メロー・バルニコフ
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メロー・メジドヴィチ・バルニコフ (ロシア語:Меллоу Междович Барников、アディゲ語:БарнӀык Мэллъоу Мэждо ыкъор、ロシア語ラテン翻字:Mellou Mezhdovich Barnikov、1976年11月4日 - )は、
北カフカスの政治家、元劇作家、元著作家。北カフカス第7代大統領。
メロー・バルニコフ Меллоу Барников
2022年 撮影 |
北カフカス連邦 第7代 大統領 任期 2022年6月10日 - |
出生 1976年11月4日(46歳) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト社会主義共和国 マイコープ (現アディゲ共和国)
政党 無所属、国民の友(2019 - )
出身校 ロストフ国立大学(現南部連邦大学)
前職 劇作家、著作家
配偶者 スヴェトラーナ・バルニコワ
宗教 イスラム教スンナ派
署名 |
略歴
1976年、ソビエト連邦・ロシア社会主義共和国南部、アディゲ自治州の主要都市マイコープに生まれる。
現在のロシア連邦・ロストフ州に位置するロストフ国立大学(現南部連邦大学)で経済学の学位を取得し、経済学者への道を進もうとしたが、結局劇作家の道へ進んだ。
その後、北カフカス紛争終結後に帰還した地元でキャリアを積み劇団を組織し、自身も俳優として活動した。2003年に発表された戯曲『雪解け水』は国内外で有名になり、主に旧ソ連諸国ので上映された。並行して、著作家として執筆業にも注力し、アディゲ語の書物をロシア語に翻訳するなどを行った。
2006年9月、発表した戯曲『首のない鳥』が政権を批判したとして逮捕され、同年12月に投獄された。2008年2月に釈放されたものの、当局により創作活動は禁止され、監視がつく中で半ば自宅軟禁のような生活を送った。
2010年に創作活動を再開し、反体制派の文化人の一人とみなされるようになった。
2019年7月に政党『北カフカス行動党』を劇団の同僚と共に立ち上げた。党名は翌年3月に『国民の友』と改名された。
2020年4月に連邦最高議会選挙では多くの候補を自党から擁立。政府による逮捕以降、政治的アウトサイダー・また反露派とみなされていた彼はポピュリストとして人気を誇り、選挙では同党から過半数以上の議員を選出する大勝利を収めた。但しバルニコフ自身は2022年の大統領選挙に出馬する意向であったため、あくまで議員としての出馬はしなかった(北カフカス憲法では大統領と連邦最高議会議員は兼任できない)。
2022年の大統領選挙に出馬し、68.16%の得票率で当選した。
2022年6月10日、第7代北カフカス連邦大統領に就任した。
呼称
アディゲ語読みはメロー・バルニク(アディゲ語では姓は名の上にくるため、厳密に言えばバルニク・メロー)。名はメロウ、姓はバーニコフもしくはバルニクと呼ばれることも多い。
日本では「バルニコフ大統領」という表記が多い。
来歴
生い立ち
1976年11月4日、ロシア・ソビエト社会主義共和国(当時)のマイコープにアディゲ人として生まれた。父のメジド・バルニコフはソヴィエト科学アカデミー会員の地質学者で、母はエンジニアだった。父の仕事の関係で、幼少期の3年間をロシアのカザンで、4年間をウクライナのドネツクで過ごした。更に9歳のころにはロシアのロストフ・ナ・ドヌに移り、以降長きにわたって同地で暮らすことになる。祖父のラムザンは共産党員であったが、大粛清に巻き込まれ親戚の多くを失った。
子供の頃から芸術に興味を示し、10代後半にはロストフ州の劇集団『RAMT』の演出に度々参加した。学業面ではロストフ国立大学で運輸経済学を専攻し、大学卒業後経済学者を目指すものの修士号取得に失敗。以前から興味があった劇作家の道を選んだ。
