木戸が軋み、次の瞬間マルゥはヒューと二人で、カフェの内側に立っていた。薄暗い店内に暗順応する若干の時間の後、
 「――いらっしゃいませ、」
  聞き馴染んだ感のある、落ち着いた優しい声がして、
 「あ。」
  ぱちぱちと瞬きを繰り返して暗い店内に目が慣れたマルゥが、驚きの声を上げる。
  肩越しに投げかけていた声の本人が、マルゥの驚きの声を聞き、流れる動作で動作で初めて振り返った。
  振り返ったのは確かに、マルゥの知っている黒髪のD-LL。
  ただし、店内で彼が繰り広げているだろうと彼女が思い描いた想像と、まるで異なっていた。
 「あれ、え、え、え、カーク?」
  糊の利いた、カフス袖白のカッターシャツ。袖なし丈の短い黒のベスト。同じく黒の折り山目のきちんと付いたスラックス。腰に巻いたサッシュ。
  銀縁の細い眼鏡を鼻に乗せ、片手には盆を抱えている。
  どうみても、女と語らっている雰囲気ではない。
  一瞬目を丸くして、驚きの表情を浮かべた彼は、けれどすぐにいつもの無感情の仮面を取り戻す。対応途中だったらしい二人組みの客に、何かを小さく告げて会釈一つ返す様子は、明らかに店員然としていた。
 「お二人連れですかね」
  不意に横からハスキーボイスが響いて、思わずカークに全神経が行っていたマルゥは、驚いて頭を巡らせた。
  ロマンスグレー。ぱっと見て、即座に頭に浮かんだ言葉はそれだった。木目カウンターの向こうから、呆然と立ち尽くす二人を、どこか面白がって見ている様子が伺える。彼の着こなしている制服も、カークと同じ型。どこから見ても、店主だった。
 「こちらへどうぞ」
  そうして静かに指し示されたのは、そのマスターから程近い、カウンターの二つ並んだ座席だ。
  言われるままにそこに座って、見回すまで彼女は気付かなかったが、小さな店内は、実際満員といえるほどに盛況で、既にテーブル席は全て埋まっているようだった。
 「何にします」
 「何……なにって言われても……」
 「俺。エスプレッソ」
 「……あ。じゃあ、アタシもそれで……」
  こんな洒落たカフェに入ったことがない。雰囲気に飲まれるとはこういうことを言うのだろうなと思う。席に着き、耳に心地良い声色で注文を尋ねられて、半ば上の空、ヒューの言葉に同意したマルゥだった。
  そこへ、
 「――失礼します」
  ミネラルウォーターを注いだ、飴色のガラスコップを掲げたカークが、二人の前に現れると軽く頭を下げ、コルクのコースターの上にそれぞれ置いた。
 「あの、」
 「――はい……?」
  まるで他人を見るような視線。落ち着いた所作にマルゥは口を噤む。
 「いえ……、なんでもない……です」
  話しかけるのすら、憚られた。
  無機質を装うガラス玉の前には何も言えない。

 「お知り合いですか」
  複雑な思いで離れてゆく彼の姿を、目の端で追っていたマルゥに気付いて、カウンター向こうのマスターが尋ねる。眺めることに懸命で、上の空の男に代わって、マルゥが頷いて見せた。
 「はい、あの……友人なんです」
  友と呼ぶには少し癪だが、家政婦状態の同居人ですと、事実を告げるよりはまだ良い。
 「多分」
 「そうですか」
  ゆっくりと頷いたマスターは、ガラスコップを乾いた布で磨きながら、品良く笑った。蓄えた口ひげが揺れる。
  背後では、サイフォンが静かな音を立てていた。
 「人手がなかったので、少し前から彼に手伝ってもらうことになりましてね」
 「はぁ、」
 「……よく気のつく。大助かりですよ」
 「そうですか」
  彼の細やかな心配りは、折り紙つきで証明できる。特に異論もなく、頷いた。
 「真面目といえば凡そ今まで、彼ほどの生真面目なスタッフを見た事が無い。バイト募集の張り紙を見て、訪ねて来たようですが、開口一番なんと言ったと思います」
 「さぁ……?」
  尋ねられて、腕を組んで考えてみた。思いつかない。
 「私はD-LLです。仕事の経験はありません。愛想笑いもできません。それでも雇ってもらえませんか。そう言うんですよ」
 「あー……言いそう」
  その状況は即座に思い浮かべることが出来る。おそらくこの上なくド生真面目な顔で、彼は告げたに違いない。
