「随分と君は……変わってしまったんだね」
  唐突に聞こえた耳元の声に、小さく悲鳴を上げてカークは振り向いた。暗闇に似た空間に、白衣にも見えるボディスーツに身を包んだ、長身の男が一人、立っている。
  愛おしくて。忌まわしい、
 「――レンブラント博士」
  震える唇を無理矢理押し開いて、カークは言葉を発した。
  できることなら二度と逢いたくはなかった。絶望感が思考を、全身を支配する。
 「やぁ、No.9074。久しいね」
  そんなカークの思いを知ってか知らずか、片眼鏡を押し上げてうっすらと男が微笑んだ。
  それはあまりに酷薄な笑みだ。
 「しばらく見ないうちに、随分と君は変わってしまったんだね」
 「はか――せ」
 「感情だとか、想いだとか。余計なものが君にはたくさん付いている」
  困ったことだ。
  大仰に溜息をつき肩を竦め、男は首をゆるゆると振った。
 「なのに一から教育するにはもう時間が無い。期限はすぐそこまで……迫っているのだよ」
  ねぇ?
  振り仰いだ男の視線を受けて立つように、虚空の一角に淡い灯りが点る。
  D-LLが一体宙に浮いていた。
  それは。
  それは、磔のピエタだ。
  ぞっとするほど、精巧に張り巡らされた壁面から伸びるは回線だ。幾千本。幾万本。幾億本にもなって、一つの身体に向かって静寂的な獰猛さで襲い掛かっている。精密機械の内面。秩序正しく伸びている配線の、そのあまりの多さに、細く白い身体は持ち上げられて宙に浮いている。好んで浮いているのではない。持ち上げられているだけだ。
  青白くやつれ、血の気の無い頬。
  張りを失った肌が辛うじて、数本の筋と共に骨体の上に張り付いている。
 「……あれはもう限界だ。しかし、君の替りを造る時間は既に無い。つまり、君がいなければP-C-Cは機能できない。それを知っていて君はわたくしから逃れようとした……そうだね?」
  弄るような男の視線が、片眼鏡のガラス越しにじわじわとカークを非難している。
  生唾を知らず飲み込んで、いつの間にかびっしりと汗を掻いていることに、カークは気づいた。
 「C-oが、捜し出してくれたから良かったけれど」
  そう言う男の横に、いつの間にか染み出した真っ黒な女が付き従って立っていた。愛おしそうにその喉許を撫で、男は満足気に瞼を下ろす。
 「……どうだね?最新作なのだが。これは、最近の中でもなかなかの傑作なのだよ。機動に特化したタイプなのだがね、なにせ自我が一切無い。命令に反することが決して無い……と云うよりは、考え付きもしない。出来ないのだよ」
  誰かさんのようにはね、そう続けて男はまたうっすらと笑った。
 「まぁ……君が手元に戻っただけでも今はよしとしようか。直ぐに、データの移行に取り掛からねばならないことだし」
 「――また私の――メモリーを消しますか」
  あの時と同じように。
  思わず込み上げた嫌悪に、カークは口元を歪めた。
  一村を壊滅させて連れ戻された、あの時。男は問答無用に彼を縛りつけ、即座に、男の言葉で言う“不要な”データを全て削除したのだった。目覚めた後の気分はこの上もなく最悪だ。
  自分が何者であるのかすら、判らなかった。
 「いいや」
  引き攣りかけたカークを見やって、男はまたゆるゆると首を振る。彼の神経質に切り揃えられた黒髪が、肩の上で無造作に踊った。
 「今度はそんな無駄なことはしない。前回、君にかかっているプログラムは全て調べたつもりでいたけれど。データ内部に何か、オールリセットを邪魔する命令が、巣食っているのだね。君自身で君自身のプログラムは出来ないはずだから……誰かが細工をしたのだろうが。わたくし以外に、そこまでプログラムに精通していることが既に驚きだ。その誰かさんのおかげで、システムを初期化したはずなのに、余計な命令が栓のように邪魔をして、一部を封じてしまうらしい。中身をダンプして検索を掛けてみることも考えたが、それにしてもその検索を掛ける命令が判らなければ、調べようが無い。わたくしはね。無駄なことに時間をかけるのが、この上もなく嫌いなのだよ」
 「では」
 「ああ……判っているだろうが、君を解放する気はもちろんわたくしには……ないよ。けれど譲歩しようか。君はわたくしに”協力”してくれる。……そうだね?」
 「私が――おとなしくあなたの命令に従うと?」
  皮肉のつもりだ。
  俯いた顔が自嘲に彩られるのが判った。
 「命令。そんな野蛮な真似を、わたくしがするとでも」
 「以前よく言われていたではないですか。――”命令が聞けないのか”、と」
 「心外だ。実に心外だね」
  見ようによっては凍りつく怒りだ。不愉快な顔を隠しもせず、男は眉根を寄せて唸った。
