夢を みた
優しい夢を みた
それが何の夢だったのか 何をしていたのか
誰と誰がいたのか どんな話をしていたのか
嬉しかったのか 悲しかったのか 楽しかったのか 怖かったのか
目が覚めた途端にみんな遠くに行ってしまって 手の届かない遠くへ
何一つ覚えていないような
そんなありふれた いつもの夢だったのだけれど
あなたは多分 笑っていた気がする
逆光のせいで 泣いているのか笑っているのか
それともいつものように 私に対して呆れながら怒っているのか
よく判らないし そんなことはっきりと覚えていないし
実際笑っていたのかどうかも 夢の中の話で 私がそう感じたということだけで
なにより 夢の中に 本当にあなたが出てきたのかどうかなんて 私にも判らなくて
でもその時 確かになくしたはずの何かがあって 誰かに取られてしまった何かが
あって
蝶番の弾け飛んだ――つまりは、豪くぶっ壊れた扉を、追いかけ損ねたカークは唖然と眺めていた。
震動で安宿の天井から埃と漆喰が降ってくる。
目を覚ました瞬間に、目の前には何故か自分を眺めながら、眉根を寄せて真剣そうに悩む少女の姿があり。曖昧な夢の中の記憶と、感情が無い混ぜになり、唐突にフィードバックして彼を襲い、
正直自分がどんな表情で彼女に話しかけたのか、あまり意識していなかったのだ。
眉間を揉み解しながら、カークは小さく溜息をつく。
他人に弱い姿を見せることが基本的にカークは苦手だ。理由は知らない。原因も判らない。
判らないというより、忘れてしまっている。
彼には、彼自身も知らない過去がある。らしい。
”らしい”と言うのは、彼自身その過去の記憶が曖昧なままであるからだ。思い出したくないのではない。思い出せないのである。
だから彼は、自身の正確な製造年月日やタイプコードを、知らない。
抹消されかけたのだと、思っている。
ただひとつだけ彼に判っているのは、思い出そうとすると、頭の――人工頭脳の端部分が鈍く痛む。感覚的なものではあるが、あまり良い記憶だとは思えなかった。
自分のどこか、喜怒哀楽の抜けたような性格も、その辺りに帰依するのではないかとカークは踏んでいる。
しかしそれをヒューに告げると、鼻先で笑われたが。
「地だろ」
そう言っていた気もする。
笑っていた彼は、今も振り向くと呆れたことに鼾をかいて平和に寝ていた。あの騒ぎにも目を覚まさなかったらしい。
それが、いかにも彼”らしく”て、カークは思わず微笑んだ。
世は全て安泰とでも言った顔で、寝る彼に何度救われたことだろうと思う。
――できそこないだったから。
カークは、男でも女でも、無かった。
やはり、理由も原因も判らない。
両性あるのではなく、両性共に無いのである。出荷時の検品ミスで済ますには、あまりにも大きな欠陥部位。
男を安らがせるなよやかな腕も、甘い声、くびれた腰。もしくは力強い肩、頼れる存在、何時如何なる時にでも揺るがない圧倒的な力。
それら全てにおいて、曖昧。
アイデンティティも自我も、危い糸の上にある。
他人に罵倒されるときは、「おとこおんな」でも「おんなおとこ」でも間違いのような気がする。何故ならどちらも無いから。
一番その存在に近しいのは、であるから「できそこない」。
自身の意義もなにもかも薄れかけた時に、出会ったのがヒューだ。
一瞬の躊躇いも見せず、手を差し伸べてきた。
呆気に取られたのが正直なところだ。
この世にはまあ、物好きな人間もいるものだと、我が事ながら関心すらした。
そうして、そんな物好きな人間の脇にちょこんと添っていたのが、マルゥだった。
最初に彼を発見したのは、ヒューよりマルゥが先だったように思う。
――ねえ。何してるの。
不思議そうな声だった。心底不思議そうな声だった。彼がどうしてゴミ捨て場にうずくまっているのか本当に不思議でしょうがない、そんな素直な声だった。
そして、好奇心の満ちた顔だった。けれどそこに悪意は全く無かったはずだ。
いつでも感情に真っ直ぐなマルゥを思う。
彼が羨ましくなるほどに、彼女は泣き、笑い、怒り、そしてまた笑っている。
単純と言えば単純な性格なのだろう。けれど眩しいほどに、カークはそれに憧れる。
自分には決して出来ない表現方法だったから。
彼女は先刻何故か唐突に怒り出した。
己が気配りにかける性質であることは、カークはよく判っている。意識していなかったが、随分と冷たい言葉でもかけたのかも知れない。
――夢、が。