歴史的にチェルケシアと呼ばれた地域出身のために母語はアディゲ語。ただし両親の教育方針もあってロシア語にも堪能で、幼少期よりロシア語とアディゲ語の2言語を操ることができた。政界進出以降、公の場ではロシア語を話すことが多くなったが、場合によっては通訳を介さず英語で話すこともある。
劇作家としての活動
「雪解け水(英語版)」も参照
2002年に撮影された写真
1996年に大学卒業後、ロストフにてRAMTの下で演出家として働いた。翌年からは劇作家としての地位を与えられ同劇団に作品を提供した。
1998年にRAMTでの職を辞し、情勢が安定した祖国北カフカス連邦に帰国した。同年より故郷マイコープの劇団『アスラニ』で劇作家として勤務し、同時に著作業も開始した。アスラニ時代、彼は持ち前の明るい人柄と創作の才能を生かし、アディゲ共和国立楽隊指揮者(当時)で、指揮者として当時から名高かったトゥガン・ソヒエフや、後に劇団の同僚かつ政治家として内務大臣となるマゴメド・アリエフらと人脈を築いた。アスラニ時代の代表作は『枯れた嘶き』が挙げられる。
著作家としてはシェイクスピアなど演劇の歴史に関する著作を多く行ったほか、アディゲ語の書物をロシア語に翻訳する翻訳業も多く行った。
2001年にアリエフらと共に劇団『ロボドニ』を創設、代表となった。同時に、役者としてもそこで活動した。ロボドニは当初より高く評価され、自ら演劇を上映しただけでなく、各地の劇団にも脚本を提供し、更にテレビ方面にまで手を伸ばすほど成長した。2003年に代表作『雪解け水』は大ヒットを飛ばし、全国の劇場で上演されたのみならず、各テレビ局もこぞって放映権を獲得した。海外では主に旧ソ連諸国に広がり、時のロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは「多くの感動的で華やかな宝石も、この作品には比肩しうることなどあり得ない。」と絶賛した(皮肉なことに、バルニコフとプーチンは政治家としてのちに対立することとなる)。
政府批判と逮捕
創作活動と並行して、バルニコフは不安定な状態が続く北カフカス社会への問題提起も行っていた。強権的な手法で民衆を弾圧し、ロシアに追従を強めるランキン政権には否定的で、知名度を持つロシアでの反発を恐れず、度々これを批判していた。
2006年8月、バルニコフは戯曲『首のない鳥』を発表した。この戯曲は同年9月3日に上映されたが、劇中で当時の北カフカス連邦大統領セルゲイ・ランキンや首相キリル・ポノマレフ、国営テレビの司会者だったヴェーレ(レフ・スヴェーレフ)らを「狂った鳥の頭」、「ロシア領北カフカスの総督」、「北カフカスのゲッペルス」などと揶揄したことが話題となった。この表現は政府による言論統制と、与党北カフカス人民党の一党独裁への反対として盛り込まれた。これは大きな反響を呼び、批評者の中には「勇気の作品」と高く評価する者もいた。しかし上映の2週間後の17日、バルニコフの影響力の大きさを危惧した北カフカス国家治安部隊(ミリツィヤ)に、バルニコフは逮捕された。
バルニコフは「個人への根拠なき悪評の流布」と「国家の安定を著しく失わせる行為」によって有罪と宣告され、12月にマイコープ刑務所に投獄された。翌年4月には釈放されたものの、8月に再び逮捕。再度の投獄ののち翌年2月に釈放されたが、当局から要注意人物としてマークされた。
彼は当局より2年間の活動禁止を言い渡され、ミリツィヤから監視を受けつつ半ば自宅軟禁のような生活を送った。当時について、バルニコフは「灰色の日々」と述べている。
2010年に活動禁止が解除され、ロボドニに再び復帰。彼は復帰するやいなや当局に監視される日々を描いた『開かれた檻』を出版し、これが国内で大反響を呼んだ。以降、バルニコフは優れた劇作家としてのみならず、反政府派の知識人の代表とみなされるようになった。
