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  力のある男なのだろうな、とは薄々感づいていた。
  力のある。
  何を基準に「力」と評すればいいのか、チャトラにも明確なところは判らなかったが、権力であるとか財力、知力、武力、
  そういったものを一通り備えている男なのだろうなと思う。
  ただし、劣悪最低の。
  数えで十六、これまでそこそこ「世知辛い」世間の水を頭から飲んできて、この年にして自分はそれなりな経験を積んできたように思う。綺麗に見えるものにでも必ず醜悪があり、表のあるものには裏、明るい場所には影が出来る。
  それくらいは判る。
  二親がいればともかく、十になるかならないかそんな年頃から掏摸をし、生きてきた自分は、であるから今更白の真逆の黒の部分を見て現実に幻滅したであるとか、汚泥に恐れ戦いただとか、そんな甘い言い訳は言うつもりはない。
  ない。
  ないはず……だ。
  けれどその不相応に大人びた感性をもってしても、やはり目の前のこの男――馬車に同乗しているこの男――憎たらしいほど小奇麗な顔をしてその実、どこもかしこも不明瞭でつかみどころのない男――だけは理解できないと、凍み入るように思った。
  懲りずに逃走を図り続ける自分自身もどうかと思うが、その彼女を猿轡と後ろ手に拘束し、しかもそれを隠すでもなく堂々と己の馬車に放り込む男の神経がやはり知れない。
 「あのね」
  馬車が走り出してしばらく、黙りこくった彼女に目を流して今更ながら猿轡に気付いた風の男に、解放されて一番、ここぞとばかりに悪態をついた。
 「何かな」
 「アンタは俺を、どうしたいんだ」
 「――どうしたい――のかな」
  言われて初めて気付いたように、小首を傾げる男の目の色は割りと本気で、それがチャトラを莫迦にしているとか演技であるようには見えない。
  傾げる動作につれて、これだけは性格はともかく見事だなと彼女がこっそり思っている、細くあえかな金の糸にも似た髪が、さらさらと男の肩から流れた。
  知らず目を奪われる。
  触ったら気持ちいいだろうな。
  場違いにそんなことを思っていた。
  男の存在は、チャトラの今までに生きてきた世界と比べると、まるで判別の付かない世界であることに違いない。そもそもこの髪の長さからして異常である。
  生まれてこの方、街ですれ違う一行に、膝裏近くまで髪を伸ばした男――と言うより女も含めて全ての人間――についぞ出会ったことがない。
  無論、放置しておけば、髪は伸びる。そんなことは子供でも知っている。それでも皆肩口より下がせいぜいで、どうして長く伸ばす猛者がいないのかと言えば、理由は至極単純で、
 「洗う手間に捌ける時間も、それだけの水を無駄に使う余裕もない」
  からに過ぎない。
  何故敬われているのか理由はさっぱり判らないが、屋敷内であれだけ多くの人間に傅かれている男だからこそ、ここまで伸ばせるのだろう、だとかどうでもいいことをチャトラは分析していた。
 「アンタ、オレがそんなにムカつく訳」
 「ムカつく――……?」
 「オレなりに色々考えたけどさ。結局アンタはオレが、アンタの懐を狙ったことが許せないんだろ?自尊心だか自己満足だかなんだか知らないけど、お役人に突き出す代わりの私刑、てヤツなんだろ?」
 「私刑――……」
