日暮里とナポリ (*≧m≦*)
日暮里と書いて「にっぽり」は、土地に馴染みのある人でなければ読めない地名でしょう。
そもそもの語源は「新堀」から来たものだという事です。
以前ある人から訊いた、こんなおもしろい話があります。
《日暮里とナポリ・・・インド語に「プル」という「町」を意味する語が有りました(例:クアラルンプール=Kuala Lumpurのプル=pur)
これがヨーロッパに伝わり「ポリス(都市)」という語になったそうです。
一方「プル(pur)」は日本にも伝わり、日本では「堀(町)」という語になります。
ナポリの旧称であるネアポリスは「新しい街」という意味です。
一方、日暮里の語源は、これも「新しい町」を意味する「新堀(にいほり)」だそうです。
「ネアポリス」が転訛したものが「ナポリ」であるのと同じように「新堀」の転訛が「日暮里」という事になります。
つまり、どちらも元々は「新しい町」という意味の地名だったのです》
これはある大学における英語史の授業で、教授から訊いた小話だそうです。
他にも、以下のような諸説があります。
《荒川区にある日暮里は、その昔には新しく堀を設けて開墾した耕地を意味した新堀と書いていたが、風流人たちが日が暮れるまで山を散策しても飽きないという意味合いから日暮れの里、日暮里という字を当てたらしい。
明治22年に正式に改められている》
《日暮里はそもそもは新堀と書き、その由来は太田道灌がこの周辺に敵を攻める際の斥候台を築かせ堀を掘ったために、新堀と呼ぶようになったらしい。
江戸中期になり、道灌山から眺める風景が当時の文人達に好まれ「日暮の里」と呼ばれるようになって、新堀の語呂から転じ日暮里としたらしい。
明治22年(1889)に周辺の村を併せ日暮里村となり、町制施行後昭和7年(1932)の荒川区西日暮里(にしにっぽり)成立の際に、日暮里町として町名になった。
昭和41年(1966)に、住居表示により東西を分けた》
《また聞くところでは、夕焼けを見ながら家路につくところという意味で「ひぐれさと」とも言うらしい・・・》
これなどはいかにも情緒ありげですが、ある東京人は
「日暮里って、田舎道って感じだな。
寧ろ日暮れて道遠し・・・・」
などと言っておりましたが・・・(≧m≦)ぷっ
●ポリネシア語による解釈
《日暮里はもと新堀(にいぼり)村で、江戸期に道潅(どうかん)山から諏訪台一帯(現在JR西日暮里駅の西の台地)が「文人雅客の風景を探るもの多」く「日暮しの里」として江戸の名所となり、日暮里村となったといいます。
この「にいぼり、にっぽり」、「どうかん」は、マオリ語の
「ニヒ・ポリ」、NIHI-PORI(nihi=steep;pori=wrinkled as of the skin with fat)、「嶮しい(皮膚がたるんだ)皺(のような崖のある土地)」(「ニヒ」のH音が脱落してが「ニイ」になり、「ニイ・ポリ」が「ニッポリ」となった)
「タウ・カネ」、TAU-KANE(tau=alight,settle down,beautiful;kane=head)、「美しい頭のような(山)」(「タウ」のAU音がOU音に変化し、濁音化して「ドウ」となつた)
の転訛と解します》
凡そ、どの説にも共通する部分が見られる事からも、これにて「日暮里」の由来はほぼ確定したと見てよいでしょうか (=゚ω゚)ノイヨウ
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
『祇園』って何の事?(後編)
<『阿弥陀経』説法の舞台である祇園精舎は、現在の北インドのバルランプールという町の郊外、サヘートにその遺跡が残ります。