目を覚ました途端にどこか記憶の向こうに追いやられ、忘れ薄れかけた夢が、再び蘇りそうになって、カークはふと眩暈を感じた。
かぶりを振ってそれを払うと、未だに眠りこけるヒューを起こさないように立ち上がり、枕元の壁のコンセント部分に手を伸ばす。
嵌め込み式になり、厚く膨らんでいるカバーをそっと外すと、内に配されたいくつかの電線に指を這わせた。
煩わしい視界はシャットアウトする。
そして、電線よりP-C-C内に張り巡らされたネットワーク回線に合流し、中心部へ向かう。どこにでも仕掛けられているアイ・カメラへ接続するためである。
こうして回線を潜り抜ける感覚は、細い管の中を激流と共にうねり流れてゆく感覚とよく似ていると、カークはそう思う。
目まぐるしいほどの光や色が、後方へ駆けてゆき、それを目で追う暇は無い。ハレーション。明と暗。光と闇。裏と面。それらが複雑に絡み合い、一瞬後には見えなくなる。
或いは人間の内部の血管映像にも似ている。
先に随分無茶をしたせいか、スキャンする度に鋭い痛みが全身を貫く。
ダメージが収まりきっていない。ともすれば拡散しかける意識に、小さく舌打ちし、叱咤した。
そうして。
静かな悲鳴を上げ続ける己の内部を無視したままに、いくつものプロテクトも暗号化されたキーワードも、瞬く間に通り過ぎて不意にゆったりと広い空間に彼は躍り出る。
イメージとしては薄暗く、暖かい。胎内のような静けさだ。
P-C-C中心部の一角に辿りついたのだった。
一息つく間もなく幾万、幾億本の中から目指す回線を探り当て、身をくねらせてまた。潜り込む。
痛みが劈く。苛々した。
「――……!マルゥ」
それでも集中は途切れず、検索し、彼女の姿を発見彼の口から、思わず声が漏れ出でる。
路地裏に少女が倒れ伏している。
豪く、傷めつけられているようだった。
動かない。
傍らに立つ二人の人影を見咎めて、カークは眉をひそめる。
一目で、人間ではないことに気付いた。彼の視覚は、現在P-C-Cと連動している。アイ・カメラに映る映像には、人影の首筋が仄かに光っていた。
D-LLのバーコードに間違いない。
そのバーコードに刻まれた情報全てを、アイ・カメラはズームし、読み取る。
「――」
無言で踵を返し、上着を取るのもそこそこに、カークは部屋から駆け出した。
「……この、サド趣味!」
転がされた路地裏で、精一杯の虚勢を張ってマルゥが口を歪めた。
身体のあちらこちらがどうしようもなく痛い。きっと腫れ上がっているのだろう。男達が、D-LLの二人が、手加減無く彼女を小突き回した結果が、これだ。
「威勢の良さと減らず口だけは認めてやるよ。お嬢ちゃん」
本気で感心したような男の声が降って来る。
「――だけどな。アンタがどこでその組織の名前を耳にしたのか、チョっと教えてくれれば、こんなに痛い目にはあわずにすんだんだぜ?」
猫なで声には苛立ちが混じる。
少女はどこまでも頑なだったから。
「レディの扱いも知らないような男に言うわけ無いでしょ」
マルゥは吐き棄てる。
彼女が一言口にしただけでこの反応なのだ。
よくは知らないが、過去に何かひと騒動ありそうなカークの名前を出す気は、マルゥには全くない。
とは言え、そもそもカークの「カーク」たる名前は、ヒューが名づけたものであったから、製造番号でも言わない限り、男達が彼の正体を知ることは、有り得無さそう……ではあったが。
そうしてとりあえずカークには、製造番号その他のバーコードが存在しない。
と言うより、消されかけているのである。
「強情な小娘だ」
砕けた調子の男とは違う、もう一人の声がして、不意に身体に衝撃が走る。
「あ……ぐぅ……ッ」
目盛りを最大に合わせたD-LL用スタンガンを、男が容赦なくマルゥの身体に当てたのである。
十数えるほど。
「……そんなにやったら壊れちまうだろう!」
「……構わない」
当てる時間のあまりの長さに、片割れが慌てた声を出しても、もう一人の調子は狂うことは無かった。
「手加減するから舐められる」
ぞっとするほど低い声で言うと再び、細かな痙攣を起こすマルゥの身体に、男が静かな唸りを上げるスタンガンを当て、
「――!!」
全身を海老反りに仰け反らせて、彼女は目を見開き涙を流して悶絶した。
「お、おい!」
びくびくと大きく震える体が自分のものではないようで、呼吸困難に陥り彼女は失神しかける。
「死にたいか」
