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  ◇ ◆ ◇



 彼は誰よりも真剣だった。彼は誰よりも麻雀を愛していた。たとえ運命の女神に愛されなくとも。


                                               ――――麻雀プロ 弘世菫(28)、インタビューより


  ◇ ◆ ◇




 ――東京都、練馬区。

 季節が秋から冬へと移り変わる証として、日差しは嘗ての強さを失う。

 しかし未だに本格的な冬仕度には早く、ともすれば晴天の日などは薄着でも背に汗を滲ませるほど。

 透明度の薄れた秋も終わりの空、店名に冠した西洋骨董家具を如実に表したほの暗く落ち着いた雰囲気の店内から、金髪の青年が窓外を見上げた。

 整った目鼻立ちに滲むのは明朗さと柔和な人の良さ。

 身綺麗に纏められた背格好からは、社交性が後ろに見える。

 身に纏うは、滑らかに色を沈める黒色のカマーベスト。染み一つ無い白色のウィングカラーシャツの首許からは、くすんだ赤色のタイが逆扇形に胸元まで垂れる。

 黒いズボンのウェイターの出で立ち。銀盤を抱えたその姿は、しなやかな手足の長身と合わせてなるほど実に様になっていた。


「須賀さん、どうかしたんですか?」

「ん、いやーこれが秋晴れってのかなって」


 もう冬に近いけどな、と笑う青年に同僚の眼帯の少年は同じく苦笑で応じた。

 店内の人影は疎ら。

 店員の数と客の数がおおよそ等しいほどしかいない。

 働いているのは青年と少年。

 他には善人然と目を細めた白髪頭の喫茶店の店長と、団子鼻の洒落っ気に充ちた青年、人を寄せ付けぬ雰囲気で黙々と豆を挽くセミロングの黒髪の少女。

 足運びに合わせてそれとなく利用者に目を配る青年は、カップの空き具合などと共に其々の客の関係性を伺う。

 誠実そうな眼鏡の青年と両目の下にいくつも続いた泣き黒子が特徴的な少女――会話から察するに教師と生徒。

 胸部が豊満な美人と中性的を通り越して女性的な少年――話を鑑みれば叔母と甥。

 癖の強い黒髪に黒縁眼鏡の男性と理知的そうな少年――こちらは伯父と甥。

 たかが喫茶店の客一つとっても人間模様というのは様々で、なるほど確かに人を見守るという意味でこの仕事はというのは実に向いているのかも知れない。

 などと心中で嘯きかけた青年は、続く新たな来客を知らせるベルにドアへと顔を向け、


「いらっしゃいませ――、……え」


 にこやかな表情のまま、硬直した。


「禁煙席。一人」


 店内に足を踏み入れたのは、眼鏡をかけた怜悧な美人。肩ほどでカールした栗毛。

 見た者は、彼女に対して隙のない硬質の精密機器のような印象を抱くであろう。

 その所作と佇まいからは機能美が滲み出る。鉄の女、という評価なら強ち外れてはいない。

 レンズの奥の不機嫌そうな半眼も眉間の皺も、却ってその優秀さを際立たせていた。

 そんな彼女の視線は、店員の青年を見るとき更に尖る。

 浮気して別れた元伴侶に、怒りも冷めやらぬ内に中々納められない養育費を取り立てに行くとするならば――女はきっとこんな目線を送るであろう。

 そんな、ある種の手本めいた厳めしい双眸。

 やがて注文のコーヒーを運んで行く際も、店員は何処と無く居心地が悪そうであった。


「……船久保さん、あの、どっからここを」

「記者が情報知らんで、誰が知ってはるんやろうなァ」

「……」


 女性客――船久保浩子の冷たい呟きに、店員の青年は尚更萎縮した。

 普段余り見られない青年のそんな態度に、同僚たちは俄に注意を向ける。

 立つ瀬がないとでも言わんばかりに落ち着きをなくした青年と、彼にあまり目を合わせずに振る舞う女性。

 事件と言うには大袈裟過ぎるが、受け流すには重過ぎる。


「お久しぶりさんです、須賀元プロ」

「えっと……その……お久しぶりですね、船久保さん」

「……浩子でええってゆーてますやろ」


 声には若干の呆れとも諦めともつかぬ色が混じったが、それでも依然として固いまま。

 差し出されたコーヒーカップに目を落としたまま、船久保浩子はぼそりと漏らした。


「まさかかつての日本一が、こんなとこで働いとるなんてなぁ」

「いい店っすよ、ここ」

「……そりゃまあ、見りゃあ判ります」


 軽く店内を見回した船久保浩子は、深い息を漏らしながらもコーヒーに口を付ける。静寂を、嚥下の音が濁らせた。

 対する須賀京太郎は、直立のまま所在なさげに視線を漂わせる他ない。


「えっと……船久保さん……?」

「浩子でええ、ゆーてはりますやろ。須賀……あー、元プロ」

「じゃあ、俺の事も元プロって呼ばないで下さいよ」

「あー、そりゃすまんこって」


 そこで会話が途切れる。

 口にしたは良いものの、互いに相手をなんと呼んだら良いのか図りかねている風でもあった。

 それとなく、青年が視線を外す。他の席に何かないのか、窺う風に――そこへ。

 やおら、女性は切り出した。


「……ホンマにもう、こっちの業界に戻るつもりはないみたいですなぁ」

「あー、俺だともう厳しいよなって」


 後頭部に手をやる青年を、改めて女性は見据えた。

 レンズ越しの目が細まる。軽い口調で答えた青年の真意を問いただすべく――、或いは彼の中に潜められているかもしれない燻ぶる残り火の陽炎を攫うように。

 しかし、女性の目線を受けても青年はたじろぐだけだ。

 職業柄人間観察に自負がある女性をもってしても、感慨や乃至は自嘲や自虐など、少なくとも彼には見受けられなかった。

 冷静に事実だけを口にした。なるたけ不穏な響きを含まぬよう、空気を冷やさぬよう――そんな感じだ。


「なら、メソッド本でも出してみるつもりはないんですかね。須賀プロの勝利の方程式……みたいなの」

「いや、俺には本とか向いてないんじゃ……結局プロやめちゃってますから、俺」


 流石にそれは恥ずかしいし、何よりも説得力がないだろう――彼はそう言いたげである。

 なるほど確かに一面だけを見れば青年の言葉は事実であろう。

 少なくとも手放しに世に出せるものではないし、今更何をと冷ややかな目を向けられる事だってあり得る。

 そういう意味では彼が二の足を踏み、或いは乗り気でないのも理解できた。元より女性自身、そこまで本気で言い出した訳でもない。

 だが――、それは物事の一面でしかない。

 彼の言葉は事実であるが、それだけでも語れないものがあるのもまた真実だった。



「小鍛冶健夜、宮永照宮永咲大星淡に勝っといてよー言いはりますわ」

「照さんに勝ったって言っても……あれは小鍛冶プロも居て、それに俺は結局二位確和了で小鍛冶プロが一位ですよ」


 謙遜か、或いは本音か。

 彼女は青年の言葉がどちらを意味するのか量りかね、次いで口を開く。


「でも、あのタイトル戦でその小鍛冶健夜に勝ったのは?」

「俺一人の力じゃないですよ。大星と、咲が居たから勝てたようなもんで……」

「それを利用できるから一位、なんやと思いますけどね」

「一位、って……」

「これ。結局ボツりましたけど」


 船久保浩子が差し出したのは、印刷された一枚の紙。

 そこには――こう書かれている。


『M.A.R.S.ランキング1位:“人類の到達点”須賀京太郎

 プレイスタイルに縛りはなく、麻雀における人の研いた技術全てを用い、更には卓上の他者の癖も加味して変幻自在に立ち回る。

 己一人の力ではなく、外部の力の象徴を剣として戦うその様は、正しく四人でゲームを行う麻雀そのものと言っても過言ではない。

 連帯率は六割強。技術が三割と言われる麻雀において、その三割を堅実に広い集めているという結果である。

 度々大きな失点や逆転以前に勝負の場に立てないなどといった不運に泣かされる事もあり、13位という順位に甘んじていたが、

 この度の、国内無敗の小鍛冶健夜・宮永照両名に土を付けたという快挙から、第1位としてランキングが更新された。

 プロデビュー初年度以降、成績がほぼ停滞し順位が固定されてしまう傾向にあるM.A.R.S.ランキングの上位陣においてのこれは快挙であり、今後の活躍が期待される』


「……こんな記事、いつの間に書いたんですか?」


 困惑気味な口調の京太郎。

 問いかけつつも彼はしかし、第一位という一文については一切の否定の言葉を挟まなかった。


「協会がランク更新するって話を先んじて手に入れて、スクープやなって……原稿書いとったんですわ」

「あー」

「あのあと、まー色々ネットで言われとったから忘れたいと思ってもしょうがないですけどね」


