<<月へと還る獣>>

   乱心

       1

  その日。
  皇都の東北東の山間から、煙が一本冬の風に立ちなびいた。
  宣戦布告であった。
  後に「ハルガムント攻略戦」とまで呼ばれ、場末の酒場でも歌い継がれることになる一連の騒動の始まりの合図であったが、まだ誰にもそこまでの大事になるとは読めていない。
  ただし、
 「ちッ」
  皇宮で、山積みの報告書に、目を通していたエスタッド皇帝は、報告を聞くや否や、そう舌打ちしたと言う。
 「退屈で欠伸が出る」
  例え目にしている書類が、国家間の重要書類であったとしても、豪語してはばからないエスタッド皇であったから、ひょっとすると責務を一旦放棄する口実でも出来たと、内心喜んでいたか、
  または、
  そう強くも大きくも無かったエスタッドを、一代で築き上げてきたものの持つ特有の感――へ、何か訴えるものがあったのかもしれない。
  暗雲の予兆でも、感じたか。
  あるいは、
  思うままに行かない世の中の流れを、内心呪ったのかもしれない。
  皇帝、天邪鬼である。
  推し量りきれないものがある。
 「エスタッド分家であるハルガムント侯爵領に、何ものかの軍が侵入した」と言うのが、第一報。
 「攻め入ったのはアルカナ王国の残党であり、侵入されたハルガムント侯爵以下続く者は、すぐさま砦代わりの城に、取りあえずは立て篭もった」と言うのが、第二報。
  次々に届く詳細な伝令に、不機嫌さを隠しもしないで皇帝はむっつりと腕を組んだ。
  まだ、進軍の命を発する段階ではないと踏んだのだろう。
  情報を、吟味している。
  側には、いつものように護衛兵のディクスが控えていた。
  彼もまた、齎される情報を頭に描きながら、目の前の施政者の内心を慮るのだった。
 (珍しく)
  皇帝が焦っているようにも見える。
  ほんのささいな変化ではあるのだが、長年仕えたディクスは目敏く見抜いていた。
  そうして、思う。
  侵入のみなら、問題は無い。エスタッドは、軍事国家である。
  常備している一軍を差し向け、鎮圧すれば済む話だ。
  問題は、その取り囲んでいる城砦の中に、ハルガムント侯爵とその夫人もが、閉じ込められていることである。
  事実上の人質、であった。
  押し入った賊が要求するのは金品――身代金――と、相場が決まっている。
  しかし。
  エスタッドは先年、アルカナ王国の領土の半分近くを侵略し、勝ち取っていた。
  交戦の直前まで、なんとか外交によって解決を望んだ、皇帝の本意がそこにはあるのだが、下のものにはそれとは判らない。
  結果が全てだからだ。
  単純に、恨んだ。
  正式な要求は、まだ届いたとの報告が無いものの、おそらく、ハルガムント侯爵邸を囲んだアルカナ王国の残党の求めるものは唯一つ、「元アルカナ領土の返還」。それに違いない。
  滅んだ国へ対する愛国心か、はたまた各々の我利への執着か。
  ひとからげに読めないのが、人の心だ。
  心は、厄介だ。
  何せ、己の心であっても、上手く扱いかねてじたばたともがくことが多々ある。己の本意だと信じて為していたことが、ある日ふと気付くと、まったく真逆だったりする。
  それが他人の心であれば、尚更のこと。
  読めると豪語するほうが、驕りなのかもしれない。
  だが、施政とはそう言ったものである。
  相手の国の腹を探り、その気がどちらに傾くかを推し量り、幾本もの糸を張り巡らす。
  正味、読み合いである。
  より読み優れたほうが、生き残る。シビアな世界であるのだ。
  張り巡らす様は、蜘蛛にも似ている。
 「……要求は……、聞き入れる訳にはいきますまい」
  黙ったままの皇帝の背へ、ディクスが声をかける。
 「判っている」
  ぞっとするほど低い声で、皇帝が応じた。
 「……侵入者の要求は、ハナから聞き入れる気は無いよ」
