◇ ◆ ◇
M.A.R.S.ランキング 【名詞】 Majan Atomosphere and Realm Suitability Ranking (麻雀の場と状況に於ける対応力ランキング)の略。
プロたちが高校生当時行っていた、喰いタンアリ後付アリ赤牌アリの運の要素が高い麻雀ルールで行うランキング。
運の要素が高く、つまり様々な多様な場面に置いての勝率や安定性を基準としたランキングである。
それ以外にもその功績などにより、ランキングは変化する。
打ちなれたルールで行うため、これは若年の麻雀プロに導入され、また、このルールのプロ試合が別枠で行われる。
M.O. 【名詞】 Method Originalityの略。麻雀プロ個人個人が持つツキや打ち筋の偏り、好みなどが織りなすスタイルの事。
◇ ◆ ◇
「……ふぁ」
「どうしたんですか、須賀さん?」
「ん、ああ……いやー」
客がいないタイミングを見計らって、首を反らしつつ欠伸を零した京太郎を同僚の青年が目ざとく見やった。
問いかけられた京太郎は、軽く頭を掻いて――その後、どう説明したものかと悩む。
まず、前職について今の職場で打ち明けてはいなかった。
というのも彼は有名人らしい華々しさがない。
これまでのいくつかのバイトに於いて――それこそ店長などに履歴書を通して知らされる事となるのであるが、大概の人間が信じようとしない。
同姓同名の別人と思われる……というよりも、彼とプロ雀士であった
須賀京太郎を結びつけて連想する人間がいなかった。
そこには、あの元一位が今はこうしてアルバイトして面接に来ている――なんて誰もが想像しない、というところがある。
あるのだと思いたい。思いたかった。
時には冗談と見做され、時には証明を求められる。サインよりも先に――といっても所詮はプロ三年目での引退者なのでサインを欲しがるかは疑問だが――、それだ。
いい加減、相手から聞かれない限りは打ち明けないもの……というところになっていた。彼の中で。
そして残念ながら、ひょっとしてプロ雀士の須賀京太郎さんですか?と聞かれた事はない。これまで一度も。
「夢見が……悪かった、のか……多分?」
「はぁ……」
歯切れの悪い彼の答えに、同僚の少年も納得した様子がないが深くは追及してこなかった。
そうして、客が来たところで中断。京太郎も彼も仕事に戻る。
夢とは記憶の整理であると言うが、少なくとも京太郎には昨日一日の事と昨晩の夢の関連性が浮かばなかった。
内容は、かつて彼が麻雀プロであった頃のプロとアマチュア合同での全国コンビ麻雀大会のもの。
その中でも、一度は須賀京太郎を窮地に追い詰めた魔物級の異能の打ち手であった小学生二人と、京太郎の幼馴染
宮永咲と京太郎の師匠の
竹井久の対局。
現実でも見ていた場を、再び見る夢――であったのだが、微妙に毛色が違った。
なんというか、宮永咲がヤバかった。イメージ画像なのかもしれないが額から蟻の触角を生やし、両腕前腕部を蟻の頭部の如く肥大させて、素手喧嘩を行っていたのである。
殴るたびに、爆発が起こる。その他に、手足の関節部にロケットでもつけているのか、独楽が如く回転しながら殴りつけてくる。奇妙な勢いで。
麻雀に於いてのプレイスタイルと合致している分、何とも複雑な夢だった。というか怖い。
更には彼の師匠であった竹井久が、宮永咲を隠れ蓑に/或いは見せ者に毒を出すものだから性質が悪い。
京太郎の対人技術の内の、思考を惑わせ狂わせる毒というのも竹井久譲りであった。
(もうあのタッグ戦から……一年半以上か。時間が経つのって本当に早いよなー)
小学生二人と出会ってからで言うのなら、二年は経とうか。
当時小学六年生であったので、もう中学二年生だ。というか更に何か月かおけば、中学三年生。
小学生であった少女たちがいつの間にか中学校最終学年になると言うのは、なんだか本当に感慨深い。
というかこれが社会人と学生の差か。一年と言う時間の重さが、あまりにも大きい。その割に社会人の一年は恐ろしく早く流れる気がする。
と言うか、二十を過ぎてから加速しているような。更に二十二を過ぎてからは劇的だ。あっという間に三十路の壁を突破するのではないだろうか。
彼としてはそろそろ結婚でもしたいと言うのが本音であるが、生憎定職についていない。流石にフリーター、妻を娶るは洒落にならない。
というかそもそも相手がいない。
プロのときに付き合っていた人間関係の殆どは、離職と同時に清算されてしまった為――結婚しようにもいい人が見つからないというのが現実。
どこかに、黒髪でおしとやかで巨乳で家庭的で趣味が合って明るくておまけに職も恵んでくれる美人はいないものかと、京太郎は頭を捻らせた。
しかし悲しきかな。流石に女性から職まで恵んでもらうと言うのは、彼の中のなけなしのプライドが邪魔をするのだった。
……と言っても、現状殆ど似たようなものであるが。
それにしても、何故今更に麻雀プロ時代の夢を見るのだろうか。しかもこれ見よがしに宮永咲の夢を。
眉間に皺を寄せて――京太郎は気付いた。
昨日出逢ったあの眼帯の少女、以前見かけていたのだ。宮永咲が街頭テレビに映し出されるのを見た、その時に。
加えて、オカルト喰い――麻雀関係の言葉が、彼の脳裏を刺激したという訳か。
そして、記憶が正しいのであれば少女の格好は以前見かけたときと同じ。
また、思い返せばという程度だが――あの少女。ひょっとしたら、空腹だったのではないだろうか。
あの気だるげに壁に寄りかかりたくなる感覚には覚えはあるのだ、京太郎にも。
(……で、そうだったとしても。それを知ったからって、なぁ)
考えた所で、己に何が出来るわけでもない。店にでも来てくれれば多少の心付けは可能であるが、彼女は到底喫茶店に縁がある風になど見えない。
或いは腹を空かせているなら、ちょっと奢るくらいならできそうだが――――そうそう何度も見掛けるなどとは思えないのだ。
そう切り捨てて、仕事に意識を向ける。あと少ししたら、休憩時間である。それを励みに、捌くしかない。
「じゃ、休憩入ってきます」
そう言い残して、京太郎は店を後にした。
昼食は作っていない。夢見が悪く寝過ごしそうになった為というのもある。あの狭いキッチンで料理をする気が起きないというのもある。
その辺り、
新子憧が来たらどうしようか――などと顎に手を当てつつ、彼は立ち止った。
「よっ! 買いすぎちゃったんだけど、タコス喰うか?」
努めて親しみを前面に押し出して、紙袋を片手に。
京太郎は、公園のベンチに佇む少女に笑いかけた。少女の格好は、昨日と同じであった。
左側だけが結ばれた藍色の髪。輪ゴムの位置さえ、変わっていない。
「……」
京太郎が大口を上げて頬張る間も、少女はタコスを宝物か何かの如く両手で押さえて口に運ぶ。
小さな口で、勿体ぶるほどにゆっくりと咀嚼。ジャンパーの襟から覗き出た白い首が、別の生物の如く蠢く。
ふとペットボトルの水を――オレンジ果汁入りを差し出せば無言で受け取って、少女は食を進める。
その体のどこに入るのか。結局、三つほどタコスを平らげてしまった。
買いすぎたという口実で四つほど購入していた京太郎もこれには驚いた。二つは自分で食べようかなと思っていたのである。
そして、おもむろに最後の欠片を飲み込んだ少女はやや置いて、
「……何も訊かないの?」
そう、問いかけてきた。
少なくとも彼への不信感はない。京太郎にはそう感じられた。あれほどタコスを頬張っていて今更であるが。
それとも、そんな事に構わないほどに空腹であったのだろうか。
また、よく見れば少女の袖口の中には、包帯がある。左手。そういうお年頃の病気にかかっているのでも無ければ、大事である。
それでも京太郎は――努めて平静に、言った。
「ん、ああ……そうだな。じゃあ、ひとついいか?」
「……何?」
俄かに、少女の身体に警戒が滲む。
彼はそれに気付いたか、或いは気付いてはいないのか……やはり極めて平坦な声色。日常会話でもするかの如き気軽さ。
いや、実際のところそれは単なる日常会話でしかなかった。
「パンと米ならどっちが好きだ?」
「――」
少女が、停止。目をしばたたかせて、京太郎の言葉の意味を反芻する。
暫しの沈黙。沈黙を通り越して、それは思考停止の間にも近かった。
秋も終わりかけて、冬支度を整え始める公園の木々。紅葉には過ぎてしまった枝目掛けて、木枯らしが吹く。
それから、
「ん? いや、米とパンってどっちが好きなんだ?」
それとも好みとかないのか、と。
その事が非常に悩ましげな問題でるように半ば困った風に眉を止せる京太郎へと、少女が柳眉を下げた。
「何それ、お兄さん」
「ん、いや……何となくだよ。何となく」
相手の手を取ってとびっきり格好を付けた口説き文句を美人にぶつけてみたが、まるで意にも介さずに袖にされてしまった――。
そんな感じのバツの悪さを醸し出す京太郎に、知らず少女の躰からは力が抜けていた。
「ご飯」
あと、と言葉を区切って。
「……タコス」
そっか、分かったと満面の笑みを浮かべる京太郎。それきり彼は少女に背を向けて、元来た道へと歩き出す。
少女はその不思議な来訪者の背中を、消えていくまで見つめていた。
……一方その頃、件の須賀京太郎の「正直結婚したい理想像」に当てはまる
松実玄はと言えば。
「……どうしよう」
悩んでいた。それはそれは非常に悩んでいた。
黒髪巨乳。旅館の女将で言うまでもなく家庭的且つ職の提供も可能。
更に京太郎より一つ年上。姉さん女房というには彼女自体に姉がいる為に若干頼りないものであるが、年上の女房は金の草鞋をなんとやら。おまけに趣味も一緒である。
ただしその趣味は巨乳好き。男なら兎も角、女性に付けるとしたらこの趣味それだけで正統派美少女が色物アホの子になってしまう魔の代物だ。
そんな魔の趣味を持つ松実玄は、悩んでいた。
