<<ラプェンツェル>>
てふてふがいっぴき。
てふてふがにひき。
てふてふがさんびき。
ぼんやりと、ぶっ違いに焦げ茶色格子の入った天井が、まず視界に入った。天井付近に、ひらひらちかちかと、透き通るほどに薄い四枚羽を持った小さな虫がはためいている。親指の先程の小さな虫だ。
高い天井である。
確保できる空間と支払う金額が、兄弟ほどに仲良く手を繋ぎあっている“完全高度管理社会都市”――以下、略してP-C-C――において、これだけの高さを構えることは、決して容易ではない。
それから、
見慣れた我が家の天井では無いな、とも思った。彼の家の天井は、無機質のっぺりとした壁紙の延長の、シルバーメタルだ。こんな古風な天井をあつらえる者は、よほどの趣味人か文化人か、はたまた。
そこまで考えてはた、と、彼は現在自身がおかれている状況を、今更のように認識した。
と、言うより正確には、たった今まで昏倒していたのだ。
唐突に現在に至るまでの経緯が、一気に頭の中に蘇って、ついでにしこたま殴られた後頭部も、思い出した途端にずきずきと痛み出して、呻きながら彼は――ヒューは、起き上がった。
起き上がろうと努力した。
勢い上半身がエビのように跳ね反っただけであった。
両手両足を縛られて転がされている。今更のようにそれに気付く。気付いて思わず苦痛の声を上げた。手足に食い込んだビニール紐が、動いた弾みに酷く軋んだからだ。揃えられただけの足はともかく、背中で組まされた手首の紐がみっしりと、皮膚を裂き破る。たらたらと温かな赤が流れるのを感じる。
そこで初めて、寒いと思った。
マットもカーペットも、それどころか床板までもが無い。剥きだしのコンクリート床。いくらその上に居続けていても、そこは決して温まることは無い。床と触れている皮膚からゆっくりゆっくり、じんわりと体温が抜けていくのが判る。と言うよりも、何時間意識を失っていたのか判らないが、ここに転がされてからかなりの時間が過ぎたのだろう。足指どころかくるぶし辺りまで、冷えか痺れか、感覚は無い。肺まで冷えたか、室温もかなり低いはずなのに、吐き出す呼吸は既に色が付かなかった。
こんな場所に転がされた経緯は簡単である。眉を顰めながらヒューは思い出していた。
仕事の遂行途中に、ものの見事にしくじったのだ。
今回ヒューが、いくつかのランクSから選んだ仕事は、要人の確保。何故ランクSを選んだのか、理由は簡単だ。純粋に、報酬額が多いからである。
確保と言うと聞こえはいいが、要するに、とある筋の人間一名の身の回りを固める仕事。警護、とは言わない。表立っての中央管理局ポリスの介入は、成されていないからだ。あくまでも私的な、ヒュー自身の自由意志に基づいた、そう云う言い訳と言うか建前付きの、仕事。
検索得意のカークに頼んで、ターゲットである人物の一日における行動、同じくそれの一週間単位、一ヶ月単位、までも割り出して、綿密に計画を立てた。なにせ相手は、中央管理局の運営に一枚噛んでいる要人と言うから、なかなかのものだ。失敗したとしても、まるで救済の手は見込めない。
そうして、実際見事にしくじってみて、救済の「き」の字も見当たらないことに、改めて思い当たる。そもそも中央管理局ポリスは、最初からこの仕事を派遣社員に割り振ることに乗り気ではなかったようだ。説明事態の歯切れも悪かった。きっとヒューの失敗の連絡をにんまりとして受け取っていることだろう。
「……寒、ぃー……」
呟いてみた。しわがれた声が喉から絞り出され、カラカラに渇いていることに気が付いた。掠れ具合からして短くて一日、ないし二日ほど意識がなかったのかもしれない。
参ったな。
他人事のように思った。
こう厳重に束縛されていては、逃げようが無い。