政界へ
「国民の友」も参照
新党結成
国民の友 Друг народа
党首 オクサナ・プロホロワ
創立 2019年7月30日
旧名 北カフカス行動党(ПДСК)
本拠所在地 クラスノダール
政治的立場 中道、反露、反汚職、欧州統合主義
連邦最高議会 60/110
地方の首長 159/68,399
公式サイト Drug_naroda2022 |
随筆『開かれた檻』の流行によって、国民の間ではバルニコフを権力への反抗者として、現実の大統領選挙への出馬を期待する動きが起きた。2010年の復帰後よりバルニコフはより政治色を強め、2015年反政府デモでは反政府団体「全カフカス人民連合」の支援を公にしていた。北カフカス大統領府長官でバルニコフの友人・ロボドニの法律顧問弁護士であったイヴァン・コンドラチュクによれば、「彼(バルニコフ)は出馬を最後まで決めかね、2019年の大統領選挙では不出馬に終わった。彼は最後まで悩んでいた。」と、バルニコフ自身は政界進出に乗り気でなかったようである。
2019年7月22日、バルニコフは政界進出を発表し、翌年の連邦最高議会選挙に参加する意思を表明した。7月30日にはアリエフやコンドラチュク、オクサナ・プロホロワらロボドニの同僚と共に新党「北カフカス行動党」を創立した。議会選挙までの間に、この政党にはのちの外務大臣エヴフィミヤ・ティマコワらが入党した。
2020年の連邦最高議会選挙には過去最多となる21党もの政党が乱立しており、有力政党が与党の北カフカス人民党と、南部で強勢を誇る輝く祖国党、貧困層からの支持を集める北カフカス共産党に、カフカス地方の平和のため党という、北カフカス政界の混沌を現した状態となった。そうした中、バルニコフは密かに権力闘争で内部崩壊の危機にあったカフカス地方の平和のため党党首のルスラン・マフメドフと会談。カフカス地方の平和のため党を北カフカス行動党に合流させ、新党「国民の友」を作ることで合意し、大量の有力な候補者を確保した。結果的に国民の友党は実質二党を兼ねる状態となり、選挙で60議席という過半数以上を占める圧勝を収めた。
但し、憲法の規定により議員と大統領の兼任ができないことから、バルニコフ自身は2022年の大統領選挙を見据えて出馬は見送った。議会において事実上の与党となった国民の友党は反ロシア・民主化政策を推し進め、2021年8月にはあらゆる言論規制の撤廃が議会で可決された。
大統領選挙
北カフカス大統領選挙の決選投票の勢力図。緑がバルニコフ勝利地域、赤がコルニエンコ勝利地域。バルニコフは東部と南部で得票率が高い。
詳細は「2022年北カフカス大統領選挙」を参照
2021年12月、バルニコフは期待に応えて翌年2022年の大統領選挙への出馬を表明した。
内政面では最優先に「反汚職」を掲げ、税金の浪費を止めることを公約している。外交面では旧来の極端なロシア追従外交に反対し、ロシアへの武器供与の即刻停止を公約している。
2022年の4月に行われた調査では、輝く祖国党のイリヤ・メリコフに次ぐ9%の支持を獲得して現職のクヴァーリンを上回った。選挙戦本番直前でクヴァーリン大統領が暗殺される事件が起きると、後任のボリス・イーギンが巻き返しを図ったが、それを上回る勢いで草の根での支持が広がって最有力候補に躍り出た。次いでイーギンは失言事件を起こし、選挙戦から脱落した。2022年5月25日、第一回投票で北カフカス共産党のヴィタリー・コルニエンコ(15.8%)、メリコフ(10.2%)の両名を大きく引き離してバルニコフが28.1%の得票を得た。単独過半数には届かなかった事から、決選投票で2位のコルニエンコと争う形となった。
