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<<わがままな巨人>>


 「――夕刻には戻るよ」

  背中越しに言い残して、男が恭しく開かれた扉を抜けて回廊へ出てゆく。周りが先を読んで、男の行く手を労苦の無いようにお膳立てする光景にも最近ようやく慣れた。
  いってらっしゃいとその背に返すと、肩越しに僅か振り返った男が視線を寄越し、微かに唇を引き結んだのが見えた。
  嗤ったのだと思う。
  数瞬そのまま見送って、それからチャトラは手にした夜着のほつれを繕う作業に戻った。夜着と言っても、彼女の基準からするとたいそうな上物だ。滑らかで、しんなりと肌になじむ。チャトラ自身、布の材質だとか製法に全く知識がない上に特に知りたいとも思わない。が、とにかく皇宮で使用されるものは、どれも恐ろしく手が込んでいるということだけは、この数日でよく判った。そうして自分とまったく感覚が異なるということも。
  なにせ、袖口の部分を引っ掛けただけで、捨てようと侍従が取り上げたのだ。
  慌てて制した。
  繕えば使える。そう告げたチャトラを奇異の目でみた侍従を、とりあえず同じ目で見返しておいた。捨てるだなんてとんでもない話だと思った。
  そもそもチャトラの感覚には、物を捨てるという意識がない。一つのものを襤褸雑巾のようになるまで使う。それは別に、
 「もったいない」
  という高邁な精神だとか清貧な思考とやらではなくて、単純に、
 「新しいものを手に入れる金がない」
  のではあったが。
  男は面白いものでも見るような――というより、はっきり面白がっていたのだろう、そんなチャトラと侍従のやり取りを、傍観しながら書類を片付けていた。まったく他人事の顔をして楽しむのだ。酷い男だと思う。
  この部屋の主、エスタッド皇の話である。
  チャトラが男の居室に寝起きするようになってから、数日経っていた。
  ここでの仕事として、『エスタッド皇帝の身の回りの世話』を任されることになり、最初は戸惑いも大きかったものの、もともと仕事に対して一定以上の情熱を注ぐ傾向がある。自覚している。
  と、言うより、
 「働かざる者食うべからず」
  だと教え込まれて生きてきた。特定の誰かが教え込んだと言うよりは、生活そのものが「そう」だった、としか言いようがない。食う手段を身に着けなければ餓死するだけなのだ。
  自分では何もしない男の世話をすることになった。
  と言っても、チャトラには執政の知識もなければ、興味もない。
  執務室について行ったところで、読めもしない文字列を追っているだけでこれと言ってすることもない。
  必然、男の居室周りを担当することになった。入居を許可されていた女官たちが、若干恨めし気な目で自分を眺めていた気もする。気にしないことにした。
  繕う手元を見つめる視界が、なんとなく怠い。
  拳で拭うと、粘った涙が滲んですぐに消えた。このところおかしな夢ばかり見る。深く眠れている気がしない。そのせいで不調気味なのかもしれない。

  チャトラ。

  大きく伸びをした弾みに窓の外から呼ばれた気がして、勢い、出窓を大きく開け放って顔を出す。腕まくりをしたふくよかな女が数人、笑いながら彼女を呼んだのである。
 「おばさん」
 「トラ坊、今日も仕事を頼んでもいいかね」
 「いいよ」
  頷いてチャトラは繕い途中だった針を丁寧にしまって、そのまま窓からひょいと体を乗り出した。セヴィニアあたりに見咎められたら、厄介なことになりそうな行為ではあるが、幸い補佐官の目はほとんどこの区画へ向くことはない。
  ここは皇宮の中でも、エスタッド皇の生活空間に当たる。
  私生活へみだりに足を踏み入れる真似は、仮令三補佐であろうとも許されるものではない。権限として許可されていたとしても、人一倍規律を重んじる傾向にあるセヴィニア補佐官である。ほぼ十割の確率で、この区域へは遠慮した彼の監視の目は届かない。
  正直、大変に苦手意識のあるセヴィニアから逃れられる場所があることが、チャトラにはありがたかった。
 「アンタ、軽業か何かで陛下に取り入ったのかい」
  ひょいと身軽に飛び降りたチャトラに、驚きと感嘆の入り混じった顔で女たちが言った。
  確かに、彼女たちの体で同じ行動を起こすのはおそらく無理だろうとは思うが、
 「なんで?」
 「中二階から飛び降りる莫迦は、いけない事を企んでるヤツか軽業師と相場が決まってるのさ」
 「オレ、どっちでもないよ」
 「判ってるさね」
  そう言って中年の女はおかしそうに笑った。
  踵を返す彼女等に後に小走りで付いて行きながら、チャトラは尋ねる。
 「何すんの」
 「今日は敷布がえらくたくさん出てきてね。一人でも人手が欲しいって言うのに、そこいらでヒマそうに突っ立ってる兵士たちゃ手伝いやしない。まったく何をしているのか判ったもんじゃないね」
