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メロディの王様・ドヴォルザーク ε=ε=ε=(ノ≧▽≦)ノ

 音楽の三大要素は

 メロディ
 リズム
 ハーモニー

 と言われます。

 一流と言われる作曲家ともなれば、当然このバランスを巧みに操ってくるのはお手の物ですが、それぞれの嗜好や得意分野といったものもあります。

 かの偉大なモーツァルトさんは

 「メロディこそ、音楽の真髄です」

 と言われたそうですが、僭越ながらこれにはワタクシも諸手を挙げて同感いたすところです。

 音楽史に残る偉大なメロディメーカーといえば、このアマデウス様を筆頭にチャイコフスキー、メンデルスゾーン、シューベルトなど数え上げていけばそれこそキリがありませんが、その中でも「メロディ(創り)の王様」と称されるのが、チェコの産んだ偉大なドヴォルザークさんです。

 一流の作曲家にも、美しく魅力溢れるメロディを生み出すのが得意な「右脳派」の人や、メロディよりも論理的な楽章構成に力を発揮する「左脳派」と様々なタイプ分けが出来ますが、ドヴォルザークさんの場合は典型的な「右脳派」の人で、構成は苦手と言われながらも、メロディ創りに関しては魔法使いのように、次々と斬新かつ素敵なメロディを編み出してきた人です。

 まだ殆んど名が売れていなかった頃の、ドヴォルザークさんの才能に逸早く着目したのはブラームスで、ハンガリー民謡にテーマを採った自らの『ハンガリー舞曲集』の成功を踏まえ、スラブ系民族であるドヴォルザークさんにインスピレーションを与えるや、忽ちにして稀代のメロディメーカーは『スラブ舞曲集』という、素晴らしい連作曲集を編んでしまいました。

 こうしてブラームスによって、一流作曲家として道を拓かれたのを切っ掛けとして二人の親友関係が始まりますが、ドヴォルザークさんの仕事場を訪ねる機会が多くなったブラームスは、或る時何気なくゴミ箱に山と詰まれた失敗作を漁り、クシャクシャになった五線譜を伸ばして目を落として、ビックリ仰天してしまったそうです。

 そこには、メロディ創りの不得手なブラームスには涎が出そうな美しいメロディの数々が、いとも惜しげもなくゴミとして捨ててあったからでした。

 「ああ・・・私ならばドヴォルザークのゴミ箱から、幾つもの名曲が創れるのに・・・」

 構成には大いに自信のあるブラームスがここを訪れる度に嘆いて見せた、というエピソードは良く知られています。

 要するに、美しく魅力的なメロディなら幾らでも造作なく産み出せるものの、それを元に音楽として構成していくのはあまり得意ではなかったドヴォルザークさんに対し、楽想創りに散々苦心しつつ得意の構成力にモノを言わせて、つまらないメロディを全体でカバーしながら魅力的に見せるのが得意だったブラームスという、まったく対照的な二人が互いに自分に欠けた才能を認め合ったからこそ、良い関係が長続きしたものだともいえるでしょう (*゚ー゚)(*。_。)

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  • 43

disc選びの難しさ(後編) (´-ω-`)うーん

 ところがえてして初心者に限って、知識が少ない分だけ「ネームバリュー」とか「値段」に拘るようなところがあって、とにもかくにも名の通った指揮者や演奏者のものや、「値段が高いからいいものに違いないだろう・・・」とばかり無理をして高いものを買う傾向があるようですが、ワタクシの経験上ではそういった事は、殆んど関係がないように思えます。

 ショップに並んでいる1000円程度の廉価版にも案外の掘り出し物や、充分鑑賞に耐えうるマトモなものは沢山ありますし、逆に3000円以上もするような高価な部類にカテゴライズされそうなものであってもロクデモないものもあるわけで、こうした事から考えても高価なものやネームバリューをありがたがって選ぶのは、あまり感心したものではないでしょう。

 ワタクシの持論では、ビギナーのうちから(経済的に、かなりの余裕がある人は別として)無理をして高いものに手を出す必要などは毛頭なく、廉価版でともかく数をこなして知識と勘所を積み上げていくに尽きる、と言えるでしょう。

 そして理想を言うなら、例えばベートーヴェンの『第9』を聴く場合には同じ『第9』のディスクを指揮者や演奏者を違えて最低2~3種類を購入して聴き比べてみると、3種類購入すれば三通りの『第9』があり、それぞれが随分と印象が違ったものである事が身をもって実感できるとともに

