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<<月へと還る獣>>

   不自由な運命

       1

  喧々囂々(けんけんごうごう)。
  と、言う言葉が、まさに相応しい。
  公邸の、大広間である。主だった重臣が集った広間は、その場の統率者の趣味をよく現している。
  簡素なのだ。
  華美な装飾がまるで無い。
  トルエ国のキルシュ・エ・ネラ・トルエ公その人は、敬虔に祈りを捧げた二月と半を神殿にて過ごし、晴れて公邸へ戻ってきている。
  近々訪問する、エスタッド皇国への出立準備に追われていた。
  そんな午後である。
  背もたれが大きな椅子に、体を持たれかけさせて、キルシュは座っている。
  当主を表わす椅子であった。
  無駄に大きい。
  前トルエ公の大きさに合わせて作られてある。前公、巨漢であった。美食家の割にたいした運動もせず、結果、肥えに肥えたらしい。
  奸臣に寝首を掻かれることがなくとも、いずれ肥満で死んだろう。
  あまりに大きいので、彼女が腰をかけると、「椅子に座っている」と言うより、「椅子に沈んでいる」ように見える。
  気難しい顔をしていた。
  深く苦悩しているようにも、見える。
 「陛下」
  気付いたエンが、傍らでそっと囁く。
 「忍耐が肝要でございます」
 「バレたか」
  照れ隠しに、キルシュは笑ってみせた。
  にぃ、と。
 「そなたに、隠し事は出来ぬな」
  悩んでいるように見えるのは、事情を知らない周囲だけだ。その実彼女は、込み上げてくる欠伸を噛み殺していたのだった。
  眠い。
  退屈だったからだ。
 「……しかしッ。我が国には、彼の国に貢げるような、経済的余裕はござらん!」
 「あろうが無かろうが、今の内に親交を深めておかないと、我が国は見棄てられること間違いないではないかッ」
 「税金を値上げすれば良い。国民から融資を募るのだ」
 「何を馬鹿なことを!ただでさえ、公家への信頼は多分に薄れていると言うのに、これ以上不満の種を増やしてどうなるか」
 「何が不満の種だ。今期に入っての暴動の数を見るがいい。既に公家への信頼はガタ落ちだ。今更落ちる信頼があるものか」
 「徴兵するのだ。力で隣国に奇襲をかければよい」
 「軍資金すら底を尽いているではないかッ。この、節穴が!」
  各々が、各々に、各々の状況をただただ、喚いているだけの状態だ。
  国を憂れうる志士はいない。個々の利潤をひたすらに追求する、哀れな人の姿がそこにあった。
  キルシュは口を挟まずに、そんな男たちを眺めている。
  以前に一度、腹を立てても良いかと、彼女はエンに尋ねたことがある。
  殴り飛ばしたい。
  渦中も渦中、まさに渦のど真ん中に立たされているのだ。役立たずの重臣らの尻を、叩いて奮起させたくなる気持ちは、エンにも理解できる。
 「せめて、人並みに仕事をしろ」、そう一言ぼやきたくなる気持ちは、痛いほど判る。
 「――なりません」
  不満げに口を尖らすキルシュは、エンにやんわりと制された。
 「なにゆえ」
 「責めたところでどうなります。攻撃の矛先が、陛下に変わるだけではございませんか。一点集中する分だけ、余計に始末が悪い。言わせておけばよろしいのです」
 「言わせておけば……か。彼らがああやって言い合うことで、何かが進展すると、こなたは思うのか?」
 「何も進展はございませんでしょうな」
 「では。在籍するだけ無駄だ」
  キルシュはきっぱりと切って捨てた。
  明日にでも、解雇の勢いであった。
 「――陛下」
  そんな彼女に、盲目の策士は首を振って応える。
 「陛下の視点は、常に遥か高みに在らせられまする。……それは、国を治めるものとしては、必要な視点ではございます。確かに、国を治めるものが目先のことに左右しては、据わりが悪い。がしかし、時には凡人の視点に立つことも、必要にございます」
 「凡人の視点」
