<<小心者の恋>>
あなたに初めて出会ったのは、私がまだこの屋敷に勤めだして2、3ヶ月の頃のことだ。
丁度前職をやめて仕事を探していた私は、ここに勤めていた知人の紹介で、屋敷の主に目通しされ、
下働きとして雇ってもらえる運びとなった。
新参者であったし、あまり能弁ではない性格だったから、必要以上に同じ下働きの者と馴れ合うこともなく、
それでも仕事は一つ一つが新鮮で面白かった。
自分自身にまったく縁のない、優雅で豪奢な生活を垣間見ることも楽しみのひとつであったし、
私のどこが気に入ってもらえたのか、主が目をかけてくれたので、言われるままに働いた。
その頃、屋敷には主とその奥方と、それからまだようやく5つになったばかりのあなたがいた。
私のお嬢様。
あなたは一日のほとんどを部屋の中で行儀良く過ごしていたし、
あなた付きの乳母と侍女でいつも囲まれていたから、
私が耳にできたのは、部屋の前を通る時、中庭で仕事をしている時、
時折聞こえる楽しそうな笑い声だけだった。
姿は見えなかったけれど、聞こえてくる笑い声だけで、なぜか私も楽しい気分になった。
姿は見えなかったけれど、聞こえてくる笑い声だけで、見たことのないあなたの笑った顔が想像できた。
鈴を転がすようなあなたの笑い声。
あの日は一日、それなりに忙しかったのだった。
日も暮れていた。
私は裏庭の用具置き場と、木戸の鍵を閉め、その鍵を屋敷に戻したらその日の仕事は終わりだと、
一人思わず溜息を付いたところに、どんと柔らかな衝撃。
足元に目をやれば小さな女の子が、私にぎゅ、としがみ付いているのだった。
この屋敷にその年頃の子供は他にいなかったから、
「……お嬢様で、いらっしゃいますか」
他になんと言葉を書けたらよいのか判らなくて、私はそう言った。
「どうなさいました」
膝を付いてあなたの目線に顔を合わせると、驚いたことにあなたは泣いていた。
きっと迷子にでもなったのだ。
「どうなさいました」
そう思いながらもう一度聞き返す。
あなたの顔を見るのは初めてのはずだったのに、何故か懐かしい感じがして、私は思わずあなたを眺めた。
笑い声しか聞いたことのなかったあなたが、泣いていた。
小さな子供でも、こんなに静かに泣くことがあるのだと、私は妙に感心もしていた。
「お嬢様?」
「……どうか、わたくしと、」
鼻を啜ってあなたは小さく呟いた。
どうかわたくしと、あそんでください?
「え?」
あなたの口から呟かれた言葉が、あまりにも予想外であったので、私は思わず聞き返す。
私が。何故。
「乳母が心配していましょう」
「乳母はもう、おうちに帰ったわ」
「いつもお側にいる侍女たちはどうしました」
「……きょうは、”ばんさんかい”があるから、」
ああ、それで。
外回りの仕事の多かった私には、あまり実感の湧かない言葉ではあったが、
月に数度、主は友人客を呼んで夜更けまで賑やかに過ごすのが常だった。
その手の足りない周り仕事に、侍女たちも駆り出されたのだろう。
「どなたかとご一緒でしたか」
「いいえ」
誰か付き添いのものが一緒であったなら、きっと探していることだろうと尋ねても、あなたは小さく首を振る。
「おへやで、ひとりよ」
こんな小さなあなたが一人。
思わず胸が詰まった。
言葉が出ない私を前に、自分でも口にした後に実感が湧いたのか、また潤みだしたあなたの大きな瞳を見て、
「では」
慌てて私はあなたの手を取った。
「お嬢様、よろしければ私と遊んでいただけますか」
とても小さな掌だった。
私のザラついた手の中に、すっぽりと納まってしまうとても小さな掌だった。
私の言葉を聴いて、あなたは涙をいっぱい目に溜めたまま、嬉しそうに笑った。
つうつうと堪えきれない涙が頬を濡らして、それでもあなたは嬉しそうに笑った。
