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                  *


  いつ自失していたのか知らない。
  次に目を開いたときは、見飽きた寝室の緞帳の模様が真っ先に飛び込んだ。
  見慣れた、とは言いたくはない。
 (――ああ。また)
  また。
  生かされたのだと知って、薄らぼんやりとした絶望感と全身を襲う虚脱感に、男は深々と溜息を吐き出した。
  知らず強張っていた体を、改めて寝台へ沈める。
  洗い張った敷布の糊の利いた香りを感じながら、男は天蓋を眺めた。
  気を失う痛みは久しぶりだ。
  このところ、比較的体の調子が良かったので高をくくっていたのが、どうやらよろしくなかったらしい。医師から、口を酸くほどに繰り返し言われ続けてきた薬湯を飲む習慣ですら、面倒で、何度か飛ばしたように思う。
  あまり覚えていない。
  そもそも、普段の刺激の少ない生活を過ごしていてさえ、男の心の臓は時折不満を訴えるのだ。馬車での移動とは言え、隣街からの峠を越える数日の移動に、真っ先に根を上げたのだろう。
  年々その具合は重くなる。
 (やれやれ)
  枕元に置かれた水差しへ手を伸ばすと、視界に入るのは可否を待つ書類の束。こんなところにまで押し寄せている。
  不愉快になるには草臥れすぎていて、それも叶わなかった。
  エスタッドは、皇帝を頂点とした独裁政治国家である。
  もちろん一人ですべての業務は到底こなせないから、補佐官であるとか、形ばかりとは言え議会も存在する。
  けれどやはり最後の審査、国の大事ごとを決裁するのは飽くまでも皇帝である男の仕事で、彼の認可なしには、物事のほとんどが進まないシステムになっている。
  そういう仕組みに男が成した。
  頭の中で図面を引いて、策を巡らせることは嫌いではない。完読した蔵書軍籍を数えれば恐ろしい量になる。
  とはいえ。
  男に課せられたものは、とんでもない仕事量だ。
  人間が一日にこなせる仕事を優に超えている。
  殺す気か、と以前。雑談交じりに不服を唱えたら、補佐官に、殺す気だと半ば真剣な顔で返され憮然するしかなかった。
  そんなことを思い出す。
  詰まれた書類は見なかったことにして、体を少し起き上がらせると、部屋の隅に控えた侍従が勝手知ったる無表情で、男に手を貸し背中へ膨らませた羽枕をあてがう。
  絶妙のタイミングで水を注がれたグラスが、男へ差し出された。
  受け取り、口をつける。
  合図のように寝室の扉が控えめにノックされ、「何か」と問いかけた侍従が全ての言葉を言い切らないうちに、ものすごい勢いで扉が開かれた。
  ばぁん。
  音で表すならばまさにそれ。
  弾かれるように開いた扉から、ちりちりと鈴の音とともに小さな体が転がり込んでくる。
  怒り狂っていた。
 「勝手に寝込んで清清しく次の日迎えてんじゃねぇよこのクソが!!」
  目をやらずとも容赦のない悪態で判る。
  チャトラ以外にいるはずもない。
  掴みかかるばかりの勢いで、彼女は男の寝台に半ば乗り上げた。
  心配してきてくれたのかな、だとか冗談めかして何かを言いかけた口が、途中の形で止まった。
  変わりに口の端がにぃと、上がるのを自覚する。
  面白い。
  かつて男が寝込んだ寝室に、こんな勢いで怒鳴り込んでくる輩がいたかどうか?
 「こっち見ろよ聞いてんのかオイ!今何時だと思ってるんだ、あぁ?」
 「何時――なのかな」
 「んなこたぁどうでもいいんだよ!何時だって構わねぇんだよ!言葉のあやだよ!」
  これはかなり腹を立てている。
  まだ安定しない視界の中で、チャトラをぼんやりと眺めながら、男は自身の口が意識せずとも動くのを知った。
 「何が、」
 「あったのかじゃねぇ!アンタ昨日、街で別れるときに、ここのとんがった塔目指して来いと言ったろ!入り口には話をつけておくとか何とかほざいてやがったよな!」
 「ああ――……言ったね」
 「話も何も、入り口のおっさん共なあぁぁんも聞かされてねぇじゃねぇかよ!阿呆か!オレどんだけおっさんと、通せ通さないの押し問答したと思ってるんだよ?おかげで……わぶ」
  さらに言い募ろうとするチャトラの首根っこを文字通りつかんで、背後の手が彼女を宙にぶら下げた。
 「オイオイ。元気なお嬢ちゃんだな」
  呆れた重低音。見なくても分かる。
  三補佐の一人、アウグスタ、だ。
  日がな一日座り放しが多い室内業務に、まるで似合わない巨躯。背丈と幅だけで言うならば、皇帝の直属護衛ディクスを超えるかもしれない。
  反比例して性質は以外に穏やかだ。
  恐らくアウグスタが、チャトラをここまで連れて来たのだろう。怒りまくった様子からして、どう好意的に見積もっても、先の扉をチャトラが「控えめにノック」したとは思えない。
  何が楽しいのか、アウグスタは陽質な笑いを浮かべながら、吊ったチャトラを目線の高さに持ち上げた。
  もう片方の手で、彼女の口を塞いでいる。