 「はい。立つ、と言うよりは、その心持ちを理解しようとなさる努力が、必要にございます。国とは、言わば人と人との大きな寄せ集め。人の心持ちが判らないものに、国は治めかねまする」
 「人の気持ちか」
 「はい。正道を追求するものはまた、悪道をも追及せねばなりませぬ。物事の表面だけいくら眺めても、何も見えてはこない。表と裏を知ってこそ、表の輝きがより清冽に見えるもの」
 「……」
 「正道の時は勿論のこと、悪道たる時は、己をも一度悪の中へ置いてみないことには、悪道は極められませぬ。肝要なのは、正邪を使い分けることにございます。悪道を理解できぬものが正道を翳すは、これ圧政にござります。冷たい、心無きまつりごとに、人は付いてはきませぬ」
 「……」
 「彼の者たちは、確かに己の保身のみを考えておりましょう。国の存亡や、陛下の御身のご無事を気配る輩はおりませぬ。我利我欲の固まりでございます。腹も立ちましょう。腹も立ちましょうが、彼らにもまた、守る『家庭』や『家族』がございますことを、お忘れなきように。それらの無事を願うだけで、彼らは精一杯なのです。そうして『家』には人がおります。『国』にも人がおりまする」
 「ふむ……。『家』は、人と人との小さな寄せ集め。こなたは、そう言いたいのだな」
  飲み込みは悪いほうではない。
  じっとエンの言葉に耳を傾けていたキルシュは、結局、その諌めを素直に受け入れた。
  すっぱりと、自身の不満を断ち切ったようである。
  以後、彼女が愚痴を零したと言う話は聞かない。

       2

  太陰暦白蛇の月――晦日。
  明日にはまた、月が変わる。
  祖国と呼ぶにはあまりに馴染みの薄い、けれど確かに統治しているトルエ国を離れ、公女キルシュは僅かな手勢と共に、エスタッド皇国へ向けて旅路の途中にあった。
  キルシュに常に付き従っているエンも勿論、その一団に加わっている。
  仮令、エスタッドの皇妹将軍を急襲したことについて、責任追及の訪問ではあっても、トルエ国の統治者である公女キルシュが、同じく皇国を統べるエスタッド皇と、盟約を交わすための、正式訪問である。
  表面上は。
  エスタッドから派遣されてきた使者は、重装備の騎士集団だった。
  臨戦態勢である。
  二十名。
  いくらか周りより浮いている、陽に焼けた浅黒い男が、彼ら騎士団の統率を取っている。
  身に着けた白銀の鎧が、まだ身体に馴染んでいない。
  名を、ダインと名乗った。
  よくよく練習してきたらしい、挨拶の言葉だけは丁寧だったものの、それが終わると急に砕けた口調になっていた。
  と、言うより、貴族に気に入られがちな「正しい言葉遣い」なるものを、心底嫌っているのだ。
  さらに言えば、そもそも戦場暮らしの多かった傭兵上がりに、そんな言葉遣いは無用どころか、覚える機会がなかったとも言える。
  本人、慣れない皇宮務めに、胃に穴の開く思いだったろう。
  エスタッドに向かう行軍は、日中。
  日の暮れ始める気配の頃には、寝泊りできる場所を探し、近くに民家がなければ野営する。
  公女と言えど、移動の手段が騎馬か、馬車かの違いぐらいで、待遇は側に控えるエンと大して変わらない。
  変わらないどころか、民家で寝泊りする時に一部屋を与えられる他、野営の際はテントが彼女を守り固めるように、ぐるりと囲む、その程度だ。
  形ばかりは独立を掲げたトルエであったが、実態は弱小国家。せいぜいが、属国にしかなり得ない。
  それでもトルエがエスタッドへ犯した行為を鑑みるに、破格の待遇と言える。
 「こなた、そう思わぬか」
  日に三度の休憩時、珍しく二人きりになったエンに向かって、キルシュはそう言った。
  疲れた笑顔をしているのだろう。
  それを思うと胸の痛むエンだ。
  いくら馬車に乗っているとは言え、日がな一日揺られているのである。
  これはかなりの負担である。
  それも、行楽でも遊興でもなく、言ってみれば死刑執行に向かって一直線の道程だ。
  ともすれば、エスタッドへ向かう中途で、事故に見せかけて暗殺、と言うことも無いとは言えない。
