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  • 18

『未完成』という名の完成品(後編)

 いずれが正しいかは別として、シューベルトはこの2楽章分を友人に送りつけたものの、シューべルトよりは遥かに愚鈍な相手の方は

 「半分しか出来てない、未完成な物を送りつけてきやがって・・・」

 とでも考えたのか机の引き出しに放り込んだまま、すっかり忘れてしまったらしい形跡があります。

 そうしてすっかり世間の目に晒される事なく、ひっそりと埃を被って眠っていたこの曲が、大のシューベルトファンであり熱心な研究を続けていたシューマンにより発見され、ようやくその真価を天下に知らしむに至ったのはシューベルトさんの死後、40年以上が経過してからでした。

 さて、ご存じの通りこの曲は今やベートーヴェンの『第5番(運命)』やドヴォルザークの『第9番(新世界より)』らと並ぶ、交響曲の古典として真っ先に採り上げられる曲だけに、店頭に並ぶディスクでは『第5(運命)』とカップリングをされているケースがやけに目に付きますが、実のところワタクシ的には

 (それほどの傑作かいな?)

 と、ずっと思って来ました。

 カップリングの多くはこの曲が第5の後にくるわけですが、それがために折角最高潮にまで『第5』で高められたテンションが、あの『未完成』の地の底から響いてくるような冒頭のなんとも地味な音色によって、フニャーっと萎えてしまうような気がしてどうにも不合理に感じるとともに、どうしても見劣り(聴き劣り?)を感じてしまうのは、果たしてワタクシだけの嗜好の問題というところに収斂されるのでしょうか?

 確かにいい曲である事は認めますが、果たしてあの『第5』に比肩しうる傑作かとなると、どうしても疑問符をつけたくなってしまいます。

 ちなみに、あの辛口で鳴らしたブラームスは

 《この曲は、交響曲の形式としては2楽章と一見未完成に見えるが、作品そのものは2楽章ながらも完璧なまでに完結されており、誰がこの完全なる2楽章の後に無用の音符を付け加えることが出来ようか・・・云々》

 と絶賛していたようですが、天才ブラームスと違い凡庸かつ欲張りな素人のワタクシなどは、やはり同じシューベルトでも「大交響曲」と言われる『第9番(ザ・グレート)』に比べ遥かに物足りない感は否めず、折角のこの美しい2楽章の後に「第3楽章」、「第4楽章」と続く『完成版』(他の誰でもない、シューベルトさん自身の手による)が聴きたかった、と声を大にして言いたいのですが・・・(≧Д≦)ノ

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  • 17

『未完成』という名の完成品(前編)

 シューベルトさんといえば《歌曲王》と称される事からもわかる通りその本領は歌にあり、また歌を支えているピアノにあります。

 最も一般的な知名度からすれば、シューベルトさんと訊いてまず真っ先に挙がって来そうなのが、交響曲第8番ロ短調『未完成』D.759でしょう。

 ドヴォルザーク、シベリウスと並ぶ

 《Classic界の三大ブ男》

 とも称される事もある(?)シューベルトさんは「ビア樽」と渾名された小太りの小男(160?a弱)、牛乳ビンの底のような分厚いメガネをかけたド近眼であり、おまけに若い頃から髪が薄く額が禿げ上がっているという容姿から、典型的なコンプの塊だったようです。

 加えて粗末な居住環境で育った事なども影響してか、極度に引っ込み思案な性格で人付き合いの苦手なシューベルトさんの唯一の息抜きの時間は《シューベルティアード》という、芸術家仲間同士の同好会のような集まりでした。

 《シューベルティアード》(シューベルトの集い)というくらいですから、その集まりの主役は勿論シューベルトさんであり、ここでシューベルトさんは自作の曲を自演し仲間内で賞賛を浴びるという、まるでコップの中の出来事のような小さな幸せで充分に満足していたくらい、驚くほどに欲のない人でした。

 そうして小さな幸福に包まれたまま(?)に、弱冠31歳という若さで殆んど世に知られる事なく、不幸な夭折に見舞われてしまったのです。

 ワタクシはこの、大和撫子ばりにあまりに奥床しいシューベルトさんの生き様に接するにつけ、(特に若い頃など)何とも苛立たしくもやりきれないような、切ない気持ちにさせられてしまいました (ノ_-;)ハア

 そうして《シューベルティアード》が盛り上がった日の帰りだったかに、珍しく気分良く泥酔した勢いを借りて友人らと歓楽街に繰り出す事になり、不幸にもそこで生涯ただ一度の経験となった遊女との交渉から、当時「死の病」といわれた梅毒を貰い受ける不幸に見舞われてしまうところなどは、まるで死神に付け狙われていたかのような、薄ら寒さすら感じてしまうほどです。
 元来、このシューベルトさんという人は非常に飽きっぽい性質だったようで、途中まで創作した曲を何故かほっぽり出したままに次の新しい創作に手を染めたり、それが行き詰るとまた新しい作品に着手してみたり、或いはそこで中途創りの作品に戻ったりとかなり変則的な仕事ぶりだったようですが、そうして途中で放り出されたまま未完成で終わってしまった曲が幾つもあります。