 (この指揮者のこの部分は、もっとこうした方がいいと思うんだがなー)

 というように自分の好みを演奏家に求めるような、いわば音楽に対する自分なりの「解釈」にまで一歩踏み込んだ聴き方が、生まれて来る事になるわけです。

 そこで、次には三枚の中で特に気に入ったのがあれば、さらにその指揮者の別の『第9』を2枚ほど買って来て聴き比べてみると、同じ指揮者でも収録年代によって随分と曲に対する解釈が変わっていたり、演奏者との相性の良し悪しなどが見えてくるケースもあって一段と面白くなったりしますし、或いは最初の三枚がどれもイマイチだと思ったら、さらに別の指揮者や演奏者のものを更に聴き比べてみると、同じ演奏者が指揮者によって見違えるような演奏をしていたり、といった事にも行き当たるはずです。

 このようにいつも言っている事ですが、Classic音楽を究めるというのはマコトに奥の深いもので、こうして駄作を幾つも買わされるのはその時は随分と無駄に思えて腹立たしいものですが、実は誰しもこうした経験の繰り返しがいい授業料になって、先々においてこれらの経験の積み重ねが勘を働かせるという事もあるように、CD選びにおいてはそんなに効率の良い道はないと思うのがワタクシの結論です ☆ヾ( ̄ー ̄ )

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  • 42

disc選びの難しさ(前編) (´-ω-`)うーん

 Classicに限らずどんな音楽の演奏にせよ、或いは芝居にせよナマに勝るものはないのでしょうが、なにせナマで触れるにはタイミングや資金など、様々な要素が必要となって来るだけに、そうそうチャンスに恵まれる訳ではないのが一般的な日常といえるでしょう。

 (所詮CDやDVDでは、ナマの臨場感は味わえないよ)

 などといった意見も良く耳にしますが、CDの場合は好きな時に自分のペースで聴けるとか、周囲の雑音に気を取られることなく、一人で静かに鑑賞出来るなどの利点もあります。

 ところが、実はClassic音楽の楽しみにおいて、最もやっかいなのがこの「CD選び」であり、真にもってこれほど難しいものはない、と言い切っても過言ではないでしょう。

 ご存じの通り他の音楽ジャンルとは違い、指揮者や演奏者によって同じ曲とは思えないくらいに、とてつもなく違ったものになってしまう事すら珍しくないのがClassic音楽の特徴であり、実際に名曲と言われる曲やお気に入りのハズの曲でも拙い演奏や好みに合わないような演奏を聴いてしまったりすると、それが長い間(甚だしい場合は、一生にも渡ってという可能性も充分に考えられる)トラウマとして残ってしまい、その曲の真価を正しく評価する事が出来ずに終わってしまったり、忘れてしまうくらいにずっと後になってから蒙を啓かれ、後悔に地団駄を踏むというケースは誰しも、何度となく経験しているものと思われます。

 それだけに、この「CD選び」には、一層の慎重さを要するところです。

 いかに有名指揮者やお気に入りの指揮者とはいえ、あくまで演奏は「生モノ」であるからには、たとえ同じ指揮者と同じオーケストラとのコンビの演奏にもせよ、その時々の指揮者のテンションや演奏者の調子などといった、当事者以外には窺い知れぬ諸々のファクターによって、大きく様変わりします。

 その結果が単純に「当たり」、「外れ」という次元から、癖や特徴などの嗜好から見て天地ほどの違いが感じられたりもする事は、過去に沢山のCDを聴きこなして来たリスナーならば、充分にご承知の事でしょう。

 実際、CDだけは買ってきて聴いてみるまではわからない宝クジのようなもので、書物などのように立ち読みをして吟味するというわけにもいかないから、まずはCDにクレジットされている指揮者や演奏者の名前を見て、判断するくらいのところから入るしかありません。

 そのため、過去に何百枚と買って来ているようなベテランでも、いつまで経っても「外れ」のディスクを何枚も買うハメになったりするくらいで、ましてや聴き始めて一年や二年という初心者が、最初から「当たりディスク」を選ぼうという方がドダイ無理無体な要求であるといえます。

 ワタクシ自身を例に挙げて言えば、聴き始めたまだ若い頃に「外れディスク」を続けざまに買ってしまい、貴重な金をドブに捨てたような苦い経験を積みながら少しずつ指揮者や演奏家、或いはオーケストラの傾向をアタマに染み込ませて行き、その中から勘と経験を頼りに、自分好みのものを地道に見つけ出して行く方法に収斂してきていますが、これ以外には未だに効果的な方法というものに行き着いてはいません。