おまけにポリスの介入は無い。自力で脱出するしかない頼みの綱と言うか、腐れ縁と言うか、共に行動していたマルゥが無事に逃げおおせたのを祈るばかりだ。
窮地に立たされた瞬間、自ら立ち上がってわざわざ目立つ方向に走ったのだ。別に態の良い騎士道精神とやらが働いた訳ではない。無我夢中だった。どちらか一方が逃げ延びればいいか、その程度だ。照らし出されたサーチライトがあまりに煌々としていて、サングラス越しでも目が痛んだ。
……まぁアイツなら素早しっこいし逃げられただろうが……。
一人ごちて、ヒューは目を閉じる。無駄な体力の消耗は避けて、眠ってしまうつもりだった。
むかしむかし。
まだ人間が、科学と言うものを知らずに、人間同士で暮らしていたほどむかしのことです。
あるところに夫婦がおりました。夫婦は一軒の家に住んでおりました。そうして妻の胎の中には、子供が宿っておりました。夫婦の家の隣は、ひとりの年老いた醜い老婆が住んでいて、近所では魔女と噂されておりました。
夫婦の家と老婆の家はぴっちりと隣り合っていたので、老婆の家の庭に生えている、ラプェンツェル――苣(ちしゃ)――がよく見えます。窓から眺めるラプェンツェルは、あまりにも瑞々しくて美味そうで、ある日、身重の妻はそれを、どうしてもサラダにして食べたくなりました。
妻は夫に言います。「アンタ、アタシはアレがほしい」。
夫は気が進みません。何故なら隣の老婆は、偏屈で有名だったからです。素直に渡してくれるとは思えませんでした。
それに不気味です。魔女の魔法でカエルにでも変えられたら、たまったものではありません。
躊躇う夫に、妻は金切り声で駄々を捏ねます。「アンタ、アタシはアレがほしい」。
仕方が無いので、夫は隣人の出かけていると思われる隙に、そっと庭へ忍び込むと、サラダ鉢一杯分のラプェンツェルを取り、待ちかねる妻へ差し出したのでした。
妻は瞬く間に食べました。そうして妻はまた言います。「アンタ、アタシはアレがもっとほしい」。
おののきながら、夫は再び庭へ忍び込み、サラダ鉢二杯分のラプェンツェルを取り、妻へ差し出しました。妻はそれもぺろりと平らげ、更に次を要求しました。
二度目を断れなかった夫に、三度目を断ることが出来ようはずもありません。
夫は三度、庭へ忍び込みました。三度目にもなれば、手馴れたものでした。そうしてサラダ鉢三杯分のラプェンツェルを摘み取った瞬間、背後から声がしたのです。
……とったな。
「『――とったな。』」
「とったなー……って。そりゃー言うでしょうよ普通」
大体サラダにしたって五杯も六杯も食べるのは食べ過ぎではないのか。
素直な感想をそのまま口にすると、隣に腰を下ろしていた便宜上男――のD-LL(ドール)が、苦笑いして俯いた。D-LL。人間ではない、人間にとてもよく似た機械。
「――それはそうなのですがね」
「アタシがバァさんでも怒るわよそんなん。コッソリも何も、三度目でそのラプェンなんたらとか言う野菜、根こそぎ無くなっちゃったんじゃないの?バレバレでしょ。……だいたい、忍び込む感性がアタシには理解できないわ。偏屈だって判ってるおバァさん家に忍び込んで見つかったら、ますますドえらい事になるとか、発想できない辺りが何と言うか、貧困ね」
「頼んだ途端にカエルに変えられても?」
「……黙って侵入するほうがカエル率高いと思う」
辛口批評で、口を思わず尖らせたのがマルゥ。フィメール型のD-LLだ。その彼女へなるほど、と苦笑して流すかと思いきや、存外真面目に頷いたのが、カークである。
「――まぁ、私も似たような感想を抱きました」
「……アンタと同じなんて、ちっとも嬉しく無いわ……」