  そして、
 「遠縁とは言え、あの家も皇家の血を引く家柄だ。仮令アルカナ残党の手にかかろうとも、それ位の覚悟が無くては、侯爵家は務まらない。鎮圧軍は、派遣するがね。被害も最小に収まるように……鋭意努力しよう」
  見棄てるか。
  涼しい顔で、怖いことを言う。
  先の騒動の際、かなりの関与をしていたにも拘らず、ぬらりと逃げた侯爵夫人への思いが、まだ消化しきれていない。
  言外にそんなことを仄めかしている。
  見た目に反して、物騒な男であるのだ。
  この目の前の男が、これと決めて両の手の平にすくい上げた、僅かな数の人間以外に相当冷徹でいられるのを、ディクスは知っている。
  不必要であると判断したならば、迷わず切り捨てる。
  他人面を、貫いた。
  そうでなければ生きてはこられなかったからだ。
 「どの軍を、派遣されますか」
  救出に乗り気で無い皇帝に向かって、ディクスは尋ねた。
 「ふむ」
  そこへ。
  蜘蛛がまた一匹――、
  かつかつと聞きなれない足音を立て、回廊を近づく人の気配にディクスは気付いた。
  おやめください、どうかお止まりください。
  そんな侍従の制止の声も聞こえる。
  ――ええぃ、放せッ。
  ――なりませんッ!お会いなさるなら、謁見申し込みのお手続きを……!
  ――そんな悠長なことをしている場合ではないのだ!
  ――しかし!只今皇帝陛下は、お取り込み中ですぞ!
  ――取り込み中か。取り込み具合で言うなら、こちらもかなりな取り込みっぷりだ!
  腕組んでいた皇帝とディスクは、扉に目をやる。
  新しい伝令かと思えば、随分と騒がしい。
 「……何事かね」
 「――エスタッド皇ッ」
  皇帝が訝しむ声を上げたのと、声を荒げて男が入室したのは、同時だった。
  急いだのか、息が上がっている。
 「直ぐにでも一軍を指揮していただきたいッ」
 「……何事かね」
  もう一度皇帝が呟いたのは、その男の不意の入室を咎めた訳ではなく、男の行動が意外なものであったからだ。
  二国間協議で見せた、飄然たる仮面をかなぐり捨てた男――
  トルエの若き策士だった。

       2

 (迂闊だったな)
  そんなことを思っている。
  キルシュは重い溜息を吐き、尖塔の小窓から遠くの湿原を眺めていた。
  湿原。
  四方を山に囲まれたトルエ国と違って、エスタッド国は中央に広大な湿原を構え、北に山脈、南に太洋を備える風土豊かな国だった。
  冬でも。どんなに凍えた次の日の朝でも。湿原の流れは、凍ることは無い。
  滔々と流れる水脈が、そのまま国の繁栄振りを現しているようで、少しだけ、羨ましくなったキルシュである。
  トルエの冬は、滝すら凍る。
  それはそれで、幻想的な風景では確かにあるのだが、そう言えるのは訪れる旅人か、夢見る若者だけだ。
  日々を暮らすものにとっては、長すぎる冬だった。
  冬の寒さが厳しいことも、貧しさの根っこのひとつである。
  冬の間、穀物が育たない。
  また、周囲と比べて春が遅い。
  春が遅いと言うことは耕作時期も遅いと言うことだ。
  周囲よりふた月も遅く、種を蒔き、まるで撫でるように吹いた若芽を育て、駆け足で過ぎゆく、短い夏の間に育成し、早すぎる秋と共に収穫を迎える。
  そして――また冬が来る。
  一年の半分を雪に覆われるトルエにとって、萌黄の緑は希望の色であり、喜びの色でもあった。
  つつましくも華やかな春の式典が多いのも、その辺りに起因するのだろう。
  二毛作など夢のまた夢、である。
  そんなトルエに比べて、目の前の湿原は、それだけであまりに広い。
  エスタッドへ流れる水が、冬でも作物を育てる。
  凍結する半年を見慣れたキルシュにとって、目新しくもあり、羨ましくもある。
  その、湿原。
  今は物騒な黒色が蠢いている。
  甲冑姿の兵士であった。
