大きく伸びをした弾みに窓の外から呼ばれた気がして、勢い、出窓を大きく開け放って顔を出す。腕まくりをしたふくよかな女が数人、笑いながら彼女を呼んだのである。
「おばさん」
「トラ坊、今日も仕事を頼んでもいいかね」
「いいよ」
頷いてチャトラは繕い途中だった針を丁寧にしまって、そのまま窓からひょいと体を乗り出した。セヴィニアあたりに見咎められたら、厄介なことになりそうな行為ではあるが、幸い補佐官の目はほとんどこの区画へ向くことはない。
ここは皇宮の中でも、エスタッド皇の生活空間に当たる。
私生活へみだりに足を踏み入れる真似は、仮令三補佐であろうとも許されるものではない。権限として許可されていたとしても、人一倍規律を重んじる傾向にあるセヴィニア補佐官である。ほぼ十割の確率で、この区域へは遠慮した彼の監視の目は届かない。
正直、大変に苦手意識のあるセヴィニアから逃れられる場所があることが、チャトラにはありがたかった。
「アンタ、軽業か何かで陛下に取り入ったのかい」
ひょいと身軽に飛び降りたチャトラに、驚きと感嘆の入り混じった顔で女たちが言った。
確かに、彼女たちの体で同じ行動を起こすのはおそらく無理だろうとは思うが、
「なんで?」
「中二階から飛び降りる莫迦は、いけない事を企んでるヤツか軽業師と相場が決まってるのさ」
「オレ、どっちでもないよ」
「判ってるさね」
そう言って中年の女はおかしそうに笑った。
踵を返す彼女等に後に小走りで付いて行きながら、チャトラは尋ねる。
「何すんの」
「今日は敷布がえらくたくさん出てきてね。一人でも人手が欲しいって言うのに、そこいらでヒマそうに突っ立ってる兵士たちゃ手伝いやしない。まったく何をしているのか判ったもんじゃないね」
「見張りしてんだろ?」
皇宮の警護だと聞いた。確かにあちらこちらに配備されている数は、やや多いような気もしたし、そのうち半数以上は「見張り」だとか「警備」には程遠い、締まりのない顔をしていたが、
「突っ立ってるだけじゃあ、そこいらの柱と変わらないさ」
女の一人が言い切った。
酷評である。
「それなりに役に立ってねぇの?」
「どうだか」
割と本気で吐き棄てる。それを横目で眺めて、
「嫌われたもんだな」
チャトラは苦笑いした。
「役立たずは嫌われるってね」
「陛下がああなったのも、護衛の兵士が、お側にいなかったからと言うじゃないか」
「トラ坊はもう見たかい?」
一つ尋ねると連鎖反応で口々に言い募るので、会話には事欠かない。
「見た、って」
「陛下の腹の傷さ」
「ああ……見たよ」
チャトラは頷いた。
あの浴場以来、まじまじと眺めたことはなくとも、同じ部屋で寝起きしていればそれとなく目に入る。全く陽に焼けていない青白い肌に、抉れ、引き攣れたままの傷跡は妙に生々しい。
雨が降ると疼くのか、無意識に右腕を庇うように体の前へ回す癖にも気付いた。
男が、そのなよとした風体に反して、ほとんど無感動的に理論主義者であることも、
仕事から戻ると小一時間は、思考の切り替えができずに、強張った顔を見せるということにも、
そっけない物言いにも、慣れた。
「執務区域でね」
「柱の陰から襲われたって言うじゃないか」
「妹君を立ててね」
「幼い本人は何も知らなかったそうだろう?」
「ディクス卿はいなかったかい」
「あの日あの方はいらっしゃらなかったらしいよ」
「あの方がいたらねぇ」
黙って言葉の端を拾って状況を読もうとするチャトラは、その言葉にディクスの顔を思い浮かべる。
「あのひと、強いんだ」
やっぱり。