 「今。君に申し入れているのは、わたくしからの”お願い”だよ。……それが判らないほど君は世辱にまみれ、……無粋に成り果てたか」
 「願い」
  その一言にカークは過敏に反応する。
 「P-C-C全域の人間を統括し、意のままに繰ることを目的に造られた私に――いったい何を願うというのです?あなたの――そして私の――してきたこと。しようとしていること。それは、ヒトを籠に囲うどころの話ではない。牙を抜かれ、翼をもがれて。生れ落ちるときより無意識に飼育され続けた彼らはもはやヒトではない――それは、実験用のモルモットです」
 「No.9074」
 「中央管理局と大層な名を騙って、あなたと私が為すのは何です?私はもう――……管理という名の下に、大量屠殺を繰り返すロボットにはなりたくありません」
 「は、」
  強張るカークをどこか物珍しげに眺めていた男は、そこで初めて不愉快な面持ちを不意に崩すと、耳障りな甲高さを伴う笑い声を立てた。
 「まったく君は本当に……本当に、随分変わってしまったね?そこまで喜劇的に弁が立つD-LLだったとは、製造者(メイカー)であるわたくしの予想範疇を遥かに超えている。面白い。とても面白い。君が動けなくなった後の、検分のし甲斐があるというものだ。……笑わせてくれる。今の言葉を聞いたかね、G-spl(ゴスペル)?」
 「――博士、」
  物静かな第三者の声が、生暖かな暗がりに響くとともに、空間に染み出したもうひとつの影。
  髪も肌も着ているものも。上から下まで何もかも真っ白な、メール・タイプのD-LLが一体、気づく頃にはカークの真横に立っている。重なり合った白の陰影のその向こう、薄暗がりが透けて見えた。当然だ。よくよく目を凝らせば、それは実体を伴わない、空間に透写された姿だったから。
  本体は頭上に、磔にされている。
  それはカークのとてもよく見知った姿だ。
 「――せ……、」
 「あまり――レンブラント博士を困らすものではありませんよ――No.9074」
  そのアルビノD-LLを見た途端に、カークの虚勢が崩れた。
 「せん――せい」
  あどけない声が自身の喉から零れ出て、カークは動揺する。呼ばれたD-LLが静かに彼に向き直った。
 「先生――」
  悲しい目をしていた。
 「No.9074。意地を張る間はあまり残されては――いない。これを見なさい」
  声にまで重く含まれた憂いの色に、不安感と共に思い当たるものがある。指し示された一方向にカークは目を走らせた。
 「あ、」
  空間に出現したスクリーンに透写されたそれは、
 「あ、ああ、あ、あ――」
  襲い掛かるのは絶望だ。身体の平衡をうまく保つことができなくて、奇声を上げ、カークは膝から崩れ落ちた。
 「な――……ぜ」
  おかしいくらいに震える手のひらで、己の顔を覆う。

  スクリーンに投影されたそこには、管理塔の一区画。四方がトンネル状に囲まれた通路に、身体を二つに折りかけ紙のように真っ白な顔色になりながら、ようよう壁に手を付き姿勢を保つ男と、数体の戦闘D-LLを相手に必死に牽制しようと足掻く少女。
  ヒューと、マルゥであった。
  二人共にあちらこちらに傷を負い、少女に至っては片腕が半ば千切れている状態だ。
  人間であればおそらく致命傷。
  捌き損ねた黒い女が一体、少女の脇をすり抜けて苦痛に喘ぐ男の喉元を狙う。
  スクリーンを凝視するカークが息を呑んだ刹那。かっとまなじりを開いた男は、手にしたエネルギー・ガンを襲い掛かるD-LLの額ど真ん中。正確に打ち込んだ。擬似体液を撒き散らして、どっとD-LLは倒れ伏す。一撃だった。
  けれど男はそのまま両手を床に付き、肩を二度三度大きく震わせたかと思うと、
  ぼた。ぼた。ぼた。
  不吉なほど赤い血を吐いた。

 「ああ……!」
  どうして。
  捨てて行けと、もう自分に構うなと、少女に伝えたはずなのに。
  中央に位置しながら何人たりとも進入を許すことはない、頑健な護りの塔のはずなのに。
  どうして。
  音にならない声を漏らすカークを、面白そうに眺めていた男がさて、と手をひとつ打ち鳴らすと、唐突に何もかもが消え去って、暗がりにはカークと男の二人だけだ。
 「……No.9074。判るね。君の身の振り方ひとつで、一人と一体の運命が決まる」
 「――はか……せ」
 「脆弱な人間は放っておけばすぐに……死ぬよ」
  死ぬよ。
  まるで温かみを感じさせない声に、知らずカークの身体が震える。
 「大切に思っている人間なのだろう?わたくしには到底理解できないがね。だが……判断することはできる。君が、素直に”協力”してくれるのならば、わたくしは彼らを解放すると約束しよう。君が彼らを説得し、もし彼らがおとなしく帰るのであれば、面倒な記憶操作の手間も省ける」
  どうするね?