 そう呟く船久保浩子の顔は苦い。同じく須賀京太郎も、無言で目線を落とした。

 互いに触れるは未だしも掘り下げるべきではないと、同意しているようであった。


「あれは……俺より小鍛冶プロに申し訳ないです」


 途切れがちになりつつも答えた彼の言葉も、前後の沈黙に滲んで消える。

 他の席の客の話し声、或いは通りを行き交う音の波と窓から射し込む白光に、二人は塗り潰された。

 暫しの静寂は、浩子から打ち切られた。


「……まぁ、元気にしとるようで何よりです、ホンマ」


 ごちそうさん、と領収証を片手に店を去る船久保浩子の背中を見詰めた後、京太郎は手元に残された記事をもう一度眺めた。


 『宮永照はこの戦いを終始トップのまま走り抜けたが、南三局にて小鍛冶プロにより背中を刺され、僅差に。

  更には続く南四局で、小鍛冶プロを警戒するあまり須賀プロからの直撃逆転を受ける。

  この際宮永プロは小鍛冶プロの当り牌を掴んでおり、更には須賀プロの和了牌も手にしていた。

  どちらを切っても逆転を免れず、手段としては手を崩して和了するしかなかったが、小鍛冶プロが和了した場合は連荘からの逆転があり得、勝負するしかない状況であった。

  結果として須賀プロの和了は小鍛冶プロの和了よりも安かったため、二者択一ならばそちらの方が多少は安かった。無論、ベタ降りで逆転されるのが最小限であるが。

  須賀プロはこの戦いを逆転2位、小鍛冶プロは1位で終了となる。この戦いの結果を踏まえてか、続く蜂王タイトル戦は須賀プロにとっても因縁のリベンジマッチとなる――』


「……」


 『M.A.R.S.ランキング第2位:“闇を裂く雷神”宮永照』

 続く文章に移ろうとしていた京太郎の目は、同僚の少年の呼び掛けに停止した。

 仕事中である事を失念していたと、頭を掻きながらカップを下げる彼に同僚からの問いかけ。


「あの人、知り合い……ですか?」

「元恋人……って奴かな?」


 団子鼻の気っ風が良さそうな青年がそう後を追う。

 勘繰られるようなものは何もないのだ。京太郎には理由が判らないが、彼女からは何故か辛辣に接されていた。

 いや、理由は言われたかも知れないが――兎に角、ああも辛く当たられると何処と無く苦手意識を抱いてしまうのもまた事実。


「ん、いや……昔の仕事の付き合いだけど」

「そうは見えなかったけどな。ねえ、店長?」


 笑いを意味深に噛み含んだ言葉に、しかし店長は求められた同意に答えずに細めた目で返すだけ。

 代わりに黒髪の少女が、冷淡に呟き漏らす。


「それか離婚した奥さんか、浮気したせいでフラれた元カノってとこかもな」

「……なあなんか酷くねー?」


 俺の同僚がこんなにも辛辣な訳がない。

 世は正にマッポー、大後悔時代の幕開けである。

 尤も京太郎が悔やんだところで、元々彼に止められるようなものは何もなかったのだが。

 等と同僚からのイビりを受けつつカップを戻した彼に追い打ち。

 美叔母がその甥にたった今の出来事を解説していた。男女関係の一例とばかりに。無論悪い意味での。

 なんたる時代か。どうやら仏は寝ているらしい。正にマッポー、大後悔時代は本当に幕開けしていた。


 一方、店外。街頭の群れ、人波に逆らって歩くのは船久保浩子。


「プロになったはいいけれど……今は喫茶店のアルバイト、か」


 後輩からそんな事実――かつての麻雀プロ、かつての第一位が現在そうして過ごしている。

 そんな言葉を聞いたとき、矢も楯もなく逢おうと思った。

 店の場所を聞き出して、だがそれからしばし置いて冷静になり、外回りで近くに足を運ぶ機会があったのなら店に出向いてみようと思った。

 そうして、再び――自分たちの前から姿を消したあの金髪の青年と出会って、そして彼に色々と口を挟み押し付け、店を後にした。


「……なにがしたかったんやろなぁ、自分」


 呟きつつもコートの襟を正す船久保浩子は、溜め息を一つ漏らしてまた歩き出した。




  ◇ ◆ ◇



  何が言いたいのよ。知ってたから見捨てて逃げたって言いたいの? それとも相棒の癖に知らなかったって?

  面白半分で、私と相棒の関係に口を挟んでんじゃない!

                                             ――麻雀プロ 小走やえ、移籍決定後「須賀プロの事は知っていたのですか」と聞かれて



  ◇ ◆ ◇




「にしてもこれ……べた褒めしすぎだろ」


 箸を口元まで運びながら、京太郎は口角が吊り上がるのを隠せなかった。

 膝元に置いた先ほどのゲラからは、己がその時考えていた事を――ともすれば自分自身より詳しく解説し、そして評価する言葉。

 それだけの期待を掛けられていたものを不意にしてしまった事には勿論申し訳なさも滲むが、それ以上に、純粋に嬉しい。

 こうして他者が自分を褒め下すというのに、誇らしく思わぬ訳がない。

 部屋の中で一人、静かに拳を握りたくもなる――が堪えた。

 これはあくまで過去の栄光、かつての須賀京太郎の功績であって今の彼を飾る言葉ではない。


 いつぞやある麻雀プロに、「高校卒業してこの道に来たらこうも特殊になるのか」――などと評した事があったが、今ではそれは彼に当てはまる。

 麻雀プロ時代に作った人脈もあるが、それは今では生かせない。

 麻雀の解説なら可能かも知れないが、プロのハイレベルに適応できるのかという問題もある。

 スポーツばかりは門徒が狭くどうにもならないし、何よりもやはり一流アスリートと戦えるほどのフィジカルセンスは存在しない。

 掛けた努力の差は、最後に顕著に表れるだろう。

 俳優やタレントという道がなかった訳でもないが、あくまで彼はプロの雀士だ。そのような仕事もしていたにしても、プロ活動の一環であったから。

 その物自体が好ましい訳でもなく、ましてや自分自身がやりたい仕事でもないのにそれに就くというのは、些か考えにくいところがある。


「さて、んじゃやりますか」


 食器を片付けたテーブルに置かれた教科書の束。実家から引きずり出してきた中学と高校の教程。

 所々にされた、不自然な髭面や或いは額に超人プロレスラーの証の文字を付けた作者近影を眺めつつ、京太郎は顔を綻ばせた。

 こんな落書き一つで、ふと思い出される記憶もある。


『……ねえ、須賀君』

『おう、どうしたんだ……宮永?』

『あの……ね、お願いがあるんだけど……その……』

『おう』

『須賀君、って……いつまでも呼びにくいし……あの……』

『……』

『きょ、京ちゃんって読んじゃ駄目かな?』

『……』

『えっと、あの……その……』

『……』

『す、須賀君……?』

『……』

『あの……』

『「京ちゃん」、だろ? そこはさ』

『う、うん!』

『じゃあ俺も宮永じゃなくって、咲って呼ぶぜ。なんか今更だけどな』


 その後、国語の教師が後ろに来ている事に気づかず、おまけに教科書の落書きを見咎められてちょっとした大目玉(なんか変な言い方だが)だった――。

 などと、京太郎はしみじみと思い返した。


「しかし、あの頃は咲がこんな風になるとは思ってなかったよなぁ」

 そう漏らして京太郎は、左手側を見た。船久保浩子から受け取ったゲラの下から直角三角形に覗く見出し。

 記事は、麻雀プロ特集。

 彼女との会話の後、帰宅の折にふと売店で購入してしまっていた。

 そこには、宮永咲と大星淡の因縁の対決――などと書かれている。

 高校時代からの因縁であると踊る文字。

 彼女らの順位を軽く眺め、いかんいかんと頭を振る。


「それよりも勉強しねーと」


 やがて――。

 一人の少女の影が見えた。小さく、縮こまった肩を震わせる赤毛の少女。肩ほどで切り揃えられた髪が、その度に揺れる。

 京太郎が近付くに連れて、その少女は成長する。しかし変わらず背中を丸めて、泣いたまま。


「なあ、どうしたんだ?」


 直ぐその後ろに着いた京太郎は、肩を叩く。

 そして、呼吸が止まった。

 振り向いた少女の――女性の瞳に京太郎は呑まれた。

 驚愕、悲哀、憤怒、衝撃――自らを支えていた物が非常に不本意な形で奪われ、裏切られたという――何もかもが入り交じって綯い混ぜとなった、唖然と評するしか出来ない表情。

 何よりも雄弁で、同時に無言な声。

 思わず、声を上げていた。

 仰け反った京太郎の腕に、教科書が押しやられ――


「……あれ?」


 床と教科書が織り成す不協和音に須賀京太郎の意識は覚醒した。

 頭を振るう……どうやら勉強中に眠ってしまったらしい。長針は、午前二時に差し掛かったあたり。

 眉間の皺を解して、欠伸を一つ。


(……照さん)


