<<月へと還る獣>>
振り絞る
1
馬蹄轟く野戦地からしばらく目線を変えて、皇都エスタッド。
開戦から遡ること、半日。
いつになく森閑とした空気の流れる大広間には、勿論物音ひとつしない。
息を呑む、その音さえ聞こえてきそうな静けさである。
皇都そのものの繁栄を誇示する意図で作られた巨大な、石の檻。
ただひとり。着するために設えられた玉座には、今日も物憂げなエスタッド皇帝が、窓の外を見下ろしていた。
室内には、皇帝一人だけ。
常に控える腹心の護衛も今は席を外している。
窓の外は、初夏だ。
緑が沁みる。
「――これはまた、珍しい客が現れたものだね」
頬杖を突いた顔を上げて、不意に皇帝が破願した。
音もなく、目の前に鈍色の刃が突きつけられている。
籠められるのは、無音の殺意。
「トルエ参謀殿の視唱役。バート、と言ったか」
刃を突きつけた男は、顔すら隠すことなく対峙していた。
「覚えて頂き、光栄にございます」
「うん。気に入った人間の名前だけ、覚えることに決めているのだよ」
刃を突きつけられたところで、まるで動じる様子のない皇帝は、ひどくうきうきとした口調で目線を上げる。
「皇宮の護衛の目をすり抜けて、良くぞここまで忍び込んだものだね。生半可な腕ではない。エスタッドに仕えていないことが――残念に思える」
「……」
舌なめずりをする猫のような顔だった。
恐れの色は微塵もない。
「で。ここまで強行突破してくる、トルエの刺客の急ぎの理由は何かな」
研ぎきったバートの刃は、皇帝の薄皮一枚手前で絶妙に堪えられてはいるものの、やもすれば直ぐに頚動脈を掻き切る位置にあり、
「……恐ろしくは、ございませぬか」
であったから、思わず間抜けな問いをバートは口にしていた。
「もう少し、怯えた方が可愛気があるかね」
「いかに死地を覚悟したものとて、若干の迷いは生じましょう」
「命を惜しまぬ標的に会ったことがないと見える」
くつくつと喉を鳴らして皇帝は笑って見せた。
「刺客にしては純に過ぎる。君はその仕事には向いていないね」
「我が主にもそう言われてございますれば」
「トルエの、公女」
思い当たるように頷いて、それから唐突に皇帝は視線をずらせてバートの背後を見た。
「やめなさい」
低いが、厳しい。
叱責である。
バートと同じように音もなく、背後に大剣を立ち構えるのは、エスタッド随一の腕と謳われ、皇帝の腹心でもあり常の護衛を担当する、巨漢ディクスである。
たちまち広い室内に、殺気が三つ。揺らめいた。
ある程度の経験を積んだものであったなら、陽炎のようにくすんで見えただろう。
「私は彼と、話をしているのだ。邪魔を入れるは無粋と言うものだよ」
「陛下の無事が第一にございます」
「ディクス。私は今、殺し合いを見たい気分ではない。また、彼もそのつもりで来たのではあるまい。彼は、話をしにやってきたのだ」
本気で殺す意図があるなら、バートは先刻皇帝の首を掻き切っていた筈だ。
言葉を重ねるよりも、ほんの少し、切っ先を動かせば簡単にエスタッドの頂点の首は落ちる。
また、抗う手だてを皇帝は持ち合わせてはいない。
「……しかし、」
「判らないのかね?剣を退きなさい。死に臨む覚悟を抱いた人間に殺意を向けるは、それこそ生きるか、死ぬか。二択に迫って何とする。私は今ここで、彼が死ぬのは本意ではないし、逆に君に死なれては割が合わない上、本気でトルエを叩き潰しにかからなければいけなくなる。手間も暇も、今はひたすら面倒くさいのだ」
ハルガムントの一件も片付いていないのだし。
皇帝のその言葉に動揺を示して、先に剣を退いたのはバートであった。
「申し訳ございませぬ」
皇帝の前に片膝を突いて、おとなしくその頭を垂れる。
「エスタッド皇、如何なるものかとつい悪戯心が働きもうしてございまする」
「お眼鏡に適えたかね」
「想像以上にございます」
先ほどまでの殺意はなりを潜め、今はただ、朴訥な眼差しで皇帝を見上げている。
刺客だと告げられても、何を馬鹿なと応じたいほどの好漢然。
その様子に、ディクスも潔く大剣を柄に収めた。
殺気が、掻き消えた。
「エスタッド皇帝陛下に、無理を承知でお願いしたき議がござりまする」
「――これを返して、欲しいのだろう?」
言葉を最後まで言わせることなく、皇帝は胸元の隠しから「これ」を取り出し、バートの膝元に投げて遣した。
投げつけたもの。