隙のない視線と張りつめた空気。どうしてそこまで緊張を保てるのか、いっそ凄惨なほどに。ふと呟くとそりゃそうさ、とまた返される。
「あの方はこの王都一番の腕を買われて、皇帝陛下の護衛に就かれたんだよ」
「へぇ」
「もう二十年ほどになるのかねぇ」
「二十年」
一年そこらの風格ではないことはよく判っていたけれど、それにしても二十年同じ人間を護衛する任務を遂行できるディクスを、チャトラは思わず素で感嘆した。
何しろ自分の年よりも長い年月と言う物が、実感として湧かない。途方もない話だ。
エスタッド皇の背後に控える影のような男を、チャトラが思い浮かべなおしている間に、女たちの話題はディクスから再び皇帝に戻っている。
「お可哀想に、あの時陛下が生死の境をさまよっていたのは、ふた月?……み月だったかね?」
「み月近くになったと思うよ。その間皇宮はてんやわんやでね」
「いつお隠れなされるかーって、寄ると触るとその話だったっけね」
「不謹慎な話だよ。いつ崩御の半旗が上がるのかって、兵士たちは賭けていたって話」
「補佐官が葬儀の準備をしてたっていう話も本当らしいね」
「まったくお気の毒な話さ」
女たちのもの言いから、男が下働きのもの嫌われている訳ではないのだなと思う。
と言うよりも、直に接する機会を持たないのだ。遠目から眺めるだけならば、あの陶器の人形のような男は、憧れの視線でもって賞讃されているに違いない。
水面に映る玲瓏な月は、手を伸ばして水面は乱れても、その実態に触れ有ることはない。
側に仕える女官や侍従も似たようなものなのだろう。誰も男を直視しようとしないからだ。
……ここにいるのに。
チャトラにはそれが不思議だ。
そうして、洗濯場に到着すると、確かにそこは戦場であった。
洗う前の敷布が小高く積まれ、洗いあげられた敷布もさらに積まれ、その山の間を忙しそうに女たちが動き回っている。チャトラを呼びに来た数人も現場へ戻るとさて、と腕まくりをし直し、
「トラ坊」
「うん」
「アンタ、片っ端から洗ったヤツを干して行っておくれ」
「わかった」
皺にならないように糊付けされ、軽くたたまれた敷布を、洗濯場に張り巡らされた紐にひたすら掛けるという作業を始める。チャトラの背丈では洗濯紐に届かず、足場を持ちながら彼女は移動した。確かに一枚二枚ならどうと言うこともないのだろうが、それが小一時間に及ぶとかなりな労働だ。額の汗を拭き、丁寧に指先で皺を伸ばし、空を見上げる。四方を建物に囲まれ、切り取ったような洗濯場の空から、それでも燦々と日光が降り注ぎ、
「よく乾くだろうな」
一人語散た。
晴れた日に、洗濯物を干すという行為が好きだ。
汚れていた衣服が、揉まれ叩かれ擦られて汚れを落とされてゆくのを見るのも好きだ。真っ白に洗い上げられて風にはためく様は壮観だと思う。
濡れていたそれらが芯まで乾いて、取り込んだ山の中に埋もれるのも大好きだ。
太陽の匂いがする、と言うと女たちが笑った。
終えると、正午を回っていた。
親切な女たちの勧めで、そのまま昼食を一緒に流し込んだ。薄いスープと固い黒パン。チーズが何欠片。皇宮と言ったところで、下働きに供される食事はそれだけのものだ。チャトラには、よく馴染んだ味だった。
食事の礼を言うと、却って女たちから口々に礼を言われ、
おまけに両手に抱え切れないほどのリンゴを持たされた。ありがたく頂くことにする。
部屋へ戻ることにして回廊を小走りに戻っていると、
見なれぬ区画へ足を踏み入れていた。
あれ、と呟き辺りを見回す。
静まり返っている。
男の住まう生活空間を目指していたはずなのに、どこかで曲がる所を間違えたらしい。皇宮は広すぎて、未だにチャトラは把握できていない区画が大部分だった。