 あんな記事を読んだからだろうかと、彼は首を捻った。

 夢に見たのは、彼が宮永照を上回ったとされる一戦――京太郎の狙撃を受けた瞬間の宮永照の表情そのもの。


 あの戦い、終始須賀京太郎は道化でしかなかった。

 小鍛冶健夜と宮永照の新旧頂上対決に介入できず、ひたすら堪えるしかなかった。

 ただ、全力を以て振り落とされないだけで精一杯。

 そしてじっと機を待って――否、機を伺うと云うよりは死力を尽くして致命傷をただ避け続けた。

 常に全開で、全霊で――――否、限界を超えて。

 そうして巡り得た逆転の秋(とき)に、鋭く研いた一撃を繰り出した京太郎であったが……。

 それは、鋭くはなかった。研かれてもいなかった。一撃ですらなかった。

 彼が自分自身手に入れたと考えていた攻撃は、全てが小鍛冶健夜の手のひらの上。

 彼は、宮永照を幾重にも攻め立てる石塊の一つでしかなかったのだ。


 完敗だった。

 京太郎は負けた。ただ負けた。小鍛冶健夜の能力の片鱗すら掴めず負けた。

 ただ圧倒的――。

 本気の小鍛冶健夜と相対したものは二度と麻雀が打てなくなるほどに恐ろしい打ち筋――という噂に違わず、彼我の絶望的な差しか知れなかった。

 何かの特性としか思えぬが、あまりに多才過ぎて万能過ぎて輪郭すらも知れない脅威であったのだ。小鍛冶健夜は。

 共通点はただ一つ――“小鍛冶健夜の本気には心が折られる”それだけであった。

 正確に云うのなら、“自分の麻雀を信じられなくなる”と言ったところか。

 とはいえ結局は、船久保浩子の言うように須賀京太郎は雪辱を果たしたのだから、過ぎた話。

 それよりもここに来て彼の心に障ったのは、


(……元気にしてるのか、照さん)


 宮永照が今どうしているのかというところだ。

 あの一瞬覗かせた顔は、今までかつて触れた事のない激情だった。

 放っておけず思わず彼もその背中を追いかけたが、果たして諦めた。

 京太郎は二位。形からすれば勝者が敗者に情けをかけるも同じである。

 敗者を想像すれば余りにも憚られるそれに、足を止めて見送った。

 結局それから、一言も言葉を交わせず終いで須賀京太郎はプロを引退した。

 未だに気掛かりだが、


(ま、あの人はチャンピオンだし……大丈夫だよな)


 結局、だからどう出来るという話でもなければどうしたいという話でもない。

 彼に可能なのは精々、宮永照の強さと人間の強さを信じる事だけであろう。

 それより、他人の事より自分の事。


「……寝るか」


 首を鳴らして、敷いた布団に潜る。

 どうやら今日は、あの短毛の来訪者は都合が合わなかったらしい。

 銀のトレーは、埋まっていた。




 ◇ ◆ ◇




   ……師匠より先に居なくなるって、馬鹿弟子ねー。

   あはは、そう思わない? ねえ? ははは……ほんっとバカよねー、須賀君。……馬鹿だなぁ。



                             ――アナウンサー 竹井久、須賀プロ引退についてコメントを求められて



 ◇ ◆ ◇




『……ちょっと。あのさ、京太郎……聞いてるの?』

「ん、ああ、悪い悪い」


 どこか上の空の須賀京太郎を咎めるように、電話先の声が鋭く尖る。

 愛敬や親しみやすさを残した響きはどこか艶やかであり、電話の向こうの人物の瀟洒さと明朗さが窺い知れる。

 嫌味のない媚びと言おうか、清明な色気と言おうか。

 新子憧――京太郎とはもう十年を超える付き合いであった。

 初めて彼と彼女が出会ったのが高校一年の冬であったので、もう直に十一年目に及ぼうか。

 大学では同学部で、殆どの行動を共にした。下宿先も隣部屋であり、同じ食卓を囲む事もしばしば。

 それこそ下手な恋人以上に付き合いがある異性だと彼は自認していた。また彼に限った話であるなら、恋人と一年以上続いた経験がないのだが。


『それで、今度そっちに行くって話だけど……』

「それはいいけど……俺のとこは一間しかないけど、どうすんだ?」

『でも、ホテルってのも高いし……』


 京太郎の問いかけに、憧は言葉を濁した。

 新子憧は奈良は吉野――かつての己の母校で教鞭を執っていた。もう四年になろうか。あと半年もせずに五年目に突入する。

 確かに、奈良から上京する費用も馬鹿にならない。

 ましてやホテルに宿泊するというのは――特に女性ならビジネスホテルやカプセルホテル等といくまい――中々の出費だ。

 彼女がこうも躊躇いがちになるのも頷ける……と、ここで京太郎の脳裏には名案が。


「あ、そうだ。だったら松実プロのとこならどうだ? 憧の事も知ってるし丁度良くないか?」


 少々厚かましいかも知れないが、同郷の士と旧交を暖めるというのは良いのではないか。

 もしも互いの意見が合えば、であるが……悪くはない筈だ。

 我ながら妙案ではないかと自信を持って提案した京太郎であったが、


『……はぁ』


 彼に返されたのは、そんな呆れ混じりの溜め息。


「え?」

『なんでもないわよ。なんでも』

「……?」


 そうは言っても露骨に声が明るさを失っている。

 流石にこれを聞いて額面通りに受けとるほど、京太郎も無神経ではない。


 ふむ、と空を仰ぎ――それから口を開く。


「じゃあ、……そうだな。俺のとこに泊まるか?」

『へっ!?』

「憧……?」


 見事に予想だにしなかった。青天の霹靂である。瓢箪から駒。絵に描いた餅は食えない。

 ――最後のは関係ないが、兎に角電話口の声は驚きを露にしていた。

 なるほど、憧にとっての京太郎はこんなときにそう提案しない男なのだろう。

 流石にそれは違うぞ、と彼も内心苦笑を溢す。

 そこまで向こう見ずでも恩知らずでもない。


『い、いいの? え? それ本当だよね? 今更嘘とか言っても許さないんだから!』

「いや……憧が狭くてもいいならだけどな」

『あ、あたしは全然平気! むしろ望むところよ!』

「あ、ああ」


 (望むところ……?) 一体何がだという疑問を、京太郎は噛み殺した。


『その……京太郎? お風呂も狭い?』

「広くはないけど……」


 うーん、と目線を空に預け思案。

 単純な容量で言えば一人分が精々だが、詰めれば二人或いは三人は入る。快適な使用には程遠いし、態々詰める意味もないが。

 大きさを気にするなら正確に言うべきだろう、と京太郎は案じた。女性は風呂など水回りに気を使うと言うし。


「キツキツなら二人入るくらいか?」

『ふきゅ!?』

「……憧?」

『なんでもないっ、あ、あと壁は?』

「壁? 耳があるとか目があるとか?」

『あるのは耳だけ。目は障子でしょ』

「流石だな。新子先生は伊達じゃないな」

『……』

「……憧先生?」

『……っっ』

「……憧?」

『な、何が!?』


 いやお前が何が、である。口にはしないが。


「で、壁がどうしたんだ?」

『いや、その……壁が薄かったりしないのかなーって思ったのよ』

「ああ……」


 確かに生活音というのは気になる。寝入り端に隣室の物音など立てられて、苛立つ事など誰もが経験するだろう。

 それなりに温厚な方であると評される京太郎とて、流石に夜中の三時に大音量でバラエティ番組を流されながら掃除機を掛けられた日には、本気で怒鳴り込もうかと考えたくらいだ。

