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  二月が経過していた。
  空にかかる月の色は、太陰暦の赤蠍(あかさそり)から青山羊(あおやぎ)、そうして白蛇(しろへび)へと移り変わっている。
  この時期の月光は、一年のうちで一番真っ白い。
  まるで日光と見間違うほどに、時には煌々と大地を照らす。
  一番寒さが厳しい時期でもある。
  真冬だ。
  トルエ国は、大陸の北方に位置する。
  国境などあって無いようなこの時代に、それでも敢えて分割するとなれば、中央右寄りにエスタッド皇国。これは、軍事国家の強みを活かし、日々版図を広げている。
  国境を挟んで左にアルカナ王国が存在していたのだが、先日エスタッド軍のアルカナ侵攻により、その国土は以前の半分以下。
  アルカナ国王とその親族の命は、保身を図る愚臣によって既にこの世には無い。
  代わって勢力を強めているのが、王国軍の将軍以下数名。
  これが、エスタッドに吸収されるのは時間の問題である。
  そしてさらに無数の国々が、エスタッドとアルカナを囲む形でひしめき合っていた。
  分裂と合併をめまぐるしく繰り返す国々だ。
  トルエも、その点では似たようなものである。
  エスタッドとアルカナの両国を丁度三角点で結ぶ形で、存在する。
  大陸を盆に例えるなら、大皿がエスタッドとアルカナ。
  僅か零れた水滴がトルエ国である。
  小さい。
  そして、貧しい。
  これが何がしかの特殊な産業、あるいは鉱山でも保有していたのならば、また話は違っただろうが、あいにくトルエにはそのどちらもなかった。
  強みがまるで無い。
  いざと言う時の「我が国と手を切ると、○○がお前の国に流通しないぞ」の脅しが、利かないのである。
  例えば鉄。例えば細工物。
 「○○」に当てはまる部分を何も持たない国家だった。
  それもそのはずで、もともと初代トルエ公爵は、当時のアルカナ王の甥。その程度の広さの領地だったのだ。
  独立宣言を出したのが13代目。
  この広さで国家としてなりえたのは、13代目の手腕でも、もちろん当時の財力でもなく、たまたま時代が乱世であったからにすぎない。
  周りの国々も諸所乱れていたため、独立の旗を翻したトルエにちょっかいを掛ける余裕が、たまたまなかっただけ。
  その後は、ひたすらに隣接する国境を、広げては縮められてを繰り返し、今に至る。
 「今夜は月が綺麗ですな」
  背後から声をかけられて、キルシュは振り向いた。
  頭のてっぺんから指の先まで、紺地の修道服に、身を包んでいる。
  ラグリア教のものだ。
  豊かにうねる腰までの黒髪も、今は隠されて見えない。
  発狂しそうなほど清廉潔白に二月を過ごして、そろそろ彼女の忍耐は限界に近い。
  就寝前の礼拝にふと嫌気がさして、礼拝はとりあえず後回し、窓辺から空を眺めていたのだった。
  誰も見ていないだろう。
  タカを括っていたのだが、こう気を緩めたときに限って、人は来るものだ。
 「今夜も冷えそうです」
 「寒い。と言うより、もはや痛い。血が吹き出そうだ」
  無愛想な声が出た。
  話しかけてきたのは、厄介になっている神殿の司祭だったのだが、彼女の愛想は大して変わらない。
 「愛想はエスタッドに棄ててきた」。目の前の相手がエンであったなら、そう言って鼻で笑っただろう。
 「それはそれは」
  対してこちらは、ニタニタと笑いを浮かべていた。目を細めてキルシュを眺めている。
  高位の証である赤紫の法衣が、月の光にはドス黒く彼女の目には映った。
 「?……なんだ」
  己が身をじろじろと見回す司祭に、キルシュは怪訝な声を発する。
 「修道服は見慣れていように」
 「お淋しいのでございましょう」
 「はぁ?」
  不自然なほどに笑みをまき散らして、司祭はずい、とさらにキルシュに近づいた。
  情欲の色が見える。
 (やれやれ)
  何が司祭だ。聞いて呆れる。
  そう言いかけて、下手に相手を激昂させるのは得策ではないと思い直し、キルシュは窓を背にして司祭と向かい合った。