 ところが、得てして初心者に限って・・・

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  • 41

『アルルの女』は素敵です (*゚ー゚*)ポッ

 前回に続き、今回もビゼーさんです。

 前回は『カルメン』について触れましたが、ビゼーさんと言えば『カルメン』とともによく知られているのが『アルルの女』組曲で、オペラ『カルメン』はともかく組曲版としては『カルメン』以上に良く知られている、非常に有名な曲です。

 この曲も元々は組曲ではなく、ドーデ作の有名な劇の付随音楽として作曲されたものですが、珍しく初演から大変評判が良かった事も手伝って演奏会用のプログラムとして、ビゼーさん自身によってチョイスされた4曲で組曲版が編まれました。

 これが第一組曲で、ビゼーさんの没後に友人のギロー氏によって元々の劇音楽ばかりでなく、他の作品からも良いものを寄せ集めた4曲を第二組曲として、付け加えました。

 これが、今日の『アルルの女』第一・第二組曲(全8曲)です。

 8曲総てが粒揃いで甲乙の付け難い名作ばかりですが、圧倒的に有名なのが第二組曲・第3曲の「メヌエット」です。

 この曲は『美しきパースの娘』という別のオペラから転用した作品ながら、この一曲だけが演奏会で採り上げられる事も多いくらいに、群を抜いて有名になっています。

 ビゼーさん自身の選んだ第一組曲の影が薄く、友人ギローの選んだ第二組曲の方が遥かに有名なのも、実のところこれ一曲に負うところが大きいと言っても、過言ではないでしょう。

 ワタクシも、このメヌエットは初めて聴いた時から忽ち虜になったくらいで、その素晴らしさを認める気持ちは充分に人後に落ちないつもりですが、実はワタクシ自身は世評とは反対に第一組曲の方に、より魅力を感じます。

 あの、なんともドラマティックなオープニングを告げる、厳かな感じの前奏曲に始まる4曲ですが、特に好きなのは「アダージェット」と「鐘(カリヨン)」の2曲で、天国とはこういう感じかと思わず想像してしまうくらいに、この世のものとは思えないくらいに美しい第3曲と、カリヨンの厳かな鐘の音色と中間部のメロディが、これまた胸を締め付けられるような第4曲は、何度聴いても心を揺さぶられるものがあります。

 一方、より人気の高い第二組曲の方では「メヌエット」は散々に聴き過ぎたせいか個人的にはやや新鮮味に欠けますが、寧ろややもすればメヌエットの陰に隠れがちになり易い第1曲、第2曲などはそれぞれに魅力的な渋い味わいを持った佳作と言えます。

 第二組曲で最も好きなのは、フィナーレとなる第4曲「ファランドール」で、先に触れた第3曲「メヌエット」の美しいフルートの旋律から一転して、南仏・プロバンス地方の舞曲もかくやと目を見張るようなダイナミズムと、零れるような情熱がはちきれんばかりの音楽が展開され、目くるめくような狂騒に包まれて迎えるフィナーレは『カルメン』も真っ青といった、野性的な魅力を湛えたものです。

 このように、全編を通してビゼーさんお得意の野性味溢れる情熱と、また随所に美しいメロディが散りばめられた組曲の傑作というには並ぶものがないくらいの、素敵な構成が充二分に堪能できます (^ー^)

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  • 40

オペラといえば『カルメン』 ( ̄ー ̄)ニヤリッ

 ジョルジュ・ビゼーというフランスの音楽家の名は知らなくとも『カルメン』を知らない人は、まずいないでしょう。

 そして『カルメン』といえば、メリメ作のストーリーそのものも勿論有名ですが、それに匹敵するくらいか或いはそれ以上といっても良いくらいに広く知られているのが、ビゼーさん作曲の音楽『カルメン』です。

 ビゼーさんの『カルメン』には有名なオペラと、オペラから有名どころを中心に編集した組曲版とがあります。

 Classic音楽の世界では、今でこそ名曲といわれる曲でも最初から大衆に歓迎されるとは必ずしも限らず、それどころか寧ろ初演ではその真価がまったく評価されず、不当に冷遇をされたりするようなケースは案外多いものですが、今でこそ数あるオペラの名作の中でも有数の傑作として、指折り数えられるこの『カルメン』の初演での評価もまた、信じられないくらいに酷い物だったと言われます。

