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歩く百科事典とは、よく言ったモンだと思う。
呼吸困難になって痙攣し始めている小さな女の子を見ても、シラスはまったく慌てるだとか、うろたえることがなかった。
「湯。沸騰したヤツ。あと針。治療用のがなけりゃ、縫い針でもいい。それと手ぬぐいをたくさんと、ああ……、敷布の替えもか。今すぐ用意しろ」
そう言うと、女の子をシーツごとベッドから床の上におろし、着ていた寝巻きを脱がせて傷を調べる。
……ヒドイもんだった。
噛まれたと言う腕は三倍くらいに膨れ上がって、その腫れが首や胸にまで及んでいる。
真っ赤と言うよりは全身紫色で、特に噛まれたと言う腕の辺りは、紫を通り越してドス黒かった。
「何かすることある」
「そうだな……暴れると思うから、抑えていてくれるか」
言われてボクは、女の子の細い手足を床へ押さえつける。
その間に懐からナイフを出していたシラスは、テーブルに燈してあったロウソクの炎でナイフの刃を焼くと、ためらいもなく女の子の傷口にあてがった。
ぐ、と押し込むとすぐに柔らかな皮膚は傷ついて、タラタラと黒い血が流れ出す。
「うえ。黒い……」
「幼生のバブーンの中には、そこらのヘビ顔負けの毒を持っているやつも多くてな」
「毒の牙か、爪でもあるの?」
「体液そのものが毒化してるんだ。普通は成長するうちに次第に薄れていくんだが、エサ内容によっちゃいつまでも猛毒を保持できる固体もある」
「エサ」
「野生の食物じゃない場合が……まあ、多いか」
言いながらシラスは器用に、女の子の腕の根元や足の根元を手ぬぐいで固く縛って、
「ちょっとエグいぜ」
「エグ……?」
何を言ってるんだと首を傾げたボクの前で、運ばれてきた縫い針を数本手に取り、ブツブツと何かを呟く唇に当てると、それから、
「うぅ」
腫れあがっている体の中でも、特に真紫の部分のあちらこちらに、糸穴が見えなくなるんじゃないかってくらい深く、縫い針を差し込んだ。
ボクは目をつぶる。
魔法介護士志望と、僧侶見習いだけあって、ボクだってそれなりな治療の現場を見てきてる。
ちょっとやそっと血が流れた、足が切れた程度では貧血を起こさない耐性はある。
しかし痛い。
これは痛い……。
それでも元来の好奇心と知識欲のほうが僅かに勝って、眉をしかめながらボクは思わず目を開いてしまった。
「ひー」
縫い針を刺すからエグいと、シラスは言った訳じゃないと、ボクはようやく気付いた。
差し込んだいくつかの針が、体内で赤く光っている。
その針の下に何かが押さえられているように、針がモコモコと動きながら、ゆっくり、持ち上がってくるのだった。
何かが抑えられているように。
「何。何コレ」
床に押さえつけている女の子が、うう、ううと奇声を上げながら身もがく。
激痛が走っているのが、その表情から判った。
「ねぇちょっと。何コレ。何なのコレ。」
「――落ち着けよ。どうってコトじゃあない。体内に寄生してるヤツを燻り出しているんだ」
「寄生……燻り……?」
さすがにコレは、医者じゃできねぇなあ。
そんなことを呟きながら、シラスは手にしていたナイフを自分の手首に当てると、
「シラス……ッ」
かなりざっくりと、切り込んだ。
途端に、ばたばたと床の上に鮮血が飛び散る。
ボクは思わず、女の子を押さえていた手を放しそうになって、
「レイディ。押さえてろ」
低い声に、慌ててもう一度押さえる腕に力をこめた。
腕が震える。
切り込んだ腕を、シラスは無造作に女の子の上に振りかざして、もう一度、
「――」
ボクの耳には聞き取れない、何かとても難しい呪文を呟いた。
わっ、と。
手品でも見てるんじゃないかと思うほど鮮やかだった。
まるでカスミ網のように血液が宙に広がって、モコモコと揺れている各縫い針の上に取り付く。
すると、縫い針の下から、えらくおぞましい、ぶっといミミズのような、ヘビのような、頭がどっちなんだか判らない、ニョロニョロした生き物……虫?が、赤いカスミ網に捕らえられて出てきたのだった。
「うぇあ」
今度こそ無意識にボクは腕を放してしまった。
と言うか、二、三歩後退する。
部屋から逃げたい気持ちでいっぱいだ。
ありえないだろこの生物……。
「アデリナ!」
のけぞりかけたボクの耳に、オバさんの悲鳴が聞こえて、ボクはなんとか、裸足で逃げ出したい気持ちを押さえ込んで顔を上げた。
顔を上げて、驚く。
女の子が、安らかに――実に安らかに、寝息を立てて眠っているのだ。
肌の色も、きれいなピンク色で、さっきまで死にかけていたのがウソみたいなんである。
腫れあがっていたのが、幻なんじゃないかと、一瞬ボクは思った。
アデリナ、アデリナ。
顔面、涙なんだか鼻水なんだか判らないオバさんが、愛おしいものを触れる手つきで何度も何度も、女の子の頬を撫でさする。
ああ。
お母さんなんだな。
ボクはなんだか、ほっとして、
それと同時に嬉しいような悲しいような、羨ましいような
切ないような、
何とも言えない気分になって、つい顔を横に背けた。
「……ってちょっと!」
ばたばたと。
カスミ網を握っている(この際、網の中は注視しないことにする。気持ち悪いから)シラスの腕から、未だ勢い良く鮮血が迸っていて、
「キミ、止血!早く止血!」
つい一瞬前の、なんだか良くわからない感慨もどこかに吹っ飛び、ボクは慌ててシラスの腕に飛びついたのだった。