寝室で膝を抱えていた。
電気もつけずに真っ暗な部屋で一人、悔し涙を滲ませながら壁に向かって膝を抱えていた。
どうして急にあんなに腹が立ったのか判らない。
主の口から、あんな言葉が出たのが意外であったし、それを否定しない少女にも腹が立った。
彼女はD-LLだ。死の概念が無いD-LLだ。それでも、
……死ぬって、死ぬなんてそんな簡単に済ませることじゃないでしょ……!
ごちゃごちゃになる胸のうちでそう叫んで、
「――マルゥ」
いつの間に帰ってきていたのか、戸口のところで自分を呼ぶ声がする。
ぷんと、ココアの香りがした。
「少し――いいですか」
カークだ。
「……食べ物をダシにアタシを釣ろうとしているなら、お門違いよ」
頑なに撥ねつけるように答えたが、カークにしては珍しくそこで退くことをせずに、一言断って彼女の部屋へ入ってきた。ぎし、とベッドのスプリングが軋んで、彼が隣に座ったことがわかる。
「飲みませんか」
そう言って彼は手にしていた二つのうちの一つを、彼女に差し出してくる。大きなカフェマグが、重たそうに彼の手をしな垂れさせていて、見かねて思わずマルゥは手に取った。
カークが静かに笑った気配がする。
「……なによ」
「あなたは優しい人です」
「ぇあ?」
唐突な彼の言葉に面食らって、マルゥは目を白黒させた。
「な、なによ。アンタが褒めるなんて明日ヤリが降るわ」
「――そうして――冗談で誤魔化してふざけているけれど――、やさしくて、とても――きずつきやすいひと」
「……」
顔を覗き込まれたように感じて、膝を抱えたままマルゥは顔を思わず背けた。実際は暗がりの部屋の中、そんなことはないはずなのに、だ。
莫迦にされるのは勿論嫌いだが、褒められるのはもっと苦手だ。面映い。どんな顔でその場にいたらいいのか判らなくなってしまう。
褒めたきり、カークは押し黙ってマグカップを両手に包んでいる。
その無言の空気が不快ではなかったので、マルゥもまたゆっくりと立ち昇る湯気を顔に受けながら、黙ってココアを胃に流し込んだ。
いつの間にか外は雨だ。
暗闇が支配する窓の外に目をやって、しとやかに流れる雨の音に耳を澄ます。
「――ヒューも、」
「ぅん?」
小半時も黙っていたろうか、いつの間にか冷め切っていたマグカップに半分気を取られながら、マルゥは曖昧な返事を返した。
「あれは本意では――ないのですよ」
ああ。まったくカークはずるい。
渾名をつけるなら、策士だとか闇商人だとか絶対につけてやろう。心の中でそう誓ってみる。
並んで黙って座っているうちに、立ち消えてしまっていた怒りを今更かき立てる気にもなれず、彼女は黙って先を促した。
「いつも茶化して、本音の部分がなかなか見えないのがあなたとよく似ている。優しいから、――優しくて、これ以上自分が傷付くのが怖いから、突っ張って誤魔化して見せて――、暗がりに一人で泣いているのですね」
小さな子供。
あやすようなカークの声が心地いい。
「報酬金額がどうのこうの、本当はきっとあの人には関係なくて。ただ純粋に――外を見てみたい、その少女の依頼を受けただけなのだと思いますよ」
「マスタ本人がそう語りでもしたワケ」
「いいえ。あなたの言う、お得意の――ヒネくれまくった思考回路で行った深読みの結果、と言うヤツです」
あの人は自分のことを語らないから。
そう言って笑ったカークの姿が少しだけ淋しそうで、マルゥはふと心が動いた。
「それに」
「ん?」
「あの――少女の気持ちが私には痛いほどよく――……判る」
「……外が見たいとか言うアレ」
「そう」
私もきっと同じだった。
「どうゆうコト?」
「――お伽話をしましょうか」
「え?」
「むかしむかし。まだ人が――人であった頃のものがたり」
……むかしむかし。まだ人が人であった頃のものがたり。
居住の出来なくなった地球から惑星航行を経て、この星にたどり着いた人間達は、けれどコロニーでの生活を余儀なくされていました。何故なら、先に派遣した学者達の予想を遥か斜め上に裏切って、その星で暮らすには条件は酷く過酷で……、その上、その星に住んでいた原生生物はとても獰猛で、先発隊が試しにキャンプを張ったところで、すぐにその一体は襲撃されて跡形もなくなってしまったから。
自分が居たらそんなのふっ飛ばして見せる?
