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       4

  ひと月が慌しく過ぎていった。
 「矢のようでやりきれない」
  と、ある事務次官などは私記に愚痴を書き残している。
 「眠る間が無いのは無論、この前座って飯を食ったのがいつだったのか、思い出せない」
  尻に火の点いた忙しさだったようだ。
  この時代、国と国との指導者が、直に対面すること自体、稀である。
  書簡でのやり取りか、それぞれに代理を立ててのやり取りが、通例だった。
 「この間会いましたね」の「この間」が、ざっと20年開く場合もざらにある。
  誕生を祝うための訪問の次に出会う機会が、葬儀の場合もある。
  つまり、エスタッドとトルエ、両国の最高責任者が揃っている場と言うことは、ひと手間もふた手間も間に挟まずとも、直裁が可能だということだ。
 「……面倒くさい手間挟まず、決められることは、とっとと決めちまったら楽じゃね?」
  下で働くものの頭をよぎった思いは、両国共通であったようである。
  特に確認はせずとも、意志の疎通が成り立っていた。
  無論、トルエの参謀であるエンも連日、あちらと思えばこちら、こちらと思えばあちらといった具合で、同じ屋敷に寝起きしながらこの半月以上、キルシュは男の姿を見た憶えが無い。
 「休め」と命じてもおそらく動くであろう。
 (今度顔を見たら、コマネズミとでも名付けてやろう)
  諦めの境地に至ったキルシュだった。
 「皆、よく働く」
  感心したように呟くキルシュの向かいで、おっとり刀で本国より駆けつけた、トルエ・ラグリア教のグラーゼン司祭長が、のんびりと茶をすすっていた。
  キルシュのエスタッド訪問を口実に、ラグリア教団本部へ挨拶を済ませてきたのだ。
 「公女さまにおきましても、ご機嫌麗しゅう」
 「堅苦しい機嫌取りは無用だ。ここにはわたしと、こなたしかいない」
  片手を振って、グラーゼンの言葉を追いやる。
  もともと、形式張ったことが嫌いな性分だ。
  そんなキルシュをちらちらと眺め、内緒話でも持ちかけるように、グラーゼンは声を潜めて言った。
 「参謀殿、少しやりすぎにございませぬか」
 「……と、言うと?」
 「その……、公女陛下の髪のことにございます。ラグリア神に捧げるご覚悟の程を見せるからとは言え、何も断ち切らなくてもよろしかったのではござりませぬか。髪は女の命。神に仕える巫女ですら、隠しこそすれ、自らハサミを入れるものはございませぬ。参謀殿、なるほど確かに頭は切れましょう。しかし、犠牲と非情は並び立ちませぬぞ」
 「ああ」
  眉をしかめるグラーゼンへ、鷹揚にキルシュは頷いてみせる。
 「これはな。わたしの案だ」
 「は……、」
  軽い調子で言い切った。
 「エンはそこまで提案はしておらぬ。まぁ……、あの非情漢、内心思っていたかも知れぬが。流石に、口には出さなかったな。切ることを提示したのは、わたしだ」
 「な、何故でござりまする」
 「何故?」
  問い詰めるグラーゼンに、不思議そうにキルシュは返す。
 「何故、とは」
 「いかに国を救うためとは言え。陛下の、あの長く美しい髪を切るなどと」
 「髪は、髪ではないか」
  なにをそんなに。
  言いたげな風情で、キルシュはグラーゼンを眺めている。
 「また伸びる」
 「しかし陛下!それではまるで、男にござりまする!いいえ、見た目の話ではござらん。その心根のことにござりまする。不必要なものは切り捨てる、利用できるものは全て利用する。施政者の姿勢として、それは間違ってはおりますまい。間違っておりますまいが、陛下は女であらせられます!何故そこまで、己を」
 「司祭長。こなたは優しいな」
  穏やかな瞳で、キルシュは言った。
 「その心、嬉しく思う」
 「陛下」
 「そう。わたしは女だ」
  今さらの言葉を、キルシュは呟き、遠くを見た。
 「しかし。わたしは女を棄てたつもりも、忘れたつもりも毛頭無い。髪を切った程度で、女を失くするとは、思うてはおらぬ」
 「……」
 「実は、あれにも、同じようなことを言われた」
 「……あれ……とは」
 「先ほどこなたが、頭が切れると評した我が国の参謀殿だ」
  髪を切ると告げた時の、一瞬唖然としたエンの顔を思い出し、キルシュはにやにや笑って見せた。
 「先のわたしの、非情漢との言葉は取り消そう。おそらくあの男、そこまでヒネった策は考えてなかったように思う。あの鉄面皮が、豆鉄砲を食らった顔は見物であったぞ」
  ――何を仰られます。
  ――陛下。
  ――そこまでの覚悟が……必要にござりましょうか。
  無くしたものは髪だ。だが、実際キルシュが切り捨てたのは、未練である。
  ――二度と、婚姻はせぬと誓うたのだ。
  悪夢が繰り返されるのが、嫌だったから。
  ――だが。わたしは敢えて……せぬと誓った婚姻へ、我が身を置こう。
 (こなたの策は、それでようやく成功と言えるのだろう?)
