<<くろふね。>>

 諦めのよさが、信条だった。
 籠の中、揺られ揺られて女は一人唇を噛み締める。
 臙脂を差した艶やかな、唇である。
 雲鬢重たげに、首折ったうなじから、ふわと流れるのは白粉の香りだ。
 中帯も帯締めも、今日ばかりはいつもより二割り増し、きつく結い上げた。
 薄紅色に染めた爪先が、光を受けて冷たく光る。
 何とはなしに、背筋が伸びた。
 黒生地に、金糸を散らした紫陽花の袷の胸元に、深く秘めたのは短刀である。
 今宵ばかりは、紅色の襦袢を着込まずに、叱責を承知で白を纏う。
 死のうと、思っている。
 郷里よりほとんど身一つで出てきた女にとって、たった一つの形見分けでもあるその刃で。
 漆塗りの柄元に小さく、一輪の花椿の彫りのある、珍しい細工物である。
 父の曾祖母が、当時の領主から下賜されたものだと聞いている。豪く昔のことだ。
 理由は知らない。
 ごとりと大きく籠が揺れて、女は物憂げに顔を上げた。
 御簾越しに外の景色を窺う。
 宵はまだ。始まったばかり。
 嘉永六年。水無月。
 沖の彼方に、不吉なほどに黒濡れた戦艦が、不意に訪れたのは昨晩。
 四隻。
 「……せん。かん」
 呟いてみた。
 戦艦、と言う言葉を耳にしたのは、実は昨日が初めてだった。首を捻る。
 戦う為だけに造られた、徹底した装備のある大きな船のことを、言うらしい。
 実感が湧かない。
 その戦艦に乗り込んだ船員相手が、己の今夜の商売相手だという事実は、更に実感が湧かない。
 夢見心地である。
 違う。
 女は再び唇を噛み締めた。
 身を切り裂くほどに、実感は湧いているのだ。
 ただ、それを現実として受け入れるには、あまりにも哀しすぎただけ。
 感覚を、麻痺させている。
 どん。
 港から大きな音が響いた。
 雷の音にも聞こえるそれは、けれど決して、自然の起こす大空のそれではなくて、
 沖の船から発せられる不気味な雷同である。
 どん。
 空砲であるそうだ。
 籠を担いだ男達が、低く囁くのを先に聞いた。
 出だしは、誰も彼も恐れ戦いていたものの、ひとまず船より害が無いと判ると、街はまるで祭り騒ぎである。
 見物の舟まで繰り出しているそうな。
 出発前の店の中で、店子の誰かが呟いていた。羨望の篭る声であった。
 あまりの他人事加減に腹が立った。
 腹が立ち、そうして直ぐに諦めた。
 女の体に寄せられたのは、哀れみと同情と、好奇の含まれた視線だけだったからだ。
 騒ぎの中を、隠れ進んでひっそりと籠は進む。
 ”――勅旨である。”
 傲岸に言い切った言葉が脳裏に蘇る。喧騒は、女の耳にはひどく遠い。
 有無も否応も無く、女はただ、首を垂れて特使の言葉を聞き届け、直後に小さくはい、と畏まっただけである。
 声が出たのが不思議であった。
 遊女である。齢は二十五。
 界隈では、そこそこ名の通った存在だと自負してもいた。けれど、その自分に白羽の矢が立つとは、思いも寄らぬことで。
 異人に。
 巷間では、鬼や天狗と呼ばれている異国の者を相手にしろと、特使の概要はそう言ったものであった。
 楽しませろ、とも言った。
 そうして、現況を長引かせるために機嫌を決して損ねるな、とも。
 言葉の通じないどころか、人であることすら怪しい相手に。心底震えた。なのに拒むことは許されなかった。
 小さくはい、と。
 女は項垂れる。
 御国の為に。特使はそうも言った。虚飾の言葉が突き刺さって、心底女はおかしかった。
 女の身を眺める特使の視線は、通いの男客と同じ類のものであったからだ。
 結局何も変わりはしないのだ。
 どん。
 また空砲が鳴った。花火の音にも似ている。
 ――結局さぁ。
 同じように選ばれた身の上の同業が、籠に乗る前に誰へとは無しに言い放っていた。
 ――妾たちは人柱さね。
 投げ遣りな声色で。
 ――隅田にかける橋の下に埋められるようなものさ。なぁに、偉人も異人も関係ないさね。男なんてみんな似たようなもんさ。似たようなもんだと……思うよ。
 笑った声が空ろに泣いていた。彼女も哀しかったのだろう。
 御簾越しにもう一度視線を投げやった。
 直に港の一角である。
 喉を鳴らして唾を飲み込んだ。背筋を伸ばす。確かめるように胸元を一度押さえた。
 硬い感触が伝わる。
 席上の名前は桜太夫と名乗っている。
 季節外れに今宵、闇に散ろうと思っている。


 案内された座敷の廊下を、擦り歩く。しゅるりしゅるりと裾が鳴る。
 裾に隠れた膝は細かに震えている。