  他国が、ちょっかいを出してくる可能性も十二分にある。
  これ以上、エスタッドがその領地を広げることに、危機感を抱く国々は数多いのだ。
  トルエが加われば、尚更である。
  窓枠に日除けの布を垂らして、一切景色を眺めることもなく、キルシュはおとなしく行軍に従っている。
  我がままを言って一行を困らせるどころか、日常必要な最低限の会話だけで、その他は沈黙を決め込んでいた。
  エンですら、話しかけてもほとんど返されなくなっている。
  今晩などは、食事も取らずに早々に寝込んでしまっていた。
  国境のほとんどは、山、もしくは河を目印に仕切られていることが多い。
  頑健な山脈は、越えるまでに時間がかかるもの。また、大河は橋を架けなければ、馬を通すことが不可能である。
  人間が作った地図上の線引きよりも、自然、そう言ったもとより存在する境目が、結局のところ国境となる。
  トルエを出立して六日目の夜。
  一行は、山岳地帯に差し掛かっていた。
  この辺り、気候はかなり厳しいと見える。
  二日前までは、それでもまだ点在していた民家が、流石に見当たらない。
  それもそのはず、辺りはほとんどを岩壁で仕切られ、僅かにちょぼちょぼと緑の見える程度。家畜どころか原生生物さえも、生息していないようだった。
  時折空を渡り鳥が、列を成して飛んでゆくのが景色といえば景色である。
  山の夜は早い。
  野営地を定めた時には、ほとんど相手の顔が見えないほどに暮れていた。
  灯りと言えば、一団の熾す焚き火ぐらいのものである。
  底冷えのする寒さである。
 「寒ぃな」
 「着込んでいても……やはり寒いものですか」
  しんと静かな岩山に向かって、物思いに耽っていたエンは、不意にかけられた声に驚くことなく静かに返した。
  背後から近づいてきていたのは、気付いている。目暗になって八年の間に、視覚以外の感覚が異常に発達したと、他人ごとのように語る。
  その、視覚以外の四感で、夜に馴染みのある職業経験者、エンはそう男を分析していた。
  ダインと名乗った、一団を率いる男である。
  少なくとも、立身出世のために、胡麻を擦ってきたタイプではない。かと言って、叩き上げの軍人ともまた印象が異なる。
  時折放つ、ゆらりとした殺気は、おそらく男自身が意識してのものではない。どちらかと言えば、日頃抑えているそれが、気の緩んだ瞬間に漏れ出る――のだろう。
  野生の獣。
  こちらが警戒していれば、背中を見せても襲い掛かってはこないが、うっかり隙を見せたが最後、仮令正面でもきっと容赦しない。
  そう言った、気配をしている。
 「一日震えっぱなしで、全身の筋肉が痛ぇ」
 「温泉にでも浸かりたい気分です」
 「ああ……温泉か……。浸かりてぇなあ」
  ダインがしみじみと呟く。
  ぷぅんと酒精の香りが漂う。
  熱湯と葡萄酒を割ったものを、飲んでいるのだ。
  こんなものでも飲まないと、寒さがしのげない。
 「浸かりてぇなあ」
  繰り返した。
  エスタッドまでの道程はおよそ半月。
  その間、ほとんど湯浴みが出来ない。
  民家で一夜を過ごすことができたら、そうしてその家に湯桶があれば、その位の「たられば」の可能性でしかない。
  まだこれが夏場なら、行水と言う手も無いことは無いのだが、この厳寒の中でそれを行うと、下手をすると凍死しかねない。
  自殺行為である。
  その上、道程のうち半分は山脈越え。
  水場もろくに無い。飲み水すら、計算しながら飲んでいる状況で、身体を拭き清める余分な水があろう筈も無い。
  寒いので、汗をかかないのだけが救いだ。
  男臭いことこの上ない。
  公女がよくも我慢できるものだと、エンは密かに感心していたりする。
 「ん?……今。気付いたんだが。アンタ、どうして俺が着込んでいるのが判った?」
 「音が、篭もっておりましたので」
 「音?」
