<<雨と涙と硫化ナトリウムの味>>


  一生忘れられないと、思う。
  雨を見るたびに、思い出す。毎回。日に三度雨が降れば、三回。律儀に思い出す。
  雨で煙る窓の外を、飽きもしないで眺めているヒューにつられて、カークも眺めていた。ここは、天気まで管理されていると噂される、完全高度管理社会都市――通称P-C-Cと呼ばれる高級住宅地の一角である。どの辺りが「高級」なのかと言えば、まず広い。そして高い。値段が、でなく、階数がである。デコレーションケーキのように、何段にも積まれた中央都市は、上に行けば行くほど値段も上がり、中央管理局による管理もきちんとなされていた。反して半分から下……下層地区と名づけられた部分は、半ば無法地帯であった。中央管理局の管理も、遠く及ばない。P-C-Cと名乗れど、人間の棲む場所は所詮そんな物である。
  そうして高級地区。今は雨が降っているものの、普段はイミテーションではない、本物の日光が日光が差し込む。当たり前のようで、これだけの条件を維持するには、目の玉が飛び出た上に、転がってどこかへ行ってしまうくらいの金額が無いと、不可能である。
  世帯主は、ヒューだ。カークとマルゥ二人のD-LL”ドール”の主である。
  根掘り葉掘り聞いた事はないが(また、聞こうとカークは思わない)おそらく特殊な……所謂「裏の」手を使って、ここを手に入れたのだろうと推測している。
  何故なら主は、どう好意的に眺めても、コツコツ貯蓄できる性格ではないからだ。
  ギャンブルかウーツ鉱山でひとやま中てた、そう言われたほうがなるほどと納得できる。
  堪え性が無いと言おうか。一発逆転が好きだと言おうか。
  一口で括れば「破天荒」なのだろう。けれどカークは、自分には決してできない、そんな行動と決断力にある種の畏敬を抱いている。
  ない物ねだりといったら、それだけなのかもしれないけれど。
 「よく降るなぁ」
  ぼんやりと、長身の彼を眺めていたカークの視線に、気付いていたのかいないのか、背を向けたままに不意にぽつ、とヒューが呟いた。
  何が嬉しいのか、弾んだような声をしている。
 「こんだけ降ってたら、口を開けて上向いてたら腹いっぱいに水が飲めるか?」
  突拍子もないことを言う。
 「……つまり。腹が減った。そういう事だ」
  そうですねそうすればいいのでは、などと答えたら最後、主は本気で実行するに違いなく、どう答えたものか一瞬頭を悩ませた、カークの言葉を待つでもなく、ヒューは一人でそう締めくくる。
 「おいマルゥ!飯はまだか」
  キッチンに向かって声を張ると、「うん」でもない、「すん」でもない、曖昧な声がくぐもって戻ってきた。
  奥にマルゥが篭ってから、既に半日が経過している。
  普段、炊事はカークの担当であり、残る二人はもっぱら食べるのが担当だった。それが今日に限って、マルゥが炊事担当を主張したのは、「お隣さん」……マンションの隣室に住む独身壮年が、本日何故かヒュー宅に、食事をしに来るからである。
  マルゥの憧れの人間だった。
  どういう流れでそういう事になったのか、カークはよくは知らないが、おそらく立ち話の中でヒューが誘ったのだろう。
  酒でも一緒に。
  そんなことを言ったのだろうと思う。
  来訪を聞いたマルゥが、俄然張り切った。
  結果、カークは本日キッチンを追い出され、こうして男二人、リビングで膝を抱えている。朝から何も口にしていない。試作品が、未だにテーブルに並ばないからである。
 「大丈夫でしょうか」
 「うん?」
  時折聞こえるガチャン、パリンの音に耳を傾けながら、カークは朝から口にするのを堪えていた問いを、とうとう発する。
 「なにが」
 「マルゥの、作る料理は……、」
 「大丈夫だろ。今日は、地学の本読んでたこの前と違って、ちゃんと料理本持ってキッチンに行ったしな。どんなアレンジ加えるにせよ、口に入る物こしらえてくるだろ」
 「――だと、いいのですが」
 「……なんだよ?」
