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ヤガミ・ユマ@鍋の国様からのご依頼品


[立体的に重ねていく]


 珍しいという気持ちが驚きという感情に変わっていく。電話を握る手には徐々に力がこもっていって、それからようやく、落ち着け俺、とささやきかける冷静な自分が復活した。
 第一声を聞いたときは、そんな感じだった。
 心の中で咳払いを一つ。むくむくと膨らむ優越感にはしばらくお暇してもらう。けれど隠しきれなかった片鱗が、口元に余裕を残していった。やや釣り上がった口端からこぼれる声には少し余裕があった。
 問いかけると、彼女はこう言った。
「えっとね。えーと。こないだ、名前の相談しようとおもってたんですけど、しそびれたので。苗字、おそろいにしたいですって言うつもりだったんですけど……」
 いいとも、と答えたのは、そのこないだがいつかを思い出すより早かった。調子が戻りすぎて頭の回転が上がっている気がする。そう。電話がかかってきた最初こそ驚きに頭が空転したが、まあ、いざ話せる状況になればこんなものだ。
 しかし改名か。名前か。おそろいの名前か。
 ちょっと、頭がくらんと来た。
 おそろいという言葉の容積は心のキャパを軽く凌駕した。チョコレートを食べ過ぎて鼻血を出すとか、そういうレベルで何かがどくどくと頭から吹き出ている。いや、どくどくいってるのは胸の内の方なんだが。
「……別に、まあなんだ。俺がプロポーズとかだな、あー」とにかく落ち着け俺の頭。「そういうのするまではおそろいでなくてもいい。あくまで形だ。うん」
「そ、そういう言い方は予想外でした」
 ずーんと、電話口から聞こえる声が頭の上に重しを置いた。しまった、と思った時にはフォローをするべく頭が再び高速回転を始めている。しかし浮かぶのはあたふたした言葉ばかり。だから浮かれすぎだと言ったんだ。いや言ってない。いいからおまえら落ち着け。頭の中で三人ほど自分が言い争っていた。おまえら全員黙れ。黙らせた。
「……悪かった。今のは忘れてくれ」
「やです……。うれしいから忘れません」
「……」
 あれ、そっち? ぱちんぱちんと往復びんたされた心はそろそろ根を上げそうだ。しかしここで負けてなる物かと、おきまりの「あー」という声を出しかけたところで「か、形だけだとしても、やっぱりおそろいがいいです」思考を止められた。
 こっちが黙ってる間に彼女の声は続きを紡ぐ。
「えっとその。決めてほしいんですけど」
 それは、恥ずかしさの熟した蕩けそうな声だった。


 目覚めて悶えてひきつった。ただし心限定。
 ぐわっと血液が頭に登ってきて薬缶から湯気が出るように意識がK点を飛び越えていく。目覚めに感じるはずの体の重たさとか昨日からわだかまる倦怠感とか、そういった重たさは全部置き去りにして体が活性化する。生まれ変わったような気分だった。
 しかし所詮は気分。心の中で身もだえすぎて起き上がる体力まで削り取られた。ベッドに倒れ込んだ体を動かそうという気になれない。意識ばかりが活発になっていくがそれが血液に混じらない。
 ……いや。そろそろ動く意志を取り戻そう。
 ベッドに手をつき、腕の力で体を起こし、うつぶせから復活する。全ての動きは一息に再現された。頭のテンションと体の元気さが釣り合いを取らず、ひたすら生産され続けるアドレナリンによって無駄に動きが機敏になる。そんなことはどうでもいい。
 今日はヒサの渡航日だ。
 頭の中にぽんと出てきたフレーズが、にやにやを唇に強要した。が、まあ誰に見られているわけでもないので今はそれで構わない。しかしにやにやがとまらない。この日を待って待ちきれず何日も前から夏の園の高級ホテルで待っているのだ。
