「ぅえ?」
ぎょっとして見返す。
「――ヒュー」
カークには見えていない。声を頼りに、こちらを探す彼が不安そうに動いて、
からん。
乾いた音を立てて、黒髪の上からもう一つの顔が滑り落ちた。
顔と言うより面である。
ぞっとするほど真っ白な、人の面である。
「なんだこりゃ……」
怖々と手に取ってみる。裏返す。それは酷く乾燥していて、見た目よりもずっと軽いのだった。
「お面……か?」
こんなものは知らない。首を捻るヒューの声に興味をそそられたのか、手探りでカークも回りを探る。一つを手に取り、表面を撫で、はっと肩を強張らせた。
「カーク」
「――これはD-LLの――形成骨格の顔部分だと思います」
「……骨……なのか?」
「ホネデスヨ」
「わあッ」
背後から急に聞こえた第三者の声に、ヒューは飛び上がって、ガラガラと面の山を崩しながら、カークの傍らに這いずった。
「なななな、なんだお前!」
振り返り、照れ隠し。指を突きつけ怒鳴った相手は、赤い点滅を繰り返す眼をした、まるでロボットなのだった。
四角いブリキと鉛管で成り立っているような、今時珍しいほどに旧式のものである。生産ラインにでも組み込まれているのか、腕はアーム状。
それが動くたびに、油の切れた関節よりきぃきぃと軋む音が鳴る。
ロボットは、豪くぎこちなく身を半折った。
お辞儀したのだと、理解するのに数秒要した。
「私ハD-LL。完全無欠ノろぼっとデス」
感情のこもらない、所謂”ロボット声”で、聞きようによっては誇らし気だ。
「完全無欠……ねぇ」
思わずヒューはしげしげと、目の前の相手を眺めた。
無欠どころか、完全にも程遠いようにしか、彼の眼には見えない。
背の高さは立ったヒューの腰の辺り。首筋と言おうか、人間であるならば首にあたる部分の、顔の下の細い鉄管部分に、それでも黒いバーコードが刻み込まれているのだった。
「All Can-No.000056――かなりの初期型――ですね」
全くの暗闇でも、そこだけは同志同士、お互いに光って見えるのだという。
じっとロボットを見つめていたカークが、低く呟く。
「初期型がまだ残っていたとは――」
「お前、」
無機質と言うか無感情と言うか、たいそう微妙な顔である。強いて言うなら機能性を重視した結果なのだろう。今時分、子供でも描きそうに無い直線ばかりの、顔である。どこに焦点を合わせて会話をしたらよいのか、悩みながらヒューが口を開くと、ふんぞり返った(多分)ロボットは、彼の言葉を遮り、
「あるるかんト、オ呼ビクダサイ」
そう言った。
「……じゃあ、アルルカンとやら。お前こんなところで何してるんだ?」
「私ハ」
きぃきぃとグラついた首を回しながら、ロボット――アルルカン――は、チカチカと眼を点滅させる。
「私ハ、製造シテイマス」
「製造って……この、D-LLのホネを……か?」
「ハイ。形成骨格ハ、D-LLノ基礎ト、ナルベキ部分デス。トテモ、重要ナ部分デス。私ハ、ソノトテモ重要ナ部分ヲ、製造スルコトヲ任サレタ、特別ナD-LLナノデス」
「任される……って。造るのは良いけど、こりゃとても出荷している感じじゃあ……ないだろ……」
溜まり尽くしている。
改めてヒューは辺りを見回す。
扉の向こうは、動いていること自体が奇跡に近しいような、旧式と言うよりは、古式の製造ラインだ。
擦り切れ、所々穴の開いたベルトコンベアーが、悲鳴のような音を立てながら、やっと回っている。
「……一体、いつから造ってるんだよ、これ」
「正確ナ年数ハ、372年ト、13ヶ月ニ、ナリマス」
「372年……造り続けているの、か」
床の上に限らず、とにかくあちらこちら、まさしく足の踏み場どころか、窒息死しかねないほどに大量のD-LLの骨格が、積み上げられるだけ積み上げられている。埃の層がブ厚い物も多い。
「出荷ハ、御主人様ガ、管理サレテイルノデス。私ハ、製造らいんヲ、監督シテイルノデス」
「――しゅ、じん――」
どこか嫌悪の表情を浮かべて、カークが小さく皮肉った。ヒューはそんな彼を見やる。
同属嫌悪なのだと、以前カークはそう言ったことがある。あまりにも機械に過ぎるものは、自分自身を映されているようで、嫌な気持ちになるのだと。