そうでしょうね。あなたならきっとそれが出来る。
けれど、科学に頼った人間の力は既に半分ほどに退化していて……、そう。恒星間ワープ航行をしても尚、数世代を超えた長期の旅路を余儀なくされた人間は、すっかり無重力にならされていたのですね。重力のある生活に適応するには、また数世代を経なければ不可能だった。
その世代を経る間に、彼らは度々コロニーから先見隊を送りました。
全滅しても全滅しても、彼らはそれを送り続けた。
……数世代先の子孫が、安定した生活を送る空間を作るために。
やがて。
重力に耐え得る体の構造を、ようやく備えなおした人間たちは、住み慣れて……荒れ廃れ果てたコロニーを棄てて……え?……そう。
まるで、元いた地球を棄ててきたのと同じように、です。
その時に……、周りの人間たちよりもひときわ知恵の巡る人間が一人、居て。彼は、巨大で不恰好な、バオバブにも似た鉄の樹を中心にした、巨大都市の建設を提案しました。
ガラスの覆いが張り巡らされ、温室にも似たその空間は空調や天気、住居している人間の全てを……“全て”を管理できる仕組みを考え出したのです。
そうです。今のP-C-Cの原型ですね。
それが一千年前のおはなし。
「……それと、アンタがあの女のコと同じだってのが、どういった形で繋がるのよ?」
「――P-C-Cの正式名称――完全高度管理社会都市。一体何が何を“管理”しているのか、マルゥ……あなたは知っていますか?」
「え?」
聞かれてマルゥは首を捻った。知らない。知るはずが無い。
なにしろ、P-C-Cを管理している『管理局』なるもの自体が、曖昧模糊として、その住民ですら実体をつかめていないからだ。
調べるには時間がかかる。けれど通常の生活を送るには何の支障もない。
「調べるのが面倒くさくて調べたコトがないし……アンタならともかく、アタシ程度が調べたって、ファイルのガードが固くて判らないわよ」
「そう――思うでしょう」
「そう思うって……他にどう思えって言うの?」
「例えば。調べようとする興味そのものを、相殺されているとしたら」
「え?」
「表面には決して出てこない。――何故なら、見た目には思いついた本人が“諦める”形で抑止されているから。――疑問も不満も湧きはしない。何故なら、やはりそう言った疑問や不満が湧かないような、そんな操作をDNAの段階で行われているから。それこそが完全高度“管理”都市」
「え、え、……それって。それって、どう言う、」
静かに語るカークの声が、秘めやかに熱い。
「――管理局と名付けられたものはね。その実、ただの監視管理装置です。――P-C-Cの全てをカバーしているのは、『管理者』と名付けられた――……D-LL」
「D-LLって……え?ええっ?……D-LLって。アタシとか。……アンタとか?」
「そう。――……もともとのD-LL製造の目的は、P-C-Cを管理するための『管理者』である生体機械をつくること」
「かんり……しゃ」
「今ではその目的が朧になって――D-LLが何故存在しているのか知るものはない。――知りたいと思えるプロテクトのかかっていないものも……無い」
「興味は抑止される……」
「そうです」
「……」
『完全管理社会都市機構(以下P-C-C)は、中央管理局の手により管理されているこの惑星全ての都市の総称です。』
『およそ一千年前に、人間が疲弊と荒廃しきった地球を捨てて、この新しい衛星に住み着いてから、人間とD-LLは、手に手を取り合って、この新しい世紀を築き上げてきたのです。』
『わたし達は、この歴史を共に歩んできた、かけがえのない共同生命であり、共にこの惑星に生きる住人でもあります。お互いの自由と権利を尊重しながら、次の時代を造り求めてゆきましょう。』
教科書の言葉をそのまま鵜呑みにするほど、マルゥも子供ではない。
けれどどこかで信じている部分があったのも確かだ。
がらがらと足元が崩れていくような心もとなさを感じて、彼女は一人うろたえた。