  背後を山に守られた、ハルガムントの城砦の三方を取り囲む形で、幾重にも輪がある。
  アルカナ王国の残党兵である。
  ただし、残党と一口で片付けるには、かなりの数が蠢いていた。
  王国の中枢部であったアルカナ王家以下続臣は、軍幹部の裏切りにより処刑されていたが、その、当の裏切った軍部が未だに健在なのである。
  領地こそ半分以下に減ったものの、掻き集めれば戦力は意外と多いのだ。
  ただし、大将軍を筆頭に配下の武将とのいざこざも絶えず、何かと収拾がつかないのも事実ではある。
  それをどうにかまとめ上げての、今回の出兵であった。
 「打倒エスタッド皇国」
  とまでは行かないものの、
 「あわよくば甘い汁を」
  そんな思いは参戦したそれぞれの胸にはあったはずである。
  祖国の奪還だとか、アルカナの再建だとか、そんな高邁な考えは誰の胸にも無い。
  そもそも、そんな崇高な思いが誰かの胸にあったなら、アルカナ王家は未だに健在であったろう。
  そんな彼らが、今宵の野営と定めた場所で炊飯の煙を上げ始める。
  建物や木立が燃える黒煙ではなく、真っ白な煙が立ち上る。
  煙を見て腹が鳴った。
  こんな状況にお構いなく、身体は正直に空腹を訴えている。鳴らしておいて、自分で笑えたキルシュだ。
  もう丸二日、何も口にしていない。
  食物はともかく、水すら与えられていない。いい加減、喉が引き攣るように痛かった。
  とは言え、立て篭もったハルガムント邸に、一片のパン切れも無いという訳では勿論無く、おそらくこの城砦の主は、きちんと日に五度の食事を口にしているに違いない。
  キルシュにだけ、与えられていないのだ。
  逃げないように。
  何故ならば、彼女は現在軟禁状態にあったからである。
 「アルカナ王国兵、侵入」
  の一報が、宴たけなわであったハルムガント邸に齎された瞬間から、おかしいとは思った。
  アルカナとエスタッドの際を分けているのは、大河ゼフィール。「狂い龍」との異名が付くほどに、どんなに治水を極めても年に何度も河は暴れた。
  此岸から彼岸まで、数百尋はあるとされる河は、仮令水量がぐんと少なくなるこの季節であっても、渡河は困難である。
  まず、橋が無い。
  水練では凍え死ぬ。
  渡し舟は確かに数隻あり、それを繰る渡し守も常駐してはいるのだが、手形を持つ旅人が日に数十人利用すればよい方で、多人数の一斉渡河は不可能だ。
  一個隊の乗るような船が無い。
  馬連れの行商人が特別に乗るような船でも、馬数頭が限界であったし、そもそもそんな舟は一隻しか用意されていない。
  懸命に往復させたところで、大した人数を運ばぬうちから日が沈むだろう。
  用意させたと見るのが常識的な見方だ。
  でも、誰が。
  そもそも、そんなことを考える以前に、見張りの兵士が気付かないことそれ自体が、おかしいのである。
  見張り櫓(やぐら)は、度胸試しに昇るものでも、酔いを醒ますために昇るものでもない。
  遠方を見渡し、気を張り詰め、異変が起きたら即座に都に知らせる、そういった役割こそが櫓の持つ意味である。
  新兵はまず、上がれない。
  瞬時に、冷静に、熟練した判断こそが求められるからだ。
  また、必ず数人一組で上がる。
  仮に、櫓をまず襲撃され幾人かがやられても、最後の一人が生き残って、情報を伝えられるように、との思案がそこにはある。
  その見張りが、黙っている。
  相当おかしい。
 「一体どう言うことですか」
  疑問を投げようかとキルシュが口を開きかけた直後に、飽くまで表面上はにこやかな侯爵夫人が、侯爵と目配せをした。
 「貴賓に、何かあっては一大事です」
  夫人は呼んだ執事に、そう言う。
 「まず、一番に安全な部屋へ公女陛下をご案内しなさい。軍備を整えるのはその後でよろしい」