  大きな手のひらは、チャトラの口元どころか顔半分をすっぽりと覆って、これでは喚き立てようにも発音できないに違いない。
  怒りのままにもがき暴れるチャトラの動きに、その腕はびくともしなかった。
 「……お嬢ちゃん」
  噛み付きそうな顔のチャトラにじっと目を据えて、アウグスタは含めるように一語一語発する。
 「皇帝陛下に怒鳴りつける姿は勇ましいし、微笑ましいし、日頃の鬱憤を思うと正直胸がすく思いだが、喚きたいなら外に行け。ここは寝室だ。寝室は静かにするものだ」
 「……ッ」
 「二度は言わせるな。判るか?判れ」
  言って、それからアウグスタは彼女を床に下ろす。開放されたチャトラは未だ怒り収まらない調子で、ぎらぎらとした視線を思わず傍観してしまった男に向けてきたが、歯軋りしつつもとりあえず、騒ぎ立てることはやめたようだった。
 「で」
  興味を覚えて、火に油を注ぐ結果になるかと半ば思いつつも、男は身を起こす。
 「どうやって入り口を通してもらえたのかな」
 「……。ヒゲ」
 「髭」
 「……陰険な。顔の。ヒゲ男」
 「髭――」
 「セヴィニアが娘を見つけたようですな」
  鸚鵡返した男へ、補足するつもりなのか、アウグスタが口を挟む。
  大雑把な彼でも、さすがに男への口調は少し改まったものとなった。
 「――セヴィニア」
 「入り口へ話をつけたのも、この娘の身元を『思い出した』のも、彼が行ったようです」
 「ほう」
 「なんか小せぇ部屋に連れてかれて。窓もなくて。外も見えないし、部屋の入り口には物騒に武器構えたおっさんが立ってるし。牢屋かと思ったし。俺、アンタにだまされてここまで連れてこられて、やっぱ売られるのかとか思ったし。とか思ったら、ヒゲ男が急に俺のこと遠縁の娘だとかなんか言い始めるし。俺意味が判らなくて、違うって、こんなヤツ知らないって言ったら、問答無用で頬張られるし」
 「ほう」
  三補佐の一人、冷酷な鉄面皮を思い出して男がゆっくりと頷く。
  セヴィニアならば、言い聞かせるためにそれぐらいはやるだろう。
 「数発ブッ叩かれて、このおっさんに引っ張り出されるまで閉じ込められてて、俺、また、」
  言いかけて、そのまま不機嫌に口を噤み、チャトラが床に視線をそらす。
  それでも男には、彼女が言いかけた言葉がよく判った。
  ――縛られたりつながれたりするのかと思った。
 「怖かった――のかな」
  言葉が口を衝いて出ていた。何故かは判らない。
 「怖くなんか」
  ねぇよ、すぐに反発しかけたチャトラに手を伸ばして、男はその痩せぎすの体を引き寄せる。
 「怖かった?」
 「怖くねぇって言ってんだろアンタちったぁ人の話を聞け!」
  悪口を叩きながら、それでも割と大人しくチャトラが男の胸に収まっているのは、怖かった……と言うよりは不安であったのだろう。
  その先入観を誰が植え付けたか。考えるだけ本末転倒である。
  そうして男は己の行為に疑問を抱かない。
 「皇帝」
 「うん、」
 「……遠縁って何の話なんだよ?オレ、あんなおっさんに親類にはいねぇし。親類っていうか……そもそも、親兄弟もいないんだぜ?オレ」
 「一人だと――言っていたか」
 「一人だよ。家族とか。そんなもん……ねぇよ」
 「――お前の親はどうしたのかな」
 「さぁ」
 「知らない――?」
 「親代わりに育ててくれたヒトはいたけど。そのヒトが言うには、日暮れの広場に一人でウロついてたって。丁度、近場の町から流れの一座が何組かきてたから、その中のどの組からはぐれたんじゃないかって、そう言っているのを一度聞いた。……けど、あんまり深く教えてくれなかった。要は口減らしだったんだろ。捨てられたんだよ」
 「探しには来なかった」
 「来るわけねぇだろ。まだ三つ四つのガキだぜ?日銭も稼げない、身体も売れない、負担にしかならない。邪魔だったんだろ」
  あっけらかんと語るチャトラの瞳に、悲壮感はない。
 「なるほど」
  頷いた男はまたゆるゆると枕から体を落とし、寝台へ沈める。
  視界が明滅していた。
 「アンタ……具合、悪ぃの?」
  男の不調にそこで初めて気が向いたようで、チャトラが瞬間ためらい、それからおずおずと男へ視線を絡めた。
  勢いは鳴りを潜めていた。
 「大したことはない――が」
 「……そっか……そうだよな。ああ、ごめん。オレもう行くわ」
  妙に控え目になって、それからチャトラがもじもじと懐を探りかけ――諦めたようにその手を脇へ落とした。
 「――猫?」
 「や。なんでもない」
  何か胸元に忍ばせていたのだろうか。
  興味が湧いて訊ねてみたかった。けれど、想像以上に身体の疲弊が激しくて、男は自身の唇すらすでに満足に動かせないことに、ふと気がついた。
  閉じたくもない瞼が勝手に落ちて、たちまち不愉快な闇が意識を覆ってくる。睡魔では決してありえない、気絶のようなその途絶え方は酷く嫌いだ。
  何一つ思うままに行かない身体に苛々としながら、男の意識はとうとう暗転した。