 「でも」
  ふと、思いついた疑問を、マルゥは口にした。
 「よくそんなコト言われて……」
 「雇う気になったか……ですか?」
  どうぞ。
  濃い琥珀色を淹れ終えたカップを、言葉の途中でマスターは差し出し、
 「香りが飛ばないうちに」
  そう言う。
 「あ、どうも。いただきま……うわ、うわ、うわぁ」
  反射的にぺこりと頭を下げ、それから改めて差し出されたカップをまじまじと眺めて、そのあまりの小ささにマルゥは喜びの声を上げた。
 「かかかかか、可愛い!」
  感動に思わず打ち震える。
  名前だけは聞いたことがある。けれどこんな洒落たカフェに入ったこともないマルゥは、勿論エスプレッソなるものを目にするのも初めてだ。カフェなのだから、コーヒー系統の何かであろうと予測はついていたが、目の前にちょこんと並べられたカップの小ささに驚きを隠し切れない。ままごとで使うカップのように、それはあまりにも小さくて愛らしくて、人差し指と親指で摘むに壊れてしまいそうだった。
  しかも、さらりとした液体が入っているのかと覗き込めば、色は濃い琥珀そのままで、決め細やかな泡がとろんと溢れている。
 「なにこれ!可愛い!ていうかお菓子みたい!」
  純粋に喜ぶマルゥを、目を細めて微笑んで、マスターはもう一度どうぞ、と促した。
 「初めてでしたら、少し苦く感じるかもしれませんが。これはこれで味わい深いものなのですよ」
 「……おいしーい!」
  おそるおそるぺろ、と一口飲むというより舐めてみると、確かに苦味は舌に残るものの、それを上回ってコーヒー豆独特の良い香りが鼻腔一杯に広がる。
  主もさぞかし喜んで飲んでいるのだろう、と期待に満ちて横を眺めると、苦虫を噛み潰したような顔をした男は、マスターとマルゥのやり取りも耳に入っているのかいないのか、カップを掴むと無造作にぐい、と一息に飲み込んだ。
 「うわ。ヒュー。なにそれ。信じらんない」
 「放っとけ」
  聞こえてないわけではないらしい。ぶっきら棒に返す男に溜め息を一つ吐いて、相手することを放棄すると、
 「で、どうして、アイツ雇ったの」
  すっかり気もほぐれ、彼女はいつもの調子を取り戻した。
  そうですね。首をやや傾けて、マスターは深く笑う。
 「……D-LLであるとか人間であるとか、拘る者もまだまだ多くいるようですが、関係のないことです。そうして、愛想が無いのと、愛想笑いを浮かべるのは別でしょう?むしろ愛想笑いを安易に振りまくようなスタッフは、ウチには要らない。……ですので、働いてもらうことにしました」
 「はー……」
  なるほど、人間が出来ているとはこういう人間のことを言うのかもしれない。
  感嘆だか相槌だか判らないような声を出して、マルゥは頷いて見せた。
  その後しばらく、口を噤んで、サイフォンの音、そっと置かれたカップとサーバーの打ち合わされる陶器音、静かに流れるレコードの音と、煩すぎないあちらこちらで交わされる会話に、耳を傾けてみる。
  やたらと喧騒の響く酒場や、大衆食堂と違って、どこか上品で背筋の伸びる、けれどほっと一息もつける不思議な店の空気だった。マスターの人柄に寄るものも多いのだろう。
  ちびりちびりとエスプレッソを舐めている内に、やがてその空気は、客と対応しているあの見知ったD-LLにも類似しているのだとふと、気がついた。
  なるほど、だから心地良いのだ。
  いらっしゃいませ。
  またカークの声がして、マルゥはそちらを見やった。
  薄暗いと最初は思ったが、慣れてみるとそれは、落ち着く抑えられた明るさだ。
  その店内から窺うと、表に続く木戸の辺りは、ぽっかりと四角い、白い、喧騒の世界と静寂の世界を、見事に分断させる扉なのである。
  その木戸を入ったところに、男が一人立っていた。
  頬が上気しているのが、この暗さでもよく判る。そうして、対応に出向いたカークへ、憧れにも似た熱っぽい視線を送っていた。カークが一言二言、おそらくは人数や、カウンター席の是非を問うと、豪くどもりながら何度も頷いて見せた。
 「いらっしゃい」
  マスターが、男を見やって声を掛けると、男はマルゥとヒューの座る席の丁度隣へ、腰掛ける。
