4
「今はまだ。果てるときではございませぬゆえ」
轟。
地響きとともに、精巧に研ぎ澄まされたエスタッド皇軍が、一嶮の刃となってアルカナ王国残党軍の横腹をまともに抉ってゆく。
「エスタッド――第一陣、第二陣、共に戦始。第三陣と特殊部隊、アルカナを二分してござります。そのまま――東西に突っ切る模様。――アルカナ先陣。崩れたちま……」
は、とバートの息呑む音が聞こえ、
「どうした」
威嚇にも似た鋭い声を、エンは放つ。
「こ、公女陛下が」
吃る程度は許して欲しい。不安感に支配されながら、バートは呟く。
声に動揺が混じらないよう、低く抑えるのが精一杯だった。
木十字を掲げていた一軍が、まるで大木が倒れ行くように崩れ立ち、先まで目視で確認できたキルシュの姿ももはや見えない。
騎馬戦に、巻き込まれたのだと容易に想像できた。
長槍を掲げた、騎馬軍。
騎馬の恐ろしいところは、各個の攻撃力にあらず。
並び疾駆した時の速度に任せた、とてつもない並列攻撃である。
難しいことは、何もない。
重さを備えた武器を掲げ、馬を全力で奔らせて、正面突撃する。
文字通りの「突撃」である。
この戦国の世に、軍人の一員として、教育されたバートはよく知っている。
長槍を構えた大軍は、押し寄せる土砂にも似て、人の力で防ぐことは不可能である。
弓矢で威嚇できたとしても。
目の前に迫る一騎を、叩き伏せることが出来たとしても。
後に連なる、人力を超えた凄まじい暴力の前には、なす術もない。
せめて、暴襲する四肢の下敷きにならないよう、伏して戦の神に祈るだけである。
――概ねその祈りは、聞き届けてもらえないのではあったが。
「……巻き込まれたか……」
苦鳴が、エンの喉からこぼれた。
「避けられなかったか……」
「エ、エン様」
とうとう動揺を表すバートと、実際は同じくらい、エンも取り乱したかったに違いない。
キルシュを失えば、公国も全て終わる。
眉間を押さえたエンに、バートが思わず素の声をかけ、
「エン殿ッ」
背後からの同じように血走った声に、弾かれ、振り向く。
本隊指揮官のエブラムが、我を失った様子で、戦車に馬を付けていた。
「公女をお救いに参るッ」
エスタッドとトルエ。
立場は違えど、安寧を願う気持ちは共に変わらない――つもりだ。
「今ならばまだ、お救いできるかも知れぬ!」
「――なりませぬ」
低く制止の声を上げ、不意にエンは顔を上げた。
「本隊の指揮を捨てるおつもりか」
「しかし」
「まもなく。本隊の出番にござりま――」
言った途端に、激しく咳き込んで、エンは身体を二つに折り曲げる。
ぼたぼたと膝下に鮮血が滴った。
「エン様ッ」
「バート」
流石に堪えきれず、彼を支えかけたバートに、
「バート。エブラム殿と共にゆけ」
ともすれば困難になる呼吸の下から、檄してみせた。
「……は、は」
「本隊全力進撃!速度緩めずそのまま!私のことは良い。バート。行けッ」
急止を掛けた戦車の上から、思わずバートはつんのめって、前駆の馬の背に投げ出されていた。
振り落とされずにしがみつけたのは、間諜方として訓練された――既に意地だ。
頭を巡らしかけ、
「エン殿ッ」
「エブラム殿。躊躇いなされますなッ。躊躇は即、多大なる間隙となりまするぞッ。……あとは此方さま頼みの追激戦、一兵たりとも網の目から洩らしてはなりませぬッ」
「しかしッ」
「道しるべは真っ直ぐ前について申す!」
口元から水のように血を滴らせ、だのに叱咤するようなエンの声に、バートはそのまま瞬時瞑目し、次いで手綱を握った。
エスタッド将軍への叱咤はそのまま、バート自身に向けられているものでもあるということに気付いたからだ。
振り返ってはならない。
振り返ればきっと、手を差し伸べたくなってしまうだろうから。
応。
一声、振り絞るように答えて、エブラムが背後の本隊と共に馬の首をアルカナ軍へ差し向ける。
「――陛下」
バートの背後から。
風に乗って切れ切れに、彼の声が聞こえたような気がしたのは、きっと気のせいではなかったろう。
(――私では公女を助け出せない)
バートと同じく砂上に投げ出され、こちらはうまく受身を取ることもできなかった。
ずくずくと溢れだす鉄錆の味のするそれを、煩わしそうに吐き出し、
それから痛みに悶絶する。
肺が、まるで暴走した歯車のように、無茶苦茶に収縮を繰り返している。
そんな身体であったのに、
叩きつけられた姿勢を何とか起こして、エンは前方に――おそらく展開されているであろう戦況を思い描いていた。
視覚は今、手放した。
聴覚も半ば遠い。