  頬杖を突いて、
 (あるいは、トルエ最後の領主として。華々しく散ることを思わないでも、なかったが)
  次の呟きは言葉にはならなかった。
  言葉に出してはいけない。
  言葉に出しては、取り返しがつかない。
 「そう言えば、司祭長」
  どこか痛ましい目を向けてくるグラーゼンへ、
 「とある筋より、内々の夜宴に誘いがかかっておるのだが。このトルエの田舎領主、都の雅やかな宴などにまるで縁が無いゆえ、立ち居振る舞いがまるで判らぬ。舞踏など誘われては厄介だ。こなた、一緒に出かけぬか」
 「は、……ははッ」
  すっぱりと思いを切ったように、キルシュは話題を変えた。
  慌ててグラーゼンが首を縦にする。
 「この老いぼれに、どこまで陛下のお相手が務まりますものか、判りませぬが。喜んでご同行させて頂きまする」
 「頼りにしている。なにせこの宴の催主……、わたしと切っても切れない、因果関係にある方であるようだ」
  今はトルエと、ラグリア教との結びつきを誇示しておくことが、肝要。
  愚直な司祭長は、当にうってつけの役どころと言えよう。
  艶然と、キルシュは微笑んだ。

       5

  こなせどこなせど、仕事が山よりも高くそびえ立ち、一向に終わる気配が見えない。
  溜息が出る。
 「何も考えずに布団を被って寝てしまえたら、どんなに幸福でしょう」
  漏らす部下の泣き言にも、思わず同調しかけて、気を引き締めなおしたエンだ。
 「この一件が終わったら、」
  終わりは、あるのだろうか。
  自分自身で発した言葉に、ふと疑問を抱くと、そのままエンは暗い気持ちになった。
  終わりの見えない己の仕事に、嫌気が差した訳では無い。
  己の仕事の終わりが見えない言うことは、そのまま公女の行く末に繋がる。いつまで経っても混沌に覆われ、彼女の先に光明が見えないと言うことに、気付いたからである。
  彼は確かに、キルシュへ「月」になることだと例えた。しかし、
 (いつまであの方は苦しめば良い)
 「この一件が終わったら、少し暇を頂いて、ひなびた隠れ湯へ湯治にでも行きたいですね」
  浮かびかけた思いを振り切って、エンは言葉を続けた。
 「湯治か……いいですな」
  トルエより南に位置するとは言え、エスタッドは盆地だ。
  寒い。
  日がな一日、湯に浸かる己を想像したのか、向かいの声が和らいだ。
 「のんびり骨休めをしたいものです」
 「そのためにも。頑張りましょう」
  やんわりと釘を刺し、部下の緩んだ気の糸をも、張りなおしたエンだ。
  向かいの男、バートと言う。
  エンが二十代前半の頃。丁度参謀役を名乗り始めた頃に、派遣されてきた男である。
  出会った頃には既に初老の域に差し掛かっており、今となっては逆に、老いた感を感じさせない。
  詳しくは語らなかったので、推測でしかないが、エンはこの部下を60歳前後と見ている。
  何せこの男、もともとアルカナ王国の間諜であった。
  間諜――スパイのことである。
  当時、国土の広さでアルカナは、エスタッドに半歩遅れを取っていた。国土の広さは、この時代の常識で、そのまま国力につながる。
  収穫される穀物や、採掘される鉱物が、そのまま産業に直結したからである。
  であるから、軍事国家であるエスタッドの脅威を一番に感じていたのも、実はこのアルカナであった。
  エスタッドに遅れを取るとは言え、アルカナも大国だ。地図で見ても一目瞭然で、エスタッドに太刀打ちできる国土を持つ国は、アルカナしかいない。
  アルカナが脅威を感じているのであれば、同じく――もしくはそれ以上、エスタッドとて脅威に感じているはずである。
  ぼんやりしていては、叩き潰される。
  では。
 「国力で劣るのならば、他の道で勝るしかない」
  故アルカナ国王は、そう決断したようである。
  そうして代わりにアルカナが重宝したのが、諜報活動であり、密偵であった。
  各国に間諜を送り込み、その国の上層部へ食い込ませる。巧いこと極秘情報を掴むことが、最重要任務だ。