「――雨を見たかった」
何かを吹っ切るように、カークの言葉は止まらない。
「雨……」
その言葉をなぞらえることしか、マルゥには出来なくなってきている。
「製造されてから、ずっと。人工子宮カプセルの中で教育されて、それに対して何の疑問も持たずに――ただ――生き長らえて――きました。ある日監視研究員の一人から、雨の話を聞いた。天上から水滴が尽きることなく降り注ぐのだと言った。時に細やかな粒になり、時に痛いほどの大粒になって空から落ちて来るのだと言った。それまでの私は――記録としての雨しか知らなかった。映像を見て学んだだけです。涸れることなく降りしきるなんて、なんて――冗談かと思いました」
「あのコもそんなコト……言ってたね」
「だから――私はよく――判る」
「そっか。…………。って……え?ちょっと待ってよ。アンタ、」
何か大事なことを忘れている気がして、マルゥは慌てて身を起こす。
僅か底にココアの残ったマグカップが、シーツに転がり染みを作ったが、そんな些細なことはどうでも良いほどに彼女は驚いていた。
「アンタ……き、きおく……記憶を思い出したの?」
「『管理者』が管理するものは、P-C-Cの都市機構ではなく――、……にんげん」
暗がりの中で、けれどはっきりとマルゥを見つめる気配がある。
きっとそれは真っ黒のガラス玉だ。
黒い、暗い、深い闇に似たその色。
部屋の闇と同化して……見えない。
声だけが、静かに告げた。
「――私はその昔。『管理者』として作られた――」
その言葉を今反芻している。
告げられたあの時の衝撃に、マルゥは豪く動揺して、結局気の利いた言葉一つかけてやることが出来なかった。
大事なこと……だよね。
かと言ってヒューに相談しようにも、病室で言い争ってから今のところ仲直りの口を利いていない。依怙地になって、自分からはなかなか謝りにくい。だから、相談も出来ていない。
欲求不満である。
不満を造った当の本人は、目の前を歩いていた。
後ろから蹴りの一つでもくれてやりたいところだが、生憎ヒューの背中に負われた少女が隣にいたので、それも出来ない。
重量許容範囲で言えば、勿論マルゥがヒューを軽く上回っている。
けれど、同じ年頃の少女が少女を背負うというのは、如何なものかと彼が提案し、
「あれは、何をなさっているのですか」
そんな彼女の悩みも知らないカークは、目をきらきらさせて辺りを眺める少女と、呑気に会話を交わしている。
小憎らしい。
「あれ――どれ?」
「あの、たくさんの人が集っている……あの場所」
興味を惹かれてマルゥも目をやった。
少女が指差したのは、少し離れた場所に集った一団。一組の男女が、輪の中心に寄り添って立ち、それを数十人が取り囲んで口々に何か言っているのだ。
投げかけられるのは、花吹雪。
笑顔。
「あー……結婚式」
「けっこん、しき」
マルゥの呟いた声を辿って、面白そうに少女がそれを眺めている。
「幸せそうですわね」
「祝い事ですからね」
「今まで格式の異なる家の、他人だった二人が夫婦になる儀式……ですね?」
「概ね、そうでしょう」
のんびりとした二人に、マルゥは頭を抱えたくなった。
どうして自分がここまで一人で頭を悩ませなければいけないのか。馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「夫婦からは子供が生まれますわね?」
「産まれますね」
「では。わたくしもそうして……夫婦となった、父と母から産まれてきたのですね?」
「……そうだろうな」
「まぁ」
低く応えたヒューに笑った笑顔はいかにも儚くて、マルゥは胸を衝かれる。
「こんなわたくしでも祝福されて産まれた子供でしたのね」
よかった。
「ぽじてぃぶ」
「……え?」
「レッツポジティブシンキーンッッ!」
重い空気に最初に耐えられなくなったらしいヒューは、少女を背負ったまま、がむしゃらに通りを駆け出し、彼女に小さな悲鳴を上げさせた。慌ててランチ・ボックスを両手に提げたカークが後を追う。