 「はい。最初に参られた時と今とでは、音の跳ね返りが違いまする。此方さまは、わが国においでになった際、表敬訪問として、正装して参られた。正装と言えば聞こえはいいが、これは、トルエの気候には薄着にすぎます。体温を奪う鉄鎧を着ているのなら、尚のこと。ところが、今の此方さまからは、高い金属音が聞こえませぬ。これはおそらく、鉄鎧の上にも下にも、音の伝達を邪魔する、厚手のキルト地を着込んでいると判断した具合で」
 「ほーう」
  顎に手を当て、興味を引かれた風情のダインである。
 「頭がいいんだな」
 「どうでしょう。生まれつき運動能力には欠ける性質です。となれば、公女のお役に立つため、策を練るしか私には能が無い」
 「いつから目が悪いんだ?」
 「これですか」
  聞かれてエンは、両目に宛がった布に手を添える。
  微笑んだ。
 「八年前に潰しました」
 「……潰した」
 「はい。邪魔であったので」
 「潰したってのは……その、なんだ、自分で……なのか?」

       3

 「はい」
  エンが頷く。
  逆に、聞いたダインの方が、想像したのだろう。痛そうな顔をした。
 「ああ……、悪い。言いたくないことなんだろう。言わなくていい。人の古傷ほじくり返す趣味は、俺にはねぇしな」
  どっかの皇帝サマと違ってな。
  ぼやきを最後に付け加えることを忘れない。
  それは確かに小さな呟きではあったのだけれども、エンは耳聡く聞いていた。
 「主が苦しんでいる状況で、私は眺めていることしかできませなんだ。……痛みを拭うすべも、涙を止めるすべも、あいにくと私には持ち合わせがありませんでした。私はただただ、眺めていただけでした。眺めていることで主が更に苦しむのであれば、私の光など無くなってしまえばいい。そう思って、我と我が手で掻き潰しましたが……、案外なかなか潰れないものです」
 「いい。もういい。聞いているこっちが痛くなってきた」
 「そう言うものですか」
  根は、気の良い男なのだろう。
  エンの言葉を遮って、
 「いや、話がしたかったのはな。トルエを出てから六日間、今のところ平穏無事な旅だったが、これからはちぃっと厳しいコトになるかも知れねぇ。いざと言う時は、俺らがアンタらを守って戦うことになるが、何せ人数が少ない」
 「――派遣していただいた騎士団が二十名。こちらの手勢が十名」
  すかさずエンが返してみせる。
 「そうだ。公女の乗っている馬車を囲む形を崩さねぇように、言い聞かせてはいるが、遊撃の形で襲われると厄介だ。トルエの公女がこの辺りを通ることは、誰でも知っている。公女を攫って、身代金でも要求すりゃあ、一気にお大尽だぜ。逃す手はない。野党の類が、どのくらいの数いるのか知らねぇが、用心に越したことはねぇ。戦闘はこちらが中心になって行うから、アンタらの手勢は、公女を守る形でいてほしい」
 「此方さまは、望まれるのではないですか」
 「何をだ」
  エンの言葉に、一瞬ぎょっとした様子のダインである。
 「エスタッド皇の妹君を、卑劣にも急襲した……、その責任を問われる立場の公女が、今この場におられます。風の噂に聞きました。皇妹将軍は、かなりの重傷を負ったと。強盗か追いはぎか、相手は判りませんが、騎士団が守りきれずに公女を攫われ、あまつさえ何かの拍子に、命を落としてしまうかもしれない。好都合ではありませんか」
 「そんなことは」
 「無い。そう言い切れるのであれば、此方さまはこの国へやっては来ない」
 「……」
 「皇妹将軍は、剣を預けるに十分な素質を持つ方だと、もっぱらの噂です。その方に命を預けた騎士ならば、余計に」
 「……」
 「公女が、お憎いか」
  静かに問うエンの声に、気迫は感じられない。
  内に秘めた熱情を決して表に見せない。そう言う男なのだ。
  圧倒されてダインは口を噤んでいる。
 「……判らねぇよ」
  不穏な気配を漂わせながら、押し黙っていたダインが口を開いたのは、数呼吸後のことだ。
 「判らない」
 「憎いのか。憎くないのか。守りたいのか。守りたくないのか」
 「……」