トルエの全権を譲渡すると書かれたキルシュの直筆文章と、その証である朱印。
先に、早馬で届けられたものであった。
「……エスタッド皇」
「……陛下」
ディクスとバートが共に、驚いたというよりは呆れた口調で呟くのは、あまりに無造作に彼が二つを転がして見せたからだ。
「全ては、お見通しであらせられまするか」
「と、言うよりリボンでも付けて、返品しようと思っていたところだったのだ。わざわざ引取りに来てくれるとは、手間が省けてありがたいね」
「……」
「無条件で君に返そう。ただし、公女殿に会ったら、是非こう言い添えて欲しいのだがね」
「……は、」
言い添える、とは。
目で問うバートへ、
「エスタッドの配偶者は、全権の譲渡程度でトルエ公女に心酔するほど、甘い性格をなしてはいない。私に――エスタッドに入れ込んで欲しいというのなら、この身に牙を突き立てることだ。突き立て続けることだ。抗うほどに私の興味はいや増す。懐剣を忍ばせて、いつでも殺しにやって来い。ただし、夜這うのは公女に限らせて欲しいね。無骨な男を寝所に入室させるほど、気味の悪いものはない」
「……」
「それとね。この度は私の遠戚であるハルガムントが、公女に大変な失礼をした。是非とも会って謝罪がしたい。どうか御身無事に帰還されるようにと」
天邪鬼であるはずのエスタッド皇帝の、すんなりとした物言いに、思わずディクスが目を見張った。
知らぬバートが平伏する。
2
「は、……はッ」
平伏し、それから無造作に投げ出された二つを拾い上げると、胸元深くに仕舞いこんだ。
「嫌がる相手から取り上げる玩具ほど、面白いのだ。素直に差し出され自分の手にしたところで、何の楽しみも興味も湧かない。――ただし。私とて、一国を鼻先にブラ下げられて素知らぬ顔を決め込めるような、無欲な人間でも――ない」
次は本気で取りに行く。
刹那、皇帝の栗色の瞳が鋭さを増して、バートの身体を貫いた。
刺客としての訓練を受けていなければ、縫い付けられてしまうほどの。
「ああ……君。もうひとつ」
踵を返したバートの背に、皇帝は言葉を投げかけ留まらせ、
「これも持ってゆきなさい」
背後に控えるディクスに目配せ、先に取りに走らせた羊皮紙を手にする。
差し出された羽筆で、さらさらとサインを施しながら、
「今度は見えるときは。公女殿と参謀と共に、正面門より大手を振って来られるといい。美味しい紅茶を淹れてお待ちしていよう」
そうして皇帝は、エスタッド本隊の総指揮を委ねる確約書を、バートの手に渡したのだった。
「参謀殿のお手並み拝見とさせてもらう。存分に暴れてはくれないか?」
「……陛下」
「何だね」
音もなく再びバートが消え去り、静けさを取り戻した大広間で、やや続いた沈黙を破ってディクスが声を上げた。
「こちらに参られた理由はあのトルエの者が……来るため?」
「……どうだか」
仮令、自室の次に居心地の良い執務室からわざわざ大広間に向かい、
さらには護衛のディクスを脇から敢えて下がらせて、
まるで無防備とも言える状況を、自ら作り出したとしていても、皇帝、素直に応える性分ではない。
「殺されるとは思われませぬか」
「死、か」
応えて振り向いた皇帝は微笑していた。
いつになく、やわらかに。
「以前は怖ろしくてたまらなかったはず……なのだが。最近、甘美なものに感じられるようになってきた。疲れているのかな」
「お忙しくあらせられました」
「いっそこの首掻っ切ってしまえばせいせいする。そんな気がしないでもないのだよ」
「陛下」
あいにく、エスタッド皇帝との付き合いが長いディクスは、皇帝の果敢ない笑みの一つや二つで胸騒ぎを覚えるほど、可愛げのある性格ではなかった。
その程度で動揺するようでは、護衛は勤まらない。
特に、この偏屈皇帝では。
「ご冗談が過ぎます」
「意外と、本気――なのだがね」
まあ。仕方がないか。
窘めたディクスに苦笑いを返し、それから唐突に立ち上がると、
「執務室に戻るとしようか」
皇帝、ぽつりと呟いた。
歩く際に、若干前にかがみこむのは、未だに引き攣る腹の傷を庇うため。
「公女殿が帰還するまでにいくつか、片付けておきたい件もある」
その言葉に、何気なく応じ、
「……陛下は公女をお気に召されましたか」
「たいそう、気に入った」
普段なら、皇帝が絶対に口にしないであろう言葉に、流石にディクスはぎょっとなった。
まじまじと顔を見返し、
「……と、申しますと」