  男の声が闇に響く。目をやれば、いつの間にか男の身体も宙に溶けて、辺りはカークたった一人だ。
  それきり声も聞こえない。
  どうするね?
  森閑とした空間に一人、打ちひしがれたカークはやがて。
  ゆっくりと顔を上げたのだった。


 「ヒュー!」
  鮮血を床に散らして、主の身体が崩れ落ちるのを、視界の隅に認めてマルゥは悲鳴を上げた。
  上げたは良いが、駆け寄ることができない。気持ちばかりはひどく急くのに、周りを取り囲んだ黒い女たちは気を緩めることを許してはくれなかった。どころか、少しでも隙を見せると最後、自身が確実にスクラップ行きである。
  不気味と言おう。この際言おう。はっきりと、気色が悪い。
  突こうと蹴ろうと弾き飛ばそうと。彼女たちは一切の表情を顔に出すことがない。感情を制御できる術を知っているのか、それとも、
 「……感じる回路がないの」
  ちっ。小さく舌打ちし、腰を低めに落として身構える。
 「そんなの、」
  踊りかかった女を一体、渾身の力で蹴り飛ばし、
 「そんなのD-LLなんかじゃないじゃない……!」
  顔を歪めて吐き捨てた。
  統御された機械は最早ロボットである。
  振り切った脚が戻る直前、その僅かな隙を狙って左斜め後ろの女が、脇腹に対して直角に手を当て軽く拳を握る。しまったと思う暇もなく、マルゥの身体はもんどりうっていた。
  飛ばされてけれど瞬時に立ち上がろうと、眩む頭を振りながら、未だ無事だった左手を付きかけ、その頼りなさに前方につんのめった。
 「……参ったな」
  苦笑が滲み出る。
  見下ろした左腕から骨格に相当する白い筐体が覗いていた。
  痛みを回路ごと遮断しているから良いようなものの、実際はのた打ち回る感覚だろう。
  潰された両腕をだらりと下げ、立ち上がろうともがいた身体が、ふわりとあたたかいものに包まれた気がして、マルゥは目を見張った。
 「マスタ……ッ」
  驚きに声も掠れる。
  主に抱きしめられていた。
 「……マルゥ。もういい」
 「はな……してッ……マスタ……マスタッ……ヒュー!」
 「お前まで巻き込む必要はないんだ」
  痩せてはいるが、がっしりとした胸板にぎゅうと押し付けられ、こんな時だというのにマルゥは思わず照れた。好きか。嫌いか。兄のように慕ってはいるが、どちらかと言えば大好きだ。
  けれど胸元に散った赤い染みに、はっと現実に戻されて、
 「放してってばッ」
  主の肩越しに黒い女が無表情に迫り来るのが見え、彼女は喚いた。
 「マスタ……ッ」
  突き飛ばそうと暴れても、しっかりと抱えられた身体は身動きできない。そもそも両腕が既に使い物にならないのだ。
 「嫌だァァッッ」
  人間でもD-LLでも。さまざまな情報の集積場である首筋は弱点だ。その喉元に今度こそ固めた女の手刀が煌いて、涙混じりにマルゥは叫んだ。

 「待ちなさい」

  瞬間、声が響き渡るのと、女たちが弾けるのと。どちらのほうが先だったろう。
  無感情の女の顔に、畏れにも似た色が一瞬だけ浮かんだように見えて、けれどそれも爆風と共に溶けて消えた。
  無音の爆発だった。
 「大事なお客さまたちに乱暴な歓待をするとはね……悪い子たちだ」
  お帰り。
  爆風の向こう。一体何時からそこにいたのか、それとも最初から佇んでいたのか。白衣の男が一人この上なく柔らかな笑みを浮かべて、両腕を広げていた。
  何故だろう。敵意のない姿勢のはずなのに、ぞくとマルゥの背筋が凍る。
 「大変に迷惑を掛けたようだね。出来の悪い機械はこれだから困る。……ああ、怪我をしている」
  片眼鏡の奥の、目を細めて男が薄い唇を開いた。
  胸に手を当てた仰々しい挨拶が、妙にマルゥの鼻に衝く。
 「アンタァ……誰だ」
  彼女の肩を抱き寄せたまま、ヒューが不審げな声を出した。
 「おや」
  男が笑って首を傾げた。
 「警戒されることはない。わたくしはこの場所の……管理人とでも思ってもらえればよいのだけれど」
 「管理人?」
  聞いた覚えのある言葉にマルゥは顔を上げた。
 「管理人って……あなた……D-LLなの?」
 「ほう」
  微かな驚きを浮かべながら、けれどゆるゆると男は横に首を振った。
 「そちらのお嬢さんは、”管理者”を知っているのだね。珍しいことだ。それとも……あの子が話でもしたのかな……?そうだね、正確に言えばわたくしは”管理者”を管理する役職。製造者(メイカー)と言えば話は早いかな」
 「メイカー……ってなんだ」