本気で嫌がっている風の彼女の言葉に、今度は真面目な表情を崩して、再びカークは苦笑を見せた。
「で?」
「で、とは?」
「怖い話じゃないんだから、そこで振り返った夫が、おバァさんの顔を見て腰を抜かして終わり、ってワケじゃあないんでしょ?」
「――色々なパターンがあるとは思いますが、私の知っている話では――、老婆が魔女であったかどうかはともかく、彼女は妻の胎の中にいた子供を、ラプェンツェルの代償として要求したそうですよ。そして、怯えていた夫はそれを承諾してしまった」
「うわ最悪」
「――かくして――。月満ち、赤子がたいそう美しい娘に成長すると、老婆は夫婦の許を訪れ、娘を攫って行ったそうです。攫った娘を、老婆は高い高い――誰も手の届かない塔のてっぺんに閉じ込めた。階段や梯子のない塔です。『ラプェンツェル、ラプェンツェルや』。そう呼んで老婆は、その塔の下へくる度に、娘の長い髪を垂らさせて――その髪を伝って老婆は塔の上を訪れてい」
「はい。質問」
しゅ、と片手を小さく上げてマルゥがカークの話の腰を折る。嫌な顔一つせずに、
「なんでしょう」
涼しい顔、と言うよりは無表情に近い淡々とした顔で、彼は首を傾げて言葉を促す仕草をした。
「えーと。野菜勝手に取られて、腹が立ったのは判る。そいで。娘を要求するのも……まぁ、まだ判る。……けど、夫婦二人して、娘が育つ間一度も引越しもしないで、いやにあっさり娘を渡しちゃうのと、その誰も近寄んないほどの高い塔に閉じ込める意義と、年取ったおバァさんが梯子もかからない塔を、長い髪を伝って昇る体力がさっぱり判んない。魔女ならちゃちゃっと、便利な魔法使うなり、箒に乗って空を飛ぶなりしたらいいのに」
「――その老婆が老婆で無い体力な辺りが、魔女と言う設定だったのではないでしょうか」
「あと二つの質問の答えは?」
「それは、物語が物語である所以――のようなものでは」
「ふぅん」
やっぱり判んない。
抱えた膝に、小さな顎を乗せて、カークの言葉に納得できないという意思表示をしながら、マルゥは更にそれで、と言った。
「で。物語は、最後どうなるのかな」
「――老婆の様子を不審に思った若い男――もしくは王子――が、その後をつけて、塔と、その塔の上に幽閉された娘を見つけ出して――……共に、逃げたような気がするのですが」
「はー」
なるほどね。大きくゆっくり頷いて、マルゥは改めて頭上を見上げた。
「それでアンタはコレを見てそんな話をしたワケ」
「そういう事です」
現在マルゥとカークの二人は、潜むように物陰に座っているのだった。
訂正する。潜むように、ではなくはっきりと潜行しているのである。
事の始まりは、ヒューが受けてきたランクSの依頼からだった。
ランクS。聞いてカークが首を傾げていたのを、マルゥは珍しくはっきりと覚えている。
やはりいつものように、ソファで寛いでいる最中のことだったろうか。いつもならばマルゥか、カークかどちらかを、もしくはその両方を連れて派遣の仕事を受けに行くことが多い主が、珍しく一人で派遣システムの端末に出向いて取ってきた依頼だった。調べてくれ、そう言ってテーブルの上に投げ出した調査書の束を眺めたカークが、一瞬不可解な顔をしたのだ。おとなしく直ぐに仕事に取り掛からなかった辺りが、彼女の感に触ったのかもしれない。
ランクSに、首を傾げていたわけではないのだろう。
主の受けてくる依頼の殆どは、難易度最高ランクのSだったからだ。
見た事が無いわけではない。
首を傾げていたのは、その依頼内容と難易度を照らし合わせてみて、どうも比例しているように見えなかったからだろう。
――彼女の一日護衛、が仕事ですか。
黙っているにとどまらず、声に出したほどだったから、よほど不可解だったに違いない。
――そうだ。