決して人間ではない自分の現実を、直視させられて悲しくなるのだと。
相手が悪いわけではないのです。そう思ってしまう私が悪いのです。それは判っている、いるのですが――。
俯いて言っていた。
「御主人様ハ、オ身体ノ具合ガ、良ロシクナクテ、御静養中ナノデス」
チカチカと赤ランプを点滅させながら、ロボットのアルルカン。
「静養……どこで?」
「コノ奥ニ、イラッシャイマスガ、今ハ、オ身体ノ具合ガ、良ロシクナイノデ、誰トモ、オ会ニ、ナラナイノデス」
「ふむ……。……カーク?」
「はい」
顎に手を当てたヒューは、アルルカンから、顔を背けて床を見つめているカークに声をかけた。
呼ばれて彼は、顔を上げる。
「音はまだ聞こえているか?」
「はい」
一瞬耳を澄ませて遠い眼をしたカークは、直ぐに聞き取ったのだろう、ヒューの問いにはっきりと頷いた。
「……アルルカン君。お忙しそうなところ申し訳ないんだが、俺たちは、この砂漠で現在迷子中でね。できれば御主人にお会いして、道を尋ねたいと共に、少しばかり水を分けて欲しい。無理を承知で頼みたいんだが」
「水ハ、奥ニ湧イテイマス。オ分ケ出来ルト、思イマス。シカシ、御主人様ニ、オ会イニナリタイ。ト、ソウ言ウコトデスカ」
「そうだ」
「シカシ。御主人様ハ、誰モ通スナト、仰イマシタ」
「そこを、なんとか」
「シカシ」
「――第34059条。”非常時、及び災害時の判断においては、製造者(メイカー)の指示を仰がずとも、自身の行動を選択することが出来る”――D-LL製造規定法に、そうありますね?」
ヒューとアルルカンとのやり取りを、聞いていたカークが、不意に口を開いてそう言った。
「完全無欠のD-LLには、初期型からきちんと、規定法がインプットされているはず。まさか、忘れては――」
「忘レマセン」
試すようなカークの声に、チカチカと憤慨した点滅を、しきりに繰り返しながら、きぃきぃと車輪を鳴らして、アルルカンは踵を返した。
「特例デス。ゴ案内イタシマス」
「それは助かる」
感謝の言葉を口にしながら、ヒューは歩き出そうとして、思い出し振り返る。
所在無い顔をして、カークが一人で立っていた。
「忘れてた。見えないんだったな、お前」
言って、突っ立つ彼の手を取り、アルルカンの後を追って、ヒューは改めて歩き出した。
「……カーク。ロボットなんとか規定法とかってぇの、よく覚えていたな」
ふと思いつき、前方を歩くアルルカンに、聞こえない程度には低く抑えて、ヒューが彼の耳に囁くと、
「――ああ、」
普段あまりしない苦笑いを見せて、カークが小さく囁き返す。
「すみません。デタラメでした」
「はぁ?」
「――D-LL製造規定法と言うのは確かに存在するのですが、全箇条でも5000ほどで、第34059条なんて物は――無いですね」
呆気に取られるヒューをよそに、彼は肩を竦めるのだった。
そうして、ロボットのアルルカンに案内されて、しばらく歩いた後くと、うっすらと明るい通路にたどり着く。
目の前には扉が見える。と言うより、扉とは名ばかりの、やはり大きなブリキの板である。
ブリキの板の向こうから、光が漏れているのである。
「御主人様ハ、コノ扉ノ向コウ側ニ、イラッシャイマス」
「これは……開かない、だろ……」
何度か試しにノックしてみたものの、当然と言うか中から応えは聞こえてこず、ノブも無い扉はびくともしない。もしかすると、とっくに辺りの土壁と、同化しているのかもしれない。
仕方なくヒューが、何度か力任せに体当たりをすると、ようやく人一人分の通れる隙間を、こじ開けることが出来た。
失礼といえば失礼極まりないが、それでも中からヒューを咎める声は聞こえない。
「よほど重態か、或いは」
言いながら、まずはヒューが扉を抜ける。
こじ開けた扉からますます光が漏れ出でて、暗闇に眼が慣れたせいか、ほんの僅かな光もやけに眩しかった。
扉の向こうは。
「ああ――、」
続いて潜り抜けたカークが、広がった光景に溜息をついた。
扉の向こうは。
広かったのだろう空洞に、四方から砂が崩れ落ち、僅かに残る空間になっているのだった。