それというのもつまりは、須賀京太郎の事である。
「どうしたらいいんだろう……?」
元々彼女と須賀京太郎は、プロ時代に出会った。京太郎がプロ一年目の夏の出来事だ。
あまりに忙しすぎて。そして麻雀での不調と、麻雀以外での仕事の多忙さに疲れ切った須賀京太郎は息抜きに奈良を訪れた。倒れた。熱中症で。
その介抱をしたのが松実玄であり、付き合いはそれなりに長い。
なお彼女の姉はそれ以前に須賀京太郎と仕事で共演していた。どうでもいい話だが。
それ以降、京太郎とはプライベートで連絡を取り合い趣味について語り合って、他には番組の取材や収録などで共に行動し、親交を深めた。
彼女にとっては、おそらくもっとも親しい異性である。女子高育ちで、それからすぐに実家を継いだという問題もある。
そんな親しい異性の須賀京太郎に、連絡を取ろうかどうか松実玄は悩んでいた。須賀京太郎がプロを止めてからずっと。つまりは一年半以上。
「どうしたらいいのかなぁ、おねーちゃん……」
聞いても返答は帰らない。当然だ。姉はプロ雀士となって家にはいないのだ。たまに帰ってきて炬燵の猫になるが。猫というかカメというかナマケモノというか。
基本的にしっかりしていると言われるのは、妹である玄の方であるが、肝心なところで腹が据わっているのは姉の
松実宥だ。長女は伊達じゃない。
姉より優れた妹なぞいねえ。おもち――胸部兵装も姉の方が大きい。玄もかなりだが、姉と比べているのか余り意識してはいない。
たとえるならエベレストとK2なのである。どちらも大きい。ただ玄は己が大きいと(あんまり)思ってないのだ。
しかし自分基準で考えるのか、それとも姉と言うエベレストで見るのかは知らないが一般的に中々のサイズを見ても「おもち力たったの5だね」とドヤ顔をする。殴りたい。
閑話休題。
ちなみに宮永家では姉は妹に負けていた。代わりにウエストの細さで姉は勝っていた。妹が寸胴とも言う。
なお、実際に高校生の時分にそれを言った須賀京太郎は二三日口を利いて貰えず、読書感想文の手伝いをしてもらえなかった。また話が逸れた。
「うーん……京太郎くんに、なんて言おうかな」
松実玄は、悩んでいた。
最初は、須賀京太郎を励ますべきかそうでないのか。
麻雀プロの道を諦めた――というのは彼にとっては大きな事態だ。高校一年生からひたすらに打ち込み続け、およそ十年にも近い歳月を費やした努力の道。それが一晩にして、瓦解した。
その心中を察して余りある。いや、玄からは想像もできない。
言ってみるなら、人間をサラブレッドに変えるほどの情熱を用いたのである。何ら、麻雀に於ける異能を持たず、天運の限りも持たない須賀京太郎。
ただ只管に人間が習得可能な麻雀の技能を磨きあげ、そして不運と言う欠点を努力と技術と思考で塗り潰した。そんな覚悟の道。
それを唐突に奪われた人間に――一体、なんと声を掛けられるのか。
しかも加えて、彼は奪われた。大切な両親を。一度に二人も、失った。
玄にも、母がいない。彼女が幼少の頃に亡くなっている。だから、失う悲しみというのは――別れる辛さというのは、知っている。
しかし玄はそれは子供の頃で、あまりにも昔の事。整理する時間も、折り合いを付ける期間も十分に貰った。母の手料理などを食べる事は出来ないのだ、という事を除けば寂しさもない。
何故なら、彼女の人生はそれよりも長いから。母が生きていた時間よりも、その後の方が玄にとっては多く積み重なった年月だ。
だが、京太郎は?
唐突に失ったのだ。己が懸けていた夢も、己が愛していた家族も同じくして。それまでの生活の大部分を失った。
きっと、誰かを抱きしめてやりたいと思ったのは――異性にそう思ったのは、それが初めてだった。
しかし距離は開きすぎていた。奈良と東京はあまりにも遠い。
そして、同じだけ――彼にも整理の時間が必要だと思った。失った悲しみを、別れた辛さを消化するには十分な時間が必要であると。
整理が出来たら、話を持って行ってみよう。色々な、話を。
そう思って……。
思って……、
「どうしよう、おねーちゃん」
いつの間にか一年半が経っていた。とんだすっとこどっこいである。
タイミングを外したら、今度はなんと切り出していいのか迷い始めた。
更に付け加えるなら、彼との大学生までの同級生であった新子憧から、京太郎が両親の分の借金を――交通事故の賠償金を――背負う事となったと聞いていた。
勇気を出して、「借金ごとおまかせあれ!」と言ってみようかとも思った。ただ、同時に京太郎は遠慮するんじゃないかと思った。玄の知っている京太郎なら、そうする。
それにこう、借金までバッチコイとか……もうそれ殆どプロポーズしてるのと同じではないだろうか。それはちょっと恥ずかしい。
確かに玄も結婚願望がある。
優しくて、温和で、気が利いて、自分の事を守ってくれるような人で、趣味も合ってて、明るくて、楽しくて、出来たらかっこいい人だと嬉しい。他には清潔感あるとか、スポーツマンだとかも思い浮かぶがそれはいい。
幸せな家庭を築けたらそれが一番いいなぁ……なんて夢想する。
で、件の京太郎と言えば――嬉しい事か悲しい事か、かなり玄の理想に近い。趣味も同じだし。番組の収録で、まるでヒーローみたいに庇ってくれたりお姫様抱っこしてくれたりしたし。
ただ……まあ、その、結婚となると……こう……もう少しお互いを知ってからでいいというか。ちょっと早くないかとか。まだ深く知ってないというか。もっと親しくなりたいというか。色んな事したいなえへへとか。
あとはこう、なんというか玄と同じ趣味なので……まあその結婚についてのイロイロアレコレで「おもち力たったの5め」とか言われたらちょっとショック。
加えるなら、こう、切り出してみたは良いものの「すみません、玄さんとそういう関係になるのはちょっと……」とか言われたらショック。もう穴が在ったら埋めてまた掘り起こしたいぐらい錯乱する。
いかんせんメールのやりとりしかできてないので、その辺り脈があるのか解らないのだ。女子高出身だし。
そうこうしていたら冬が近くなり、「もし彼女さんが居たら浮気って疑われちゃったり……それで大変な事になったり……」としり込みをし、
今度は春が近くなって実家がやたらと多忙になり――桜のシーズンの吉野は伊達じゃない――落ち着いて連絡を取ろうと考える事が出来ず、
そうしたらいつの間にか一年近く経っていて今更感が漂い出して、でもどうしようと悩んでいる間に季節はすっかり冬に近くなってしまった。無念である。迂闊である。
せめて、
「……阿知賀に、来てくれたらなぁ」
……なお彼女は知る由もないが。
彼女の後輩の
高鴨穏乃は須賀京太郎の高校時代の恋人であり、彼女の同級生の
鷺森灼は須賀京太郎が大学時代一時期男女の仲だった人間である。
おまけに京太郎と大学同級生の新子憧も、松実玄の後輩であったりする。
地雷原阿知賀。都落ちの地、吉野というのは伊達ではない。やはり古都はパワースポットなのだろうか。実際怖い。
「どうしよう……かなぁ」
そうしたまたいつものように、松実玄は首を捻る。
未だに彼女は残念だった。
◇ ◆ ◇
……二人も、チームメイトがいなくなるなんて。それに……、こんなに早く。
――麻雀プロ 南浦数絵、須賀プロ引退及び小走プロ移籍時に
◇ ◆ ◇
何が本当に正しかったのか、今でも考える。
しかしこんな問題はきっと、いくら考えても答えの出ぬ問題である。何が正解で何が失敗なのか、恐らく単純には割り切れない話。
ただ、一つの指標としては――そこに納得や後悔があるのかというものだろう。
だったらきっとこれは、“失敗”だ。
理解は出来た。
だけれども、納得は出来ない。後悔も勿論ある。許容なんて不可能だった。
「悪いな、勝ち逃げだな。これ」
そう笑う青年の顔はやけに爽やかだった。
拠る辺を無くし、家族を無くし、努力や覚悟を諸々不意にした人間のそれとは思えないほど。
きっと彼はまだ総てを失った訳ではないのだろう。聞けば、有名な大学を出ているらしいし、出演番組等を見るに実に多芸だ。
麻雀に懸ける情熱は本物だが、それ以外にも生きていく道は多く、活かせる道も多いのだろう。
羨ましくもあり、妬ましくもある。
恵まれた人間の手慰みとして麻雀を利用されていた事への、思う所が無いわけでもない。
ただ、予想に反して――人類最強の男は姿を消した。影も形もなくなった。表舞台から、去ったのだ。総てを捨てて。
それがあの、“勝ち逃げ”という言葉に集約されていた。
実に――実に、腹立たしい。
「宮永咲プロとは、因縁の対決との事ですが、お気持ちは?」
「そうですね。いつも通り、やるだけですよー」
記者の質問に笑顔で返す。
正しくその通り、自分と彼女の対決は因縁じみている。十年前から始まって、今の今まで続く。
無論、それだけではない。
直接的な勝敗以上の感覚があるのだ。
宮永照は自分の憧れの人物にして、大いなる目標。以前から宮永照の後継者と呼ばれてきたが、いずれは宮永照が自分な前身だったのだと呼ばれるよう――そんな打倒目標。
それと同じだけ情景し、尊敬に値する人物。
そして高校時代から宮永咲とは幾多の勝負を共にした。プロとなってからはランキング順位の関係で直接的な闘牌は少ないが、それでも幾度鉾を交えた。
タイトル戦を争ったりもした。――している。
「そういえばこの戦いは以前、須賀プロも――」
「おい、馬鹿」
「あっ」
途端に塞がれる口。
須賀京太郎――――かつての麻雀プロ。かつての第一位。かつての人類の到達点。かつての地上最強の男。
その名は今、タブーとなっていた。
須賀京太郎が電撃的な逆転と偉業の末に第一位となった。それから彼は多大なる不幸に見舞われ、若くしてプロの道を去った。最強のまま、消えた。
或いは何らかの報道規制か。それとも彼の境遇を不憫と考えたか、或いは不気味と思ったのか――とにかく暗黙の了解か其処らで、須賀京太郎の名は表には出されなくなった。
