目が覚めると、見たこともない薄暗い部屋にいた。
  違うな。
  訂正しよう。
  見たことはあるけど、体験したことはない『部屋』に、ボクは転がされていた。
  目が覚めたといったって、さわやかに朝の目覚めをしたわけじゃあなくて、
 「い――ッ、づぁづぁづぁづぁ!」
  不愉快度100%で、ボクは飛び起きる。
  しんしんと冷えるような石畳の冷たさと、とんでもなく割れるように痛い頭に、無理矢理眠りから引き戻されたと言う、感あり。
  不快なんてものじゃあない。
  絶不快である。
  幸い、体の自由は利いたので、ボクはその薄暗い室内で身体を起こし、とりあえず周りを眺めてみた。
  目の前に太い鉄格子。
  あちこちに、恐らく地下水によるものだろう(……とボクは思いたい)、壁のシミ。
  低い天井からは、時折ぽったんぽったんと、雨漏りのように水が滴っている。
  部屋の一角に、手のひらほどの穴が開いている。
  最初ボクは、それが一体何の穴だか判らずじっと睨み、
  やがて「それ」が、この部屋に閉じ込められた人の排泄物を流す穴だと気が付いた。
  ベッドどころか、くずかごのひとつもない、石で作られた、

  ああ、なんて立派な地下牢。

  頭を抱える。
  そうなんである。
  何を間違ったか、ボクは牢屋なるものに閉じ込められているんである。
  何、こんな非日常的な体験。
  牢屋なんて今時分、流行らないよ?
  頭を抱えたついでに、パイプなんだか角材なんだかとにかく棒のようなもので殴られた記憶のある頭に手を伸ばすと、
  あああ、でっかいタンコブができている。
 「……ったくなんなんだよもう」
  グチりたくもなる。
  ちょっと触っただけで割れるように痛い頭に涙を滲ませながら、ボクはブツブツと呟いた。
  ここに来る前――神殿からウチへと帰る際の、おかしなシラスを思い出す。
  貼り付けたような笑顔。
  あんなの、シラスじゃあない。言い切れる自信があった。
  アレはなんだっけ、アドグ?とか言う魔物の、化けた姿じゃあなかったんだろうか。
 「さ……むいなぁ」
  膝を抱えて、冷え切った身体から、少しでも体温が逃げないようにした。
  底震いするような、寒さだ。
  じぃん、じぃんと、身体が細かく震えているのを止めることが出来ない。
 「次に会ったら見てろよバカ」
 「シラスの偽者のおたんこなす」
 「百回謝ったって許さないんだからね」
  聞いている人なんていなくたってイイのだ。
  そもそも、聞かせたくて愚痴っているわけじゃあない。
  声を出して愚痴ってでもいないと、なんだか気がおかしくなってしまいそうだったから。
  頭の痛みから滲む涙とは別の涙を、ボクは指で拭った。
  鼻をすする。
  泣いたってどうなるものでもないと判っていたけど、心細くて、仕方なかった。
  一体自分がどういう状況になっちゃってるのか、さっぱり理解が出来なかったから。
  ここは一体、どこの地下牢なんだろう。
  地下牢だなんて、昔、8年通った児童学校の社会見学かなにかで、
  むかーーしの、今はもう使われていない、「捕虜跡地」なるものに連れて行かれたっきりである。
  そうだ。
  とても怖かった記憶がある。
  日の光がさんさんと降り注ぐ屋外から、見学のために案内された階段を下って、ボクは身震いしたんだった。
  無念を残して死んだオバケがでそうだとか、ミイラでもあったらどうしようだとか、そう言う即物的な恐怖じゃあなくて。
  こんな場所に同じ人間である相手を、閉じ込めてしまえると言う神経と言うか、
  そんなものを作り出した歴史が怖くて、確か一緒にいた友達の手をずっと握っていた。
  大丈夫。大丈夫よ。
  先生が肩を抱いてくれたけど、とても安心するだなんてボクは出来ず、他の子たちがそう怖がっていないことを逆に不思議にも思ったんだった。
  見学が終わるや否や、ダッシュで階段を駆け上ったっけ。
  今でもやっぱり、怖い。