  怯えは一切無い。
 「噂通りのお綺麗な公女さまで。『トルエの国は顔で持つ』との揶揄も世間ではありますが、実際、そうであるのかもしれませんな」
 「ほう」
  薄い笑みを浮かべながら、キルシュは応えた。
 「巷でもそう言われているか」
 「先代のトルエ公もまた、若い頃は美男で聞こえた方……けれどあなたさまはそれ以上だ。エスタッド領でのあなたさまの話も、神殿筋で流れてくるのですよ。『奴隷公女』キルシュさま」
  司祭の視線が、彼女の額に注がれている。
  普段は癖のある前髪で見え隠れしているものの、髪を収納してしまっている今は、隠しようがなく、露わになっている額の焼き痕。
  奴隷の刻印である。
 「これこそまさに、玉に瑕と言うものなのでしょうね。完璧であったものが、一部欠けてしまった哀れさ。しかしまぁ、それがまたそそられると言いましょうか……」
  司祭は、さり気なく両手を広げて近づいてくる。
  退路を塞ぐためだ。
  冷たい瞳でキルシュはそれを眺めていた。
  感情が消えている。
 「今宵は私以外に誰も、この修養房には訪れません。騒いでもよろしいですが、騒ぐだけ……無駄です」
 「騒ぐつもりはもとより無い」
 「それはそれは」
  司祭の指が、キルシュの細い肩にかかる。
 「ご期待されておいででしたかな」
 「そう見えるか」
 「身体に染み付いた習慣と言うものは、仮令それから離れたとしても、忘れるわけにはなりますまい。そう……、先程『寒い』と、おおせでしたな」
 「忘れた」
 「厳冬のトルエでも、人肌が一番温うございますぞ。互いに寄り添えば、かじかんだ手足も暖まりましょう。なに、一刻もすれば汗もかきましょうほどに。さ、御肌を見せてくださいませ」
  釦を外すのももどかしげに、司祭は彼女の修道服を一気に引き剥いだ。
  黒髪が滝となって、なだれ落ちる。
  ぐぅ、だとかおお、だとか呻きに似た感嘆の声が、司祭の喉から零れ出た。
  キルシュは肌着一枚、下に着けてはいない。
  これは別段、珍しいことではない。下着と言うものが、大陸全土に普及するのは、もう少し後の時代のことだからだ。
  月の白光にしなやかな、しかし未成熟な肢体が浮かび上がる。15歳。あと三年も経てば、狼どもがよだれを垂らして忍び寄ってくるに違いない。
  突き刺す夜気の中で、白い肌からほんのりと甘い香りが薫った。
  まじまじと眺める司祭の視線を受けて、それでもキルシュは、酷薄な笑みを口に浮かべたままだ。
  胸元の優しいふくらみも、腿のつけ根の茂みも、隠す素振りすら見せない。
  落ち着いていた。
  落ち着きすぎていた。
 「何をしているかッ」
  怒りを多分に含んだ、叱責の声が室内に響き渡ったのは、次の瞬間のことだった。
 「げッ」
  下品と言えばあまりに下品な驚きの声が、司祭の口から発せられて、そこで初めてキルシュは表情を崩した。
  片眉を上げる。
 「公女さまに、公女さまに、なんと言うことを……!」
  言葉と共に、司祭の頬は張られている。
  激しい怒りのために蒼白になった、老人だった。
  杖を突いている。
  たいそう年を重ねた男である。
  突いている杖は、素朴ながら細やかな細工がしてあり、一見しては判らないが、かなり値の張る代物だ。
 「シ、シ、シ」
  司祭が甲高い悲鳴を上げて、床に這いつくばった。
 「シ、シ、シルグラーゼン司祭長さまッ」
  キルシュが厄介になっているこの神殿の、最高位の男だった。
 「大馬鹿者!ぬしは、ぬしは!トルエ国再興の重荷に立つ姫君に、なんと言う、なんと……!」
  怒りが言葉にならない。
  口角泡を飛ばして、シルグラーゼン司祭長は、手にした杖で強欲な司祭を叩き伏せている。
  お許しを、お許しを、情けない声が、つい先刻まで勝ち誇っていた男から漏れ聞こえ、
 「――シルグラーゼン司祭長」
  眉をひそめたキルシュが静かにいなした。
 「もう良い」
 「……しかし!」
 「実害はなかったのだ。未遂に終わったでな。こなたのおかげだ。礼を言う」
