<<ガラスの巨人・前編>>

  夢を見ている。

  これでよしと、男の声がした。
  耳に馴染んだ声だ。
  何をしたのですかと、自分の声が尋ねている。
  遠い音に聞こえて、どちらも間近では聞こえない。
  例えばプラットホームで、ぼんやりと眠いときに聞こえてくる喧騒のよう。
 「――なにを――したのですか」
  ああ。自分の口が動いている。
  けれどまるで唇は痺れているようで、思い通りに発音もできなければ、実際これが夢か現かさえもはっきりしない。
  頭の下に硬い膨らみがあてがわれている。
  寝台に横になっているようだった。
  そうだ。自分は確か、定期メンテナンスをしてもらうために、運動系統の動力を一時切断したのだ。
  切断作業は、麻酔にも似ている。
  復帰後の回復もゆっくりとしたものだ。
 「――なにを――」
 「……なに。お前は知らなくても良いんだよ。もし出来るなら、発動しないほうがいいものなのだから」
  念のために。そう男は言う。
 「はつ――どう――」
 「気にしなくていいのだよ。眠りなさい」
  ……眠りなさい。
  優しく繰り返されて、素直に頷いた。ふと生じた疑問は、口に含んだ綿飴のように溶けて消えた。
  直後に訪れるのは強い睡魔だ。引き込まれるように、落ちてゆく。
  引き込まれるように真っ逆さまに。温かな暗闇の中に、落ちてゆく。


  夕闇。黄昏。路地をすれ交う、その相手の輪郭さえ朧な庸として知れない時間。白茶けた薄布を被った影がひとつ、ゆらゆらと盛り場をうろついたところで誰も気に止めはしない。
  蜻蛉のように薄布をはためかせて影はひときわ派手やかな――と言うよりは、どこか空虚でけばけばしい店の木戸を揺らす。
  溢れ出るむっとした人いきれと煙草のにおい。嬌声。
  早い時間から、その店は随分と盛況だった。
 「……いらっしゃい」
  余所者に敏感に反応して、一瞬警戒の視線を投げてよこした親父がちらちらと入ってきた客を値踏みし、見かけない顔だね。カウンターの向こうから眠たそうな声で挨拶半分、話しかけてくるところに会釈を一つ無言で返して、滑り込むように席へ座った。
 「何にするね」
  脂垢に曇ったグラスをぞんざいに拭きながら尋ねた親父に、顔を隠したそれが小声で何か囁くと、怪訝になった親父はそっと顎の先で店の奥を指し示す。
  追いかけて彼は肩越しに眼をやった。
  床にも卓の上にも転がりまくった空き瓶。酒に酔った男達が十数人屯している。
  腰掛より半ばずり落ち、だらしなく酒を煽るもの。早々につぶれ、テーブルに伏して鼾をかいているもの。ゲームに興じているもの。給仕にちょっかいを出し嫌がられているもの。
  わっ。
  そこで喚声が上がり、急に数名が一人を取り囲んで喧嘩腰。囲まれた男が床の上に転がった。やれっ。そこだっ。胸倉を掴み、失神した哀れな男に誰かが馬乗りにもう一発とおまけを見舞えば、欠け折れた前歯が宙に飛ぶのが見える。
 「……アイツらまただよ」
  数席隣の常連客が連れと眉をひそめながら、見て見ぬ振り。厄介事に自ら首を突っ込むのは、自殺行為だ。
  その厄介な連中は、どうだ今の見たかと高笑い、おう。親父酒だ!祝杯じみて挙げるところへ、杯の中身半分は、互いの杯がぶつかった勢いで床に零れた。それを見て誰かが、またけたたましく笑う。
  よく見ると、統制の取れていないように見える、各自ばらばらに座ったその位置は、しかし遠目から見るとある程度形を成した半月。端を成すのはまだ年若い下っ端連中。半月の中心に向かうほどに、座る男達の顔は凄みを増している。
  凄み、と云うよりは狂気。どんより曇った瞳の色。
  狂気の塊の中心に、男はいた。
  髪を肩で切り揃え女衒のような身のこなし。身に纏った服も、中性的な女物。色は奇抜で、どこかちぐはぐとしており、だが奇妙に空ろな狂う雰囲気によく似合った。
  ドルマと言う名の、ここら界隈の元締めである。
  ややすれば朴訥にも見える顔は、けれどはっきりと瞳の色が剣呑だ。ぎらぎら光る欲望は他の誰よりも強い。周りの騒ぎを面白そうに眺め、時にはあまりやりすぎるなよと宥めながらもその実、彼が少しでも退屈すると、一声上げてはけしかけているのだった。
 「……あんた、どこからきたね」
  探るようにじろりと眼をやり、背後を窺っていたそれに向かって、親父がビールを注ぎながら声をかける。カウンターに向かいなおしてそれはジョッキを受け取った。
 「――さて。天にも地にもこの身一つ。参れといわれれば、どこからでも参りましょう」
  不審の視線をものともせず、済ましてビールを一口。喉を潤す彼に、ふぅん。親父が頷いて見せた。
 「上層区域からでも来たのかい」
 「――そんなようなもので」
 「管理区はどうだい。暮らしやすいかい」
  こっちは最近暮らしにくくてね。そうぼやく。
 「連中のやり方は、正直手に負えねえ」
  ……判るだろう。目で店奥を示してみせる。
  応えてそれは、小さく肩を竦めて見せた。竦めた直後に背後のとばっちり。取っ組み合いを始めた男達の群れから、軌道が逸れたか唸りを上げて、厚手のグラスがカウンターをかすめ、奥の壁にぶつかると派手な音を立てて四散した。
 「――随分と」
  にぎやかな。
  飛び散った破片に動じる様子もなく、カウンターに落ちた透明なそれを爪で弾く。そのままちらと背後に何気なく視線を流すと、グラスの軌跡を追った群れの中心の男と、視線がかち合う。絡みつきかけた視線を巧くかわして振り向き直った。
 「いつものことさ」
  首を横に振り諦観の混じる親父の溜息。被せてざわざわと人の動く気配、椅子から立ち上がる音。
  背後の男達が、彼に向かってやってくる。
  面倒臭そうに音を追った親父の顔が、不意に強張り、目の前の俯いたままのそれに親切ごかし、目配せを送った。
 「おい、」
  アンタ。連中の気を惹いたよ。
  薄手の布を被る体は、布の上からでも華奢な骨格が見て取れる。どう大甘に見積もっても、それが背後より迫る十数人のならず者に太刀打ちできるとは、親父には思えなかった。おい。アンタ。唇を震わせ低く警告の声を出す親父の声を聞いて、それは唇を引き結び僅かに顎を引いた。
  角度によっては、にっと笑ったようにも見えた。
  ――本命。
  音のないほくそ笑みが聞こえた気がして。え?親父が聞き返そうとしたところに、近づき終えた連中の一人が無遠慮にそれの横に座った。
  件の、若頭である。
  勢いに震え上がり、親父は目の前の風変わりなそれの運命と、聞き返そうとした質問を、早々に諦めて手放した。
 「よぉ。てめぇ、見ねぇ顔だな?余所者はまずは挨拶。それが人間と人間の関係の基本なんじゃあねぇか。なぁあ?」
 「俺たちと飲みたいんじゃねぇか?なぁ?」
 「――何か、御用ですか」
  酒臭い息を撒き散らす、男の下卑た声に動じることもなく凛とした声が弾くように問うた。
  げらげらと笑う男の群れ。
 「御用!そうだよ御用だよ!……一人で飲んでないで俺らと楽しくお飲みになりませんか、だ」
  親しげに肩に手を掛けて、ドルマはそれの顔を覗き込むようににやついてみせた。酒に酔い喰らった瞳は余り焦点が合っていない。
  覗いたのを合図に、右に左に。数人がさり気なく、逃げ道を塞ぐ。
 「親父。酒だ。酒。酒もってこい」
  しどけなく寄りかかるドルマの、ボタンの外れた胸元から汗と酒と垢の臭い。漂ったか、それが僅かに身じろいだ。
 「なぁ。兄弟。一期一会って言葉知ってるか?……知ってるか。知っているか、そうか。出会いの印象ってのぁ、礼に始まり礼に終わるって言うんだ。な?判るか?顔を隠したまま俺らの店にやってきて、挨拶一つも寄越さないじゃあ、俺ら様に大変に御無礼ってモンだろ?あああ?」
  笑っている男の眼は、死体に集る獣のそれ。
  おどおどと親父が差し出した酒瓶を乱暴に引ったくり、顎伝いに零れるのを気にもせず、一気にドルマは喇叭飲んだ。空になった瓶をカウンターに叩きつける。破片が再度飛び散り、ドルマ自身の頬に赤い筋をいくつか描いておちていったが、下卑た高笑い、意に介した様子もない。
  舌なめずりをして、目の前の獲物に手を伸ばし、
  深く被ったフードを取り払って、