 「見張りしてんだろ?」
  皇宮の警護だと聞いた。確かにあちらこちらに配備されている数は、やや多いような気もしたし、そのうち半数以上は「見張り」だとか「警備」には程遠い、締まりのない顔をしていたが、
 「突っ立ってるだけじゃあ、そこいらの柱と変わらないさ」
  女の一人が言い切った。
  酷評である。
 「それなりに役に立ってねぇの?」
 「どうだか」
  割と本気で吐き棄てる。それを横目で眺めて、
 「嫌われたもんだな」
  チャトラは苦笑いした。
 「役立たずは嫌われるってね」
 「陛下がああなったのも、護衛の兵士が、お側にいなかったからと言うじゃないか」
 「トラ坊はもう見たかい?」
  一つ尋ねると連鎖反応で口々に言い募るので、会話には事欠かない。
 「見た、って」
 「陛下の腹の傷さ」
 「ああ……見たよ」
  チャトラは頷いた。
  あの浴場以来、まじまじと眺めたことはなくとも、同じ部屋で寝起きしていればそれとなく目に入る。全く陽に焼けていない青白い肌に、抉れ、引き攣れたままの傷跡は妙に生々しい。
  雨が降ると疼くのか、無意識に右腕を庇うように体の前へ回す癖にも気付いた。
  男が、そのなよとした風体に反して、ほとんど無感動的に理論主義者であることも、
  仕事から戻ると小一時間は、思考の切り替えができずに、強張った顔を見せるということにも、
  そっけない物言いにも、慣れた。
 「執務区域でね」
 「柱の陰から襲われたって言うじゃないか」
 「妹君を立ててね」
 「幼い本人は何も知らなかったそうだろう?」
 「ディクス卿はいなかったかい」
 「あの日あの方はいらっしゃらなかったらしいよ」
 「あの方がいたらねぇ」
  黙って言葉の端を拾って状況を読もうとするチャトラは、その言葉にディクスの顔を思い浮かべる。
 「あのひと、強いんだ」
  やっぱり。
  隙のない視線と張りつめた空気。どうしてそこまで緊張を保てるのか、いっそ凄惨なほどに。ふと呟くとそりゃそうさ、とまた返される。
 「あの方はこの王都一番の腕を買われて、皇帝陛下の護衛に就かれたんだよ」
 「へぇ」
 「もう二十年ほどになるのかねぇ」
 「二十年」
  一年そこらの風格ではないことはよく判っていたけれど、それにしても二十年同じ人間を護衛する任務を遂行できるディクスを、チャトラは思わず素で感嘆した。
  何しろ自分の年よりも長い年月と言う物が、実感として湧かない。途方もない話だ。
  エスタッド皇の背後に控える影のような男を、チャトラが思い浮かべなおしている間に、女たちの話題はディクスから再び皇帝に戻っている。
 「お可哀想に、あの時陛下が生死の境をさまよっていたのは、ふた月?……み月だったかね?」
 「み月近くになったと思うよ。その間皇宮はてんやわんやでね」
 「いつお隠れなされるかーって、寄ると触るとその話だったっけね」
 「不謹慎な話だよ。いつ崩御の半旗が上がるのかって、兵士たちは賭けていたって話」
 「補佐官が葬儀の準備をしてたっていう話も本当らしいね」
 「まったくお気の毒な話さ」
  女たちのもの言いから、男が下働きのもの嫌われている訳ではないのだなと思う。
  と言うよりも、直に接する機会を持たないのだ。遠目から眺めるだけならば、あの陶器の人形のような男は、憧れの視線でもって賞讃されているに違いない。
  水面に映る玲瓏な月は、手を伸ばして水面は乱れても、その実態に触れ有ることはない。
  側に仕える女官や侍従も似たようなものなのだろう。誰も男を直視しようとしないからだ。
  ……ここにいるのに。
  チャトラにはそれが不思議だ。
  そうして、洗濯場に到着すると、確かにそこは戦場であった。
  洗う前の敷布が小高く積まれ、洗いあげられた敷布もさらに積まれ、その山の間を忙しそうに女たちが動き回っている。チャトラを呼びに来た数人も現場へ戻るとさて、と腕まくりをし直し、
 「トラ坊」
 「うん」
 「アンタ、片っ端から洗ったヤツを干して行っておくれ」
 「わかった」
  皺にならないように糊付けされ、軽くたたまれた敷布を、洗濯場に張り巡らされた紐にひたすら掛けるという作業を始める。チャトラの背丈では洗濯紐に届かず、足場を持ちながら彼女は移動した。確かに一枚二枚ならどうと言うこともないのだろうが、それが小一時間に及ぶとかなりな労働だ。額の汗を拭き、丁寧に指先で皺を伸ばし、空を見上げる。四方を建物に囲まれ、切り取ったような洗濯場の空から、それでも燦々と日光が降り注ぎ、
 「よく乾くだろうな」
  一人語散た。
  晴れた日に、洗濯物を干すという行為が好きだ。
  汚れていた衣服が、揉まれ叩かれ擦られて汚れを落とされてゆくのを見るのも好きだ。真っ白に洗い上げられて風にはためく様は壮観だと思う。
  濡れていたそれらが芯まで乾いて、取り込んだ山の中に埋もれるのも大好きだ。
  太陽の匂いがする、と言うと女たちが笑った。