  そうしてキルシュは、不審をいっぱいに募らせたまま、追い立てられるように塔への階段を登らされたのだ。
  無言のまま、扉に外から二重の鍵を掛けた執事が立ち去り、そのあとは誰もやってこない。
  抵抗しようにも、その機を逃して抵抗し損ねたキルシュは、そこではた、と気が付いた。
  これは守備ではない。幽閉である。
  グラーゼンとも引き離されてしまった。
  部屋にひとり残されて、そこでようやく、キルシュはうろたえた。
  ラグリア教団と、深い関わりのあるハルガムント家のことであるから、そうそうあの老人に手荒な真似はしないとは思うが、ハルガムント侯爵と、その夫人が腹に何かを潜ませていることは、おそらく間違いが無い。楽観は出来なかった。
  と、言うよりも、己の現在のこの状況が、どう考えても確実に負担になっている。
  トルエにも。エスタッドにも。
  あの皇帝は、自分を見殺す確率が高い。突き放す冷たい視線をしていた。
  会談の時、うまく足元を掬った瞬間は、してやったりと内心にんまりとしたキルシュだったが、その後に続く凍る視線に、覚悟を決めた。
  利用するなら来い。こちらも、利用できるだけしてやろう。
  そう思ったのだ。
  だが。
 (エン)
  常に彼女に付き従ってきた、トルエの策士はどう出る……?
  キルシュにも、それは判らない。
  万策使って、何とかキルシュを救い出そうとするのではないか。
  あるいは、己の今までの労苦を全て投げ出して、捨て鉢になるのではないか。
  キルシュは知っている。
  素っ気ない外見を装いながら、その実、男が内面に熱いものを抱える人間だと言うことを。
  切り棄ててしまえば楽なものを、どうしてもその一歩が踏み出せない、甘い部分を持つ男であることを。

       3

  不意に、ざわざわと足音がして、キルシュは窓の外から内へと視線を戻した。
  数名の足音が、螺旋階段を登ってくる。
 (――誰か)
  じっと扉に目をやっていると、厚い一枚板の前で止まる気配。次いで、がちりがちりと錠前の開く音がした。
  やってきたのは、ハルガムント侯爵夫人であった。
  あいも変わらず艶やかな装いで、篭城を微塵も感じさせぬ出で立ちである。
 「ごきげんよう、公女」
  顔に構えた羽扇の陰から、真っ赤な唇が引き上げられるのが見えた。
  笑っているのだ。
  尊大な笑いである。
  本音の部分は別にしても、建前上は敬いを忘れていなかった、二日前とは大違いである。
 「ほどよく痩せてきたかしら」
 「……宴は一次かと思ったに、さらに豪華な二次の宴まで用意していたとは、その幾重にも重なる心遣いに、このキルシュ、感動を覚えた」
  にぃと笑ってキルシュも返した。
  愛想の仮面は、こちらも脱ぎ捨てている。
 「お次は三次会か」
 「ふん」
  軽く舌打ちをして、夫人は室内へ足を踏み入れる。
 「小賢しい娘だね。自分の立場と言うものが、まだ判っていないようだ」
 「立場」
  眉をそびやかして、キルシュも返した。
 「ハルガムントとアルカナが裏で手を組み、エスタッドへ攻め入る。表向きはラグリア教団とも深い関係にある当家に、エスタッドはぞんざいな扱いが出来ない。放っておけば、ラグリアが騒ぎ出すだろうからな。悟らせずに救援を出しておき、密かにアルカナとも通じて……、おそらくの狙いは、要求した領土の山分けなのだろうが、そこへひとまずの脅しとして、トルエの公女を押さえにしておく。……そう言う『立場』と言う理解でよろしかったか」
 「この小娘……ッ」
  毛ほどの動揺も見せず、むしろ冷酷な笑みを浮かべてキルシュが言うと、さっと顔色を変えた夫人が羽扇を振り上げる。
 「だから、頭の回るガキは嫌いだよ。生かしておいてもそうそう良いことは無い。どころか牙をむいて、実の夫を殺して逃げるとはなんと……なんと罪深い女だろう」
 「殺すとはまた人聞きの悪い。わたしは何も手を下してはおらぬ」