  ――最後に、猫が息を呑んだ音を耳にした気がする。

                    *

  眠りに就いた、と言い表す気にはとてもなれないような寝入り方した皇帝に、何も言えなくなってチャトラはそのまま、部屋を出た。
 「お嬢ちゃん」
  大きく息を吐いて、次いでへなへなと床に座り込む。
  緊張が、解けた。
  そのチャトラに大して驚く様子も無く、男が興味深げに覗き込んでくる。
  目線を合わせてくれているのか、同じようにしゃがみ込んでいた。
  アウグスタ。
  皇帝にそう呼ばれていたはずだ。
 「どうした」
 「……びっくりした」
  男の視線は存外温かいものだったので、チャトラも本心をそのまま口にした。
 「陛下に?」
  うん。
  頷いて額に掛かった前髪を掻き上げる。今頃になって汗が滲み出ていた。
 「アイツ……あー、えっと……あのひと、どこか身体悪ィの?」
 「ああ、」
  聞かされていないのか。
  心得顔で頷いて、アウグスタがぽんぽんと彼女の頭に手を置いた。
 「どう見たって不健康そうな顔してるから、どっか悪ィんだろうなとは思ってたんだけど」
 「ああ、」
 「本当はさ」
  しゃがみ込んだまま、独白するようにチャトラはぼつ、と呟いた。
 「オレ、会ったらアイツの顔何発かブン殴ろうとか思ってたワケね。あのいつでも澄ましてお綺麗な顔にアザ作ってやるのも面白いかな、なんて」
 「過激だな」
 「うん」
  でも。
  勇んで飛び込んだ部屋にいた、寝台の上の男は、羽化したての蜉蝣のように真っ白で。
  光に透き通った栗色の髪に縁取られた顔は、硝子細工か淡雪のように儚くて、とても殴り倒す雰囲気ではなかった。
  目の前の巨漢のような男だったなら、チャトラは躊躇いもなく拳を叩き込んでいただろうけれど。
  ちら、と流した側付きの侍従の視線が、言葉を発することすら咎めているように感じて、無理やり怒りを掻き立ててチャトラは怒鳴ったのだった。
  怒鳴らなければ、そのまま。
 「回れ右して逃げようかと思った」
 「どうして」
  可笑しそうに含み笑ってアウグスタが訊ねる。
 「ひとが弱っているのを見るのは、好きじゃない」
  顔を歪めてチャトラは吐き捨てた。
  押し埋めた記憶が疼くから。
 「昔、すげぇだいじなひとが居てさ」
 「ああ」
 「さっき話してた、オレのこと、拾って育ててくれたひとなんだけど」
 「ああ」
 「ある日突然帰ってこなくって、発見されたときは冷たくなってた」
  帰ってこない。
  それは純粋な恐怖だった。

  ”どうして帰ってこないのかな。”
  ”何かあったのかな。”
  ”オレのこと要らなくなったのかな。”