――不条理ではありませんか。記入されている内容は、決して難易度のそう高いものには見えない。なのに、誰も受諾しなかったと言うのは、偽造されている箇所があるのか、或いは。
――……でもなぁ。
そう言って主は、顎を引く。首に光る銀のメタル・タイの煌めきを、久しぶりにマルゥは見た。
多くはランクAやSの依頼に着用義務されている、冷たい輪。デスティニーと呼ばれる遠隔型の超小型爆弾。細さに惑わされ馬鹿にしがちだが、半径100メートルは確実に吹き飛ぶ代物だった。
首筋にそれが光るということは、主はその仕事を既に契約して来たと言うことだ。契約の履行は無い。完遂するか、失敗して吹き飛ぶかの二択である。
――判りました。
首筋の銀輪を目に入れたカークは、それ以上の言葉を口にはしなかった。
選択肢が二つしか既に無いというのなら、無いと言うことだ。それはどうやっても変わることが無い。ならば残るは、ヒューが依頼をコンプリートできるように、最大限力を尽くすしかない。そう思ったのだろう。
「……でもやっぱり、あの時止めておくべきだったと思うのよね」
「――マルゥ?」
思い出していたマルゥは、思わず回想の続きを口にしていた。声を聞きつけて不思議そうに視線を流す彼へ、だからさ。そう言ってやる。
「マスタが依頼受けてきたときにね。止めることは出来ないにしても、やっぱ、怪しいものは怪しいって、クギ刺しておくべきだったと思うのよ。マスタとアタシとアンタの中で、クギ刺せるようなお利口な頭の持ち主は、アンタしかいないんだから」
さりげなく、同じく釘を刺さなかった自分を責任転嫁することも忘れない。
「――そうですね――」
その転嫁を転嫁と気付いたかどうか、長く溜息を吐き出しながら、カークもマルゥと同じく頭上を見上げた。
「刺しておくべきだったのでしょうね――」
目の前には鋼鉄製の電流フェンスが静かな唸りを上げている。好奇心を出して突いてみたら、先程豪い目にあった。人事不省になりかけた。カークが呆れた顔をしながら、腹の立つほど的確な手当てをしてくれたお陰で、直ぐに気が付いて大事には至らなかったものの、二度と触ろうと彼女は思わない。指の先が未だにひりひりと痛い。
フェンスの向こうには二重の堀があり、またもう一つ黒光りするフェンス。その向こうに、見た目いかにも獰猛な機械化番犬が、数十匹ウロウロしている。プラチナの牙を見せ、口から擬似体液である泡を滴らせながら。初めて機械番犬を目にした時には、わざわざ擬似体液を垂らす必要性が理解できなかったが、今ならはっきりと判る。それがあるのと無いのでは、侵入しようとする側の受ける迫力が、倍は違う。
威嚇するならもってこいである。
フェンスの切れ目の出入り口には、機械番犬よりも迫力のある顔で、強面の男が数人、入れ替わり立ち代り、手に獲物を持って、警備している。彼らの前に立って笑顔でいられる度胸は、流石のマルゥにも、無い。
そうして、
そのフェンスと堀と犬のデコレーションの真ん中に、聳え立つ鉄塔。
取っ掛かりも窓も全く何もない。出入り口すらない。
塔と言っても通常思い浮かべるようなそれではなく、キューブ型の部屋を、太目の鉄柱に突き刺して、それを垂直に立てた雰囲気の、建物。建物と言うよりは塔。そんな勢いである。
出入りするには、隣にやはりそびえる高層ビルディングに繋がる空中回廊を伝って、しかない。
「……さり気なく一本や二本クギ刺しておけば、こうやってイイ年した男が、囚われのお姫様になることは無かったと思うのよ」
この鉄塔のてっぺんに、どうやらヒューは閉じ込められている。
経緯を思い出してマルゥは暗鬱な気持ちになった。