 意外と新子憧にはちゃっかりしながらも潔癖なきらいがあるし、そこらへんは素直に答える事にした。


「たまに声とか聞こえてくるな。大声とかよっぽどの笑い声、とかじゃないと大丈夫なんじゃないか?」

『そっ。……うーん、そっか』

「まあ気にしなきゃ平気なぐらいだけどな」

『いや…………まぁ、うん。なら……多分大丈夫……かなあ?』

「憧、そういうの気にするタイプなのか? なら大学時代とか、結構悪いことだったりしないか」

『え……あー、それはー、うん、まあ何て言うの? 御互い様って言うか……』

「御互い様っつっても、俺の方には全然聞こえなかったぞ?」

『……よし』

「よし?」

『あ、相手から聞こえるのもそうだけどこっちのが聞こえる方が困るでしょ?』

「……そうなのか?」

『いやそこは気にしなさいよ!?』


 まあ、女性ならそう感じるのかも知れない。

 男で言うところの、ホモが隣の部屋で聞き耳を立てているようなものだろうか。

 いや、聞き耳を立てていなくても……自分が相手の対象になり得る存在なら、確かにいい気はしないのかも知れない。

 この辺りは男である自分には今一良く判らん感覚だな、と彼は思考を打ち切った。


「それじゃ、そろそろ仕事に戻るな」

『頑張りなさいよ、フリーター』

「頑張りますよ、正社員様」

『あはは、じゃーね♪』


 ふむ、と通話を打ち切って頭を上げる。

 頭を上げたはいいけど、どうにも自分は彼女に頭が上がらないだろうな――と京太郎は息を漏らした。

 そのまま彼は首を鳴らし、伸びをひとつ。


「……ま、その間は俺がどっか泊まればいいよなぁ。呼んでるんだし」


 それにしても――。

 家探しされて困るものは何も置いてないが、何となく女性に部屋の鍵を明け渡すというのは尻の辺りが落ち着かないなと、京太郎は頬を書いた。




「ちーっす、京太郎ー」

「泉ぁ!」

「ひっ」


 電話から戻った京太郎は、軽く手を上げる客を前に声を荒げた。

 とはいっても本気で怒っている訳ではない。ただ、なんとなくこう接すると面白いのだ。ある意味嗜虐心かも知れない。

 極めて温厚である――或いは物腰柔らかな態度を示す彼からしたら、このような場面は似合わないし、実際彼も好むところではないが――。

 ただ、なんとなく彼女に対してはこうして接していたりする。時々。


「泉ぁ!」

「ひっ」

「……うん」

「いや、なんやねん!?」


 僅かに日に焼けて色が薄れた黒髪。

 癖が強く纏まりなく方々に伸びるそれは、目に掛かるか耳に掛かるかというほどに前髪は長いのに、後ろだけは襟に掛からぬほどに短く整えられる。

 勝気そうな瞳であるが、気負いすぎて予想外の事への弱さ――が浮かんでいる風である。

 ズビシ、と腕が京太郎の胸元に突き出される。

 動きやすいようにか灰色のパーカーの袖を捲りあげて七分袖にして、その下には白いシャツが覗く。首元のシルバーはワンポイントだろうか。


「お前、それ寒くねーの」

「高校ん時はノースリーブ臍だしやったし、別になんとも」

「……痴女」

「誰が痴女!?」

「いや……それを俺に言わせるか?」

「なんやの!? 当たり強ないか!?」

「まーなー」


 胸に手を当てて考えてみろ、と呟きそうになった京太郎であったが、なんとなく残念な胸部を眺めて溜め息を漏らした。

 ここでそう言うのは、酷というものであろう。実際平坦だった。


「なんか今私のことごっつう馬鹿にしてへんかった?」

「心当たりがあるならなー」

「いや……心当たりか……うーん」


 黙り込む泉を尻目に、同じくテーブルについていた女性が彼に頭を下げた。

 肩のあたりで折り返され、後頭部にバレッタで止められた薄紫色の長髪が揺れる。髪と同じ色の瞳は、冷静さを湛えながらもそれは冷淡さにも繋がりそうなもの。

 白のブラウスと紺のロングスカート。ストッキングではなく、黒のレギンスを履いた足を汲みながらも静かに二人のやりとりを見やってコーヒーを啜る。

 名を、末原恭子と言った。


「どーも、第一位さん」

「その呼び方やめて貰えませんかね……? あ、お疲れさまです末原さん」

「なんか私と対応違わへん!?」

「泉、うるさいぞ」

「泉、うっさいで」

「なんやねん!? 虐め!?」


 酷い、と泣き出しそうになる泉に冷淡な目線を向ける恭子は、彼女の同僚だった。

 年齢からしたら二つ上――二条泉は京太郎と同年代――であるため、本来なら先輩にあたるのだろうが、生憎と末原は大学出。泉は高卒。

 形からしたら、末原恭子が泉の後輩となる。……尤も、泉の性格故にそのような振る舞いとは至っていないが。


「あ、こないだのアドバイスどーもです」

「いや、俺が役に立てたなら何よりっすよ!」

「そんな奴より一応は先輩の私に聞いて貰ってもええんですよ?」

「そうだな、泉」

「そうやな、泉」

「あんま酷い事言われてへんけどこれ虐めェ!?」


 生暖かい目を向けられて、二条泉は大げさに頭を振った。

 その間も京太郎は、周囲の客に目をやり溜飲を下げる。

 彼の知り合い――仮にも店員の――が騒いでいるせいで店の雰囲気を壊したとあっては、申し開きができないからだ。

 幸いにして、周りは周りでそれぞれの事に興じていた。……。


(死、ネ)


 黒髪の女性店員が、京太郎を睨みながら首に親指で横一文字を付ける。騒がしい人間は、嫌いなタイプであったのだ。

 努めて見なかった事に、京太郎は目を擦る。擦るだけに狡い真似だが、実際視力は以前ほどでなくなっているので……まぁ、有効活用。嘘も方便だ。

 ……後々の事は置いておこう。


 何事もなかったかのように、京太郎は話題を切り出す。

 残り少ない休み時間、彼がこうしてテーブルに着いたのは何も交友を温めるためだけではない。

 別に判っても分からなくてもどっちでもいいのであるが……。


「昨日、船久保さんが来たんだけどさ……」

「あー、早かったなぁ。そういや船久保先輩にここに須賀が居った事この間話たんやけど」

「……やっぱりな」

「……え、何? どしたん?」

「うるさい泉」

「ホンマやで泉」

「さっきからなんやねん!?」


 俺の対応は間違っていなかった――と、京太郎は頷いた。

 別に船久保浩子が嫌いという訳では決してないが、ああも当たりが強いと気疲れするというのもまた事実。

 彼の前では常に不機嫌そうな顔をしている。実際、その言動も決して機嫌が良いものとは言えない。

 なら、どうして自分に話しかけるのか――――は須賀京太郎にも判らないところであるが、おそらくは知り合いである以上二三言ばかり言いたい事が生まれてくるのだろう。

 ……いや二三言では済まされないのであるが。

 分析を得意としているのだし、そのようなプレイングをしている京太郎の事が――前身として――見ておけないというのか。

 この間訪れたのは、そんな以前の関係の延長上だったのかも知れないな、と彼は顎を俄かに動かした。

 と、そんな風に疑問が解消されたと頷く彼を見て、末原恭子が低い声で漏らした。


「なあ、一応聞いときたいねんけど……」

「何ですか?」

「オカルトスレイヤー……あんた、打ってへんよな?」


 窺うような目線と、何とも不穏さを伴った響き。

 思わず京太郎も、声を潜める。


「いや、もう大体一年半は牌に触れてないですけど……どうしたんですか?」

「いや、ならええんやけど。……オカルト喰いって噂が流れとってな」

「オカルト喰い……?」


 その言葉に僅かな引っかかり。

 以前、シゲという老人が口にしていた“魔法喰い”――その関連かと、京太郎は目を細める。

 二条泉、末原恭子共に実業団で麻雀を打っている。彼が見たところ、――二条泉は兎も角――末原恭子の耳にまで、それも深刻な形でその噂は届いているらしい。

 どうやら単に、裏の世界に留まる事ではなくなっているのだろうか。

 とすればよくある実しやかな都市伝説というよりは、裏付けとなる事実が存在していると考えた方が自然か……京太郎は思索にふけりそうになる。

 が、


「え、あのオカルトスレイヤー!? ホンマ!? え、須賀!? あとオカルト喰いって!?」

「泉、静かにしてろ」

「ホンマやで、泉」

「なんなん!? ちょっとぉ!?」


 二条泉の声に遮られ、彼は思考を手放した。

 というよりも、半ば驚愕であった。おおよそ一年近くに及ぶ付き合いであり、麻雀の業界に身を置く二条泉に自分の事が分からないとは。

 須賀京太郎=オカルトスレイヤー=M.A.R.S.ランキング第1位というのは、それほどまでに無名だったのか。

 仮にも一位なのに。仮にも人類の到達点と言われたのに。仮にも地上最強の男と言われたのに。

 尤もそれは真実三日天下でしかなかったが――。なかったが、こう……あまりにも酷くないだろうか。仮にも一位で空気って。

 これはもう、今頃世間的にも忘れられているかも知れないと、未練がないつもりでは居ながらも割り切れない釈然とした思いを抱えて、京太郎は肩を落とした。


「ま、これからも相談に乗って貰うんで……なんかどっかでお返しするで」

「お返しとか、そんなのいいですよ。……あ、泉は別な」

「結構売り上げに貢献しとらん!?」

「コーヒー一杯でずっといる客はちょっと……」


 おそらく負けた後だろうかは知らないが、日がな一日窓の外を眺めて暗いオーラを撒き散らしている二条泉の事を振り返りながら、京太郎は苦笑を漏らすのだった。

 喫茶店としては上等であるが、客としてそれが快い人間かと言われたらまた話は別だ。

 こうして、午後の日は緩やかに進んでいく。




  ◇ ◆ ◇




   ……必要ないです。こっちも覚える気ないので。


                             ――麻雀プロ 宮永照、須賀プロ引退後彼との牌譜について



  ◇ ◆ ◇




引用:【悲報】須賀プロ、麻雀やめるってよ【第一位退場】

1 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
なんか視力が限界らしい

2 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
すこやんの呪いか……

3 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
だってあれ途中で放送が凄い遠巻きになって顔写さんようになってたもんな

4 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
血涙流してたよな……

5 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
おい、あんた……ふざけたこと言ってるんじゃ

6 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
やめろ、>>5っちゃん!

7 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
マジかよ……

8 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
しかもさ、なんか須賀プロの両親なくなったらしい。倒れた須賀プロのところに長野から急いでる途中に。交通事故で

9 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
なんだよそれ……

10 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
運命よ、これ以上彼から何を奪うというのか……

11 名前:名無しさんリーチ 投日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
おい! おい……
俺、須賀プロに憧れて麻雀始めたんだぞ……! ふざけんなよ……! 嘘だろ……!?