継ぎ足した部分や増築した部分があって込み入っている訳ではないので、造りを覚えてしまえば楽なのだろうとは思う。最初から計画的に設計された皇宮は、蜂の巣のように理路整然としている。真ん中に尖塔。それをぐるりと囲む形で幾つかの区域に分類されているのだが、その同じような造りが、今のチャトラには徒になった。
足を止めて辺りをもう一度伺った。このまま進んで男の居室に辿り着くものかどうか、それとも戻った方が無難だろうか。
ただし、無意識に足を運んできたので、同じように元来た道を辿れる自信はなかった。
どうしようか。
小さく息を吐く。
いっそ近くに見張りの兵士でも巡回していると良かったのだけれど、あいにくこういう時に限って人気がない。
と言うより、この区域に人の生活臭がない。
使われていない部屋――例えば何がしかの行事の時だけに使う小部屋だとか、倉庫の役割を果たして、取りあえず荷物を積み重ねておくような部屋――なのだろうか。
僅かに逡巡したものの、時間が押している訳でもなし、いっそ知らない区画の探索も良いかと、チャトラはそのままぶらぶらと進むことにした。昼食は済ませたし、男は夕刻まで部屋に戻らない。今日やるべき男の身の回りの支度は既に終えていたし、繕い物は急ぎではなかった。強いて言うなら男に課せられた朗読の練習がまだ少し残っていたが、道草をして充分間に合う。
薄紫の大理石の回廊の上に、土足で歩くには気が引けるほどの、何層にも織られた幾何学模様の絨毯。大人が腕を広げて三幅ほどの通路の両脇に、薄紗と緞帳で仕切られた部屋がいくつも配置されている。
風が静かに吹く度に、はらはらと揺れる紗と、もったりと動く織布。布の重さで様々だ。
ふと、練り香水の香りがしたような気がして、チャトラは顔を上げた。
「……何者か」
上げた拍子に誰何がかかる。
きんと張りつめた硝子細工に罅が入ったような、擦れた中低音だった。
男だ。まだ若い。
違和感を感じたのは、顔の割に声が妙に老成したものだったからだ。顔の造成がどうだとか、チャトラはあまり評する趣味は持たなかったが、陽光を通さない黒い髪は綺麗だと思った。
こんな場所にいるということは、それなりに位のある役職か、あるいは兵士なのだろうか。
男の身体はエスタッド皇帝と同じくらいに細身で、武功を上げるほどの膂力があるようには、決して見えはしなかったが。
男の陰には隠れるように女が添っていて、それがまた蜉蝣のように細い。
こちらも同じようにどう言った経緯の者なのか、チャトラにはさっぱり判らなかったが、ただ風が吹けば飛んでしまいそうに、あえかな女だとは思った。少なくとも侍女と立ち話していた訳ではなさそうだ。
何者か。
もう一度尋ねられ、チャトラは首を捻る。男の言葉が判らない訳でも聞こえない訳でもなかったが、自分自身の立場を一体どう表したらいいのか、困ったからだ。
男の誰何が名を尋ねている訳ではないのは明らかで、けれどチャトラに役職はない。
「皇帝が自分を気まぐれに飼っている」
それが正しい表現なのかもしれないが、チャトラの自尊心として口に出すのは躊躇った。
まさか、
「しがない掏摸稼業の者です」
と言う訳にもゆくまい。
黙っていると不審に感じたのか眉を顰めた男が、つかつかと彼女へ向かってくる。その右手が腰の帯剣に軽く掛けられているのを見て、チャトラは二、三歩後退した。
「姫君のお命を狙う不届き者にも見えないが――、下働きの者はここへの出入りを禁じられている。知らない訳でもあるまい」