調査書に書かれた内容は、酷く簡素なものだった。曰く、とある重要地位に就く人間一名の身柄の安全を、二十四時間厳守して欲しい。それだけだ。
カークが、特技とも体質とも言える検索能力を活かして調べて初めて、それが女性であるとか、中央管理局に一枚噛んでいる人間であるとか、その他諸々。判ったことである。
ひたすらに素性を隠しているようにも思えて、流石にマルゥですら疑惑を抱いた。ヒューの首に枷が付いてなければ、やめてしまえと忠告したかもしれない。
言わなかったかもしれない。
どちらにせよ、今となっては判らない。
現時点での問題は、その重要地位を占めているはずの女性を護衛していたはずのヒュー――が、何故か捕らえられていることである。それも、例えば敵対している勢力の何者かに、では無い。
肝心要の護衛していたはずの当の女性自身が、ヒューを捕らえたのである。
意味が判らない。
判らないけれど、身の危険を覚えたマルゥは必死になって逃げた。何故なら、両手にレーザー・マシンガンを抱えた私兵が、どっと二人を取り囲みかけたからである。照準は合っていた。安全弁も外されているのが判った。脅しではない。撃つ気だ。感じた瞬間走り出していた。
囮に立候補してくれたのか、目立つ方向に主が走って行ったことが幸いして、マルゥは何とか十数人の追っ手を振り切ることが出来た。しかし、家には戻れない。戻ろうとしかけ、マンションに続く全ての道が封鎖されているのを知ったからである。仕方なく中下層に身を潜めて困っていたところを、異常に気付いたカークが逆探知して迎えに来てくれた、そんなところである。
「なんか、悪いことでもしちゃったのかな」
こうして主が捕らえられていると思われる、塔を特定するところまでは出来た。
「――それがですね」
困惑の声を出して、カークが再び溜息をつく。
「二人が出かけた後、どうにも気になって調べてみたのですが」
いつもなら役に立つかどうかは別として、付いて行きましょうかと、そう一言は尋ねるはずの彼が、今回に限って、おとなしく二人を送り出した。やはりそれには理由があったようで、
「彼女のファイルには、病的なまでのプロテクトがかかっていました。いくら中央管理局関連の仕事に従事しているとは言え、そう大した会社でも役職でも無い。あまりにも大袈裟すぎる。まるでD-LLの製作者(メイカー)並みです」
「てコトは、どういうコトなのよ?」
「行方不明になっているのですよ」
「え……なにが」
さらりと不吉なことを言う。聞いた耳を思わず疑うマルゥである。
「彼女の、護衛依頼が出ているのは――少なくとも、ここ三年で五件なのですね。その依頼を受理した全ての派遣社員が、消息不明になっていました。不明者の事件ファイル自体も曖昧模糊としています。彼女の過剰なプロテクトは、その過去事実を隠蔽するためのものだったようです」
「……悪いんだけど通じる言語で話してくれない?」
常々思うがカークの説明は、回りくどい。眉間に皺を寄せてマルゥが抗議すると、
「――つまりですね、同じ仕事をした者が全て、その後いなくなっているのですよ。死亡届も出ていません。あくまで行方不明です」
簡素にまとめるほうが彼には難しいのだろう。しばし考える素振りを見せて、それからカークは口を開いた。
「護衛中に?」
「届出ではそうなっていませんが、集束してみるに、どうもそのようですね。彼女の護衛途中に何かがあって、彼らはいなくなった。そうしてその後姿を見かけない。そういう事のようです」
「それに対して、その重要人物さんからは何もコメントは無いの?」
「――ない――ようですね。と、言うより、調べてみて判ったのですが、依頼自体が無いことにされていました。明らかにおかしいです」