 「ふん。利いたような口を。あたしは知っているんだよ。アンタの手下のあの目暗男が、こそこそと何か嗅ぎ回っていたことをね!人の良い弟はまんまとその罠に落ちてしまった。疑うことを知らない弟は、騙されて皇帝に反乱を起こしたんだ。……あたしの可愛いルドルフ坊や!あの子は、ウチの一族の中でも一番に純真で可憐な男だったんだ」
  五十路も半ばを越えた男の名を、いとおしげに夫人が呼ぶと、曖昧な笑顔でキルシュはそれ以上の皮肉を言わなかった。
  言いたいことはたくさんある。胸が裂けそうなほど。
  しかし、キルシュは判っている。人が多くいれば、いるほど。いる数だけ、それぞれの言い分や正義と言うものがあるのだ。
  百人いれば、百通り。
  千人いれば、千通り。
  キルシュにはキルシュなりの言い分や正義感がある。それと同じだけ、この夫人にも言い分や正義感はあるだろう。社会意識や常識に当てはめて、どちらが正しいかと詮議するだけ無駄なことだ。
  意識も常識も、その時代その場所に住む人間が作るものだからである。
  仮令キルシュの目に、故ルドルフ公の行為が反人道的なものとして映っていても、夫人に同じ常識が当てはまるとは限らない。
  それをキルシュは知っている。
  教えてくれた男がいる。
 「では……この辛さも苦しさも固く口を閉ざせと言うか」
  理屈は判る。判るが、判ることと納得できることは違う。
 「無かったことにしたらよいのか」
  虚脱感に支配されながら彼女がそう口にしたとき、
 「いえ」
  男はゆっくりと首を振った。
 「陛下は、陛下のままでよいのです」
  そして己の胸に手を当てる。
 「ですから。私にぶつけなさいませ。狂えそうに悲しいときは、すべて私にぶつけなさいませ。私だけは、何時如何なるときでも陛下のお味方にござります」
 「そうか」
  その瞬間ツンと痛んだ鼻の奥を、
 「……わたしは、わたしのままで良いか……」
  膝から崩れ落ちるほどの安堵を、キルシュは忘れない。
  であるから。
  逃げ込める温床がある限り、キルシュは強くなろうと思った。
  虚勢でもいい。虚栄でも構わない。無いよりは、マシでないか?
  でなければ、男が身を粉にする意味が無い。
  そう思ったからだ。
 (こなたは、卑怯な男だ)
  目の前にハルガムント夫人のいる状況で、キルシュは内心愚痴ってやった。
 (そうしてわたしを玉座に据えつけようとするのだろう?)
 「……まぁ、いいさ」
  キルシュがぼんやりと思いを馳せている間に、喚き散らしていた夫人は、いい加減気が済んだのか、荒く息を吐きながら、
 「今日ここにきたのは、アンタの憎まれ口を聞くためじゃあない。アンタの血判と直筆のサインが欲しいんだよ」
  そう言った。
 「血判とサイン……約定でも交わすか」
 「そうさ。トルエはエスタッドを離反し、アルカナとハルガムント連合に全権を委ねる、とのね。背後には教団も控えている。エスタッド皇帝を疎ましく思う連中は、国内外問わずにいると言うことさ」
 「気の毒なことだ」
  肩をそびやかしてキルシュは応えた。
 「皇帝。頑張れど裏目に出る。そしてやはり……、アルカナ残党とハルガムント、水面下でつながっていたか」
 「ふん。カンの良いガキだ。だけどね、知ったところでなんだって言うのさ?アンタはここに閉じ込められたままだ。事情を知らないエスタッドとトルエは、迂闊に手出しが出来ない。まぁ、いざとなればアンタを盾に逃げるってこともできる。トルエはちんけな領土だけどね、意外と欲しがっている国は……多いんだよ」
 「残念ながら」
  薄ら笑いを浮かべてキルシュは頭を振った。
 「トルエはエスタッドから求婚されている」
 「はッ……あの生意気に取り澄ました、おキレイな顔の男!あの男がトルエ相手に、まさか本気で条約を結ぼうとなどするものか。せいぜいがところ数ヶ月がいいところさ。必ず、トルエはエスタッドに吸収される。その時は、アンタの三度目の結婚も破局だろうさ!あの不能男が!」