私のお嬢様。
愛おしいと、思った。
きっとその時から私はあなたに。
朝。
あなたのドアの前に立ち、その向こう、部屋の中にいるあなたに声をかけることから、私の一日は始まる。
「お嬢様。
おはようございます。ご朝食のご用意が整いました」
軽く3回ノックをしてからそう声をかける。微かに聞こえる衣擦れの音。
きっと毎朝、あなたは既に起きているのだ。
起きているあなたが、私を待っていてくれる。
そうだ。
私はそれに気付いている。
昔からあなたは目覚めの悪いほうではない。
それどころか小さな物音にもすぐに目が覚める、怖がりで寂しがり屋で泣き虫なあなた。
私のお嬢様。
多分あなたは起き上がり、ドア越しに私を見つめている。じっと、毎朝、声に出さない想いと共に。
私はそれに気付いている。
けれど、言葉にすることはない。
声をかけた後の仕事は、寝室付きの侍女のものだ。
いつまでも未練がましい思いで、ドアの前に立ち尽くす私を、私自身が嘲る。
いい年をした男が、何を夢想しているというのだ。
全ては私自身の夢である。
私は、足早にあなたの部屋を離れる。
最近あなたは、外を眺めている。
窓枠に腰掛け、栗色の柔らかな髪を煙らせて、あどけない顔で外を眺めている。
いつかは園丁の一人が、まるで絵画の一コマだと感心して言った。
綺麗に装飾された外国の絵本の中のようなあなた。
私のお嬢様。
窓枠のキャンバスの中で、あなたは無心に遠くを眺めている。
あなたが見ているのは、園丁が丁寧に手入れした庭でも、
その向こう柵越しの景色でもないことを私は知っている。
その瞳に映るのはきっと、もう遥か昔に感じるあの頃の景色だ。
季節は今と同じ春だった。
野原にあなたを連れて出かけたのは、陽の下で元気に駆け回るあなたが見たかったから。
シロツメクサの咲く、一面の野原を見せたいと思った。
聞き分けの良いあなたは、大人に囲まれた中でおとなしく遊んでいる子供だった。
静かに、と釘を刺されれば、一日辛抱強く部屋に篭っている子供だった。
主夫婦の教育方針なのかどうなのか、同じ年頃の遊び相手が宛がわれることもなく、
あなたはいつも行儀良く一人で遊んでいた。
成長するにつれていい子になってゆくあなたを、私は不憫だと思った。
あまり声をたてなくなったあなたの笑い声を、私は聞きたいと思った。
主夫婦が静養と称して、あなたを置いて数週間、旅行にでかけていったのを良いことに、
私はあなた付きの数人と共に、屋敷を抜け出す計画を立てた。
秘密の計画。
普段は絶対服従が信条の、私のささやかな反抗。
柵に囲まれた箱庭から、ほとんど外出したことのなかったあなたは、目を輝かせて跳ねて歩いた。
子供の足にはそれなりの距離であったから、、途中で駄々を捏ねたら抱えて連れて行こうとも思ったのに、
あなたはくたびれた様子もなく、終始とても楽しそうだった。
一つ一つが大発見の連続。
春真っ盛りの野原に辿り着いて、あなたは息を呑む。
―――これ全部お花なの?……綺麗ね。とても、とても綺麗ね。
初めて見る風景に夢中になり、侍女を連れまわして久しぶりに走り遊ぶあなたは、
花と同じようにきらきらしていた。
日差しが眩しいのがありがたかった。
疑われることなく、私は目を細めてあなたを見つめる。
私のお嬢様。
花を摘み、追いかけっこをし、持ってきた弁当を皆で分け合って食べて。
春の短い日は暮れる。
そろそろ帰りましょうかと私が声をかけると、
はしゃぎ疲れたのか地面にしゃがみじっと黙りこくっていたあなたは、
―――ありがとう。
ぽつ、とシロツメクサの花弁を撫でながらそう言った。
野原はとても花束なんかにはできないから、あなたはわたくしをここまで連れてきてくれたのね。
―――お嬢様?