手持ちの薄型コンピューターの画面に、驚異の速度でプログラムを流しながら、カークはその文字を読み取っていたようだ。聞いてマルゥはむぅ、と呻いた。
「……マスタは……無事なの?」
一番に気になっていたことを、一番最後に後回しにしてしまったのは、答えを聞くのが少し怖かったから。不安そうな顔をしていたのだろう。首を巡らして彼女を見たカークが、安心させるようにそっと腕を伸ばして、頭を撫ぜる。
くしゃくしゃとやられて、何故か安心した。
「なによ。子供じゃないんだから。誤魔化してもダメなんだからね」
「――ヒューは、今のところまだ無事だと思いますよ。推測でしかありませんが、彼女の目的は捕獲者の殺害では無い。それに、デスティニーが起爆した記録もありません」
ほっとできない慰め方をされて、鼻に皺を寄せたマルゥだ。
「……アンタって、なんていうか冷静てより冷酷ね……」
「――そうかもしれません」
口にしてからはっとした。頭を撫でたその細い指が、細かく震えていることに、今更ながら気づいたからだ。カークが主に依存している部分が大きいことを、何より同じように依存している彼女が知っている。何もしなくても、何も話さなくても、例え寝ているだけでもそこにヒューがいる。
それだけで居場所がある錯覚を覚えるのは何故だろう。
情報を全て握っている分、知らない彼女より心配の度合いは高いに違いない。それを押し隠して冷静な振りをしている。
「ごめん。ちょっと言い過ぎた」
俯いて画面に見入ってしまった顔を見ることができなかったから、彼がどういう表情をしていたのか判らない。
小さく笑った気配がした。
苦笑のような気がした。
「――とにかく」
次に顔を上げた時には、彼はとっくに無感情の仮面を取り戻している。
「ヒューを救出することが第一事項です。次いでデスティニーの解除。解除パスコードは現在検索中ですが、今日中に見つけ出します」
「でもさ」
決意をこめた声を聞き流し、至極冷静……と言うよりはむしろ呆れて、マルゥはジト目で呟いた。
「救出しようにも、どうやってするつもりなのよ?ラプェンなんとかの話ばりに、上に向かって呼びかけても、ツタだの髪だの垂れてくるわけじゃあないでしょう。かと言って、忍び込むには警備が厳重すぎだし……そっちのプランもきちんと考えているんでしょうね、お利巧さん?」
「――それ、なのですが」
口を開く動作が、そこはかとなく重い。内容に気が進まないようだった。
「実は今夜、彼女の邸宅で内輪……と言っても数百人単位の夜会があるとの情報を掴んだのですが――、」
「数百人……金持ちはケタが違うわね」
自分の家ならまず、その人数の入る部屋がない。一体数百人分の広間とは、どんなものなのか。妙なところに感心してしまったマルゥである。
「その――夜会客をもてなすためのD-LL百人。外部から一晩雇って相手をさせるそうです」
「……そこに紛れようってワケ?」
「はい。本来ならば、マルゥの方が適役だと思うのですが、なにせあなたは面が割れている。すると――私しか残っていないわけで」
「アンタが、女装するってコト?」
マルゥが何気なくそう口にすると、彼は明らかにむっとした様子を見せた。
「――まさか。どっちつかずの身体とは言え、私に女装癖はありません。接待の席は何も女性だけではないはずです。普通に、格好だけ変えて入り込む予定ですよ」
……女装したって似合うと思うけどな。
言えばますます不機嫌になりそうだったので、聞こえないよう胸の内で独り言を呟く。
彼の肉付きの薄いスレンダーな身体は、ある種の嗜好を持つものを酷く喜ばせそうだ。折れそうな細い肩。通った鼻梁。泣き出しそうな目元。男にしてはなよやかに過ぎ、女にしては色香が少ない。纏うのは不可思議な雰囲気。うっすらと紅でも散らせば、かなりいけそうな気がする。普段一緒に暮らしているから大して気にはしていないが、そもそも素顔の時ですら、じっと見ていれば恐ろしいほど整った顔つきをしているのだ。