決選投票では『首のない鳥 2』と題して、支持者に投票を呼び掛けるキャンペーンを行った。相手候補のコルニエンコが共産党党首であったことから、バルニコフは「祖国の赤化」の危機感を煽り立てた。決選投票を前にしてもバルニコフ支持の勢いは留まらず、むしろ勢いを増して日を追うごとにコルニエンコとの差を付け、世論調査での支持率は50%以上に達すると見られている。6月4日、投票日を翌日に控えて臨んだコルニエンコとの生中継討論会で、バルニコフは勝利を確実にしたと言われる。コルニエンコがバルニコフを「人種差別主義者」と非難し、わざとウクライナ語で討論を始めると、バルニコフはドネツク時代に身に着けた流暢なウクライナ語を披露しスタジオを驚かせた。
6月5日、出口調査の段階でバルニコフが60%以上を得票し、圧倒的な大差を付けて大統領に選出される事が確実となり、コルニエンコは敗北を宣言した。イングーシ自治州とクラスノダール共和国のみでコルニエンコ氏に敗北したが、それ以外のすべての共和国で勝利した。
大統領就任
2022年クリスマスの演説にて
2023年北カフカス独立記念日にて、妻スヴェトラーナと娘と共に
2022年6月10日、大統領就任。北カフカスの政治史では、往々にして新たな大統領は就任後しばらく自派が少ない議会に手を焼いていたが、2020年連邦最高議会選挙で国民の友党は過半数を占めていたため、バルニコフは議会を最初から味方につけることに成功した。
圧倒的な支持の下で、バルニコフは国政改革を断行。国務大臣を総入れ替えし、就任から2日後にはリュドミラ・ゴリコワ検事総長の辞任を要求するなど徹底的に前政権色の払拭を行った。前々から公約に掲げていた汚職対策としては、議会に汚職対策委員会(ФАК)を設置し、オリガルヒの規制を行った。バルニコフ政権下で議員の免責特権は廃止され、汚職疑惑があった議員数名について告発が行われた。
このような政策は西側諸国から一定の評価を受け、2022年11月にはアメリカ合衆国国務省が北カフカスについて「未だ未熟ではあるものの、法律主義や経済において健全化がなされようとしている」と評している。
このように良好な出だしを切ったように見えたバルニコフだったが、早々にロシア問題に足を取られることとなる。7月9日にバルニコフは前政権が承認していたロシアへの重火器提供を中止し、既に提供した重火器のうち未使用のものについてロシアに返還を呼びかけた。しかしこの呼びかけはロシア政府から反発され、拒否されたのみならず国内の親ロシア派、とりわけ北カフカス人民党に猛反発を受けた。
11月2日、ロシアとの国境検問所にて、ロシア連邦軍への動員を逃れるために入国しようとしたロシア人男性ら4人がチェチェン人の国境警備兵に射殺される事件(モテリ・ポリャナの銃撃事件)が発生すると、バルニコフはロシア政府の賠償を求める抗議に直面した。バルニコフは検察が発表していた、「被害者は銃を持っており、発砲しようとしたため警備兵が自衛として発砲した」という見解を支持し、賠償に応じない姿勢を示したため、ロシアから猛烈な抗議を受けた。2023年1月5日に親ロシア派の武装した集団が連邦最高議会を占拠し、バルニコフら政府関係者と議員が議会中で包囲される事件が起きた。バルニコフは無事だったものの議員3人が死傷し、大量の死者を出す騒乱となった。
このような状況の中でもバルニコフは反ロシア政策の推進を止めず、2023年中にウクライナ侵攻においてロシア軍の補給線となっているタマン半島の封鎖を検討するなどしている。
ソユーズ通信の2022年の調査では、北カフカス国民のうち32%がバルニコフはロシアへの強硬策を撤廃するべきだと考えていることが明らかになった。政権支持率はほぼ横ばいではあるものの、民族主義者層から支持を集める一方でロシア系住民などは不支持の傾向が強まっており、明らかな分断がみられる現状である。
政治問題
詳細は「灯火党#政治問題」を参照