 「見せしめっつーかさ。……まぁ、世の中にゃ何をしてもカンに障るような、ソリの合わない同士がいるってことはオレにも判るし、それでアンタがイラ付きついでにオレを閉じ込めたり縛ったりするんだったら、もうどうしようもない訳だけどさ。どこに連れて行くのかくらい、話があってもいいんじゃね?」
  冴えない相手の反応に、苛々としながら言って説明を求めかけたチャトラは、やがて対面する男が、軽く驚きの目を見張っていることに気付いて口を噤んだ。
  接して判ったことがある。
  この男は、実に表情に乏しい。
  無感動ではないのだろうと思う。が、それを表に出す術を忘れてしまっているように、小さな苛立ちや機嫌を視線に含ませる程度で、大袈裟に表情が歪むことがない。意図しているものなのか、無意識なのかはチャトラには知りようもなかったが、これでは、じっと男を見つめてでもいないと、感情を読み取ることは難しいだろうと思う。だのに、屋敷内で男を見返す人間など、どこにも居はしなかった。
  腫れ物に触るように。
  出会った瞬間男が声を立てて笑ったことに対して、何故ダインがあそこまでぎょっとしたのか、今なら判るような気がした。
  その男がこうして僅かなりとも表情を変えると言うことは、一般的表現に置き換えると、
 「ものすっごくびっくりした」
  に当たるのかもしれない。
 「――カンに、障る」
 「……?」
 「ソリが、合わない――」
  チャトラの皮肉を口の中で小さく転がして繰り返し、男はしばらくその意味を吟じているようだったが、
 「存外、お前を気に入っているつもりなのだが――」
 「はぁッ?」
  逆にチャトラの方がびっくりした。
  自分の耳を一瞬疑う。
  びっくりついでに起き上がろうと身を起こしかけ、後ろ手に回されたバランスを崩して、座席から半ばずり落ち、慌てて両足で踏ん張った。
 「……ちょっと待て。待て待て待て。オレ、今、異常にワケ判らないこと聞いた気がするんだけど」
 「どのあたりかな」
 「もうね。いっぱりありすぎて、どこから突っ込んでいいのかわっかんねぇよ」
  縛られている腕が自由だったら、確かにチャトラは頭を掻き毟っただろう。
 「まぁ、とりあえず言いたいことは、オレの『常識』では、『気に入ってる』相手を縛ったりはしないってことなんだけど。それともアレか、アンタ、たまにいるような縛ったりすると性的快感を覚える、イカれたヘンタイ趣味でもあったりすんのか」
 「縛らねばお前は逃げるだろう?」
  不思議そうに返す男へ、彼女は眼を剥く。
 「ああ……そりゃ逃げるよ!力いっぱい逃げるけど!!逃げるけどさ、なんつーか、縛ったりしたら余計にオレが嫌がるだろうなとか、頭にクるんじゃねぇかとか、そう言うの思わないワケ?」
 「お前が嫌がることと、私がお前を気に入っていることとの関連性が見出せないのだが――」
 「えっと」
  あっさりと切り返されて、チャトラは沈黙しかける。
  ――そういや、ダインのオッサンもコイツとやり合って撃沈してたよなぁ。
  十数日前のことが、今は懐かしく思う。
  そうだ。男はチャトラ自身を、『愛玩動物』として扱っていたのではなかったか。
  頭に来た彼女は、あの時手にしたサンドを男に打ん投げた。
  ああ。そうか。
  訝しげに自分を眺める男に、不承不承ながらチャトラは再確認してしまう。
  オレ……ヒト扱いされてないんだ。
  あの時はかっと目の前が赤くなった。瞬時に沸騰し、捨て台詞を吐いて廊下へと飛び出し、けれど男の宣言通りに屋敷のどこからも逃げることは出来ず、廊下で立ち尽くす行動にすら監視まがいの人間があてがわられて、散々に暴れた。
  今はなぜか少し悲しい。