「……化粧映えしそうなのに……」
「何か言いましたか?」
「べべべ別に」
思わず口をついて出た言葉に、過敏にカークが反応したが、マルゥはぶんぶんと首を振って否定した。
「えーと。それで、アンタが。スタッフに紛れて侵入成功できるとして……アタシはそしたら、どうしたらいいの?」
「――長い長い髪を、上から必ず垂らしましょう。マルゥ、あなたはそれを伝って囚われの姫――王子――を、助け出しに来て下さい。悔しいですが私では無理です。あなたしか出来ない」
「……判った」
先程の老婆と照らし合わせると、どうも自分が怪力と言われている気もしたが、褒められてまぁ悪い気はしなかったので、深く詮索しないことにする。
「まぁ、じゃあ非力君も気をつけて。とっ捕まるんじゃないわよ」
マルゥの憎まれ口に、カークがおや、と意外な顔になった。
「心配してくれるのですか。光栄ですね」
肩を竦めて皮肉を言いながら、それでもどことなく嬉しそうだ。その彼に彼女は思いっきり舌を突き出して、
「誰が。アンタまで捕まったら、アタシの手間が倍に増えるから言ってるだけよ。覚えておきなさいよね、アンタとっ捕まったってアタシ、マスタだけ助けてさっさと逃げるわ」
あかんべをしてやった。
聞いたカークが困ったように笑う。
そういうことになった。
それがどうしてこんな破目に陥るのか。
内心舌打ちしながらも、表情はあくまでも無表情だ。むしろ艶。仄かに染めた赤い目元が、泣き腫らしたようで気を引くと、隣で同じく鏡を覗き込んでいた知らない女が、笑った。
半ば引き攣りながら、笑いを返す。
羽織った着物はひらひらと軽くしなやかなくせに、どこかじっとりと重くて、酷く不快だった。顔の皮膚が引かれるほどに、短めの黒髪を頭上に縛り上げられ、あちらこちらにかんざしだの小花だの蝶々結びにした布切れだのが差し込まれて、ますます不快な思いになる。トドメとばかりに香水を頭から振り掛けられ、日々鍛えぬいた忍耐力や堪忍がなければ、とっくに衣服を叩きつけて家に戻っていただろう。
どう見てもこれでは娼妓だった。
夜会にアルコールが出るのは判っていたが、それでも自分は、その給仕だの調理だのに回されるだろうと踏んでいた目測が、豪く甘いものだったと、身を持って知る。人事を任されているらしい男は、彼の姿を見るなり即決で、衣裳部屋に押し込んだのである。
――悪夢だ……。
鏡に映る己の姿を嫌々覗き見て、カークは思わず卒倒しそうになった。
男では決して無い。けれど女扱いされるのもどうかと思う。
そんな自分が、まさかこうして白粉を叩かれ、臙脂を注され。マルゥがからかったそのままに、着飾る破目におちようとは。
鏡の向こうに映った己はまるで別人で、と言うよりもどう見ても知らない女に見える。
ついつい口を歪めると、鏡の中の女も口を歪めた。
そもそもカークは自分が大嫌いだ。全てにおいて中途半端で、周りが言うほど気の利く性格でもないと、思っている。ただ、適応性がいいだけ。体面がいいだけ。外面の良い、心の伴わない、どこまで行っても機械的な自身の行為。
結果が予測できないと行動しない。無駄だと思うことには手を出さない。
そんな彼を見て、マルゥが冷静ではなく冷酷だと咎めた。反論は出来なかった。
図星だったからだ。
溜息をつく。鏡の中の己も共に、物憂げに息を継いでいる。
隣の女が彼を見て感嘆の篭る声をあげても、カークは眉を顰めただけだ。彼自身に理解のしようが無い。通りすがりの先の人事役の男までが、彼を見て綺麗だと言った。
――どんな、
感性をしているのだろう。