 ただしこの『未完成』に関しては、途中で放り出したまま亡くなってしまったのではなく、第3楽章の途中のところまでで意図的に筆を置いてしまったようで、その理由としては

 「あの忌まわしい(梅毒治療の)水銀療法の記憶を呼び覚まされるために、敢えて投げ出したのだ」

 という説や

 「第2楽章までがあまりに完璧に出来すぎてしまったため、これに続くインスピレーションがどうしても出てこなかった」

 或いは 

 「内容的に、この2楽章で完成してしまったので、敢えて筆を置いた」

 といった諸説があります。

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  • 16

『ベートーヴェンの第11番』ではありません・・・(後編)

 さて、そうして20年以上の歳月を費やしながら、改訂に改訂を重ねてようやく出来上がった『第1番』ですが、先にも触れたように第4楽章の第1主題がベートーヴェンの『第9(合唱付き)』で有名な、あの「歓喜のテーマ」とそっくりのために、一部では「盗作疑惑」も囁かれ、専門家の見解でも「似ている」、「似ていない」の論争がありました。

 しかしながら、あれだけ若かりし頃からベートーヴェンを意識していたブラームスさんですから、盗作のつもりはなくとも知らぬ間に似てしまうのも無理からぬ事でしょうし、ワタクシ自身も最初に聴いたときはてっきり

 「真似したか?」

 と思ったくらいに確かにそっくりに聴こえたものですが、何度も聴いているうちに似ているのは最初の部分だけで、その後の展開部からはブラームスらしさが充分に滲み出ている、独自の世界であることを認めざるを得ませんでした。

 それにしても、ベートーヴェンの『第5』もそうですが、よくもまあこれだけ緊密(というか無愛想?)に目の詰まった曲を書いたものだ、というのが正直な感想です。

さすがに20年以上もの歳月をかけて、じっくり熟成させ吟味してきたというだけの価値は確かにあります。

 あたかも一級の建築家が一本一本、柱を打ち立てていくように構築された大建築の風格は充分でしょう。

 「精神が私に語りかける」

 と言ったミューズ(ベートーヴェン)に対し

 「一番難しいのは、余計な音符を払い落としていく事だ」

 と言うブラームスは、やはり職人気質の人といえるでしょう。

 この『第1』こそは、良くも悪くも、まことに「ブラームスらしい曲」という気がします。

 という事は、当然の事ながら聴き終った後はドッとくたびれますが、勿論それは心地よい疲れではあります。

 ところで、ブラームスの交響曲が4つしかないのはいかにも少なくて残念なような気がしますが、よく考えたら2曲の『ピアノ協奏曲』に『ヴァイオリン協奏曲』、そして『ドイツ・レクイエム』のいずれもが、それぞれ『交響曲』と言い換えても良いくらいに、得意の重厚なオーケストラが大建築よろしく分厚く聳え立っている曲ばかりで、まさにベートーヴェンにも匹敵するバリエーションが全部で8曲もあるではないか、という見方も出来ます。

 ブラームスの音楽といえば、どの曲も大建築を思わせるに充分な恐ろしく目の詰まったガチガチのあの分厚い構成から、楽しめる要素にはやや欠けるイメージが強いだけに、専門家には評価が高い反面で一般的には

 「重い・・・」
 「暗い・・・」

 とやや敬遠されがちのきらいがありますが、あの肩の凝りそうなブラームスさんのクソ真面目に真面目すぎるところこそは、ワタクシ的にはなんともいえず大好きなのであります (= ̄∇ ̄=)ニィ

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  • 15

『ベートーヴェンの第10番』ではありません・・・(前編)

 『交響曲第1番』といえば、古今の名作が実に沢山あります。

 古典派までの交響曲多作時代は、いわゆる若書きの習作的なものも多いのですが、ロマン派以降は交響曲の規模が大きくなるにつれ、相対的に寡作となった関係からか『第1番』から、いきなり満を持したかのような力作・大作が目に付きます。

 思いつくままにざっと挙げていくだけでも

●エルガー 変イ長調
●マーラー ニ長調(巨人)
●ショスタコーヴィチ ヘ短調
●カリンニコフ ト短調
●シューマン 変ロ長調「春」

 などなど傑作・秀作揃いですが、やはり『第1』と訊いて誰の頭にも真っ先に思い浮かぶのが、この『ブラームスのハ短調』 ではないでしょうか (= ̄∇ ̄=)ニィ

 この曲は、第4楽章のテーマの相似から

 「ベートーヴェンの第10番」

 とも言われますが「ハ短調」の調性からもわかる通り、寧ろ『第5(運命)』を意識した創りといえるのかもしれません。
 若い頃から、自他ともに認める才能を意識していたブラームスは

 (我こそは、ベートーヴェンの後継者である・・・)