 「D-LLを作るコトの出来るヒトたちのコトよ」
  怪訝な声を出す主に、マルゥが聞きかじりの説明をする。
 「造られておいてアタシも良く知らないけど、そんな風なコト。アイツ言ってた」
 「ふむ」
 「そう。ここはP-C-Cの中でも最大に機密の場所。P-C-C中央管理塔にようこそ。わたくしのことはレンブラントと呼んでくれたまえ。ここはね……なかなか一般の見学は許されていないところだから、どうぞ心ゆくまで見物していくといい」
 「メイカー……レンブラント……」
 「ヒュー。聞いたコトあるの?」
  何度か口の中で呟いた主を見上げて、マルゥは尋ねた。しばし思いを巡らせる様子を見せた後、いいや。彼は首を振る。
 「思い出せねぇな」
 「……そうだろうね。わたくしも君に会うのは初めてだからね。No.9074から噂だけは耳にしていたけれど。会えて嬉しいよ」
 「No.9074って……何よ?」
  聞き覚えのあるような、ないような。暗号のような言葉にマルゥが鼻に皺を寄せた。
 「ああ。君たちは彼に名前を付けて呼んでくれたのだったね。そう、確か……カーク、だったかな。”良い名”だ」
  良い名だと笑った男の顔を、無遠慮にもマルゥは眺め回し、
  ……あ。
  先に感じた違和感が符合する。
  和やかに語る男の目。それだけは笑っていなかった。片眼鏡の奥の瞳が剣呑な光を放っている。
 「No,9074が君たちに大変お世話になったようだね。彼にもすぐに会わせてあげよう。けれど……ここで立ち話もなんだし、まずは君たちのその身体の状態を何とかしないと……人間は死んでしまうからね。治療と処理を施してあげよう」
  男は再びにっこりと笑って、未だ蹲ったままのマルゥとヒューを促し、踵を返す。
 「ヒュー……」
  言葉よりも直感を信じるほうだ。背を向けゆっくりと歩く男を眺め、マルゥは傍らの主に伺いを立てる。彼女の中でははっきりと、男に対する不信感が消えない。
 「……付いてく?」
 「そう警戒しなくてもいいのだよ」
  迷った声が先を行く男にも聞こえたのだろう。背を向けたまま、肩越しに男が促した。
 「取って食らおうとしている訳じゃあない……付いてきなさい」


  黒い女たちになれたらと思う。
  センサー・ドアの前に立って、キィに触れかけた手をはたと止め、カークは深いため息を吐いた。
  先ほどまで嫌悪を抱いていたものになりたいと願うのも、おかしな話だ。結局のところ自分はあんなD-LLになることを暗に望んでいたのではないか。自問した。
  ――そうかもしれない。
  造り手であるものから求められたものは、完全無欠と服従だ。
  そうして自分は。可能な限りは、そうありたいと願っていた。
  女たちと同じような服を纏い。女たちと同じように振舞って、それなのに未だ自分はどっちつかずの中途半端なままでいる。
  苦笑いが浮かぶ。
  ――ちがう。
  かぶりを振って湧き上がる邪念を追い払った。違う。そうではない。それは、造られた記憶だ。
  私は。
  私は、そうなってゆく私自身に疑問を感じてP-C-Cから逃げ出したのだ――。
  決して戻るものかと恐れ、怖れ、懼れ。けれど逃げ切ることはどうしても出来ないのだと、どこか心の片隅で諦観してはいなかったか。
  夢のように果敢ないものだったのだ。
  薄く瞼を閉じ思う。
  ぬるま湯のように、浸かっている間は気付かない。いつかは冷め。そうして覚め。終わりが来ることを知りながら。泣いたり怒ったり笑ったりしながら。日々の暮らしを喧騒に慣れ、何時までも浸っていられるものなのだと錯覚をしていたのだ。
  途方もなく長い私の醜状たる生の中で、あなたといられた数年。それ自体が脆く果敢ない夢だったのだ。
  これより、瞼を開けたときより、私は。
  自身に言い聞かせ、小さく微笑む。
  ああ。
  よかった。
  淋しい笑みだったろう。
  管理者になっても、私は一生この夢を抱えて生きてゆける。
  そっと開いたカークの瞳に、もう感情の色はなかった。
  センサー・ドアに今度こそ手を触れ、軽い油圧の抜ける音と共に扉が瞬時に開く。痛み止めだろうか。視界が暗順応する前に、つんと薬品の匂いが鼻を衝いた。
  応接間として設えられた室内には、黒革張りの長ソファがふたつ。向かい合って三人の身体がソファに沈んでいる。
 「カーク……ッ」
  戸口に立った彼を目にした少女の声がする。安心半分、咎め半分の声を発して、ぱっとマルゥが立ち上がり、
 「莫迦!」
