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四十年証文 2

投稿日:2010/03/03(水)


四十年証文』を発効させるのには、相手となるのは別に男でも女でも良くて、
そして美しかろうとそうでなかろうとどうでもよかったのだ。
 それでも、シズカが相手を美しい娘とかぎったのには訳がある。ひとつはそ
のほうがより効果的に自分が若く、美しく戻ることができるのではないかとい
うことである。そして、その点においては十分すぎるほどの効果が得られたわ
けなのだが、もうひとつ、彼女が期待していたのはゆがんだ性根による願望の
成就であった。
 どれだけ、相手を貶めてやることができるだろうか、と。
 長年をひとりきりで過ごすうちにシズカの心はどんどんと偏屈にこり固まり、
人を寄せ付けることさえも少なくなっていった。ほんのひとにぎりの友人はと
言えばあの証文を提供したような風変わりな人間くらいなものだったのである。
彼女は若さは取り戻しても、依然、根性は偏屈な老婆のままだったのである。
 六月の長雨が続くとシズカはだんだんと機嫌が悪くなり、露骨にマリアに対
して当たり散らすことが増えてきていた。
「マリアっ! どこにいるの。呼ばれたら早く出てらっしゃい」
 昼下がりの洋館に罵声が響き渡り、ほどなくして姿を現すのが年老いたメイ
ドだった。
「はい、奥様。ただいま参ります」
 洗濯物の部屋干しの手を止めて、マリアはバタバタと主人のもとへと駆け参
じる。
 一日に何度も意味のないお着替えを楽しむわがままな主人のために、マリア
は日に最低二度は洗濯機をまわす羽目になってしまうのだが、そんなことはお
くびにも出せない。それが主従関係というものである。
「グズっ、いくら年寄りだからって、もう少しさっさと仕事しないとクビを飛
ばすわよ」
 実年齢は三倍以上も上のくせに、言いたい放題のシズカである。
 しばらくは神妙な顔で暴君による暴言に聞き入るマリアであったが、次の瞬
間には
「本当に申し訳ございませんでした、奥様」
 と、にっこりと受け流してしまうのであった。これがまた、シズカには気に
入らないところである。本当ならばせっかく理のないことを言っているのだか
ら、せめて屈辱に顔を歪めてみるくらいのことはできないのか、などと考えて
しまうのである。ところが、マリアの辛抱強さと屈託のなさは、彼女の心から
毒気を抜いてしまうので、それで余計にイライラとするわけなのだった。
 実際、シズカはせっかく若さと美貌とを取り戻したのに、やることはと言え
ば実にせせこましいものであった。
 マリアに自分の着替えや入浴の手伝いを強要したり、家事全般に対して溌剌
と元気のある行動を迫ったりとそんな感じであった。
 が、どれもこれもがあまり効果的に彼女に心理的ダメージを与えられないの
である。仕事にはソツがなく、陰口を叩いているような節もなく、受け答えも
「近頃の若いのにしては珍しいくらい」しっかりしているのだ。それでは責め
ている自分の方こそが本物の道化になってしまう。



「それで、ご用というのはどんなことでいらっしゃいますか?」
 マリアの頬は多少弛んでおり、皺も多く顔を張り巡らしていたのだが、それ
は決して人を不快にさせるものではなかった。むしろ、張りつめた麗人の顔よ
りも相手の心をなぐさめてくれる、そんな温かみを帯びたものだった。
 ちなみに、マリアはこの姿になってすぐに、髪を短く切り揃えている。以前
は肩まで届くようなワン・レングスだったのだが、今は耳が多少かぶるくらい
のショートボブに揃えている。それもまた、彼女なりの考えあってのことなの
だろう。
「そう、そうね、……ええと、何だったっけ?」
 さっきまで考えていたことがすぐに思い出せないのは、思考能力が若返って
いない証拠である。
「ええ、と、そうよ。今日は私は居酒屋に寄って飲んでみたい気分なのよ。マ
リア、せっかくだからあなたにも相伴させてあげるわ」
 シズカの思いつきは単純なものであった。つまり、今まではマリアは一人で
お留守番だったものだから、お買いものくらいしか他者にその姿をさらさずに
済んでいる。しかし、盛り場などに出かけていけばそうはいかないのではない
かと。
「でも、私はまだ未成年なわけですし、お酒なんてマズいんじゃぁ……」
「……あんた、そのナリで何言ってるのよ」
 思い切り表情をしかめて、シズカは突っ込みを入れていた。
 マリアは、しばし呆然とした後に、ぽん、と手を叩いて納得した。

