えて歩ってたら、偶然にも運命の再会しちゃってさ」
「あ」
親の不始末は娘の不始末。
こちらも出どころを外さない。
その人はゆっくりと、その圧倒的な存在感と、絶対的な赤色を現した。――滅茶苦茶嫌そうな顔で。
「よう――いーたん。零崎くんと台詞がカブって何だけど、あたしも言っとくわ、今夜は可笑しな奴とツルんでんじゃねぇか」
そう言いながら哀川さんは、ぼくではなく狐さんを見ていた。
だがその視線には、まるで気づいないかのように、狐さんはにやりと、愉しげに笑いながらぼくを見る。
お面を被ってはいても、何故か確信を持って、それがはっきりとわかった。
「財布が来たな。これで金の心配をする必要はねぇ」
「ああ? 何言ってんだクソ親父」
凄む哀川潤。
ぼくには関係ないのにすげぇ怖い。
「さてどこに行くか? 俺の行きつけの店は、ここからだとちょいと遠いしなぁ」
「てめぇ聞けよっ!!」
顔まで赤くしている娘の怒声もどこ吹く風で、父親の思考はすでに、どうするかと呑みに行く店のセレクトに入ってる。
人類最強を子供扱い。――いや、まぁ子供なんだけどさ。
しかし、
狐面の男。
哀川潤。
零崎人識。
お面を被った着流しの中年に、美人だけど目つきの悪いど派手な赤色のお姉さん、それに顔面刺青の通り魔少年。
うん。
濃いメンバーが集まった。一般人がぼくしかいない。
店員の引きつった顔が目に浮かぶ。
「いーたん、その肩書きはお前、とっくのとうで無理があるだろ? 諦めてもう認めめちまえよ。お前は胸を張っていい立派な変態だ」
心を読まれたらしい。
哀川さんが愉しげに声をかけてくる。
それは本人に言ったら間違いなく怒るだろうから、一生の内緒だけど、父親が持っている雰囲気にとてもよく似ていた。
「全然似てねぇよ」
強烈な重力を感じる声音。
心を読まれたらしい。
墓まで持っていこうとした秘密が、僅か一秒足らずで見破られてしまった。
とはいえ哀川さんに対すれば、ぼく如き小ざかしい《戯言遣い》の決意などは、まぁ大体こんなもんだろう。
「なぁ、まだ店決まんねぇのかなぁ?」
声に振り向くと零崎が、座り込んでおなかを撫でてる。
殺人鬼は行く気満々みたいだ。
そういやこいつは、金、いくら持ってるんだろうか? とは言っても今日のところは、哀川さんの奢りになるんだろうけど、さ。
「潤、知ってる店はこの辺にないのか?」
「何であたしがオキニの店を、お前に教えなきゃいけねんだよっ!!」
親子喧嘩が終わる気配がない。
どころか段々とヒートアップしているみたいである。まだまだ零崎が食欲を満たすまで時間が掛かりそうだ
「堅いこと言うなよ。お前に酒を教えてやったのは俺だぞ」
「…………」
あれ? 二人が袂を分かったとき、潤さんって何歳くらいだったけかな?