  朝日の差し始めた部屋の空気は饐えていて、その中で膝を抱えて何時までも待っていた。
 「亡くなられたのか」
 「殺されたんだ」
  あの客は危ないと、確かに金離れは良いし上客だが、何をしでかすか判らないと、そう押し止めようとした周りに笑って出掛けたあのひと。
 「血の気の抜けた真っ白な顔をして、路地裏に転がってた」
  丁度、寝台の上の男のような顔色で。
 「……陛下は、生まれつき心臓が悪い」
  うな垂れて膝の間に頭を埋めたチャトラの上に、アウグスタの声が降る。
  気を惹かれて顔をあげた。
 「心臓?」
 「ここだな」
 「判るよ」
  大きな拳を中央より少し左寄りに当てたアウグスタへ、チャトラはうんとひとつ頷いて見せた。
 「医者の受け売りなんだが、大雑把に言うと心臓と言うものは、右と左に部屋が分かれているんだそうだ」
 「うん」
 「全身を巡った血液が心臓に片側の部屋に到達し、そこからまた押し出されて全身に巡り、もう片側の部屋へ流れ込む。詳しい仕組みは忘れたが、そうして体のいたるところへ空気だとか栄養だとかを送り込む」
 「うん」
 「陛下は、その隔壁に、穴が開いているのだそうだ」
 「心臓の?」
 「そう。心臓の」
  それって。
  しゃがんだまま、天井を見上げそれから床を見下ろし、アウグスタの言葉を頭の中を整理していたチャトラは、しんと真面目な顔をした。
 「それって、すげぇ大ごとなんじゃねぇの?」
 「大ごとだな。生れ落ちて直ぐに、医者から十まで保たないと宣言されたそうだが」
 「アイツ、今いくつ?」
 「三十と四」
 「ふぅん」
  頑張ってるんじゃんね。
  一人語散る。
  それから、
 「ああ」
  腑に落ちて頷いた。
 「だからダインのおっさん、あんなにすげぇ剣幕でオレのこと皇帝から引き離したんだな」
 「ダイン卿?」
  アウグスタはもちろん、チャトラの出自を知らない。
 「オレね、アイツの懐、狙ってたの」
 「懐……?」
 「うん」
  鸚鵡返したアウグスタへそのまま頷きながら、チャトラは指先を特徴的な形に結んで見せた。
  鈎針に模したその形は、巷で言うところの、
 「掏模なのねオレ」
  悪びれるつもりも無い。
  彼女の生きてきた世界には、掏模稼業が悪いだとか言う『良識』は存在しなかったからだ。
 「お前がか」
 「うん。身なりの綺麗なカモが来たなって近付いたんだけど。肩ぶつけるよりも先に、ものすっげぇ勢いでダインのおっさんに捕まってたな」
 「ああ……、」
 「身体、ぶつけたりしちゃあ心臓に響くんだろ?」
 「とても宜しくないな」