  そうだよな。

  納得する。チャトラ自身の今まですごしてきた生活は、自分ひとりが生き延びることに精一杯で、犬や猫や鳥であるとか、所謂、『飼育動物』を養う余裕などまるでなかったから、これは想像でしかないけれど。
  路地裏で拾った犬が、撫ぜることを嫌がったところで自分自身がいちいち
 「犬の気持ち」
  になって撫ぜることをやめるかと言うと、きっとやめないだろうなと思う。
  撫ぜたいから撫ぜるのだ。そこに理由を求められても困る。
  そうだよな。
  男の「力」がどれほどのものかチャトラには判らないし、判りたいとも思えなかったが、
 「……外せよ」
  肩を落とし、力なく顎をしゃくって、ぎしぎしと痛み始めている腕を示した。
  どうせ逃げようとしたところで、馬車の周りをぎっちり取り囲んでる兵隊の誰かに取り押さえられるのは目に見えている。
  男が自分を放す意思がない以上、どれだけ逃げても捕らえられるのだろう。
  捕らえられるたびに幾本もの腕に押さえつけられ、力任せに振り出しの場所に戻される痛みに、チャトラ自身気付かないうちに、徐々に蝕まれていたようだ。
  しばらくは大人しくしていても良いような、捨て鉢な気分になった。
  ただ――、男が自分の何を気に入ったのか、少しだけ知りたいと思った。
 「お前は――」
 「何だよ」
 「いや」
  不意に覇気をなくしたチャトラの様子を、男は長い睫毛の下から探るように見ていたが、やがて袖口から細く鋭利な小刀を出すと、片腕で器用に戒めの縄を切り解く。
  今日は朝起きてすぐに縛られ馬車に放り込まれて、実際呆気に取られているうちにことが運ばれた感が強く、そう暴れたつもりもなかったが、それでも麻縄で固く縛られていた手首は擦れ赤剥け、血が滲んでいた。
  無理な姿勢を取らされていた肩の関節が痺れるまでに痛んでいて、両手で擦る。
 「困ったね」
  チャトラからすると、まるで困っているように聞こえない声音で男は呟き、それから彼はひょいと手を取る。驚く間もなく、手首に唇が宛がわれていた。
  いっそ血よりも赤い舌が臙脂の唇から現れ、じくじく滲む傷口を舐める。
  俯くしぐさに関連して、またさらさらと音のしそうな髪が彼女の腕に降りかかる。
  とてもやわらかだ。
  獣が己の傷口を舐め癒すように、ゆっくりとそれはそれは丁寧に舐る男を、思わずぽかんとされるがままにされてしまったチャトラは、
 「……やめろよ」
  怒りではない血液が、顔に上るのを感じながら我に返って慌てて手首を胸元に引きかける。
 「放っておきゃ治る」
 「困ったね」
  同じ言葉を繰り返して、男が放しもせず再び手首へ顔を寄せるのへ、
 「やめろって!」
  今度こそ本気になって、チャトラは狭い馬車の中で最大限に飛び退った。
  強かに背中を打ったが、それよりも男から離れるほうが彼女には先決だった。
 「――嫌われたものだ」
  自嘲の形に頬を歪めて、男が薄く笑む。
 「……わかんねぇ。アンタが理解できねぇ」
  舐められた手首を握り締めて、チャトラは唸った。本心だ。
  聞いた男が頷く。
 「よく聞く」
 「結局オレをどうしたいの?」
 「多分、」
  他人事のように男が、
 「痛い思いをさせたい訳では――ないのだろうな」
  言いかけたまま。
  次の瞬間、男は急に表情を固く警めた。
  厳しいとも取れる凍りつくそれ。あまりの豹変振りに、何か別の仮面でもひょいと手に取り顔に被せたのかとチャトラは思った。驚いて硬直した彼女へ、
 「な……、」
  今度こそ遠慮なく片腕を伸ばして、力任せに座席下へ押し倒す。もんどりうった所に、