 と密かに辞任していた節がありますが、病的なまでに極度な慎重居士の性格から、20歳そこそこから密かに着手し始めたこの交響曲が完成したのはナント、20年以上の歳月を費やした40代になってからという、マコトに気の遠くなるような壮大壮大な仕事であります。

 最もハイドン、モーツァルトらの古典派交響曲から、後のロマン派へと繋がる大きな変革を齎したベートーヴェン以来、誰もが交響曲の創作には及び腰というような状況が続いていた背景もあり、それだからこそ他のジャンルでは傑作を次々と産み出していったブラームスも

 「何故、アナタほどの人が交響曲を創らないのですか?」

 と訊かれる度に

 「ベートーヴェンが9つの交響曲で総てを言い尽くしたのに、このうえワガハイ如きが何を付け加える必要がありましょうか?」

 などと空トボケていたそうですが、その実

 「ベートーヴェンという、巨人の足音を聞きながら」

 密かにベートーヴェンの交響曲に勝るとも劣らぬような、世間をアッといわせる独自の交響曲の創作に勤しんでいた・・・というのが本当のところだったようです。

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  • 14

ヴィヴァルディの『四季』という幻(後編)

 口八丁の世渡り上手で一世を風靡したヴィヴァルディはまた大変な遊び人でもあり、世界各国を旅しては豪遊を繰り返していたそうですが晩年になって一気に人気が衰えると、自作品を叩き売り同然に売り払ってしまったためだともいわれています。

 そのため実際にヴィヴァルディによって、これらの曲が書かれたのは1700年代初期でありながら、200年もの時を隔てた20世紀になってようやくその作品が日の目を見るなど、まだまだ未知の作品群がどことも知れず眠っているのではなかろうか。

 そしてそれらが明るみに出揃った時には、あの大バッハも真っ青になるくらいの傑作の森が出来上がるかも、などといった夢を掻き立ててくれる作曲家でもあります。

 ヴィヴァルディの特徴は、一見(一聴?)したところ似たような感じの曲が多い事で、そのため同じイタリア人で20世紀のオペラ作曲家であるダラピッコラなどは

 「ヴィヴァルディは600もの協奏曲を創ったのではなく、一つの協奏曲を600回作り直したに過ぎぬ・・・云々」

 などと批判していたようですが、こうした一面に頼った極論はまったくの的外れであり、実際に聴き比べてみれば似たような中にも、それぞれの特徴が浮かび上がってくるのは一目瞭然としています。

 さてそうした訳で、何はともあれ

 「これから、ヴィヴァルディを聴いてみようかなぁ・・・」

 という人には、やはり何と言っても『四季』がお奨めでしょう。

 オールドファンには

 「『四季』といえば、イ・ムジチ!」

 というのが定番なくらいに、このイタリアの合奏団が有名でしたが今では様々なディスクが出廻っているので、それぞれによる曲の解釈を聴き比べてみるのも一興でしょう。

 派手なオーケストラ好みのワタクシなどは、イ・ムジチの小編成だけではどうにも物足りずにオーケストラの充実したモノを好んで聴いてますが、元々ヴィヴァルディのバロック時代はオケといっても室内アンサンブルに毛の生えたような程度の編成だけに、今風の大オーケストラであまりにガンガン鳴らし過ぎるのは、さすがにいただけませんが ┐(´ー`)┌

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  • 13

ヴィヴァルディの『四季』という幻(前編)

 かつてイギリスで行った

 「世界一好きな曲」

 とかいう人気投票で、ワタクシを含め恐らくは誰もが当然の如くにトップを飾ると予想した、ビートルズの数々のヒットナンバーを押し退け堂々トップに選出されたのが、ヴィヴァルディの『四季』でした。

 それほどに有名であり、また人気も高い曲でありながら、実は正式には

 『ヴィヴァルディの四季』

 という曲は、音楽史には存在しません。

 ご存じの人は多いでしょうが、念の為付け加えるなら今日

 『ヴィヴァルディの四季』

 と言われている曲は

 『協奏曲集 《和声と創意への試み》op.8』

 の中の第1曲《春》から第4曲《冬》までの4曲を抜粋して1曲の纏めたもので、これが今日では

 『ヴァイオリン協奏曲集・四季』

 として、飛び抜けて有名になっています。

 ヴィヴァルディといえば、あの《音楽の父》と言われるJ.S.バッハ(以降バッハと記述)や、バッハと同年生まれのヘンデルの先輩に当たる人でもあり、バッハやヘンデルの作品(特に初期の物)には、このヴィヴァルディの影響が顕著に表れています。
 また、コレルリの編み出した「コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲形式)」を、今日のような一般向けの「協奏曲」の形式にまで昇華させた功績は大で、このために《協奏曲王》とも評されてもいます。

 このヴィヴァルディという人は典型的な天才肌の人で、信じ難いがたいほどの驚異的なペースで作品を書き散らしていったのは有名で(3日で10曲を書き上げたというエピソードも)、得意の協奏曲などはその生涯に何曲創ったのかさえハッキリしないほど(現在、確認されているだけで400―500曲とも)と言われていますが、まことに残念な事にそのうちの多くの曲があちこちに散逸してしまった・・・とも言われています。