何にしても昔から狐さん、ろくな父親ではなかったみたいである。これこそわかりきっていまさらだけど。
「…………」
それにしても、狐さんの台詞じゃないが、吹いてくる夜風が堪らなく気持ちがいい。
反転文字の玖渚仕様の時計を見ると、日付がちょうど変わるところだった。
しっかし自販機の前でこんなにダベるって、まるで春休みで浮かれてる高校生みたいである。……こんなのも……たまには悪くない。
「傑作だな」
「戯言だろ」
零崎は笑い、ぼくも微かに笑った。
20
何故だかぼくは、学校に咲いている桜は、奇妙なほど綺麗に感じたりする。
風に舞い散るその儚さが、生意気に咲き誇る可愛い生徒達と、どこかオーバーラップするからかもしれない。
窓の外を眺めながら、ぼんやりと、ぼくは何とはなしに、曖昧々にそう思った。
アグレッシブな孤島の招待を受けた四日後。
望みもしない無断欠勤をした為に、タイトルに偽りありの、随分とお久しぶりな澄百合学園。
「…………」
時計を見ると、授業開始のチャイムが鳴ってから、すでに五分以上が経過している。
しかしまだ早い。
教師がそんな時間ぴったり(すでに五分経過してるが)に教室に来ては、生徒達から無言のひんしゅくを買うこと請け合いだ。
円満に授業を行いたいのなら、もう後五分は、最低遅れていくべきだろう。
「…………」
だがまぁ正直に本心を言ってしまえば、ぼくがこうして一人でお花見しているのは、そういった生徒達への理解だけでは決してない。
朝、自分の部屋のソファで目を覚ましたときから。
人のベッドを占領して寝てる親子を見たときから。
勝手に冷蔵庫を物色してる殺人鬼を見たときから。
ずっと思っていた。
「……だりぃ~~~~……」
どうも軽く五月病みたいである。――いつもと言えばいつもではあるんだけれど。
それはそれとして。
部屋でいまだに惰眠を貪っているのか、それともとっとと出ていったかは知らないが、自由人のあの人たちがちょっと羨ましい。
「…………」
今日は絶好のお花見日和。
すでに無断で四日も休んだのなら、五日休んだところで『それは同じこと』じゃないかと、ぼくはかなりダメ駄目なことを考えていた。
七々見奈波から借りている分厚い本もある。
舞い散る桜を愛でながら、日がな一日読書するのも悪くない。
「…………」
ああ、でもその前に、これからここに来る彼女には、ちゃんと言っておかないとな。
「その様子ですと、今日も自習ですか?」
窓枠に気だるそうに寄りかかっていたぼくは、冷たいとすら感じるほどの、清水のように凛とした声の彼女へと振り向く。
「やあ子荻ちゃん」
見なくとも誰が来たかは足音でわかっていた。
彼女のクラスの授業のときには、ぼくは毎回毎回ぐだぐだと遅れて、そのたびにわざわざ、こうして律儀に呼びに来てくれる。
いつ頃からだろうか?
覚えてない。
これはもう自然な因果の流れで、子荻ちゃんとぼくとの間で恒例になった、言ってみれば儀式のようなものだ。
「桜がね……」
「桜?」
「あんまりにも綺麗だったから、今日は自習にしようかと思ってさ」
「はぁ?」
きょとんとした顔をする子荻ちゃん。
可愛い……じゃなくて、その気持ちはわかる。
花が咲いてるから自習って、どっかの国の大王じゃねぇんだから。それじゃあの三人よりも、ある意味、自由と言って過言ではな――。
「……いや、過言か」
哀川さんはともかくとして、風が吹き雨が降ったら即、狐さんはその日一日を、丸々お休みにしそうだもんな。
零崎なんて毎日が日曜日だし。
「…………」
まぁ、ああなりたいとは、間違っても思わないけど、ね。
「そうだ。お昼くらいなら奢るし、よかったら子荻ちゃんも一緒にどう? お花見」
あんな《人間失格》の生活してたらとてもじゃないけど、女子高生とそうそう、知り合う機会なんてないだろうからな。
「…………」
勿論戯言ですよ?