痛覚だけが全身を支配する。
うずくまった地面から、馬蹄の響きが体の芯を揺らし、頭上に突き抜ける感が強い。
戦車と、彼の脇を次々に、エスタッド本隊が駆け抜けてゆく。
砂塵で、苦しい息がますます狭められ、エンは思わず呻いた。
胸元を掻き毟り、空気を求めて喘ぐ。
身体の末端が、氷のように冷たくて、こんな時だというのにエンは一人苦笑した。
――今はまだ。果てるときではございませぬゆえ。
自然と口からこぼれた言葉を、反芻してみる。
はったりもいいところだ。
人間ひとり、生き死にを己で決断できると思っているのだから、愚かである。
思い上がりも甚だしい。
その実、髪の毛一筋ですら思い通りにならない生き物のはずなのに。
(それでも)
と、思う。
(死なぬ)
今はまだ――遠い。
この腕の届く範囲にすら、いないものがある。
「陛下」
腹立たしいほど込み上げる喀血を、苛立ち混じりに唾棄して、ぎりりと歯を食い縛り、エンは遥か前方を見つめる。
「陛下」
祈るようにそっと。
囁きは、狂音に掻き壊されて、消えた。
5
トルエ公女キルシュが、如何なる手段でアルカナ王国残党軍から無事に奪還されたのか、
ここまで述べるに事欠いて、実は詳しい資料と言うものが手元に揃っていない。
間諜訓練をされたバートが、エンの主命に反してその実、キルシュを救出しに行ったのだとか、
特殊部隊の一連は部下に任せ、ミルキィユとダインが共に彼女を救出したのだとか、
トルエの窮状を見かねて、神兵を繰り出したラグリア教団が、危機一髪で彼女を救い出したのだとか、
諸説いろいろと囁かれているものの、当のキルシュ本人が語らず、といった有様で、真相は闇の中である……ようだ。
本人以外に真実を知るものはないし、その本人が記していないのだから、公記に残るはずもない。
だが、
エンの実在の有無に次いで、各々、歌歌いが主に力を入れる部分でもある。
ただ(これは筆者の憶測がかなり混じることは認めるが)、以降のトルエ国とラグリア教との密な関わりを鑑みるに、教団がキルシュを救出した――と言う説、あながち法螺話でもなさそうだ。
一支部長である、グラーゼンと生き死にを共にしたその計らいで、それだけでは片付けられぬ出来事がある。
全て片付き終えた後日、正式にエスタッドとトルエの調印式が行われる中、ラグリア教の最トップである教皇より「個人的に」、キルシュへ言付けがされている。
無論、山と詰まれた細工物と共に、である。
流石に唖然とするエスタッド皇帝及び一同を前に、今度ばかりは空気に呑まれも取り込まれもせず、教皇代理、にこやかに表の顔を使い分けて見せたそうだ。
「二国の繁栄を祝して」
そう告げた。
「ありがとうございます」
場に混じることなく飄々と、頭を下げたトルエ公女、教皇代理と一瞬の眼差しを交えたと聞く。
そこに、何が含まれていたのか判らない。
で、あるから、以下しばらく筆者の想像で話を進める。
息継ぐ間もないような、騎馬の海に飲み込まれ、括りつけられた木十字と共に、勢いよくキルシュは地に伏した。
山間での奇襲のときにも思ったが、戦いにここまで巻き込まれてしまうと、あとは身を縮めて第一波が過ぎるのを待つしかないキルシュだ。
弾みでどこか口の中でも切ったものか、口の中が錆くさくて顔を歪めた。
が、その中でも幸運と言おうか、倒れた拍子に木十字が折れ、たわんだ縄が両手を自由にする。
すぐさま、身体の戒めを解いた。
辺りは砂埃と怒号、そうして馬のいななきと剣戟にまみれ、
目を開けているのもやっとだ。
自由を取り戻しほっとしたのも束の間、身体を掠る流れ矢に、ぎょっと目を凝らす。
おかしなものだ。
自嘲しながらキルシュは途方に暮れて辺りを見回した。
命を失うと言うことが、
身体の自由が利かなかったときよりも、利いて命永らえる可能性の出来た今のほうが、
ずっと怖い。
(帰ろう)
そうは思うものの、一体どちらがアルカナ側なのか、エスタッド側なのか、それすらも杳として知れない。
「トォォオオルエエ公女ォォオオッ」
地を這うような狂気の声が、不意に間近で聞こえて、キルシュは振り向いていた。
振り向きざま。
武道を知らぬとは言え、それでも戦乱の中に育った勘、だったろうか。
知らず身体が数歩右へ転がり、元いた場所には鈍色の刃。
滴り落ちた血ぬめりが、生々しい。
「……アルカナの」
半身を起こし、呟く。
両手に血刀を引っさげ、獲物を捕らえた獣の瞳で爛々とキルシュを見つめる、……正気を半ば失った、哀れな大将軍の姿がそこにはあった。
最終更新:2011年07月21日 21:06