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  • 12

「安物のウォッカ臭」などはいたしませんが・・・

世に言う「四大ヴァイオリン協奏曲」とは

●ベートーヴェン『ニ長調』 = 王様
●メンデルスゾーン『ホ短調』 = 女王
●ブラームス『ニ長調』
●チャイコフスキー『ニ長調』

 (ドイツでは、チャイコフスキーの代わりにブルッフの『第1番・ト短調』が入り、全員ドイツ人で占めるそうです)

 です。

 ちなみに、前回触れた「四大ピアノ協奏曲」はといえば

●ベートーヴェン『第5番・変ホ長調(皇帝)』
●チャイコフスキー『第1番・変ロ短調』
●グリーグ『イ短調』 
●シューマン『イ短調』

 で、場合によってはベートーヴェンの『第5番(皇帝)』を別格官幣大社として棚上げし、ラフマニノフ『第2番・変ロ短調』が入る事もあります。

 この2つをご覧の通り、両方にエントリーされているのはどちらも「王様」として扱われているベートーヴェンさんを別格とすると、実はこのチャイコフスキーさんのみなんですね。

 モーツァルトもブラームスも達成していない、この「快挙」を達成しているところなどはさすがにエンターテイナー、チャイコさんの面目躍如といったところです。

 ところでこうして並んだ曲を見てみると、さすがに古くから「四大協奏曲」と奉られ、長きに渡ってその地位は微動だにしないだけに、どれを思い浮かべても納得できそうな名作・傑作揃いですが、実はワタクシ的にはこの中で唯一

 (そんなに良いかだろーか?)

 と若干の違和感が残ってしまうのが、このチャイコさんのヴァイオリン協奏曲なのです。

 勿論、素晴らしい曲であるのは認めるに吝かではありませんが、果たしてあれだけ傑作群犇くオーダーの中から「四大」に入れるほどの傑作かとなると、もっと他に入れたくなりそうな曲が幾つか浮かんでしまうのですが。

 とはいえ、やはり名作である事に異存はありません。

 そして不思議な事に、この曲も前回紹介した『ピアノ協奏曲』と同様の、珍奇な運命を辿る事になります。

 どうも、チャイコフスキーさんというお方は初演に運のない方なのか、この協奏曲も初演を依頼した教え子であるコチェークには早々に逃げられ、続いて友人の名ヴァイオリニスト・アウアーからも

 「演奏不可能!」

 とニベもなく断られた挙句、ようやくこの曲の真価を見抜いた名ヴァイオリニストのブロドスキーによって初演にこぎつけるも、何故か酷い悪評で迎えられる事になってしまいました。

 中でも毒舌で有名だった、批評家の大御所ハンスリックからは

 「安物のウォッカの臭みがプンプン漂ってくるような音楽であり、聴いているだけで気分が悪くなる・・・云々」

 などと、ボロカスに酷評される始末でした。

 この辺りは、やはり常に時代の遥かに先を行く天才ゆえの悲劇という感じも否めませんが、当時の感覚はともかくとしてワタクシ的には、それほど濃厚なロシア臭さは感じないんですがねー ヾ(*'ー`)ノ

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  • 11

世界一有名な(?)オープニングの曲といえば・・・ (後編)

 「演奏不可能だね・・・全面的に書き直さなきゃとても使えないくらいにメチャクチャだな」

 とかなんとかボロカスに扱き下ろされ、さすが温厚で鳴るチャイコさんもこの時ばかりは激怒し、部屋を飛び出していったと言われています。

 もっとも、これは

 (先生をアっと言わせてやれ)

 というチャイコさんのお茶目な稚気に反し、蔑ろにされたと勘違いしたルービンシテインさんの狭量こそは残念ですが、あながちそうとばかりも攻められない点もあります。

 実際に初稿の時のスコアは、現在世に出ているものとはかなり違っていてピアノの専門家の目から見れば、技術的にかなり演奏が困難な常識離れのした構成であったのは事実だったようです。

 そうして先生の毒舌に激怒しながらも、その後冷静に改定を試みたところこそはチャイコさんの偉いところで、チャイコ様から依頼されハンス・フォン・ビューローの初演が評判を取るや、己の狭量を省みて世界中にこの曲を広めて歩く事に専念したルービンシテインさんの態度もまた「過ちを改めるに憚る事なかれ」で、遅まきながらもご立派といえましょう。

 チャイコフスキーさんの音楽は、Classic界では「通俗的過ぎる」とか「芸術性がイマイチ」とかよく言われますが、ワタクシ的にはそういう戯言を並べてる人たちこそ聴き方がまだまだ浅いと言わざるを得ません。

表面的な通俗性にばかりに拘泥し、実はその音楽性の本質までじっくり掘り下げていないのではないか、と勘繰りたくもなります。

 ワタクシの独断では構成などにはあまり捕われぬ、出来るだけ若い感性を持つうちに是非とも聴いて欲しい曲であり、またあのゴージャスな貴婦人のような音の世界には、Classic初心者でもすぐに魅入られるハズであろうと自信を持ってお奨めできます (*^0^*)ノ