もともとは、ガラス張りの部屋だったのだろう。今はガラスを砂が侵食し、突き破って流れ込んでいるのだった。
上空の月光が深々と降り注いでいるのだった。
決して目映い訳ではない、微弱な優しい光のはずなのに、とても鮮烈に感じられるのだった。瞬きを繰り返し、ヒューは胸ポケットに差し込んでいたサングラスを、再び鼻に乗せる。
モルタルの壁から剥がれ落ちかける細い鉄骨が、月光をそこだけ遮って、まるで影絵のようだ。
砂の上に散らばるガラス片が、きらきらと光を乱反射させて、輝いている。
少しだけ色のある赤茶けた土壁がまるで馴染んだレンガにも見えて、
「礼拝堂っぽいな」
景色に飲まれるカークに眼をやりながら、呟く。
「……砂漠の夜は青い」
どこかの詩にそんな言葉があった、ふとヒューは思う。
その礼拝堂にも見える下。
柔らかな、砂ではなく土があるのだった。滾々と水が溢れ出して流れを作っている。
流れの脇に、青々と茂った木が一本、風にそよいで立っていた。
白に限りなく近い、薄朱色の花が咲いていた。
風に乗り、種がここまで運ばれてきたのだろう。そうして僅かな土の上に根付き、ゆっくりと芽吹いたのだろう。幾年もかけてここで静かに、伸びて行ったのだろう。
地表では煩いほどの乾いた凶暴な風が、ここでは湿気を含んで優しく吹いている。
それが通り抜けるたびに、さや、さや、と葉擦れの音がするのだった。
「お前が聞いたのは、」
「――この――音です」
うっとりと眼を瞑りながら、カークは言い聞かせるように何度も頷いた。
ただ若葉がたてる、ささやかなざわめき。音となって見えそうなほど、月の淡く薄白黄色の光。
そうして匂いたつ白い、白い、
花。
雪のようだとも思った。
カークが言葉も無く見惚れているのに対して、先に我に返り状況に順応したヒューは、木の根元に近づいた。
幹に背を凭せかけた、人影を見つけたからである。それは、俯いたままだった。
全く動かない。
「もしもし、」
近づいて息を呑む。
生きていない。
生きているはずが無い。
それはもうとっくに、骨になっていたからだ。
五十年、六十年の単位ではなさそうだった。
骨が半ば風化するほどの、長い……長い年月。
その長い年月を動き続けたのだろうアルルカンが、きぃきぃと車輪を転がして、ヒューの傍らに近づいた。
「御主人様ハ」
「……ああ。お前の御主人は、……どうやら、」
「御主人様ハ、オ身体ノ具合ガ悪イノデ、誰トモ、オ会イニナレナイノデス」
残念だったな、そう言いかけたヒューの耳に、無機質なアルルカンの声が飛び込んだのだった。
「え?」
「シバラク静養スレバ、元気ニナルノダト、ソウ仰イマシタ」
「せ、いよう……」
「コノヨウニ、ズット、静養ナサッテオラレマス。ソノ内、キット元気ニ、ナラレルノデス」
「いや……でも、これはよ……」
「――ヒュー」
カークが、ヒューの言葉を遮って、ゆっくりと首を振った。
夢を見たままでいられるのならば、無理に覚ます必要はない。瞳がそう言っている。
「……そうなのかも、しれないな……」
頷いたヒューは、それ以上口にするのをやめた。
チカチカと、アルルカンの赤いランプが、静かに静かに瞬いて、
「御主人様」
無感情なはずの声なのに、それは何故か哀しいほどに優しく、ヒューには聞こえたのだった。彼(或いは彼女?)にとっては、主人は今でも眠っている。
それからふと、隣に立つカークの細い手首を、未だに握ったままであったことに、気付く。
静かに温もりを放つそれは、どんなに人間の温もりと似ていようと、けれど擬似体温なのである。
この脇の初期型の点滅機械と、形は違えど、本質は何ら変わることのない、擬似生命体なのである。
決して自分とは相容れない存在なのだと、ヒューはそこで思い至った。
初めて思い至った。
もうずっと、D-LLと共に暮らしていたというのに。
そうして愕然とした。
それは、いきなり目の前に突きつけられた絶望でもあった。
彼はD-LLであり、自分は人間である。
人間である自分の命は、人工身体に置き換えない限り、持ってせいぜい80年だ。それ以上は生きられない。
D-LLはいつまで生きるのだろう。
……お前は……いつまで生きるんだ?