  轟。

  馬車が揺れた。
  聞きなれない、ざらりと心を擽る声が聞こえる。
  それは風を切り裂く絶叫だ。
  喉元からくぐもる断末魔の雄叫び、憤怒の声、居丈高な威嚇、何か固いもの同士を打ち付け合う、音。
  倒された男の肩口、今の今まで頭のあった高さに、数え切れない数の棒が突き立っているのが見えた。
  生えたのかと思っていた。
  弩だと気付いたのは後になってからだ。
  その瞬間はただ、生えた、と思った。
  次いで、ばすばすと不気味な貫通音を引き連れて、炎が射込まれる。突き立つと同時にぼうと燃え、平衡を失った荷台が、大きく傾いで勢いのまま二人は外へと投げ出された。
  頭を打つ痛みを予想してチャトラは身をすくませたが、男の腕がそれを防ぐ。庇われたのだろうか。判らなかった。
  たいした衝撃もなく地面に尻餅をついたチャトラの目に、車輪が砕かれた残骸が燃えているのが目に映る。
  数瞬前まで彼女が乗っていた車台だとは思えなかった。それほどに無残な襤褸屑だった。
  驚きに呆然と眼を見開いたままの彼女の上に覆いかぶさる格好で、男がチャトラを閉じ込める。おかげで辺り一面遠慮なく金糸の雨が降り注ぎ、まるでその中に囚われたようだ。引っくり返ったまま見上げると、金の檻の隙間から黒い甲冑の背中があった。「皇帝」である男の一番近くに常に付き従う、影のような男だ。
  ディクス。
  チャトラが名を問うと、静かな声でそう答えた。
  その男が立ちはだかるように、塞き止めるように、壁となって二人に背を向け長剣を手にし油断なく身構えている。
  たった一人しかそこには立っていないのに、上回る安定感は何だ。
  ディクスの腕が舞うように流れる動作で動いて、
  しゅぶ。
  鈍い音がチャトラの耳に飛び込んで、同時にびしゃびしゃと吹き散る温かで不愉快な水滴。
  降り注ぐ水滴に男の金色の髪が、次第に朱に染まる。
  血、だ。
  弾かれたように男を跳ね除け、飛び起きた。どこからそんな力が湧きでたのか判らない。無我夢中だった。
  チャトラの目に、まず、首を失ったいくつもの肉体が飛び込む。
  ……くび。
  く、びが。
  転がっていた。
  その少し向こうに眼をやると、名前も知らない幾人もの兵士たちが、同じように剣戟を響かせながら襲撃者と対峙している。
  血しぶきが噴く。
 「存外遅かった」
  ――それから、至極冷静な声にゆっくりと視線を移す。
  嗤っていた。
  朱に染まった髪を掻き揚げた、男が嗤っていた。

                    *
                    *

  そのまましばらく記憶が飛んで、次にチャトラが我に返ったのは半刻ほど経ってからのことだ。
  記憶が飛んだ、では語弊があるかもしれない。性格には意識を失った訳ではなく、促されるままに馬上に引き上げられ、揺られて進んだ覚えもうっすらとだが残っている。ただ、薄い膜一枚通して眺めている夢のように、茫然自失の状態に暫くなっていたに過ぎなかったようだ。