 外国の聴衆は日本人のように大人しくはありませんから、気に入らなかったり期待外れの演奏を聴かされた時には躊躇うことなく口笛を吹いたり、床を足で踏み鳴らしたりしてブーイングの表現を顕わにして見せるそうですが、この時には殆んどの聴衆が一斉にこれを行ったから、会場はたちまちにして未曾有の大混乱に包まれたという事です。

 才能がありながらも、ここまで運に恵まれずに来たビゼーさんですが『カルメン』の出来栄えには、それまでにない大変な自信を持って望んだ初演だっただけに、この思わぬ酷い反応に大ショックを受けてしまい、パリでの初演の3ヵ月後に心臓障害で不幸にも、僅か36歳という若さのうちに亡くなってしまわれたのも、いってみれば「ショック死」という見方も出来るくらいです。

 ちなみに、この皆が狂ったように騒ぎ立てる客席の中で、一人

 「なんて素晴らしい音楽であろう・・・」

 と興奮に身を震わせながら、感動の涙を流したと言われるのがチャイコフスキーで、逸早くこの曲の真価を見抜いたばかりでなく直ぐにこの作品から啓発を受け、自らもオペラ創りに取り組んでいったところあたりは、さすがと言えましょう。

 『カルメン』は、オペラの方は3時間を超える大作だけに、より深く理解するにはストーリーの知識はやはり欠かせませんが、組曲版(第一・第二組曲)の方は全部で30分程度に圧縮されているため、ストーリーを知らない人でも純粋に音楽だけで充分に楽しめる気楽さがあります。

 物語のヒロインである、セビリアのタバコ工場に務める女工・『カルメン』が真紅のバラを口に咥えて、颯爽と登場する有名な「ハバネラ」や、闘牛士たちの入場に使われる「アラゴネーズ」、「闘牛士の歌」などなど、どれもこれもがどこかで聴いた事のあるような、全編が有名曲のデパートと言えます ゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!!!

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  • 39

おフランスの異端派(後編) (_ー_)

 子供の頃から海が大好きで飽かずに眺めていたばかりか、若い頃は船員になる憧れを持っていたくらいに海への執着は深く、こうした傑作の出来上がる余地は充分にあったドビュッシーさんですが、この曲の初演のプログラムの表紙には葛飾北斎の有名な版画「神奈川沖浪裏」が使われていた事からもわかる通り、日本の絵画や芸術にも並々ならぬ興味を示していたらしい事からも、いかにドビュッシーさんという人が芸術的に凝り性だったかを伺い知る事が出来ます。

 ところでClassic音楽の場合は、演奏家または演奏者によって同じ曲でもガラリと様相が変わってしまうのは、どんな名曲にも共通して言える事ですが、この曲にもそれぞれの解釈に基づいた『海』があります。

 ワタクシ的には『海』というからには、あまりこじんまりと纏まった「美しい湖」のようなスマートな演奏よりは、やはり美しさの裏に荒々しい自然のダイナミズムを秘めたものが好まれ、それだけにディスク選びには一層の慎重さを要するところです。
 ところでドビュッシーさんの「印象主義音楽」の真髄を楽しむなら、この『海』以上にうってつけの作品があります。

 『管弦楽のための《映像》』という作品で、ピアノの原曲と聴き比べてみれば、ドビュッシーさんの印象主義の技巧が晩年に至って、いかに究められたが手にとるようにわかるでしょう。

 ただしドビュッシーさんのビギナーが、いきなりこれを聴いてしまうと、恐らくは

 「なんじゃ、こりゃ? 
 さっぱりわけわかんねー・・・」

 ってな事になろうかと思われますが ニヒヒヒ ( ̄∀ ̄*)

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  • 38

おフランスの異端派(前編) (_ー_)

 ドビュッシーの時代は、フランスの画壇でもルノワールやマネ、モネ、セザンヌといった新しい勢力が勃興してきた時で、彼ら「印象派」と呼ばれた人たちは、当時の評論家たちからは「異端者」として扱われて来ました。

 ところがここに、そんな風潮の中にあってそれらの先鋭な絵画に対していたく感銘を受け、飽かずに眺め続けているうちにこの手法を自らの得意とする音楽に活かしてみたら面白いのではないか、とインスピレーションを受けたのがドビュッシーさんであり、故に「音楽の印象主義」と称される所以です。