クルド難民問題やQアノン問題などを追うルポライターの林賢治やアメリカの政治専門紙ザ・ヒル、独紙ビルトは、北カフカス政府と民族主義的で極右イスラーム原理主義勢力である灯火党等の、「過激思想組織」の存在と関係性をホワイトウォッシュ化する北カフカス政府(バルニコフ政権)のプロパガンダに関して警告している。灯火党はアメリカ合衆国国務省にテロ組織認定を受けているが、バルニコフ政権は同団体に対して規制などを講じておらず、自由に活動しているのが現状である(ただしこのようなことはバルニコフ政権に限った話でなく、クヴァーリン政権やマフメドフ政権でも起こっていた)。
民族主義者の強硬派として目される元軍人のシャミル・バサエフを国防大臣に任命したことは、ロシア政府およびジョージア政府の猛反発を招いた(バサエフは北カフカス紛争と、アブハジア紛争で戦歴がある)。ロシアのテレビ司会者であるウラジーミル・ソロヴィヨフは、「これ(バサエフが国防相に任命された事)は北カフカスが極端な民族主義に走ろうとしているゆるぎない証拠だ」と述べている。なお、北カフカス内務省管轄下の北カフカス国家親衛隊に属する連隊「シャミール連隊」の指揮官を務めているのは、シャミル・バサエフの息子のヌリ・バサエフである。
外交姿勢
アメリカとの関係
ロシアの圧力にさらされる中、アメリカ合衆国からの支持を仰いでいる。かつてのマフメドフ政権のように、バルニコフは北カフカス連邦が北大西洋条約機構(NATO)の一員となることを希望し、アメリカに接近する外交を行っている。2022年9月に訪米し、ジョー・バイデンアメリカ合衆国大統領と会談を行った。会談の中で、バイデンは北カフカスのNATOへの「将来的な加盟」を支持した一方、「国内の不安定な情勢と未熟な統治機構」のために即座加盟は困難を極めると発言したと報じられた。
ロシアとの関係
もともとはロシアに長く住んでいたこともあって強固な反ロシア派ではなく、マフメドフやシュトーケンら他政治家に比べればかなりの穏健派としてとらえられていた。しかし、親露派政権への反対やロシアからの圧力の反動で強硬化せざるを得なくなったとされている。バルニコフはヴォルゴグラード条約の結果として国内にロシア軍が駐留することは「動かしようのない事実」として容認する一方、「北カフカスの国土をロシアの広大な軍事基地にしてはいけない」とも述べている。
2022年6月30日にはロシア連邦のプーチン大統領と電話会談を行ったが、詳しい内容は明らかにされていない。
中国との関係
貿易額は急速に増大しており、2022年において、輸出入とも中国が最大の相手国となっている。国交樹立23周年に当たる2022年10月には、習近平国家主席(党総書記)と祝電を交換した。
2022年12月、中国企業に買収されていた多数の軍需企業を国有化した。
逸話
クバン・スタジアムにて
- クラスノダールに本拠地を置くサッカーチーム「FCクバン・クラスノダール」の熱狂的ファンであり、休暇の際には必ず観戦を行っている。
- 「ミーム文化」の愛好家であり、個人のツイッターアカウントではよくミーム画像を交えてジョークを飛ばしている。
- 劇作家時代、演劇批評をしたことがあり、その際アレクサンドル・タラソフの演劇を公に酷評した。一方のタラソフはロボドニの公演でおおっぴらにヤジを飛ばすなどの挑発を行った。このことからタラソフとは犬猿の仲であり、現在に至るまで和解をしていないという。
- 『首のない鳥』で「北カフカスのゲッペルス」と揶揄したテレビ司会者のヴェーレとは2015年に和解している。以降、彼等は友人として度々SNSに露出している。
- 現在ロボドニの代表を務めているエフィム・アブリコーソフとは大親友であり、家族ぐるみの付き合いがある。
家族
妻スヴェトラーナとの間に、一男一女をもうけた。
著書
- 開かれた檻
- ウィリアムの戯曲哲学
- 1995年 - ドネツクでの19歳
関連項目
- 北カフカス
- 北カフカスの大統領
- スヴェトラーナ・バルニコワ
最終更新:2023年01月21日 21:03