  頬を叩かれて、気が戻る。
 「猫」
  数度、呼ばれていたようだ。無感情に見下ろす薄茶色の瞳と、横から心配そうに覗き込む黒い瞳。皇帝とディクスだった。
  大樹を背に寄りかかった男の胸に、横抱きに抱えられて頬を張られたものらしい。
  上半身を起こす。
  のろのろと周りを見回すと、あちらこちらで炊爨の支度の煙が上げる男たちが見えた。あるものは甲冑を身にまとい、あるものは設えは良いものの身軽な軽装で、年齢も格好もさまざまだ。
  その一団が、野営するものらしい。
  野営すると言うことは、ずいぶん遠出をする予定なんだな。
  どうでもいい思考がぼんやりと頭をよぎる。
 「大丈夫か」
 「だ、いじょう……ぶ?」
  大丈夫。何が。
  ディクスの言葉を鸚鵡返した自分の声は酷く掠れていて、チャトラは驚き喉に手をやって……それから、状況を理解しようと努める。
 「えっと」
  気が戻った瞬間からガンガンと痛む頭に手を当て、
 「オレ……、何してんの」
  ようやく発することの出来た疑問はそれだ。
 「こんなところで何してるんだろ」
 「どこまで判る」
 「えっと……朝、起きてメシ食いにいこうかなって廊下に出たら、侍従のオッサンがいきなり縄持って立ってて。ワケわかんねぇまま縛られて猿轡かまされて、」
 「――襲撃された。覚えているかね」
 「……しゅう……げき……」
  ディクスの声に、まだぼうとする意識を必死にかき集めて、とりあえず覚えていた朝の出来事を口にしたチャトラへ、皇帝が静かに告げる。
 「しゅうげき?」
  男の発した音が上手く頭の中で言葉として変換できず、チャトラは繰り返す。
 「……陛下。急に告げられるは刺激が」
 「緩だろうが急だろうが変わらない。事実だろう」
 「……」
 「馬車が燃え、車外に逃げた。それは判るかね」
 「……」
  意見したディクスを、軽く首を振る動作で男は払った。見上げる彼女へ促すように、補足するように、直ぐに思い出せない記憶を焦れる声色で、男が尋ねる。
 「騒ぎはすぐに収まったし、こちらの損害も最小限に済んだのだが、お前だけが自失した」
 「……」
 「怪我はないと思うが」
 「……」
  怪我なんてするようなことしたかな。
  言われて思わず確認した自分の手首をまず確認して、そう言えば縛られた痕が擦り剥けていたな――などと思い、
  それから自分と、自分を抱える男の服のあちこちに、まだら模様に赤い染みが見えて、
 「……ああ」
  あちこちどころではない。
  チャトラはともかく彼女に覆い被さった男は、流石に顔の汚れは拭ったようであるものの、まだべっとりと肌に張り付くほどに上着は血塗れていて、
 「あ、あ、あ……、」
  ――血。
  怒涛となった認識と恐怖が、容赦なくいっぺんに襲い掛かる。
  怯えて逃げようと身を引きかけたところを、無造作に寄せられた。
 「いや……いやだ」
 「嫌だ――何が」
 「……いっぱい、でてた」
 「一杯――何が」
 「血」
 「ああ」
 「いっぱい……空中に、いっぱい」
  濁流のように起こった現実を受け止め切れなくて、チャトラは自身の胸元を鷲掴んで小さく喘いだ。
  呼吸が上手くできない。
  思い出した途端、身体が瘧に罹ったようにがたがたと無様に震えだす。
  歯の根が合わなくなっていた。
 「い、いっぱい降ってきて、金色だったアンタがどんどん赤くなって、オレ、ア、アンタが怪我したんじゃないかって思って、そしたら」
  そうしたら。
 「く、首……、首が無くなっ……、る人間の……、身体がいつの間にかい、いっぱいできてて、周りにいっぱいあっ……、き、切れたとこから莫迦みたいに血が噴き出し……、オレ、」
  オレは。
  呼吸が上手く出来ない。
  言いながら生々しく骨と血管の飛び出た断面を思い出し、むかむかと胃が押し上げられて、チャトラは酸吐いた。
  酸吐く僅か前に、このままでは男を巻き込むなとふと思い当たる。血濡れた男へ、今更巻き込むも込まないもないようなものだが、そのときチャトラは何故かそう思って、身体をずらそうと身もがき、
  更に強く胸元に抱き寄せられた。
  切羽詰った彼女に突き放す余裕などあるはずもなく、そのまま数度込み上げた胃液を戻してしまう。
  身を震わせ、吐瀉しながら思う。

  汚してしまう。
  アンタを汚してしまう。
  ……嫌だな。

  汚してしまうのは、嫌だな。

  苦しさにぐちゃぐちゃになった思考の片隅が、そんなことを呟いた。
 「――チャトラ」
  涙か洟か、吐き出したものか、チャトラの顔を袖口で拭いながら、男が痙攣する彼女の耳元に顔を寄せる。
  名を呼ばれた。
 「ゆっくり。息を吐きなさい」
 「……あ……は、は、」
  囁きに抗うだけの力もなくした彼女は、ひゅうひゅうと引き攣りながら吸うばかりだった息を、言われるまま恐る恐る吐き出す。
  身を襲う衝撃に見開いた眼の上に、男の手のひらが当てられ、瞼を閉じるように促された。
  抗えず大人しく手のひらの下で瞼を伏せた彼女へ、
 「吸って」
  冷えた吐息と共に、落ち着いた声が吹き込まれる。
 「吐く」
  その通りにした。
  何度か繰り返すと身体が不思議なほど楽になり、強張っていた肩の力が自然、抜ける。
 「――終わっている」
  邪魔にならないよう、適当に切り揃えていたチャトラのぴんぴん跳ねる癖毛を、男はそっと撫ぜた。
 「怖いことは何もない。もう終わっている」
  繰り返し吹き込まれるテノールはひどく心地が良い。塞がれた視界のせいで、押し付けられた胸元の人肌より若干冷めたぬくもりが、徐々に徐々にチャトラの緊張を解いて行く。
  ことことと、音がした。
  聞こえる心音は、男のものなのかそれとも耳の奥で鳴り続ける自分のものなのか判らなくなっていた。
  それは、安心できる鼓動だ。
  およそ十月十日を母親の胎内に孕まれて過ごす人間は、宿主の心音を聞いて育つと聞く。育つ過程で多くはその記憶を失ってしまうが、身体に染み付いた絶対的な――原始的な――ここは無条件で大丈夫だと言う安心感、何があっても自分は守られていると言う被保護感、それはどうやら生涯付きまとうものらしい。
  少なくとも、今のチャトラはそうだった。
  黙りこんだまま男に大人しく抱かれる彼女が、落ち着きを取り戻すまで男は辛抱強く、何度も何度ももう終わった、もう終わった、と繰り返す。
  終わった。
  放心していた判断力が彼女の裡へと舞い戻り、混乱がようやく鳴りを潜める。