 土曜の夕暮れ時、繁華街に居並ぶ居酒屋は、どこも盛況だった。そこにタク
シーで乗り付けた二人の姿は、ぎょっと人を振り向かせる異様であった。
 胸を張って前を歩く妖艶な美女は、ぴったりと張り付くような黒のレザーの
上下を身につけて、ことさら大きく開いた胸元の膨らみを誇示するように歩い
ている。ちなみにパンプスは深紅に近い赤のピンヒール。装飾するブレスレッ
トやネックレスなどは金色のもの、と言うよりは完全に純金製品である。今は
昔、バブル経済の崩壊からしばらくのうちに滅び去ったとされる由緒ただしい
スタイルであった。
 そして、その後ろを三歩下がって付き従うのが大年増のメイドであった。そ
んじょそこらのコスプレメイドとは訳が違う浅黄の実用のメイド服の上から濃
紺のベストを羽織ったシックな装いは、年季は入っていても整った容貌の女に
は良く映えて、悪くない景色であった。
「……ううっ、なんだかちんどん屋さんみたいです」
「何言ってるの、これがナウなヤングのスタイルよ。あんたみたいなネンネに
はわからないのよ」
 人を遠ざけた生活をしていれば、いつしかこうなってしまうのか、というシ
ズカは良い見本だった。


 別に予約などしていなくても、女二人からの客くらいはすぐに入店できるも
ので、シズカがここにする、と突発的に決めた店に、待たされることなく座敷
席に座ることができた二人はさっそく乾杯をはじめていたのであった。
 リンゴサワーをちびりちびりとなめているマリアを尻目にシズカのピッチは
速い。あっという間に焼酎のお湯割りを三杯干した彼女は上機嫌で酒肴の注文
を大声で呼ばわっている。
「あーっ、何よ。あの若造ったらぁ私の注文のほうが先だったでしょうに、お
いっ、こらっ、聞いてるのかっ、クビにしてやるわよォっ」
「まあまあ奥様。それなら私が注文をして参りますから……」
「それじゃ行ってこい。タコブツ、ゲソアゲ、アゲダシにトロロよっ」
「はあ、申し訳ございません。もう一度……」
「グズっ、タコブツ、アカダシ、ダシマキにトトロよっ」
 だいぶ内容は変わっていたようだったが、このぶんならば何を注文しようと
も大丈夫だろうと踏んで、マリアはさっさと注文に立っていた。
 背中からひゃははは、と聞こえるシズカの嬌声を聞きながら、マリアは小さ
く笑みをこぼしていた。  
 シズカは確かに自分からかけがいのない若さを奪い取った。そして、年老い
た自分の事をからかっては羨ましがらせて悦に入るところがあるのだけれども、
それでもマリアはなんだかこの偏屈な主人のことが嫌いになれないのだった。
 それは、シズカの根底を流れる子供のような純朴さのようなものに、どこか
惹かれていたからかもしれないのだった。 
 偽悪とでも言うのだろうか、必要以上に自分を悪人に演出してはいるけれど
も、皮一枚、どこかに甘さのようなものが残っていて、そこにシズカ本来の人
間性が垣間見えるのである。