姫君。聞いてチャトラは一瞬ちらと男の背後の女へ視線を流した。なるほど透けるように頼りないのは、庇護され続けた立場だからだ。エスタッド皇帝に通じるものがある。
どこの姫君なのだろうと思った。
後退した背が柱にぶつかり、仕方なくチャトラは静かに威圧しながら近づく男を見上げた。
抱えたリンゴを投げつけてやろうかと一瞬考えて、やめておくことにした。
「それとも新入り……か?」
「新入りだよ。そう脅すなよ、ノイエ補佐官」
不意に響いた第三者に、チャトラも男もその声の主へ視線をやる。
ダインが立っていた。こちらも、若い女を一人連れている。たまたま通りがかった風情、と見えなくもないが、先程までの人気のなさを考えると意図的なものなのかもしれない。そう思った。
白い女だ。
銀と言うよりは白。髪も肌も真っ白な女にチャトラは見覚えがあった。
北の街から皇都へと移動の最中に襲撃されたあの場で、困ったようにエスタッド皇帝へ小言を投げかけた女だ。
この女も確かに透けるように白いのに、ノイエと呼ばれた男の背後に佇む「姫君」より、よほど存在感がある。存在感と言うよりは躍動感、生命のにおいがする、と表した方が、今のチャトラの感覚に、より近いかもしれない。
「ダイン卿。……ミルキィユ殿下」
「殿下はよせ。わたしは一隊を率いるただの駒に過ぎない」
呼ばれた女がひらひらと手を振り、苦笑しながらチャトラと男に近づいた。チャトラを眺めて未だ考える素振りを見せた男が、剣の柄から手を離し、ミルキィユに軽く腰を折る。
女の苦笑がますます深くなった。
「補佐官殿は堅苦しいな」
「生まれつき故お許し願いたい」
返した男が、気配でチャトラを指したのが判る。
「この者は」
「チャトラと言う。先日から陛下の身の回りのお世話をしている」
「……素性は」
「明らかだ」
「何しろあのセヴィニアの遠戚という話だからなァ」
「セヴィニア公の……なるほど」
女の背後から半ば茶々を入れるように重ねてダインが声をかけ、頷いた男が納得したように身を引いた。チャトラを眺め、緊張に強張る顔を見止めたのだろう、不意に頬を緩めて眉が下がる。
笑ったのだと遅れて気づいた。
「……驚かせてしまったな」
困ったような声は、老成したものから、年相応の若いものへと変化している。
「ここ最近、姫君の身辺に不穏な噂が流れていて、少々過敏になっていたんだ」
済まなかったね。
男はそう言って彼女の視線に合わせるように身を屈め、己を三補佐を務めるものだと名乗った。
ああそうか。
そこでチャトラは納得する。
皇帝の香いが僅かに漂った気がしたのは、仕事柄、男が皇帝と接する機会を持つからなのだろう。
三補佐。大柄なアウグスタと、鉄面皮のセヴィニアを思い浮かべ、目の前のノイエと名乗った男の顔を見た。他の二人に比べて随分と若い。
「その不穏な噂のことで、話があって貴方を探していた」
「……僕を?」
話題に出たのを幸いと、ミルキィユがノイエへと話を振り、あまり他には聞かせたくないのか、少し離れた回廊の隅でぼそぼそと何事かを言い合っている。
耳を澄ませて聞き取っても良かったのだけれど、それよりニヤニヤと柱にもたれながら笑うダインに気が行った。
「元気そうだな」
「アンタも」
見上げた男の顔は、あの日分かれて以来久しぶりに見る。人懐こそうな瞳が相変わらずだなと思う。
「皇都に連れてこられたってお嬢に聞いたから、寄って集って人形みてぇに小奇麗に飾り付けられているかと思ったんだが、相変わらず色気のない格好をしてるんだな」
「うん」
「男の装いじゃねぇか」
「うん」
言われてチャトラは自分の恰好を見下ろす。下働きの女たちや、皇宮内で働く侍女たちの装いではなく、ダインにも言われた「男物」、つまりは侍従と変わらない格好をしている。