  終えると、正午を回っていた。
  親切な女たちの勧めで、そのまま昼食を一緒に流し込んだ。薄いスープと固い黒パン。チーズが何欠片。皇宮と言ったところで、下働きに供される食事はそれだけのものだ。チャトラには、よく馴染んだ味だった。
  食事の礼を言うと、却って女たちから口々に礼を言われ、おまけに両手に抱え切れないほどのリンゴを持たされた。ありがたく頂くことにする。
  部屋へ戻ることにして回廊を小走りに戻っていると、
  見なれぬ区画へ足を踏み入れていた。
  あれ、と呟き辺りを見回す。
  静まり返っている。
  男の住まう生活空間を目指していたはずなのに、どこかで曲がる所を間違えたらしい。皇宮は広すぎて、未だにチャトラは把握できていない区画が大部分だった。
  継ぎ足した部分や増築した部分があって込み入っている訳ではないので、造りを覚えてしまえば楽なのだろうとは思う。最初から計画的に設計された皇宮は、蜂の巣のように理路整然としている。真ん中に尖塔。それをぐるりと囲む形で幾つかの区域に分類されているのだが、その同じような造りが、今のチャトラには徒になった。
  足を止めて辺りをもう一度伺った。このまま進んで男の居室に辿り着くものかどうか、それとも戻った方が無難だろうか。
  ただし、無意識に足を運んできたので、同じように元来た道を辿れる自信はなかった。
  どうしようか。
  小さく息を吐く。
  いっそ近くに見張りの兵士でも巡回していると良かったのだけれど、あいにくこういう時に限って人気がない。
  と言うより、この区域に人の生活臭がない。
  使われていない部屋――例えば何がしかの行事の時だけに使う小部屋だとか、倉庫の役割を果たして、取りあえず荷物を積み重ねておくような部屋――なのだろうか。
  僅かに逡巡したものの、時間が押している訳でもなし、いっそ知らない区画の探索も良いかと、チャトラはそのままぶらぶらと進むことにした。昼食は済ませたし、男は夕刻まで部屋に戻らない。今日やるべき男の身の回りの支度は既に終えていたし、繕い物は急ぎではなかった。強いて言うなら男に課せられた朗読の練習がまだ少し残っていたが、道草をして充分間に合う。
  薄紫の大理石の回廊の上に、土足で歩くには気が引けるほどの、何層にも織られた幾何学模様の絨毯。大人が腕を広げて三幅ほどの通路の両脇に、薄紗と緞帳で仕切られた部屋がいくつも配置されている。
  風が静かに吹く度に、はらはらと揺れる紗と、もったりと動く織布。布の重さで様々だ。
  ふと、練り香水の香りがしたような気がして、チャトラは顔を上げた。
 「……何者か」
  上げた拍子に誰何がかかる。
  きんと張りつめた硝子細工に罅が入ったような、擦れた中低音だった。
  男だ。まだ若い。
  違和感を感じたのは、顔の割に声が妙に老成したものだったからだ。顔の造成がどうだとか、チャトラはあまり評する趣味は持たなかったが、陽光を通さない黒い髪は綺麗だと思った。
  こんな場所にいるということは、それなりに位のある役職か、あるいは兵士なのだろうか。
  男の身体はエスタッド皇帝と同じくらいに細身で、武功を上げるほどの膂力があるようには、決して見えはしなかったが。
  男の陰には隠れるように女が添っていて、それがまた蜉蝣のように細い。
  こちらも同じようにどう言った経緯の者なのか、チャトラにはさっぱり判らなかったが、ただ風が吹けば飛んでしまいそうに、あえかな女だとは思った。少なくとも侍女と立ち話していた訳ではなさそうだ。
  何者か。
  もう一度尋ねられ、チャトラは首を捻る。男の言葉が判らない訳でも聞こえない訳でもなかったが、自分自身の立場を一体どう表したらいいのか、困ったからだ。
  男の誰何が名を尋ねている訳ではないのは明らかで、けれどチャトラに役職はない。
 「皇帝が自分を気まぐれに飼っている」
  それが正しい表現なのかもしれないが、チャトラの自尊心として口に出すのは躊躇った。
  まさか、
 「しがない掏摸稼業の者です」
  と言う訳にもゆくまい。
  黙っていると不審に感じたのか眉を顰めた男が、つかつかと彼女へ向かってくる。その右手が腰の帯剣に軽く掛けられているのを見て、チャトラは二、三歩後退した。
 「姫君のお命を狙う不届き者にも見えないが――、下働きの者はここへの出入りを禁じられている。知らない訳でもあるまい」
  姫君。聞いてチャトラは一瞬ちらと男の背後の女へ視線を流した。なるほど透けるように頼りないのは、庇護され続けた立場だからだ。エスタッド皇帝に通じるものがある。
  どこの姫君なのだろうと思った。
  後退した背が柱にぶつかり、仕方なくチャトラは静かに威圧しながら近づく男を見上げた。
  抱えたリンゴを投げつけてやろうかと一瞬考えて、やめておくことにした。
 「それとも新入り……か?」
 「新入りだよ。そう脅すなよ、ノイエ補佐官」