 「……シラス…・…」

  自分で自分の肩を抱きしめるように腕を回して、ボクはぽつりと居候の名前を口にしていた。
  こんな地下牢の薄暗がりとは似ても似つかない、圧倒的に真っ黒な、質感のある、なのにあたたかい闇を。
 「安心召され。そう長い間のことではない」
 「わぁ!」
  わぁ、わぁ、わぁ、わぁ。
  唐突に掛けられた言葉に、ボクがぎょっとして声を上げると、それはワンワンと石の床やら壁やら天井やらに反響し、物凄い大合唱となる。
 「元気な魂よ」
 「……ご、ごめんなさい」
  くくく、と忍び笑う声がして、ボクは反射的に謝った。
  いるならいると、もっとはじめの方から声を掛けてくれればいいじゃないか、だとかそんな思いも無くはなかったけど、そんなことよりも、誰なのかは判らない、けれどボクひとりじゃあない、話し相手がいるという心強さ。
  声は、男の人のようだった。
  それもかなり年を経た声だ。
  薄暗くてよく見えないけど、向かいの牢の一角に座っているような気がした。
  目を凝らすとぼんやりと、姿があるような、ないような。
 「こ、こんにちは。ボクはレイディと言います。あなたは、誰ですか」
  喚いてしまった手前、そのままにしておくのもなんだか格好悪い気がして、ボクはとりあえず膝をそろえてそう尋ねた。
 「――ワシか。……名など――忘れた」
 「……名前を忘れるほど長い間、ここにいるのですか」
  深い声がじんと響く。
  こんな。
  こんなところに。
  こんなところに、名前を忘れるほどに長い間。
  ここにはきっと、時間は流れない。
  いつまでも、閉じ込められたままなのだ。
  声は静かに笑う気配を見せた。
 「さて。20年か。50年か。100年か。投獄された当時には、日ごとしるしを付けては今日が幾日か数えもしたがな。それもやがては厭わしくなってな。気付けばやよ、時は流れず」
 「投獄……やっぱりここは、地下牢なんですね」
 「彼の悪名名高い、ダッタール帝の拵えた、無用なるひとつよ。海岸沿いの、人の訪れの極端にない地に位置する」
 「ダッタール帝……昔学校で習った……かなぁ」
  聞いてボクは首を捻る。
  とにかくこの牢屋が作られた時代が、ものすんごい昔だというコトはわかった。
  今のカスターズグラッドは王政だし、「帝」なんてものは、それこそ歴史の教科書でしか目にしたことがない。
  もんのすごい昔に作られた割には、しかも海沿いって言うからにはそれなりに潮風が吹き込んでも来るだろうに、どういうことか、鉄格子はペカペカと光っていて、
 「何時の時代にも澱のように、闇はわだかまるもの。平和と言われるこの時にさえ、よからぬ心を持つ者は――多くは無くとも居る」
 「ああ……手入れされてるんだー……」
  まるでボクの思いを読み取ったような声に、ボクはふんふんと頷き、改めてぶっとい鉄格子を眺める。
 「まあ、どっちにしろ、こんなところに人を閉じ込めようと考えるようなヤツは、ロクでもないね」
 「それはそうだ。平心では――人は、他を陥れられぬ」
 「あなたも……あなたも誰かに陥れられたのですか」
 「さて。それすらも遠い昔の話よ。忘れた」
  静かな声は変わることがなくて、逆にそれを聞いたボクは落ち着いた。
 「海岸沿いの、人が訪れない場所……て、オジィさんさっきそう言いましたよね」
 「言うた」
  男の人であることはわかったものの、どうにも見た目が見えないのだから、オジさん、なのかオジィさん、なのかいまひとつ判らなかったけれど、まぁ声の感じから、オジィさんということにした。
  訂正でも来るかなと思ったけれど、声の相手からは何も来なかったので、オジィさんということにボクの中でしておこう。
 「……困ったな」
 「何を困る」
 「こんなところにボクもずっといないといけないのかな」
  それはたいそう、困る。
  ――”一生、牢暮らしがしたいか?”
  昨晩、突きつけられたシラスの言葉が蘇る。