「お花見? いまから先生とですか? ふうん」
少しだけ思案するように、子荻ちゃんは窓の外を、満開に咲き誇る桜を仰ぎ見る。
授業のことも忘れて、思案している。
その何気ないちょっとした仕草でさえ。
「…………」
絵になる娘だった。
「子荻ちゃんは」
「はい?」
「何を美しいと思う?」
「桜ですね」
「桜……か。だったらきみは、桜に似てる」
「……くすっ」
春日井春日さんを模倣して、《戯言遣い》は巧いことを言おうとしたが、どうも失敗したみたいである。
ネタ元がいくらなんでもベタ過ぎた。
完璧にモロバレみたいで、子荻ちゃんは可笑しそうに、まるで年頃の女子高生みたいに、小さくだけど愉しそうに笑ってる。
「いま笑ったね?」
「すいません。つい……」
「とんでもない。きみの笑顔は素……そろそろ辞めようか、これ?」
「そうですね」
また子荻ちゃんはぼくを見ながら、本当に、心の底から、おかしそうに屈託なく笑った。
しかし、思っていた以上に難しいんだな、これ。
密かにわずかにだが、ぼくは春日井さんを、見直したり見直さなかったり。でも――やっぱり見直さなかったり見直したり。
と。
「およ? お二人揃ってこんなところで何してるですか? もう授業始まってますですですよ?」
振り返る。
最近このパターンで人に会うこと多いなぁ、などと思いながら、見なくともやはり、誰が来たのかはわかっていたが振り返る。
邪魔しやがって、気の利かない弟子だ、そう思いながら振り返る。
「姫ちゃんこそどう――うおっ!?」
「ふうん? どうしたですか? そんなびっくりした顔して。可笑しな師匠ですねぇ?」
不思議顔の姫ちゃん。
制服の上からエプロンをして、不思議顔の姫ちゃん。
手にはチェーンソーを持って、不思議顔の姫ちゃん。
「…………」
教育現場の崩壊はここまできてたのか?
護身用のナイフでブスりなんて目じゃないぜっ!! これなら玉藻ちゃんのナイフは全然オッケイだな。むしろ可愛くすらある。
「でもチェーンソーはまだ待ってくれ。そりゃ時代が百年ばかり加速し過ぎてる」
「師匠、さっきから一体何を言ってるですか?」
「姫ちゃん。さっきから一体何を持ってるの? そして何か嫌なことでもあんの? 子荻ちゃんで良かったら相談に乗るけど?」
「……先生が相談に乗るんじゃないんですか?」
「任せた」
ぼくには無理です。
授業中にチェーンソーを持って徘徊する少女の悩みなんて、持ってこられたって何も答えようがないではないか。
きっと少女じゃなければ、学園の生徒じゃなければ、相談に乗ってやることは不可能な、とてつもなくデリケートな悩みなんだろう。
多分。
「別に姫ちゃん、嫌なことなんてないですよ? 師匠から出された宿題を、うっかりやってないことくらいです」
「…………」
てめぇ。それ今日が提出日じゃねぇかよ。
「それはそれとして、紫木、どうしてそんなものを持って、こんな時間に徘徊してるんです? まだまだ明るいですよ?」
言い方からして子荻ちゃん。
玉藻ちゃんは完全に諦めてるみたいだった。
学園の夜を徘徊するナイフ少女にノコギリ少女、そして間隙を縫うように暗躍するデブ――まるでここは百鬼夜行である。
戯言だけどね。
「ああ、これを言ってたですか? これは鶏を捌こうとして持ってるだけですよ」
「鶏?」
「調理実習です。美味しい唐揚げが出来る予定なので、師匠にもあまったら、そっちの予定は未定ですが、食べさせてあげるですよ」
「……ありがとう。涙が出るほど嬉しいよ、我が弟子よ」
ってか、鶏を捌くとこから調理を開始するとは、この学園らしいちゃらしいが、いつもいつも、変なとこばっかりに気合が入ってる。
自分の食べるものは自分で殺す。
それをこうして教えるのは、おそらく良いことなんだろうけど。
生きていれば誰しもが罪を背負ってる。
などと大層な意見があるわけでもないのに、哲学ちっくなことを考えていたら。