  酔いが、覚めた。

  ひゅっと息を呑む音が間近でして、それが自分の喉から発せられたのだと気付くまでに数秒要した。透明さを交えた黒の絹糸が宙に浮かび上がる感覚。……壊れる。瞳孔に映した瞬間思わずドルマは受け止めようと両手を差し伸べた。ランプの黄味を帯びた光に照らされてもまだ白い頬。磁器かと思う頬へ、絹糸は降りかかる。そこでようやく彼は、糸に見えたそれが、目の前の獲物の髪なのだと理解した。
  理解し、だが眼を見張ったままに身体が金縛りにあったように動かない。
  動かせない。
  囃し立てようとした男たちも、思わず腕を振り上げたままだ。動きを止めていた。ぱりん。澄んだ音が静まり返った店内に響き渡る。親父が取り落としたグラスの割れる音。
  そこに。
  座っていたものは、おそらくは男が今まで目にしたことのないものだった。
  妖艶であり清楚であり、相反する二つの存在を持つ生きものだ。白磁の肌。筆で引いた如く柳眉。通った鼻梁。僅かにほころんだ唇の合間に、ちろと桃色の舌が覗く。伏せられていた長い睫毛が、震えを帯びながらそっと持ち上げられ、ごくり。仲間の誰かが生唾を飲み込んだ。
  停止した空間に透明な視線だけが動いて、ドルマに焦点が合わさる……吸い込まれる。眩暈を感じたドルマが柄にもなく、瞼を落として視線を避けた。
  漆黒。シンメトリーの瞳。濡れ羽色鴉の、その黒。
 「……こ、い、つぁ、……」
  仰け反るドルマの喉から、しわがれた声が漏れ出でた。極上玉じゃあねぇか。
 「――賭けを」
  正体不明のそれが口を開いた。鈴を転がしたような、通る声。強すぎも弱すぎもしない耳朶を震わすその声に、気付いてドルマは恍惚となった。
  まるで麻薬である。
 「――賭けをしませんか」
 「……賭、け……?」
  目の前に差し出され、白魚の手に握られた車の鍵を呆然と眺め、ドルマはただ繰り返していた。
 「はい。レースはお好きですか」
  静かに目の前のそれ――カークが、頷く。

Act:18にススム
人間と機械にモドル

最終更新:2011年07月28日 08:13