 「脇に抱えていたボトルに、硫化ナトリウムが入っていた気が――」
 「塩……のつもりか?」
 「……。」
 「……。」
  互いに顔を見合わせて無言になった。
  隣人を招待したのは、酒を共に酌み交わすことでなく、密かに暗殺することだったのだろうか。
  趣旨の判らなくなったカークは、それ以上考えないことにした。後始末は、結局自分に回ってくることが、容易に想像できたせいでもある。
  再び窓の外を眺める。
  雨垂れが、窓を伝って滑り落ちてゆく。つう、つう、音がしそうだった。
  見つめるカークは、記憶の海へ沈んでゆく。
  その日も雨が。雨が降っていた。


  ――……雨が降っていた。
  しとしと、でもなく、しんしん、でもなく。まるで音もなく雨が降っていた。
  霧のように細かい雨だった。
  降っているのか判らないほどのそれは、けれど小一時間も立ち尽くすと、確かに全身重く濡れて。
  辺りは雨のせいか、一面とても静かなのだ。
  その静まり返った路地の片隅に、膝を抱えてカークは蹲っていた。
  動かない。
  ――動けない。
  吐き出した呼吸は、細く長く白い水蒸気となって、空へ立ち上ってゆくのだった。その動きを緩慢な視線で追って、カークは自分が、まだ生きていることを知った。
  ――当たり前だ。D-LLは、雨に濡れた程度では死なない。
  完全無欠。
  皮肉に口元を歪め、微かに声に出して笑うと、熱を持った喉が引き攣れて、不意に咽た。
  ひとしきり咽びこんで、苦痛に滲んだ涙を瞬きで追い払った。
  そこはひどく冷たくて暗くて。おまけに腹が空いていた。もう何日も何日も、食べ物を口にしていない。
  それでも自分は生き続けることができる。何故なら自分は人間ではなく、D-LLだったから。
  カークの隣には、斜めに傾いだ古い機材が山と積まれて、それが丁度うまい具合に、雨よけの屋根になっているのだった。
  古い機材の上から伝った水は、灰色と言うか茶色と言うか、とにかく酷く汚れた水が、ぽたりぽたりと伝い落ちてくるのだった。
  指でなぞればきっと、べっとりとした油汚れ。
  その、雨だか汚水だか判らない水滴に、じっと濡れて、カークは蹲っていた。
  水滴が濡れた髪から滴って、仰け反った頬に流れた。
  まるで、涙のようだとも思った。
  実際彼はとても悲しかったのだ。
  人間であるならば、胸を抉る、そう言う表現を使ってもいいように思うほど、彼はとても悲しかったのだった。
  そうして消えてしまいたかった。
  滴り落ちる雨垂れは、黒く濡れた地面に吸い込まれてゆく。土ではないのに、これはアスファルトなのに。
  水はどこへ行ってしまうのだろう。
  ゆるゆると指を伸ばし、堅い地面に吸い込まれる水に触れる。
  ――私も消えてしまえば良いのに。
  泣けたら少しは胸の内も、すっきりするのかもしれない。けれども彼は泣くことができなかった。
  涙はとうに涸れ果てていたのだ。
  は……。
  白い息がまた一筋宙に昇った。
  雨の粒の落ちてくる空は、どこまでも白かった。見つめていると眩しいくらいに。
  その眺めた空の視界に、ひょこ、と。
  小さな顔が覗き込んでいた。少女だと認識するのに、しばらくかかった。
 「ねぇ。こんなところで何してるの?」
  可愛らしい顔立ちをしていた。その顔が、興味津々に自分を覗き込んでいる。
  哀れみはそこに見当たらない。
 「風邪ひくよ」
  暖かそうな上着に身を包んだ少女は、そう言って不思議な視線で彼を眺め回した。
  彼は、裸同然で、雨に打たれていたから。
  そうして裸同然の彼は、男でも女でもない、おかしな身体をしていたから。
 「捨てられているの、かな。……壊れてるのかな」
  躊躇いがちに触れられた指先が、ひどく熱く感じ、カークは初めて身じろいだ。
  返事は発さない。億劫だった。放っておいて欲しかった。
 「おい」
  そこに、もうひとつの声が降ってくる。じゃりじゃりと、靴音。
 「どうした、マルゥ」