事情を知る皇帝周りの数人の人間が、何とかチャトラに
「女らしい」
装いをさせようといっそ嫌がらせのように押し付けてきたが、断固拒否した。町の女が履くようなキルトですら身に着けたことがない。理由は単純で、動きにくいからである。ましてや、パニエを履くだとか、とんでもない話だと思った。
頼み込まれても嫌だ。大金を積まれたらさすがに考えるが。
裸でいる訳にはさすがに行かないので、男物を着ることにした。それでも「エスタッド風」なのかどうか、ひらひらと装飾が多いのが気に食わないが、妥協点だ。
自分でも怖いくらいに合っていると思う。
四肢の発育の悪さも相まって、どう見ても少年にしか見えない。おかげで、チャトラの経緯を知らない大人たち――たとえば洗濯場の彼女たち――は、彼女のことを少年だと端から信じて疑わない。
「似合うだろ」
「違和感がねェ」
「うん。女に見えない方が、いいんだ」
「そんなもんか?」
「たぶん」
それ以上チャトラは口にはしなかったが、男を取り巻く環境が、複雑であることは理解している。親と子ほどに、年の離れたエスタッド皇帝の部屋に寝起きするということがどんなことか、男の歓心を何としてでも得ようと画策する女たちが少なからずいることも、勘の良い彼女は頭でと言うよりは肌で理解している。
そもそもセヴィニアあたりは「風紀が乱れる」だとかなんとか、かなり難色を示したらしい。皇宮へ上げるなら上げるで、
「側室」
としての形態を取りたがっている節があったが、一連の元凶であるエスタッド皇帝の
「問題なし」
の一言に渋々口を噤んだようだった。きっと皇帝は何も考えていない。面白がっていただけだろう。
「ここ、どこ」
尋ねたチャトラに、ダインは若干渋い顔をした。
「お前な。ややっこしいところに首突っ込むんじゃねぇ。一体何の用事があってきたんだ」
「来たくて来た訳じゃねェよ。迷ったんだよ」
むっとしてチャトラは返す。言われなくても、戻るつもりだったのだ。
「皇帝の旦那は……あー、仕事か」
「午後まで会議」
「そうか。だよなァ」
ところで、あの人は誰。
言ってチャトラは、ノイエと話し込むミルキィユと、それから離れたところに未だ佇んだままの、人形のような女を顎で指した。
「白い方は俺の上官」
「上官」
へぇ、と見直す気持ちでチャトラはミルキィユを見た。えらく適当に見えて、目の前のダインが本気を出したら、自分では恐らく身を躱すこともできないだろうことは、最初の掏摸未遂で実感済みだ。その男をして従える彼女は、一体どれほどのものなのだろうと思う。
武勲ばかりが強さであるとは限らないし、年功序列、上下身分の差のある軍部で上に立つものが手練れである保証は勿論ないと言うことは、チャトラにも判るが、それにしてもある種の「強さ」がなければ、この目の前の男は誰に対しても膝を折らないような気がした。
確証はない。直感だけだ。
「きれいな、ひとだね」
であったから、見たまま思いついたことを口にした。言うと途端にダインの顔がにやけ崩れるのが判る。
「俺の」
「言ってろよ」
顎に手を当てて言い放つ男に、チャトラは肩を竦めて受け流した。
「……なァ?」
「なんだ」
「でんかって何」
「ああ……お嬢はあれでも旦那の血縁らしいからな」
「妹?」
「だな」
「……そうなんだ」
意外だと、思った。声に表れたかもしれない。ダインがちらとこちらを眺めるのが判った。
何故かは知らないが、何の疑いもなしに皇帝は天涯孤独なのだと信じていた。他を寄せ付けない雰囲気のせいなのかもしれない。