相変わらず上機嫌の皇帝に、恐る恐る訊ねる。
「どこが気に入ったと、そう言う趣旨で訊かれていると理解して良いのかな」
「あれほど結婚話から逃げておられましたのに」
仮にも、皇帝である。
それも、この戦乱真っ只中の大陸で勝ち残る意欲のある、大国の頂点に立つものである。
だと言うのに、各方面から持ち込まれる婚姻話をろくに目も通さず、片っ端から跳ね除けたのだ。
跳ね除けた、と言うよりは口にすら上らせなかったと、言うほうが正しいかもしれない。
おかげで、「現皇帝は男娼好き」とまで噂が流れ、それらを揉み消すのにディクスを始め、皇帝周囲のものたちはかなりの手間を割いた。
「それは、退屈な縁談話しか君たちが持ってこないからだ。『おとなし』く、世に言う『女性的』で、『従順』で、『後ろ盾』があり、苦労のひとつも経験しないままに蝶よ花よと育てられた、――そんな愛玩人形と婚して、何が面白いのだね」
「……」
面白い、面白くないの次元で話を語るのだから、正常な神経を持つディクスには付いてゆけない。
「しかし、陛下。トルエと盟約を結ぶは、その、少し――」
「リスクが高いだろう」
何を当たり前のことを。
そんな表情で、皇帝は腹心の部下を見やった。
「敵は増える一方だ。そうだね」
「判っておられますなら、何故」
「確かにトルエは、取るに足らない小国だ。小難しい条件で盟約を結ぶより、いっそ攻め入った方がどんなにかすっきりするかも知れない。だがあの公女。その小国を背負って、臆面も無く堂々と、対等の条件に持ち込もうとする。そこが気に入った」
敵は多いほど楽しい。
皇帝の貪欲な瞳が物語っている。
「罪作りな方でございますな」
「罪は静定すべきだ。だが、トルエとの盟約は罪には値しない」
瞼を閉じれば、あの一瞬の迷いも気後れも無く、気丈に対峙した少女の姿が蘇る。
たかだか15の小娘が、大国相手に一歩も怯まなかったその姿勢に、いたく興味を抱いたのだ。
好奇心と言うのか、
興味と言うのか、
皇帝はそれに当たる言葉を知らない。
「陛下の……陛下のお心は、判りかねます」
「トルエの参謀が、本隊へ合流したと言ったろう」
「はい」
尋ねられてディクスは頷く。
「彼は、きっと上手くやるよ」
「と、申しますと」
「『アレ』は公女に輪をかけての曲者だね。人を陥れることに躊躇いがない。アレが大軍を手にしたら――怖いよ」
怖いよ、と。
口にした一瞬だけ、皇帝の眼から冗談の色が消える。
「その、参謀殿に本隊を預けて……よろしいのですか」
反旗を翻すのではないか。
ディクスの危惧を、皇帝は頭を振って打ち消し、
「たかだか一万ちょっとの軍勢を手にして有頂天になる、その程度の阿呆ならさっさと滅んでしかるべきだ。あの参謀殿は、阿呆ではないと信じたいのだがね」
「状況把握をなさるべきです」
「それはそうだ。だから把握すべく、敢えて私はアレに指揮権を渡してやった。怖さはきちんと把握しておかなければ、妄想だけが膨らんで後々もっと怖くなる。……違うかね?」
「そのことに、トルエの参謀殿は気付きましょう」
「気付くだろうさ。気付かないほどの間抜けなら――私は大軍を任せる気にはならない。気付いてヘソを曲げるくらいなら、そこまでの器であろうよ」
そう言うものなのかもしれない。
そうではないのかもしれない。
皇帝よりは遥かに腹黒さの薄いディクスには、よく判らなかった。
であるから、曖昧に笑って誤魔化す。
笑いを見た皇帝は、不意に興味を失った顔をして、回廊の窓の外に目をやった。
「至玉はあの瞳。漆黒の硝子玉。恐れを知らない……いや。違うね、恐れを知って尚乗り越えたからこそ。放てるあの強い光」
そうして脇に控える鬼才の参謀。
「とても、気に入った」
爽やかな風が頬を撫でて、皇帝は目を細めて一人ごちた。
――どうしようもなく魅せられたのは私だけではあるまい。
3
場を戻す。
「進軍。進軍ッ」
辺りのわめきが、まるで轟音である。
煩わしさにキルシュは顔をしかめた。
上官どもの鼓舞を嘲笑うかのように、一般兵士の士気は低い。
低いというより、最悪である。
(これでは負けるな)
およそ、戦術には疎い彼女の眼にすら、勝敗は明らかだ。
アルカナ王国残党軍に残るのは、
捨て鉢か。玉砕覚悟か。それともなけなしの愛国心か。
いずれにせよ、キルシュにとってあまり望ましい方向へ進んで行ってはいない。
(――いや、)
浮かんだ皮肉な笑いを、更に嘲りで上塗った。
