突然、しゃがみ込んだチャトラとアウグスタの上から冷徹な声が降る。
驚いて見上げたチャトラは首根っこを掴まれて、軽々と持ち上げられていた。
そのままつかつかと回廊を運ばれる。
「ちょっ……」
不意打ちに虚を衝かれて、怒るタイミングを逃す。その彼女の懐へ無遠慮に手を差し込んで、
「セヴィニア公」
咎める声が背後より追うアウグスタから発せられた。
その声が聞こえているだろうに、振り返ることなく足を運ぶ男は、チャトラの脳内には既に「気に食わない」男としてインプットされている。
「な……にすんだよッ」
そこで我に返り、チャトラは無茶苦茶に暴れ始めた。
そもそもアウグスタといい、この背後の男といい、ひょいひょい猫の子のように吊り下げるのはいかがなものかと思う。
痩せぎすな身体がこういうときは恨めしい。
「手癖の悪さは――育ちか」
「放……せ!」
唸るとそこで放り投げるように床へと解放され、
「返せよ!」
いつの間にか懐に忍ばせていた、彼女の大切な『収穫』が抜き取られている。
商人風の男から抜き取った金入れ。
獲物の身なりに比例して、ずしりと重かった。
そうしてもうひとつの紙包み、先ほどチャトラが男に手渡そうかどうか逡巡して、結局言い出せずに終わったもの。
「テメェ、それはオレのだ!」
掴みかかった身体をすると交わされ、挙句高い音を立てて頬を張られた。
容赦の無い一張りに、目の前を星が散る。
「喚くな、やかましい」
「返せよ!!」
この男が、何故チャトラを掴んで移動したのか、意図に気づいて彼女は唸った。
自身の喚く声を、物音を、居室で休む皇帝に聞かせないためだ。
それはきっと、皇帝その人の身体を慮ったためではなく、
「セヴィニア公」
もう一度呼び止めたアウグスタへ、セヴィニアと呼ばれた男は、冷血質な視線を向けた。
「何か」
声も同じように冷えていた。
「お嬢ちゃ……この娘の成した行為が、褒められたことでは決して無いとは言え、公の行動は横暴に過ぎよう」
追いついたアウグスタが、立ち上がりかけたチャトラへ手を貸そうと伸ばす。妙にそれが腹立たしくて、振り払い、彼女はよろめきながらひとりで立ち上がった。
口の端を切ったのか、鉄錆の味がする。
「横暴、な」
語尾を繰り返してセヴィニアはうっすらと笑いの欠片を頬へ上らせて見せた。
「では逆に問う」
「――何か」
いつの間にか、チャトラを庇うように立つ大柄な男の背筋が伸びている。
感じられるのは威圧感。
先の、同じようにしゃがみ込んでいた人懐こさは、今のアウグスタのどこにもない。
「公は――何を考えておられるのかな」
「何、とは」
「皇宮には皇宮の、相応しい立ち居振る舞いと言うものがある。その基礎すら理解していない獣を、御身の一存で部屋から出し、加えて皇帝陛下のおわす居室へ、どこの馬の骨とも判らないそれを導き、あまつさえお疲れである玉体へ更なる負担を強いる。……これを横暴と言わずして、何を横暴と言うのだ?」
「ちょ、っと……待てよ。アウグスタのおっさんは何もしてねぇだろ」
「
おまけに、臭い」
僅かな時間とは言え、ここへきて初めて彼女の話を丹念に聞き、人並みに扱ってくれたのはアウグスタだ。
――悪いひとじゃない。
単純と言わば笑え。
彼女はそう判断した。
その男が責められることに我慢がならずに、思わずチャトラが口を挟むと(そもそもがチャトラと男のやり取りの途中であったので)、眉をひそめ、汚物を眺める目つきで返された。
手にした『収穫』の紙包みを無造作に開くと、床へ投げ捨てた。
ばらりと包みから零れ落ちたそれは、チャトラが露店で購入した皇帝への、
「……ッ」
思わず伸ばした手で受け止めることができるはずもない。割と呆気なく、紙包みから炙った肉が転がり落ちる。
「臭気を撒き散らすな。不快だ」
昨日の別れ際に、覇気がなく見えた男への土産のつもりだった。
もっとちゃんと食べろよ、だとか小言を言いながら渡すつもりでいた、それ。
小言を言うきっかけもなく、男があまりにも憔悴していてまるで食べられる状態にないことは見て取れたから、結局渡しそびれてしまった、それ。
唖然としたチャトラの耳に、男の声が響く。
皇帝が自分の事を「拾った」と公言し、対等扱いされないことも相当理解に苦しんだが、
「どう言った経緯で、それがここに居る事が許されているのか知らぬが、躾のひとつもなっていない獣を、皇居内で身勝手に徘徊させるわけにも行くまい」
それ以上にこの男に獣扱いされることに我慢がならなかった。
かっと頭に血が上ったと認識するよりも先に身体が動いて、
「ほら」
小馬鹿にした声が耳元で聞こえて、したたかに後頭部を打ち据えられた。
瞬間息が詰まり、視界が暗転した。今度こそバランスを崩して、顔から崩れ落ちる。
「チャトラ……!」
アウグスタの声が何故か遠くに聞こえる。
耳鳴りがした。
「――言葉で勝てねば牙を向く。やはり”けだもの”だな」
だが。
言ってセヴィニアは、脳震盪を起こしかけたチャトラの胸倉を掴み、乱暴に引き摺り起こした。
「感謝するがいい」
「な……んだ……よ」
口が上手く回らずもつれたチャトラは、それでも気丈にぐらぐらする視線を、なんとかセヴィニアへと合わせる。
「陛下のお召しとあれば、放逐する訳にも行かぬ。私の遠縁としてしまった責任もある」
「公!」
「覚えておけ。ここにはここの規律がある。お前がここに居座るつもりでいるのならば、最低限のそれを身に付けることだな。異論は認めない。嫌なら出て行け」
「ち、く、しょ……」
畜生。
悔し涙を滲ませて、チャトラは小さく唸った。