 「マスタ」
  振り仰いだ少女が、首をかしげる。この子、捨てられてるの。
 「マスターと呼ぶなと言ってるだろう」
  興味をそそられたのだろう。手招きされるままに、声の主が近づいてくる。
 「ふむ」
  耳に飛び込んだその声は、初めて聞いたはずなのに、カークは思わず視線を上げて近づく声の主を見た。
  人間だった。
  人間の、男だった。
  酷く懐かしい気配がした。
  軽く目を閉じて思い出そうと試みる。知っている。私はこの気配を知っている。
  けれど頭の芯が疼くばかりで、記憶は容易に戻ってこようとはしなかった。錯覚だったのかもしれない。
 「今日は冷えるな」
  そんな彼の頭上から、まるで能天気な 声が降ってくる。この状況を見て、世間話できる人間と言うのはよほどの物好きか、或いは。
 「風邪をひくだろう」
  言葉と共に、ひょいと無造作に差し出された手のひら。
  大きな手のひらだった。
  思わずまじまじと見つめたカークは、やがてゆっくりと首を振る。どうか、放っておいて欲しい。私は欠陥品なのです。唇が僅かに動いたものの、声は掠れて出なかった。
  ようやく、自由になれたのだ。
  もう誰とも関わりを持ちたくはなかった。
  一人でこうして呼吸を繰り返しながら、やがて冷たくなって動きを止めて。そうしてこの横の廃材と、同じ物質になってしまいたかった。
  首を振った彼に構うことなく、差し出した手を引っ込めることもなく。じっとカークを見つめた男は、不意に微笑んだ。
  邪気の無い、とても温かな笑顔だったから。
  刹那。見蕩れた。
  鳶色の目を凝視したカークは、男がゆっくりと呟く唇の動きを眼に入れる。
  おいで。
  唇はそう動いていた。
 「俺が拾ってやろう」

  無意識……だった。

  自分の冷たい手が、男の手を取る様子を、まるで他人事のように視界に納めながら、カークは腕を引かれて立っていた。
  取るつもりはなかったから、きっとはずみだったのだ。
  立ち上がる際の、長い長い、永遠のような一瞬を、彼は覚えている。
  ほんの瞬き一回分、その短い時間で、灰色だった彼の視界に色が戻る。音が聞こえる。
  ……世界が回りだす。
  死んでいた自分に、死のうとしていた自分に、もう一度、男が光を与えてくれたのは、偶然。
  立ち上がった彼の前で、嬉しそうに男が笑った。
  見ているこちらまで温かい気持ちになるような、そんな笑顔だった。
  ――こんな笑い方をする人間も、いるのだな。
  馬鹿のように口を開いて、彼は見蕩れた。
 「俺はヒュー。コイツはマルゥ。お前は?」
  頭ひとつ分高い顔を、見上げたカークへ、男が告げる。
  尋ねられて答えようと、彼は口を何度か開けて、また閉じて。
  結局困ったように首を傾げた。
  答えられない。
  名前がなかったからだ。

  カーク、と男は言った。
  ――今日からお前の名だ。
 「おい、カーク」
 「あ、は、はい――?」
  不意に現実のヒューの声が、耳元に吹き込まれて、カークは夢から覚めるように我に返る。
  視線を上げながら、混乱しかけた。
  あの日拾われた自分が、座っていたソファの位置と、全く同じ場所に今もいたから。
 「な――なんでしょう?」
 「……なんだ。聞いていなかったのか」
  いつの間にか窓際から移動していたヒューが、手にした紙包みをひょいと彼に投げて寄越す。
  面食らいながらも、手を伸ばして受け取ったカークは、その宛先名の付いた紙包みに、首を傾げた。
 「これ、は――?」
 「二日前に、小金稼ぎに依頼受けてたの、うっかり忘れてたんだが。期日今日までだったわ。……この宛先の人間が今どこにいるか、判るか?」
 「ああ、」
  意図をようやく汲み取って、彼はようやく合点がいく。
 「検索すれば良いのですね」
 「そうだ。できるか?」
 「――はい」