釈尊の時代、ここはコーサラ国の首都舎衛城(シュラーヴァスティ)の、町外れでした。
舎衛城に住む、スダッタ(須達多)という大商人は、常に孤独な者や貧しい者に慈善を施すので『アナータピンディカ(孤独な者に食を供給する者、給孤独)長者』と呼ばれていました。
彼は、マガダ国でたまたま出会った釈尊に深く帰依し、何とか舎衛城に釈尊を招こうと精舎の建設を思い立ちました。
その最適な場所として選んだのは、国王プラセーナジット(波斯匿王)の王子ジェータ(祇陀)の所有する、マンゴー樹園でした。
スダッタの懇願にもかかわらず、王子は頑として買収に応じませんでした。
しかしその交渉の中で王子は、金貨を庭園に敷き詰める事ができたらその広さだけ譲ってもよい、と口を滑らせました。
そこでスダッタは家屋を売り払い、全財産を金貨に代えて一枚一枚、樹園に敷き始めました。
この、スダッタの尋常でない行為をみたジェータ王子は彼の誠意にいたく感動し、とうとう樹園を寄付し広大な精舎が完成した、という事です。
『阿弥陀経』にみえる「祇樹給孤独園」は、ジェータ王子の樹園(祇樹)・アナータピンディカの園(給孤独園)という、2人の名を冠した名称です。
それを略して「祇園」と呼ばれるのです>
このように「祇園精舎」のルーツはすっかりわかりましたが、依然としてこの「祇園精舎」と、京都の「祇園」との関連性はハッキリしていません。
ところで、お隣の滋賀県(長浜市)にも同じ「祇園」の地名があり
<長浜市の両端に位置し、東は県道(北陸脇道)が通り、西は琵琶湖に接する農村地帯であったが、市の発展に伴い工場や住宅が建設され、次第に市街化されつつある。
古く、京都の祇園社の領地となっていた事が、地名の由来である。
氏神として、八地神社がおかれているのは、その証拠である>
と、どこかのWebページに出ていたのを見た記憶がありますが、このように「祇園」の名は京都東山の八坂神社の別名といわれ、同じ地名は各地に見られるようであり、いずれも祇園の神を奉ってある事によるそうです。
ちなみに、京都の祇園と呼ばれる一帯の中には「石塀小路」、「切り通し」、「花見小路」、「団栗(どんぐり)通り」といったユニークな通り名が、数多く見られるのも特徴です。
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
『祇園』って何の事?(前編)
生まれも育ちも愛知のワタクシは、大学で京都に下宿した折りにかねてから、その名に強い憧れのあった「祇園」の街を何度もあてどもなく、ブラブラとさ迷い歩いたものでした。
そこは噂に訊いていた通りの華やかで煌びやかな世界であり、一介の貧乏学生たるワタクシなどはお呼びでなかったわけですが (* ̄m ̄)ブッ
「祇園」と訊くとまず真っ先に思い出すのが、学生時代に散々暗記させられた『平家物語』の
「祇園精舎の鐘の音・・・」
というあの有名な出だしですが、この
「祇園精舎」とは、そもそも何ぞや?
と疑問に思ったのが、事の始まりでした。
「祇園」は単純に地名と解釈するとして、その後に続く「精舎」は字面からして「学び舎」(*実際の「精舎」とは侶が仏道を修行する所。てら。寺院を指す梵語《goo国語辞典より》)と見当がつきますから、その後の
「鐘の音・・・」
のフレーズにくわえ、それに続く
「諸行無常の響きあり・・・」
に至ってはどう考えても仏教の世界のお話で、花街の京都・祇園とは到底関係なさそうだワイ、などと漠然と考えた事があります。
その後、時を隔ててン年、インターネットの時代が訪れるとともに、再び
(そも『祇園精舎』とは、何ぞや?)
