(これは参るな)
即座に立ち上がると、大将軍に対峙し、キルシュは腰を落として身構える。
身構えながらも冷静に、判断を下す己が今は恨めしい。
鈍重ながら、獲物を手にした軍人の男と、徒手空拳の自身。
どころか、剣術の「け」の字も知らないのだ。
彼女にできることは、
できることは、
「血塗られた公女よ。汚泥にまみれ恥辱の褥に眠る売女よ。貴様、いくつの命を吸い喰ろうて生きてきた。民のため、国のため、美辞麗句を武器に、どれだけの血を流す」
「流してくれと頼んだことは一度もない」
熱に浮かされたような大将軍の言葉に、せせら笑ってキルシュは答える。
「流して欲しいと願ったことも一度もない」
「ぬかせ、女。……貴様は国へ憑き禍う死神だ。アルカナを死滅させ、次に狙うはエスタッドか、それともその諸国か。」
「さあ」
本気で不思議そうに首を傾げて、
「わたしにもよく判らない」
じっと大将軍を睨めつけて言った。
「気付くと辺りに屍が累々と転がっている。因果な身である。生まれたときよりそうであったゆえ、どうにも馴染み深くて困る」
「ここらで引導を渡してやろう。あの世で幾千万の亡霊どもに、百伏千謝するが良い」
「断る」
砂塵に癖毛を流して、キルシュはきっぱりと答えた。
「あいにく現世に心残りが多すぎる」
「大口叩くも今のうちだ。助けは来ぬ。皇帝も参謀も、歯軋って悔しがろう。大人しく――死ね」
びゅ、と。
殺意は突然だった。
大将軍、実に呆気なく両手の血刀を振りかぶる。
唸りを上げて交叉する一対の刃を凝視しながら、それでもキルシュは動けなかった。
(……無理だ)
これは避けられない。
視線に力というものがあるなら、そのとき刃は砕けていたろう。
(これは――無理だ)
真っ直ぐに狙いを定めた、その獰猛な刃こぼれた切っ先を、キルシュは睨みつける。
目を閉じることは、できなかった。
(ここで終わるか)
幼い頃から叩き込まれた習性とは、恐ろしいものだ。
そのときですら、彼女は――現状を「受け入れ」た。
(わたしはここで死ぬのか)
あまりにそれは唐突に訪れ、まるで実感がない。
唇がほころんでいた。
笑っていたのだ。
(これがわたしの最期か)
不思議なものを見る目つきで、少女は空を見上げる。
見る見る間に、それは唸りをあげて彼女へと襲い掛かり、
「公女ッ!!」
声が聞こえたのと突き飛ばされたのは、同時だ。
二転、三転、勢いをつけて地を転がり、たまたま肋骨あたりに食い込んだ拳大の石に、キルシュは瞬間、呼吸困難に陥る。
「かッ……は」
苦痛に滲んだ涙を拭う前に、それでも顔を上げていた。
ぶくぶくと、泡吹く音が耳に飛び込んだからだ。
6
哀れに肥えた巨体は、まるで丘に上げられた魚のように、口元をぱくぱくと開閉を繰り返し、
その開閉のたびに冗談のように血泡が、次から次へと溢れ出して来るのだった。
「……大将軍」
目を見張り、数歩近付き――助からない。
胸板を深々と貫いた鉄槍が、反対の地にしっかりと突き立っている。
その鉄の杭に支えられて、大将軍であった男は直立を保っていた。
どう見ても、あと数秒の命。
素人目にも、それが判った。
「な……にを間違えた……と言うのだ……」
白濁した瞳から、怒りも呪いも今は既にない。
うわ言のように呟く声が、キルシュには確かに届いていた。
眉をひそめる。
「万全であったはずの国家が……軍が……家が……何を……」
「大将軍」
一瞬のためらいの後、キルシュは恐れ気もなく男に近付き、かっと見開いた瞳に手を当てて、
瞑目させてやる。
「静かに眠れ」
「な……に……が……」
「この時代に生まれてきたことが、そもそもの間違いであったのだ」
自分のものでないように、唇が動いていた。
「次は平穏な世に生まれると良いな」
「……う、生まれる……であろうか……」
「生まれるであろうよ」
ほっと安堵したように、不意に男の顔が安らぐ。
そこには、「白豚」と揶揄された醜悪さは既にない。
「そうか……」
ごぼ。
最後の笛の音を立て、男が沈黙した。
「公女陛下」
キルシュが手を合わせた背後から、静かにかかる声がする。