故意に風化を望んでいると思えるほど――しかも当人自身も――その名は潜められて久しい。
それとも、単に本人に華がないので日々華々しくうつろう麻雀業界では既に過去として流されていくのかも知れない。
兎も角、誰かが須賀京太郎について問い掛ける事はないし、また彼女も須賀京太郎について語り出す事もない。
「それじゃあ、試合なんで失礼しますねー」
だからと言って、思う処がないというのは大間違い。
寧ろ彼女は――、
大星淡は――、自分は――、思う処しかない。
宮永照を超えるのは自分だと考えていた。――だけど先を越された。
異能を持たないたたの人間だと思った。――でも負けた。
好敵手だと信じていた。――しかし逃げられた。
どこかでまた顔を合わせるのかと感じていた。――ところが姿を消した。
最初はただのタレントかと思ったが、ちゃんとした麻雀プロで。
それでも自分の敵じゃないと思ったら、逆転の一撃を叩き込まれて。
何かの異能かと思ったら、ただ鍛えただけの人間で。
次は必ず勝つと決めたけど、またもや上を行かれて。
それでもまだ戦いは続くんだろうなと思ったら、もうそれっきりで。
挙げ句の果てに――――いなくなって、そこでお仕舞いだなんて。
(ふざけんな)
ふざけるな、須賀京太郎。
戦った相手は数多。倒した相手は幾多。
その中でも大星淡に土を着けた奴は少ないと言うのに。更にその中で、ただ人間が人間の技能を鍛えただけの奴なんて居ないのに。須賀京太郎しか居ないのに。
ライバルだと、好敵手だと誓った筈なのに――。
何の力も持たない人間で、でも弱さを誇らないで、強さを咎めない男で――認めた唯一なのに。
(ふざけんな)
許せない。本当に許せない。
勝手に一人で終わらせて、勝手に一人で納得して、勝手に一人で居なくなって――。
挙げ句の果てに、あんなに清々しそうに“勝ち逃げだ”なんて――。
(ふざけんな)
本当に許せない。
須賀京太郎だけは許せない。絶対に絶対に、この先何があっても。
だから、奪う。だから、貰う。
須賀京太郎の残したものは全部貰う。
彼の残した成績も、彼が勝ち取ったタイトルも、彼が勝ち得たその称号も――――何もかもきっと。きっといつか。
きっといつか、あいつの手に入れた総てを上書きして塗り潰して埋め立てて――そうしたら、そうしたらきっと――――。
(ふざけんな、須賀京太郎)
碧眼が細まった。
大星淡が、眼前の敵を睨む。因縁の相手、宮永咲。
茶髪のショートカット。一房だけ髪の毛が癖で固まり、あたかも何かの触角のよう。誰に倣ったのだか知らない眼鏡。ただしこちらは銀色のフレーム。
淡の、緩くウェーブを抱いた金髪が鎌首を擡げる。恰かも主人の闘志に呼応したかの如く、腰ほどまでの長髪が波打ち逆立つ。
須賀京太郎亡き今、彼が手にしていたタイトルの一つ――にして唯一――を持つのがこの宮永咲。
奪う。
筋違いだとしても、こいつから奪う。
何もかもを奪って、須賀京太郎がプロとしてこの世にいた痕跡を総て自分が埋め尽くしたなら――。きっとそうしたら――。
――なんで。
(うっさい)
――どうして。
(うっさい)
――やだよ。
(もう、一年以上前に終わったんだ)
――教えてよ。
(うっさい、須賀なんて許さない……! あんな奴、居ない……!)
――どうして、きょーたろー。
(殺してやる……! あんたがここにいた、その証なんて全部)
きっと何もかもを上から潰して仕舞えたら、この胸の渇きも埋められるだろう。
きっと――。きっとそうしたら――。
(殺してやる……!)
◇ ◆ ◇
一緒に日本一になれるように頑張りますーぅ。タッグは無理でもチームの方は。
◇ ◆ ◇
「よ、これ。ご飯にしてみた」
平穏、冬に差し掛かった午後。
あの公園に見えるのは二つの影。銀杏の絨毯が避けたそのベンチは、そこだけが空白地帯とばかり。
遊具の殆どは撤去されている。
地面に埋め込まれた金属パイプの基礎。私用禁止、立ち入り禁止の紙が踊る鉄の骨組み。
残るのは山とトンネルと鎌倉が一体化したような鼠色の滑り台と、すっかり錆び付いた発条の上に鎮座する色の剥げた馬と牛。
二つ並んだブランコは物悲しく、風が吹く度に軋んだ音を立てる。
そんなうらびれた雰囲気の中、場違いに並べられた新聞紙とアルミホイルの重装甲から躍り出たタッパー。
「……」
「食おうぜ。冷めちまうしなー……、……ってもう冷めてるけどな」
能天気な声を上げて、青年――須賀京太郎が少女へと割り箸とタッパーを差し出す。
彼の心配ごとといったら目下、米が寄りすぎてたりおかずが乗り上げて混ざりあって居ないかだ。
これが春や夏先ならば、絶好のピクニック日和だったのにな……と京太郎は伸びを一つ。
隣に座る少女は湯呑みの茶を飲むような動作のまま、もくもくとタッパーの中身を口に運ぶ。
しかし、生野菜が巧みに箸から避けられている。どうやら生野菜は苦手らしい。
なら今度は茹でてみるかな――と、思案顔の京太郎に、
「一つ、聞いていい?」
見上げた少女の目線が合わさった。
余程熱中して食べているのか、口の箸にソースがついているのが何とも微笑ましい。
「ん、どうしたんだ?」
ハンカチを取り出す京太郎に一礼をして口を拭った少女は、やおら口を開く。
変わらず、透明な瞳。その瞳孔に彼の微笑みが反射する。
片方は覆い隠され窺えない。だがその分、左目は熱心に世界を捉えようとしているのか――などという感想すら懐く。
純粋なのか、それともその奥に何かがあるのかは、神ならぬ彼には判らないが……少なくとも今この瞬間、少女は須賀京太郎だけを視界に映していた。
が、
「お兄さん、働いてないの……?」
次の瞬間飛び出したのはそんな爆弾発言である。
言葉のボディブローならぬリバーブロー。
なまじっか物静かで純真そうなだけに効果倍増。冷徹の徹は徹すの徹。心臓に直接冷凍パンチを叩き込まんばかりの衝撃である。リバー(肝臓)だけに肝が冷えるとはこの事か。
漸く何か訊いてきたと思ったら、まさかの職の確認である。
なんだろう、あれか、職務質問なのか。須賀京太郎は不審者とでも言いたいのか。
……いや、確かに端から見たら危ない光景だけど。児童なんちゃらとか青少年なんちゃらとかで。
抑揚がない口調と平坦な視線。合わさると、子供が純粋な質問をぶつけて来ている風な錯覚さえ懐くほど。
「いや制服着てるよな!? 喫茶店で働いてるからな!」
流石の京太郎もこれには苦笑い、どころか全力で否定。二十代中盤無職認定というのは精神的にあまりにも大きな打撃である。
「……フリーターなんだ」
「いや、それは……その、なんというか……」
言外に込められた「いい年して定職に就いてない」――というのが須賀京太郎の胸を静かに抉る。
会社員になろうか、それとも教師になろうかは京太郎とて考えた。
しかしながら、僅かに新人とは言い難い年齢ではエントリーシートで弾かれ、また、新卒でもなくツテもなかった京太郎では教師は難しい。
幾ばくかの私立校の教員募集に応募を試みたものの……現実の前に挫折した。
過去あれほどまでに覚えた事を、忘れていたのだ。使わなくなった記憶は直ぐに薄れるとはこの事か。
これでは到底誰かに物を教えるというのは難しいな――と、結局京太郎から一時断念。
現在は勉強中。新子憧と頻繁に連絡をとっているのも、実際の教師の観点から何が必要なのかを窺う為である。
今度の予定は最終確認。それで保証されたのであれば、各都県の教育委員会や私立高校への就職を考えようとしていた。
断じてニートではない。
繰り返すが、断じてニートではない。断じて。
「……またね、ニートのお兄さん」
「……ニートじゃないですから」
ニートじゃねーよ、と声を大にしそうになったのを彼は何とか堪えた。
そんな風に、しかし一方、(それともやっぱり俺ぐらいの歳なら定職じゃないとニート同然なのか?)と肩を落として歩く京太郎の背中を、少女はいつまでも見詰めていた。
少女の手元に残されたハンカチが、くしゃと揺れた。
小さく呼吸。相手は拍を取る。
対する京太郎は膝を軽く曲げ、腰を僅かに落とした状態。指には軽く力を込め、恰かも鉤爪の如く曲がる。左を前にした左主体。
拍は取らない。相手の目の辺りを見遣りつつ、しかし注目せず。
赤の短髪。上下される髪。堀の深い顔。鋭い目。上唇の辺りに古傷。小さく呼吸と共に震える下唇。
それらの情報が、認識されながらも――遠ざかる。
総ての情報を同時に掌握し、そして同時に忘却し、同時に理解して、同時に無視する。奇妙な感覚。
時間が圧縮されて濃密なものへと変化しつつも、矢のような目まぐるしさを懐く。音が即座に脳裏を過りながらも刻まれる事なく、しかし同じくして片隅で残響する。
意識を複数に分割したかの如く、視界に対する主体性を失う。己が感じ取りながらも、己以外の誰かや何かにもたらされている感覚。
脳の複数が同時に矛盾した処理を行い、しかしそれが統合され無理なく成り立つ体感。
何かに酔いながらも、同じだけの正確さを持った機能が働いているのだと――漠然と認識/同時に忘却。
呼吸が苦しい。実感を抱きつつも、頭の芯は冷えている。そこは京太郎であって、京太郎ではない。
視覚/視角そのものが京太郎だった。
脳での思考を手放している意識。己の体勢などの触覚や相手の呼吸音などの聴覚――果ては思考までもが、見えない情報となりながらも視界に投影され認識する超然的な意識。
そのまま視覚が取捨選択する。匂いや暑さなどは当に手放された。恐らく味も。
ふと、もし視覚を失ったらこの感覚はどうなるのだと考えたそのとき――、
「――」
相手が動いた。
迫る左のジャブ――京太郎が反射じみた動きを取り始めたそこに。
間合いが半歩詰まる/突き出された左手が視界を削る/外を向いた右足/右肩が後退/首に角度が付く/顎が左へ――――左ミドル!