あの男は、全てを拒んでいる。
「向こうの吹けば飛びそうな女のひとは?」
「……吹けば飛びそうって、お前な」
臆面もないチャトラの言い草に今度こそ本気でダインが苦く笑った。
「ノイエ補佐官に聞かれたら引っ叩かれるぜ」
「…セヴィニアのオッサンに聞かれたら、引っ叩かれるだけじゃ済まねェだろ」
おそらくセヴィニアなら容赦なく拳が――下手をすると鞭でも飛びかねない。
ぎょっとした顔のダインに、割と純粋なのだなと思った。
「お前、そんなことされてんのか?」
「今は平気。あのひとが寝込んでた最初の一か月は、何度か食らったけど」
「食らったって」
「なんか、無礼を働いたとか、横柄だとかで、懲罰だって。ていうか、オレ、繋がれてたし」
私の遠縁の娘なのだから、それなりな立ち居振る舞いを身に着けてもらわねば困る。
這いつくばったチャトラの頭上からセヴィニアはそう宣言した。
皇宮と言うところは面倒なところだと思う。街の常識が通じない。素性のはっきりしない、手癖の悪さだけが取り柄の掏摸の小娘だと、いっそ周りにそのまま告げても、大差ない気がチャトラにはするのに、所謂
「建前」
が必要らしい。
セヴィニアの遠縁、と肩書が付いたところでチャトラの何が変わる訳でもない。だのに、今のノイエと言い、他の侍従と言い、その肩書一つを聞いて安心して引き下がる。
「あの補佐官殿の遠戚であるならば」
そう言う。
そんな大人たちが、チャトラにはとても可笑しいと思った。
……自分の目で見えるものを見ていないんだ。
男がやけに孤独に見えるのもきっとそのせい。
「おい、チャトラ」
不意に真顔になったダインが、顔を近づけ、声を潜める。
「お前、今は本当に何もされてないのか」
「何もって」
「だから、そう言った……、あー、殴るだの蹴るだの、繋ぐだの」
「ないよ」
今は。
応じるとそうか、と僅かに緊張を解いて男が溜息を吐いた。
「言えよ」
「言うって」
「何か嫌なことをことされたり、……されなくてもいい、されそうになったら、言えよ」
何とかしてやるから。
皇宮内の勢力事情に疎いチャトラには、目の前のダインと言う男がどの程度の実権を握るのか、どの程度の発言力があるのか見当もつかなかったが、言葉通りにきっと実行してくれるのだろうと思った。
「見返りがないのに親切な人は信じちゃいけないって、姉ちゃんが言ってた」
「おい」
「見かけによらず親切だよな、オッサン」
「俺はまだオッサンじゃねぇぇ……!」
「ありがとな」
口調とは裏腹に、小さく笑うと、今の言葉が冗談だということに気付いたのか、ダインががりがりと頭を掻いた。
一通りの話が付いたのか、ノイエとミルキィユが二人に向かってやってくるのが見え、チャトラは改めて向き直る。女はいつの間にか消えていた。
そのまま、皇宮内の造りを説明されながら、ノイエがチャトラの横に立ち、皇帝の生活居住区まで送り届けられる。もともと道覚えは悪い方ではない。説明を聞いているうちに、大体の構造が頭に入る。次はきっと迷わないだろうと思う。
ダインとミルキィユは中途まで後ろからついてきたものの、彼らは彼らで忙しいのだろう、じゃあまた、と手をひらひらと振り、回廊で別れた。脇のノイエに聞くと、訓練場に行ったのだ、と返される。皇宮内でも仕事熱心だなとチャトラは少しだけ呆れたが、二人が仕事も境遇も、それこそ時間も忘れて、
「訓練」
と言う名の気晴らしの真剣勝負をしているだけなのだと知ったら、恐らくもっと呆れただろう。
結局、上手い具合に話を躱されて、ダインに女のことを聞きそびれたとチャトラが気が付いたのは、部屋に戻ってしばらくしてからだった。