という疑問が頭を擡げ、まずそこから調べてみようという経緯と、相成りました (*^m^*)ぶはは
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
「愛知」という歴史(後編) ( ゚∀゚ )
「あゆ」にしろ「あえ」にしろ、土地の豊かさを表現したものである。
肥沃な平野の拡がる愛知県は周辺地方の穀倉として、古くから農業の盛んな地域であった。
そして天白川河口前面に展開する伊勢湾も、陸地に劣らぬ豊かな海で海産物の宝庫だった。
今から一万年前から紀元前300年までの縄文時代、まだ本格的な農耕文化の起こっていない遺跡から、さまざまな魚貝や獣の骨などが出土している。
名古屋市の瑞穂区に大曲輪貝塚があるが、土器に混ざって石鏃が多量に発掘されている》
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また『日本書紀』にも
『日本武尊の佩せる草薙横刀は、是今、尾張国の年魚市郡の熱田社に在り(巻第七、景行天皇五十一年)』
『素盞嗚尊、剣を抜きて斬りたまふ。
尾を斬る時に至りて、剣の刃少しき欠けたり。割きて視せば、剣、尾の中に在り。是を草薙剣と号く。
此は今、尾張国の吾湯市村に在す。即ち熱田の祝部の掌りまつる神是なり』(巻第一、神代上)
といった記述に見られる通り、「年魚市」または「吾湯市」という地名は、古代から既に散見していたようです。
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●ポリネシア語による解釈
愛智(あいち)郡=古代からの郡名。
尾張国東部、伊勢湾に面する地域でおおむね現在の名古屋(なごや)市(西部から北部の一部(庄内川右岸)、東部の一部(矢田川右岸および天白川流域の北部)を除く)、日進(にっしん)市の南部、豊明(とよあけ)市(南部の一部を除く)、愛知(あいち)郡東郷町の南部、三好町の地域です。
中世末期には山田郡は廃郡となり、日進市の北部、長久手町、東郷町の北部の地域は愛智郡に編入されました。
古くは「あゆち」といい、和銅6年の好字令によって「愛智」の字が用いられるようになった、とされます。
『和名抄』は、「阿伊知(あいち)」と訓じます。
郡名の由来の「あゆ」は湧き出る意で「湧き水の多いところ」とする説、東風を「あゆ」と訓む(『万葉集』)ところから「めでたいものを齎す風」の意、などとする諸説があります。
この「あいち」、「あゆち」は
「アイ・チ」、AI-TI(ai=beget,procreate;ti=throw,cast,overcome)、「子供を産んで・捨ててある(支流が分かれている。または川の途中に川と連結した池沼がある。地域)」または「アイ・イチ」、AI-ITI(ai=beget,procreate;iti=small,diminutive)、「ほんの小さな・子供を産んでいる(小さな支流が分かれている。または川の途中に川と連結した小さな池沼がある。地域)」(「アイ」のI音と「イチ」の語頭のI音が連結して「アイチ」となった)
「ア・イフ・チ」、A-IHU-TI(a=the...of,belonging to;ihu=nose,bow of a canoe;ti=throw,cast,overcome)、「あの・鼻(断夫山古墳)が・放り出されている(地域)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」となった)
の転訛と解します。
うーむ、仲々奥が深い地名じゃ ( ̄+ー ̄)キラーン
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
「愛知」という歴史(前編) ( ゚∀゚ )
以前に偶々、何かのアンケートを見ていたら
「好きな都道府県名」人気投票
というものをやっていて、47都道府県中「愛知」が1位に輝いていました。
理由として
「字の並びがキレイ」
とか何とか出ていましたが、愛知生まれで愛知育ちのワタクシとしては
(そういや、そうか・・・)
という程度の認識しかなかった。
しかし「愛知」という、少し異色ともいえる地名がどこから来たのかという点が気にはなります。
そこで調べてみると、この地名の由来は古く『万葉集』にまで遡る事が出来るようです。
『桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る』
(桜田の方へ、鶴が鳴いて渡ってゆく。
年魚市潟は潮が引いたのであるらしい。
鶴が干潟の上を鳴きながら渡ってゆく)
《名古屋市南区には、現在も桜田の地名が残る。
年魚市潟の東。
鶴鳴き渡る 干潮になった年魚市潟を飛び立ち、鳴きながら干潟の上を渡ってゆくといった意味である。
年魚市潟とは名古屋市熱田区と南区の境辺りにあった干潟の事で、熱田神宮が近い。
どうやら、この「あゆち」が今日の「愛知」の県名の由来と言われる》
さらに、別のWebページで興味深い記述を見つけましたので、少し手を加えて引用します。
《愛知県の「愛知」の由来は、愛知郡に名古屋城があったことから来ているようですが、その愛知郡の愛知はどこから来たのでしょうか?
