ノアが発足(2000年6月)した当時、私と兄(※NOAH取締役だった百田義浩さん=故人)の2人で日本テレビの氏家さん(齋一郎氏=現会長)ら局幹部へ掛け合い、それから7年半の間、ノアは年間約2億円という放映権料を、安定的に確保することができました。
ところが、今年の3月、(低視聴率などを理由に)その地上波中継が打ち切られ、その頃から三沢社長(当時=以下同)の負担が大きくなり始めたんです。経営者としての責任の重さゆえ、社長は飲みたくない酒を飲み、スポンサー回りをしなければなりませんでした。
社長の疲労は限界を通り越していたと思います。昨年の秋に私の妻と三沢社長らとお会いしたとき、あまりに顔色が悪いので、妻が“無理しないでくださいね”といったほどです。その頃、社長は痛みのせいで首が回らず、人に呼びかけられると腰を回して体の向きを変え、ようやく挨拶を交わしていました。そこまで社長が追い込まれているのを知りながら、事務方の幹部たちはいったい何をしていたのか……
事務方である仲田氏は広報や営業を統括する地位にあり、彼が率先してチケット販売のために動かないといけない立場にありながら、チケットの売り上げは落ちる一方でした。
その責任を取るならまだしも、その責任の一端がある彼の部下(三井政司取締役営業部長)が、今回の人事で役員に昇格しています。これでは、仲田氏自身は一線を退いた形を取りつつ、子飼いを経営に参画させていると疑われても仕方がありません。
私が、そんな事務方の無責任さを痛感させられたのは、私の還暦の祝いの席(昨年9月)でした。ちょうど三沢社長やTBSのスポーツ番組を制作している会社の顧問も出席していて、私が“うちの選手もTBSさんの番組に、もっと出演させてくださいよ”と頼んだことがありました。ところが、その席上、仲田氏が独断で、“日テレと懇意にさせていただいているのに、他局に出演させていただくわけにはいかないでしょう”と断りを入れていた、と聞いたんです。
その仲田氏の話を伝え聞いた社長は、急にムッとした顔になり、“何がノアを創った男だ!”と吐き捨てたんです(この発言は仲田氏がかつて『NOAHを創った男』を出版した事を指している)。そして、そのあと社長は、その番組関係者に“どうぞ、先ほどの話を進めてください”と頭を下げ、仲田氏の話を一蹴したんです。こうした事務方の不甲斐なさもたびたびあり、社長は自分一人で責任を抱え込み、そして、あの日を迎えてしまうんです……
(広島)大学病院に着くと、社長はすぐ集中治療室へ運ばれました。酸素マスクをつけられ、6人ほどの医師が交代で、それこそ大汗をかきながら、心臓の蘇生治療を施しました。そして、そのとき、私は奇跡が起こったと思いました。医師団の努力の甲斐あって、社長の脈が一度、戻ったんです。私は心の底から“助かった”と思い、安堵感のせいか、体の力が抜けていくのを感じました。
ところが、それは一瞬の出来事でした。またすぐに脈のない状態に戻ってしまったんです。そして、病院に到着してほぼ1時間後の午後10時すぎ。医師から“瞳孔が開き始めています。ご臨終です”と告げられたんです。それから時間の感覚がなくなり、頭の中は真っ白になってしまいました。
死因は、いままでリング上で首を酷使してきたことでの頚椎上部の断裂(頚髄離断)でした……
父(力道山)の胸像には、三沢社長の名前やノアの団体名も刻まれているんですが……。
私が退団した以上、胸像の刻石名について、三沢社長の遺志と違う方向に向かうノアの社名を、そのままにしておくわけにはいかず、早川(久夫常務取締役)氏に、御影石を新しく取り替えてもらうことを求めているところです。
ところが、彼はすぐに回答するといっていたにもかかわらず、その後は一切、返答もないのです。私はいま、こうしたノアの事務方主導の団体運営を食い止めるためには、現役最年長記録を樹立するまでファンに元気な姿を見せ続けることが、最高のアピールになると思っています。三沢社長をはじめノアの選手は、私にとって誇りです