距離を詰めて勢いを殺すか?
――相手の左手が邪魔/詰まった距離+着弾の硬直に痺れる右腕=隙に次撃が飛ぶ。
背後に引くか?
――相手の左手に生まれた死角=間合いの掩蔽/誤れば最大威力が襲いかかる。
その場で身を硬めて耐えるか?
――だが相手は左ミドル/スタンスに開いた体の内への攻撃/使える防御は右=疲労の蓄積による利き腕潰し。
果たして、京太郎は足を引いた。
そして、彼の動きには京太郎以外の全てが瞠目した。
京太郎の身体に蹴りが命中したその瞬間には、放った側が弾き飛ばされて居たのだから。
倒れ呻く攻撃者。それを余所に、勢いを失った左足を緩やかに引き戻す片足立ちの須賀京太郎。
あの瞬間、彼が行ったのは構えのスイッチング。右を残したまま左足を引き、構えの左右を入れ換えたのである。
そうして迫りくる左ミドルを曲げた右の腕と体外側面で受け、その勢いも加えた上での半回転。半時計回り。
独楽の如く回る身体から一直線に突き出された左の踵。回転状態で前方目掛けて放たれる後ろ蹴り。
人体でも特に強度を持つ、背筋・大臀筋・大腿筋が背筋を弓なりに引き絞るその力と、作用点である踵の硬度と面積。その気で使うのならば、最も破壊力がある攻撃である。
それが、左ミドルを放つ敵の脇腹と背筋の間に突き刺さった。更には放った相手自身の力も加算されて――である。
「悪い、大丈夫か!?」
攻撃を行った当の本人の須賀京太郎自身が、誰よりも汗を浮かべて相手に駆け寄る。
無論全力や死力での一撃ではないが、咄嗟に繰り出したそれには上手く加減が乗らないというのも事実。壊すつもりで蹴り刺してはいないが、想像以上に力が乗った。
同時にそれだけ、相手が強者であった証である。
一方の相手は、京太郎の腕に頼りながら起き上がり、
「いや、これ……かなりっすね。驚きました」
そう、笑った。額には軽く脂汗。
それを見て漸く彼も肩の力を抜く。
「悪い、なんか遣り過ぎて……」
「いや、いいスパーになりました……これ以上の攻撃とか、多分ないでしょうし」
心底驚いたと、赤いパンツの選手は笑う。
「今度、俺のスパーにも付き合って下さいよ」
「いや、俺にも。須賀さんぱねえ」
「須賀さん、勿体ないからエクササイズとか言わずに上目指しましょうよ。いい蹴りっすよ」
リングの方々から歓声が上がるのを、京太郎は苦笑で応じる。面映ゆいといった面持ち。
実際こうして喜ばれるのは、彼としても悪い気がしない。
「俺、須賀さんになら抱かれてもいい」
「須賀さんがその気なら孕む自信あるわ」
「須賀さん十割バッター?」
「え、須賀さんデキ婚?」
「式には呼んで欲しいっす」
「ご祝儀アイスティーでいいっすか?」
「誰もそんな話してないよな!?」
いややっぱりなし。そっちのケはないのである。
というか弄りにシフトしていた。体育会系特有の悪乗りである。
「……まだまだ動くもんだなぁ」
帰り道、すっかりと冷えきった夜の空気にはしかし、まだ人の生暖かい熱気が残っている。むしろ街は、これからが本番と言わんばかりに。
黒をベースにした、枯れ草系統の色で立てられた冬物向きの色彩のマフラーを寄せて、京太郎は吐息を滲ませる。
一週間に一度、或いは二週間に一度。こうして立ち技系のジムに顔を出すのが彼の習慣だった。
殆どただ身体を動かし、サンドバッグを蹴り付ける。それだけなのだが今回ばかりはスパーリングを頼まれていた。京太郎の蹴りを見たジム員が、どうしても一度と頼んだのだ。
彼自身、ある種の気晴らしになった。以前に比べて、こうして派手に集中する事や動作を行う事が少ない生活であったから。
しかしああも褒められると、プロというのも悪い気はしないな――と京太郎は目尻を下げた。
実際それで生活出来るかとか、或いは身体の問題などはさておき。
「お、憧からか?」
ソーシャルネットワークに、メッセージが入る。どうやら電話をしたのに出なかったのだが、忙しかったのか聞きたいらしい。
やや置いて、文面を考える。
僅かに滲む悪戯心。ある程度したしい相手ともなると、彼は妙な茶目っ気を出す。例えばお姫様扱いだったり、ぞんざいな対応をしたり。
「『ちょっと裸だった』……と」
正しくは上半身裸であり、全裸ではないのだが嘘は言ってない。
「……既読スルーかよ」
既読マークは付きながらも、返事が来ない。
何となく彼には、画面の向こうで呆れ顔で溜め息を漏らして無言になる新子憧が幻視された。なお事実は別である。憧はふきゅっと鳴いた。
手厳しいな、と頭を掻く。確かに彼自身振り返るなら、これはあまり面白いネタではなかった。
「よ、京ちゃん」
そこへと――声がかかる。
後ろ髪の辺りへと意識が拡張し、視界が吊り上がる。自然と膝が余裕を持ち、両肩の力が籠められながら抜けた。
そこまでして、京太郎は苦笑。激しく鎬を削った直後だったからか、彼自身が思う以上に神経が鋭敏になっているらしい。
暗がりから顔を覗かせたのは、鋭角的な輪郭を持った銀髪の老人。好好爺という風情であらる。
「あんま驚かさないでくれよ、シゲさん」
京太郎が顔を苦くした。
普段ならばそんな事はないのだが、格闘直後にこの老人の持つ死線にも似た幽鬼の雰囲気には、自然と身体が迎撃の用意を整えてしまう。
根っから格闘を志したり、闘争心を抱いたり、或いは常に用心を怠らない戦士とは程遠い京太郎であるが、半ばこれは身体の反射に近かった。
「いや、京ちゃんが愉しそうだったから……つい、な」
「スッキリはしたけど、それ以上に痛かったですけどね」
「生きてるスリルだな」
小さく溢して煙草を取り出す老人に、京太郎は無言で路上を指差した。剥げかかった禁止表示が、平面の中で歩き出そうとする。
シゲは、残念そうに煙草を挟み込んだまま肩を竦めた。彼とて幾度となくこのやり取りを行い重々承知している筈なのだが――癖のようなものかと、京太郎も肩を竦めて返す。
それにしても何の用件かと京太郎が考えると同時に、老人は笑う。
「悪いな、夕飯は食っちまった。だからまた今度だ」
「いや、それは別にいいですけど……」
この老人の正体を、京太郎も詳しくは知らない。
ただ、時々顔を合わせては何事か会話を交わす関係。それ以外に彼が知るのは、相手が麻雀を打つというのとただならぬ雰囲気を持つという事。
裏についても知っている以上――真っ当な打ち手ではないな、というのは何となく想像が付くが。
それから、老人が口を開いた。世間話でもするような気軽さ。
「魔法喰いの奴、いくつか賭場を荒らし回ってるらしいな」
「……」
「そこそこ名の知れた代打ちも喰われてる。魔法ごとな」
そいつの魔法はちっぽけなもんだが――と、シゲは嗤った。
「……それを、どうして俺に?」
「京ちゃんが狙われたりするかもってな」
「まさか。俺、麻雀出来ないし喰うとことかないですよ」
事実である。
彼自身の言葉のように、須賀京太郎は異能を持たない。いくら魔法喰いと言っても、無いものばかりは食べようがない。
それに、京太郎は今は一般人。付け加えるなら京太郎自身嘆きたくなるほど華がない。一目見て彼を元麻雀プロ須賀京太郎だと思える人間は稀である。
一部(特に子供)には出演作をとってヒーローだとか、アクション俳優だと思われているのがなお悲しい。しかもそっちなら軽く気付かれるあたり余計に。
「……ま、京ちゃんがそうでも相手はそうは思わないかもな。何せあの、運の制圧のM.A.R.S.ランキングだ」
「……」
「……闘うときになったら立会人を呼んでやるから心配するなよ、京ちゃん」
それじゃあまた、とシゲの背中は闇に紛れて路地へと呑まれる。
見送る京太郎の身体からは、すっかりと先ほどまでの熱が散ってしまっていた。
◇ ◆ ◇
一度でも一位になったんだ。私も負けられない。……それだけだな。
――麻雀プロ
辻垣内智葉、須賀京太郎プロ引退について
◇ ◆ ◇
オカルト喰いという言葉に、京太郎の脳裏を過るのは一人の後輩。
彼が高校三年生時の新一年。弟子というのは、彼女の後にも先にもいない。数年打っているのに初心者で、当時の須賀京太郎にも教える余地があったのは夢乃マホだけであったのだ。
自分が教わった事を噛み砕いて、相手に判る風に伝えるのが、自分の色を乗せて伝えるのが何と楽しい事か。
相手の疑問が解消された瞬間の、あの輝く顔が彼は好きだった。だからこそ、今もこうして再び教師を志しているのかも知れない。
初心者同然の少女――だったが、一つだけ大きく異なる点があった。
それはその異能。
“何かに憧れる事で、それを模倣する”――それが異能であっても、打ち筋であっても変わらない。そういう特技を彼女は持っていたのだ。
模倣が出来るという事は、能力の発動条件とその帰結が判る――つまりは分析も出来るという事。
単純なるコピーも然る事ながら、初遭遇ではその特性上ただの偶然なのか果たして異能なのかの判別がし難いオカルトとの戦いに於いては分析は何よりのアドバンテージ。
伸ばせば――より洗練させれば間違いなく頂点を目指せる人間であり、彼らの次を担わせるにはこれ以上ない人材だった。
同じだけ、彼女にも勝ちを楽しんで欲しいと思った。
故に彼は、その少女がしがちだった初心者特有のミスの矯正を行い、特性の活用に努めたのだ。
――結論から言うなら、それは間違いだった。
異能というのは、本人の境遇や趣味嗜好、想いや精神状態にも大きく依存する例もある。であるが故に他人のそれを搭載するなどというのは――。
兆候はあったのかも知れないが、少なくとも彼には判らなかった。
異変が発露したのは彼の卒業から二年後。指導を行ってから三年後。
彼の後輩は、己の主たる人格を殆ど失っていた。複製を行った特性のベースの人格に、引っ張られていたのだ。
彼には知るよしもなかったが、少女の犯すミスであったり幼い動作であったりは――それが彼女のアイデンティティーだった。己が己だと証明する証であった。