12 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
嘘だと言ってよバーニィ

13 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
麻雀も奪われ、家族も奪われるって……

14 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
すこやんの呪いぱねぇ……

15 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
最後の希望が絶望に呑まれるとか……

16 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
ニュース見てすぐきた。マジなんだな……

17 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
これからだったじゃねーかよ!まだプロ三年目始まったばっかなんだぞ!?

18 名前:名無しさんリーチ 投稿日:20XX/XX/XX(X) XX:XX:XX.XX ID:???
それでも信じてる。須賀プロは希望だって。絶対にどこかで立ち上がってくれるって



 眼鏡に反射する青いライト。

 視界を覆いそうになる黒髪を手で払って、長髪の女性は小さく溜め息を漏らした。

 印象からするなら深海生物か或いは植物か。とことん無駄なく動かないその様は、精密機械というよりはむしろ置物を思わせた。


「ともきー、またそれ?」


 扉のあたりから人声。気付かぬ間に、ドアが開かれていたらしい。

 頭の後ろで手を組んだメイド――左頬にハートの2のプリントシールを張り付けて、耳が隠れるほどの黒髪を後頭部で結んだ女性。

 パソコンを覗き込む沢村智紀とは対照的に、そのスタイルは実に貧相であるが、それが返って親しみのある魅力や清潔な色気にも繋がっていた。


「……」

「……それはともきーの所為じゃないよ。京太郎くんだって、きっとそう思ってるって」

「……分かってる。ただ、振り返っただけ」


 何の為に、と一が首を傾げる。智紀は素早くマウスを操作して、別のタブを開いた。


「もう、何事もなかったみたいに。……須賀プロなんて人はいなくなったみたいに」

「……実際、プロじゃなくなったけどね」


 そういう事ではないと、智紀は一を見据え――それから目を反らした。

 この龍門渕の中で、当時一番狼狽していたのは国広一だったのである。高校時代から親しくしていただけに――須賀京太郎の事に感じ入ってしまったか。

 それとも、親と離れるという事に一自身が良い思い出がないか。どちらかは知らない。

 或いは、借金か。

 須賀京太郎の両親は、自動車の損害保険に――任意保険に加入していなかった。それがたまたまなのか。それとも、今後は車を運転してどこかへ行く機会がないかと考えたのかは知らない。

 そして、先ほどまでのタブに記された文章の通りに、麻雀競技後倒れて入院した息子の元へと急いで事故に遭った。

 過失分では、彼らが加害者という形になった。運悪く、相手方にもかなりの障害を与えてしまった。

 その請求は――相続人である須賀京太郎の元へと向かった。無論相続放棄も可能であったが、同時にそれは両親の持っている資産のあらゆる破棄を意味する。

 両親との思い出を、かつて暮らした我が家を京太郎は捨てる事が出来なかった。それ以上に或いは、両親が犯してしまった罪を清算せずに逃げ延びる事を良しとしなかったか。

 そして彼は、それまでの貯金のほとんどを切り崩して賠償金に当てた。


「でも、ボクはこれでよかったと思うよ……京太郎くんの事を、面白おかしく騒がれるよりはさ」

「……それはそう」


 だけど――。


「何をしているのですか?」

「げっ、萩原さん」


 音もなく気配もなく、廊下に立って同じく部屋を覗き込む人影。

 黒髪の長身、燕尾服。俳優のように整ったその顔は、まさに完璧で瀟洒な執事――どことなくだからこそ、摩訶不思議な雰囲気を醸し出す。完成され過ぎて返って怪しいように。

 年齢不詳。おそらくは三十台に達しているだろうが、未だに二十代半ばと言っても通じるほどの美貌の貴公子……執事だ。

 そんな萩原は二人を眺め、小さく漏らす。


「……休憩時間とおやつ、どちらがよろしいですか?」

「い、いやー勤労って尊いなー。ともきーもそう思うよね?」

「勤労は実際尊い。ブッダもそう言ってる、いいね?」

「……いやそこまでは言ってないと思うよ、ともきー」


 いそいそと支度をする智紀と、どうしたもんかなと頭を掻く一、アルカイックスマイルでそれを見守る萩原。

 スリープモードにしたパソコンが前傾になるのに従い、部屋の光度が閉ざされていく。完全に閉じられるが早いか、智紀は部屋を後にする。

 そんな智紀が立ち去るのからやや置いて、おもむろに国広一が口を開いた。


「……あのさ、萩原さん。やっぱり京太郎くんをうちで雇うのって」

「それは、彼から辞退されたはずですよ」

「でもさ……」


 須賀京太郎は明るい。基本的に言動は落ち着いていて物腰柔らかで、柔和。いつも朗らかな様子ながらも、軽薄な面も覗く。

 かと思えば以外に激情家であり、理想家であり、ストイックであり、思い悩むタイプである。

 それまで平然そうに笑っていても――どこか次の瞬間で、居なくなってしまいそうな腰の据わらなさがある。儚さと言うのか薄さと言うかはともかく。

 ましてや、両親がああなってしまって、自分自身もそれまで努力していた麻雀の道が閉ざされてしまっているのだ。

 きっと彼ならまた笑顔を取り戻しているとは思うが、それでも……。


「心配、ですか」

「……萩原さんはどうなのさ」

「……。否定はしません」


 どこかで、いつの間にか消えてしまいそうな雰囲気があった。徐々に舞台から下ろされていくように――そのまま忘れられていくように――。

 今この瞬間にも、もしかしたらもう彼はいないのかもしれない……などと、そんな想像さえ一の脳裏には浮かぶ。


「だったらさ、やっぱり……こっちに呼んで……!」

「両親が居ない家に、暮らしてもらう――ですか?」

「……っ」


 言葉に詰まった。

 萩原の静かな目。激情も無ければ、悲哀も悲嘆も無く、閉口する様子も無い。

 ただ、それはもう考えたのだと――。考えた上で踏み込まなかったのだと、告げている気がした。

 京太郎の事を、萩原が案じぬ訳がない。ともすれば、今国広一がしたような主張もとっくのとうに想定済みだろう。

 それでも萩原は、須賀京太郎を強くは誘わなかったのだ。

 しかしそれでも、一は食い下がった。


「うちで住み込みってのも、ある事はあるよね」

「……無理やり四六時中誰かと一緒の環境に入れる、ですか。それこそ落ち着く暇もないと思いますが」

「それはそうだけど……でも……」

「彼から求められないと言う事は、そうして欲しいと言う事だと思います」

「……でもさ。あれで京太郎くんは格好つけとか遠慮しいだから、言い出さないなんて事も」

「あり得ますね。ですが、やはり彼から言い出さないと言う事は彼がそれを望んでいると言う事です……それが正しいのかどうかは判りませんが」

「なら、なんでさ。変に抱え込んで……また、蹲ってるかも知れないよね」

「だとしても、それは彼の人生です。生きていれば、どこかで避けられない事です」


 そこから何を選ぶのか、どうするのは京太郎の権利であり義務である――。

 これを冷たいと見るのか。自分はどちらにすべきなのか。どうすべきなのか、一は迷った。

 どんな形でもいいから、彼の助けになってやりたい。極々自然な感情で、それがましてや長年の友人であるなら当然だ。

 だけれども、果たして何が正解なのか……一には判らない。


「ただ彼は、我々がここで悩む事を望んではいない。それだけは確かです。きっと誰が悩んだって、誰もが同じように答えに窮する問題でしょうから、これは」

「……そっか。ま、連絡を取ってみて本当に大丈夫そうか確かめてみる……くらいなのかな、ボクに出来る事」

「ええ、彼もきっと喜びますよ」


 それとも、本当に嬉しいのはどちらなのか――。

 なんて、洒落っ気が僅かに滲んだ。茶化すような目線を、一は手で払う。

 いつの間にか萩原がこんな面を出してくるようになったのだが、正直これは悪い変化だと思う。


「……ま。友人だしね。友人だから、その辺聞いてみてもいいよね」

「ええ……。あと、もし可能であれば『実家の方の保全は十分です』とお伝え下さい」

「へ」

「合鍵、実は受け取っています。『もしも本当に迷惑じゃないのなら』と、時々の掃除も頼まれて」

「ちょっと、それボク聞いてないよ!?」




  ◇ ◆ ◇




   ……ちょ、通して! どいて! 京太郎のとこに行かんと!