  ――”暗く冷えた地下牢で、痩せ衰え。慢性的な飢えと寒さで”
 「コロっと行くのはボクはいやだなぁ……」
  何十年か閉じ込められているヒトの前でそう言うのは、なんだか憚られたけれど、困るものは困るし、嫌なもんは嫌である。
  ああ、なんかまた涙が滲んできた。
 「そう長いことではない」
  不意に、さっきの、一番最初の言葉を、オジィさんが口にする。
 「そう長いことではない、というのは……」
 「今日か。明日か。どちらにせよ迎えが来る」
 「迎え、ですか」
  不謹慎かもしれないけど、こんな心細いときにこうやって話を出来るヒトがいるというのは、ボクはなんだかとても大きくて、
  安心してしまった。
 「オジィさんは?」
 「ワシか」
 「オジィさんには、迎えはないの?」
  たかだか何時間かでも、どうにも気が狂いそうなほど怖いと言うのに、こんなところに年月も忘れてしまうほど閉じ込められていると言うのは、
 「あ。……ごめんなさい」
  言ってからボクは気付いた。
  そもそも、こんな場所は尋常じゃあないのだ。
  牢屋なんだった。
  その、牢屋と言う、尋常じゃあ考えられないような場所に居るというコトは、
  こっぴどく悪いことをしたか、
  誰かに陥れられたか、
  どう考えたってふたつにひとつで、この男の人が出られる確率はえらくえらく低い、というコトなんだ。
 「昔語りを聞かぬか」
 「昔語り……ですか」
  しまったなと思い始めたボクの耳に、相変わらず落ち着いた一本調子のオジィさんの声が響く。
 「そう。昔。昔。この大地がまだ平定されるには程遠い黎明期。ある男がこの近辺を支配しておってな。この男、戦には強い怖いもの知らず。悪霊と契約したとの噂を従えて、向かうところ敵なしの破竹のごとき勢いであった」
 ボクの考えを読んだのかどうか、不意にオジィさんはそう語り始めた。
 「悪霊と……契約」
 「そうとしか思われぬ獅子奮迅の強さ。男は何時しか戦場の鬼と、そう呼ばれるようになった」
 「……」
 「強いだけならよい。それに行為が伴えばさらに良い。――しかし残念ながら男にはな、その人心を掴む上で唯一絶対のもの――”心”が欠けておった」
 「……」
 「男はいくつもの人外のものと契約を交わし。時には他人の血で贖い。男に仕えた人外の従僕は、百とも千とも――」
 「せ、千って」
  ついついボクは話の腰を折る。
  はっきりとは言わないけど、オジィさんの言っている「悪魔」だの「人外」だのというのは、きっと、シラスみたいな魔物の種なんだろうと思う。
  それを千って。
  噂には尾ヒレどころか背ビレも胸ビレも、やたらたくさん付くのもわかってるけど、にしたって、そう言うウワサがまことしやかに流れるとしたのなら、それなりに男は魔物を従えていたんだろうとも思う。
  だいたい、シラス一匹従えるのだって、ボクはほとほと手を焼いているって言うのに(え?全然従えてないって?うるさい)、
 「それを……たくさん」
 「――男が彼らに差し出したのは、その”心”であったと、そう言うことなのであろうよ」
 「ふぅん……」
 「さて。戦場に千々乱れる時代はまだ良い。問題はある程度平定したその後のことだ。血で血を洗う時代には役に立つ従僕も、和が訪れれば厄介な代物と化す。生涯をかけてこの地を治めた男は、奴らが邪魔になると見るや、交わした契約を破り、騙し、滅ぼし、あるいは地底に閉じ込め、その存在を無きものとした。心を失った男には、もはやそれが一体どういう行為であるのか判らなくなっていたのだな。だが――……、収まりが付かないのは、人外の方よ」
 「”契約”を破って、その上閉じ込めて知らん振りじゃあ……そりゃ、怒るよね」
  ボクはまたシラスを思う。
  ああやって、普段はのったりというか、ぼんやり、家の中に閉じこもりがちなヒモ生活をしているとは言え、シラスは魔物だ。ボクは到底敵わない。
  それを押さえ(?)つけているのが、ボクとシラスが交わした「血の契約」なんだ。