結果、京太郎の指導によりミスを修正した少女は異能に飲まれ、“己一人分の人格”を削る事と引き換えに異なる持ち主の異能を二重積載する事を可能とした。
二人分の人格を搭載した少女の言動は、傍目から見て異常であった。
その事を後輩から知った須賀京太郎は、夢乃マホを取り戻す為に彼女と戦い――――惨敗。
対する相手は組み合わせれば万を超える異能の打ち手。
彼にはまだ順位はなかった。ただの生身だった。少々鍛えただけの運が平凡な青年だった。
つまりは、土台無理な勝負である。
その折に京太郎のペットのカピバラが死んだ。ただの愛玩動物かも知れないが、彼にとっては昔から家を空けがちだった両親に代わって共に過ごしてきた家族が死んだ。
京太郎自身も、一時的に光を失った。疲労とストレスから来る失明だった。
結局その後、少女の異変は落ち着きを見せたが……理由は判らない。再発の危険があるかも知れない。
彼としては、次こそは止めてやると決意して心の片隅に置きながら、プロの道に進んだ。
――まさか、またしても。
「……いや、マホに限ってそんな」
呟きつつも、俄に汗が滲む手のひらを隠せない。
震える指先で、ソーシャルネットワークを起動。後輩へと、メッセージを送る。
『なあ、マホ。なんか大変な事とかなってないよな?』
杞憂であれば良いと画面を睨み付ける彼に返ってきたのは、
『マホ、大ピンチです! 大変です! 泣きそうです!』
焦り混じりのそんな文句。
瞬間、血液が沸騰し並んで即座に冷却されたかのごとき悪寒。背筋を、冷気の皺が撫でる。
思わず取り落としそうになった電話を、砕かんばかりの勢いで握り締めて身を乗り出して画面に食い付く。
いつの間にか背を伝う冷たい汗。果たして――
『マホ、就職失敗です……どうしましょう……』
そんな文字の直後に踊るデフォルメされたキャラクター。涙を流して、膝を衝く少女のスタンプ。
やれやれと鼻から息を漏らして、彼は胸を撫で下ろした。
以前はその技量から少女を止める事が出来なかったが、今度ばかりは身体的な問題が付き纏うのだ。ある意味では、以前より一層困難だろう。
倒せば必ず解決するかは知らないが、勝利や強敵との戦いの果てにそうなったのならば、麻雀で解決するのが最も自然であるとしか――というより彼には他に道が思い付かなかった。
それが是が非かは今となっては知るよしもないし、彼自身、それを知る事が出来るような状況になって欲しくないという思いの方が強い。
『なら一緒に勉強するか? 教師の』
教育学部に通っているこの後輩と同じ職場に進むのも悪くはないかな、と彼は目尻を下げる。
尤も、母校がある長野を選択したとしても、都合良く二人ともが――どころか一人でも――母校に辿り着けるかは、判らないが。
(プロ……ってのは、選ばせたくないよな……やっぱり。俺にそんな権利があるかもだけど)
――なお、何故夢乃マホが回復したのか。
――そして彼の推測は的中していたのだが、果たして誰がそれを行ったのか。
神ならぬ彼には知り得ない。だからこそ、警戒は未だに拭えない。
かつて、後輩を取り戻してくれた、赤毛の麻雀プロの存在を。
――彼は知らない。
ところは変わって、奈良県吉野郡。
スーツ姿のまま、ベッドに身体を投げ出す女性。赤みがかった腰までの長髪を、頭の左右それぞれで一房結び止める。
勝気さが滲む猫の如き瞳からは、矜持と気前の良さと知性が覗く。
計算の高さや或いは処世術の巧みさといったものも窺えるあたり、彼女を見たなら誰もが「出来るいい女」と考えるであろう。
なお実際のところ、アラサー彼氏いない歴=年齢。当人の意識ではファーストキスもまだである。実際のところは酔った拍子に済ませてたりする。ああ無情。
仰向けに倒れて、ワイシャツの前を肌蹴る。下着が覗くのも、どうせ誰かに見られてる訳じゃないからいいやと黙殺。
そのまま上着をベッド脇に投げ捨て、身を起こしながらもベッドに腰かけたまま背をそらしてスカートを抜き取り、やはり投げる。ぬいぐるみが倒れた。
外見の割には――少女趣味というより、可愛らしい部屋だった。
彼女は無類の動物好きである。以前に比べれば数を減らしたが、未だに猫や犬や鰻のぬいぐるみが生息している。
「あーもー、なんで先生ってこんなに忙しいのよぉ……」
休日出勤上等、残業上等の職場への愚痴を漏らしながらも女性は枕に顔を埋める。
学生の頃は全く知らなかったが、授業以外の業務の多い事多い事。これでいて私立校でまだ学生数が少ないから良いものの、そうでなければどうなっていたか。
昔は気付かなかった色々というものが、まさかこうも重いものとは……。
「ハルエがあんなんだったからもーちょっとゆるいと思ってたのに……」
それとも時流というものなのだろうか。
なんだか時代とか社会に年々余裕がなくなってきている気がする。心霊話とかUFOとかを大の大人が議論する番組もトンと見なくなったし……。
いつからか、と言われると断言できないけど。なんとなく。
それともこれが大人になるという事なのか。
小学生の頃は中学生は大人だったし、高校生は遥か先。中学生になれば大学生はきっと……なんて思って、高校生になったら大人はもっと凄いと思ってた。
だけど別に自分が変わったか、なんて自覚はなくて。それでもうあれから十年は経つなんて。
十年。十年である。
高校生の頃、十年先にはきっと結婚して幸せな家庭でも築いていると思ったのに。子供とかもいたりして。
なのに彼女の現実はもう年齢のクリスマスケーキを超えて、アラウンドなサーティの仲間入りだ。ゴルゴもビックリ。あっちはサーティンだけど。
サーティワン食べたい。ダッツでもいい。冷蔵庫に有ったかも知れない。
「結婚……かぁ……」
しかし、相手は……。
新子憧は眉間を押さえて溜め息を漏らした。
何故、我ながらこんな難儀なんだろうか。もっと要領良く行くと思ってたのに。
中学生に上がってから、お洒落に気を使うようになった。同年代は餓鬼っぽくて馬鹿みたいだから歳上なんかと、交際するのかなと。
それなんだけど結局――こう、それまでと変わって自分に向けられる目線に苦手意識を抱き始めた。
どちらかと言えば小学生の頃は外で遊ぶ元気なタイプであり、男勝りとも言えなくはない。だからこそ余計にそうだったのかも知れない。
まあ、高校上がってからでいいか。そうそうまだ早いまだ早い――なんて思ってたら、何の因果か高校は女子校。しかもお嬢様学校。
そりゃあ、無理という話である。
だが多分、そんなのも大学生になったら変わるだろうと思っていたら……変わらなかったのだ。近くにあの男が居たから。
前述の通り、何となく苦手意識があった。おまけに克服しないまま女子校。……で、大学には同じ学部に男の知り合いがいた。恋の相談に乗ってやったりした奴の。
そいつなら自分の方に変な気を起こさないから安心というのもあるし、散々情けないところを見せられたので、男というより“そいつ”個人という意識が強かった。
で、まぁ、大学生特有の感じで笑顔の下にギラギラしたものを隠した奴らが寄ってくる度に、どうにもそいつの影に隠れた。
そうしたら――しかも同じ部活で行動を共にしていた――絡みが来なくなった。
まぁそれはいい。
いや、今は良くないと思う。アラサー未婚未経験彼氏居た事ナシは洒落にならない。どんどん二の足を踏んでしまうから。
で、そいつは――こう、親友の元恋人だというのに――顔を合わせて居る内になんとなくそいつの事が気になり出してしまった。
気の迷いである。不覚である。迂闊である。
あとはこう、何となく常に意識してた。意識し始めたら止まらなくなり、こう……まぁ、他の男とか見えなくなった。
「はぁ……あたし、なにやってんだろ」
で。気付いたら、そいつしか居なかったのである、まる。
それまでが結構気を置けない感じでそのヘタレ男の背中を押していたから、どうにも照れ隠しにも言葉が強くなり。
妙に意識するから余計につっかかって売り言葉に買い言葉となり、それが尚更イライラして何かと刺々しくなってしまい、彼女自身から異性として認識されないルートをひた走る。
普通にどこかで素直に告白でもしていたらきっと今頃すんなりと結果は迎えたというのに――なんの因果か、意地が邪魔をしてしまった。
「どーしてあんなどうしようもない奴の事なんて……」
まず鈍感。次に鈍感。おまけに鈍感。
鈍感というか、ズレてる。気が利くのに利かないというか。肝心なとこですっぽかすというか、デリカシーがないと言うか。
というか、あれは一度印象を決めたらそうとしか扱わないタイプだ。
悔しいが、鈍感というよりつまり彼には新子憧はその手の対象として見られてないのである。腹立たしい。
恐らく、憧よりももっとスタイルが良かったりおしとやかだったり美人だったりしたら――きっと見逃さないだろう。例えば松実玄とかなんからアプローチされたら即座に入籍しそう。
決して自分がヴィジュアル的に負けてるなんて思いたくないけど、あの巨乳には後塵を拝せざるを得ない。
これでも一般的には十分なサイズかそれより上まで育てたというのに。忌々しい。忌々しいぞ。忌々しい巨乳好きめ。
で、その癖歳上にはやたらデレデレする。巨乳と歳上にデレデレする。あと年下に頼られてもにこやか。なんか腹立つ。本当に腹立つ。
「……普通よりはあるのになぁ」
俯せのまま、軽くサイズを確認してみる。
沿わせた手で隠せるような大きさではない。腕を使ったら……まぁ、その、あれだ。完全には隠せない程度はある。問題ない。あと隠そうとしたら谷間ができる。
しかし、まるで意識されないとは。一体何だと思われてるのか。ファッキンブッダ。なお新子家はシントー・シュラインである。何も問題ない。
「はぁ、なんであんな奴に……」
顔はまぁ、悪くない。
一時期麻雀路線よりも、女性層獲得の為にタレントの真似事をさせられる程度には整っている。あとあんま男男ゴツくない。どっちかというと軽い感じ。