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  • 10

世界一有名な(?)オープニングの曲といえば・・・ (前編)

 物事何かにつけて「第一印象」が大事である事は総てに共通する事でしょうが、音楽とて例外ではありません。

 殊に30分を超えるような大作ともなれば、まずはオープニングからリスナーをしっかりと惹き付けてしまわない限り、その後にどんなドラマティックな展開が待っていようとも、そこまで聴かせる事は至難の技でしょう。

 無論、そんな事は偉大なアーティストの皆様方は百も二百も承知の事ですから、印象的なオープニングの曲だけを数え上げていってもそれこそ枚挙に暇のないところですが、それらキラ星のような傑作群の中にあってもなお、ひときわ煌びやかな輝きを放ちつづけているのが、この曲ではないでしょうか。

 クラシックに興味のない方でも、この曲のオープニングを聴いたことがないという人はまずいないでしょうし、これぞオープニングといわんばかりのあの華やかさは、ワタクシ的には古今東西のオープニングの中でも一、二を争う傑作に挙げたいところです。

 かといって勿論、この曲の魅力は単にオープニングだけに止まるものではありません。

 世に言われる

 【四大ピアノ協奏曲】

 に数えられるように、全編を通じてこのお方お得意の蕩けるような美しいメロディと、ウクライナ民謡の薫りをふんだんに盛り込んだ、まさに稀代のエンターテイナーの面目躍如を絵に描いたような感があります。

 ところでこれだけの素晴らしい曲ですから、普段は臆病かつ病的なまでの小心者と言われたチャイコフスキーさんにしては珍しくも相当な自信を持っていたようですが、何故か案に相違してピアノの師匠でありまたチャイコさんの理解者でもあった、ルービンシテイン先生からは・・・

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  • 9

大バッハのオルガン(後編) ムフフフ ( ̄ー ̄

 バッハさんといえば、多くのジャンルに渡ってそのジャンルの「聖書」と仰ぎ見られるような傑作を数多く遺していますが、代表作である『マタイ受難曲』を始めとした宗教音楽とともに、質・量ともに最も充実しているのがやはり専門分野であるオルガン作品で、その数はなんと400ー500曲にものぼるといわれています。

 その中で他を圧して有名なのは、いうまでもなく『トッカータとフーガ 二短調 BWV565』で、クラシックを聴かない人にも「ディズニーのファンタジア」として良く知られています。

 バッハさんのオルガンの代表作のように言われるこの作品に関して、実は

「ブクステフーデの、ある曲をそっくり真似たものである」

といったものから

「実はバッハの作品であることすら疑わしい」

などという見解(ライナーノーツなど)も出ていますが、敢えてこの曲にばかり拘る必要はないというのがワタクシの見解です。

なぜならば、キラ星の如きバッハのオルガン作品は知名度に捕われずとも、どれを聴いても『トッカータとフーガ 二短調 BWV565』にまったくヒケを取らぬ、名作揃いだからです。

 さてバッハ弾きのオルガニストとなると、それこそ世界中に星の数ほどもいますが最も有名なのは、やはりドイツのヘルムート・ヴァルヒャでしょう。

なんと盲目でありながら難曲中の難曲揃いと言われるバッハの、あの450曲からのオーダーを総て暗譜してしまい最初にバッハのオルガン全集を完成させてしまった偉人として、その世界では知らぬものなき存在です。

 ちなみに、ワタクシが最初に耳にしたのはフランスの女流・マリ=クレール・アランで、あのオルガン独特の音の拡がりを聴いた時には器楽ソロだけで演奏効果においてはオケにも対抗しうる、荘厳な響きを醸し出すオルガンの魅力の虜になった瞬間でもありました (ノ゚ρ゚)ノ ォォォ・・ォ・・ォ・・・・

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  • 8

大バッハのオルガン(前編) ムフフフ ( ̄ー ̄

 クラシック界の2大巨頭といえば、ワタクシの頭には真っ先にモーツァルトとベートーヴェンが思い浮かびますが、実はこの2人に大きな影響を与えたJ.S.バッハさんこそは、後世の音楽家たちに最も大きな影響を齎した存在でもあり、故に『音楽の父』と呼ばれています(実は、このバッハさんの大先輩に当たるパレストリーナこそが『真の音楽の父』とする説もありますが、それに関しては別の機会に触れたいと思います)

 今でこその「大バッハ」ですが、元々はオルガニストであり、主に教会でオルガンを弾いていたため作曲家=芸術家としては認知されず、ほぼ同時代に生きたヴィヴァルディやヘンデル、テレマン、或いは息子であるC.P.EバッハやJ.C.バッハといった作曲家に比べれば、殆んど無名といってもいい存在に過ぎませんでした。