  そのまま驚いたことに、彼の身体に飛びついた。受け止めきれずよろけて、カークは目下の少女を見下ろす。
 「先輩に心配かけるなんて、後輩失格よ……!」
  半べそをかいた顔がまだあまりに幼くて、見下ろしたカークは胸を衝かれた。
  いつも強がって入るけれど、そうだ。なんと言っても彼女はまだ文字通り「少女」なのだ。
 「や。No.9074」
  胸を衝かれたのも、けれど一瞬のことだった。抱きしめ返そうと腕に力を籠めようとする、その間をよく見ていたのだろう。冷静に優しいレンブラントの声が、にこやかにカークを現実へと引き戻す。
 「今ちょうど、君の話をしていたところだったのだよ。なかなか君が来ないものだから……お客さまが豪く心配されてね」
 「レンブラント――博士」
 「うん。是非、君の元気な姿をこちらに見せてあげるといい。あの外郭都市で、君が事故修復では追いつかないほど酷いダメージを受けてしまったものだから、わたくしも少々強引な回収をしてしまった。それを、この方たちはどうも許してはくれないのだよ。あんなことをしたというのも、全てはNo.9074……君を大切に思えばこそ……そうだね?」
 「カーク」
  レンブラントの声を聞いているのか、いないのか。
  ソファに沈んだまま、静かにカークを凝視していたヒューが、小さく手招く。
  裸の胸に巻きなおされた包帯がまだ、痛々しい。それでなくてもあちらこちらに傷を負っているヒューは、まるで縄張り争いして来た野良猫だった。視線も険しい。
  けれど、先刻よりも顔色は格段に良い。呼吸も穏やかなようだ。確認して内心、カークはほっと息を吐いた。
  そっとマルゥを振りほどき、レンブラントの隣側……ヒューの向かいに座ると、カークは深々と頭を下げる。
 「――ご心配をおかけしました」
 「お前……もう、平気なのか」
  身体のことを言っているのだろう。以前に一度、やはり仮死状態に陥るほどのダメージを受けたときには、丸三日ほど復帰することが出来なかった。
 「はい」
 「ほうら。わたくしの言ったとおりだろう?お客さまはわたくしの言を、疑ってかかる傾向でおられるようだ」
  困ったね。
 「お前。どうした」
  レンブラントの言葉をやはり、聞いていない。一人語散る声に被せて、探る視線でヒューが呟いた。
 「どうした――とは」
 「カーク」
  無感情を努めているが、表に出たろうか。ふと不安に襲われながら繰り返したカークの耳に、
 「カーク。俺の目を見ろ」
  逆らえなかった声が響く。
  言われて逡巡し、けれど結局カークは視線を上げることができなかった。
  向かい合った鳶色の瞳は、きっと何もかも見透かしてしまう。
  どんなに鉄面皮の表情を貫いても、彼の真っ直ぐな視線はすべてを暴いてしまう。
  見たい、けれど見るのは怖い。
 「カーク」
 「そうして――」
  俯いたまま、カークは葛藤に眉根を寄せた。
 「そうしてまた――私を――束縛しますか」
 「……束縛?」
  思い当たる節がまったくなかったのだろう。頓狂な声をヒューは上げる。
 「仮にもマスターと定めたあなたの命令には私は決して逆らえない――そうしてまた、意に沿わぬ労働を強いますか」
 「意に沿わぬって……どう言うことだ」
 「”管理者”となるべくして造られた私に、掃除をさせる。洗濯をさせる。あまつさえ、食事の用意までさせる」
  俯いた自身の唇が歪むのが判った。本意ではない言葉を……、嘘を吐くとき、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
  塵ひとつなく掃除をしても、次の日には散らかし放題の部屋が好きだった。塵ひとつない部屋を掃除したところでつまらない。それでこそ掃除のし甲斐があるというもの。
  汗まみれで仕事を終えて帰ってきた、その日一日の汚れを落とす洗濯も好きだった。真っ白なシャツに袖を通す主の姿を見るのが、カークはとても好きだったから。
  そうして。
  暖かな食卓を用意するのが何よりも好きだった。
  疲れて帰ってきた二人が、嬉しそうな顔で席に着く。これは甘い。これは辛いと批評しながら、けれどいつもきれいにぺろりと平らげてくれる。淡い光に照らされて囲む食卓が、同席する二人が、カークにここにいても良いと許してくれている気がしたから。
 「この十数ヶ月は私にとって――ある種苦痛の日々でした。この管理塔に戻って――それなりにようやく呼吸が出来た気でいるのですよ。私の命を救ってくれた恩は――何にも代え難いですが、けれどやはり私にはこの空気があっているようです」
