ふと目の前に視線をやると、細く区切られた空が白く浮かんでいるように見えた。
黒とも見紛うほど濃い緑色を纏った針葉樹が連なり、先が見えない。
鍛えられているとはいえ女である己の細腕では抱えられない太さの幹を持つ、
首をそり返すまで見上げなければ天辺が見えないほどの巨木ばかりが並んでいる。
「ここは」
思わず漏らした声の高さに驚愕する。
それは童女のような、否、確かに今の己は童女だった。
あっ、ともう一度声を上げ、信じられないと声を殺すように紅葉のような手で口を押さえた。
白にすずらんを散らした丈の短い着物は、確かに遠い昔に母に縫ってもらったお気に入りのものだった。
頭に手を遣れば、髪はざんばらではなく腰まで真っ直ぐに伸びている。
ご丁寧に藍色の花飾りの付いたかんざしまで添えられ、まるで記憶の底を眺めているようだ。
己の格好とは裏腹に浮かぶのは郷愁ではなく、早鐘のような鼓動を伴う焦燥。
汗を攫うような涼しい風が木の間をゆっくりと後ろへ走っていき、思わず身震いをした。
(この先に)
息を呑む。
(なにか、ある?)
ひどく現実感の薄い光景、頭に霞のかかったような感覚が判断力を鈍らせる。
黒く染められた視界の向こうには確かに見た覚えのあるなにかがあるはずなのに、
それを「これだ」と認識することが出来ない。思い出そうとすることすら億劫だと感じた。
それでも、立ち止まっている事は更に恐ろしく感じた。
何かに突き動かされ闇に手を引かれるように、意識していないに近い状態で足を動かした。
少しずつ晴れてきた視界は、やがて妻入の建物を木々の向うに見せ始めた。
屋根の三角形を為す面、棟と入り口が一体化している神社の建築様式だ。
木々の間に立つ社は以前は色鮮やかだったのかもしれないが、長い年月を経た今は白く変色していた。
歩いてきた道のりがどれくらいの長さだったのかは短くも長くもはっきりせず、再び汗が肌に滲んだ。
(汗?)
ふと気付いた。今は、この景色は夏の風景だ。
それなのに蝉時雨のかけらも、それどころかほんの少しの羽音すらも耳に届かない。
寒くないのに肌が粟立つ。息は弾んでいるのに、視界の端に移る己の手は痛いほど握り締めて白くなっている。
「父様」
先ほどとは違い、勝手に声が唇から零れ落ちる。
(そうだ、これは)
どくん、と五月蝿いくらいに心臓が跳ね始めた。頭の中の霧が晴れ、何かを思い出そうとしている。
「母様っ」
搾り出すような声は懇願じみた叫び声に変わり、いつのまにか止まっていた足が走りだした。
(やめろ、そっちに行くな)
小さな足が地面を叩き、必死になって社の方へと向かっていく。
木造の階段を登り、色の失せた観音開きの扉に手をかける、いや、手がかかる。
あけるよりも先に一陣の風が吹き、髪と着物の裾を巻き上げた。
びくり、と小さな体が震えて扉から手を離す。まるで、扉の向うの何かを恐れるように大気が張り詰めた。
(いやだ)
かすかに頭に何かが浮かぶ。それを想起してはならないと自分の中の誰かが叫ぶ。
それなのに、己が宿る少女は再び戸に手を添えた。
(あけないで)
頭を抱えて転がりまわりたいような不快感が広がる。目の前の光景を否定したくなる。
そんな己の感情を拒否するかのように、扉はその内に隠さんとしていた内腑を見せ付けた。
「ああ、誰かと思ったら」
優しい、懐かしい声が耳に触れた。耳障りが良くいつも穏やかな、一番大好きな声だった。
「はぐろ。社に近づいてはいけないといつも言っていたのに」
烏帽子と真白い狩衣に身を包んだ体躯はずっと背が高く、顔を見上げるのは大変だから、