(望ましくないというのならば)
今がその状況を差すのではないか。
そう思ったからである。
キルシュは、陣頭に立っていた。
アルカナ王国残党軍の、露払いも露払い、人と言う生き物が集まり蠢く軍隊と言うものの――一番の鼻先。
十字に架けられている。
身動きの取れぬよう。四肢を縛され、正面を向かされた髪は上げられ、額の焼き印が誰の眼にも明らかだ。
薄物一枚まとっただけの肢体は、意味をほとんど成してはいない。
自死せぬようにと噛まされた轡が、饐えた臭いを放ってひどく不愉快だった。
「トルエの奴隷公女」、と。
ご丁寧に、彼女の首に掛けられた看板が、まるで道化じみている。
進退窮まるアルカナ陣営が、ほとんど利用価値のなくなったキルシュを、半ば自暴自棄気味に陣頭に掲げたのであった。
士気を上げる狙いがあったらしい。
我らは切り札を手にしているのだ、と。
公女に先頭を切らせれば、エスタッド皇軍は手も足も出まい、と。
「陳腐だ」
嗤ってしまった。
(あの皇帝はそんなにヌルくはないぞ)
轡さえされていなかったら、忠告のひとつでも投げてやったかもしれない。
と、
キルシュを陣頭に掲げた瞬間に、唸りを上げて飛来した一本の矢。
危うく彼女をかすめ、巻き添えを食らった兵士四人を貫き通して、ようやく矢頭は土へと突き立つ。
宣戦布告であった。
(強弓だな)
置かれた窮地を省みもせず、キルシュは思わず感心して唸る。
もしも自由の利く状態であったなら、
「天晴れ」
ほどは口にしていたかもしれない。
並び立つ兵士に動揺が走るのが判る。
陣頭に掲げた公女が、まるで効を奏さないからだろう。
ひとり落ち着いた様子のキルシュだけが、真正面に壁のように立ちはだかるエスタッド皇軍を活目して眺める。
一万。対ひとり。
どんなに現況を受け入れようとも、
死が怖くないわけはない。
恐ろしくないわけはない。
(だが)
――ところでこなた。こなたは、その最期の瞬間も……わたしの側におるのだろう?
昔。そう訊ねたときの、エンの返答をキルシュは忘れてはいない。
――勿論にございます。私は陛下のお側を終生離れませぬ。
――勿論にございます。
男ははっきりと言ってのけたのだ。
躊躇いはなかった。
(だから)
彼女の傍らに男は今いない。
彼女はたったひとりぼっちだった。
――ひとりでなくて、よかった。
と。
確かにあの時ほっとして、キルシュはエンに告げたのだ。
(だから。ここはわたしの死に場所では――ないのだろう?)
不敵に笑いたい気分に陥った。
(早く来い)
エスタッド皇軍を睨みつけ、焦慮の呻きを漏らしながら、キルシュはひたすらに念じた。
長くは待てそうにない。
(早く来い)
ぐう、と喉鳴りがした。
込み上げる血反吐を、こらえ切れずに吐き出す。
点々と、砂地にしみこむどす黒い、赤。
「エン殿ッ」
制止の声がかかるのを聞こえない振りをして、エンは口端から一筋。不快に垂れた血筋を拭う。
眉間に皺が深く刻まれた。
瞬間遠くなる聴覚を腕に爪を立てて引き戻す。
――まだだ。
「エン殿ッ」
激しく上下する二頭引きの戦車の脇に、騎馬上のエブラムが馬を付け、もう一度、今度は先より厳しく窘めた。
「退かれよ。ここで貴殿が倒れては元も子もないぞ」
「倒れませぬよ」
ぐらぐらと揺れる頭を横に数度振って覚醒させる。
「倒れる訳には参りませぬ。退くわけにも参りませぬ。今攻め込まねば機を逃しまする。……バート、陣形を」
「はッ」
「エン殿、退かれよッ」
エブラムの声を右から左に聞き流して、エンは傍らで支える部下に声をかけた。
諦観か、達観か。
制止したところで、既に留まらせることができないと判断したバートは、エンのその声に軽く頭を下げ、展開する戦況を的確に小声で囁く。
「第一陣。南西より右手に三度。遅れて五度、第二陣が続いておりまする。対するアルカナ陣、鶴翼の構えを崩しませぬ。先頭に公女掲げること……変わらず」
キルシュの安否は口にしなかった。
口にしたところで、あしらわれるのがオチだからだ。
顔色ひとつ変えない彼に業を煮やして、
「エン殿ッ」
三度、エブラムは咎めた。
「軍医にも止められているのだろう。何故、無理をするッ」
「無理ではなく合理にございますれば」
「それではその身が保たぬぞ!」
「保ちまするよ」
に、と。
口の端を歪めてエンは笑って見せた。
最終更新:2011年07月21日 21:06