                             ――麻雀プロ 清水谷竜華、取材中須賀プロ緊急搬送を聞いて



  ◇ ◆ ◇




 ――一方の須賀京太郎と言えば。


「やっべ。憧の飯、どうすんだ」


 眉間に深い皺を刻んで、スーパーの前で立ち止まっていた。

 日常的に料理をする習慣がなくなって久しい。一人分なら惣菜で済ませた方が安上がりであると言うのもある。

 昔のように日常的に体を酷使する必要がなくなってからというもの、栄養のバランスにも気を使わなくなっていた。あと野菜が高い。

 学生時代によく行ったセット時にサラダバー無料であったハンバーグステーキ屋がドリンクバー無料に変わっていた事も、無理がないと思う。

 一体世の中の主婦はどうしているのか。とてもじゃないが一汁三菜、タンパク質である肉と栄養素の為の野菜を合わせるなんて無理だ。

 財布に気を使わなければならなくなったと言うのもあるが――そういう意味で自分は恵まれていたのだな、と彼は振り返る。


 閑話休題。

 兎に角、以前のように派手な料理は行わない。なるだけ手間がかからぬように、煮物などが多い。翌日の晩も同じメニュー。朝食は喰わない。

 夕飯と言えば、ウェイト増量の為には朝に多く喰えというのが定説であるが……最近違うトレーニング法というのも生まれてきた。

 極力日中には炭水化物を取らず、トレーニング後の夕食時にタンパク質と纏めて取るという方法。

 朝食を取れ、と言われるのはその時が最もエネルギーの吸収効率が良いからなのだか――つまり、逆に言えば脂肪にもなりやすいと言う事。

 此処を敢えて抜いてインシュリンの分泌を司る酵素を刺激せずに、あえて――。

 通常効率が悪いと言われている夕食後のタイミングで取る事で、筋肉以外にも余分なエネルギーが向かう事を防ぎ、的確に筋肉だけを成長させると言うのがあるらしい。

 また、炭水化物を脂肪に変えずに筋中のグリコーゲンに変える効率も良くなるとか。

 以前、アメリカ発の論文にそんなものが乗っていた……などと思い返しながら、京太郎は頭を振る。


 また話が逸れていた。

 今は単純に朝飯を食べている余裕がないと言う奴だ。いや、元々朝飯はそこまで積極的ではなかった。夕飯の残りと、昼飯のおかずの余りもの。

 残りといえば、煮物などをするがいいが夏場はよく痛む。実際のところ彼としても、それで一二度失敗した事もある。

 そのあたりもあって、夏となったら素麺だの饂飩が増えた。後は雑炊。冷凍したご飯と卵と適当な出汁ともずくで作れる。万能。

 まあ、それは良いとしよう。大した話ではない。

 目下の問題は泊まりに来た新子憧の夕食――である。


 材料を買って自分で作ってくれ――なんてのは論外。流石に酷い。

 ならば材料は買っておくので好きに使ってくれ、というのがいいかと言えば……どうなのだろう、呼びつけた相手にそれをするのは。

 じゃあ、材料を買って彼が作るかと聞かれたら、わざわざ別にホテルに泊まるのに自宅で夕食をただ作る意味が判らない。

 なら、全部外食なんてが一番丁度いいだろうが……新子憧のあの言葉の濁しようからしたら、不意の出費は喜ばれない事は明白。

 何が正解なのか。


「……ああ、でも憧のカレーとかまた喰いたいな」


 バーニャカウダとか、シーザーサラダとか。よく判らないが御洒落(なのかは知らない)ものを新子憧は好んでいた。

 それなのかは知らないが、彼女が作るカレーはなんだか普通のそれとは違っていた。

 入れた野菜がひたすら形がなくなるレベルに煮込まれてルーと一体化した――後に調べたところによると英国式カレーらしい――ものだ。

 すげえ、メシマズもここまで来たか。ついには原型がなくなりやがった。

 なんて、冗談で呟いた(新子憧の料理の腕は年々強化の傾向にあるので断じてメシマズではない)彼も、スプーンを往復させる内には黙り込んだ。

 一体何が入っていたのか知らないが、やけに美味くて心に残るな……と思ったのだ。正直に。


(――)


 不意に、熱くなった目頭を京太郎は押さえた。

 新子憧の味を想像して――そしてそれから、思い出したのだ。

 自分が食べたいと思ったカレーを、二度と食べる事は出来ないというのを思い出してしまった。もう二度と。

 あれから再現しようとしても、記憶の内にあるどの味にもならない。その事が、彼を料理から遠ざける遠因であったりする。

 せめて、何が入っているのか聞いておけばよかった。或いはもう少し家事の手伝いをしておけばよかったと悔やんでも――もう、遅い。

 下に向けられた顎。数瞬ののち、位置を取り戻す。


「……よし、ビタミンとっとくか」


 細かい事は新子憧に聞いてみてから。それからでも遅くない。

 とりあえず果物でも買って帰ろうかと、足取り軽くスーパー目掛けて彼は歩き出した。


 紙袋一杯に詰められたオレンジを抱えて、表を歩く。

 なんだかこれって映画みたいだな――なんて考える彼の歩調は、明るさを取り戻していた。

 どうして海外の映画はああも紙袋に果物を積めるのか、しかもそれを抱えて歩くのかよく判らない。

 ただ、今の自分はそれと同様に……或いは少し劣っていても絵になっているかな、などと考える当たりやはり根はお調子者だ。

 と……。


「うおっ」


 積まれたオレンジの一つが、袋の口から転がり出した。

 咄嗟にサッカーよろしくリフティングを試み、――これ食い物だぞ口に入るんだぞ――、やはり諦め、――いや洗えばいいだろ――、動き出そうとしたが通行人に阻まれまた停止。