―――ありがとう。
夕日を背にして振り向いたあなたのやけに大人びた瞳に、私は吸い込まれて動けなくなる。
あなたの20歳の誕生日だった。
誕生日の晩餐で、青褪めて立っているあなたが、給仕を手伝う途中も気掛かりで仕方がなかった。
もともとあまり丈夫な性質ではないことを私は知っている。
真っ青になりながら、来客一人ひとりに父親と共に挨拶をして回るあなたは、
今にも崩れて折れてしまいそうに見えた。
来客は誰も気付かない。
目の前にあるのは宝の山だ。
父親譲りの物とは言え、あなたには地位と名誉がある。
加えて清楚で可憐な一人娘。
莫大な財産もついてゆくだろう。
虎視眈々とそれを狙う来客たちは、けれどそれを決して表には出さず、
あくまでも品の良い、冷たい笑みを浮かべてあなたと、あなたの父親の挨拶に応える。
挨拶に応え、しかし誰もあなたの様子に気付かない。
―――いやまったく申し分のない姫君ですな。
そんな誰かが囁く会話が壁際に直立する私の耳に飛び込んで、無表情を装いながらたいそう不愉快になった。
今のあの人の状態に気付かない男共に、一体あの人の何が判るというのだ。
確かに、彼らは私が持つことのできない物を多く持っている。
比べる次元がそもそも違っているだろう。
私には自信がない。
人を動かす力もない。
嵐の夜あなたが安心して眠れる石造り頑丈な屋敷も、その一部屋の調度を揃える財力すらない。
私に残されたものは、この、あなたへの身分を省みない醜悪な思慕のみである。
身分違い、という言葉がある。
私とあなたは、例えるならば大河を挟んで此方と彼方に立っているようなもの。
張り裂けるほどに叫んでも、声の届くことはない。
姿は見えている。泳ぎ渡れば抱き寄せることができるようにも思える。
けれど決して叶うことはない。
泳ぎきることは不可能である。
大河は万人を阻む。
身分と言うよりも、人種そのものがきっと、異なるのだ。
違う。そうではない。
ただ私は、あなたを失うことが怖いだけなのだ。
身分だとか歳だとか住んでいる場所生まれは本当はどうでも良くて、
ただあなたが目の前から消えてなくなることが怖いのだ。
あなたが時折、誰の目も届かない僅かな瞬間に、私を真っ直ぐに見つめてくるのが判る。
給仕でも侍女でも園丁でもその他大勢の誰かでも。
誰かに悟られたら最後、呆気なく遮られてしまうであろうあなたの視線。
ひっそりと、ほんの一瞬姿を追ってくるその視線。
柔らかな視線。
厭わしいとは思わない。いや、むしろ好ましくさえ思う。
……愛おしいと、思う。
けれど私はこの屋敷に使える執事で、あなたは伯爵家の一人娘である。
そこが判らないほど私もあなたも、我侭でも子供でもないから、口に出すことはない。
もしかすると私のただの思い上がりなのかもしれない。
私のお嬢様。
あなたのように真っ直ぐ見つめることもできずに、私は今なお目を逸らす。
だから。
「わたくし、好きな人がいるの」
背中越しにそう叫ばれた時、柄にもなく私は狼狽し、刹那振り向きかけて、
しかし怖くてとても振り向くことなどできなかった。
本当かどうかと尋ねて、本当だと答えられたらなんと応えればよい。
それは誰かと尋ねて、来客の一人の名前が出たらなんと応えればよい。
左様でございますか。
そう応えるのが執事の言葉としては適当なものだろう。
そう言える自信がなかった。
問い詰めることはできない。境を越えることは許されない。
長い間に築き上げた、鉄壁にも見える、その実酷く脆い自制心が私の心に楔を打つ。
結局、逃げるようにその場を後にした。
大広間の片付けが終わったのは、深夜をかなり回った頃だった。
最後まで片付けに付き合ってくれた侍女たちを労って、
彼女たちが疲れた足取りで各々の部屋へ戻る姿を見送り、