ざわ。
頭上の枝葉が揺れる。
ヒューは、捻り潰されるような、切なさに似た何かから逃れるように、顔を上げる。はらはらと白い花雪が、まるで彼に呼応したように、一心不乱に舞い落ちる。
――ああ。
溜息に似た声が喉から漏れて、隣のカークもぎこちなく腕を伸ばした。
「啼いている」
「いいや、」
伸ばした腕の白さに眼を奪われながら、首を振る。
「謳ってるんだろ」
その声に応えるように、はらはらはらはら零れる白い花びら。
はら。はら。はら。はら。はら。はら。はら。
はら。はら。はら。はら。はら。はら。
はら。はら。はら。は。
降りしきる風の花に、なにもかも、埋もれてしまいそうだった。
実際、埋めてしまいたいのかもしれなかった。
彼の隣のD-LLは、仰け反っている。仰け反った顔に、髪に、雪が纏わりついている。
そうしていると、どこまでも人形のようで――ヒューは、普段見慣れたそのD-LLが、とても綺麗であることに、突然気づくのだ。
何故なら彼は造り物だったから。
ヒューは、カークの寿命があとどれくらい残るのか知らない。
初期型と呼ばれるロボットのアルルカンが、未だ稼動してることを思えば、自己修復を備えた改良型は、きっと永遠とも思えるほどに、長いのだろうと思う。
彼らD-LL機種にとって、人間の自分との出来事は、瞬き数度のことかもしれない。
それはとても当たり前のことで――そうして悲しいことなのだった。
だから。
だからお前はいつも淋しそうな顔をしているのか?
夢を――……見ていた。
人工物に覆われた住居地区、もしくは手付かずの荒地しか存在しないP-C-Cでは、決してお目にかかることの出来ない、一面緑の草原だった。
そこにヒューは立っている。
いつの間にここに来たのだろう。
ついさっきまで、それこそ一面黄色の砂、砂、砂ばかりだったはずなのに、そこで夜を明かすことになっていたはずなのに。
もしかすると今までが夢だったのかもしれない。
どちらが現実か、なんて本当はそう大きな違いはないのだ。
草原で、彼は一人だった。
いつも何かしら纏わりついている、マルゥの姿が見えなかったから、やはりこれは夢なのかもしれないと思った。
緑の草を掻き分け、彼は歩いた。
踏みしめた草の、青い臭いがぱっと空中に散って、それはとてもリアルな夢なのだ。
こんな風景は決して見た覚えはないのに、昔どこかで確かに見た、そんな確信のある場所だった。
しばらくゆくと、小高い丘があり。その頂に誰かが立っているのだった。
小柄な少女のように、見える。
ふわふわとした白のワンピースを、時折そよぐ風に揺らして、少女は立っている。
「マルゥ?」
後姿に見覚えを感じて、彼は呼びかける。呼びかけにゆっくりと、少女が振り向いた。
光を背負った彼女の顔は、逆光でよく見えない。
それでもヒューには、少女が笑ったのだとはっきりと判っていた。優しい光の向こう側に、笑顔を感じて、ヒューもまた笑い返す。
「お前、どうしてこんなところにいるんだ」
――……どうして?
少女がころころと笑いながら近づき、彼の足元の緑が、ゆらりと揺れる。
――マスタったら。おかしいね。
「……マスターと呼ぶなと何度言ったら」
――ヒュー?
声がそっと掠れてゆく。
「……マル……ゥ?」
少女の体も薄くなる。
消えてしまう。
「おい!」
草原を蹴立てて、ヒューは少女のシルエットに近づいた。折れてしまいそうに細い腕を掴む。
掴んだと思った瞬間ヒューは、
P-C-Cの中央区に構えた高級住宅地の一室に立っている。
我が家かとも思ったが、ありえないほどに広い。端が見えない。
……ここは、俺ん家じゃねぇ。
顔を上げると、壁一面に張り巡らされた回線が目に入る。気が狂うほど細かな、一本一本は髪の毛よりも細い、それ。
束になり、絡まりあい、混じりあい、秩序正しく配線されている。
その配線の全ては、ヒューが腕を掴んだ目の前の細い身体の持ち主に、繋がっているのだった。
……繋がっているんじゃねぇ。繋がれているんだ。
そんなことを頭の片隅で思いながら、ヒューは細い手首を握ったままの拳に目をやり、それからゆっくりと腕を辿って視線を動かす。
手首から肘。肘から肩。肩から鎖骨。そして白い……白い首筋。
首に刻まれた製造バーコードは、削り取られかけてよく読めない。
これは誰だ。
「おまえ……は」
お前は何だ?声にならない声が宙に泡となって溶け出す。
ヒューの見ている前で、泡を呼吸と共に吸い込んだ<それ>が、黒いガラス玉を動かして彼を見た。
貫かれた。
<それ>はとても綺麗だったのだ。
――わたしは。
薄い色の唇が動く。
”わたくしの言うことが聞けないのかね?”