 そんな隙に、主の手を離れたオレンジはタイルの歪みという名の自由を謳歌して、路地裏へと逃走を図った。

 どうせ汚れるなら、地面じゃなくて靴の側面の方がマシだったと……開いた片手で頭を掻きながら、やれやれと彼も追跡に入る。

 逃走犯を幇助するものが居なければ、すぐさま拘束できる筈だ――なんて緩やかに歩を進める。


「……お」


 そして犯人は敢え無く再逮捕――、善良なる一般市民にその道を阻まれて。

 よかったよかったとオレンジに向けた目線を上げて、協力者たる靴の持ち主を眺める。

 まず目についたのは、眼帯だった。医療用のそれが、痛々しく右目を覆う。

 思わず息を止めそうになるのを――それも失礼かと考え、努めて平静に笑いかける。


「悪い、悪い、サンキュ」


 しかしそんな彼の笑みを向けられても、対する少女は無言。

 戸惑っている風でもなければ、怒っている風にも見えない。興味がない――という態度も表にしてはいない。ただ、自分が当事者ではない風に真っ直ぐと瞳を向けている。

 その瞳も、決して明るいとは言えない。どこか一点を注視する風でもなく、同じく何か目的がある風にも見えない。

 前を見ながら全体を俯瞰しているような――そんな透明の視線。


「……」


 何か、と京太郎を問いかける素振りもない。ただ其処に居るだけの、文字通り通行人の如き風情。

 壁に寄りかかるその身は――年の頃は――、京太郎より少なくとも十は下ほど。

 藍色の毛先が肩にかかるかかからないか程のショートヘアー。耳や眉が隠れるほどの長さはあり、片方で軽く括っている。

 それも、ヘアゴムなどではない。ただの輪ゴム。藍色の毛を輪の捻じりに巻き込んでしまっていて、なんとも痛々しい。

 纏っているのは上野のアメ横ででも売ってそうな虎の刺繍の入ったジャンパー。小豆色のショートパンツの殆どは、余ったジャンパーの丈に隠されていた。

 突っ掛けた薄汚れた白黒のスニーカー。輪ゴムのそれと合わさって――何となく、少女の家庭環境が想像できる風である。

 これ以上止まるのも不自然か。いや、だが何か引っかかる――。

 何某かの単語が頭を掠めつつも、京太郎はオレンジを優先した。思春期の少女に、いつまでも不躾な態度を取るのはよろしくない。

 そのまま背を向け――、脚を止める。


「これ」


 少女の鼻先が上を向いて、それからまた下に。放物線を描いた橙色の球体が、その胸のあたりに納まった。

 俄かに感じる、疑問が滲んだ表情。憤慨の様子はない。

 自分の行動は、少女への侮辱や侮蔑に当たらないのだろうと――やはり透明な目を見つめて、彼は肩を撫で下ろした。


「よかったら、貰っちゃってよ。な?」


 人懐っこい彼の笑顔も、やはり無言で返される。

 その後、今度は京太郎も、振り返らずに路地裏を後にした。



『……え、なんて』

「だからさ、今度カレー作ってよ。なんか無性に食べたいんだって」

『……そ、そう? いやあたしは別に全然かまわないけどね。うん、全然かまわない』

「よっしゃ、サンキュー憧」


 夜半。路地裏への逃走犯の外衣を取り除きながら。

 無論、丹念に洗ってあるのは言うまでもない。暮らし始めてそこそこだが、練馬区の路上は汚い気がする。同列に語るなら新宿区とか豊島区とかと同じくらい。

 上石神井駅はヤバイ。新宿駅もマジにヤバイ。でも特に池袋駅周辺。なんか、路上そのものが臭い。本当に臭い。生ごみの汁でも沁み込んでんのかってぐらいに。


「あと聞いときたいんだけど」

『何?』

「あのカレーってなんか入ってるのか?」


 返答はしばしの沈黙。


『……なーにー? 毒かなんかでも入ってるとかそーゆー失礼な事言いたいのかなぁー?』

「い、いや! 違うって! 違うからな!?」

『なら何よ』

「いや……なんかこう、今日ふとこう……憧のカレーが食べたいなーとか思ってさ。なーんか記憶に残ってんだけど、隠し味とかあるのか……と思って」


 大学時代、それから社会人と――。

 独り身の気軽さを満喫しながら、孤独のグルメと相成った京太郎。

 なんとなくある店の物が食べたくなって、それから口の中がそれでいっぱいになってすっかりその気分――なんて事は多いが。

 店で出されるものではなく、誰かが作った料理でそうなるというのは稀な経験である。


『そ、そりゃ勿論あ――』

「あ?」

『あ……、ぁぃ……ょぅ』

「え? 『あ……』なんだって?」

『……、……。……あたしが教えるわけないでしょ、よ。隠し味を教えたら隠し味にならないでしょーが』

「ええー」

『……うん、よし』

「なにがだよ!? 俺に教えないのがそんなに嬉しいのか!?」


 電話の向こうで何かを握った音がする。思わずガッツポーズ、のような。

 そこまでなのか、と彼は思わず声を上げた。どれだけのドSかという話である。人の訊いてきた事を答えずに喜ぶなんてとんだサディストだ。

 だが、思えば学生のうちは京太郎が料理ではリードしていた。執事からの教授は伊達ではない。

 その関係で色々と調子に乗って茶化してしまった事というのもあり、ひょっとしたらこうして隠し味を問われると言うのに多少なりとも優越感を憶えたのだろうか。

 何とも複雑な気分に、京太郎は口を波立たせた。

 あの頃は、負ける気がしない、俺の成長は光よりも早い、光の速さで明日へダッシュさ、女子力でぶっちぎりだ……などと嘯いてみたものの。

 こうして負けると、それはそれで一抹の悔しさがある。いや、男子厨房に入るべからずという言葉からすればこれは正しいのだろうが。


「……あ」

『なに、どしたの?』

「まさか、汗とかか? あれかなり煮込んでたよな?」


 ちょっと話題を振ってみようとしたら、話しかけるなと言われた覚えがある。

 相当な時間――野菜が煮崩れるまでだから当然だ――煮込んでいたので、必然的にそりゃあ新子憧はものすごい有様になっていた。

 そう言えば、汗で下着が透けてるとか言ったら凄まじい剣幕で怒鳴られたな……なんて思いながら、


『………………、あんたそれで満足?』

「いや、悪い今のオフレコで」


 新子憧の冷ややかな声に、京太郎は冷静さを取り戻した。

 我ながら今のはない。ちょっとあり得ない。そんな趣味もないし、カレーに異物混入とか色々洒落にならない。もう事件は風化しているが。

 だが、女性の汗は異物なのか? ちょっと胸が物足りないといっても新子憧は美少女である。

 いや、でも他人の汗とか生理的にあれじゃないか? なんか改めてそう言われたら流石に拒否感が出てくる。

 そんな事言ったら、真夏のラーメン屋。あれは美少女ですらもない頭に手ぬぐい巻いたおっさんの汁にならないか?

 ……。

 ……とりあえず彼は、それ以上深く考える事を止めた。ここから話を進めて行ったら、あらゆるものへの食欲を無くしそうであったのだ。


『まぁ、それぐらい気に入ってたなら作ってあげちゃおうかな。あの頃散々人の事色々言ってくれてたよねー?』

「……げ、やっぱり憶えてるの?」

『そりゃあ、ドヤって顔で「俺の方が女子力高いな」とか言われたら忘れる訳ないわよ』

「……えーっと、俺そんな事言った?」

『なるほどなるほど、京太郎は忘れっぽい……と。じゃああたしもリクエストの事忘れちゃおっかなー?』

「ごめんなさい嘘ですあの頃は申し訳ありません反省してますカレー久々に食べたいです」


 一人暮らしで家カレー、これほどまでに不可能なものはあるまい。

 次点でビーフシチュー。クリームシチューもろもろ。

 おでんは意外と冬場なのでどうにかなるし、スープがそこまで栄養素多くないので簡単には(カレーに比べて)傷まない。

 あと、やはりカレーは具材を多く入れた方がエキスが出て美味い。となれば量もそれなりになる。そうなったら……まあ、駄目になりやすい。たとえ冬が近くても。

 つまり、京太郎は――彼はカレーに飢えていたのである。なんちゃって。


『でもさ、そんなにカレーが食べたいならどっかのお店に入ったらいいんじゃないの?』

「それもそうだけど……なんて言うか、店のカレーってなんか違うんだよな」


 醤油っぽさがないと言うか。それともソースが足りないと言うか。

 或いは、採算の関係だろうか。京太郎はフランス料理に使われるフォン・ド・ボゥ等を入れて味の調節を図っていたりするが、料理店なら簡単にはいくまい。

 とはいっても確か神保町の方に、そんな(よく言えば)家庭的な、雑多な味のカレーを出す店があったと彼も記憶しているが……。

 流石に、練馬区の職場からわざわざ昼飯に出向くのは手間である。


『ま、だったら楽しみにしてなさいよ。あたしのカレーなしじゃいられないようにしてあげるから』

「麻薬かよ」


 隠し味、白い粉というのは流石に洒落にならない。というかカレーに白い粉を入れるのは洒落にならない。事件は風化しつつあるが。二度目だが。


『じゃ、頑張りなさいよ。ちゃんと勉強する事!』

「憧にそれ言われると、なんか本当に先生に言われてるみたいだよな」

『いやあたし教師だからね?』




  ◇ ◆ ◇




   さあー? やめる人の事なんて、考えた事もないですよー?

   ……。それじゃあ、次の試合があるんで失礼しますね!


                             ――麻雀プロ 大星淡、須賀プロ引退について



  ◇ ◆ ◇




「――カン」


 少女が、口角を釣り上げる。どこまでも獰猛な笑み。

 これは挑発ではなく、捕食である。風神の牙を以って、己の眼前に立つ有象無象を区別なく食い破るのだ。

 翻されたのは、東が四枚。嶺上牌をその二本の指に収めると同じく捲られたのは北――つまりはこれでドラが四つ。

 現在の手配は十四牌。


 一二三萬 ②②②③筒 567索 東東東東


 ここに、嶺上牌を引いて来れば――少女の勝利は確定する。すなわち、場風自風嶺上開花ツモドラ4。

 親の倍満。東一局で叩き込むのは余りにも十分すぎる一撃である。先制打撃としては申し分ない。

 無論、彼女の力はこれだけではない。己の持つ素質を、特性にまで高める努力をした。

 自分が今までかつて出逢った中での最強の人間に倣って――自分の持つ麻雀への負の印象と、絶望を振り払ってくれた希望の魔法使いのように。

 素質を磨いてこその人間。麻雀を打たされるのではなく、打つ。異能に使われるのではなく、異能を使う。

 それこそが人間であると、彼女は識った。

 彼こそはまさに人類の到達点。人間の限界点。

 人間が持てるだけのあらゆる技能を努力で身に付け、人間の持つ欠点をあらゆる努力で修復した。

 異能などというものがない生身でも、魔物と打ち合う事が出来る人類最強の男。

 そう――彼に、須賀京太郎に己の強さを示すために。彼が救ってくれた事を、彼が行った事は確かに自分の生き方に届いたのだと証明する為に。

 少女は、能力を発展させた。


「――嶺上開花、ツモ。8000オール」


 しかし、それにしてもまずは小手調べ。

 己の力を鍛えると言うのは、決して己の持つ異能を否定する事ではない。これが最強の鉾ならば、迷う事なく使うのだ。

 少女――龍田早苗は、好戦的な眼差しを湛えたまま、眼前の敵を見やった。

 宮永咲。M.A.R.S.ランキングに於いて、己の信ずる最強の男を遥かに上回る順位に居る若手プロ。

 勝つのだ。彼女に。


 続く東一局二本場も、龍田早苗は24300点の和了を決めた。

 己の――早苗の特性は一つ。「風牌を使用した倍満和了」である。

 これにはいくつかの特徴がある。一つは、この倍満というのは「自風場風とドラ4」が基本として構成される事。

 その際のドラは、必ず風牌である。つまりは、ドラ表示牌がドラの乗る風牌の一つ前の風牌となる。

 能力の条件上、「自風」と「場風」が揃わなくてはならない。

 故に、己の風牌か場風牌がドラ表示牌になる状況での和了は不可能である。例えば場風:東で自風:南であるとか、場風:東で自風:南であるとか。

 しかしそうでなければ無双。東場の親である限り、際限なく倍満能力を叩き込み続けられるのである。連想を続けて。


(……でも、この程度じゃ終わらないでしょ?)