綺麗さで言うなら、隣の彼女の方がよほど麗しいと、カークは思う。
彼女もD-LLなのだと、先程聞いた。剥きだしの首筋に黒いバーコードが見える。
髪は青味がかったアッシュグレー。その長い髪を優艶に結い上げて、散らした桜は水面に浮かぶ花弁だ。その同じ系統色のぱっちりとした大きな瞳。朝露に濡れた花の蕾のような唇が、僅かに突き出している。
細く引き締まった腰に頼りないほど薄手の、腰帯をきりりと巻いて、小さな爪先は赤い野花で染めてある。
近寄りがたい硝子の彫刻と言うよりは、人好きのする可憐な美人。ぱっと笑った顔が花のようだった。今はまだ、少女であるマルゥなら、こんな風に成長したのではないかと思わせる風貌をしていた。
もしもマルゥが、人間であったなら。
彼女は成長しない。しない、のではなくて出来ないのである。何故なら彼女はカークと同じにD-LLと呼ばれる有機の混じった機械だったから。人間だったなら流れ行く月日と共に、齢を重ねることだろう。完全に機械だったなら、パーツを変えれば事足りるだろう。そのどちらでもない、中間部分に位置するD-LLは、故に年を取ることが無い。年を取る、成長する、と言う概念が存在しないのである。もともと、そういう意味も含めて製造されたようだ。いつまでも若く、美しい生き物。
不老長寿。人間の憧れ。
そうそう良いものでは無いと、D-LLであるカークは思う。成長するということは、生長すると言うことだ。経験を重ね、成功し、失敗を繰り返し、泣いて笑って悩んで、そうしていつの間にか果敢なくなって土に返ってゆくものだ。
彼にはそれが許されない。
彼にできることはただ、そうして成長してゆく人間を、傍から眺めて羨望の眼差しを送ることのみである。共に住んでいるものが果敢なくなってゆくのを、見守るのみなのである。そういうことに、最近になってようやく気付いた。気付いたというより諦観した。
更に言うなら、諦観と言うよりは絶望であった。
それはなんとも表現しがたい感情である。
そのことに気付くより前、彼は朽ちゆくものと共に逝きたいと願ったことがあった。
どんなに希っても、どんなにどんなに憧れても。決して手に入ることの無い、生命と言う名の、目には見えない、けれども確かにそこにあるもの。
造り物の自分の身体の中には、どこをどう開いても無いもの。
苦悩は同居している少女も一緒だろう。口には出さない、あっけらかんとした性格をしているが、している故に、きっと悩みも多いのではないかとカークは推測している。成長しない身体。いつまでも大人になることの出来ない、少女のままの身体。きっと、何歳になっても、周りの人間が全て年老いても、彼女は若く可憐なままである。彼女にとって人生はいつまでも、始まったばかりなのだ。スタートライン。そこから先には進めない。
その点では自分はまだ少し、成長しきった成体である分、彼女よりは優遇されているといえるのではないか。
そう思ってしまう自分を、カークはますます嫌になる。
劣等感を対比して、自分の何かが僅かに誰かより優位に立っているからと、自身を慰める。比べてそれが何だと言うのだろう。
そういう見方しか出来ない自分が、酷く嫌だ。
「ねぇ。ウチら呼ばれているよ」
隣の女が、カークをつついて耳にそう囁いた。え。意識が不意に戻る。戻ってようやくほっとした。自分ではあの、ひたすらうねりくねり、堂々巡りする嫌悪感から逃れられそうもなかったからだ。瞬いて振り向くと、人事の男が彼を手招きしているのが見えた。
慌てて立ち上がる。
しゃらん。挿したかんざしの鈴が、小さな音を立てた。
そうして妻はまた言います。「アンタ、アタシはアレがもっとほしい」。
最終更新:2011年07月28日 08:09