 「今日も来ましたか」
  呆れたように感心したような、口調のマスターの様子で、男が常連客なのだと窺い知れた。
 「懲りませんね、あなたも」
 「お、想いが届くまで俺は何時までもここにきますよ」
 「そんなつもりで雇ったのではないと、言っていますでしょう」
 「それはそうだけど、でも、一目惚れしちゃったモンはしょうがないじゃあないですか。そもそも急に客が増えたのだって、あのD-LLによるところが大きいんでしょう?」
 「……困りましたね、どうも」
  仮に聞こうとしなくても、真隣に座られてしまったのでは、嫌でも会話は耳に入る。
  思わず流したマルゥの視線と、隣の男の辺りを窺った視線が偶然かち合った。
 「……あ、どうも、こんにちは」
  そのまま無視するのもどことなく失礼な気がして、マルゥは軽く頭を下げた。
 「あ。どうも」
  男の方も頭を下げる。
 「見かけない顔ですね。この店は初めてですか?」
 「ああ……いえ、……はい。そうです。さっき、初めて」
 「そうですか。雰囲気の良い店でしょう。俺は……僕は、ここがかなり気に入っているんですよ」
  元来おしゃべり好きな男なのかもしれない。挨拶を一つしただけなのに、挨拶以上に男は語る。
 「そうですね。落ち着いて、とてもいい雰囲気で」
  同意を求める視線に、頷き返してやると、男は嬉しそうにそうでしょうそうでしょう、と繰り返した。
 「マスターの雰囲気もかなりいいんですが、なんせ、最近入ったあのバイトがまた良い」
 「……はぁ、」
 「あの子目当てに、通う客も多いんですよ。以前はここは、もっと閑古鳥が鳴いていましたしね」
 「……本当にコーヒーが好きなお客様に飲んで欲しいのですよ」
  男の声にマスターが反応する。
 「ね。万事こんな感じで、偏屈な人間しかこの店には来なかったんです。それが、あのバイトが入った途端、雰囲気がぱっと変わった」
 「はー……」
 「落ち着いた店の雰囲気はそのままなのに、何故か華やかに見える。通ってしまう」
  それを巷では、恋と言うのではないか。
  頬杖を付いたマルゥはふと思う。
 「俺はね、あの子に一目惚れしてしまったんですよ。色よい返事が聞けるようになるまで、何日でも通うつもりです」
  なるほど。これは重症だ。
  腹の中で確信した。
 「あの、人間には醸し出せない、不思議な雰囲気を纏ったあたりがまた、何とも言えないでしょう」
 「はぁ……あの、でも、ちょっと確認しますけど。もし、アイツが男……だったらどうするの?」
  正確に言うと男でも女でもない、のだが、釘を刺すこの場合、男にしておいたほうが都合いいだろう。
 「男でも女でも関係ありませんよ。僕はあの子が好きなんです。他の常連でも花を贈ったり、とかくあの子の気を引こうとしていますが、思うだけなら誰にも負けやしません」
  刺した釘の先は、ふやけたゼリーの上だったらしい。釘を刺す「く」の字の役割も持てずに、マルゥの敗北だった。
 「重症と言うよりもはや末期ね……」
  唇の端で、聞こえないように小さく呟いた。男には勿論聞こえない。夢見る瞳のままで、男は指を組む。ちなみに男はかなり横幅のある、世間で言うところのモテない部類だ。仕草が似合わないことこの上ない。
 「ああ。あの伏し目がちの黒い瞳。ほころびかけた花のような唇。白魚のような指先。僕に微笑んでくれたら、僕はP-C-Cの中央塔に駆け上ってしまうでしょう。僕は絶対にマスターからあの子の飼い主を、何としてでも聞き出して、貰い受ける所存ですよ……!」
  がたん。不意に隣から発せられた起立音に、マルゥは驚いて振り向いた。
 「マスター。勘定」
  果てしなく不機嫌な面持ちで、カウンター向こうに言葉を投げる。
  どうやら帰るようだ。マルゥも倣って立ち上がった。
 「あ、君。もう帰るのですか。もし良かったらこの後一緒にご飯でもど」
  にやけた台詞の男がマルゥに腕を伸ばす。その腕が止まる。背後からヒューが男に視線を送っていた。とてつもなく物言いた気に。剣呑な光が宿るそれはまるで、
  訂正しよう。睨んでいた。
  それで男は言葉を失ってしまったらしい。
 「……行くぞ」