性格は……基本は誠実なのか、丁寧なのか。几帳面だとは思う。あと多分爽やか。気が利かない訳ではない……一般的な事では。
でも格好付け。あとお調子者。変に真面目で意地っ張り。微妙に熱血。多分ここらへんは体育会系に居た名残り。だから少し残念系。誘い受けの三枚目みたいな。
頭は悪くない。
回転は早く、機転は利く。そうじゃなきゃ、なんのオカルトもない癖にオカルト持ちとはやりあえない。
で、スポーツ。中学時代ハンドボール部で県決勝まで行ったらしく、まあそれ相応に身は軽い。更にはプロになってからノースタントとかをやった所為で、センス抜群。
ついでに強い。大学時代に格闘技を始めたせいで――恐らくハンドボールなんて激しいスポーツをやっていて下地があったのもあるだろうが――強い。
実際、たちの悪い連中に憧が絡まれた時なんかに、颯爽と助け出してくれた。あれは流石にときめかざるを得ない。不覚にも
身長、高い。百八〇センチ超え。高校生の頃より多少は身長が伸びた憧からでさえ、二十五センチ以上高い。
で、家事は一通りできる。そこら辺は知り合いの豪邸の執事に仕込まれたらしい。つまりはお屋敷の使用人クラスの雑務力はある。
で、性格明るくて軽い割りには身持ちは固い方。
……。
……いや。
でも……その……こう……。
こう……なんていうか……どうしようもない奴なのである。それでもそうなのである。そうったらそうなのである。
「うー……うー」
でも、こう……その、所謂……好きという奴なのである。奴なのだ。好きというか気になるというか支えたいというか他に考えられないというかなんというか。
まさか二十を半ばも過ぎて、今更惚れた腫れたで悩むなんて高校生の頃は全く想像していなかった。今更というか大学生からずっとそうだ。
随分と長い。我ながら馬鹿らしい。いつまで思春期だと言うのだ。殺した少年の翼とかあるのに。ゼロは答えてくれない。
「はぁ……何してるのかな、京太郎」
ちょっと電話を掛けてみる。出ない。何か忙しいのだろうか。
少し声でも聞きたいと思ったのに、ままならないものだと憧は肩を落とす。
まぁ、どうせすぐに顔を見れるのだ。焦る事はない。いや焦りたいけど。すぐに会いたいけど。
会ったら、会ったら――。
「……今度こそは、きっと。がんばれあたし!」
――なおこの数十分後、『ちょっと裸だった』という言い訳を貰って彼女が慌てるのは別の話である。
ふきゅった。
◇ ◆ ◇
えっ? えっ……? 嘘、だよね……?
――麻雀プロ
姉帯豊音、須賀京太郎プロ引退について
◇ ◆ ◇
木枯らしの声だけが響く公園。無言のまま、青年と少女は箸を動かす。
「あ、そうだ」
途端、思い付いた風に京太郎は少女を見た。対する少女も、透明の瞳で見つめ返す。
段々と彼にも、この少女の仕草が読める風になってきていた。今のは、驚いたり疑問を持ったりした証である。
しかし京太郎は答えずに、黙ったまま己の首元に手をやった。その後ぐるりと回して、今度は立ち上がり少女を見下ろしつつも同じ事を逆動作で行う。
むずがるように、少女は肩を震わせるが、
「いいから気にすんなよ、ほら」
「うぅ」
構わず笑いでそれを殺し、作業を続行。少女の首筋を、綿毛が滲むフェルト地が覆い尽くした。
どうしたらいいのか、困惑気味な少女を尻目に京太郎は満足顔。
妙な押しの強さがあった。特にはこのように、自己主張が控え目な相手に対しての。
「うん、これでよし。似合ってるぞ」
頷きつつも、京太郎は振り返る。なんとなく、この長いとは言えない少女との付き合いで思っていた事があった。
外見は決して似ているとは思えないし、きっと性格も違うであろう。だけれどもどこかで、そうとしか思えない部分が覗く。
そう、昔から知っているような――。
(何となく、昔の咲に似てるんだ。この子)
具体的には言えないし、宮永咲が引っ込み思案なのに対してこの少女は単に感情に乏しい風であるが、ふとした拍子にそう思う。
少女との邂逅を通して、彼自身過去を省みている部分があるのだ。
それから暫しマフラーを押さえて鼻先を埋めていた少女が、緩やかに瞳を上げた。
「……ねえお兄さん、一つ聞いていい?」
「おう、どうした?」
一つ聞いていいか、というのは京太郎と少女の合い言葉のようなものだった。
一度会ったら、その時はどちらかが一つだけ何かを聞ける。――何となく、そんなルールになっていた。
大概その権利を行使するのは京太郎であり、少女が京太郎に何かを聞いてくるというのはあまりない。
ピクルスは好きか、牛と鳥はどっちが好きか、牛乳は嫌いか、明日の天気をどう思う――――そんな他愛もないやり取り。
今度は自分の番かと、半ば踊る気持ちで微笑みかけた須賀京太郎の心は、
「――お兄さん、麻雀はする?」
次の瞬間、冷や水をかけられたかの如く強張った。
「いや……なんかツイてなくて、向いてないんだよなー。麻雀」
「……そっ、か」
「おー」
それきり互いに無言に戻り、本日の食事は終わりを告げた。
何とも言えない首の辺りの据わらなさを感じて、京太郎は街を歩く。
いつしか、冬模様を帯び始めていると感じた街並みにはすっかりと寒さが差し迫っており、街行く人々も衣装をより厚いものに変えている。
だからこそ余計に寒々しさが増す。といっても彼がそう感じるのは風景だけではなく、何よりも彼の心が重く変わっているから。
ベルが鳴らす喫茶店。扉を開いて見れば、見慣れた顔が二つ。
「……ぁ。こんにちはぁ……」
「こんにちはっす、宥さん」
「うちもおるでー……バスはでへんでー」
「……バスってなんですか、バスって」
どう見ても、どれだけ控え目に言っても、どんなに頑張っても不審者としか表現出来ない女性と、儚げながらもにこやかに笑いかける女性。
職業は麻雀プロと救急医療関係。あまり馴染みはない組み合わせである。麻雀プロは救急医療を基本必要としないからだ(ただし京太郎を除く。ノースタントの撮影で初中後搬送された)。
松実宥は、足首までのロングコートに長靴染みたブーツ。
更には透けるような金髪の上からマフラーを幾重にも巻き付け、おまけにその下にはネックウォーマー。
睫毛が長い碧眼を、サングラスの奥に。おまけに花粉用のマスク二枚重ね。完全にどう好意的に見ても不審者である。これから汚染地域にでも向かうのかという武装。
言うなれば、羽毛に閉じ籠った青い鳥。その下の実際豊満な胸部も、冬近くというのを差し引いても並外れた厚着に起伏が隠される。
関西弁の園城寺怜は、活動的な様相。
こちらも線が細くとも、身体には静かな気迫が溢れている。死の臭いにも似たそれは、翻って命を留め置く戦士の風情。
セミロングの茶髪に、垂れ目がちの碧目――恰かも妖魔の真実を暴く水晶がごとき瞳。
灰色のパーカーの上にノースリーブの焦げ茶色のダウンジャケット。青のデニム地のホットパンツの下に覗くは黒のレギンスに、エンジニアブーツ。
二人とも顔立ちは同じ系統なのにこうも対照的な格好だと、何とも笑いが零れそうになる。
いや、一部分が大きく違う。そりゃあ園城寺怜もあるにはあるが、やはり松実宥のそれと比べると天と地の差――
「せっかっこー!」
「うわらばっ」
そんな空が落ちてきた。
いや、地面に上へと押し上げられたのかも知れない。どちらにしても迷走神経の集中している箇所を突くのは反則である。因みにショック死とは迷走神経反射である。
YOUはショックを日本語訳すると貴方は迷走神経反射である。語感が悪い。
なお宥は京太郎のこの世の物とは思えない顔にショックを受けていた。このイカれた時代にようこそしていた。
あやうく京太郎のおもち愛で空が落ちてくるところだった。いや、正しくは落ちるのは地獄で昇るのが空である。
「せめて痛みを知らずに安らかに眠るんやな」
「いやこれ死ぬほど痛いんですけど」
「なあ京太郎、私のアダ名知っとるっけ?」
「さあ……なんですか?」
「アダ名は“おかんいらず”なんてな」
トマトの渾名が医者要らずというのは知っている京太郎であったが、流石の彼でもおかん要らずは知らない。
何なのだろうか、おかん要らず。例えば上京した人間が高熱で倒れたとして、わざわざ実家から母親が出てくるまでもなく回復させるんだろうか。
因みに猫要らずを猫が食べると猫居なくなるになる。余談である。
首を捻る彼に対して、指を一本立てて得意気に微笑を浮かべる園城寺怜。
「死体が跡形も残らんからお棺要らず、ってな」
「……」
「破壊者と掛けて墓医者。なんちゃって」
「……ブラックジョーク過ぎませんか?」
「職場がホワイトなハウスやからええやん。血塗れで赤くなるけどな」
「……。もうどっから突っ込んだらいいのか」
「ほら、うち病弱やから本番はなしでな。作っても産めんよ」
「誰もそんな話してませんよ」
「うち病弱やから……」
「園城寺さんみたいな元気な病人いません」
「そら医者が病人とか、誰が匙投げるんや……って話やもんなぁ」
「匙投げるの前提なんですか……?」
などと漫才コンビじみたやり取りをする二人。
というか実際漫才コンビだった。病院内限定で。京太郎が通院するときに限り。
名前は聖飢魔II。白衣のエンジェルなのにデーモンとはとんだ皮肉だ。
松実宥はただただ二人の小気味良いやり取りを眺めて、目を白黒させるしかない。なお彼女の妹が件の松実玄である。
あと拍手していた。
「……というか、園城寺さんと宥さんは知り合いなんですか?」
「京太郎を巡る恋のライバル……ってとこかな」
「えぇ……!?」
「え、それ本気にしますよ?」
「育てへんけどな」
「産んではくれるんですね」
「えぇ……?」
苦笑にも似た力ない笑いと、心底困った風に寄せられた眉。
冗談とは判っていながらも、もう少し突っ込んで聞いて確認してもいいのではと思うあたり、京太郎は彼もまた男であった。漢と書いて男と読まないタイプの。
どちらも美人である。年頃の京太郎としては期待しないでもない。
尚女性陣は二人ともそろそろ三十路にリーチを掛けており、あと何巡かで二十代が流局である。