その動きが合図のように、不意に空から声が降って来て、ヒューは驚いて上を見た。
天井はどこまでも闇がわだかまっていて、蹲っていて。果てが見えない。
もしかすると、果てなど無いのかもしれない。
”わたくしの言うことが聞けないのかね?”
苛立たしげな声だった。ヒューに言っているようでもあり、そうでないようにも思えた。
”わたくしの言うことが聞けないのかね?”
”ここにいて、わたくしの言うとおりにすればよいのだ。”
”何故そこで疑問を抱くのかね?”
”何がそんなに気に入らないのだね?”
”言うことを聞きなさい、聞くのだ。聞かねばならない。”
”……聞け。”
声は男のようでもあり、女のようでもある。
気がつけば、ヒューが腕を握っていた<それ>は、いつの間にか顔を両手で覆ってしゃがみ込んでいるのだ。
「おまえ、」
見慣れた少女の姿では決して無い。
これは誰だ。
裸でしゃがみ込んでいるのだった。
そうして、驚いたことに、<それ>は男でも女でもないのだった。
女ではない。けれど男である徴もない。
何もないのだ。
そうか。これは、造り物なんだな。
ヒューはじろじろと<それ>を眺めながら納得する。そうか。だからこんなに綺麗なんだな。
眺めている<それ>は、徐々に空中に溶けてゆく。皮膚が透き通り、薄膜になり、やがてその隙間より薄桃色のはらわたや螺子が零れだす。
思わずヒューは腕を伸ばした。
護ってやらなければ。これは、自分が護ってやらなければ、こうして直ぐに消えて行ってしまう。
逝ってしまう。
両腕で、宙に溶けてゆく体を繋ぎとめたくて、必死に掻き抱いた。
この強迫観念は、なんだ。
……忘れていることが……ある。
唐突に、焦燥に似た何かに駆られた。
思い出そうと努力して、喉もとまで出掛かっているのに、どうしてもでてこない。そんなもどかしい、「思い」だ。
――苦しい。苦しい。もう――……は、無い。
目の前の造り物が、顔を覆ったまま苦悶の声を上げた。声の一部はくぐもって聞こえない。
……なんだ。何が苦しい……ん、だ?
「おまえ、」
三度目の問いを口にしながら、激しい既視感に襲われて、ぐらり、とヒューの身体が揺れる。
「俺はお前を見知ってる。なんだ。どこで見た?」
……いつ見た。
――わたしは。
「ヒュー」
……ヒュー?それは俺の名前だろう?
――わたしは。
「ヒュー」
忘れていることがある。何だかとても大切で……悲しいこと。
「――ュー。ヒュー?」
数呼吸の間に、白昼夢を見ていたようだった。ぼんやりと突っ立っていたヒューへ、心配そうなカークの声が届いて、彼は唐突に覚醒する。
何度か名前を呼ばれていたようだった。
「――大丈夫ですか。どうかしましたか」
「……いいや。なんでもない」
曖昧な笑みを返し、頭を振って思いを振り払った。どうにかしている。きっと水分不足のせいだ。
そう決め付けて、ヒューはかざはなの木の向こう側、湧き水へと向かって行った。
「水が補充できるな。干物には、ならないで済んだ」
おどけた声音の背中に、カークと、アルルカン。二体分の視線を感じる。
――視線……か。
生きてはいない、生き物ではない、彼らに視線と言う物があるのなら。
砂漠に棲む初期型D-LLは、永遠に主人の目覚めを待つのだろう。
何故なら彼らには、”死”と言う概念が無いから。
そうして彼には、”死”そのものがきっと理解できないから。
少し空ろな、自分の手の平を眺める。言い聞かせる。
俺が死んだら、お前はどうするんだ?
マルゥではなく、勿論アルルカンでなく。
カークに、聞いてみたい気もした。
けれど、決して聞きたくはない気もした。
結局口を噤んだまま、言葉にはしなかった。
最終更新:2011年07月28日 08:06