 「アンタ……ッ。何言ってるのよッ」
  紡ぎだされた辛辣な言葉に、唖然としていたマルゥが我に返って怒り出す。
 「無理やりやらされてたとでも言いたいワケ?マスタは一度もアンタに……家のことをしろなんて命令したコトなかったじゃないッ」
 「口には出さずとも――無言の圧力というものはありますでしょう」
  なるべく冷めた視線でマルゥを眺めたつもりだ。見やった少女が息を呑むのが判った。
 「じゃ、アンタ今まで……嫌々アタシたちと一緒にいたとでも言うつもり?」
 「身の置き所がなかったのです――仕方なく、」
 「カーク」
  じっと彼とマルゥのやり取りを見ていたヒューが、再び口を開いた。
 「何をされた」
 「――何も」
 「この部屋に案内される前にな。そこのメイカー自慢の”管理者”とか言うものを、見せてもらった。……お前も、ああなるために、造られたってぇのは……本当なのか?」
 「本当です」
  ヒューの言葉に、カークはそのまま頷いた。
 「私は”管理者”となるために造られました。そうしてもうすぐ、その責を追うことになる――でしょう。前任者から全てを引き継いで。私が――P-C-Cそのものになる」
 「それにお前はなりたいのか?」
 「――なりたいだとか、なりたくないだとか。その質問に対する答えはありません。何故なら最初から、その目的のためだけに私というD-LLは造られました。それ以外の何者でもない」
 「……それが。存在理由というべきものだね」
  耳を傾けていたレンブラントが、そっと追記する。
 「価値と言っても良い」
 「……アンタには聞いてねぇ」
  ぼそり。不機嫌にしかしはっきりと、ヒューが呟く。
 「俺はカークと話しているんだ」
 「――博士の言われた通りですよ」
  むっとしかけたレンブラントが言葉を発するより早く、代わりにカークは頷いた。
 「私は現実を直視することから逃げていたようです。全ての権力を手中に収めるという自体が、もしかすると怖かったのかもしれません。けれど、改めてこの場に戻って――私は、私の存在意義のままに生きようと――思います」
 「カーク」
 「――私は、」
  尚も不信な声を出す主の言葉を遮って、
 「もう――仮初めの主に仕えることに疲れました――……!」
  目を閉じ、言い切った。
  それには流石に、ヒューも口を噤む。
 「あなたのことを決して主人と呼べなかったのは、この――レンブラント博士が私の元々の主人だったからです。原始の記憶は決して薄れることはない。主人が為せと命を下せば、私は――どんなことにも従うでしょう」
 「本気で言っているのか?」
  怒り出してくれたらどんなに楽だろう。
  ヒューが平静を欠いてくれたら、その怒りを煽り立てて、のらくらと言い逃れる自信が、自慢ではないがカークにはある。
  挑発的な台詞に、日頃ならすぐ感情に左右されやすいはずのヒューが、今日はやけに静かだ。
 「本気でなければこんなことは言えませんよ」
  俺はさ。
  そうかとひとつヒューは頷いて、
 「お前に会うまで、俺はずっと何かを探していた気がするんだ。なにか、欠けてしまった大切なこと……何かとても悲しいこと。大切な約束をしたはずなのに、確かに覚えていたはずなのに、喉元から外に出てこねェ、もどかしい思いを抱えたままデカくなって。……それでも俺は探していたよ。いくつか仕事もしてみたが、尻の据わりが悪くて落ち着きやしねェ。いっそ据わりの悪い仕事に就けば落ち着くかとも思ったが、そう上手くも行かねェな。やっぱりどこか空白のまま、俺はずっと、探していた気がするんだ。お前は……違うか?お前も何か探していたんじゃねぇのか?ガキだった頃の約束を、お前も覚えていたんじゃねぇのか?」
 「そん――なものは」
 「……無かったことに……、したいか?」
  あくまで落ち着いた声音に、知らず握り締めていた己の拳が震えるのが判った。
  爪を突き立てる。頬の内側を噛む。そうでもしないと、顔が歪んでしまいそうだった。
  無かったことに出来るというのか。あの、とてつもなくやさしい穏やかな木洩れ日のような時間を。
 「No.9074」
  無感情を保とうと必死に葛藤するカークを、楽しんで眺めていたのはおそらくこの男一人だったろう。
 「物分りの悪いお客さまだね。非暴力的に口で説明しているのに、判って頂けないようだ。……絞めなさい」
 「――は、」
  予想もしない言葉にぎょっとして、カークはレンブラントに振り向いた。