 怖い。
 いくら覚悟を決めようと、凛と背筋を伸ばそうと、見たことが無いものと対峙するのは怖い。
 突き当りの金襴襖の前に、座敷の女将が擬っと置物のように座り込んでおり、太夫が近づくと同時に無言で頭を下げた。
 人柱さね。
 強張った女将の外した視線が、女の運命を物語っている。
 固く奥歯を噛み締めた。
 抱えた三味線が、かたかたと揺れかけ、気付いてはっとし、姿勢を正した女である。
 例え妖怪、魑魅魍魎程に得体の知れない異人相手だとしても、芸を仕事に選んだ女の意地が、弱音を許さなかった。
 己の芸名を思い出す。
 桜のように、せめて最後まで凄艶でありたいと希う。
 物も言わずに襖に手を掛け、勢い開け放った。
 「今晩は。ちょいとお邪魔いたしますよ」
 ともすれば裏返る声を押し殺し、懸命に頬を緩めて笑顔を繕うと、太夫は伏せた顔を上げ、直後にやはり思わず息を呑んだ。
 退路を塞ぐ形で、すうと背後の襖が閉まる。後じさりしかけて、叶わぬことを知る。
 びぃどろ。
 微動だに出来ず、けれどそう思った。
 二つの青いびぃどろ玉が、彼女を貫いている。
 あんな瞳で見えるのか。
 商売笑顔も棚上げされて、太夫はまじまじと目前の相手を直視する。
 赤ら顔の天狗の画や、鬼の画を、異人と教えられて太夫は何度か目にしてはきていたが、ここまで瞳が青いとは本気で驚いた。
 これは。
 太夫の頭二つ分上にある、額の上にかかった、栗色の柔らかな房が髪であることに気づいたのは、二呼吸ほど後のことだ。
 馬のたてがみのように見えたというのが、素直な感想である。
 ひと、なのか。
 それでもきちんと男に見えたのが、不思議だと思った。
 「――――」
 凝視していた相手の口が、何かを呟いた。聞きなれぬ音だった。異国の音である。
 耳障りな音を発しながら、異人がぬう、と覆い被さるように、太夫に近づいてくる。
 「い、や、」
 虚勢は脆くも崩れ落ちた。本能的な恐怖には勝てない。
 左右を見回し、逃げ場の無いことを知り、唇を戦慄かせて太夫は咄嗟に立ち上がると、異人の逆方向に逃れた。
 向かい合った互いの空間を塞ぐものは、畳の上に敷かれた座布団と、小さな膳が二つしかない。
 二つ。
 太夫が数に気付いた瞬間に、不意に背後で、低い威嚇の声がした。弾かれたように振り向く。仰け反る。胸に抱えた三味線が音を立てて転がった。
 同じように青い目をした大柄な異人が、太夫に腕を伸ばしていた。
 口からは同じく聞きなれぬ言葉。しかし先の男よりも、随分それには棘がある。
 「いやだ……っ」
 夢中で振り払うと、行儀も忘れて膳を飛び越え、咄嗟に壁に背を預けた。眼を見開き二つの異人を見比べる。じり、と太夫に異人の腕が伸びる。
 追い詰められた太夫が、無意識のうちに取り出していたのは、懐に秘めていた短刀一振りだった。
 己の意地と尊厳の為に、自害するべく秘めたつもりの短刀だった。
 獲物を見咎めて、ますます片方の男の視線が鋭くなる。半ば怒鳴りながら男が太夫の腕を掴む。
 「ひいっ」
 痺れきった頭に、恐怖一色の真っ白な混乱が押し寄せて、太夫は無茶苦茶に短刀を振り回した。
 死のう、などと思い詰めていた先程の覚悟はとうに無い。
 怒りの吃音が室内に響き渡る。四肢を押さえ込まれかける。
 「放してっ」
 びっ、と。
 鈍く切り込んだ音がして、刃の動きが静止した。
 「あ……、」
 振り回した刃の先に男の上腕が触れて、顔を歪めて僅かに喘ぐ。
 一直線に蘭服を裂いた筋から、じんわりと赤いものが染み出して、ぱたぱたと畳上に落下した。
 異人でも痛いのだな。
 場違いに太夫はそう思った。
 傷口を押さえた男を、一瞬呆気に取られて眺めていたもう一人が、酷く怒りの形相になって、太夫に向き直る。
 がん、となにやら硬い音とともに、瞬間頭蓋に衝撃が襲って、壁に叩きつけられた再度の衝撃で、我に返る太夫である。
 殴られたのだと理解したのは、男の握り締めた拳を眺めてからだ。
 口の端を切ったらしい。鉄錆の味が口内に広がった。
 男の一人が、拳を固め、再び太夫の前で仁王立ちになった。また殴られる。思わず固く瞼を閉じて、頭を抱えた太夫の耳に、
 「――――!!」
 厳しい制止の声が突き刺さった。太夫には言葉が判らない。正確には、腕を押さえた方の男が、何事かを短く叫んだ。
 耳にして、太夫の前に立った男は、振り上げかけた拳を一旦引くと、それでも憤懣やる方のない顔をして、背後の制止した男に何かを告げる。