  ひとつ。シラスはボクから生気を受け取る代わりに、ボクに全霊をもって仕えるものとする。
  ひとつ。主人は生気を与えるボクであるとし、シラスはその命を違えない。
  ひとつ。主人であるボク以外のものから、シラスは生気を受け取らない。

  これを破ったら、どんなに強い魔物でもたちまち消滅してしまうんだよ、って、シラスは幼いボクにそう言った。
  ボクは、ボクからは絶対に破らないよと、指きりげんまんをして誓った。
  約束は破っちゃいけない。
  破るくらいの約束なら、最初からしない方がマシだ。
  まぁシラスどころか、多分普通の人間の男の人だって、本気になったらボクはどうやったって力で負けてしまうだろう。
  そもそも、まだ立てるか立てないかの赤ん坊だったボクを拾ったのがシラスなんだから、それを逆手にとって、もっと優位な条件で契約を交わすことも出来たと思う。
  ……というか、条件も契約もなしに、シラスの「エサ」として、飼われてしまう状況だってありえた筈で。
  それをしないで、むしろ不利な条件まで引き下げて自分自身を縛ったところが、ボクがシラスに頭が上がらないと言うか……、感動してしまうところだ。
  口ではあーだこーだ言うけど、きっと根っこの部分は、ほんとうにやさしい。
  ああ、また脱線してしまった。
  まぁ、シラスの話はさておき。
  そんな約束を、一方的に主人が破って、しかも騙されたり閉じ込められたり滅ぼされたりしたら、ボクが魔物でもきっと怒ると思う。
  自分の都合のいい時だけ約束をして、用済みになったらポイ、だなんて、どこの女衒かロクでなしなんだってゆーの、である。
 「――皇太子に化けたあの人外もな。或いはそう言ったうらみつらみの塊じゃよ」
 「うぇ?」
  不意に話が現代に舞い戻って、喉から思わず潰れたような声が出る。
 「化けた……えーと、」
 「アドグ」
 「ああ……とか言う……、魔物」
 「そう。はるか昔に使役され、その後連綿と獄に繋がれ。日頃おとなしき人外であろうと、積年の思い、ちりも積もれば山となろうよ」
  ボクはまだ、シラスたちの生まれた魔物の世界とやらに、行った事はない。
  そもそもヤツはあんまり詳しく説明してくれないし。
  でもきっと、こうして寒くて冷たい暗がりとはまったく違う世界があって、そこで平穏に暮らしていたはずのアドグや、そのほかの――知恵のある生き物たち。
  人間の都合で使役されて、使い棄てられ閉じ込められて。
 「そりゃまぁ……ボクでも恨む……かな……あ」
  今さらの時代の流れなんて知ったこっちゃあないのだ。
 「時に、今の都の名は何と言う」
 「あ、うん、カスターズグラッド」
 「カスターズグラッド。そうか。良い名じゃな。目にしてはおらぬが、統治するものはきっと良きものなのであろうな。都の活気が溢れて、地よりここまで伝わってくるわ。人の世も捨てたものではない」
 「うん。王さますごくイイ人だし」
  頷いてそのまま、沈黙が訪れる。
  オジィさんは眠ってしまったのか、それ以上話そうとはしなかった。
  静かになるとそこでようやく、ボクの耳に遠く潮騒の音が聞こえる。
  ああ、海が近いって、そう言っていたっけ。
  ボクはいつまでも鳥肌の立つ両腕をさすりながら、昨日の会話と、今しがたの会話を頭の中で繰り返してみる。
  黒幕はわかっているのか、と聞いたシラスに、ハルアは心当たりはあると答えていた。
  悲しいことだけど、人間っていうものは、善人ばかりじゃあない。
  それも、大人限定ってワケじゃない。子供だってそうだ。無邪気だなんていうけど、嘘もつくしイタズラはするし、邪気の塊に思える時だってある。
  誰かのものを欲しくなってうらやんだり、ねたんだり、よっぽどの世捨て人か悟りを開いた人でもない限り、清らか~~な心で毎日を過すなんて、おそらく出来ないんじゃないかって思う。
  王さまって、ボクは体験してないから良くわからないけど、きっとやりたい事がそれなりに、出来てしまうくらいの力を持っているのだ。
  力が大きければ大きいだけ、そういったヒトの心の裏っかわも大きくなってくるわけで。
  そう言う暮らしと出来るだけ縁を切りたくて、ハルアは足掻いていたのじゃあないかな。
  次の国王になれる確立が非常に高い人間が二人いて、そのどちらともが王さまになりたいと願ったら、大変なことになる。
  自分自身がそう願わなくたって、周りの人間のちょっとした利己心が集まればそれは大きなうねりになるだろう。
  無駄な争いの種を、ひとつでも無くしておきたくて、いろんな自分を演じてみたけど、そこからは逃れられなくて、とうとう、王位を剥奪と言う騒ぎにまでなったりして。
  バカ息子を勘当までしてしまった王さまは気苦労が絶えないと思っていたけど、或いはそういった息子の気持ちに気付いて、王位継承資格を剥奪した……のかもしれない。
  街に出ちゃあ、若い女の子を追っかけまわしているようなどーしよーもない大司祭さまだけどねー。
  だけど、
  あっちこっちに良くしてくれる可愛いコがたくさんいて、
  お城に戻ればそれなりに敬われて、
  神殿では何不自由ない暮らしをしているのに、
  切羽詰ったハルアが逃げ込んできたのがボクん家、ということに気付いてボクはなんだか胸が詰まった。
  ……あれはあれで、さみしい、のかもしれない。

  そんなコトを考えているうちに、朝になった。



最終更新:2011年07月28日 07:34