  やがてチャトラは、人の気配を感じてのろのろと身を起こした。
  他者に気が配れる程度まで、半刻はかかったように思う。
  その間、おそらく立ち尽くしたまま、声を掛けることをせず待機していたその影が、
 「……陛下」
  控え目にそっとかけられた声は、女のものだった。
 「ご無事で何よりです」
  皇帝の肩越しにたちまち好奇心、目を出したチャトラが見とめたものは、かっちりと武装に身を固めた姿だ。
  背中まで流れる、銀髪にも似た真っ白な髪をしていた。
 「これは――」
  まだ若い。
 「――久しぶりだね」
  自分を抱いた皇帝の声音が、確かに上機嫌になっていた。女を認めた瞬間、男の体にかすかな緊張が走ったことを、抱き寄せられ密着していたチャトラは気づいた。その変化ぶりを怪訝に思い、男を振り仰ぐ。
  常は気怠く眺めやることの多いように思う栗色の目が、今は少しだけ意志を湛えている。振り向いて女を見るでもなしに、けれどうっすらと口角が上がっていた。
  嬉しいのかな。
  ぼんやりとそれを眺め、それからもう一度肩越しにチャトラは女を見る。
  瞬間に男を変化させられるこの女の正体に、興味を覚えた。
  年はチャトラより少し上、二十歳は超えているだろうか。すっと縦に伸ばされた姿勢が実に良い、凛とした美人だ。
  着飾ればたいそう見栄えがすると思えるのに、女の着ているそれは無骨な色と形の、甲冑である。
  軍人でもなければ、武の心得もないチャトラには詳しいことは判らなかったが、それでも無駄を一切省いた、機能性を重視した装いであるように見えた。
  朱色の腰帯以外黒で固めた姿は、けれどそれが逆に、女の真っ白な髪と肌を際立たせている。
  似た装いの黒一色のディクスは一見、影法師のように見えるのに、女はどこかしら不可視戯で、ふわふわと宙に溶け出していきそうな雰囲気だ。
  ――似てる。
  どこか懐かしみを女から感じるような気がして、それが視線のせいであることに気が付いたのは、しばらく無遠慮にしげしげと眺めた後だ。
  軽く身もがき、放してほしいと意思表示をしているチャトラを、完全無視し抱きかかえている男のその色と、同じように思った。
 「君が来るとは珍しいこともあるものだ――……第五特殊部隊ミルキィユ将軍」
  呼ばれて女は、小さく敬礼した。
 「陛下」
 「うん、」
 「少しく無茶です」
  言って一旦口を噤み、男とチャトラを見下ろして困ったように眉尻を下げる。
 「何かあったらどうします」
 「だが何もなかった」
 「……そう言うことではなくて」
 「ディクスが側にいた。大概の敵は敵うまいよ」
 「そう言うことではなくて」
 「燻り出すための餌はいずれ必要だったのだ。時期が遅いか、早いかの違いでしかあるまい」
 「そう言うことではなくて」
  はっきりとした音程のアルト。何を言っても同じことを繰り返すそれを、皇帝が楽しんでいるように見えるのは、きっとチャトラの錯覚ではないのだろう。
  片眉が上がる。
 「怒っている――のかな」
 「怒っているとしたらどうなされます」
 「――おや」
  それは困ったね。
  まるで困っていない飄々とした顔をしながら、そう言って皇帝は声を立てずに笑んだ。
  やはり、上機嫌だ。
 「……とにかく。皇都まで我等が護衛いたします」
 「君のところは、つい先日帰都したばかりだろう」
 「火急を要しましたので。取るものもとりあえず馳せ参じる余裕と準備があった部隊が、わたしのところしかおりませんでした」
 「なるほど。――それで、馴染みの大剣がないのだね」