  一言言い置いて、睨んだ割にはそれ以上何もせず、ヒューはさっさと踵を返して木戸へと向かった。
 「あ、ちょっと!待ってよ。……あの、ご馳走様でした」
  どこか申し訳なさそうな顔のマスターに頭を軽く下げ、それからマルゥはヒューの後を追った。


  そしてマルゥはソファに座り、この夜何度目になるか判らない溜息を、またひとつ口から零す。
  家に帰りつくまでのヒューの不機嫌さと言ったら、停滞する火山のマグマか、燃え燻り続ける熾き火のようで、それはもう、いっそ見事な位だった。話しかけても返答が無いのは言うに及ばず、散歩途中の対向人は、彼の形相と発するドス黒いオーラを見て、思わず路地に避けるほど。
  いくら話しかけても唸り声一つない。
  家に掛けてあった電子ロックが、イラついた指ではなかなか解除できなくて、癇癪を起こしかけたときに一度、舌打ちをしただけだ。
  マルゥが、男と会話をしていたから、そんな理由で不機嫌になった訳ではないことを、彼女自身はきちんと把握していたので、そんな男の様子を見ても、うろたえたり取り繕ったりしようとは思わない。
  けれども家に入るや否や、ソファの上で畳み途中であった洗濯物を乱暴に蹴散らし、そのバスタオルだのシーツだのシャツだのの下へ、不貞腐れたように潜り込み、ぴくりとも動かない姿を見るに至って、流石に何かフォローしておいた方が、後々の騒動を沈静化できるのではないかと、思い始めた。
  我が身に直に降りかかる災難ではないが、余波の可能性は十分に考えられる。
  どう考えても主の不機嫌の原因はカークだ。
  臍を曲げに曲げた主は、支離滅裂な追求をきっとするだろう。
  万が一、そんな主に辛抱強いカークが愛想を付かしてしまったら。
  結果は目に見えている。
  炊事洗濯に留まらず、家計や生活の全てを、この一年でカークに頼りきった二人は、確実に路頭に迷う。
  良くて生ゴミ屋敷だ。
  重大である。
  彼の用意した夕飯に手を付けず、日が沈んで部屋の中は真っ暗になったのに灯りもつけず、ついでに上手いフォローの仕方も思いつかず、無言で二人は座っていた。
  そのまま時間だけがのろのろと進み、夜半。
  呼吸音しかしない部屋の中に、電子ロックの開錠音が響く。カークが帰ってきたのだ。  
 「ねぇ。マスタ」
  一縷の望み、”マスターと呼ぶな”と相手が口を開いてくれるのを期待してみたが、洗濯物の下からは、何も返事が無い。
 「カークが黙って働いてたのには、きっと訳があると思うのよね」
  もしかすると不貞寝のつもりが、本当に寝ているのかもしれない。
 「だってさ。毎月貰うお小遣いで、そうそう困ることないし。自分に黙ってたコトが気に食わないのか、働いてたコトが気に食わないのか、マスタの気持ちはアタシにはよく判んないけど、きちんと聞いてみたほうが、いいよ」
  やはり返事はなかった。
  寝返りを打って背を向けたので、起きている事だけは知れたのだが。
  子供か。
  呆れてマルゥは膝を抱えた。
  やがて静かにドアを開けて、カークが入ってくる。
  もうどうとでもなれ。傍観を決め込むことにした。
 「……おかえりなさーい」
 「――電気も点けないで、どうしたんです――」
  灯りのスイッチを入れ、マルゥの声にいつもと同じ落ち着いた声が応え……違う。いつもと同じには聞こえなかった。
  声に弾んだ色がある。
  夕刻の尾行を、既にカークは見抜いているだろうに、どうも機嫌が良い。おかしい。
  そうしてカークが玄関に姿を見せたのを合図に、正反対に底なしに機嫌の悪いヒューは、ゆらりと立ち上がる。
永久凍土の冷たさ。そんな顔をしていた。
駄々を捏ねる意外に、そんな顔も出来るものなのかと、思わずマルゥは感心する。
 「おかえりなさいませ、人気者のD-LLさん」
  取り澄ました口調に悪意がある。聞いたカークが戸惑いの表情を浮かべた。
 「――ヒュー……どうしたんです」
 「……遠回しな言い方しないで、はっきり言ったらどうでございましょう」
 「――何をです」
 「……。……。……俺らが昼間店に現れてたいそう迷惑だったと、そう言う台詞はどうだろう」
  地を這うような声である。