 「――成程」

  突然、しゃがみ込んだチャトラとアウグスタの上から冷徹な声が降る。
  驚いて見上げたチャトラは首根っこを掴まれて、軽々と持ち上げられていた。
  そのままつかつかと回廊を運ばれる。
 「ちょっ……」
  不意打ちに虚を衝かれて、怒るタイミングを逃す。その彼女の懐へ無遠慮に手を差し込んで、
 「セヴィニア公」
  咎める声が背後より追うアウグスタから発せられた。
  その声が聞こえているだろうに、振り返ることなく足を運ぶ男は、チャトラの脳内には既に「気に食わない」男としてインプットされている。
 「な……にすんだよッ」
  そこで我に返り、チャトラは無茶苦茶に暴れ始めた。
  そもそもアウグスタといい、この背後の男といい、ひょいひょい猫の子のように吊り下げるのはいかがなものかと思う。
  痩せぎすな身体がこういうときは恨めしい。
 「手癖の悪さは――育ちか」
 「放……せ!」
  唸るとそこで放り投げるように床へと解放され、
 「返せよ!」
  いつの間にか懐に忍ばせていた、彼女の大切な『収穫』が抜き取られている。
  商人風の男から抜き取った金入れ。
  獲物の身なりに比例して、ずしりと重かった。
  そうしてもうひとつの紙包み、先ほどチャトラが男に手渡そうかどうか逡巡して、結局言い出せずに終わったもの。
 「テメェ、それはオレのだ!」
  掴みかかった身体をすると交わされ、挙句高い音を立てて頬を張られた。
  容赦の無い一張りに、目の前を星が散る。
 「喚くな、やかましい」
 「返せよ!!」
  この男が、何故チャトラを掴んで移動したのか、意図に気づいて彼女は唸った。
  自身の喚く声を、物音を、居室で休む皇帝に聞かせないためだ。
  それはきっと、皇帝その人の身体を慮ったためではなく、
 「セヴィニア公」
  もう一度呼び止めたアウグスタへ、セヴィニアと呼ばれた男は、冷血質な視線を向けた。
 「何か」
  声も同じように冷えていた。
 「お嬢ちゃ……この娘の成した行為が、褒められたことでは決して無いとは言え、公の行動は横暴に過ぎよう」
  追いついたアウグスタが、立ち上がりかけたチャトラへ手を貸そうと伸ばす。妙にそれが腹立たしくて、振り払い、彼女はよろめきながらひとりで立ち上がった。
  口の端を切ったのか、鉄錆の味がする。
 「横暴、な」
  語尾を繰り返してセヴィニアはうっすらと笑いの欠片を頬へ上らせて見せた。
 「では逆に問う」
 「――何か」
  いつの間にか、チャトラを庇うように立つ大柄な男の背筋が伸びている。
  感じられるのは威圧感。
  先の、同じようにしゃがみ込んでいた人懐こさは、今のアウグスタのどこにもない。
 「公は――何を考えておられるのかな」
 「何、とは」
 「皇宮には皇宮の、相応しい立ち居振る舞いと言うものがある。その基礎すら理解していない獣を、御身の一存で部屋から出し、加えて皇帝陛下のおわす居室へ、どこの馬の骨とも判らないそれを導き、あまつさえお疲れである玉体へ更なる負担を強いる。……これを横暴と言わずして、何を横暴と言うのだ?」
 「ちょ、っと……待てよ。アウグスタのおっさんは何もしてねぇだろ」
 「おまけに、臭い」
  僅かな時間とは言え、ここへきて初めて彼女の話を丹念に聞き、人並みに扱ってくれたのはアウグスタだ。
  ――悪いひとじゃない。
  単純と言わば笑え。
  彼女はそう判断した。
  その男が責められることに我慢がならずに、思わずチャトラが口を挟むと(そもそもがチャトラと男のやり取りの途中であったので)、眉をひそめ、汚物を眺める目つきで返された。
  手にした『収穫』の紙包みを無造作に開くと、床へ投げ捨てた。
  ばらりと包みから零れ落ちたそれは、チャトラが露店で購入した皇帝への、
 「……ッ」
  思わず伸ばした手で受け止めることができるはずもない。割と呆気なく、紙包みから炙った肉が転がり落ちる。
 「臭気を撒き散らすな。不快だ」
  昨日の別れ際に、覇気がなく見えた男への土産のつもりだった。
  もっとちゃんと食べろよ、だとか小言を言いながら渡すつもりでいた、それ。
  小言を言うきっかけもなく、男があまりにも憔悴していてまるで食べられる状態にないことは見て取れたから、結局渡しそびれてしまった、それ。
  唖然としたチャトラの耳に、男の声が響く。
  皇帝が自分の事を「拾った」と公言し、対等扱いされないことも相当理解に苦しんだが、
 「どう言った経緯で、それがここに居る事が許されているのか知らぬが、躾のひとつもなっていない獣を、皇居内で身勝手に徘徊させるわけにも行くまい」
  それ以上にこの男に獣扱いされることに我慢がならなかった。
  かっと頭に血が上ったと認識するよりも先に身体が動いて、
 「ほら」
  小馬鹿にした声が耳元で聞こえて、したたかに後頭部を打ち据えられた。
  瞬間息が詰まり、視界が暗転した。今度こそバランスを崩して、顔から崩れ落ちる。
 「チャトラ……!」
  アウグスタの声が何故か遠くに聞こえる。
  耳鳴りがした。
 「――言葉で勝てねば牙を向く。やはり”けだもの”だな」
  だが。
  言ってセヴィニアは、脳震盪を起こしかけたチャトラの胸倉を掴み、乱暴に引き摺り起こした。
 「感謝するがいい」
 「な……んだ……よ」
  口が上手く回らずもつれたチャトラは、それでも気丈にぐらぐらする視線を、なんとかセヴィニアへと合わせる。
 「陛下のお召しとあれば、放逐する訳にも行かぬ。私の遠縁としてしまった責任もある」
 「公!」
 「覚えておけ。ここにはここの規律がある。お前がここに居座るつもりでいるのならば、最低限のそれを身に付けることだな。異論は認めない。嫌なら出て行け」
 「ち、く、しょ……」
  畜生。
  悔し涙を滲ませて、チャトラは小さく唸った。


(20100829)

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最終更新:2011年07月11日 10:24