  不意に響いた第三者に、チャトラも男もその声の主へ視線をやる。
  ダインが立っていた。こちらも、若い女を一人連れている。たまたま通りがかった風情、と見えなくもないが、先程までの人気のなさを考えると意図的なものなのかもしれない。そう思った。
  白い女だ。
  銀と言うよりは白。髪も肌も真っ白な女にチャトラは見覚えがあった。
  北の街から皇都へと移動の最中に襲撃されたあの場で、困ったようにエスタッド皇帝へ小言を投げかけた女だ。
  この女も確かに透けるように白いのに、ノイエと呼ばれた男の背後に佇む「姫君」より、よほど存在感がある。存在感と言うよりは躍動感、生命のにおいがする、と表した方が、今のチャトラの感覚に、より近いかもしれない。
 「ダイン卿。……ミルキィユ殿下」
 「殿下はよせ。わたしは一隊を率いるただの駒に過ぎない」
  呼ばれた女がひらひらと手を振り、苦笑しながらチャトラと男に近づいた。チャトラを眺めて未だ考える素振りを見せた男が、剣の柄から手を離し、ミルキィユに軽く腰を折る。
  女の苦笑がますます深くなった。
 「補佐官殿は堅苦しいな」
 「生まれつき故お許し願いたい」
  返した男が、気配でチャトラを指したのが判る。
 「この者は」
 「チャトラと言う。先日から陛下の身の回りのお世話をしている」
 「……素性は」
 「明らかだ」
 「何しろあのセヴィニアの遠戚という話だからなァ」
 「セヴィニア公の……なるほど」
  女の背後から半ば茶々を入れるように重ねてダインが声をかけ、頷いた男が納得したように身を引いた。チャトラを眺め、緊張に強張る顔を見止めたのだろう、不意に頬を緩めて眉が下がる。
  笑ったのだと遅れて気づいた。
 「……驚かせてしまったな」
  困ったような声は、老成したものから、年相応の若いものへと変化している。
 「ここ最近、姫君の身辺に不穏な噂が流れていて、少々過敏になっていたんだ」
  済まなかったね。
  男はそう言って彼女の視線に合わせるように身を屈め、己を三補佐を務めるものだと名乗った。
  ああそうか。
  そこでチャトラは納得する。
  皇帝の香いが僅かに漂った気がしたのは、仕事柄、男が皇帝と接する機会を持つからなのだろう。
  三補佐。大柄なアウグスタと、鉄面皮のセヴィニアを思い浮かべ、目の前のノイエと名乗った男の顔を見た。他の二人に比べて随分と若い。
 「その不穏な噂のことで、話があって貴方を探していた」
 「……僕を?」
  話題に出たのを幸いと、ミルキィユがノイエへと話を振り、あまり他には聞かせたくないのか、少し離れた回廊の隅でぼそぼそと何事かを言い合っている。
  耳を澄ませて聞き取っても良かったのだけれど、それよりニヤニヤと柱にもたれながら笑うダインに気が行った。
 「元気そうだな」
 「アンタも」
  見上げた男の顔は、あの日分かれて以来久しぶりに見る。人懐こそうな瞳が相変わらずだなと思う。
 「皇都に連れてこられたってお嬢に聞いたから、寄って集って人形みてぇに小奇麗に飾り付けられているかと思ったんだが、相変わらず色気のない格好をしてるんだな」
 「うん」
 「男の装いじゃねぇか」
 「うん」
  言われてチャトラは自分の恰好を見下ろす。下働きの女たちや、皇宮内で働く侍女たちの装いではなく、ダインにも言われた「男物」、つまりは侍従と変わらない格好をしている。
  事情を知る皇帝周りの数人の人間が、何とかチャトラに
 「女らしい」
  装いをさせようといっそ嫌がらせのように押し付けてきたが、断固拒否した。町の女が履くようなキルトですら身に着けたことがない。理由は単純で、動きにくいからである。ましてや、パニエを履くだとか、とんでもない話だと思った。
  頼み込まれても嫌だ。大金を積まれたらさすがに考えるが。
  裸でいる訳にはさすがに行かないので、男物を着ることにした。それでも「エスタッド風」なのかどうか、ひらひらと装飾が多いのが気に食わないが、妥協点だ。
  自分でも怖いくらいに合っていると思う。
  四肢の発育の悪さも相まって、どう見ても少年にしか見えない。おかげで、チャトラの経緯を知らない大人たち――たとえば洗濯場の彼女たち――は、彼女のことを少年だと端から信じて疑わない。
 「似合うだろ」
 「違和感がねェ」
 「うん。女に見えない方が、いいんだ」
 「そんなもんか?」
 「たぶん」
  それ以上チャトラは口にはしなかったが、男を取り巻く環境が、複雑であることは理解している。親と子ほどに、年の離れたエスタッド皇帝の部屋に寝起きするということがどんなことか、男の歓心を何としてでも得ようと画策する女たちが少なからずいることも、勘の良い彼女は頭でと言うよりは肌で理解している。
  そもそもセヴィニアあたりは「風紀が乱れる」だとかなんとか、かなり難色を示したらしい。皇宮へ上げるなら上げるで、
 「側室」