「紫木、飼育小屋ならあっちです。この先は職員棟しかありませんよ」
子荻ちゃんがやれやれ、とでも言いたそうに首を振って、姫ちゃんの後ろを、全然まったくお話にならないほどの逆方向を指差した。
「あれ? そうだったですか?」
姫ちゃんが似合いもしないあの陰鬱な表情で言う。
「何となくこっちの方だったら、ギタギタのバラバラのちゅうぶらりんに、……何となく出来そうな気が……したですが…………」
「…………」
鶏肉の調理についてだ。きっとそうだ。決まってる。それ以外に何がある。何もありはしない。――学園長はいま部屋に居るだろうか。
ひどく気になる。
「姫ちゃんって料理は、得意だったりするの?」
だがそれは訊いてはいけない気がした。何故だかはわからないがそんな気がした。
「ええ、かなり得意ですよ。味っ子と呼ばれていた時代もあるほどです。どんな料理でも他人より美味しく作れます」
「すげぇ時代があるんだな」
本当だったら天才料理人の立場がない。
「あなたとはそこそこ、付き合いが長いですが、そんなの訊いたことありません。まぁ口では何とでも言えますからね」
「……何ですか萩原さん。もしかして、YOUがきよし、とでも言いたいですか?」
「わたしは萩原子荻」
「西川じゃなく横山」
間髪入れずダブル突っ込み。
即興の連携で何の打ち合わせもなく、《戯言遣い》と《策師》のチームプレイ。
恐らく歴史上これが初めて。
いや、だからどうしたと言われれば、別段どうもしないが、咄嗟にしてはこれが驚くほどに、二人の呼吸ははばっちりだった。
最近は周りにボケ役ばかりで、突っ込みがぼくしかいなかったから、思ってた以上に何だかかなり嬉しい。
小さな幸せってこういうことかなぁ。
「…………」
それじゃもうちょっと、それを大きくしてみよう。
「姫ちゃんの唐揚げが出来るのを持って、玉藻ちゃんたちも誘ってさ、みんなでお花見に行くとしようか。だからいっぱい作ってね」
「承知しましたっ!!」
あどけない少女の笑顔。皮肉で笑うのでもなく無垢で笑うのでもなく傑作で笑うのでもない。
それはただ純粋な笑顔。
「…………」
あまりに姫ちゃんの笑顔は眩しすぎて、ぼくは桜を見ようとするふりをしながら、不自然にならないよう注意して眼を逸らす。
「…………」
一瞬だけだがもう一人の少女、子荻ちゃんをぼくは視界に捉えた。
「今週で桜も終わりでしょうか?」
「どうだろうね……」
いまさらながらに思う。この学園はどこもかしこも眩しい。眩しすぎる光に満ちていた。
戯言抜き。
「こんなのも悪くない」
奇跡のような心からの言葉だった。
21
探し物は何ですか? 見つけにくいものですか?
鞄の中も机の中も―――。
「探したけれど見つからないの?」
「ですですぅ。隅の隅から隅から隅まで、それはもうずずいっと、姫ちゃん探しましたですけど」
「ふむ」
そこまで言い切るほど探しても、ちっとも見つからないとなると、これはやはり、どこかに落としたと考えるべきなんだろう。
「気づいたのはいつなの?」
「小一時間前です」
「朝はあったんだよねぇ?」
「間違いありません。姫ちゃんの一日は遊馬さんに、おはようございますって、きちんと挨拶することから始まるです」
「となると、学園内のどこかに、ま、あるんだろうけど――」
しかしこの澄百合学園は、写真一枚を探すには、あまりにもあまりに広すぎる。
足を使って地道に探すのは、いくらなんでも馬鹿馬鹿しい。
「とりあえず姫ちゃん、誰かが拾ってるかもしれないし、ここは保健室にでも行こうか」
正直あんまり気がすすまないけど。
徒労となるのがわかってるのに『必死にぼくは探しました』、そんな言い訳じみた自己満足をする為だけに疲れたくはない。
「ふうん? 師匠、何故ここで保健室に行くですか?」
不思議そうな顔をする姫ちゃん。
そりゃそうだろう。