  ただしこの方法、数年、下手をすると十年単位の忍耐を強いられる。
  送り込んだ間諜が、それなりの働きをし、上の者に認められ昇進し、極秘情報に触れられるほどの職務に着くには、やはり、相応の時間が掛かったからである。
  故アルカナ国王は、忍耐力のある統治者であったらしい。
  各国から次々に届けられる情報を手際よくまとめては、国政に活かしていたのだが、下に付くものがいけなかった。
  忍耐はあっても、人を見る目はなかったのかもしれない。
  今となっては、判らない。
  直ぐに結果の出ない方法を取る国王に、とうとう痺れを切らし、下克上。
  エスタッドと同じ、軍事国家を目指したかったようである。
  首謀者の多くは、王国軍に籍を置く、軍人であったと聞く。
  閑話休題。
  ともかく。
  そうして、トルエに派遣されてきたのが、バートであったのだが、この男、間諜にまるで向いていない性格であったらしい。
  あるいは、当時のアルカナ王国、諜報活動に熱を入れすぎて、人選ミスでもしでかしたのだろうか。
  何故かと言えば、アルカナ王国間諜、意気込んでやってきたはいいが、そこで出会った――その時はまだ、公女ではなかったキルシュ――に、必要以上に入れ込んでしまったのである。
 「雷に打たれてござる」
  詳細を口にはしないが、当時の様子を、後に男はそう語ったとされている。
 「雷に打たれて我が人生、初めて目が開きまいた」
  彼がその時10に満たない少女に、何を感じたのか、憶測の域を出ない。
  当時まだ、トルエ公は健在である。
  もしかするとそのトルエ公より、キルシュの方に感じるものがあったのかもしれない。
  または、間諜と言う行為に嫌気を感じていたのかもしれない。
  あるいは、その言葉の通り、キルシュの何気ない一言で、開眼したとも考えられる。
  確かなことは、バートがそこで、己の出自もアルカナから派遣されたことも、洗いざらい、告白してしまったことである。
  告白し、かしこまって座ると、彼は首を差し出した。
 「討って下され」
  そう言ったと言う。
 「討ってこの売国奴の首、アルカナへお送り下され」
 「底抜けの愚かもの」
  痛烈に非難したのは、差し出された当のキルシュ本人だった。
  一笑に付したとされている。
 「真実、雷に打たれたのなら、こなたは一度死んだのだ。よいか。死ぬと言うことは、人生がそこで一旦、切れたのだ。こなたはもう、アルカナ国の間諜でもなければ、売国奴でも無い。生まれたての素っ裸の、ただの男である。ただの男の首を討つ必要が、どこにあろうか」
  そう言って、キルシュは男の全てを不問にし、エンの配下に付けた。
  その際、彼女は男に名を与えている。
  バート、と名付けた。
  今となっては、元間諜の過去の名前は誰も知らない。
  男はそこで、生まれ変わったからだ。

  そんなバートと共に、車輪に揺られている。
  目の見えないエンの主な移動手段は、馬車である。
  揺れが眠気を誘う。
  確か数日前にも、こんなことがあったと、既視感を覚えたエンだった。
 (あの時は、陛下が無理矢理に休ませてくれたが)
  目が覚めると朝になっていた。
  キルシュの姿は、勿論室内には無い。自室に戻って休んでいる――はずであったのだが、腹の辺りが暖かくて、エンは目を覚ましたのだった。
  違和感。
  最初は、窓越しに差し込んだ日光かとも思った。
 (……それにしては)
  思い当たってぎょっとなる。
  己とは異なる温もりを持つ小さな身体。
  長椅子に横になっていた彼に、寄り添って眠っていた。
  子猫のように縮こまって寝ている。
 「――陛、」
  会談前に、風邪をひかれては困る。
  こんな状況を誰かに見られたらもっと困る。
  慌てて呼び起こそうと腕を伸ばしかけ、
 「う、――ん」
  僅かに動いた時に巻き起こった風が、寒かったのだろう。不満そうな声を出して、キルシュがもぞもぞと身動いた。