 「は……はあぁぁッ」
  窓を背にした彼女は、未だ一糸まとわぬ姿。だのに何故だろう。
  凛としている。
  キルシュの格好に気付いた老人も、男に次いで平伏した。
 「も、も、申し訳ございませぬ!かくなる上はこの大馬鹿者と共に、私めのご処分を!申し訳……誠に、申し訳……ッ」
 「良いと言うに」
  急に泣き崩れる老人に、キルシュは顔をしかめてみせた。
  涙は苦手だ。
 「そうは行きませぬ。私めは、この神殿の長でございまする。公女さまをお預かりし、洗礼をさせて頂きました手前、それでは私の気持ちが治まりませぬ。どうか、どうか、大馬鹿共々この老い首刎ねて、いっそ公邸の門前にさらして下さりませ……ッ」
 「物騒なことを申すな」
  彼女の膝にすがりつかんばかりに、泣きじゃくる老人に大いに弱って、キルシュは不意に屈みこむ。
  平伏す時に、放り投げていた彼の杖を拾ってその手に握らせてやった。
 「こなたがな。責任を取って自刎したとして。それでわたしはどうなる。徳の高いラグリア教の司祭長を私憤のために殺し、見せしめに梟首して、それで人心が掴めるか。トルエは平定するか。来月にはエスタッドに向かうと言うに、災いの種を増やして何とする。このキルシュ、こなたの思いはよぉく判った。気持ちだけで十分だ」
 「はあぁッ」
  骨の上に皮が被ったような、手の甲。
  皺だらけの彼の手を、両手で包み込んで、キルシュは言い含める。
  彼女の手を押し頂いて、涙を雨と流しながら、老人は何度も頷いた。
 「なんと言うお心……!それの判らぬこの老いぼれをお許し下さりませ。ああ……公女さま……公女さまッ」
 「そう祀りたてるな」
  面映い。
  再び平伏しかける老人を、キルシュは押し止めて立たせてやり、
  そこに、ふわと温かなぬくもり。
  彼女の裸の身体に遠慮がちに掛けられた、キルティング。
  目をやると、盲目の男がいつの間にか背後に立っていた。
  司祭と司祭長に気が行って、キルシュは気付かなかったが、最初からひっそりと控えていたらしい。
  と言うよりも、
 「――ああ、」
  心得顔でキルシュは頷いた。
  司祭が彼女に迫った時に、言っていたではなかったか。「今宵は、自分以外は修養房に誰も訪れない」、と。
 「こなたが司祭長を連れてきたか」
  理解と同時に寒さが蘇って、キルシュは小さく身震いし、被せられたキルト地に鼻をうずめた。
  深く息を吸う。
  安心できる匂いがする。

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 「申し訳ございませぬ」
  ひと騒動あった後に、ようやくキルシュはその原因を作った司祭を、部屋から下がらせることに成功した。
  と、言うよりは、司祭長が部屋から追い出したのである。
  その後「あれを破門する」「破門しなくて良い」と、言い張る司祭長との問答に、決着をつけるのにまた時間を要した。
  シルグラーゼン司祭長はその地位に拘らず、珍しく愚直な人物である。
  その高齢でなお、司祭の長を勤め上げる気力も驚嘆に値するだろう。
  どちらを向いても敵ばかりのトルエ国内において、公女キルシュに心酔している数少ない一人でもある。
  彼女が本気で改心し、入信してきたと信じているのだ。
  頑なに。
  おかげで利用させてもらっている部分も、実はかなりあるのだが、それを口にすることは出来ない。
  司祭長をなだめながらその点においてだけ、キルシュは心が痛んだ。
 (好人物だ)
  そうも思う。
  神に仕えることと教団を広めることだけを念頭に、キルシュとは180度違う、まっとうな世界に生きてきた人生だったのだろう。
  疑うことを知らない。
  羨ましくも思う。
 (……わたしには、無理だな)
  自嘲した。
  そうして、キルシュが剥ぎ取られた修道服を着なおし、寝台に深く腰掛けた頃には、月は西に傾いていた。
  深々と彼女が溜息をついたところに、ようやくエンが冒頭の言葉を口にする。
  二月ぶりに声を聞いた。