  としての形態を取りたがっている節があったが、一連の元凶であるエスタッド皇帝の
 「問題なし」
  の一言に渋々口を噤んだようだった。きっと皇帝は何も考えていない。面白がっていただけだろう。
 「ここ、どこ」
  尋ねたチャトラに、ダインは若干渋い顔をした。
 「お前な。ややっこしいところに首突っ込むんじゃねぇ。一体何の用事があってきたんだ」
 「来たくて来た訳じゃねェよ。迷ったんだよ」
  むっとしてチャトラは返す。言われなくても、戻るつもりだったのだ。
 「皇帝の旦那は……あー、仕事か」
 「午後まで会議」
 「そうか。だよなァ」
  ところで、あの人は誰。
  言ってチャトラは、ノイエと話し込むミルキィユと、それから離れたところに未だ佇んだままの、人形のような女を顎で指した。
 「白い方は俺の上官」
 「上官」
  へぇ、と見直す気持ちでチャトラはミルキィユを見た。えらく適当に見えて、目の前のダインが本気を出したら、自分では恐らく身を躱すこともできないだろうことは、最初の掏摸未遂で実感済みだ。その男をして従える彼女は、一体どれほどのものなのだろうと思う。
  武勲ばかりが強さであるとは限らないし、年功序列、上下身分の差のある軍部で上に立つものが手練れである保証は勿論ないと言うことは、チャトラにも判るが、それにしてもある種の「強さ」がなければ、この目の前の男は誰に対しても膝を折らないような気がした。
  確証はない。直感だけだ。
 「きれいな、ひとだね」
  であったから、見たまま思いついたことを口にした。言うと途端にダインの顔がにやけ崩れるのが判る。
 「俺の」
 「言ってろよ」
  顎に手を当てて言い放つ男に、チャトラは肩を竦めて受け流した。
 「……なァ?」
 「なんだ」
 「でんかって何」
 「ああ……お嬢はあれでも旦那の血縁らしいからな」
 「妹?」
 「だな」
 「……そうなんだ」
  意外だと、思った。声に表れたかもしれない。ダインがちらとこちらを眺めるのが判った。
  何故かは知らないが、何の疑いもなしに皇帝は天涯孤独なのだと信じていた。他を寄せ付けない雰囲気のせいなのかもしれない。
  あの男は、全てを拒んでいる。
 「向こうの吹けば飛びそうな女のひとは?」
 「……吹けば飛びそうって、お前な」
  臆面もないチャトラの言い草に今度こそ本気でダインが苦く笑った。
 「ノイエ補佐官に聞かれたら引っ叩かれるぜ」
 「…セヴィニアのオッサンに聞かれたら、引っ叩かれるだけじゃ済まねェだろ」
  おそらくセヴィニアなら容赦なく拳が――下手をすると鞭でも飛びかねない。
  ぎょっとした顔のダインに、割と純粋なのだなと思った。
 「お前、そんなことされてんのか?」
 「今は平気。あのひとが寝込んでた最初の一か月は、何度か食らったけど」
 「食らったって」
 「なんか、無礼を働いたとか、横柄だとかで、懲罰だって。ていうか、オレ、繋がれてたし」
  私の遠縁の娘なのだから、それなりな立ち居振る舞いを身に着けてもらわねば困る。
  這いつくばったチャトラの頭上からセヴィニアはそう宣言した。
  皇宮と言うところは面倒なところだと思う。街の常識が通じない。素性のはっきりしない、手癖の悪さだけが取り柄の掏摸の小娘だと、いっそ周りにそのまま告げても、大差ない気がチャトラにはするのに、所謂
 「建前」
  が必要らしい。
  セヴィニアの遠縁、と肩書が付いたところでチャトラの何が変わる訳でもない。だのに、今のノイエと言い、他の侍従と言い、その肩書一つを聞いて安心して引き下がる。
 「あの補佐官殿の遠戚であるならば」
  そう言う。
  そんな大人たちが、チャトラにはとても可笑しいと思った。
  ……自分の目で見えるものを見ていないんだ。
  男がやけに孤独に見えるのもきっとそのせい。
 「おい、チャトラ」
  不意に真顔になったダインが、顔を近づけ、声を潜める。
 「お前、今は本当に何もされてないのか」
 「何もって」
 「だから、そう言った……、あー、殴るだの蹴るだの、繋ぐだの」
 「ないよ」
  今は。
  応じるとそうか、と僅かに緊張を解いて男が溜息を吐いた。
 「言えよ」
 「言うって」
 「何か嫌なことをことされたり、……されなくてもいい、されそうになったら、言えよ」
  何とかしてやるから。
  皇宮内の勢力事情に疎いチャトラには、目の前のダインと言う男がどの程度の実権を握るのか、どの程度の発言力があるのか見当もつかなかったが、言葉通りにきっと実行してくれるのだろうと思った。
 「見返りがないのに親切な人は信じちゃいけないって、姉ちゃんが言ってた」
 「おい」
 「見かけによらず親切だよな、オッサン」
 「俺はまだオッサンじゃねぇぇ……!」
 「ありがとな」
  口調とは裏腹に、小さく笑うと、今の言葉が冗談だということに気付いたのか、ダインががりがりと頭を掻いた。