  その声が脳裏に、不意に幼い頃のキルシュを思い起こさせて、
 「……」
  思わず固まったエンだった。
  昔から、朝が苦手な性分だ。
  目覚めるときに半ベソをかくのが、幼い頃のキルシュの癖だった。
  泣いてシーツを被り、駄々をこねる。
  睡眠時間が足りないのかと、時間を多少ずらしたところで、これは変わらなかった。低血圧であったようだ。
  上手く言葉を選んで言いくるめ、自ずと起き上がるように仕向けたのがエンだった。
 (今朝は、きちんと起きることができただろうか)
  窓枠から入り込んでくる寒風に身を竦めながら、ふと思う。
  心がキルシュに伝達できたら、おそらく彼女は怒っただろう。
 「子ども扱いするな」、と。

       6

  夜気に松明が明るい。
  場所は変わってそのキルシュ、早々に窮地に追いやられていた。
  しかし本人、窮地とは決して思っていない。
  本気でそう思っているのならば、いくら招待されたからと言って、こんな場所に来るはずが無い。
  思うのは会場を設定した人物であり、その場に揃った面々である。
 「大変、素晴らしい」
  側に付き従う司祭長グラーゼンにだけ、聞こえるように囁いてみせた。
 「四面楚歌とは、このような状況を言うのであろうな」
 「……は、」
  キルシュの皮肉が理解できなかったのだろう。首を傾げるグラーゼンに、
 「なんでもない」
  笑って流した。
  皇都より若干離れた、別邸で催された宴である。
  馬で凡そ二時間。
  山肌に、しがみつくように建てられた黒煉瓦(れんが)の城であった。
  吹き降ろす山おろしに備えるためか、建物の造りが低い。
  有事の際の、城砦の役目も兼ねているのだろう。
  堂々と掲げられた旗が、ばたばたと強風にあおられ、見上げたキルシュは思わず襟元を合わせた。
  掲げられていた旗は二つ。
  エスタッド皇国旗と、ルドルフ公爵家旗であった。
  とは言え、幼いキルシュの夫であり、悪夢の源でもあったルドルフ公は、現政権に不満を唱え、反旗を翻し鎮圧されて、今はもうこの世にはいない。
  ここに住むのは有事の際に傍観を決め込み、参加しなかった故ルドルフ公の姉に当たる女。
  女帝ぶりは、評判である。
  ただし、
  直接は関係の無いからと言って、キルシュの内心が穏やかになろうはずも無い。
 「切っても切れない」
  出掛けに、そうキルシュは評した。
  心細いはずである。
  同年の少女を、同じ状況同じ立場に追い込んだとして、十中八、九は泣き出すか、逃げ出すかを選ぶだろう。
  キルシュはどちらも選ばなかった。
  微笑すら、浮かべていた。
  彼女がここに至った理由は、ただ一つ。
 「……これはこれは。公女陛下。ようこそお越し下されました」
  不意に背後よりかけられた声に目をやって、キルシュはさっと愛想を繕った。
 「これは。ハルガムント侯爵夫人」
  振り向くと、熟女。
  まず、そうとしか表現できないと、キルシュは愛想の仮面の下で思う。
  身にまとった衣装は、流石に夫人、公爵家生まれなだけあって、瀟洒だ。床まで擦れる一枚絹を、贅沢に幾重にも巻きつけて、その下の肌の色は磨かれた大理石である。
 (……今年で齢60とは……思えぬな)
  数年前、ルドルフ公爵邸で見かけた時に、そっとエンに耳打ちされて目を剥いたことをキルシュはふと、思い出していた。
  きらびやかに飾り立てた宝飾も、決して派手過ぎず、地味過ぎず。洗練されている。
  だのに、どこか下品な感じが漂うのは、本人から滲み出る雰囲気の、せいだろうか。
 「お会いできて嬉しく思います」
  良く言えば、触れれば滴り落ちそうな艶やかさ、悪く言えばくどい色気、をたたえた笑みを侯爵夫人が浮かべれば、
 「ご無沙汰しておりました。ご招待、ありがとうございます」
  キルシュもまたにっこりと笑い返した。
  腹の探り合いは、慣れたものだ。
  白々しさは、お互い様である。