 「……なんだ。シルグラーゼンの次は、こなたが自刎を申し出る番か」
  謝りたおした高齢の司祭長は、今は自室に戻っている。
 「誰も彼も打ち首が好きだな」
 「失策にございます。彼のようなものが神殿にいるとは、わたくしの調査不足で」
 「……エン」
  うんざりと声を上げて、キルシュは男の声を遮った。
 「もう良い。二月ぶりに利いた口がそれでは虚しくなる。何も事情を知らぬ、あの老司祭長はともかく、こなたに慰めの言葉は……かけぬぞ」
 「叱責して下さりませ」
 「面倒くさい」
  ひらひらと手を振って返し、キルシュはそこで会話を終わろうとした。
  相手にその仕草が見えないと思っていない。
  そら恐ろしい頭の回転と聴覚で、男は大概のことを推測してみせる。
  今もまた、彼女の動作をありありと頭に思い描いているはずだ。
 「――何故、抗いませなんだ」
  そんなキルシュに、珍しくエンが食い下がった。
  うん、と生返事を喉奥で漏らして、彼女は男に目をやった。
  こちらを見ている。
  宛がわれた布の下は、確かに光を失っているはずなのに、エンの「視線」をキルシュは感じた。
 (視えて、いるのか)
  そうも思う。
 「何を」
 「逃げようと思えば、逃げられたはず」
 「こなた……考え違いをしておらぬか」
  は、とエンが小さく息を呑む。
  一言で、キルシュの本意を酌んだのだ。
  おそろしく理解が速い。
 「わたしが、万年下半身発情男をブチのめして逃げる。そうして恨みを買う。買うのは、陰湿な逆恨みだ。あの男の性格を考えるに、必ず手を回して嫌がらせをする。エスタッドの各神殿や教会に通達する。司祭と言う立場を利用すれば容易いことだ。流せるだけ流す。わたしの悪評が広まる。教皇以下幹部の耳にも、いずれ入ろう。そうなると、いくらわたしが敬虔に祈ったところで、エスタッド訪問の際、皇帝に横槍を入れるものがなくなる。……さすれば、こなたの苦策がまるで水の泡だな」
 「……」
 「論点をずらすな。こなたが真に反省しなければならないのは、司祭の是非ではない。わたしが、こなたの策を庇い立てせぬといけぬ状況を、作ったことにあろう。そこを見据えずに感情論で語って如何とする。こなたは、エン個人ではない。このトルエの参謀なのだろう?」
 「……」
  15年間の流浪の生活で、キルシュが身に付けたものは、目前の出来事に左右されないこと。
  大局を見据えて我が身にこだわらないこと。
  そうして――受け入れること。
  これは、しばしば諦観と混同されがちだが、実は天と地ほどに、心持ちが違う。
  受け入れると言うことは、文字通り「受け」、そして「入れる」と言うことだ。受け「止める」ことよりもさらに高度である。
  その時の状況がどんなものであろうとも、状況をそのまま己の中に入れる。
 「状況を己の中に入れる」と言うよりは、「己を状況の中に入れる」と言ったほうが正しいのかもしれない。そうして、次に起こった事柄に再び冷静に対処する。
  これは、簡単そうに見えて、なかなか難しい。
  精一杯の能動的努力が必要だからだ。
  後者の「諦め」は、対処することを考えない。
  物事を「自分」を含めて、丸ごと投げ出してしまう。
  投げ出して、後は省みない。
  受動的なのである。
  ただ、キルシュがこれを身に付けたのは、彼女自身の努力と言うよりも、生まれた時から側に控えた、エンが多分に影響していると思われる。
  諦観の方向に向かないで育ったのは、そう言う風に彼が導いたからだ。
  一種の帝王学である。
  エンの呈した策を、最大限に理解する。
  少なくとも、理解しようと努力する。
 (わたしがわたしの意志で行えることは、それぐらいのものだ)
  彼女はそう思っている。
  その彼女の気持ちを、エンは痛いほど察したのだろう。
  眉間に皺を刻んで、言葉もなくなった。
  修養房の寝台は粗末だ。
  一年で一番寒い冬であろうと、たいした寝具は無い。
  いくら干しても、どこか饐えた臭いのする薄い毛布に、げんなりしていたキルシュは、先に渡されたのを幸い、やわらかなキルティングを身体にきつく巻きつけた。そうして改めて、彼女はエンを見やる。