「――ヒュー!無茶はいけません……!」
「ポジティブシンキーンッッ!」
「ヒュー!」
騒ぎを聞きつけて、なんだとこちらを振り向いていたその婚礼の一団にヒューはそのまま突っ込む。不意の乱入に大して驚くことも無く……そう、もともと婚礼式に悶着はつきものだからだ……、きゃあきゃあと女の歓声。舞い上がる花弁。笑顔と拍手。
男の背で、最初は驚き縮こまっていた少女も、徐々に自身の立場を理解し、頬が緩み、そうして最後には弾けたように笑い出す。
儚い笑みとはまるで正反対の、花のほころんだ笑顔。
騒動に、珍しく乗り遅れて眺めてしまったマルゥは、離れてその光景を見ながら、やはり頬が緩むのを抑え切れなかった。
“やさしくてとてもきずつきやすいひと”。
うん。理解できるな。
あっちにも。あっちにも。あっちにも。
笑った笑顔に全て当てはまる気がして、
「……待ちなさいよ!」
遅ればせながら彼女もその輪の中に突っ込んだのだった。
たどり着いたのは午後三時。
「午後三時は一番風が柔らかい」
「そうなのですか?」
「俺が今決めた」
少女の希ったあちらこちらにそうして何日も連れまわした後に、最後に連れてきたのは、あの白い白い……不吉なほどに真っ白なかざはなの咲く大きな木。
惑星上にはほとんど植物と言うものがないのである。
地表にあるのはP-C-Cである都市部分か、そうでなければ荒野であったからだ。
塩土混じりのその荒地には、僅かな植物しか育たない。
当然、緑一杯の草原などと言うものは夢のまた夢である。
大木の元に腰掛けて、夢見るような顔で少女は上を見上げた。
「木、ですか」
「木です」
今は花のほころぶ季節ではない。
生い茂った葉すらない。
来る春に待ち侘び、来る冬に備えて、かさついた赤く色づく葉を落とすのみだ。
大木の幹に白い頬を当て、しばらく少女はそうしてじっと眠ったように瞑目していた。
「……あたたかい」
ぽつ。呟いた言葉に、背後に居たヒューが切なげな瞳をするのが、何故かマルゥには判った。
きずつきやすくて。やさしい……、
「……夢が、叶いました」
「――それは、」
良かったですね。
少女の傍らに膝を付き、その広がる裾を整えてやっていたカークがそっと微笑む。
「次の夢をまた考えなければいけませんね」
「次の夢を見るまでの時間が、わたくしに残されていますでしょうか」
「残されていますでしょう」
「……わたくし、」
外が見たいだなんて、本当は嘘でしたのよ。
秘密を明かすような口調に気を惹かれてマルゥはえ、と目を向けた。主を振り返る。
男は口元を歪めた笑いを浮かべていた。知っているのだ。
「この前お話した『Light』、……半年前に掲載された論文……。カークさん、覚えていらっしゃいますか?」
「――え?」
意外な表情で青年が顔を上げた。
「――半年前の――」
「とても短いものでしたし……、控え目に論争されてましたので、あまり注目されることは無かったようですが、わたくしにはとても斬新で、楽しませていただきましたの。捲り跡がつくほどに読み返しましたのよ。確か……250ページの」
「……――それは、」
「そう。カークさんが書かれた論文でしたわね」
「――」
「個人的に……と言うよりは金銭的な力で。失礼ですがあの論文を書かれた方を、調べさせていただきました。その方に、どうしてもお会いしたかったのです。勿論、外を見たかったことも本当ですけれど……けれど、それがわたくしの……本当の依頼でした」
「私に――ですか」
「ええ。不審には思いませんでしたの?わたくしを外に連れまわすだけでしたら、Sクラスの報酬になるはずがないと。せいぜいがところCクラスでしょう。難易度が高いのは、依頼されている人間自体が限定されていたから……職業紹介所を経由で、ヒューさんに直接、依頼させていただきましたのよ」
「何故、私に?」
「まあ」
それも判りませんか?