 「――そんなこと――は」
 「無ぇってか。諸手を挙げて歓迎するか?シカトしくさった割に、取り繕いだけは立派だな」
 「――」
 「そもそも、」
  憤然とした口調のまま、ヒューは腕組んだ。
 「こっそり働くってのぁどういう了見だ」
 「それは、」
  押されたカークが一瞬詰まる。
 「それは、欲しいものがあったので――」
 「……月々の小遣いが足りねぇなら足りねぇと、はっきりそう言やぁいいだろう。お前の素っっっっ晴らしい検索能力のお陰で、俺らは大した労力も無く報酬を受け取ってるようなもんだ。俺が通帳保持しているが、別に山分け三等分にしたって構わないんだぜ?」
 「そういうものではないのです。別にクレジットに困ったわけではないのです」
 「じゃあなんだ?それこそ口に出せないなんて、なんて水臭ぇ仲なんだろうなぁ、おい?」
  挑発するようなヒューの物言いにも乗らず、淡々とカークは、
 「――黙っていたことは謝ります。今度からは一言断りを入れておく、それで良いのでしょう?」
 「そういう、物分りのイイコト言えって言ってるワケじゃあねぇんだよ」
  完全に臍を曲げているヒューは、訳の判らない理屈を並べ始める。
  通常それを屁理屈と言うのだ。
 「ガキじゃあるまいし、お前がどこで何をしようが、俺に束縛する権利はねぇ」
 「――では」
  不可解な面持ちで、
 「では、あなたは一体何に対して不満があるのです」
  カークは眉をしかめた。
 「不満?不満なんて何一つねぇさ。お前は家の仕事をこなしている。メシも掃除も洗濯もやっている上で、俺以上にたいそう完璧にやった上で、好きなことをしている。どこが悪い?」
 「私に聞かれても困ります。機嫌が悪いのはヒューです」
  カークの言っていることは正しい。
  抱えた膝の上に顎を乗せながら、マルゥは冷静に判断する。
  けれど、正しいことを言っているのと、相手に冷静を取り戻させる言葉を放つのでは種類が違うのだ。正しいことは事実だ。頭に血の上っている最中の人間は、事実を突かれると余計に臍を曲げる。
  今やウルトラ大車輪、三回転半ほど捻くれてしまっているヒューの判断力に、事実を受け止めろと言うのは、酷だろう。
  そこまで分析しておや、と思った。
  いつものカークなら、ここまで言い募ることはしない。軽く受け流して、謝り、下手に出て引いて、ヒューの機嫌を逸らしてしまう。
  頭に血が上っているのはどちらも同じなのかもしれない。
 「……それに店では、随分大事にされてるみたいじゃねぇか?花やらプレゼントやら、たいそうな物貰ってるんだってな」
 「――差し出されたのは事実です。それについて異論はありません。けれど、それを目的に、私は働いていたのではない。全部きちんとお断りしました」
  どうだか。
  カークの言葉を聞いて、ヒューが吐き棄て口を歪める。
 「俺からお前を貰い受ける、なんて言ってやがる頓狂もいたが。常連らしいな。お前も悪い気はしねぇだろ。……どうだ。いっそ、俺らと一緒に暮らして生活疲れに貧相なツラ晒すより、お得意様に引き取って貰うってのは?大切にしてもらえるかもしれねぇぜ?」
  揚げ足をとる言葉。聞いたカークは口を噤んだ。
とうとう彼も怒ったか。明日からは生ゴミ屋敷だ。そう覚悟を決めたマルゥが恐る恐る見やると、
 「――そんなに――」
  酷く苦しそうな表情をしていた。
  ……苦しいというよりそれは哀しみだ。
 「――そんなに――信用がありませんか」
 「な……何が……言いてぇんだよ?」
  眉間を押さえて黙ってしまったカークに、今のは流石に言い過ぎたと感じたのか、ヒューの歯切れは悪かった。
  ばつの悪い顔をしている。
 「――私が邪魔なら、邪魔だとはっきり言ってくれればいい。あなたが先程私に言ったように――それこそ遠回しな言い方はしないで、邪魔だから出て行けと、あのゴミ棄て場へ帰れと、そう言ったらいい。私は――あなたの言葉なら喜んで従うでしょう」
 「な……なんだよ」
  悲痛な言葉に、今度はヒューが押されて詰まる。