けれどそう簡単に、男はマルゥを解放する気は無いようで、人事不省に陥りかけた頬をぐいと掴むと、軽く平手打ちをかました。
張られた痛みに焦点が戻る。
「言え」
無常な瞳に剣呑な光が宿る。
マルゥが小さく口を動かした。
「……ぅん?」
「こ……のッ……クサレ外道……!」
聞き耳を立て、近づけた顔に勲章ものの痩せ我慢。
聞いた男がカッとしたのか、拳を固めて振り上げた。
――……また。殴られる。
痛みを予測してマルゥはきつく目を閉じ、歯を喰いしばる。
「……?」
痛みも衝撃も、来なかった。
恐る恐る、片目を開いて様子を伺う。
黒い、瘴気が。
目の前に、揺らめく炎にも似た黒の瘴気が見える。そうして拳を振り上げたD-LLはとうに絶命(或いは機能停止?)しているのだった。
男の首筋に突き立つ銀の筋は、細く長い鉄管である。
もう一人も壁に縫いとめられ、呆気に取られた顔をしていた。
「あれ……」
ゆっくりゆっくりと痛む眼球を動かして瘴気の正体を視界に納めたマルゥは、はっと小さく息を呑む。
「カー……ク?」
彼女を守るように立ち塞がっていたのは、見知った、お綺麗とマルゥの評するあの姿だった。
非力で、運動神経に欠ける、細身の肢体。
黒い短髪。身体のラインがモロに反映されるチャイナにも似た、白地のロングコート。かっちりとその下に着込んだアンダーウェアの黒がよく映えている。
指の先まで隠されている彼の体。
彼女の声に振り向くことなく、カークはゆらりと歩く。鉄管を逆手に持ち、
「カーク……」
何か叫ぼうと口を開いた男の首筋に、同じく銀の楔を打ちつけ、”ソドムとゴモラ”の組織員は無言で絶命する。
擬似体液の流出を、最小限に抑えた、彼の仕草に、知らず知らずにマルゥの顔が強張る。
動きに、一切の躊躇いは感じられない。
微風に黒髪が舞って、横顔が僅かに見える。
ぞっとした。
瞳が。
まるでガラス玉であった。
感情の揺らめきも、瞬きも感じられない。
日ごろマルゥは、彼のことを感情の振り幅の少ない性格だと思っていた。自分と比較するとあまりに冷静沈着に過ぎる。言い換えるならば無感情なのだと。
しかし、今の彼を見てはっきりと思い知る。無感情とはこの状態だ。
光が無い。
その時になって初めてマルゥに怯えが走った。こんなD-LLを彼女は知らない。
これは、誰だ。
「カーク!」
細い悲鳴にも似た声が、彼女の口から迸り、その声に彼が弾かれたように振り向く。
「――……マルゥ?」
不思議そうな、顔をしていた。
我に返った顔をしていた。
悪い夢から不意に覚めたような、そんな顔をしていた。
「――どう――しました」
いつもの彼に戻っている。
「カーク……アンタ、カークよね?」
「――?私、ですが……」
彼女の質問の意図が判らないとでもいう風に、首を傾げるカークに、恐怖から解放され、安堵と脱力を感じて、マルゥはようやく肩の力を抜いて、ぐったりと路上に伸びきる。
伸びきった彼女に直ぐに彼は近寄って、長い指で彼女のあちこちの損傷具合を確かめている。
優しい動きだ。
この手がつい数分前、二人の男を手にかけたとは思えないほどに、優しい動きだ。
「……アイツら……、”首”を狙ってた」
首の下に腕を差し入れられて、起こされたマルゥは呟く。
「人質ならぬD-LL質にでもしようと思ったみたいだったけど。でも、泊まってる場所言わなかったし。見つからないよね。まあ、へなちょこのアンタと比べてアタシは強いし。アンタだったらきっと、」
「――マルゥ」
彼女の言葉を遮って、痛ましそうに傷を調べていたカークが、
「無茶」
しましたね。
囁く声で叱った。
昨日この中継地に着いたときに、マルゥが口にした、同じ言葉で。
その声がとても彼女自身を案ずるものだったので、遮られてもいつものように腹を立てる気にもなれず、逆に弱気になった目尻からはついつい涙が転がった。
「……だって。だって。仕方ないじゃない」
彼女は十分痛かったし、そうして怖かったのだ。
「仕方ないでしょ……!」
濡れた頬を乱暴に拭いたかったのに、痺れた身体は指一本自由に動かすことが出来なくて。
精一杯の抵抗で、顔を背けた彼女を、ぎこちない動きでカークが胸に抱きしめる。
おずおずと抱きしめられたそこは、主のヒューと比べるといかにも頼りなく薄い場所ではあったけれど、それでもマルゥは酷く安心した。
「でも。言っておくけど。アタシの方がアンタよりずっとずっと先輩なんだからね」
しばらくして、負ぶわれた細い背中の上から、飽くまでも強気の姿勢で、ボヤいたマルゥである。