それから私は戸締りの確認をし、開け放してあった重く軋む扉を閉めて、
大広間に鍵をかけようやく肩の力を抜く。
疲れてはいたが、妙に目が冴えてどうにも眠れそうになかった。
早く自分の部屋に戻り、残り少ない睡眠時間とは言え、少しでも取っておかないと、
後々苦労すると判っているのに、私は鍵を預かる特権を濫用して玄関よりそっと表に出た。
冷えた外気温が頬を撫でる。
春とは言え、まだ花冷えするほどに夜は寒いのだ。
等間隔に嵌め込まれた煉瓦の上を音もなく歩いた。
まるで忍ぶ様子が泥棒のようだと自分で思い、ふとおかしくなった。
外灯も消されて、辺りの光源もなかったけれど、勝手知ったる庭である。
思えばもう、私自身の半生をここで過ごしている。
そしてそれはそのまま、あなたと出会った年月に当て嵌まる。
この煉瓦のように規則正しい日々。
月明かりに漫ろわれて、私はこの屋敷の住人ですらあまり訪れることのない奥園へ足を運ぶ。
奥園の小さな池には花が満開だった。
主にほとんど忘れられているそこは、園丁達の手入れも多少おざなりで、
けれどそれがかえって野趣のきいた景観になっていて私は好きだった。
もともと浮かんでいた睡蓮を押しのけて、どこから蔓延ったものか、今の時期は水仙が満開だった。
水仙のあえかで、けれど艶やかな香りの向こうに、小さな東屋がある。
池に臨んだ、傾きかけた東屋である。
誰も邪魔をしに来ないそこは、私の内証の息抜きの場所でもあった。
うっとりと漂う香りをかき分けて、私はいつもの定位置に近づき、
そこで初めて人の気配に気付いてぎょっとした。
「……誰だ」
不意打ちで驚かされざらりとした胸の感触と、
折角の気に入りの場所を占領されている不快感とで、私の声は低くなる。
ほっそりとした人影が、東屋の半ば朽ち果てたベンチの上にあった。
「……まぁ。怖い声」
聞き馴染んだあなたの声がする。
「……お嬢様?」
水仙に混じって仄かに匂うあなたの優しい香り。
違う意味で驚いて、私は瞬時に執事の顔に戻る。
「こんな時間にこんなところで何をしていらっしゃいます」
「あら。おまえも、こんな時間にこんなところで何をしているの」
「……私は、」
「わたくしは星を眺めにここに来たのよ」
くすくすと声を潜めて笑いながら、あなたは空を見上げた。
青い月明かりにしっとりと濡れて、あなたの細い肩が見える。
「お嬢様」
三度驚いて私は声を上げた。
「そのような薄着では風邪を召されます」
「しっ。そのように大声を出しては、誰かが来てしまってよ」
悪戯を見つかった声音であなたは肩をすくめて、それから、そんなに寒くはないのよと言った。
息も白い午前2時に。
どこか遠くで鶏の時をつくる声が聞こえる。
「ここなら、誰も来ないと思ったのだけれど。……おまえが来てしまったわね」
「……申し訳ありません。すぐに去りましょう」
「いいのよ」
そう言ってあなたは、ぽん、と朽ちたベンチの反対側を叩いた。
「おまえもここに座って星を眺めるといいわ」
「いえ。私はここに控えております」
私は数歩離れた場所で首を振る。
「平気よ」
「……誰かに見られたらどうなさいます」
「平気よ。こんな時間に誰も、こんなところに来ないから」
おまえは来てしまったけれど。
あなたはおかしそうに小さく笑って、もう一度ベンチを叩いた。
「先ほど、部屋から外を眺めていたら、流れ星が見えたのよ。しばらくしてまた流れたの。
……いくつも、いくつも。音がするほど流れてゆくものだから、
部屋の中で見ているのがなんだかもったいないなくて。
一人で見ていても咎められない場所を探していたのだけれど」
「今の時期、流星群がございます」
「流星群。あなたは何でも知っているのね」
感心したようにあなたは呟いて、それからまた空を眺めてしばらく押し黙る。