 いや、俺は念を入れているだけだ。日に数回の散歩だってただの気分転換だ。待ち合わせ場所に偶々寄ってしまうのは、まあ、そういうこともあるだけだ。まったく何の問題も無い。そう。俺は普通。改まった顔で部屋の中をぐるりと見回す。すると、ベッドに転がっていた半眼の猫と視線が合った。
 旅行のお供に連れてきた黒猫が、溜息代わりに尻尾を振った。
 笑顔を引っ込める俺。咳払い。猫はにゃ、と言って丸くなった。
 鏡で顔を確認した後、外に出て行った。エレベータで最上階にある高級食堂、ではなく、一階の中庭に広がったビュッフェに足を運んで、適当にパンと肉を挟んだ物をぱくつく。唇の端に突いたソースをなめとりながら、腕時計に視線を下ろす。まだちょっと早かったが、秒針に釣られて足が外へと進んでいった。
 ホテルから出て行くと、海から押し寄せてくる風に頭から足まで洗われた。鼻の奥から肺の中まで夏の香りで満たされる。肌に張り付きそうな塩気の風は慣れてくると心地いい。もっとも、鍋の国だって大して変わらないのだから、それほど特別というわけでもない。
 半袖シャツにサンダルとラフな恰好で地面に影を作っていく。すぐ右手には浜辺が広がり、ビーチにはすでに人の姿がある。それを眺めながら道沿いに歩き、まだ開いていない土産物屋の脇を抜けて坂道を登っていく。散歩コースはすっかり馴染んで、目を瞑っても歩けそうだった。
 街の中をぐるりと回ってから、再び海の側にでる。そろそろ足が疲れてきたので、木陰に入って休んだ。ざらついた表面を背中で感じながら、のんびりと浜辺を見て時間を待つ。波音に意識を洗われながら、特に何も考えずにぼんやりと立っていた。
 ふいに、風に混じって拗ねた声が耳に届いた。
「楽しそうですね」
「そうか?」
 顔を向けた先には今日子が立っていた。世界が灰色にでも見えるような半眼で、観光地には似つかわしくない剣を腰に下げている。今日子は目をそらして「あー」とぼやいた後、あと五分くらいですと言った。
「そうか」
 今度は疑問符なしで答える。今日子は面白くない顔。
「というか何日前から待ってるんですか」
「さあな。もう忘れた」
 それで、話題は途切れた。少し離れた浜辺から波音だけが聞こえてくる。今日子はふーと溜息をつくと、潮風を払うように髪を振って、面を上げる。
「待機してます」
「ああ」
 護衛の今日子は頭を下げると、足音もなく離れた。五分というのは嘘だったのか、交代の足音が今日の入場を告げてくる。視線だけをそちらに送れば、とことこと兎が慌てる余裕なそぶりでヒサが駆け寄ってくるところだった。頭と首につけた長いリボンがひらひらと揺れている。
「な、なんか忙しかった……?」
「いや?」
 こちらを見上げる大きな瞳を見ていると、それだけで笑みがこぼれてきた。自分でもうまく笑えたと感じながら、安心させるように格好をつける。その効果は、ヒサの口元にひらめいた微笑みによって立証された。
「そっか。お仕事中とかだったりしたのかな、て思ったの」
 少しずつ緊張が解けていく笑い方を見つめていると、じんわりと高揚感が体の中に広がってくる。日差しを反射させる金髪に何かが溶けていて、目から滲んできているのかもしれない。それにしても、よく見ていると線の細さが透けて見えそうな白い薄地のワンピースで、そのままするりと溶けてしまいそうだ。
 いかん。言葉にならない色々な物が胸の内でじわじわと体を熱くしていく。ああ連れ去りたい。
「昼間で正解だな」
 と、独り言が漏れていた。ヒサはきょとんとした顔で小首を傾げて、それから傾きを戻すために「夜からお仕事ですか?」と聞いてきた。しかし、何故仕事。
「なんだそれは」
「今忙しくなくて、昼間で正解っていうから。夜から忙しいのかなーって」
「いや、それは……」