 若い頃から大変な勉強家であり、旅行好きのヴィヴァルディが各地で買いとってきた楽譜の払い下げを受けたり、兄秘蔵の楽譜を密かに拝借し夜中の月明かりを頼りに、総て暗記してしまったとか(これが後年の失明へと繋がります)、また尊敬するオルガニスト・ブクステフーデの演奏を聴くために往復100km)もの道程をものともせずに歩いていったという、まことに桁外れな健脚と情熱を垣間見せるエピソードを挙げていけば、それこそ枚挙に暇がありません。

 多くの方がそうであるように、ワタクシもクラシックを聴き始めた10代の頃は「バッハ」と訊いただけでなんとなく難しそうなイメージが強く、どちらかといえば聴く前から敬遠しがちでした。

 元々、オーケストラものを好む傾向のあったワタクシが最初に聴いたのは、ご多分に漏れず『ブランデンブルク協奏曲』であり、それぞれ異なる楽器が主役となるこの6つの協奏曲にすっかり魅せられたワタクシは、遅まきながら次第に他のジャンルにも目を向けるようになっていきます。

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  • 7

モーツァルトで音を楽しむ(= ̄∇ ̄=)ニィ

「音楽はいかなる場合でも、楽しくなければなりません」

 これは天才モーツァルト様の遺したお言葉ですが、まさに読んで字の如しでこれほど簡潔にして的確な表現はないでしょう。
 「music」を「音楽」と訳した人のセンスはマコトにお見事としかいいようがありませんねぇ。

 そう

 「音を楽しむ」

 これこそが音楽の真髄であり、クラシックといえど「音学」ではなく「音楽」である事が第一義であるのは、変わりはないハズなのです。

 そしてモーツァルトさんの偉大なところは、そうした概念だけでは終わらず実際に

「音楽とは、こんなにも楽しいものである」

と、形ある作品として遺してくれた点です。

 あの膨大なオーダーのどの曲を聴いても、殆んど例外なく楽しめてしまうところが、モーツァルトさんの音楽の最大の特徴であるといっても過言ではないと思われます。

 とりわけ「楽しめる音」という点では、代表格の一つに挙げられそうなのがセレナード第9番ニ長調 k.320『ポストホルン』です。

 《ポストホルン》とは、15世紀にフランス、ヴェネツィアなどで郵便制度が始まった時に、郵便配達人がその到着と出発を知らせるのに使っていた小型の曲型もしくは環状のホルンの事で、神童時代に父に連れられ演奏旅行をしていたモーツァルトさんが、天才の直感でこの時に耳にしたものを後に巧みに作品に採り入れました。

 モーツァルトさんの多くの曲がそうであるように、プロローグ(アダージョ・マエストーソ)から圧倒的な音の魅力に惹き込まれてしまいますが、全編を通して目一杯の明るさの中にもそこはかとない哀愁漂うモーツァルトの作品群にあって、春の陽光のように聴いていて心がウキウキしてくるような楽しさ。

殊に、第六楽章(メヌエット・トリオ・第二トリオ)でのポストホルンの音色は、美女の微笑みを連想させる美の極致と言えましょう。

 美女の微笑みは儚い、されどモーツァルトさんの微笑みは永遠なのです (*^m^*) ムフッ

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  • 6

音楽の神様・モーツァルト (*^ー°v

モーツァルトの『セレナード第13番ト長調k.525』

こう訊いて直ぐにピンと来る人は、かなりのクラシックファンかモーツァルトファンくらいのものでしょう。

しかし『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』と言い方を換えれば、知っていると答える人はかなり増えるのではないでしょうか。

それでもまだまだこう訊いても、クラシックファンでない人は「知らない」と答える人が大部分でしょうが、実際にこの曲のオープニングを聴いてみれば、普段はクラシックに縁のない人でもおそらく一度も耳にした事のない人は、まずいないだろうと思われます。

クラシック界随一の有名曲のデパート・モーツァルトさんの、各ジャンルにキラ星の如く犇く名作傑作群の中でも、知名度では一、二を争う曲と言って過言ではないでしょう。

《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》とは、ドイツ語で「小さな夜の曲(小夜曲)」といったような意味らしいですが、あの一度聴いただけで忘れ難い印象深いオープニングから、あっという間にモーツァルトさん独特の世界に惹き込まれてしまいます。

全4楽章の構成ながら、第一楽章「アレグロ」があまりにも有名すぎるために、逆に第一楽章しか知らないという人も結構いるようですが、続く第二楽章の「ロマンスーアンダンテ」も独特の甘いメロディで、ファンが多いようです。

ここまで聴いただけでも、すっかり頬が綻んでしまいそうな素適な旋律の展開に圧倒されてしまいがちですが、第三楽章「メヌエットーアレグレット」を挟んでフィナーレの「ロンドーアレグロ」なども、いかにもモーツァルトらしい煌びやかな輝きを放っていて、全曲を通して聴いてこそこの曲の本当の魅力がわかるというものでしょう。

言うまでもないことですが、この曲に限らずクラシックというのは単なるフィーリングだけではなく、音楽的な構成も重要な要素であるため、ワタクシ自身は特定の楽章だけを切り取った「摘み食い」はしたことがありません。