  レンブラントは笑っている。
  あくまでも穏やかな仮面を外さずに、カークを舐りにかかる。
 「その首を絞めなさい」
 「絞め――る」
 「命令だ。その人間の首を絞めなさい」
  命令だ。
  その一言に、瞬間硬直する素振りを見せかけたカークは、はっと我に返り、
 「――はい」
  言うが早いか。
  突如立ち上がり身を乗り出すと、何を言われたのか未だ理解できていない、ヒューの喉輪に渾身の力を籠めて両手を掛けた。
  当然、重心は前に移動する。躊躇いも無くカークはそのまま、ソファからひっくり返り、床の上に倒れ込んだヒューの上に圧し掛かる。
  ――こうでもしなければ、あなたはきっと帰らない。
  あまり長時間この場所に留めておくことは危険だ。そうでなくとも、レンブラントの忍耐の緒は短い。
  話で通じないのならば、行動で訴えて諦めてもらう。それより他、道が無い。
  ひっくり返った衝撃か、喉輪を絞められた苦しさか、それともそれ以前の怪我か。身体の下のヒューの顔が微かに苦痛に歪んで、ほんの一瞬、カークは彼の折れた肋骨が気になった。
 「カ、ァク……」
  口を開き数回開閉させて、下になったヒューは何とか声を絞り出す。
 「ちょっと!!何やってるのよ……ッ」
  立ち上がりかけたマルゥは、しかしぐいと突き出されたレンブラントの腕一本で見事に牽制され、それ以上喚くこともできない。
  不意に見せた白衣の男の激しさは、マルゥのまったく経験したことの無い気配。
  唇を震わせ、立ち尽くすのみだ。
 「ヒュー君と……言ったか。どうだね。親しいものに首を絞められる気分は?」
 「……はッ」
  甲高い笛のような音を立て、僅かに許された気道で空気を求め喘ぐ主は、
 「ふん」
  肩頬を歪めて無理やり笑いを作って見せた。
  それは悲しいくらいに強がりだ。絞める力を籠めているカークには、よく判る。
 「へ、……へなちょこの、コイツのコケ脅しなんざ……どうってコトはねぇ……な」
  ――ここまで傷ついて、それでも天邪鬼を貫くか。
  渾身の力で絞めているのだ。苦しくないはずが無い。
  かっとなったのは、レンブラントよりもカークが先だった。
 「――あなたは!」
 力任せに手加減を忘れ、更にぐいと締め付ける。
 「これだけ言って――何故!何故判らない――ッ」
 「がッ……ふぅ……ッ」
  私はあなたが傷つく姿をもうこれ以上見たくは無いのです。
  願いはただそれだけ。
 「帰れッ」
  演算得意のインドア派だとしても、人並みの腕力はあるつもりだ。ぎりぎりと捩じ切る勢いで締め付けた主の首筋が、たちまち赤黒く変色する。
  あなたがこれ以上私に関わることを、博士はきっと許しはすまい。
  お願い。
 「帰れッ」
 「カ、ァ……」
  お願い。
 「帰れ――ッ」
  そうして剣幕で押し切って、レンブラントの口を挟む隙を与えないつもりだった。
  今のところ面白がって傍観しているが、何時約束を反故にしてくるか、読めない男だ。製造されてより長い付き合いだ。カークには判る。
  気の変わる前になんとしてでも、二人を管理塔より外に排出する必要があった。
  けれど、
  声帯を圧迫され声を潰されたヒューが、息苦しさにもがく手のひらを、

  ひた。

  慟哭に似た叫びを上げ続けるカークの頬に、躊躇いも無く当てたのだった。
  絞めつけられている喉でなく、圧し掛かられた身体でなく、
  カークの頬に。

  埃に汚れた手のひらは、だがとてもあたたかなのだった。
  信じられない。
  瞬間眦も裂けよとばかり目を一杯に見開き、愕然と顔を上げたカークは、とうとう見てしまう。
  自分を見つめる真っ直ぐな、鳶色の瞳を。
  濁りの無い、少年の頃から何一つ変わらぬ色を。
  己が憧れて――憧れてやまない煌きを。
 「俺は」
  主が苦痛の合間から、にいぃと不敵に笑っている。
 「俺は諦めが悪ぃんだ」
 「……ふむ。諦めが悪いのは父親譲りか」
  鳶色に吸い込まれていたカークは、そのレンブラントの声を聞くか、聞かないか。
  弾かれたように、身体が後方へ飛んでいた。
  己の全身ががくがくと震えて、平衡を保っているのがいるのが不思議なくらいだ。自分のことながら、なんておかしいのだろうと思う。
  そこまで無情を保っていた糸がぷつりと切れて、
 「私は」
  ふと気を緩めれば声がひっくり返ってしまいそうで、声にならなかった。
 「私は――」
 「……親父を……知っているのか」
 「とてもよく」