某Webページによれば、万葉集にも詠まれている「年魚市(あゆち)」が、その後「愛智(あいち)」になったのだと言われます。
「年魚市潟」というのは、当時の天白川河口附近の入りくんだ潟を指している。
天白川の河口近辺は、アユやウグイが群れ遊んでいたのだろう。
アユばかりでなく、いたるところに発達した入江や湾には多彩な魚が棲みつき、浅瀬の砂地には貝類が繁殖していたに違いない。
「年魚市潟」は、結局「愛知」という地名のもととなるわけだが「愛知」の由来は、アユが豊富に獲れた土地という意味ではないだろうか。
それを裏付けするように、平安時代には当地から京都に大量の「あゆの塩煮」、つまり「あゆのつくだ煮」が税金として送りこまれているし、江戸時代になると徳川家に「あゆの鮨」や「うるか」が献上されている》
《また「あゆち」の「あゆ」は、「あえ」の変形とみることもできる。
「あえ」は「饗」で「もてなす」とか「ごちそう」、または「多くの人々が集まって宴会を開く事」、「神に飲食物を供える事」などの意味になる。
いずれにしても「愛知」という地名が、飲食と密接な関係のある事ことを物語っているようだ。
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
職業集落と地名の密接な関係「穴太」(後編)
この「穴太積み」による石垣では、佐賀県の名護屋城のほか県内では玖珠町の角牟礼城が有名です。
石材は全て大小不揃いの自然石を用いて、独特の配石をしながら積み上げていく工法であり、歴史的に非常に価値が高いようです》
《穴太とは、滋賀県大津市坂本にある地名で、比叡山と関わりのある石工がいました。
こうした石工が、城館の石垣築造に技術を発揮したのです。
その後、石垣技術者のことをそのまま穴太衆と呼ぶようになりました。
穴太衆が最初に積んだのは野面積みでしたが、やがて石材を一定の大きさに加工した、切石積みになっていきました。
切石積みによって正確に必要な石材の数を算出できるうえ、野面積みではできなかった高い石垣、高石垣を築くことが可能となったのです》
●ポリネシア語による解釈
日枝大社のある大津市坂本の南、西近江路の旧街道に沿って近江国志賀郡穴太の地があります。
古くは穴穂、穴多とも記され、駅家が置かれました。
ここは景行・成務・仲哀の三天皇の高穴穂宮の故地とされ、付近には渡来人の横穴式古墳が数多く存在します。
大小の自然石を野積みする技術を持つ石工集団である、穴太衆(あのうしゅう)の本拠地でもあります。
この「あのう」は
(1)『日本書紀』雄略紀19年3月13日に設置された「穴穂部」に由来するとする説
(2)「アナ(端(はな)の転、崖地・急傾斜地の先端)・ホ(先端。美称)」の意とする説
があります。
この「あのう」は、マオリ語の
「ア(ン)ゴ」、ANGO(gape)、「大きく口を開いた場所(湾、潟など)」
の転訛(NG音がN音に変化して「アノ」となり、長音化した)と解します。
伊勢国安芸郡安濃(あのう)津、大和国吉野郡賀名生(あのう)なども同じ語源です。
いくつか重複するところがありますがご容赦 m(_ _)m
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
職業集落と地名の密接な関係「穴太」(前編)
古都・京都と湖国・滋賀の境に跨るようにして聳え立つ比叡山は、かつての織田信長の焼き討ちと伝教大師・最澄で有名な天台宗総本山の「延暦寺」で知られる有名な霊山であるとともに、関西地方を代表する山としてケーブルやドライブウェイが整備され、近年では観光コースとしてもよく知られています。
京都側からは、雲母(きらら)坂から修学院を見下ろす八瀬からのケーブルで登って行くコース、一方滋賀側からは石積みの町として知られる坂本からのケーブルとドライブウェイがあり、どちらからも素晴らしい眺望が楽しめます。
この滋賀県・坂本側、つまり大津市ですが、ここに「穴太」と書いて「あのう」と読む地名があります。
城などに興味のある方なら「穴太衆積み」という言葉をご存じでしょうが、この地名がその発祥に纏わるものでした。
《日吉大社参道両側や寺院・里坊の周囲に築かれた石垣を「穴太衆積み」と言い、大小の自然石を巧みに積み上げたものでその美しさと堅牢さは全国の主な城郭の石垣にも用いられおり、市の指定文化財となっています》
《現在、この安土城の石垣は一般には「穴太(あのう)積み」の石垣として、知られています。
穴太とは、比叡山の麓(ふもと)にある現在の大津市坂本付近の地名ですが、ここには高い技術を持った石工たちが住んでいたといわれており、彼ら穴太衆が安土城築城に動員されて積み上げた石垣を、一般的に穴太積みの石垣と呼んでいるのです》
《穴太とは、大津市坂本付近に今も残る地名。
室町時代の末頃、この地に居住し延暦寺の土木営繕的な御用を勤めていた人々は「穴太衆」と呼ばれ、織田信長の安土城を始め江戸時代初期、各地の石垣普請に従事した。
大小の整形していない自然石を巧みに積み上げたもので、堅固に積むことから城の石垣などに利用されたという。
延暦寺の門前に開けた坂本の町には同寺の里坊が点在しているが、その町並み景観を特色付けているのが、この穴太衆積み石垣である》
《「あなふと」ではありません。
「あのう」と読みます。
穴太とは、比叡山のふもとで現在の大津市付近の地名ですが、ここには高い技術を持った石工が住んでいたと言われており、彼ら石工衆によって考案された工法として織田信長の安土城構築の時に初めて用いられ、以降近世城郭の基礎となったものです。
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
大物 ムフフフ ( ̄ー ̄
阪神電車に「大物」という駅があります。
初めて眼にした時は
(え? おおもの・・・?)