 どんな曲でも全曲を通して聴いてこそ、その真価が判断できるという見解を取ります。

若干35歳という惜しまれる夭逝ながら、天才的な筆の速さで殆どありとあらゆるジャンルに数々の傑作を遺したモーツァルトさんですが、セレナードはオペラと並んで最も得意分野だったと言われます。

 そういった点からも、この曲などはモーツァルト入門にはピッタリの曲と言えるでしょう ☆ヾ( ̄ー ̄ )

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  • 5

田園を満喫する (^ー^)

 交響曲第6番《田園》といえば、専門家の間ではベートーヴェンの交響曲中(いわゆる「傑作の森」に入る前に書かれた『第1番』と『第2番』を除き)では

 「芸術性において一段低い」

 と評価されています。

 素人のワタクシには専門的なことはわかりませんが、ほぼ同時進行で書かれた《運命》などと比べても、形式的にはかなり型破りなところはあるものの

 (はたして、どこがどう一段低いの?)

 とクレームを付けたくなってくるほど、愛すべき名曲であります。

 殊にこの時期は、宿痾となっていた耳疾がいよいよ進行し、人知れず苦悩していたというバックボーンを考え併せるのなら、あるいは自らに降りかかる運命との戦いを直截的に表現した『第5番』以上に、この《田園》にこそベートーヴェンの真骨頂である精神性の深さを見出す事が出来るのかもしれません。

 とりわけ、既に殆んど聴こえかったのであろう耳をそれでも真摯に傾け、或いは心の内なる耳に記録し見事なまでに忠実に再現された小鳥の囀りや木々の囁き、小川のせせらぎなどは、日課になっていた田園散歩が興が乗れば朝から夜中にまで及ぶという「自然人・ベートーヴェン」の面目躍如たるものがあり、心を打たれずにはおきませんね (^-^)

 それゆえに大衆性ゆえの有難味のなさ、といった安易な図式に捕われず、野性のミューズが紡ぎだしたやすらぎの前に素直に跪き、酔いしれてみたいものです (*゜‐゜)ぼぉー・・

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  • 4

ベートーヴェンの『第5』を棚卸しする ( ̄(エ) ̄)ノ

ベートーヴェンの『第5』といえば、有名に過ぎる「運命」というニックネームであまりにもメジャーになりすぎて、不当にもすっかりミーハー扱いされてしまっていますね。
その上に、素材があまりにもギチギチに凝縮されすぎて1分の隙もないので息が詰まると敬遠されがちのきらいもあるようです。

かくいうこのワタクシ自身もクラシックを聴きかじり始めた17くらいの時に初めてこの曲を聴いた時は、やはりプロローグの「運命の動機」といわれるあの有名な部分ばかりが印象強く、到底この曲の真髄に迫ると言うには程遠いミーハーなリスナー群の末席を汚していたロクデナシの一人でしたが、次いで本格的にこの道にのめり込んでいく事になった20台後半にして、多少なりとも(←あくまで多少なりともと自認してます)ようやくこの深遠なる芸術の真髄に迫る事が出来たのではないかと思えたものです (^。^;)

あの張り詰めたような緊迫感の漂う第一楽章。王道を行くが如しの格調高い風格漂う第二楽章。フィナーレへ向けて徐々に高揚して行く第3楽章から「天才的な橋渡し」といわれる第四楽章への、あのなんともいえぬ美しい音の流れ。そして『第9』の歓喜の大爆発へのストーリーを予見しているかのような最終第四楽章まで、一音符たりとも無駄のないようなあの完璧さは、やはり何度聴き直しても指折りの傑作と言い切って間違いないでしょう。

何故に人は『第5』をこれほどまでに意識するのでしょうかね?

「大好きな『第5』!」

 と、照れずに胸張って堂々と言えば良いのになぁ (^-^)♪

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  • 3

4chの趣旨(後編) Ψ(ーωー)Ψ

 かつて濫読したあちこちの書物からの記憶を頼りにある程度創作で補っている部分もあり、またプロの評論家でもないワタクシが何でたかが息抜きのお遊びに過ぎない掲示板に意見を書き込むのに、一々専門的な文献に出典を求めながら検証していかなければいけないのか、とトコトン愛想が尽きたものです。

 が、考えてみればこの4chに毎回書いている程度の知識というのは、いわゆるオタクと言われるようなマニアならば凡そ誰でもが知っている程度のものだから、或いは専門知識を有する掲示板辺りのユーザーには退屈な内容に思えたかもしれず、ワタクシ自身も対象を間違えたかといった反省はあります(そんなに気に入らなければ、無視して来なければいいのにという疑問は、依然として拭いきれませんが・・・)

 かねがね不特定多数のユーザーを対象にしたCaféのこのHPに、何故マニアックなclassicが出てくるのかという疑問を抱いている方はいるでしょうが、実はこの趣旨はこうした経緯があってのもので、なんとなくClassicに対する興味だけは漠然と持ちながらも、今ひとつ踏み切れないような人にこそ読んで貰いたいというのがワタクシの狙いどころといえます。