 腕を押さえた男が幾度か首を振る。
 そうして、尚も言い募ろうとする男へ、真っ直ぐに廊下への襖を指差して、
 「――――」
 威圧を込めた声音で、はっきりと告げた。
 告げられた男は、信じられないようなものを見る顔になる。
 けれどやがて肩を竦めると、荒々しい音を立て、襖を蹴り破らんばかりに乱暴に叩き開いて、部屋から騒々しく出て行った。
 深、と。
 硬直し続けている太夫と、腕に軽く手をやった男の二人だけの室内に変わる。
 物音に怯えて、女将すら廊下より去ったのだろう。開け放たれた襖の向こうに、人の気配は何も無い。
 固く縮こまったままの太夫の耳に、短い言葉が途切れ途切れに届き始めたのは、随分経ってからの事だったのだと、後ほど彼女は思った。
 なにしろ、頭を抱えてしばらくは、放心していたように思うからだ。
 「a……s……dt……」
 麻痺した脳内にゆっくりと、男の深い声が響く。
 「……え?」
 異人の言葉を彼女は知っている。
 「……Wa……s……dit?」
 十二分に怖かった。けれど恐怖より好奇心は更に勝った。
 閉じた瞼をこじ開けて、恐る恐る顔を上げた太夫の目に飛び込んだのは、畳の上の座布団を指差しては、しきりに同じ言葉を繰り返す男の姿であった。
 「……Wat is dit?(これは何ですか?)」
 その言葉を彼女は知っている。
 蘭語である。
 先に男が口にしていた発音と、明らかに性質が違う。
 太夫の馴染みの上客に、蘭語を嗜む医師がいる。その客から興味の赴くままに、彼女は多くの書を借り、そうして拙いながらも読み覚えた。
 女は文字を知らないと、信じ、思い込むのは愚かな男である。
 商売柄、遊女に与えられた時間は気だるいほど多くあったし、知識を蓄えることは、それだけ上客の呼び込みに繋がるから、積極的に彼女達は書を読んだ。
 一つの書を皆で回し読み、読み聞かせ、ああでもないと感想を言い。
 そうして一年経つころには、字引の世話にならずとも、蘭語の原書を読み上げられるほどには、彼女はその言葉を自分のものにしていた。
 であるから。
 「Wat is dit?(これは何ですか?)」
 懸命に畳の上を指差して、男は太夫にそう尋ねている。
 姿を眺めて太夫は不意に気付く。尋ねてはいるものの、男は別段、物の名前が知りたいのではないのだろう。
 極限までに彼女が怯え切っているのを見て取り、そうして言葉を変えて、話しかけてくれているのだ。
 通じるかどうか定かではないのに。
 白痴のように、思わず口を開いて、ぽかんと見つめた太夫をあの青い目で見返して、男が悲しそうに首を振った。
 「……onmogelijk.(無理か)」
 「ざ……ざぶ……とん」
 諦めかけた男の言葉を聞いて、太夫の口が勝手に動いた。
 「Wat?」
 「座布団。それは……座布団」
 「Za……buton?」
 「そう。座布団」
 きっと傍から眺めたら、同じ言葉を繰り返し繰り返し、口にする自分は滑稽に見えるのだろうと、太夫はふと思った。
 「Ik zie.(なるほど)……Dan, Wat is dit?(ではこれは?)」
 男が指差したのは膳であり、床の間に生けられた花であり、壷であり。
 行灯や障子や、そうしたものをいちいち指差しては、太夫が口にする言葉を繰り返し頷いて、やがて室内に指差すものがなくなると、男は自身の胸に手を当て、
 「James」
 言った。
 「……じぇい…?」
 「James」
 「ジェイ……ムス?」
 「Ja.(そう)」
 彼女が名前を繰り返すと、男は嬉しそうに笑う。
 言葉もたどたどしい、異国の人間は、けれども自分と大して変わりが無いのだ。
 笑った顔が妙に印象的で、いつの間にか、強張りの解けている自分に太夫は気がつく。
 男は次に彼女を指差した。
 「……U bent?(あなたは?)」
 真っ直ぐな青に中てられて、
 「……春。」
 「Hal.……ハル」
 思わず太夫は、席上では決して口にしない――どころか、この仕事に就いてから、疾うに忘れたと思った本名を口にしていた。
 忘れたと、思っていたのに。
 ハル、ハル、と幾度か男は彼女の名前を繰り返し、そうしてとても温かみのある笑顔を、ふわと浮かべて、
 「Ik denk de naam you'r goed is.(いい名だ)」
 言った。
 優しそうだな。
 男を見つめて、そう思った。



最終更新:2007年03月25日 00:40