ぼくも最初に聞いたときは、多分、似たような顔をしていたはずだ。
「前に知り合いに聞いたことがあるんだ。そいつは保健室の主なんだけど、学校内で情報が集まるのは、職員室と保健室なんだってさ」
「へー、そうなんですか?」
「さー、どうなんだろう?」
なんせぼくも、自分の体験として語ってるわけじゃないから、その辺りはいまいち返答が曖昧模糊である。
……いつも通りと言えばいつも通りだが。
「でも師匠」
「うん?」
席を立っていざ保健室へ、と歩き出したぼくの後ろを、姫ちゃんが子犬みたいに、ちょこちょことちょこちょことついてくる。
その姿はチワワなんぞよりも、遥かに愛らしい癒し系キャラだ。
「そのお知り合いの方の学校はともかく」
「うん」
「この澄百合学園の保健室に、情報なんてものが、はたして集まりますかね?」
「……うん」
そういやそうだ。
考えてみれば情報が集まる集まらない云々よりも、あそこには第一から人が寄り付かない。
たとえ熱で頭がくらくらしてようが、みんな倒れる寸前、そのぎりぎりまで、絶対に保健室には行こうとしないもんな。
啜り泣きで出迎えられれば、それもまぁ、致し方がないけれどね。
治るものも治らなくなりそうだし。
それに絵本さんはブラック・ジャック先生もびっくりの名医だけれど、お世話にならずに済むのなら、それはそれに越したことはない。
甘えるな、というやつだ。
「っても無闇に歩き回るのもなんだしなぁ」
そもそも迷子になりかねない。
子荻ちゃんを案内役にでもしない限り、それはちょっとばかり危険だろう。
「…………」
本当にどんな広さだよ。
「それじゃ保健室には、行くだけ行ってみますですか?」
「そうだね。後のことは後で考えよう」
いざとなったら《困ったときのお子荻ちゃん》に颯爽とご登場願うしかあるまい。――頼りにしてるよ。
「あ? 待てよ。そういやもっと適役がいるじゃないか」
こんなときこそ名探偵の出番だ。
携帯のメモリーから理澄ちゃんの名前を探す。隣りに《大泥棒》の名前があるのが、我ながらなかなかイカす配置だなと思った。
「もしもし」
「うん? お兄さん?」
「あれ? 出夢くん?」
「何か用かい?」
「うん。ちょっとね」
「ま、用がなくちゃ電話しちゃ駄目なの、なんてツンデレされても困るから、別になくてもいいけどさ。ぎゃはははははははははっ!!」
「…………」
相変わらず飛ばしてるなぁ。
「理澄ちゃんはいるかな……って、そりゃいるに決まってるか」
「なんだよなんだよ。つれねぇなぁお兄さん。僕よりも理澄の方がいいのかよ。そりゃあんまりにも酷いよおにーさん」
「だいじょうぶ。ぼくは出夢くんも理澄ちゃんも、二人ともちゃんと平等に愛してるさ」
「…………」
「今日は理澄ちゃんに仕事を頼もうと……出夢くん? 聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ」
声のトーンがさっきよりも何だか落ちてる。
怒らせちゃったかな?
電話っていうのは相手との空気が掴みづらいのも、あんまり好きじゃない理由の一つだ。
ここは用件をとっとと言って、さっさと切ってしまった方がいいだろう。
「探し物なんだけど、いまは平気かな?」
「ん~~? あ~~っと、あ、ごめん、駄目みてえよ。立派立派、根性だきゃこいつら、ちゃんと一人前にあるみてぇ」
「いま何してるわけ、出夢くん?」
「あん? お兄さんに早蕨って教えたっけ? 匂宮の分家なんだけどさ、そこんとこの兄妹を、ちょいとばかしシメてんとこ」
「ほどほどにね」
「ああ、一応殺さないように、手は抜いてやってんぜ。どうだいお兄さん、僕って呆れるほど優しい奴だろ? ぎゃははははははっ!!」
「……そうだね」
でもそんな大きな声で話しちゃ駄目だ出夢くん。
それじゃシメられてる早蕨の兄妹にも、しっかり聴こえてしまって、あんましその優しさには、意味なんてないんじゃないかな?