 既に原点に48300点を上乗せした早苗は耳に掛かる金髪を掻き上げて場を睨む。

 本当に眼前の女が、M.A.R.S.ランカーであるなら――。

 彼よりも上位であるなら――。

 魔物級なら――。

 この程度の攻撃で終わる筈がない。実際、現に須賀京太郎からはそう聞いていた。上位ランカーならば、京太郎のように苦戦せずに勝つと。

 或いはそれはただの謙遜だったのかもしれない。だが、そうだとしてもその言葉を否定したいのも事実。

 自分にとってのヒーローは彼だ。

 強い事は罪で、弱い事は正しくて、手を取れないのは普通で、仲間や友人なんていなくて、麻雀はただの作業。

 そう思ってた彼女を、救ってくれた。絶望を希望に変えた。

 そんな彼の強さを信じたかった。彼の強さと、人間の強さを。

 だから簡単にはやられはすまい。須賀京太郎は強かったんだって――そう証明する為にも、自分は粘り切らなければならない。


(……って、何弱気になってんのよ。須賀プロならきっと、勝つって言う)


 そう、粘るのじゃない。自分たちで決めるのだ。

 彼が目覚めさせてくれた強さは、あの日から時計を進める事が許された自分たちは強くて――そしてそんな自分たちに勝った彼は猶更なのだと。


 だが……。

 東の出親は龍田早苗。下家に宮永咲が並び、その隣――つまり対面――には早苗のタッグである九頭竜琉生。上家にはアナウンサーの竹井久。

 早苗の弱点の一つであるのは、手が遅いと言う事。

 誰か他人に風牌を渡さぬ為に、予め風牌が手中に収められるのである。決めるその時まで槓子は温存されるため、牌効率は低下する。

 しかしそれでも、同年代で彼女を超える引きを持つものはいなかったし……。

 何よりも、それに備えてのもう一つの牙がある。


(……って言っても、流石に一度見られてるからやってはくんないだろーけどさ)


 しかしこちらの牙は、そう幾度も使えるものではない。言わば初見殺しに近い。

 早苗に先行して敵が聴牌した場合――そしてリーチをした場合――その後方から迫り寄り、早苗も真っ直ぐに聴牌して攻撃を必ず叩き込むというもの。

 大星淡などのプロとやりあった場合、どちらが優先されるのかは分からない。

 彼女が和了するのか。それとも、後発で追いつきリーチ一発を叩き込むのか。

 正直に言ってしまえば、早苗は負ける気がしない。支配率だのとよく判らない話があるが――早苗がリーチを掛けるまでに大星淡が和了しなければ、早苗が勝つと確信している。

 要するに麻雀に於ける異能の支配率というのは、「それぞれが矛盾した場合どちらが優先されるか」であり、矛盾さえしなければいいのだ。

 つまり最低五巡目まで耐えて、そこからリーチを掛けさえすれば、早苗の方程式が適用される筈だ。

 ……まあ。

 そんな事を考えてもどうしようもない。結局このもう一つというのは、彼女自身が分析したように初見殺し。

 手の内を見られてしまったら決まりようがないのだ。

 だが……。


「リーチ」


 あり得ないその言葉に、思わず早苗は振り返った。頭の右側で結ばれたポニーテールが、まさに馬の尾のように震えて視界を遮る。

 発生は、早苗の下家。南家である、宮永咲からである。

 銀のフレームの眼鏡をかけて、隙なく卓上を見やる宮永咲。茶髪のショートカット、小さな背中。スタイルなら早苗が勝っていると自信がある。

 しかし、その彼女が。確かに須賀京太郎が早苗に勝利した場に居合わせたはずの宮永咲が――リーチを掛けたのである。

 何故、とも考えた。だがそれより体は早く動いた。呼応するように、早苗は有効牌を引き当てたのである。手が進む。宮永咲に動く様子はない。

 先行でリーチを掛けるものがいるなら、早苗は勝つ。そういう異能であった。


「――カン! そんで、リーチよ!」


 嶺上牌は7索。

 それを加えた手牌はこの形となる――――四五五六六七萬 5677索 東東東東。



(どれだけの逆転手か知らないけど……!)


 ――――龍田早苗は知る由もないが、宮永咲の手は。

 ――――それは。


(よし……そのアンタのツモで、終わり!)


 宮永咲は下家。否応なく、龍田がリーチをした直後に攻撃される。振り込まざるを得ない。

 その牌が、宮永咲の有効牌となるルールはない。必ず不要牌であり、そして龍田の和了牌だ。

 舞台に上がってしまった宮永咲目掛けて、逃れられない一撃が迫る――。


 ――――それは、先ほどまではただの一役手であった。

 ツモや裏ドラが乗れば、というのは余りにも幻想が過ぎてプロの打牌とは呼べないもの。勢いづいている相手に繰り出すのは無謀の極みである。

 で、あった。

 だが――


「――カン」

 ■■■■■■■■■■■ [4444]索


 龍田早苗はそれを見た。

 “それ”は、自分の和了牌であった。

 誰かが先行しているなら、その背を追い、猛烈なる勢いと膂力で叩き潰すのが龍田早苗の特性。

 先行すれば嶺上開花ツモ自風場風ドラ4という手段で、後発ならばリーチ一発自風場風ドラ4という一撃を以って、相対する相手を捻り殺すのが“彼女(じぶん)”の“特性(のうりょく)”――。

 だが、これは、何だ。

 確かに手ごたえはあった。

 追いつき、その肩口に手を置き、これから絞め挟み殺すというヴィジョンは見えていた。

 宮永咲も例外なく、龍田早苗の当たり牌を掴んだはずなのに――。


「――もいっこ、カン」

 ■■■■■■■ [②②②②]筒 [4444]索


 更に裏返る宮永咲の手牌。両脇だけ反された、四枚の同一牌。

 そして、動じぬ山目掛けて宮永咲の手のひらが差し出された。細くて白い手首だが――。

 早苗には、それが宛ら山を切り崩さんばかりの力が漲る、巨大に変形した腕に見えた。


「――リーチ、嶺上開花、ツモ」


 土俵に乗って、技を受けたその上で上回ったのだ。宮永咲は。

 さながらプロレスのように。

 そして、龍田早苗の驚きは終わらない。


「60符の3役は――3900・2000の二本場、4100・2200です」

 一二三萬 ③④⑤⑤筒 [②②②②]筒 [4444]索 ツモ:⑤筒


 元々はドラも絡まぬ1役手だった。

 それがこうも容易く、宛ら爆発が如く膨れ上がり爆ぜた。花火が如く鮮やかに、打点を爆発させたのだ。

 宮永咲が、攻撃を爆発させた。繰り出したその時に兆候はなく、叩き込まれてからその後に。


 ――ここで、符と役と点数の関係について論じるとしよう。

 役が一つ増えたのならば、点数はおおよそ倍になる。30符1役は1000点、30符2役は2000点、30符3役は3900点……という具合に。

 そしてまた、符が倍となったのなら点数はまた倍となる。20符2役は1300点、40符2役は2600点……という具合に。

 ならば、符が元の倍となったのならそれは――1役増えている事と同義だ。

 中張牌の明刻子は2符。暗刻子は4符。明槓子は8符。暗槓子は16符。

 一方のヤオチュウ牌の明刻子は4符。暗刻子は8符。明槓子は16符。暗槓子は32符。

 つまり、元々が30符の手でヤオチュウの暗槓子を加えると言うのは、一役を加えているのに等しい。

 今回の宮永咲はそうでなかったが、中張牌の暗槓子二つはヤオチュウの暗槓子と同義。


 大元は平凡なる一撃だった。一見それだけでは致命打になるとは思えない一撃だった。

 だが、違う。宮永咲は違う。

 繰り出したときは40符1役だった手を、60符3役――つまりは30符4役まで跳ねあげたのだ。爆発的に。

 嶺上開花を自在に使用できるというのはつまり符の支配であり――――すなわち、火力だ。


「親、交代だね」


 これが宮永咲。

 これが、M.A.R.S.ランキング――5位。




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         5位「爆ぜる報仇の女王」 宮永咲
         ベーススタイル:『技術昇華+運+オカルト』

         攻撃力:55/60 防御力:40/60 速度:40/60
         技術:40/60 幸運:50/60 気力:60/60
         ※(40+40)/2+50=90 コンマ10以上でテンパイ
         ※55×(50+40/2)=3850 これをコンマ一桁倍

         ・『爆ぜる報仇の女王(0)』
          槓子や嶺上開花を操るということは、符を自在に変化させるということ。
          自身和了、打点判定時に、コンマの十の位または一の位の任意の方を用いる。
          また、任意で、本来の打点以下の打点の和了に変更可能。

         ・『爆ぜる報仇の女王(5)』
          自分自身が直接相手に叩き込むのだけが彼女の爆発にあらず。
          カンによりドラが乗れば、直接ではない爆撃が可能。
          他家一人の打点の基礎値を、自身のそれで代用する。

         ・『怒れる大天使の鉄槌(10)』
          獰猛さとは、爆発するように襲いかかり嵐のように立ち去ること。
          嶺上牌の利用。大明槓からの続くカンによる待ちの変化、一副露からの急激な聴牌・加速。
          それまでは危険牌や和了牌でなかったものが、突如として変化するという突然の攻撃。
          速度と技術と幸運とコンマ値を、自身の攻撃で代用して、聴牌判定・和了判定・打点判定を行う。

          ※(聴牌判定値)=(55+55)/2+55+55=165
          ※打点=55×(55+55/2)=4565  これをコンマ一桁倍

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最終更新:2014年12月30日 19:50