 今日「印象主義音楽の旗手」として知られるドビュッシーさんですが、実はその後の研究によってそれ以前にロシアのムソルグスキーが、逸早くその手法を採り入れていた事が明らかとなり、またドビュッシーさん自身も自らの音楽世界の原点として、ムソルグスキーのピアノ組曲「展覧会の絵」(後にラヴェルの手により、オーケストラ曲として編曲されたものが有名)を挙げています。

 しかしながら、そうしたパイオニア論争は別としても、志半ばにして早逝してしまったムソルグスキーの遺志を受継ぐような形で「印象主義音楽」を音楽史の中で大きく展開していったのがドビュッシーさんであることは、間違いのない事実として衆目の一致するところです。

 そのドビュッシーさんの作品で、最も良く知られているのは『牧神の午後への前奏曲』と『海』の2曲でしょう。

 『牧神』の方は、ドビュッシーさんが試行錯誤を繰り返した挙句に確立した印象主義へのエポック・メーキングとして広く知られる曲であり、幻想味溢れるフルートの美しい音色が楽しめる曲です。

 ワタクシ的には(表面的には)あまり盛り上がりどころのない『牧神』よりは、印象主義の手法を定着させた晩年の作で、そのタイトルの通り目まぐるしく変化していく海の表情を巧みに描写した、交響詩『海』の方を推したいところです。 

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  • 37

マーラー青春の金字塔(後編) ☆ヾ( ̄ー ̄ )

 マーラーさんの音楽は、ほぼ交響曲と歌曲という二つのジャンルに収斂されますが、一般的には全10曲の交響曲(別の作曲家=D・クック決定稿=の補筆による遺作『第10番』を含めると11曲)が圧倒的に有名です。

 冒頭にも記述した通りマーラーさんの音楽には、その総てにおいて「死」をテーマにした底流が流れているために、他の作曲家のように一作毎にテーマが異なる作品というよりは、同じテーマを様々なアプローチからアレンジしながらじっくりと掘り下げていった、いわば全体で一つの壮大な作品と捉える事も出来ます。

 勿論、若い頃から人一倍「死」を意識していたとはいえ、やはり晩年に近くなってくるほどにその「死」の影はより色濃くなって来る事から、音楽に深刻さと深みが増していくため、実際には後年の作品に行くほどよりその真骨頂を垣間見る事が出来ますが、マーラーさんを聴き慣れていない耳にいきなりそれらの重い作品を理解するのは、至難の業と思われます。

 加えて、マーラーさんの交響曲は一作一作の演奏時間の長さは、ブルックナーと双璧をなすくらいの桁違いのものばかりで、いずれもが1時間を優に超えるような大作揃いであり、かつまたオーケストラの規模もオリジナルの楽器編成を試みていくなど、後年になるにつれ次第に常識外れなまでに巨大化していきますが、ここにこそヒタヒタと忍び寄ってくる死神の影に怯えながら、なお未練を断ちがたい現世に必死でしがみつこうと、七転八倒の悪戦苦闘を繰り広げてきたマーラーさんが死神に挑んだ、壮絶果敢な闘いの軌跡を見て取る事が出来ます。

 全10曲(11曲)の中でも第1番《巨人》は唯一、20代に作曲された作だけにマーラーさんとしては例外的に「暗い死の影」という面がまだ幾分背後に隠れ、スケール的にも1時間弱と(第4番とともに)例外的に短く(といっても平均的なな交響曲に比べれば、遥かに長いですが)、マーラーさんの作品の中では比較的こじんまりと纏まったものとして、よく親しまれています。
 ワタクシも含めて、マーラー・ファンの耳には規模的にも内容的にも、少し物足りなさを感じてしまうのが正直なところですが、それでもフィナーレの清々しいまでの爽やかさなどは、これ以降の作品ではまずにお目にかかることの出来ない「マーラーの青春」の群像として、若い頃に初めて聴いた時は大いに胸を打たれたものでした。

 「やがて、私の時代がやって来る・・・」

 と自ら予言した通り、その死(1911年)後、およそ半世紀以上の経過の後に世界的な「マーラー・ブーム」が巻き起こりましたが、マーラー・ビギナーや若い感性をもつ人ならば、この『第1番』から聴き始める事によって必ずやマーラーさんの魅力に目覚める事でありましょう ☆ヽ(▽⌒*) 

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最終更新:2008年02月04日 00:21