  戦慄いていたマルゥが、ようやくレンブラントの呪縛から逃れて、咳き込むヒューの下へと駆け寄り、その背を擦る。けれど擦られたヒュー本人は、レンブラントの言葉を聞き逃せなかったのだろう、切れ切れに呼吸を繰り返し、顔を上げた。
 「そうしてNo.9074が、殺した人間だったね」
  生易しく微笑んで、レンブラントが愛おしむように目を細める。
  衝撃にカークは吐き気がした。
 「こ、ろ……した」
 「殺したも同義だ。君と同じように、そのD-LLを庇っていたよ」
 「……どう言うことだ……」
 「愚かなことだ。部落の人間の全てを巻き込んで。消し炭と化した村の中央で。No.9074を背に、矮小な身体を必死に広げて、何か喚いていたか」
 「あの日……村を壊滅させたのは……アンタだってのか?」
 「いいや」
  とんでもない。
  にこりと笑って否定して、
 「直接手を下すなどという野蛮な行為は、わたくしの辞書には無いよ」
  あの日。
  遠い昔を思い出しているのだろう、ここではないどこかを見つめる眼差しで、ヒューがうわ言のように呟く。
  その顔が、どんどん稚い顔になる。
 「焼け焦げなんて生易しいモンじゃあなかった。村は丸ごとなくなっていた。帰る場所を間違えたか、それとも隕石でも落ちたかと俺は……思った」
 「全ては、君の父親であったあの人間が招いたことだ。君の大事な場所を奪い、家族という構成を奪い、ついでに君の視力も奪って」
 「あれは!」
  保たれていたヒューの冷静が乱れる。
  瞬時に激昂していた。
 「あれはアンタの造ったD-LLが!やったコトだろうが!」
 「そのD-LLを造る仕事をあの男もまた、やっていたのだ」
 「な……、」
  愕然。気力で持っていたのだろう、ヒューの身体が大きく揺らぐ。
 「な……んだ……と?」
 「痛かったろう?人間の水晶体は潰れやすいね。ひどく柔らかだ。眼球を抉られて地にのたうつ君は……、まるで無力だったね。なんて人間とは弱い生物だ」
 「アンタ……アンタ一体なんなのよ?」
  噛み付きそうな顔でマルゥがレンブラントを睨んでいる。
  視線を受けて心地良さそうに男は嗤った。
 「愚かと先ほどわたくしは言ったが、まさに愚かと言おう。己の行為が先に何を齎すか、君の父親には見えていなかったのだ。……どうだね、人工・アイでみる景色は?君の世界のほとんどを奪った父親が憎くはないかね」
 「やめ――やめてください――!」
  頭を抱えてカークはとうとう叫んだ。
  傷ついたような顔をするヒューを、これ以上見ていたくは無かったから。
 「何故だ。言葉のとおりじゃあないか?わたくしは何も間違ったことを口にしているのではない。これは事実、だよ?No.9074、君を匿ったおかげであの村は壊滅したじゃあないか。あの男は自身で自身の遺伝子を弄り、P-C-Cの管理下より逃れた。その技術はすばらしいとわたくしも認めよう。しかし、だ。君を連れて逃げ。荒地に匿って、あれが一体何をしたというのだね?血を分けた子供より、部落の人間の命より……、己の為したいことが一番だったのだ。完全管理に反対だとかなんだとか。愚かなことだ。まるで大局を見据えていない。管理されることに馴れた人間が、今更管理下より解放されて、それでどうなるというのだね。結局最後は部落を包囲され……えらく無様に喚いていた。無駄を承知でNo.9074を庇う辺り……、流石はあの男の息子だと言おうか」
 「――やめて――……やめて――」
  レンブラントの滔々と語る言葉を、止められるのはきっとカーク一人だ。きつく否定したいのに、どうしてこんな弱弱しい声しか喉から洩れてこないのだろう。
  男の言葉はあまりに毒がありすぎて、いっそ耳を塞いでしまいたい。
 「ヒュー君。君はこのNo.9074を連れて何を為したいというのだ。前任の管理者が老朽化の為にもう保たない、早急にデーターの移行が必要なこの状況で……、己のちっぽけな生活一つ護るために、P-C-C全土を巻き込むというのか」
 「……俺……は」
  膝を突き、空ろに呟くヒューの焦点が揺れている。支えるマルゥも、どうしてよいのか判らない。そんな顔で黙りこくったままだ。
  二人の目が自身に注がれることが怖くて、カークは唇を噛み、顔を背ける。
  静かに闇がわだかまる室内に、一人満足げなレンブラントの声が響いた。
 「君の父親を殺したD-LLが……欲しいのかね?」


Act:23にススム
人間と機械にモドル
最終更新:2011年07月28日 08:18