「――はい」
苦笑交じりに、けれど素直に頷くカークだ。
「アンタなんかまだ半年でしょ。アタシはもう七年もマスタと一緒なんだから。順位で言うなら、
マスタ>アタシ>アンタ
なんだからね。それ、忘れちゃダメよ」
「はい」
「今日のコトだって。お、恩に着せただなんて思わないでよね。アンタは新参者として、当たり前の行動しただけなんだし」
「はい」
「それに!アンタのその首の怪我、見っとも無いのよね。さっさと自己修復しなさいよ」
「はい」
「アンタがそれ治さないと、どっちにしろ届け先もスキャンできないんだし。まったく。自己管理の出来ないD-LLって、だから困るのよね」
「はい」
自分のことはひとまず棚上げ……どころか放り出して、マルゥは言い募る。けれどどこまでも暖簾に腕押しな彼の応えに、必死な己が馬鹿らしく思えて、マルゥは口を噤む。
「……それに。」
しばらく無言のままにカークの背に揺られていたマルゥは、ヒューの取った宿の外壁が見えてくると、言おうか言うまいか悩んでいた言葉に、もう一度口を開く気になった。
「アンタのこと、そう嫌いじゃないし」
ありがとう、とはとても言えなかったから、代わりにその言葉でごまかした。
それでもカークには通じたらしい。やわらかに微笑んだ気配を感じたから。
宿に戻ると、カークはゴネるマルゥの手当てをし、そうして眠るまで見守った。
鎮痛剤を飲まされ、全身包帯だらけになった少女は、ゴネた割りにはたいして抵抗する様子も無く、すぐにうとうとと眠りに就く。
見た目以上に、スタンガンによる内部へのダメージが大きいのだろう。これは二、三日様子を見たほうがいいのかもしれない。
軽く溜息をついて、それからカークは、呆れた眠り姫の主人に視線をやった。
よくもまあ、これだけ眠れるものである。
とは言え、責めるつもりは爪の先程もない。もしヒューがあの現場に居合わせたら、おそらくカークより苛烈な制裁を加えたはずだ。
キレた主を止める手立ては、今のところ、無い。
目覚めていなかったことこそ僥倖、と思うべきなのかもしれない。
大口を開けて眠るヒューの、それでも端正な顔に目を奪われて、
――あなたは、多分、
「――?」
先程の夢が。ぶり返して、カークは額に手を当てた。
なんの……夢、を。
思い出せない。記憶より先に夢が視界に入り込む。未来の記憶?
眩暈が――襲う。
夢を みた
優しい夢を みた
それが何の夢だったのか 何をしていたのか
誰と誰がいたのか どんな話をしていたのか
嬉しかったのか 悲しかったのか 楽しかったのか 怖かったのか
目が覚めた途端にみんな遠くに行ってしまって 手の届かない遠くへ
何一つ覚えていないような
そんなありふれた いつもの夢だったのだけれど
あなたは多分 笑っていた気がする
逆光のせいで 泣いているのか笑っているのか
それともいつものように 私に対して呆れながら怒っているのか
よく判らないし そんなことはっきりと覚えていないし
実際笑っていたのかどうかも 夢の中の話で 私がそう感じたということだけで
なにより 夢の中に 本当にあなたが出てきたのかどうかなんて 私にも判らなくて
でもその時 確かになくしたはずの何かがあって 誰かに取られてしまった何かが
あって
あなたは多分 笑っていた気がする
過去に何があったのかあまり気にしていない(気にしても仕様が無い)
なくした事実に慣れるまではだいぶ不便であったけれど それはただ それだけのことで
夢を みた
優しい夢を みた
それをなくしてから 初めて自分のやりたかったことが思い出されたようなそんな感じの夢で
夢の中で私は よく判らないけれど誰かを両腕で抱きしめたかったようで
けれど その抱きしめたい誰かが ”誰” なのか判らなくて もどかしくて そんなところで目が覚めた
両腕で抱きしめたかったのは 誰だろう?
「……朝かああああぁああ」
鼾が唐突に鳴り止み、ガバ、と擬音がするほど勢いよくヒューが起き上がる。
毎度見るたび感心するほどの、彼特有の目覚めの仕方。
挨拶しようと、眩暈を堪えて微笑みかけたカークの顔が、不意に強張る。視界が揺れる。
既視感。
”あなたは多分 笑っていた気がする”
抱きしめてみたかったのは
「……おまっ、ちょ、何いきなり泣いているんだよ!」
「――判りません。どうして私は泣いているのでしょう」
涙が出たのは何故だろう
最終更新:2011年07月28日 08:05