「遅ればせながら。御身お助けにまかり越しました」
「――ラグリア教団」
振り返り、すぐに飛び込んだのは、颯爽と白い軍旗。
否、軍旗と呼んでは差し支えるだろう――大陸最大の信者数を誇る、ある種の過激集団、ラグリア教の旗印。
声に、壮年の男が膝を付いた。
「は。まとめ役をあい務めます、サヴェルジアと申します。恐れ多くも教皇聖下には、トルエ支部グラーゼン司祭長さまの無事をお喜びと共に、御身の信仰深さを伝え聞かれ、以降ますます、御国との国交を深めたいとの意向にござります。以後、お見知りおきを」
言いながら、辺りの喧騒に微動だにしない姿は流石だ。
目を見張り、それからキルシュは、
「そうか」
と短く答えた。
エスタッド皇帝への布石として、ハルガムント家の次の標的は、トルエか。
布石と言うよりは、脅しの材料。
我々は、公女を起てていつでもエスタッドと交戦する用意があるのだぞ、と言う……、
などとは、仮令思ってたとしても。
(口が裂けても言えぬな)
その程度は、心得ている。
「よろしくお引き立てくださいますよう」
控える数名の教団兵士が、これまた揃って頭を垂れ、
その向こうでは血煙が相も変わらず上がっている。
「では」
様子を伺っていたキルシュが、返して頭を軽く下げて見せた。
「陣営までの護衛を頼みたい」
「はッ」
(トルエはこれで教団に対して暫く借りが出来る、か)
うんざりしながらキルシュは馬上に引かれるままに乗り上げ、
(まあ、後はあの男がなんとかするだろう)
そうしてエスタッド本陣へ帰還の歩を進めたのだった。
「笑ったぞ」、と。
キルシュを救出した、ラグリア教団のまとめ役――サヴェルジア――は、後にそう語ったとされている。
満身創痍で、薄物一枚。ほぼ裸同然で戦場へ立った公女キルシュのことだ。
たかだか15の小娘、援軍が来たと知れば声を上げて泣き出すだろう。
大声を上げぬまでも、涙ぐんだり狼狽することは、間違いない。
意地悪い確信を半ば抱いて、参陣したサヴェルジア、内心ひどく驚いたらしい。
トルエ公女の、気丈な態度に。
「いや。あれは既に気丈では済まされまい」
驚いた、と言うよりは舌を巻いた。
感服したとも言える。
血風吹き荒ぶ戦場の野で、
今しがた己を拉致した大将軍が息絶えた横で、
その瞬間にも命を奪われ続ける兵士のいる場で、
「彼の公女、笑って見せた」
そう言うのである。
「肝が据わっている」
そう語ったとも言われている。
このサヴェルジア、バートと同じく公女と巡り合った瞬間に、悟った感がある。
「器が大きい」
何と比べて「大きい」としたのかは、己の職位と世情を慮ったのだろう、細かくは記されてはいないが、心酔したことは確かなようだ。
以後、どうにもラグリア教団の意志の範疇、を明らかに超えている頻度で、公女に接触しているからである。
武技に優れているわけでもない。
取り立てて智慧の働くわけでもない。
しかし、人を見る目のあるものは、確実に見抜いて彼女に付き従う。
以前に述べた「求心力」。
この才能だけは溢れるばかりにキルシュは持っていたのだと、筆者は憶測するのだが、
本当のところはどうなのか、誰にも判らない。
月が。
煌煌と大地に影を落としている。
アルカナ本営から離れること一刻、
戦いは終焉を見せ、あとはエブラム指揮下による、掃討行為が行われていた。
それも、あちこちの小競り合いはなりを潜め、
今は大河ゼフィール、ほとんど静まり返っている。
「後ハルガムント攻城戦、エスタッド皇軍の完全なる勝利」
大陸史記にはそう記されている。
引き上げてきたおおよその兵は、思い思いに野営の地を定め、飯盒の良いにおいが漂い始めていた。
緊張感が拭い去られて、おおっぴらな野太い笑い声が戦場に響き渡る。
明日には、都への帰途に就く。
開放された思いが、声に表れていた。
の、中を。
馬上から降ろされたキルシュは、落ち着いた動作で辺りを見回し、
「バート」
丁度駆け寄った従僕へ、静かに訊ねる。
「へ、陛下……!ご無事で……よくぞ、ご無事で!」
「ラグリア教団が助け出してくれてな」
見返りは相当に高そうだ。