 「“あの頃”よりお綺麗になりましたね、トルエ公女。前から一度、あなたとはゆっくりと語らってみたいと思っていました。それが、エスタッドにいらっしゃると言うでしょう。こんなまたとない機会を逃す手は無いと思いましたよ。……そう、今は亡き弟の思い出話にも、……是非花を咲かせたいですね」
 「奇遇です」
  ルドルフ公の名を持ち出されても、動揺を露とも見せず、
 「実はわたしも。亡き夫を偲んで語らえる相手を、探していたところでした」
  キルシュは答えた。
  思い出したくないどころか、いっそ葬り去ってしまいたい傷を、穿りかえす覚悟でキルシュはやって来た。
  古傷と片付けてしまうには、まだ傷口が疼きすぎる。
  トルエ公女に据えられてから、あっという間に月日が過ぎてゆくおかげで、遠い過去のように思えている悪夢は、思い出してしまえばまだ三年と経たないのだ。
  それでも。
  また傷口が口を開けてしまうことになっても。
  その傷口から新しく血が滴ることになろうとも。
  それでも、どうしても、キルシュはここにやって来なければならなかった。
  何故ならばこの女帝、ラグリア教団と関わりがある。
  ハルガムント家から――正確に記すれば、ハルガムント侯爵夫人個人から――本部に納められている喜捨の額は、年々増え、今やそんじょそこらの小国の一年の収入を越えると、もっぱらの噂である。
  言うまでもなく教皇自身と夫人の関係も、深い。
  反逆の徒であるルドルフ公と姉弟関係にあるハルガムント侯爵夫人が、現皇帝政権から何のお咎めもなくのうのうとしていられたのは、実に、このラグリア教と夫人との、密接な関係からなるものであった。
  大事な資金源である夫人に、下手に手を出すと、ラグリアが黙っていないのである。
  その上、前皇帝とははっきりと敵対関係にあった教団である。
  施政者にとっては鬱陶しいことこの上ない。
 「女狐めが」
  悪態をあまり吐かないエスタッド皇帝が、珍しく口を歪めて罵ったというから、余程手が出ない状態だったのだろう。
  そんな相手から、招待状が届いたのだった。
  相手の狙いは今ひとつ読めなかったものの、封を開けて直ぐにキルシュの頭に浮かんだことは、エスタッドとの結びつきにようやく締結が見えてこようとしている今、二国の間にラグリアからの横槍を入れてはならない、と言うことだった。
  勿論トルエも、ラグリアを利用できる部位は利用させてもらった。
  それが政治と言うものだ。
  しかし必要以上の口出しは無用である。
  で、あるから、ハルガムント侯爵夫人を通して、ラグリアがどんな意向であるのか、出来れば探りたい狙いが、キルシュにはある。
  グラーゼンを連れてきたのも、そう言う思惑があってのことだった。
  が、これはキルシュ一人の独断である。
  何故ならば、彼女が一番に相談したいと思ったトルエの策士は、朝に昼に条約締結に翻弄されて、言葉を交わすどころか顔も見ていない。
  無断で行動を起こすことに、ためらいが無かった訳ではない。
 「計画に、狂いが出てはならない」、キルシュが口にしたのは、それだけだった。
  15の娘が、である。
  自身の複雑な思いも山ほどあったろうに、一切口に上らせることはなかった。
  おそらくその辺りが、エンの憂う「自律」の境界線なのだろう。
  問題が一つだけあった。
  その日の午前に届いた招待状には、はっきりと、
 「今宵」
  の文字が記されていたのである。
  彼女なりに迷った末に、エンには使いを出して知らせることにし、キルシュはハルガムント侯爵夫人からの招待を承諾したのだった。
  出掛けのぎりぎりまで、返事も待った。
  届いたのか、届いていないのか、彼からの答えは来なかった。
 (……まったく)
  ふと、盲目の策士の顔が、キルシュの脳裏をよぎった。
 (エン。こなた、必要なときに側におらぬ)
  それは一片の弱音だったのかもしれない。


最終更新:2010年10月21日 23:04