  一通りの話が付いたのか、ノイエとミルキィユが二人に向かってやってくるのが見え、チャトラは改めて向き直る。女はいつの間にか消えていた。
  そのまま、皇宮内の造りを説明されながら、ノイエがチャトラの横に立ち、皇帝の生活居住区まで送り届けられる。もともと道覚えは悪い方ではない。説明を聞いているうちに、大体の構造が頭に入る。次はきっと迷わないだろうと思う。
ダインとミルキィユは中途まで後ろからついてきたものの、彼らは彼らで忙しいのだろう、じゃあまた、と手をひらひらと振り、回廊で別れた。脇のノイエに聞くと、訓練場に行ったのだ、と返される。皇宮内でも仕事熱心だなとチャトラは少しだけ呆れたが、二人が仕事も境遇も、それこそ時間も忘れて、
 「訓練」
  と言う名の気晴らしの真剣勝負をしているだけなのだと知ったら、恐らくもっと呆れただろう。
  結局、上手い具合に話を躱されて、ダインに女のことを聞きそびれたとチャトラが気が付いたのは、部屋に戻ってしばらくしてからだった。


  夕刻には戻ると言った男は、夜半過ぎても戻ってこなかった。会議とやらが長引いたのか、それとも他の仕事が入ったのか、はたまたどこかで倒れでもしているものか。
  未だに男がどんな仕事をしているのか判っていないチャトラには、判別がつかなかった。――尤も、判別をつけたいとも思っていなかったが。
  課せられていた分の書き取りも、繕いも、終えてしまったし、一人では食欲もあまり湧かず、夕食も適当に済ませてしまった。
  手持無沙汰で、おそらく先に休んでいたところで、男は何も意に介さないと思ったけれど、なんとなく寝てしまうのも悪い気がして、ぼんやりと暖炉の前で熱に当たりながら炎の揺れを眺める。暖炉の前は暖かくて気を抜くと睡魔に引き込まれそうだ。億劫で、教練本を開く気にもなれない。
  じっと見つめていると、随分離れた場所だというのに炎の熱がじりじり眼球を焼く。
  ばちん、と瞬きをすると目の奥に深緑の残像。
  じりじり。
  ばちん。
  じりじり。
  ばちん。
  暇つぶしに反復運動を繰り返し、揺り椅子の脚に背もたれる。何十か、何百か繰り返したところで、扉の外が不意に騒がしくなり、少し遅れて外に開かれた扉をくぐって、この部屋の主が不機嫌な足取りでようやく自室に戻ってきた。
  立ち上がり、おかえりと進みかけたチャトラと、苛々と髪を掻き上げた男がはたと鉢合わせる。
  一瞬男が、動きを咎める目をしたのが判った。
 「……お、かえりな、……さい」
  おかげで妙に裏返った声が出た。
  まるで知らない人間を見下す瞳。思わず腰が引ける。
 「――“猫”か」
  ああ、と己に言い聞かせるように口の中で言葉を転がし、男が眉間を指で揉む。
  一瞬この部屋に彼女がいることを理解できず混乱したのだと、遅れてチャトラは気が付いた。
  きっと、草臥れているのだ。
  会議と聞いていたけれど、纏った礼服は余所行きのそれで、
 「どこか、行ったの」
 「地方太守との懇談。予定に急に挿まれた」
 「お茶……飲む」
 「要らぬ」
 「メシは」
 「気が失せた」
 「着替える?」
 「そのうちね」
  言葉短に応えて男は、部屋の一角に置かれた飾り戸棚へ近づき、乱暴に開いて陳列された酒瓶の一つを手に取る。
  そのままぐ、と呷る。口の端から飲みきれなかった酒が溢れ、透明質なそれが喉元に流れて男の片腕が煩わしそうに拭った。
  そうして、チャトラの背もたれていた揺り椅子へ、どさりと腰を下ろす。弾みで梳られた栗色の髪が、猥雑に広がった。
  長々と男が溜息を吐く。
 「――何を見ている」
  じっと、チャトラが動きを目で追っていたことに気付いたのだろう、男が仰向け目を閉じながら、尋ねる。その声音から険は既に消えていた。
 「疲れてんだろうなって」
 「――ふん」
  僅かに抜いた息とともに、鼻先で男が笑った。


  部屋に戻った瞬間、目の前の小さな体に戸惑った。
  己しかいないはずの清潔かつ快適に整えられているはずの部屋の中に、見知らぬ色が紛れ込んでいる。違和感。
  流した視線に強張った顔を見て、これはどこかで見た覚えのある顔だと気付き、そこでようやく認識する。
  これは懐に飛び込んできた猫だ。
 「アンタ、身体があんまり丈夫じゃない割に、結構無茶な仕事ぶりするよね」
 「そう見えるかな」
 「うん。命削って仕事してるみたいに見えるのは……仕事してると誰にも邪魔されないから?」
 「――」
  男の具合を気遣っている意味を含むのか、控えめに尋ねるチャトラの声が、普段の滑舌の良さからは少し遠く聞こえる。
  興味を覚えて、ようよう目を開ける。足元に座り込んでいた彼女の襟を、無造作に掴みあげた。男の力でも持ち上げられてしまうほど、重みのない未発達な体。これでも少しは皇宮に来て肉が付いたと思いたい。別段均整のとれた体に、男の興味はなかったが、欠食児童のみすぼらしさだけはいただけないと思っている。
  少なくとも、見ていて快いものではない。