  押し黙ったままのエンに、眉尻を下げる。
 「それにな。あの手の男には慣れている。まぁ、慣れたというか……不可抗力ではあったが」
  八歳の折にエスタッドへ送還され、そこで受けた忍辱の日々をキルシュは忘れない。
  故ルドルフ公は、人前で公には出来ぬ、個人的な性癖がふたつあった。
  ひとつ。幼い少女が何より好きだったのだ。
  国と国との建前上は、「再婚」と言う形だったので、何ら問題は無い。
  残るところは、ルドルフ公自身の倫理感だったが、どうやら公にはその感覚は欠けていたようだ。
  未発達の身体を押し開かれて、少女は毎晩悪夢を見た。
  夜が来るのが怖くて、部屋の隅で震えていたこともある。。
  欲にまみれた男の眼を見るのが、何より嫌だったから。
  けれど最終的に、彼女はそれすらも受け入れた。
  強い。
 「で。今宵は何の進展があって、こなたはここへ参ったのだ。とは言え……、既に今宵と言うよりは、今暁と言うたほうが相応しい空になってきたがな。聞いておるか、参謀長官殿」
 「……は」
 「さっさと用件を言わぬなら、わたしは寝るぞ」
  ごろりと寝そべり、天井を見上げる。
  言い出したら、本気で寝かねない。そんな肝の据わったところが、この少女にはある。
  突っ立ったままだったエンは、慌てて咳払いした。
 「しばらく。実は、エスタッドより公式の使者が参りました」
 「ほう」
 「来たる白蛇25日。つまり、来週でござります。ご使者と共に、トルエよりエスタッドへ向けて、ご出発して頂きたく存じます」
 「来週か。皇妹将軍襲撃の言い訳を、考えておかねばなるまいな」
 「エスタッドまでは、およそ半月の行程がありまする。十分に考える時間がございましょう」
 「こなたが考えろ」
 「は」
 「今宵のことは、こなたの失策だ。わたしはこなたに一つ、貸しを作った。すまないと感じる気持ちがあると言うなら、言葉ではなく形で示せ」
  慰めないと言いながら、いつしかキルシュはエンにそう声をかけている。
  元来備わっている包容力だ。
  圧倒されて、エンはとっさに返事をしかねた。
  器の大きさ、とも言える。小さいことに拘らない。嫌なことは笑い飛ばす。下のものが犯した失敗を責めない。
  そして我が身には厳しい。
  これは、簡単そうに見えて、なかなか常人には出来ないものだ。
  その癖、実はこの「包容力」と言うものがないと、人は人に付いてこない。
  地位あるものが持つ権力や財力は、見た目が派手で目に止まりがちだが、うわべだけの金メッキは、結局土壇場でボロが出る。
  最後にものを言うのは、求心力である。
 「この人になら、自分の全てを預けて付いていっても良い」、そう思わせる何かが無いと、人は人の上に立てない。
  意外とシビアな世界なのだ。
  それを勘違いした馬鹿共が、上に立つから動乱が起きる。
  己の器の小ささを棚に上げて、力で押さえつけにかかるからである。
  しかし、そうしたものは努力したからと言って身に付くものではなく、そもそも生まれつきのある種の能力と言って良い。
  少なくともキルシュには、それが備わっていた。
 「……陛下」
 「だからその辛気くさい顔をなんとかしろ。……気が滅入る……」
  語尾が消えたほうが早いか、寝息を立て始めたほうが早いか。
  さらに話しかけたエンの言葉を聞く気もなく、キルシュはさっさと寝入っていた。
  エンが、唖然とする暇もない。
  ちなみに、後回しにした就寝前の礼拝は、なかったことにしたのだろう。
  それとも、本気で忘れたのかもしれない。
  右手を軽く己の胸元に当てて、エンは寝台にそっと近づく。
  明けの空気は水滴を多く含んでいる。盲いた彼は、それで時刻を理解していた。
  早くも深い寝息を零しているキルシュが、小さく丸まっている。
  寒いのだ。
  気付いた彼は、己の簡素な上着を、華奢な身体に被せてやる。
  そのまましばらく動けなかった。


最終更新:2011年07月21日 20:58