いつもわたしと話すときは屈んで目線を合わせてくれて、それが少し嬉しくて少しいやだった。
「仕方がないね。はぐろ、おいで。もう全て済ませてしまおう」
いつもと変わらない雰囲気に混じって、轟音が鳴るように頭の中に衝撃を走らせるものがあった。
血の匂いだ。
(あ、ああ)
狩衣は袖と袂をぐっしょりと血に濡らし、粘液混じりのヒトの内容物がその足元にまとわり付いている。
「父上と母上は私の考えに賛同してくださらなかった。仕方のないことなんだよ」
鼻にかかったように甘い声は脳の動きを鈍らせ、心安らかな気分の中に意識を押し戻そうと執拗に迫る。
下を見たくなかった。けれど、彼の者の手が床の一点を指してしまったが故に、反射的に目を向けてしまった。
蛆が集り胸の内側をひっくり返すような不快感を催す異臭を放つ肉の山。
壁にまで飛び散り張り付いた目玉は半分を潰しながらもこちらを見ている。
既に形を無くしているもの、大まかながら元々の輪郭を忘れずにいるもの、片手を超える数が詰まれていた。
そして、その上に折り重なるように。
「とう、さ、ま?」
まだ新しい、先ほどまで確かに体温を保ち表情を変えていたのだろうものが二ツあった。
一つは艶やかな髪を腐汁で濡らし、鮮やかな着物をどす黒い赤の一色に染め上げている。
一つは本来ありえない方向に腹から先を曲げ、苦悶に満ちた表情で床板に頭をめり込ませている。
足は動かなかった。
確認したいと思いながらも、確認してしまったら目の前の光景を肯定してしまう、それを拒絶したかった。
はぐろ。
けたたましいほどの耳鳴りのために既に聴覚は使い物にならなかったが、唇の動きだけでそうと知れた。
柔らかな微笑の主はわたしを呼び、ゆっくりとした落ち着きのある足取りでこっちに近づいてきた。
血にまみれた手がわたしの頬をそっと支え、いつものように屈んで私に視線を合わせた。
「『兄さま』」
恐れとも喪失感ともとれない奥底で渦を巻くような感情が、細い声を更に掠れさせた。
兄様はそのまま慈しむようにわたしの頬を撫でると、ほんの少しだけ寂しそうな色を顔に浮かべた。
不意に視界が反転する。
顎を下から指で押さえられて上を向かせられ、首筋が顕わになって寒気が差すのを感じた。
季節は夏のはずだというのに、この社の中は腐った肉が熱を持っているはずなのに。
兄様の周りはまるで氷のように冷たく、それなのに、空気が密度を持ったように肌に張り付いた。
細い面が肩の上へと移り、唇がすりあわされるようにひたりと首に触れる。
ぶつん。
何かが首筋を突き破るような感覚を微かに覚え、そして――――。
「っは」
水の中から上がったかのように、肩で息をして必死に酸素を取り込んだ。
最初は薄闇が視界全体を被っていたものの、次第に天井と壁の境すら見えるようになってきた。
(夢、そうだ。あれは夢だ)
なんとか呼吸の間隔を整えようとしながら、頭の中に残った不快感を振り払う。
ここは自室だ。マンションの一室に無理矢理畳を引いたつくりで、比較的夏でも涼しくなっている。
少なくとも今が危険のない己の部屋だと分かると、抑えられていた嫌悪がどんどん心に染み出してきた。
襦袢は汗まみれで居心地が悪く、短い髪が頬に張り付いて気持ち悪い。
(どうして、今更あんな夢を)
握り締めた袂は夢の中と同じ白色で、汚らわしいように思えて片膚脱ぎに袖を肌蹴る。
酸素が足りずに痛む頭を押さえ、深く溜息をついて気分を落ち着けた。
窓の外にはめ込んだ障子の向うに、爪ほどに細い月が笑っている。
了
最終更新:2013年01月09日 20:31