と思わず吹き出しそうになりましたが、読みは「おおもの」ではなく「だいもつ」ということで、それはそれでまたユニークだわいと感心してしまいました。
いかにも関西らしい大胆な名前ですが、そもそもなぜこんな名前なのかというところが大いに気になりますのでさっそく調べてみました。
《大物は尼崎城下町の一つで、平安時代以来繁栄した町場です。
大物の地名由来には諸説ありますが、平安時代に港町として栄え材木の集散も盛んであり、取引された巨材を意味する「大物」から、この地を大物と呼ぶようになったとの説が有力です。
大物浜から源義経が兄の頼朝の追討を逃れるため船出した史実が、のちに謡曲『船弁慶』や『義経千本桜』として歌舞伎でも上演されています。
平成7年の発掘調査では、中国製の白磁や青磁の椀や壷などが大量に発見されました》
《「大物」の地名の由来にはいろいろな説がありますが、平安時代に港町として栄え取引された材木の大きさを意味する「大物」からきている、という説が有力だそうです。
大物主神社の境内には「義経弁慶隠家跡」の碑があり、謡曲史跡保存会の立て札が立っています。
大物主神社は古く、平安時代からこの地にあったとも言われています。
水路を下る人々や、この地を通って大阪湾から瀬戸内海へ船出する人々にとって、守り神だったようです。
大物の浦から船出した義経主従が、この大物主神社の傍らに潜んだのには、船出の無事を祈る意味合いもあったのかもしれません》
なるほど、当然の事ながら単なるオフザケの地名ではなく、しっかりとした由緒のある地名ということがわかりましたが、さらに掘り下げていくと
《大物駅の南にある、大物主神社(おおものぬしじんじゃ)
祭られているのは、大物主の大神つまりオオクニヌシノミコト。
この大物(だいもつ)の地名の由来ともいわれる神社で、一般的には大物神社でも通ります。
また大物は源義経が兄である源頼朝に追われ、出帆しようとして遭難した地としても有名で、その際この大物主神社にて隠れ住んだとの伝説もあります》
なんと、オオクニヌシノミコトに関係していたとは驚きですが、言われてみれば確かにという気もします。
参考までに、ポリネシア語による解釈では
《大物浦の「だいもつ」は、マオリ語の
「タイ・モツ」、TAI-MOTU(tai=the sea,the coast,tide;motu=separated,escaped,cut)、「海流から切り離された(崎によって海流の影響を受けない静かな港)」
の転訛と解します》
となっています。
なお阪神電車沿線は
「姫島」、「千船」、「出屋敷」、「打出」、「千鳥橋」、「福」、「出来島」等々、おもろい地名のオンパレードですが、これらはおいおい採り上げていく予定です。
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
立売堀=いたちぼり(後編) (:´Д`)ハァハァ?