皮肉も付随させてみたが、実直なバートには通じなかったらしい。
さようでございますか、と涙を拭き、顔を上げて、
「バート」
「はい」
キルシュの問いに答えた。
「『あれ』は」
「……あちら、に」
あちらに、と指し示されたのと、キルシュが見つけるのとが同じ瞬間だった。
すぐに目に入った。
そこだけ、辺りの喧騒とは切り離された空間だったから。
炊爨にさんざめく辺りから一人、かけ離れて、
そこだけときが止まっていたから。
ざくざくと大地を踏みしめ、キルシュは進む。
エンは、砂地の上に座っていた。
若草色だった外套を身体にまとわりつかせて、両手をまるで祈りを捧げる聖者のように組み合わせ、放心した態で遠くを見つめていた。
頬は煤け、外套は返り血と砂埃にまみれ、その姿はひどくみすぼらしかった。
動けなかったのか。
と、誰かが背後で呟いた。
(否)
動かなかったのだ。
キルシュは悟った。
男の、光を失った眼窩にあてがわれた白布は、疾うにどこかへ吹き飛んでしまっていた。
覆いを失った昏い眼差しが、軋むようにゆっくりと、近付く彼女に視点を合わせる。
月夜の水面のように揺らめいていた。
(……あ)
キルシュが立ち止まる。
音に惹かれるように、男の窪んだ水面が静かに溢れて、一筋の涙が頬へ滑り落ちた。
涙は頬からまっすぐに唇へと伝い、動きに同調して唇が僅かに開く。
嬉しいような哀しいような顔で、エンはキルシュへ微笑んだ。
しん、と当たりは静まり返っている。
……それとも、キルシュの耳が聞こえなくなったのか、
つかつかと無遠慮に、その間を切り拓いて、彼女は再び前に進んだ。
「相変わらず無茶をするな」
咎める口調で呟いた。
「また派手に血を吐いたものだ。トルエの参謀殿は、自愛すると言う意味を知らないと見える」
情けないことに、声が震えている。
聞いたエンが、また笑った。
静かな微笑だった。
陛下。
唇が音を発することなく、そう動く。
「ここで座り、待ちわびて……こなたは何を期待する?トルエ公女の急を聞いて、追い腹詰めるつもりででもいたか」
「――追い腹を」
追い腹を詰めて、陛下の後を追えましょうか。
首を傾げてエンが呟く。
「追えぬな」
あっさりと、キルシュは否定した。
「こなたが追いつくのを、わたしは待たぬ」
「無論にござります。陛下の歩みをお停めするつもりもございませぬ。私はただ、公女陛下の無事の帰還を寿ぐために、ここでお待ち申しておりましただけで」
「……念の入ったことだな」
ふん。
鼻で笑って、キルシュは真正面からエンを見据える。
「或いは騎馬の蹄に蹴られ。或いは鉄槍にその身を削られてもか」
「はい」
「まるで愚かなことだ。やもすれば、戦渦に巻き込まれて一巻の終わりではないか」
「はい」
「こなたは動けなかったのではない。動かずに……わたしと時を運を、共有しようと試みた。そうであろう」
「はい」
この死にたがりめ。
唇を歪めて悪口するキルシュに、実に嬉しそうにエンは言葉を返す。
「言い置くが。腹黒いこなたが落ちるは、おそらく地獄の釜の底。わたしは先に天へゆくぞ。こなたがどんなに歯噛んでも、一生わたしを追えまいよ」
「ですから」
口角を持ち上げて、エンも不敵に返してみせる。
「ですから私は、血塗られた大地を、陛下と踏みしめとうござりまする」
「……やれやれ」
大げさに肩を落とし、ため息を吐いて見せながら、キルシュは言った。
「参謀殿はいまだにわたしを解放してはくれぬか。……前途は多難であるな」
だが。まだ、生きている。
言いながら彼女は、エンの傍らを過ぎ行き、
ふ、
と。
通りざまに僅かに手を伸ばして、男の肩に触れる。
「……エン」
「は」
背中越しに呟くと、エンは低く応え、頭を垂れる。
「お帰りをお待ち申し上げておりました」
「今。還った」
言葉尻に、万感が籠もる。
還った。
夜空を見上げると、見慣れた月より数倍大きい。
(おかしい)
そう思う。
瞬きをすると、不意に視界が開け、
――そうしてキルシュは初めて、自分が泣いていることに気が付いた。
最終更新:2011年07月21日 21:07