 「やはり一緒にいるのは邪魔でしたか。あなたの役に立つよう努力しましたが、至らなかったのでしょうか。――いいえ、そもそも私は出来損ないの上に、記憶も定かでは無い欠陥品です。自分の素性が自分で判らないのだから、救いようの無い。……棄てられて当然でした」
  閉じた瞼に手の平を当てる。
  ……泣いているのか。
  上げた視線は乾いていたけれど、彼は確かに歎いていたのだった。
 「そんな……お前が邪魔だなんてひとっことも言ってねぇだろう!」
  勝手に悲劇的に解釈するな。
  癇癪を起こしてヒューが床を踏み鳴らした。駄々っ子でも今時ここまでやらない。眺めていたマルゥは、思わず溜息をまた一つ吐く。
 「俺が言いたいことを理解しろ!」
 「――判りません。では、一体何だと言うのです。あなたの言葉には道理と言うものが欠如しています。一言断りを入れたら良いのかと言えば必要ないと言う。邪魔なのかと問えば違うという。――それでは解釈のしようがありません」
  ……ああ、マスタをそんなに理論武装で追い詰めると、パニクるよ。
  部外者になっているマルゥは、一言そう言ってやりたかった。けれど、口を挟んだら最後、二人分の不機嫌が一挙に自分に降りかかってきそうだったので、おとなしくすることにした。
 「できなくたって解釈しろよ」
 「――そう言われても――できません。つまり、何なのですか」
 「だからつまり……!」
 「つまり?」
 「つまり!お前がいるから俺はここにいるんじゃねぇか!」
  ……ほら。支離滅裂になった。
  内心マルゥは呟く。言われたカークの底なしの忍耐力も、今日に限っては出かけていたのだろう。流石に苛々した声色を、所々に滲ませ始めた。
 「――私がここにいるからって、どうしたって言うんです」
 「だから、」
 「だから、なんです」

 「だから。俺はいつでもお前と一緒にいたいんだよ……ッ!」

  明日からはインスタントご飯の生活決定だな。
  諦め半分、既にカークにどうやって戻ってきてもらおうか、その言い訳を考え始めたマルゥの耳にも、ヒューの唐突な自己主張は飛び込んでくる。とことん呆れた主の言い分に、顔を上げた彼女の視界に飛び込んだものは、
 「――」
  ぽかんと口を開けたまま言葉を失ったカークの姿だった。
  連れ立って思考も停止したらしい。
 「俺が。」
  食事を作るとか掃除をするとか洗濯するとか。
  もしかしたら彼女が出来ただとかそれと付き合うだとか。
  そんな事柄以前に、
 「俺が。放っとかれると淋しいだろ」
  ややこしい言い訳は切り捨てて、言いたかったのはその本心だ。
  言うだけ言われたカークは身じろぎもせず固まっていた。
  言うだけ言ったヒューの方はと言うと、鼻息荒く、腕組んだまま、そっぽを向いてそれでも対峙している。
  付き合いがいいのか悪いのか、餓鬼臭いのかそうでないのか、今ひとつマルゥは主の性格が理解できない。おそらく本人も理解できていないだろう。
  ただひとつだけ彼女に判っていることは、結局、つまり、主はカークへ焼きもちを焼いていたと言う事だけだ。矢印の方向の定まらないそれは、カーク本人を指し示す。
ヒューがその手に掴み取る対象は、ほんの僅かだ。掴み取って欲しいといくら願っても、ほとんどは指の間から零れてしまう。
けれど、そのたったいくつかの物に対して、おそらく彼は執着するのだ。
赤ん坊が、握り締めた拳を開かないのと同じように。
  不意にキンコンと音がした。
  奇妙な沈黙がのさばった室内に、ドアチャイムがやけに大きく響いたのだった。
 「……こんな……夜に?」
  不思議に思いながら、硬直したままのカークと、偉そうに仁王立つヒュー、どちらも対応してはくれなさそうだったので、仕方なくマルゥが立ち上がる。弾みでこのまま、散歩にでも行ってしまおうかとも思う。
  気まずいし。
  キンコーン。急かすようにもう一度鳴った。
 「はいー……?」
  リビングと玄関は直結しているから、マルゥがドアを開けると、必然的に二人も立ち尽くしたままではあるものの、何事かと顔をこちらへ向ける。
 「どちらさまで」
 「夜分遅くにどうも。配達屋ですが、ヒューさんのお宅ですね?お届け物です」
 「はぁ……?」
  首を傾げながらロックを外し、扉を開けた瞬間に、
 「わぁー……ッ」