 「……ええ」
  皇帝の言葉に、言われた女が肩越し背中へ手をやって、軽く苦笑した。
 「見られてないのにわかりますか」
 「音」
 「音、ですか」
  皇帝の返答は短い。これは、日頃彼女が背負っている大剣による甲冑への反射の音――、もしくは大剣の荷重のかかった足音――を指し示した言葉であったのだろう。
  ミルキィユには、通じたようだ。
 「君のことは大概判っているつもりであるよ」
 「皇都に戻った際に、砥ぎに出しました。慌てて出立してきましたので、間に合わなくて」
  苦笑に、はにかみが混じる。
  笑うと凛と張り詰めた雰囲気が和んで、女も軍人の鹿爪らしい顔から、年相応のものになる。
 「ミルキィユ将軍」
 「はい」
  ミルキィユ、と発音する声が、噛み含めるようにやさしい色を帯びていて、チャトラは小さく驚く。
  ……アンタ、こんなやさしい声も出せるんだ。
  途端に生来の好奇心が湧いて、さらに首を伸ばして覗き見始めようとしたところを、見通していたのだろう。男の手がチャトラの首根っこをぐいと引き、己の胸元に押し付ける。
 「テメ……」
 「あれはどうした」
  放せ、のチャトラの抗議は、男の声に被せられて消えた。
 「あれ――とは」
 「虎」
 「ああ、」
  短い皇帝の問いに、合点が言ったように女は頷いて、
 「置いてきました」
  顔を引きしめた。
 「ほう」
 「都もまた、あちらこちらから煙がくすぶりそうな気配。お迎えいたしますのに少しばかり物騒でしたので、よく目を光らせておくように言い置きました」
 「ふむ」
 「虎」というのもまた、男が日頃自分を指して「猫」と表すのと同じように、誰かを指した言葉なのだろう。目まぐるしく変わる会話に聞き耳を立てながら、チャトラはそう分析する。
 「三補佐は」
 「変わらずお待ちしております」
 「――ふむ」
  聞くだけ聞くと、徐に男は肩を竦め、会話を打ち切る姿勢を示した。
 「詳細は後で聞く。小言も――後回しで良いかね?」
 「……承知しました。あとで小言はたっぷりと」
  こういった会話に慣れているのか、女も笑って頷くに留めた。
 「この後いかがなさいます」
 「君と向かい合うには、私は少々血で汚れてしまっているようだ。あちらに湖畔が見えていた。流してこよう」
  やれやれと男が掻きあげた髪は、血糊に固まり始め、確かにこのまま放っておくと大変なことになりそうではある。
  手を伸ばしてチャトラは、ごわごわした男の髪を掬った。
  そう言えば車から投げ出された瞬間、男がためらいもなく自分の上に覆い被さったことを、今更ながら、実に今更ながら彼女は思い出す。
  ――……庇って、くれたのかな。
  上目で眺めても、押し付けられた胸元から眼に入るのはせいぜいがところ男の喉ぐらいのもので、その表情は知れない。
  ずるいとふと思う。
 「陛下」
 「うん、」
 「ひとつだけ、よろしいですか」
 「何かな」
  唇を尖らしているチャトラを、見ずとも男は気付いていたのだろう。喉奥で低く笑いながら、彼女の頭を無造作にぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、そうしてミルキィユに答える。
 「この度の休暇」
 「うん」
 「ひとえに、くすぶりを誘発させるために皇都より離れられましたか」
 「――さぁ」
  どうだろうね。
  どちらともとれる笑みだけ残して、男は立ち上がる。
  それきり、今度こそ会話を打ち切った。


(20100506)

最終更新:2011年04月28日 22:47