  己の膝に痩せぎすな体を引き上げて浅く腰掛けさせると、暴れるかと思ったチャトラは大人しく収まった。
  珍しいな、と思う。
 「『日常業務をこなすことがやっと』程度に弱り切っていれば、余計な問題が持ち込まれることもあるまい」
  言ってもう一口、手にした酒を呷った。
  銘柄も適当に選んだ蒸留酒。素のまま飲むのは喉が焼けるように痛むが、今の割と投げやりな気分にはしっくりくるので気にしないことにした。
  何せ不愉快な懇談だった。
  生まれた時より、男は「次期皇太子」だった。自身の地位を利用しようと近付いてくる輩には、何の疑問も持たないけれど、それでも揉み手へつらい愛想笑い丸出しで、脂ぎった顔ににじり寄られる趣味はない。
  よほど中途で席を外そうかとも思ったが、実行すると更に面倒臭い懸案が増える。
 「余計な問題?」
 「――後継者であるとか」
 「子供ってこと」
へぇ、とチャトラが頷きかけて、それからふと思い当たったように、
 「……だって」
  不思議そうな顔をした。
 「アンタ仕込めねェんだろ」
  仕込む。歯に衣着せない物言いに、男は笑いを誘われた。
  まったく、あけすけに突っ込んでくれる娘だ。
 「実子に限らず」
  言われてチャトラが考え込む顔になり、天井を見上げた。彼女の生きてきた人間関係とはまるで違うのだろうと言う程度は、男も理解している。少ない知識の中から、納得のいく「理由」を拾い上げているのだろう。
 「えっと、義理の子供とか……に、してくれってヤツの多いって話?」
  であったから、次に発した猫の言葉は、彼女にしては上出来だ。「とか」の辺りに確定できない不安要素があるのだろうなと男は聞いて思った。
 「それも、あるのだけれどね」
  含むように頷く。
  一つの問題ではあるのだと思う。ただし、養子ならば片端から却下していけばどうとでもなる話だ。それよりも尚厄介なのは、別の旗下に集結しようと画策する者どもで、
 「血縁が後継者の名乗りを上げると、より面倒が増える」
 「血縁者……アンタの妹さん、とか?」
 「誰に聞いた」
  問い詰める気はなかったが、視線が瞬間鋭くなったらしい。吃驚した顔でチャトラが男をまじまじと見つめ返す。
 「聞いたらダメな話だった?」
 「――いや」
  そうではない。そうではないよ。
  ゆるゆると首を振って否定してやると、そうか、と膝の上の猫が一人合点して頷いた。
 「タネ違いの唯一の妹だ――だと思う」
 「結構微妙なんだな」
 「生まれた場にも、育った場にも、居合わせなかったのでね」
 「へぇ」
  薄く笑って男はまた酒を呷る。自分は酔っているのだ。年端もいかない、判別もつかない、ただの下町で拾った猫にこんな話をするのだから、きっと相当に酔っているのだ。
 「――一人の女を奪い取り合い争って、二人の男が醜悪に死んだ。腹に、どちらのものとも付かない赤子を宿した時、彼女は自ら身を隠した。数年経ち、無残に焼き払われた村の、たった一人の生き残りの少女がひょっとすると私の血縁者かもしれず、その定かではない情報に踊らされて、あれの名を借りて担ぎ上げる者ども。――何時死ぬか判らない私を排斥しようと画策する、魍魎どものなんと多いことか。今時どんな戯曲家も書かないような構成だ。笑うしかない」
  口の端に笑みの残滓を漂わせたまま、男が呟くとチャトラがしんと真顔になった。
 「腹のキズ」
 「――うん、」
 「妹を立てたって、そんでアンタを襲ったって。洗濯場のおばさんたちが言ってた」
 「そういうこともあったのかもしれないね」
 「……オレも家族とかあんまりいなかったから、はっきりしたこと、言えねェけど。『カゾク』とかって、何があっても一番に自分を味方してくれるようなもんだと思ってるんだけど」
 「――味方――」
  チャトラの言葉を繰り返す。自分の頬が乾いた嗤いに歪むのが判った。
  自嘲だろうか。俯いた。今日はらしくない事ばかり考える。
 「味方などどこにもおらぬよ」
 「え?」
 「『敵』か。『傅くものども』か。ふた種類だ」
 「……ふたつだけ?」
 「他に何があると言うのかな」
 「だから、その、アンタの妹さんは」
 「あれは劈頭に私を脅かすもの」
  聞いたチャトラが息を飲む。
  判らないだろうな。
  思った。
  喉元に刃を突きつけられる、綱渡りのような日々をして初めて体感する「孤高を持する」意味。
 「ひとり。たったひとり、だ」
  判らないだろうな。
  焼け爛れた喉を引き攣らせて笑って、男が酒瓶を空ける。飲み切るつもりもなかったけれど、勢いだ。そうして暖炉前に瓶を放る。毛足の長い絨毯のおかげで、割れもしなければ甲高い音を立てることもない。
  しばらく無言で考え込んでいたチャトラの身体が、妙にぐんにゃりと温かな気がして、男は彼女の顔を覗き込む。
 「――猫」
 「なに?」
 「熱い」