  背後の険悪な雰囲気も忘れて息を呑んだ。
  若い配達人の腕一杯に抱えた、色とりどりの花束。ぱっと香りが飛び込んでくる。
  とりあえず受領書へサインをして、彼から花束を受け取ると、お誕生日ですか、いいですね。そんな愛想を振りまきながら、配達人はにこやかに帰っていった。
 「なに、これ!すごいすごいすごーい……!」
  マルゥの腕では抱えきれないほどに大きな花束。一体いくらかかるのだろう。落とす前に慌てて彼女は、テーブルの上にそっと置いた。
  弾みで、花束に添えられていた白いカードがぽとりと床に落ちる。落ちて始めてその存在に気付いた。新しいカードは、広げる時にいつでも何故か、わくわくする。無地の封筒から出して広げてみると、雪のように真っ白なカードの上には、神経質に細く丁寧な文字で、たった二行の言葉。
 「……ディア・ヒュー、マルゥ」
 「……」
  彼女の言葉を聞いて、こちらを不機嫌そうに睨んでいたヒューが、不意に瓦解した。
 「はぁ?俺とお前?誰から?」
  カードをひっくり返す。宛先人は書いていない。 
 「あ。」
  首を捻った瞬間、電流が走るように思い至ったマルゥは声を上げた。
 「もしかして。これ、カークでしょ?カークが贈ってくれたんでしょ?」
 「え?」
  マルゥの言葉に釣られて主も、対面していた相手に視線をずらす。二人分の視線を受けて、硬直をようやく解いたカークは、どこか気まずそうに顔を背けた。頬が仄かに赤く見えるのは、気のせいだろうか。
 「だって、今日。お花屋さん見てた。そうでしょ?」
 「――」
  顔を背けたまま、彼は無言で小さく頷いた。わぁ、もう一度マルゥは歓声を上げる。
 「すごーい。どうして?どうしてこんな一杯買ったの?」
 「――その、」
  床を見つめたカークは酷く言い難そうだ。
 「その、ですから――」
 「ですから?」
 「――ですから、今日。私が――、二人と出会えた日――だったもので――」
 「……え……?」
  記念の日。
  忘れていた。
  もう一年も経っていた。
  言われて不意に、マルゥは一年前を思い出す。
  あのうっすらと白く煙る、雨の膜の向こうに見えた路地裏。
  傘を差すまでも無い、けれど傘を差さないと全身が重く湿ってしまう細かな細かな空気。
  動かなくなった幾つもの廃棄D-LLのパーツの中に、埋もれるように座っていた彼。
  滴った雫。
  頬に流れた茶色い筋。
  棒切れのように剥きだしの腕には幾つもの痣。
  途方に暮れた深遠が、救いを求めてこちらを眺めた、あの一瞬。
  どれもが酷く朧で、そうして逆にいつまでも生々しい記憶で、それは呆けた顔になった駄々っ子の主も同じのようだった。
  彼を拾った張本人だ。
  忘れていた。
 「これを……買うために、こっそり働いてたって言うのか?」
  問われてカークがまた小さく頷いた。
 「――渡されたクレジットではなくて――自分自身で労働したクレジットで、何か二人に返したかったので……」
  あなたにであえてよかった。
  あなたにであえて私はとてもしあわせだった。
  言葉を千通り並べても、この溢れるような「ありがとう」の思いは決して表現できないから、だから、せめて何か二人に。
  そう思ったに違いない。
 「出来れば、二人に手渡しするまで、労働の理由を知られたくなかった。笑われるかもしれませんが内緒に事を進めたかったのです。ですから、――今日店に見えた時に理由を知られてしまったかと思って――その、それと――、これも一緒に――」
  言い訳がましく呟きながら、ロングコートの隠しをまさぐって、カークは小さな化粧箱を、躊躇いがち、おずおずと差し出した。
  呆けたままのヒューが、差し出された弾みで受け取る。
 「開けても?」
  カークが静かに首肯する。
  青いベルベットの張られた小箱に掛けられた白いリボン。それを取るのももどかしく、ヒューは焦る手つきで箱を開いた。
  驚いた顔をまずは所在なさげに立つカークに。そうして中を覗きたくてしょうがないマルゥへ向けて、
 「これは」
  ようやくそれだけ呟いた。
  背伸びして主の手の中を覗き込んだマルゥは、