 「理屈では判ってんだよ。奇襲の指示を出したのは、前トルエ公であって、今現在の公女は全く関係がねぇってのは。理屈では、な。ただ……俺はあの場にいて、大事な者が逝くのを見た。中には腐れ縁の奴もいた。理屈じゃねぇんだよ。トルエ公をブン殴りてぇところなのに、そのブチのめせる相手はとっくに墓の中だ。腹が納まらねぇな。こっちに来る半月も考え続けたが、答えがさっぱりだ」
  つっかえつっかえ、ダインは言葉を紡ぐ。
  思っていることを、黙っていられない性質なのだろう。
 (私のように屈折はしていない、か)
  思ってついつい苦笑が出るエンだ。
  揺さぶりをかけるために、あるいは相手の出方を見るために、敢えて手の内を見せる振りをする、エンとは大分違う。
 「だから。トルエに入ってから、くよくよ考えるのは止めにして、二択に決めた」
 「二択」
 「公女が守りたくなるイイ女なら、エスタッドまで送り届けよう。ツンケンお高くとまった女なら、ほっぽりだそう……と」
 「ほう」
 「まだ採点途中だ。だが……、世間知らずの我がままお嬢さまなワケじゃねぇようで、安心したのが正直なところか。よく周りを気遣っている」
 「周りを、」
 「ああ。声をかけるワケでもねぇ、取り立てて目立った動きをするわけでもねぇ。だが、それぞれの動きをじっと目で追っていることが多い。アレは、物珍しいから眺めているんじゃあねぇな。自分の立場を理解して、その上で観察している眼つきだ。15の小娘のする、眼つきじゃあない」
  ダインの言葉を聞いて、エンは静かに笑った。
 「なんだ」
 「此方さまこそ、よく見ておいでだ」
 「まぁ……一応、な。護衛を頼まれた手前、手ぇ抜くワケにもいかねぇだろう。俺ぁ中途半端が嫌いなんだ」
  がりがりと頭を掻く音がした。
  褒められるのは苦手らしい。
 「ダイン殿」
 「あ?」
  笑いを象っていた口許を引き締めて、エンはダインの気配のする方向へと顔を向けた。
 「此方さまが、皇妹将軍と懇意の仲を見込んで、是非ともお頼みしたきことがあります」
 「なんだ」
  カップの中身をすする音がする。
 「皇妹将軍ミルキィユさまから、エスタッド皇に、お取り成しをして頂くことはできませんか」
 「ぶっ……はッ」
  次にエンが呟いた言葉に、盛大にダインが噴出す。
  そのまま激しくむせた。
 「な、な、な」
  慌てて鼻をすする音がする。
  予想通りの反応に、エンは片眉を上げた。
 「ムシの良い話であることは、私が一番判っております。奇襲され、負傷され、名誉を著しく傷つけられた彼の将軍に、本来ならばお頼みできる筋ではないどころか、平謝りせねばならぬ立場にあることは百も承知。そこを押してお頼みしたい」
 「……俺が。そのことについて。豪く。ムカついていることも。判った上での。ことなんだな」
  ダインの声が、一段低い。
  人の良い男から、獣の瞳に戻っている。
  念を押すように、区切りを強調した。
 「無論です。此方さまの機嫌一つで、私共の首が泣き別れることも」
 「……」
 「恥も外聞も無いのかと罵られても結構です。私はもう他に、陛下を生き長らえさせる策を、思いつくことができません」
 「……」
 「陛下を、何としてもお守りしたい。何としても生き延びて頂きたい。その為に、私がどんな誹謗を受けようと構いません」
 「ミルキィユに、遠回しに公女の命乞いをしてほしいと」
 「そうです」
 「……」
  即答できずに、ダインが考え込む。
  馬鹿なことをと、そんなことは頼むなと、会話を切り上げてしまうことは簡単だ。
  だがこのトルエ公国の策士が、考えに考えた末に、持ちかけてきた話だと言うことを、感じ取れないほどダインは馬鹿ではない。
  勘は鋭い男なのだ。
  トルエが起こした行為はともかく、公女キルシュに非が無いことは、ダインにも痛いほど判っている。そして、責任転嫁の被害を受けた張本人であることも。
  しかし先に述べた通り、理屈では納得できない部分も確かにある。
  腹に据えかねている部分は多い。
 (だが……どう出る)
  自問自答するダインを、エンはただ黙ってじっと待った。


最終更新:2011年07月21日 20:58