 とはいえワタクシも趣味人の端くれとして、興味のない人にまで無理矢理に趣味を押し付けるのは最も愚かしい行為だという自覚はありますので、基本的には作曲家の生き様に多くのボリュームを割くなど、Classicに対して余り知識のない人が読んでも「読み物」として面白く感じられるよう心掛けており、まったくのデタラメでは決してありませんが、あくまで一ファンの創作文であるため検証に重きを置いている訳ではなく、部分的に多少は事実に反するようなところがあろうかと思われます。

 したがって、マニアと言われるような人のカタルシスを満足させるような内容では決してない事を、予めご了承いただきたいと思います。

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  • 2

4chの趣旨(中編) (`Д´)y-~~ちっ

 嫌いな作曲家の殆んどないワタクシにも、ごく稀に良くわからない作曲家が存在します。

 ある有名作曲家の代表作と言われる2つの作品を聴いてサッパリその良さがわからなかった時に、その時の気分を率直に

 「××××がわからない」

 という板を立て

 「一体、これのどこがよいのやら・・・」

 といった趣旨の事を書いた時は、その作曲家の熱心なファン(というか信者と言った方が正確か)と思える連中から轟々たる非難のレスが続きました。

 無論どんな意見にせよ反論は自由であるし、そうした議論を通して互いが知識を高めあっていくのは悪い事ではないでしょうが、この時のは殆んどが反論というよりは誹謗中傷ばかりだった。

 最初のうちは全体の2割くらいは

 「実は自分も、あれだけはよくわからん」

 などと同意する人や、その作曲家のファンでありながらワタクシの趣旨にも部分的に共感を持ってくれるという人も居たのですが、次第に2ちゃんねる(実は2ちゃんねるには、物凄い知識を持った人が少なくありませんが)並みの公衆便所の落書きも同然といった、冷静さを書いたヒステリックな誹謗中傷の類が増えていくにつれ、残念ながら賛同派の方は櫛の歯が欠けるように退いて行ってしまいます。

 例によって

 「オマエのIPを特定出来るんだぞ~!」

 などという脅しもありましたが、当時からそんな事は出来っこない愚かなゴマメの歯軋りに過ぎない事は百も二百も承知していたワタクシが、そんな幼稚な脅しに爪の先ほども驚く訳もないですが、時折出てくるマトモな反論に対しては真面目にレスを還すと論理的な反論の出来ない無関係な輩が何人も出てきては苦し紛れに

 「削除依頼出すぞー!」

 とワーッと押し寄せてくると言う始末で、あまりの程度の酷さに心底ウンザリさせられたものでした。

 知識のある者も性質が悪く、ワタクシの書いたものに対してテーマの本質ではないところに重箱の隅を穿り回すように

 「指摘されているような事実は正しく検証されていない・・・デタラメを書くな・・・」

 といった調子で、自分の知らない知識が出てくると

 「出典を明らかにしろ」

 などと、しつこく迫ってくる始末です。

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  • 1

4chの趣旨(前編) (´ー`)y━~

 実生活においても交友範囲が極端に狭いワタクシの事で、周囲にClassic音楽(以下Classicと略)のファンは殆んどいません。

 元々がポップスやジャズなどに比べ、Classicファンの人口はかなり限定されてくるのでしょうから無理からぬところでしょうが、ワタクシ自身がカタルシスを得られるくらいの同等の知識を持った友人となると、まったく皆無というのが現実です。

 インターネットを始めた初期の頃は、やはり全国で同じワタクシと同様の飢餓状態に置かれているような、Classicファンとの遣り取りに期待しました。

 まず有名サイトに無料HPを創り、自分自身のClassicに対する見解を書いていたものの、まったくと言ってもよいくらいに反響がありませんでした。

 そこで、有名サイトの掲示板に進出を試みます。

 ご存じの通り「YAHOO!」など有名サイトにはカテゴリ別に膨大な板があり、Classicにおいてもそれは例外ではありません。

 無精者のワタクシは、これらの乱立しているトピックに目を通すのを面倒に感じたため、自ら立て続けに新規の板を立てていく事にしました。

 最初に立てようとした「YAHOO!」の掲示板が件数制限で立てられず、「infoseek」に立ててみたものの期待したほどの反響がなく、しばらく待ってからようやく空きの出来た「YAHOO!」に何本かを纏めて立ててみると、さすがにかなりのレスが還って来ました。

 しかもその多くが相当のマニアで、中にはワタクシなどは舌を巻かざるを得ないくらいの評論家バダシやマニアックな御仁も少なくなく、やはり全国には同じような同好の士を求めている人が居るものだと感心させられたものです。

 数多くのトピックの中には、かなり当たったものから殆んどレスのないままに消滅してしまったものまで色々ありましたが、どんな愛着のあるトピックにしろ一定期間レスがつかず落ちそうになると無意味な投稿をしてトピックの延命を図る「無駄アゲ」は一切しない主義を貫きました。

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最終更新:2007年05月23日 01:33