  言った直後に彼女の顎を掬い、唇を合わせた。驚いて目を見張ったチャトラが暴れだす。その動きが緩慢で力ない。
  構わず舌先を突っ込んだ。噛み切ろうとする動きを、引き出した相手の舌で食い止める。さすがに自分のそれを千切る訳にもいかず、貪られたままチャトラが唸った。瞑目もせず、間近に迫る相手の顔を観察しながら、男が歯列をなぞる。猫が呆気にとられていたのは一瞬で、今は怒りに瞳が爛々と輝いている。
  それで良い、と思う。驚かれるのも癪に障る話だ。自分がその話を振っただとか、経緯はどうでもいい。
  探った咥内は、男の知る平温よりも、苛立つくらいにかなり高い。熱さが気に入らなくて添えた首筋を軽く締めると、く、とチャトラの喉が鳴った。
  音を立てる勢いで、相手の唾液を啜り上げてやる。
 「……やッ……め、ろ、よ!」
  思うまま弄った後に、腫れぼったくなってしまった相手の唇に指を這わせ、ようやくそこで解放してやると、煮え滾った視線で睨み殺された。
 「――ここだ」
  薄ら笑って己の左胸に手を当てる。何が、と吐き棄てた彼女に、
 「本気で逃げたいのならば、ここを狙うと良い。強い衝撃を与えなさい。きっと私は動けなくなる」
 「莫迦じゃねェのかアンタ!できるワケねェだろうそんなこと!」
  莫迦。莫迦と来たか。
  おかしくなって男は声を立てて笑った。
 「牙を立てるならそこまで抗って見せると良い。そうでないのなら――犯すよ」
 「やめ……ッ」
  反転させて、揺り椅子にチャトラを抑え込む。
  かたわであっても、褒められたほどに力はなくても、小娘ひとりの動きを封じるのはそう難しいことではない。ましてや今は熱で弱っている猫だ。
 「風邪かな」
  喉元に噛み付きながら男は呟いた。鈴があえかな音を立てる。このまま喉輪を食い破ってしまいたい誘惑に駆られた。凄惨で、きっと美しい。犬歯に、僅かに力を込める。
 「やめろッ!」
  男は気にしていなかったけれど、思えば猫が己の寝台に寄った姿を見たことがない。暖炉前で丸くなるか、せいぜい部屋の隅だった。
  寒いだろうかと言う考えは、思いつきもしなかった。床が好きなのかなとちらと思った程度だ。
  常識的に考えれば、確かに床の上で掛物もろくに掛けずに寝ていたのならば体調を崩す。
 「床でばかり寝ているからだ。寝台で眠れば良いものを」
 「誰が、テメェの隣でなんか……!」
 「女は進んで股を開く」
 「オレはそういう女じゃねェ!」
  ぷつ、と音がして噛み切った皮膚に血が滲んだ。べろりと舐め揚げるとすくみ上る。竦んだ隙に片腿を相手の両足の間にぐいと差し込んだ。
  ひ、と喉で叫びを噛み殺したチャトラが、切羽詰まって膝を引き寄せるのが見えた。本気で嫌なら相手のことなど思い悩む余裕はない。追い詰められてようやく己を蹴り倒すつもりだろうか。だったら最初から綺麗ごとなど並べずに、即座に蹴れば良い。
  甘い躊躇は己を滅ぼす。
  暗い嗤いと共に次に来る痛みを覚悟した男は、片眉を上げる。
  引き寄せ、力を込めかけた彼女の腿が痙攣して躊躇い、直後に力が抜けたからだ。
  ――蹴らぬのか。
  意外に思って見下ろすと、涙をいっぱいに湛えた猫の瞳とかち合わせる。できるかよ、唇の動きがそう呟いた。
  かっとなった。
  こんな小さな生きものに、同情されるなどまっぴらだ。
  乱暴に上着を剥ぎ取り、鉤編みレースのタイを引き千切る勢いで解く。半ば強引に引き解いたので、チャトラの首を若干絞めたような気もする。これぐらいで人間は死にはしない。慮るつもりはなかった。
  はだけた胸元に唇を寄せる。まるで発達していないそこは扁平で、肋骨が浮いて見えて、お世辞にも男の知る女と同じ生物だとは思えない。少年を抑え込んでいるような気になる。いくつだったか。拾ってすぐに年を聞いたら、首を捻りながら恐らく十四、五と答えた。
  十四、五。数え年、まだたったの十四、五。
  己とふたまわり近くも異なる時間を生きる彼女が、許せない。醜いと笑いたければ笑え。猫の時間は、まだ動き出したばかりだ。
  穢してやろうと、思った。
  立ち直れないほどに深く澱んだ沼の底へ落としてやろうと、思った。
  爪を立てて掻き毟りかける腕を一つにまとめ、膝頭をさらに相手の股へと進める。己が「仕込」めなくとも、いくらでもその手段はある。もっとも醜く、もっとも卑猥で、もっとも邪悪な手段でずたずたに引き裂いてやろうと思った。
  肋骨の上にも歯を立てて、皮膚を小さく噛み破る。血の香に酔う。
  ふと。
  歯を喰いしばって喚き声を堪えていると思った猫の、細かな震えに気を惹かれて視線を上げ、
 「――猫」
  空の一点を凝視したチャトラの喉がくぐもった音を立てる。けれど何も見ていない。何度か嗚咽するように肩を揺らし、鳥が鳴くように小刻みに奇声を発した彼女は、
 「猫」
  呼吸をしていなかった。


(20101128)

最終更新:2010年11月29日 19:45