別名「鼬(いたち)堀」とも呼ばれたそうです。
この堀を慶元の戦の時に、近くに陣所を構えた伊達家が要害の為に掘切りし跡を削り足して川とした事で「伊達堀」と呼ばれ、後は俗に訛りして「いたちぼり」と言われた。
その後、近くに材木市場があり、材木の立ち売りが行われるに至り「立売堀」と改めたと言われている》
《立売堀は元和6年(1620)に開削に着手され、一時工事が中断されていたところへ三郷惣年寄り宍喰屋次郎右衛門が受け継いで、寛永3年(1626)に完成した。
なぜ「いたちぼり」と呼ぶかというと、次のように四つの説があげられる。
1.もと阿波座の阿波屋西村太郎助家の所有地だったのが、寛永8年(1631)新町郭が出来た時に敷地を割り売りしたので断売堀、また居断堀の地名が出来た西村家家伝に記されている。
2.攝津名所図会大成によると、大阪冬の陣・夏の陣の時に伊達正宗が陣地を構え要害の堀切をした跡を掘り足して川としたので、始めは伊達掘と呼んでいたのが字音のまま、伊達掘と言いならわしたという。
3.鼬がいたから鼬堀となり、転化して立売堀になったという説もある。
4.もと材木の立売りが行われたので立売堀と書き、これを「いたちぼり」と転音して読むようになったという》
まずはどれも同じような内容であり、どうやら真相からそう大きく外れてないだろうと思われます。
なお、京都にも「立売××」といった地名があったように記憶していますが、こちらは「いたち」とは読まず「たちうり」と読みます。
もっとも普通に「たちうり」と読むケースはあまり耳にしたことはなく、大抵の人は「たちゅ~り」といったような関西風のアクセントで呼ばれていたため、尚更わかりづらく感じましたが (*´ー`) フッ
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
立売堀=いたちぼり(前編) (:´Д`)ハァハァ?
立売堀にある某社支店で働いた、ある人から訊いた話で
「『立つ、売る、掘りと書いて何支店ですか?』
と、尋ねられたことがあります・・・」
というような話を訊きましたが、確かに字面もおもろい上に読みがまた、それ以上に意表を突きます。
では、このヘンテコリンな地名は、一体どこからやって来たのか?
《大阪の陣の時、伊達家が陣所を設けた要害の堀であったのを更に堀足して開発したもので、始めは伊達堀(だてぼり)と呼んだ。
しかしその後、伊達(いだち)が伊達(いたち)になり、後にこの地で材木の立ち売りが許可されると、立売堀と書いて「いたち堀」と読むようになった。
材木市は「立売堀」と「長堀」のみに限って市を立てる事ができ、この辺りは材木浜として有名になった》
《大坂冬の陣・夏の陣の時、伊達家がここに壕を堀り陣地としていたが、その跡を掘り進んで川としたことから始めは伊達堀(だてぼり・後には、いたちぼり)と呼んでいた。
その後、沿岸で材木の立売(たちうり)が許されたため字は立売堀と改められたが、これを今まで通り「いたちぼり」と読ませていた》
《「いたちぼり」の地名の由来は、大坂の陣にあたって寛永3年に開削された川のそばを、伊達氏が陣所としていた事に始まる。
「伊達堀(だてばり)」と呼ばれた堀は、いつしか「伊達」を「いたち」と読むようになったと言われている。
江戸時代には、木材市がこの地で行われるようになり、明治中期頃からは鉄材問屋が建ち並んだ。
現在でも立売堀といえば、わが国でも有数の機械工具問屋街として知られる。
地名の由来となった堀川は、昭和31年1月に埋め立てられた》
《元和六年、開削に着手。
一時工事が中断の後、時の三郷総年寄であった宍喰屋次郎右衛門により、寛永三年(西暦1626)竣工した堀がありました。
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
飛ぶ鳥の明日香(後編) (´ー`*)・:*:・
明日香村は、現代的感覚で新しく造られた名前のように理解されている向きが多いが、実は非常に古い地名である事は「記・紀」など、古代の文献からも見て取れます。
アスカの表記について古事記、日本書紀、万葉集等から拾ってみると、
明日香、飛鳥、安宿、阿須賀、阿須可、安須可
等々色々の文字が用いられており、地名或いは川の名前としては「明日香」及び「飛鳥」は、最も頻繁に用いられている。
古事記、日本書紀では主として「飛鳥」が用いられ、万葉集では「明日香」と出てくる場合が多く、飛鳥はアスカという場合とトブトリとして明日香の枕詞になっている場合とがある》
《空飛ぶ小鳥の姿がカスカに見えたので、アスカの字に「飛ぶ鳥の」という説明の言葉を冠せたという説。
渡来人が流浪の旅の末、安宿(明日香)の地に落ち着いた。
流浪の旅はあたかも飛ぶ鳥の移動のようなもので、明日香の地に「飛ぶ鳥」の枕詞を冠せたという説》
