ノア関連トピック > ノア戦士・小田原ドンチャカ:序
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成田眞美が本性をあらわして泉田に詐欺を持ちかけるくだりは原典を参照していただくとして、ノアが置かれた当時の状態を追うことにする。
ノアの地上波が打ち切りになると、成田夫妻のカフェレストラン「Qoo」が入れ替わるようにスポンサーとしてつく。
ノアのファン交流イベントが開催されるのと同じくして「Qoo」のロゴがマットに登場する。
成田眞美が三沢記念館をつくり、代官山にステーキハウスをつくると言い出す。
有力なスポンサーを持たないプロレスリング・ノアにとって成田眞美は救世主にみえたという。
そのころのノアの小田原イベントのメンバーはほぼ固定化されていたようだ。
三沢社長、杉浦、丸藤、森島、潮崎、三沢の付き人だった鼓太郎や太田、それに仲田龍。
泉田の言い分によればこれらが仲田派というらしい。
三沢が広島で試合中に死亡したのは6月13日。
世間ではタニマチや銀行に金策に走っていたようなイメージがある。
そして首の状態が悪く、雑務に忙殺されて練習もままならず、悪コンディションのままリングに上がり続けた果ての悲劇だったと。
ところが泉田の証言によれば、日本テレビの地上波が打ち切られ選手のリストラが宣告された頃、三沢は会社を仲田に任せきりにして小田原に頻繁に通っていたという。
成田眞美の実家のお好み焼き屋に入り浸り、朝まで酒を呑む事もあったそうだ。
泉田はこの頃の三沢を振り返って、
『日テレ打ち切りの重圧からの現実逃避だったのかもしれないが、コンディションの悪化は自らの責任が大きい』
と書き綴っている。
三沢の死後泉田は成田眞美の詐欺に遭うのだが、返金を迫る泉田をよそにその後も他のレスラーは小田原にドンチャカし、眞美の接待をうけていたという。