透き通るほどに血の気のない頬で、少女は微笑んだ。聞かれたカークは片眉を上げて首を傾げる。本気で身に覚えが無いらしい。
「――どう言う――意味でしょう」
「会ってみてどうだった」
黙ったまま、半ば意地の悪い笑みを浮かべてカークを眺めていたヒューが、そう言った。
「想像通りに。……素敵な方でした」
聞いたカークの顔は、マルゥが初めて目にするもので、表現に苦しむ。それこそ鳩が豆鉄砲を食らった顔、とでも言ったらいいのかもしれない。
アタシは刺身のツマだったワケね。
マルゥは内心独りごちる。
「初恋でしたの」
世間知らずの病室育ちは、照れることを知らないらしい。固まったカークを前に、さらりとそのまま言葉を続けた。
「その方がD-LLと知っても、どうしてもお会いしたかったのです。ヒューさんにお話しましたら、快く引き受けてくださいまして……病室に来られたときは心臓が止まるかと思いましたのよ」
訪れた時の、少女のきょとんと無垢な瞳は、ポーカーフェイスだったらしい。
「……知ってたのね」
「まぁな」
言葉選びに四苦八苦したまま、口を開閉するカークを、少し離れて面白そうに眺めるヒューに近づいて、マルゥはそっと囁いた。
「こうしてお話が出来て。こうして側にいてくださって。これ以上の願いは、もう見つかりそうにありません」
「私は、けれど」
言葉にしかけてカークは気付き口を噤んだ。男でも女でもない、そう言いたかったのだろうと思う。
少女にはそれすらも関係ないだろう。
「……手を、握ってくださいますか」
「――え、」
「あなたに手を握ってほしいのです」
真剣な視線で頼まれて、断るに断れずカークがうろたえるのが、傍目から眺めているマルゥにはよく判る。女扱いされるのは不本意だ。けれど男扱いされることにも慣れてない。
「とことん中途半端ねぇ……」
幹に寄りかかり、柔らかなに深呼吸する少女の手を、やがて覚悟を決めたカークが、おずおずとその手を伸ばして重ねる。肩が強張っていた。
緊張している。
「心地良い風ですわね」
「はい」
「カークさん」
「はい」
「夢は、」
「――……はい、」
「あなたの夢はなんです?」
「私の――夢――は」
少女に尋ねられたカークが、刹那ちらりとこちらを窺う気配がした。窺ったのは、
マスタ……かな。
横に並んだ長身を見上げて、思う。
「――一緒にいたい人が――居ます」
「憧れている人ですか」
「――……はい。――ずっと一緒にいて、理解できていると思っていて――けれどそれ以上に貪欲に、一層にその人を欲しい。欲しいと希う。その人が欲しくて、その人だけしか欲しくなくて――」
「恋ですわね」
「――え?」
先程の豆鉄砲に輪をかけて、不意打ちを喰らった顔になったカークへ、
「その方が……好きなんですのね」
少女は畳み掛けた。
「D-LLには――……人間に恋する権利はあり――ません」
「……では」
にっこり笑って少女はあやすように手を振った。
ひとでなしの恋ですね。
ぶつんと切れた馬頭琴の音に、耳を傾けていた幾人かの酔客が唐突に我に返った。
歌歌いの声が途切れている。
壁際で騒いでいた一団のだみ声が、波の押し寄せるように次第に大きく耳へ飛び込んでくる感覚を覚えて、
「……おい」
黙っていつしか目を閉じ、歌歌いの声に聞きほれていた男の一人が、その喚声に不快感を示して、文句の一つでも垂れてやろうと歌歌いを振り返った。
「……おい!」
歌歌いの姿は既にない。
驚いて男は立ち上がる。
まるで最初から誰もいなかったような空間に残されたものは、そよとも揺れている気配のない紫煙に霞む木戸。
そうして唯一の動きを見せるのは、からからと回転し、床の上で渇いた音を立てる一枚の白銅貨。
「え……??」
夢から醒めた顔つきで、男は所在なさげに呟いた。
月に照らされた青い路地を、<それ>はとぼとぼと歩いていた。
遠く彼方より嬌声。
ああ。
嘆息を溢した瞳はどこか焦点の合わないガラス玉。がくりと仰け反って<それ>は月を見上げた。
折れそうに白く細い首が剥き出して、そこに刻まれていたのは……幾本かの黒いバーコード。
掠れて傷付いたそれは、よく見えない。
ふと。
見上げた空にひとひら、花が見えた気がして、<それ>は思わず目を凝らした。
匂い立つ白い白い、
花。
視界は不意に明暗し、<それ>は知らない内に自身の腕が顔を覆っていたことに、そこでようやく気付くのだ。
――……カーク。
仰のいた耳に、今はもう聞こえない懐かしくて優しい声が木霊して、<それ>は両手で耳すら覆った。……判っている判っている。判っている。判りきっている。これは空耳だ。あの人はもういない。もう――逢えない。
張り裂けそうな胸の内で、何千回何万回と繰り返した答えだったから。
花。
見えないひとひらに腕を伸ばし、やがて歌歌いは力を失くして路地の闇に沈んだ。
花。
夜は長く、明ける気配はまだない。
最終更新:2011年07月28日 08:12