と、実に様々な解釈があるようです。
●ポリネシア語による解釈
飛鳥は、奈良盆地南東部の歴史的地名です。
通常高市郡明日香村の東部と、橿原市の一部のかなり広い地域を指しますが、本来は天香具山の南、橘寺・岡寺に至る間の低い丘陵に囲まれた中央を飛鳥川が流れる、小範囲の地域を指しました。
この地には早く允恭天皇の遠飛鳥宮、顕宗天皇の近飛鳥宮が営まれ7世紀の初め推古天皇が豊浦宮で即位し、さらに近くに小墾田宮を造営して以後、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板葺宮、斉明天皇の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮、天武天皇の飛鳥浄御原宮が次々に営まれ、孝徳朝の難波遷都と天智朝の近江遷都の短期間を除き、持統8(694)年の藤原京遷都まで、日本の古代政治の中心をなし、律令制国家もここで誕生しています。
この「あすか」は
(1)「ア(接頭語)・スカ(住処)」の意
(2)「ア(接頭語)・スカ(州処)」の意
(3)「アスカラ(安伽羅、伽耶諸国のうちの1国。所在不明)」の約
などとする説がありますが、定説はありません。
この「あすか」は、マオリ語の
「アツ・カ」、ATU-KA(atu=to form comperative or superlative or simply as an intensive,very;ka=take fire,be lighted)、「最高(最上)の居住地」
の転訛と解します。
というわけで、お好きなのをどうぞ (。 ̄Д ̄)d□~~
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
飛ぶ鳥の明日香(前編) (´ー`*)・:*:・
日本のふるさとがどこにあるかと言えば、奈良の明日香村辺りが真っ先に挙げられるでしょう。
ところで「明日香村」は正式な自治体名ですが、近鉄線の駅名は「飛鳥駅」であり、また『東大寺』の遮那仏を抑えて日本最古の有名な「飛鳥大仏」の鎮座ましますお寺も「飛鳥寺」です。
かつて合併された時に、各村議会で「飛鳥村」にするか「明日香村」にするかについて侃侃諤諤の議論が沸いていたようで、結局は伝統的な「明日香村」に落ち着いたわけですが、近鉄は敢えて「飛鳥」という名前を存続させたようです。
元々は「飛鳥」の字の方は「大和志料」では
《和銅中、高市郡飛鳥寺を平城に移し建つ。新元興寺是なり。
因て故郷の名をここに移し、奈良の飛鳥の里と称す》
と記されています(*この元興寺で寺小屋だったものが、現在の奈良市にある飛鳥小学校となった)
その後
《飛ぶ鳥の明日香》
と言われるように「飛鳥」が「明日香」にかかる枕詞であったのが、転じて「あすか」と読むようになったというのが経緯です。
「あすか」の由来については「明日香村Webページ」に詳しいので、以下に引用します。
《◆外来説1=渡来人が日本に来て、安住の宿とした場所を安宿(あすか)と名付けた。
安宿は朝鮮語でアンスク、これが訛ってアスカになったという説。
◆外来説2=古代朝鮮語で村を意味するスカに、接頭語のアがついて出来たという説。
◆外来説3=仏教発祥の地インドのアショカ王の名前から転化したものであるという説。
インドでは、アスカとは「理想の楽園」という意味の言葉だとも言われている。
◆鳥説=古代においては、年号等に白雉、朱鳥、白鳳と用いられているように、鳥はしばしば瑞兆として尊ばれた。
アスカの音は、イスカという鳥の名前から転じたとする説。
◆地形説=地形を表現する単語が合成されて出来たもので、ア(接頭語)スカ(洲処ー川水、海水等によって生じた砂地)、或いはアス(浅すー川、海等が浅くなる又は水が涸れる)+カ(処)もしくはアス(崩地)+カ(処)であるという説。
飛鳥地方は、川原とか豊浦といった水辺に関係ある地名が残っており、水(海)で覆われていた部分が山の浸蝕土砂の堆積等によって、陸地化する過程で生まれた地名である。
この説によると横須賀等も同じ語源であり、アスカから訛った場合として安積、朝香、浅香等があるという。
◆聖地説=スカという語がイスケ、イスズ、ミソギ等と同様、禊をする等の神聖な意味を持ち、神聖地に用いられたという》
《アスカの地名としては「飛鳥」の字が一般的に定着しており、昭和31年高市村、阪合村、飛鳥村の3村が合併して生まれた村名である。
- .pqewp@ jnyl,thgk -- (,l5uokkko5e,ji) 2008-06-04 11:09:30
- いいのがでましたw -- (うんこ) 2008-06-20 15:26:41
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最終更新:2008年02月06日 01:01