  頷きを返して、カークは部屋の一角へ、歩を進めた。そこには、小型のパソコンだのその周辺機器だの、必要に応じて増えていったカークの”仕事道具”が、今は埃避けの布を被って設置してある。ヒューやマルゥは興味が無いらしく、殆ど手を付けていない。彼専用の仕事場である。
  丸椅子に座り、待機させていた画面を呼び出すと、紙包みに几帳面な文字で記されている宛先を入力する。読み込む間に、ディスプレイに直結させてある細く長いプラグを手に取り、
  首筋に突き刺した。
  走る微かな痛みが消えるより前に、P-C-Cの住居区画マップが、眼球の裏側に情報として溢れ出す。
  この時ばかりは、視覚情報は邪魔である。瞼を閉じて、それを合図に視神経を切断した。
  P-C-C中央部の情報塔に侵入するのと違って、こうした宛先検索はとてもたやすい。情報登録された相手先は、一般市民である。何のプロテクトもファイアーウォールも、掛かっていない。
  タイムラグもなく、情報がカーク内部に表示される。
 「どうだ」
 「ここから割合近い――ですね。下層区22階。12098番地。在宅中。本日この後の予定登録――明日の朝AM09:34まで外出無し。行って帰って30分――と言うところでしょうか」
  プラグを引き抜き、接続を切断しながら、カークは脇から覗き込む男を見上げた。
 「場所、プリントアウトしてくれるか。ちょっと行ってくるわ」
 「――あ、」
  上着を取り、羽織かけた男の動作を小さく咎めて、カークが立ち上がる。
 「お隣さんももう来るでしょうから。――私が、代わりに」
 「……それを口実に、あの驚天動地創作料理から、お前一人逃げるつもりじゃ、ねぇだろうな……?」
  疑心暗鬼満々。ジト目の視線を、まさか。
  くす、と笑って跳ね返した。
 「良いD-LLは、主人と生死を共にするように、造られているのですよ」
 「お前は、イイD-LLか」
 「その努力はしたいと思います」
 「ふむ」
  自身に言い聞かせるように頷いて、ヒューは手にしたままだった薄手のジャケットを、カークに向かって放った。
 「雨に濡れて風邪をひくと、俺が困る。……着ていけ」 


  春もそろそろ半ばの小雨は、生暖かくて、街全体が湿っている感じがする。
  ところどころ空の透けて見える、つまりは貧乏性のヒューが未だ捨てられない、穴開きだらけのボロ傘を差して、カークは湿った街を歩いていた。
  白に近い灰色の空を見上げる。
  あの日の空は、もっともっともっと、真っ白な空だった。
  湿った空気も暖かな気温も、なにもかもあの時とは反対なのに、だのに思いはあの時へと、馳せ戻りたがる。
  ビニールテープで補強された傘の柄を、人差し指で何とは無しに撫ぞり、
  カーク。
  男の声が不意に脳裏に蘇る。
  カーク、と男は言った。
  ――今日からお前の名だ。
  そうも言った。
  昔飼っていた犬の名前だったような気がする、とも言った。
 「犬の名前をヒトにつけるかぁ……?」
  少し離れた、座り心地の良さそうなソファの上で、呆れた声で少女が呟いていた。
  寝そべっている。
  雨の滴る路地裏から連れてこられたのは、高級住宅地の一室だった。
  着古した皮ジャンパーを着ている男からは、到底想像できない高級地区である。更に意外なことに、瀟洒な家具の揃う、一室である。
  気になったので尋ねると、知人から譲られたのだ、と言うことだった。
  歯切れが悪かったので、それ以上尋ねるのはやめた。
  観葉植物の水受け皿に、W・W社の一枚ン万円の平皿が使われており、奔放な贅沢をしているのかと感心しかけたが、紅茶を注いだカップは、使いへこんだものであったから、単純に物の値打ちを知らないだけなのかもしれないと、思いなおす。
  薄い紅茶だった。
 「出涸らしだ」
  何が嬉しいのか、男は胸を張る。
  濡れた身体を温めがてらぽつりぽつりと尋ねると、現在男は、求職中との事だった。
  雨がやまないと、仕事が舞い込まない。
  そう言うものなのだそうだ。
  カークにはよく判らない。
 「そうだ。お前、腹減ってるだろう。コレ、喰え」