  “……女の子は、好きかもね、こういうの。”
  桜のピンクの混じった白銀。細い三連のリング。それが小箱の中央に一つ。
  リング。ヒューと、マルゥトーカークの数と同じに三連。
  同じく驚いた視線をカークへと注いだ。
 「深い意味は無いのですただ、とても綺麗だったので――その」
  表現に詰まってカークは黙り込む。
  その黙り込んだ彼の目の前で、同じく黙り込んだヒューがリングを取り出す姿をマルゥは見ていた。そうして、互いに絡み合ったそれをゆっくりと、神聖な儀式のように外すと、一つをマルゥへ。一つを自分の指へ。最後の一つを嬉しいような悲しいような顔をしている、一年前に拾ったD-LLへ。
  あつらえたようにぴったりだった。

  忘れていた。
  生活の必需品のように、切っても切れない身体の一部のように、まるで当たり前のように彼はとっくに側にいたから、
 「えーと。その」
  たっぷり一分ほどリングを見つめて沈黙していたヒューが、思い躊躇いながら、口を開く。
 「カーク」
 「――は、はい」
  呼ばれてカークが反射的に声を出す。身構えてた。また怒鳴られるとでも思ったのだろう。
 「……なんか色々一杯言いましたけどどう考えても全面的に俺が悪かったですごめんなさい」
  その目の前でヒューが勢いよく頭を下げた。


  回転し始める黒いすべらかな表面に、そっと針を乗せる。アンティーク物のレコード・プレイヤー。もう動かなかったそれを、店先で気に入ったヒューが買ってきて修理した物。
  ステレオに篭った独特のリズム。古びたレコード・ディスクは、カークが気に入って買ってきた物。
  流れ出す音楽に、身を任せてマルゥは小さく欠伸を漏らした。
  今日はなんだか一日、仕事をするよりハードだった。
  そう思う。
  リビングの灯りは落とされていて暗い。夜景を灯り代わりにした。
  豪く遅くなった夕食を三人、どこか気まずいようなくすぐったいような、かちゃかちゃとフォークが皿に当たる音だけが妙に響く、そんな雰囲気で黙りがちに食べ終えると、その空気を払拭しようとしたのだろう。気を利かせたカークがレコードを回し始めた。
  音に乗せられたか、主が自室から愛蔵のバーボンを持ち出してくると、それを見たカークが炒ったナッツとよく磨かれたコップを用意する。マルゥは飲めないので、コップの数は二つ。
  無造作に注いだそれを、かちんと軽く合わせて乾杯。なんてやっている。
  潔いのか支離滅裂の続きか、勢いよく謝ったヒューに、カークは何も追求しなかった。
  と、言うより謝るより手前、ヒューの俺様論理に思考停止した辺りから、既に彼の不満と言おうか怒り、は雲散霧消していたらしい。困ったように首を傾げ、何度か口を開いては閉じて、結局僅かに笑って、
  ――ご飯にしましょうか。
  そう言ったのだった。
 「……俺らの方はプレゼント、用意してなかったな……」
  同じくソファに深く腰掛け、腰掛けているというよりは半分寝そべりながら、思い出したようにヒューが呟くのを耳にして、彼女は顔を上げる。
 「忘れてたもんね」
 「うーむ」
 「――要りませんよ」
  静かな声に目をやると、コップを静かに揺らしては、その中の氷の音をじっと聞き入っていたカークが、優しい顔でこちらを見ていた。
 「ここに私がいる。それだけで十分です」
 「アンタ……ほんっとーに、人間が出来てると言うか、無欲と言うか、もうちょっと自己主張したらイイと言うか……」
  違う意味で呆れたマルゥだ。
 「――無欲?私はそんなに出来た人格ではないです」
 「……はぇ?」
  彼女の言葉を珍しく否定した彼へと、訝しんだ視線を投げかけたが、軽く笑って受け流された。口にはしたく無いらしい。
 「まぁ、いいけど」
  込み上げた欠伸をして、目をこすった。
  酒にめっぽう強いヒューと、飲んでも一糸乱れないカークと。
  明け方までこうして、リビングで夜景を眺めながら、特に語ることもなく黙って過ごすつもりなのだろう。
  付き合う義理の無いマルゥは、このままソファで眠ってしまうことにした。


Act:11ニススム
人間と機械にモドル
最終更新:2011年07月28日 08:08