「おらっ!! 何度も言わさすなよっ!! お前らじゃ六十億人ほど人数が足りねぇっ!!」
意味なんてない。
「どっちにしてもすぐには、いま学校だろ? 行けねぇ場所だから、ごめんよ、おにーさんの期待に応えらんなくてさ」
「いいって、それじゃ仕方ない」
「ちなみに探し物ってなによ?」
「写真なんだけどね。なんか朝見たのを最後に、どっかいっちゃったらしくてさ」
「あれ? 失くしたのって、お兄さんじゃねぇの?」
「姫ちゃんのなんだ」
「あいつ腕は恐ろしいほど立つけど、そういうとこヌケてそうだもんな。ま、突き抜けて馬鹿だから、何も不思議なことはねぇけど」
「まあね」
ちらりと姫ちゃんを見る。
思わぬ長電話にただ待っているのも飽きたのか、指をくいっついっと振って遊んでいた。
悪いけど頭が良くは見えない。
「…………」
だが気持ちの良い娘だということは、それだけで十分以上に良くわかった。
「お兄さんは紫木の鞄の中とかは見たん?」
「いや」
「じゃあ見てみん。見つけよう見つけようって必死になってる本人より、何となく探してる第三者の方が、結構見つけたりするもんだぜ」
「ふむ」
姫ちゃんが肩に提げてるポシェット。
なるほど。
出夢くんの意見には一理ある。
確かにぼくは自分の目で、写真がそこに無いことを、ちゃんと確認したわけではない。
「あのさ姫ちゃん、そのポシェットの中身、ぼくが見てもいいかな?」
「ふうん? 別にいいですけど」
顔と肩で携帯を挟んで押さえながら、ぼくは受け取ったポシェットを、慎重に丹念にがさごそする。
「師匠のその姿、何か凄~~く怪しいですぅ」
心ない弟子の意見は無視。
リールに巻き付いてる状態の、ピアノ線やらなんやらの各種の糸。それに、おはじき、お手玉、剣玉と、遊び道具が充実していた。
「…………」
見事にバッテンだらけの答案用紙を発見。
女子高生の私物を漁っているのに、ちっとも胸がときめきゃしない。
そして。
「ありがとう、出夢くん」
「感謝の気持ちは形で頼む」
「今度会ったらちゅーしてあげるよ」
「…………」
「ごめん、調子に乗った。理澄ちゃんも含めて何か奢る」
「期待してるぜ。そんじゃまた」
「またね」
電話を切って姫ちゃんを見る。
この娘はもう少しでいいから、罠を見破るとか、そういうとき以外でも、注意力を発揮してほしい。
「はい、これでしょ。姫ちゃんの探し物は」
「えっ? あれ? えっ? ありましたですか? おっかしですねぇ? 姫ちゃんちゃんと見たですのにぃ」
「ま、保健室に行かないで済んでよかったよ」
「よかったですぅ」
嘘偽りのない笑顔で姫ちゃんは、両手で大事そうに受け取りながら、にこにことにこにこと、写真のように屈託なく微笑んでる。
必死さがそれだけでわかろうというものだった。
「…………」
市井遊馬。
ぼくのような代理品ではない。紫木一姫の本当のただ一人の師匠。
ん~~。
ちょっとだけ、妬けたりするかな。
「師匠ぅ」
「うん?」
「一緒に写真撮りませんか?」
変わらぬ笑顔を浮かべたまま、姫ちゃんがぼくを見る。
やっぱりその純粋過ぎる笑顔は、どことなく、雰囲気が玖渚と似ていたりした。ぼくの胸の奥にある深い部分が、くすぐられる。
「いいよ」
もしかしたら市井遊馬も、こんな気持ちだったのかもしれない。
「ハイ、チーズ」
「姫ちゃん、それって掛け声が、随分と古臭くない?」
何かしてあげたくなる。守ってあげたくなる。笑顔でいてほしくなる。――とにかく放っておけない娘だった。
最終更新:2010年01月02日 02:18