京太郎が言い出したら、ここぞとばかりにハイテイツモと受け入れられた可能性も高い。何だかんだ物件としては悪くないし、試しにお付き合いが始まる程度には。
果たしてそんな天の声を掻き消して塗り潰したのは、奈良県吉野郡の神社の娘の悲痛な叫びだったとかそうじゃないとか。
あたしずっと好きだったのよ有料物件だとか手近にいたとかお試しで付き合ってみようかとかそーゆーのじゃない!と、叫んだかは判らないが……よっぽど感極まってテンパったら言うかも知れない。
それにしてもリーチだのハイテイツモだのテンパイだの、全くこの話は麻雀用語が多い。白兵戦描写と同じぐらいに。不思議な話だ。
「で、なんで知り合いかって……昔インターハイで闘ってな。直接やないけど」
「私は次鋒で、園城寺さんは先鋒だったから……」
「あー、俺が一年のときのインハイかぁ」
もう十年も昔の話だ。
ただし、彼女たちはその後連絡を取り合っていた訳ではなく、この店で偶々再会して旧交を暖めていたらしい。
尤も、松実宥は麻雀プロとなり有名人である為に、園城寺怜は謀らずも宥のその後を知ってはいただろうが。
「……そう考えると不思議ですよね。お二人はともかく、十年前の俺なら縁がある風には思えないし」
「それでも、縁ならきっとあったと思うで」
「えっ?」
「裁判とかで」
「……」
「まさかあんな粗末なもの見せられるなんて……って」
「俺犯罪者前提!? しかも露出狂ですか!?」
というか粗末じゃない。断じてない。絶対に違う。なんなら賭けてもいいし、見せてもいい。
そう憤りそうになった京太郎であったが、見せたら犯罪者だ。それこそマジもんの露出狂である。
多分そんな事を言い出したら、園城寺怜は鬼の首を獲ったように嬲ってくるのだろうなぁ……と京太郎は微妙な笑い顔を浮かべた。
が、違った。
「いや、京太郎がな。そんな変質者に怯える私の事助けてくれてな……」
「えっ」
「ああこれ王子様やんお礼しなきゃって言い出したら凄く爽やかな笑顔で返してな」
「おおっ……!」
「『それよりもお姉さん服持ってないっすか』って……」
「結局裸には変わりないじゃないですかソレェ」
「全裸なだけに余計に不味いで」
もうやだこの人、と肩を落とす京太郎を見る宥が小さく笑う。
それだけで救われた気持ちになった。というかむしろ感謝しか生まれない。
実にちょろい男であった。完全に目尻が下がっている。実際赤子の手に間接技を決めるぐらい容易い。
というかこの言葉、地味に恐ろしい。
誰かが試してみたのだろうか、この諺。きっと精神異常者に違いない。
「あ、宥さん。今度憧が来るんですよ」
「へぇ、憧ちゃんが……」
「へー。でも奈良から東京とか馬鹿にならへんなぁ……宿泊費とか交通費とか」
「あ、その辺は大丈夫なんですよ。俺の家に泊まるんで」
京太郎がそうはにかんだ瞬間に、二人の動きが止まった。
片方は「え、なに平然とこいつ惚気けてるんや? 病気?」という目であり、もう片方はストーブに蟹鍋の置かれたサウナに入ったと思ったら実は雪だるまが微笑むかまくらだったという顔。
いきなりのお泊まり宣言である。
脈絡が無さすぎて突拍子もない。無論、照れた様子すらも。
余りにも当然とした態度の須賀京太郎には、カップル殺すべし慈悲はない流石のバカップルスレイヤーも居るならブッダめいた微笑みでアイサツなく殴りかかるだろう。
「え、ぁ……そ、そう……なんだぁ……」
「そ、そか。よかったな、うん」
「まあその間、俺がどこ泊まるかって話なんですけどね」
なんて漏らした京太郎へと向けられたのは、呆然を通り越した慈悲の瞳。
ただただ気の毒な人を見る目であった。それはもう。
なまじっか顔が整っているばかりにその残念さが強調される。兎に角、残念なイケメンである。
「……京太郎の悪くしたのって頭やったっけ?」
「目って自分で言ってませんでした?」
「そっか前立腺か」
「……だから下ネタはやめて下さい。宥さんが固まります」
「えっと……不束ものですが……?」
「……固まるってより混乱しとるな」
「……」
「……京太郎?」
「幸せな家庭を築かねーと」
「あかん、混乱しとるんこっちやん」
暫しの歓談の後、京太郎は仕事に戻った。
その後同僚に「やけに女性の知り合いが多いが前職はレディーススポーツクラブのコーチ何かか?」と勘繰られたのは言うまでもない。
なお別の同僚が「俺も昔は魔猿と……」と呟き、それを華麗に受け流しながらもまた別の同僚が「前はヒモ?」と蔑んだ目を向けたのは別の話である。
秋の日は釣瓶落とし。
そうは言っても、釣瓶落としの速さに馴染みがない京太郎としては良く分からない。
ただ、住宅街を抜けるときに小学生が帰宅する時間が早まっている――風に思えるだけ。
自分にもあんな時期があったのだと、実にというかたかがというか四半世紀を過ぎた人生を振り返る。
その手の内で転がるのは、外国語がプリントされた印鑑ほどの薬。青いキャップの下には、見るからに専門用語とおぼしき見慣れない文字列が並ぶ。
園城寺怜が京太郎の職場に顔を出したのも、この為だった。
彼女自身のコネと独自のルートから、京太郎は貴重な薬を譲り受けている。
「……寒いよなぁ」
背を丸めて、灰色のネックウォーマーを引き上げる。
見てくれが、良く週刊少年誌の後ろに乗っているクリニックの広告に近似する。
しかし、少年漫画にあの広告は必要なのだろうか。到底、その意味を理解する子供は少ないし――ましてや実際に頼ろうとするものなど居る筈がない。
事実京太郎も、中学に上がってから漸くあのタートルネックの意味を知ったのだ。
……まあ、きっと出版社が言うところの少年とは中学生や高校生なのだろう。それでもその病院にお世話になるとは思えないが。
「あー……新しいマフラー買うかね、こりゃ」
ネックウォーマーも随分と暖かいが、やはりマフラーに比べて心許ないのは何故だろう。
松実宥とか両方使ってたし。
いやいやそれより松実宥と一つのマフラーを二人で使ってデートしてーなー、そろそろ本当に結婚とか考えないとなー……なんて冷え始めた空気に靴音を響かせる。
「もーちっと、懐温かくなんねーかな」
どうにも一人暮らしが過ぎると独り言が多くなる。
そんな風に彼自身自嘲がちに、冷気に赤めく鼻を鳴らしながらも、誰も待つ事ない我が家を目指す。
今日は、あの猫が来てくれていたらいいな――と。
――。
――。
――。
病室。
清潔なオフホワイトの壁紙。焦げ茶色の手摺。
緑色のリノリウムの床を鳴らして、覚束ない足元で手摺に寄りかかりながら青年は歩く。響くスリッパの音。
青年の頭部――両の瞼を上から圧し、後頭部を通って一周する包帯。時折立ち止まっては、犬が臭いを嗅ぐように辺りを見回す青年。
彼の脳裏には、先ほどの病室でのやり取りが反響する。
『結論とそこまで、どっちが聞きたい? ……あ、結論ならバッドニュースとワーストニュースなんやけど』
『……最初からお願いします』
『ん、なら最初から話したるけど……血涙の原因はこんな――、って読めんか。話すな』
涙というのはそもそもが血液が濾過されたものである。成分は殆ど変わらず、効果としては角膜に潤いを与え防護する事。
しかし今回は激しい眼球の使用を行い角膜などの保護に流れる涙の生産が追い付かず、結果として血液がそのまま流れでてしまった――これが血涙。
失明についてであるが、これは恐らくは過度の緊張や瞬間的な眼圧上昇などのストレス由来の一時的なものであり、時間の経過と共に回復する見込み。
ただ、問題がある。
眼圧の上昇は、酷使された角膜へと栄養を運ぶ眼液の多量分泌に因るもの。
この眼液により、普段起こるそれよりも短時間で大幅に眼圧が上昇した為にそれがストレスとなり一時的な失明に繋がった。
あくまで一時的なものであるが――眼圧上昇により圧迫され死滅した視神経は、二度と回復しない。全てが死滅すれば、一時的ではない完全な失明を免れない。
そして今後、眼圧は上昇しやすくなるし、放置したのならば取り返しの付かない事になるだろう。
『……京太郎、もう麻雀は打たれへん。打たへんでも、視力が回復する事はない。……そんなとこや』
『……そう、っすか。折角一位になったのになんつーか、うん……まあ……眼精疲労ってのも馬鹿にならないんだな』
一位になれただけ、良かった――なんて総てに納得は出来ないけれども。
それでも多分、怜の説明の通りなら、眼球を酷使する己のプレイスタイルからして遅かれ早かれこのような結末になっていたのだろう。
そう思うなら――彼としても幾らか溜飲は下がった。
太く短く生きたい訳ではないが、最後だとしても――普通にそうしていたなら恵まれなかった一位という幸運に見舞われたのだ。
『……それで、悪い方のニュースは?』
同卓していた宮永咲や大星淡、小鍛冶健夜に何か影響が――目の前で血涙でも流されれば無理もない――とまで考えた彼の思考は、
『今のが悪いニュースの方や』
そんな言葉に、中断を余儀なくされた。
落ち着いて聞いてくれ――と、彼に向けられた言葉に続いたのは、両親の訃報だった。
視界が閉ざされた中、青年は一心不乱に歩く。
すがり付こうとする医者や看護師を押し退けて、ただただ進もうとする。
そして、そこから先の正確な記憶は彼にもない。
どの道にしても様々な事があって、きっと後の処理を坦々とこなしていった。それは確かだろう。
唯一記憶にあるのは、全てが終わった後に実家の冷蔵庫を片付けていて――もう二度と母親の作った料理を食べる事がないのだと――。
己を無条件で受け入れてくれる存在が二つも同時に居なくなって、そして二度と戻る事はないのだと――。
不意にその事を自覚した瞬間、崩れ落ちるように泣いた事だけ。
半開きの冷蔵庫から来る風は、冷たかった。
夏だというのに、場違いに。
この、冬の寒さよりも。
◇ ◆ ◇
あー、リベンジしたかったのに舞台に立てずかぁー! 来年は負けへんで!