その肩が細かく震えていることに気付いて、私は口を開いた。
「お嬢様」
「おまえは、」
咎めかけた私の言葉は、あなたの言葉に押し被されて消えた。
「おまえは、わたくし付きの執事だったわね?」
「はい」
勢いを殺がれ、仕方なく私は頷いた。
「では、もしわたくしが……、わたくしがどなたか殿方の元に嫁ぐ日が来たら、おまえはお役御免になるのね」
「はい」
今の主夫婦の様子を見ていると、
あなたがもし屋敷からいなくなってもそのまま、雇ってもらえる可能性のほうが高くはあったが、
思えば私自身、あなたのいない屋敷と言うものを想像した事がないのだった。
想像して、私は苦笑する。
あなたのいない屋敷に、居続ける気持ちが、私にはこれっぽっちもなかった。
「執事を辞めたら、おまえはその後どうするつもりなの」
「その後……、でございますか」
考えたこともなかった。
「そうですね。故郷に引き払って、……これまで貯めた給金で、隠居生活でもしましょうか」
早い隠居生活。
あなたのいない生活に、耐えられる自信が、私にはこれっぽっちもなかった。
「故郷。おまえの故郷は山のほうだったかしら」
「はい」
「そう」
あなたの意図が読めなくて、私は途方に暮れて立ち尽くす。
「山は寒いのかしら」
「冬になると大変寒くなります」
「雪は積もるの」
「はい。それはそれはたくさん積もります。
昔、雪の当たり年に、一月ほど家から出られない事があって、大層困りました」
「いいわね」
「……え?」
見てみたいわね。
背中越しに、ともすれば聞き逃してしまうほどの小さな声であなたは言った。
決して、叶うことのない願いを。
「おまえ、もうそれこそいい年でしょう。ずっと独り身のつもりなの」
「……私めは、仕事が連れ合いのようなものでございますから」
誰に対しても当たり障りのない、もはや言いなれた返事を私は返す。
「そう」
ぽつりとあなたは言った。
「わたくしは、しないわ」
「……え?」
空を見上げたまま、
「わたくし、結婚なんてしないし、おまえを安楽な生活に送る気もなくってよ。
おまえはずっと、わたくしの側にいるのよ」
できないことを知っているあなたは、言いながら少し苛立たしげだった。
「……それが、ご命令とあらば私はそういたしましょう」
「命令じゃないわ」
「お嬢様」
小刻みに揺れる肩を見かねて、
私は自身のディナージャケットを脱ぎ、失礼しますと一言言い置いて、あなたの肩に被せかけ、
「お嬢様」
そこで初めて振り向いた、あなたの顔を眺めて言葉を失った。
あなたは泣いていた。
「わたくしね」
月明かりに照らされたあなたは、微笑みながら静かに泣いていた。
「わたくし、さっきからもうずっと流れ星を眺めているの。もう、百ほど流れたの。
両手で拾えそうなほど、たくさん。たくさん、流れたの。
流れ星に願いをかけると叶うのだって、侍女たちが言っていたわ。
……あといくつ願いをかけたら、わたくしの願いは叶うのかしらね」
「……お嬢様」
私のお嬢様。
あなたは、昔からそうやって誰にも気付かれないように、静かに一人で泣くのだ。
あなたの肩が震えていたのは寒さのためではない。
私は、馬鹿みたいに何も言えないまま、あなたの顔を眺めた。
こんなに泣いているのに、あなたは綺麗だった。
つうつうと堪えきれない涙が頬を濡らして、それなのにあなたはとても綺麗に笑っているのだった。
愛おしいと思った。
「わたくしね、」
あなたはそっと私の手を取り、しばらく両手に包み込むようにして、
それから掠れた声で囁いた。
「わたくし、おまえがいないと一人でさびしい」
もう何も言えなかった。
瞑目して私は空を仰ぐ。
明け方前の降るような星空が瞬いている。
どこか遠くで、また鶏が鳴いた。
最終更新:2011年07月28日 08:23