  歯茎をむき出して、夫人は罵る。
  その仕草が急に彼女を老けさせて見えて、キルシュは思わず視線をそらした。
 「……吸収されることが、それほどに悪いことだろうか」
  静かに呟く。
 「トルエ国と言う名が無くなることが、それほど重要なことだろうか」
 「何が言いたい?」
 「協定を持ち出したときに、今の貴女のように、エスタッド皇も同じようなことを言った。惜しくは無いか、と。長年続いたトルエの名を、己の代で消すことに未練は無いかと」
 「……」
 「トルエと言う冠を被ろうと被るまいと、その『国』に住む人々には、ほとんど関係の無いことではなかろうか。上に立つものが誰であろうと、男だろうと女だろうと、美しかろうと醜かろうと、そんなことはその『国』で日々を暮らす人間にとっては、どうでも良いことなのだ。わたしは……、長くあちらこちらを見聞きする機会に、図らずとも恵まれた。そして今ではそう思う。彼らに必要なのは、ただ安定した生活の保障と、少しの喧騒と……日常の幸福。例えば子供が生まれたとか。素敵な相手に恋をしたとか。美味いものを食べた、美味いものを飲んだ、賭け事で巧いこと儲けてやった、その程度だ。トルエの領土が広がろうが狭まろうが、彼らには関係が無い。仮令わたしの首が転がろうと繋がっていようと、その実彼らには関係の無い話なのだ。彼らを取り仕切る施政者が、わたしでもエスタッド皇でも、そんなに関係の無い話……なのだ、おそらくは」
  そっと伏せられた瞼を上げて、キルシュは真正面から夫人を眺めた。
  黒ビードロの瞳。
 「わたしがそんなトルエに出来ることは、ただ一つ。そんな彼らの小さな幸せを、なるたけ壊さないようにするくらいだ。トルエがいずれエスタッドに吸収されようと、彼らの幸せはおそらく無くならない。エスタッド皇は民の幸せを判っておられる方だ。わたしはそう感じた。しかし……ハルガムント侯爵夫人、貴女からは騒乱と血の臭いしかしない。滅びかけているアルカナと、ラグリアの後ろ盾を頼むハルガムントに、民の幸せは……守れない」
  そして、
 「不幸にすると判っているものの手に、わたしはトルエを委ねる気は無い」
  きっぱりと言い切った。
  聞いた夫人の顔が歪む。
 「取引したくない、と言うことかい」
 「取引」
  眉をひそめてキルシュは夫人を睨みつける。
 「首筋に刃を突きつけての取引なぞ、聞いたことが無い。わたしが拒もうものなら、この身をアルカナ軍にでも差し出すつもりなのだろう?大将軍への手土産にでもするか」
 「ハルガムント侯爵家はエスタッドとアルカナ、そうしてラグリアの中立を、」
 「中立、と」
  夫人の言葉を遮って、キルシュは鼻で笑った。
 「中立。そう言われたな」
  語気が強い。
  目には炎が宿っている。
 「……」
 「今さら貫く中立とは、如何なるものか」
 「……」
 「こなたの生まれはアルカナと聞き及んでいる。そのこなたが、中立に立つと言うことは、事実上アルカナ派に回るも、同じことなのではないか」
 「……」
 「この乱世。ただ数年、泳ぎ渡るのも並大抵の苦労ではない。こなたの立場の言い分も、わたしの立場の言い分も、相容れぬ部分はあるのだろう。……だが」
  そうして不意にキルシュは立ち上がった。
  立ち上がり、侯爵夫人に対面する。
  凛と立つのは公女だ。
  勢いに呑まれ、ハルガムント侯爵夫人は数歩、にじり下がる。
 「アルカナよりいくら貰ったのか知らぬが、それなら向こうへ付いて戦え!」
 「……」
 「中立だ、平和主義だと誤魔化さず、正々堂々真正面から戦え!」
  トルエ公国21代目領主は、そう言った。 


乱心 / 後編へススム
公女と参謀にモドル
最終更新:2011年07月21日 21:00