「おらおらっ、あんたもしけた飲み方してんじゃないわよっ、女ならグッとい
けー」
 好きではあっても強いとは限らないのがお酒である。シズカはさっさと酔い
つぶれていた。
「ああっ、駄目でしょっ、あんたみたいな未成年にぃ、飲ませるようなお酒は、
ないんだからね」
 そして、ぱたんと倒れてしまう。マリアは仕方なしに座布団を並べた上にシ
ズカを運ぶと、その上に借りてきた毛布をかけてやる。
「はははっ、仕方ないですねえ」
 上気してリンゴのようになったシズカの頬をつん、とつついてみる。
「こんなにもわがままで、私の若さまで吸い取ったようなお人だっていうのに、
まるで嫌いになれないんですものね」
 ばさり、とせっかくかけてやった毛布をはだけて、さらにシズカはぶちりと
胸元のボタンまで外してしまう。
「熱くて暑いのよー、あんた私を蒸し殺す気なのっ」
 ぼろんっ、と豊満な胸がはずみでこぼれ出してしまう。たうん、たうん、と
弾む様子にギャラリーがここぞとばかりに殺到する。
 しゃーっ、とマリアが怖い顔でその野次馬連中を追いやると、すでにしてす
やすやとシズカは寝入ってしまっていた。
「あはははあ、疲れるわあ」
 肩をぽんぽんと叩きながら、マリアは苦笑いして静かに毛布をシズカにもう
一度かけてやっていた。
「それにしても、すごいおムネですこと」
 成熟前に枯渇した自らの果実を少しだけ惜しみながら、毛布越しにもわかる
その膨らみにすこし嫉妬するマリアであった。
「えいっ、こいつめえっ」
 ぴん、と指で先っぽを弾いてみる。
「きゃはん、くすぐったいのぉ」
 予期せぬ小さな犯行であった。


 暗がりの道の途上に、シズカが目を覚ましたのはマリアの背中の上であった。
「あふ、あんた、ここはどこよお」
「ええ、もうすぐ、お屋敷、ですからね。もうちょい、ですっ!」
 息を切らしたマリアが途切れ途切れの声で答える。
「……って、マリア。お前、ここまで歩いてきたの?」
「ええ、そうですよ、そんなに、遠くは、ないですから」
 はあはあ、と答えるマリアだが、もう三十分は歩きとおしである。
「ったく、貧乏ったらしいわね、お金は出してあげるからタクシー拾ったらい
いだけのことじゃない」
 シズカが口を尖らせる。
「いいえ、奥様、贅沢は、敵ですよ」
 はあはあ、とマリア。実はかなり汗もかいている。背中にいるシズカの胸も
したたかに濡れているのは内緒であった。
「あんた、無理すると腰をやるわよ?」
「いいえ、私も、若い時から、ずいぶんと鍛えているものですからっ」
 会話として整合するのが不思議ではある。
「ってことはもしかして、さっきの料理も……?」
 ちらりとマリアの手首に結わえられている包みに目をやる。
「ええ、もちろんです。食べられないぶんは、包んでもらいましたから、よろ
しかったら、お夜食に、でも、どうぞ」
 うげっ、と舌を出してシズカは嫌な顔をしたが、その一瞬後にはふいに真面
目な顔になって、
「うん、そうね、おにぎりとか残ってたら貰おうか」
 がさがさと、ひったくった包みからしけった海苔に包まれたおにぎりを取り
出していた。
「シャケよねえ」
「シャケですよぉ」
 背中の上で、器用にむしむしとおにぎりを頬張るシズカ。
「でも、奥様はお金持ちのわりに、そんなに食べ物の好みはうるさくはないの
ですねえ」
 感慨深げにマリアはうんうんと頷いていた。実は、晩のおかずなんかも鯖の
煮付けとかチャーハンとか、わりと俗っぽいものが好物だったりするシズカな
のである。
「別に、私だって生まれついての金持ちじゃないんだもん。お金、なんて、そ
う、お金なんてそんなもの……」
 ふいに、シズカの脳裏に古い光景が蘇ってくる。二度と戻らない大切だった
時間を、行き違いから無くしてしまったその場所を。
「ええ、でも、お金がないと借金のカタに、私みたいに若さを巻き上げられて
しまいますから」
 ぽつり、と言葉を漏らすマリア。やはり彼女も少しだけ酔って口が軽くなっ
ていたのだ。
「ばっかねえ、そんなのはちっぽけな問題よ。時間は金で買うものよ」

 そう言って空を見上げる二人の頭上には薄雲に隠れてぼんやりと明るい月の
姿があった。
「そうね、そんな楯付くようなことばかり言っている不謹慎なメイドには私と
お揃いの水着で海辺の注目の的になってもらわなきゃね……」
 ゆりかごのように揺れる背中の上で、いつしか暴君は潮騒の夢の世界を見て
いたのだった。夏はもう、すぐそこにまで近づいていた。

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最終更新:2010年03月06日 02:34