  今気が付いた、とでも言うようにそう言って、男が上着のポケットから紙包みを取り出し、カークに差し出す。薄く白い紙包みだった。
  男の勢いに飲まれて彼は受け取り、促されるままに、カサつくそれを開いてみる。
  饐えたようなカビ臭いような香りが、ぷうんと僅かに漂って、それでも包みの中身は、板切れのような燻製肉片なのだ。
  あ、と小さく声がした。
  見やれば、ソファの上からマルゥがじっとこちらを眺めている。
 「どうした。ちょっとばかり臭うけど、うまいぞ」
  躊躇ったカークを男が覗き込む。腹、減ってるんだろ。
  受け取った指が、細かく震えた。
  実際彼は酷く腹が減っていた。久方ぶりに嗅いだ食べ物の匂いに、ここ数日、雨水しか口にしていない胃が、満たされる事を望んで、きりきりと自己主張しはじめている。
  それでも、首を横に振って、男に板切れを押し返す。
  ……男が、同じ位腹を空かせていることに、気付いたからだ。
 「――あなたが――食べてください」
 「あなたじゃねぇ。名前で呼べ」
 「ヒューさんが、」
 「呼び捨てでいい」
 「――……ヒューが、」
  人間を呼び捨てることに慣れていないカークには、そう言われて言い直したものの、少し尻の座りが悪い。
 「……じゃあこうしよう」
  そう言ってヒューは、押し返された燻製肉を受け取ると、ぶちりと半分に。そうしてまた半分に。綺麗に四等分に分ける。
 「俺と、マルゥと、お前と。残りのひとつは取っておいて、あとでまた三人で分けたらいい」
  これならずっと三人で食べられるだろう?
  人懐こい笑いを浮かべて、男は――ヒューは、ひとつを自分が咥え、もうひとつをソファの方へ投げやって、三つ目を改めてカークに差し出す。
  嬉しそうにマルゥが受け取り、口に収めるのを視界に入れながら、それでも瞬時カークは躊躇った。
 「どうした」
 「あの、私は、D-LLですので、――例えひと月ほど食べなくても、平気なように製造されている型なので、あの、ですから。私の分は、ヒューが食べてください」
 「……カーク」
  上目がち、つっかえつっかえ言葉を紡ぐカークに、僅かに低く抑えた声で、ヒューが静かに口を開いた。
 「腹減ってるんだろ」
 「いいえ、はい、その……、」
 「カーク」
  溜息をひとつ吐いて、男は不意に真っ直ぐに彼を見つめる。
 「命令だ。俺の目を見ろ」
  面と向かって人間を凝視した覚えはない。自ら不運を招き寄せるようなものだから。
  言われ慣れない言葉に、思わずカークは視線を泳がせ、けれどやがてはおずおずと、ガラス玉の焦点を男に合わせる。
  ぬばたまのガラス玉は、瞬時に囚われた。
  ヒューの鳶色の瞳に。
  押さえ切った奥底に、微かに熾きのような感情が揺らめいて見えた気がする。
  また、懐かしさが溢れた。
  ――これはなんだろう。
 「……俺が食って良いって言ってるんだから、素直に食え」
 「――ですが、」
  喘いでカークは最後の抵抗を試みる。
  勝ち目はないと、初めから判っていた気もする。
 「――食べられません」
 「いいから。嫌いじゃないなら、食え」
 「ヒュー。私は、D-LLですから、その、少々のことがあっても大丈」
 「……カァァアアアァアアァアアク?」
  ゆっくりと、噛んで含めるように。
  そのどこまでも優しさを表現した中に、不穏な色が入り混じっているのを敏感に感じ取って、カークは引き攣った。
  他人の感情の機微には、人一倍敏感なのだ。
 「おとなしく自分で食わねぇと、俺が強制マウス・トゥ・マウスやらかすが、それでもいいか」
 「――いただきます」
  出会ったばかりだというのに、なんとなく、けれどはっきりと、目の前の男の性格をカークは把握しつつあった。この手の性格は、口に出したことを間違いなく実行する。
  間髪入れずに、カークは肉片を受け取っていたのだった。


Act:08にススム
人間と機械にモドル
最終更新:2011年07月28日 08:06