◇ ◆ ◇
「……なんだ、なんで、俺の」
皺の滲む男性の顔が歪む。
オールバックの髪が乱れ、茫然とした面持ちで手牌を見る。
対する少女は無言。左右の色が異なる碧眼で――片方は藍に近い青、もう片方は黄緑色――男を黙って見詰める。
見ようによっては急かしている風でもある。
「なんで……なんで……クソ、こんな……クズ手…………クズ手にしか……なんで……」
譫言めいたものを呟きつつ、しかし男は牌を倒した。四つ揃った一萬――男は、暗槓を宣言する。
縋るような眼差しで嶺上牌が掴みとられて、表示牌が翻される。皺の刻まれた指先が震えていた。
「……ぁ」
男の小さな呻き。ドラ表示は――⑨筒。
眼が見開かれ、絶望に染まる。小さく首を振る男の顔には、苦悶と苦渋が滲む。
口を開いては言葉もなく閉じられ、その繰り返し。
対する少女は――
「――カン」
至極冷静に、そう宣言した。
男のそれに追従するかの如き暗槓。七萬。そしてドラの表示は――六萬。
途端、幾度目かの男の悲鳴。彼の表情はいよいよ極まって、歪む。焦り、怨み、嘆き、怒り――種々の感情が海練となって皺を作る。
その視線の先に――少女の背後に恰かも己の亡霊と某かの憧憬でも覗いたかの如き、幽鬼めいた顔を作った男は崩れ落ちる。
少女はただ至って冷ややかに、
「ツモ。中ドラ四――14400は4800オール」
そうとだけ告げて、手牌を崩した。
「てめえ、なんだあの様は」
しかし、少女を待ち受けていたのはそんな叱責だった。
薄暗い部屋に仁王立ちで声を荒げるのは黒目がちで肌の浅黒い、スキンヘッドの男。体育会系やそれに類するグループに有りがちな、原始的な顔立ち。
眉を吊り上げ眉間を縮めさせて、憮然と少女を睨め下ろす。
「……」
少女の無言に構わず、男はその分厚い胸板を怒らせて二の句を紡いだ。
「もっと圧倒的にやってよぉ、心を折ってやれよ」
「でも……」
あれ以上手札を切らなくても、対戦者は折れていた――。
そう反論しようとする少女へと怒号が飛ぶ。
「でも、じゃねえだろうが! でも、じゃ!」
同時に、肩を突き飛ばされた。
背後の壁に背中を打ち付け、華奢な体躯が折れ曲がる。何度も咳き込む少女を、男は実に忌々しそうに眺めた。
それから、ふと愉悦混じりの嘲笑。
「にしても、あの面見たか? リーチのみのクズ手にしかならねーとしてもてめえは大丈夫だと思ってたところにアレ……見物だったよな」
「……」
「ああ、わざと嬲ってたんだろ? まさかアイツも途中で盗られるたぁ思ってねえよなぁ」
人が悪いぜと下劣な笑みを浮かべる男に向かう、少女の瞳が俄に力を増す。
本来ならば彼女も遣り過ごしていただろうが、彼女自身己の中でそれを認識し――同時にそんな事はないと振り払いたいたかっただけに無意識で感情が籠められた。
それが、良くなかった。
犬か何かをそうする風に、躾と称した爪先が少女に飛ぶ。
巧妙に人目につく場所を避けた一撃は、少女の腹部にめり込んだ。嘔吐く少女の足が空転し、スニーカーが床と音を立てる。
「へっ」
ホットパンツの下の、少女の素足を見る男の目線に意味深なものが混じった。
事実、そこに行き着くのは自然だ。本来なら少女もそうされていたし、そうなって居たかも知れない。
ただ偏に、彼女の身の安全が――これ以上の汚泥に塗れずに呼吸をしていられるのは、彼女自身の特異な才能によるところが多い。
それ故に幾多の負にまみえる事になるとしても――それが現在の彼女の境遇に繋がるとしても、得体が知れないという要素故に彼女は一線を超えられずに済んでいる。
何かの大きな精神的な節目に応じて、能力が変質――とりわけ使用不可能――も有り得ない話と言い切れない。
何せ、人智の及ばない不気味な才能だ。
そうでなければ、今頃はより下の地獄を味わっていたであろう。
「おらよ、取り分だ」
僅かに身を固くした少女を見る男の目線から劣情の色が消え、代わりに改めて優越感と嗜虐心が顔を覗かせた。
ぶっきらぼうにジャンパーのポケットから取り出した金銭を、床に投げ出す男。
少女へと抱いたそれを負い目と思っているのか、或いはばつが悪いと感じたのか……兎に角男は余計に横柄になった。
そして派手な足音を立て、男の背中が遠ざかる。その間も少女は、腹を掻き抱いて蹲っていた。
男が居なくなった部屋。
投げ捨てられた小銭と千円札を、少女は沈黙で映した。稼いだ対価としては余りにも少なすぎるそれだが――男の弁によるなら、十分だそうだ。
最低賃金分は労働時間に応じて出している――ただし半額は返済という形で、それ以外はマネージメント料金として男を潤わせる。
己がやり取りした額の実に数十分以下しか少女の手元には残らない。
しかしそれすらもまた酒代として消えるとなると――、考えるだけで閉塞感が少女の心を覆う。
何もかもから逃げ出したいとはいかないが――ただ、ここに居るだけの理由がないのもまた事実。
実際、少女が踏みとどまれているのはある一点に尽きる。
(……おにーさん)
あの青年は、優しい。ご飯をくれる。何も聞かない。殴らない。ただ傍で笑って居てくれる。怒らない。
助けてと――彼に縋り付きそうになる。
だが、どうしよう。それで彼に拒絶されたら。途端に優しくなくなったら。
きっと大丈夫だと信じたいけど、それ以上に怖かった。今のこの時間を失うのが。唯一自分を人間にしてくれるあの時間が。
だから、言えない。
言ったら悪い事が起きるかも知れない。でも、言わなかったら壊れない。また明日もああして、彼に会える。
それに、彼に助けを求めたら彼も酷い目に遭う。自分ももっと酷い目に遭うだろう。だから、駄目だ。悪い事しかならない。
彼に言っても、どうしようもない。
散々自分自身が考えた問題だ。
結論は――どうにもならない。考えようとすると胸を虫食いにされて、外の見えない雲の箱に閉じ込められたかのような気分になるだけ。だから考えない。
考えたら、考え続けたら心がもたない。
だから考えない。ただ、こなす。そうして居れば、今は前よりは悪くならない。
彼には言えない。言ったら、駄目だ。
だから、彼は好きだ。何も聞かないで居てくれる。何も聞かないで居てくれるから、平和なのだ。
誰かの異能を奪う度に少しずつ心が陵辱されていく気がする。平穏から、最も遠い悍しい感覚。
ある意味では、男から与えられる暴力よりも恐ろしい。
ただ、淡々と言われた事をこなすだけならどれだけいいか。自分自身がそうして否応ない――どうしようもない理不尽に強要されているだけと言えたらどれだけいいか。
彼女自身の異能により、己の拠り所となる“特性(のうりょく)”を奪われた人間の顔を見るとき――。
誰かが生まれ持ち、育み、磨いてきた異能を簒奪して行使する度――。
少女自身の内に、仄かな愉悦が滲む。昏い衝動が、心の虚が頬を吊り上げる。
彼女にはあの瞬間に、ある種の征服欲を――、
(……違う)
首を振って、頭を畳に横たえる。あの青年の笑顔を思い浮かべると、胸の疼きが消えた。
きっと彼は、そんな薄暗い感情を持たない。日の当たるところで生きてきた、暖かい優しさがある。そんな人生を過ごしてきたに違いない。
彼は日溜まりだ。
また明日も会えるだろうか。
せめて名前ぐらいは知りたいのだけれど――そうしたら自分も言わなければならなくなるから、聞けない。
ただ、あの金髪の青年は優しい。
取り上げられないようにジャンパーの下に隠したマフラーを取り出し顔を埋めて、少女は横たわった。
夜は嫌だ。早く終わって、朝になればいい。
日が当たっている間だけは、少女は人間になれるのだ。人間である事が許されるのだ。
(……)
それまで息を潜めていた父親が闇の中小銭を拾い集める音を聞きながら、少女は心の監獄と同じく瞼を閉じた。
早く朝が来てくれればいい。
夢や希望はない。
夢に縋る弱さなど、この場所には置き場がない。明日を生きて迎えたいと思うなら――全てを諦めるしかないのだ。
誰かの力を奪う度に心へと溜まる澱も、疼くような痛みも、飄々と鳴る風の音も――目を閉じて遣り過ごすしかない。
夜明けは来ない。ヒーローなど、居ない。
救いなど、ない。もう何も、判らない。
最終更新:2014年12月30日 19:51