 心の声の続きを要求しないで欲しいというか、しかしここで黙ったら絶対引きずるだろうなとか、ぐるぐると頭の中で計算が衝突する。だが途中で考えるのが面倒くさくなって、全てを放棄して、だからまあ、言わせるなこの。
 気恥ずかしさにつられて、ヒサの背中にそっと触れる。
「まあ、気にするな」
 小首を傾げるヒサの瞳がが疑問色の眼差しを向けてくる。だから、あー。だから、こう、あれだ。
「今日は可愛らしいな」
 お。慌てた。
 ぽっと顔が赤くなって、つむじが揺れる、右に左に。
「あ。ありがとう」
 ……。顔を上げられないほど恥ずかしくても、言うんだな、というのが最初の感想。
 続いてやってきたのが、自分は恥ずかしがりすぎなのかという疑念。
 戸惑い。気恥ずかしさ。喜び。幸福。混じり合って、照れそうになる。
 しばらく風に吹かれていた俺は、やがてのんびりと歩き始めた。するとヒサが慌ててついてきた。とてとてと駆け寄り、逃げないでと言うみたいに腕を掴んでくる。視線を下ろして笑った。
「逃げないから安心していい」
「じゃなくてー」
 むーと腕を見つめた後、少し強く引っ張って両腕を左腕に絡めてきた。指も交互に交わって、絶対に離れられないくらいに腕と指とががっちりと絡み合う。
「くっつこうと思いました」
 目を細めてえへへと笑うところを見ると、ヒサは自分より勇気があると思った。それで緩んだ心の代わりに分、絡められた手を握る。
 日差しと潮風に迎えられながら、足跡を残すようにゆっくりと海に向かって歩いて行く。


 会えたので少し冷静になってきた。少し前まで頭にヌガーが詰まっていた気がするが、朝悶えていた事とかも含めて都合良く頭の中から追いやって、つないだ手の感触に意識の配分を傾ける。細くて滑らかな手は男の物とはやっぱり違い、意識すると、心臓がばたついた。
 手が少し引かれた気がして視線を下ろした。長い髪が風に攫われている。ヒサは海の方に顔を向けて、ゆっくりと息を吐いていた。赤い花に彩られた道を歩いている姿は輝いていて、見てるだけで和んでくる。
 しかし、その一方で冷静な自分が懸念を脳裏に閃かせる。
 しばらく前の電話の時の様子を思い出すと、結構躊躇いがちであったり、と思えば甘えてきたりと、テンションの上下大きかったのだ。今日も少し甘えがちなところがあるが、しかしまあ、この様子を見ている限り今のところは大丈夫そう。
 まあ、大丈夫そうなら良かった。ほっとした気持ちが、口元を和らげる。それに気付いてヒサの目がこちらを見上げた。視線を合わせると、にへらと顔が溶けていき、向けられた笑顔にこっちが溶けていきそうになる。
 数センチ、更に近づいてくる。歩調が落ちる。
 いや、立ち止まった。
 互いに視線を向け合ったまま、風と日差しを味わうように道の隅に寄り添った。指の感触とか、くすぐったく腕に絡みつく細い髪と腕とかを味わってみる。撫でるか、声を掛けるか、次にどうしようかと未来を空想しつつも、結局このままの時間を楽しんだ。
 ふと気付くと、いつの間にかヒサの目が道ばたに向いていた。釣られて目を向けた先には、赤い花がほころんでいた。
「帰りに花でも買って帰るか?」
「うん。そうですね」ぼんやりと頷くヒサ。それから、少し悩んで目をくるくると回した。「……ああでも、枯れちゃうのはもったいないなあ」
「そうか……そうだな」
 その発想はなかったな、そういう考えが一度頭を空転させる。けれどもう一周する前に、予算とか時間とか機会とかそういった現実的な可能性の不安をひとまず横に置いといて、答えをぽんと思いついた。
「じゃあ、また来るか?」
「鉢植えでも……あ、それがいいです。また来ましょう、一緒に」
 ぱあっと笑う顔は嬉しそうで、見ているだけで伝染ってくる。照れ隠しに伸ばした手が、しばし空中をさ迷って、彼女の前髪をすくっていく。ぱらぱらと細かい手触りは、相手の印象とぴたり一致した。
「歩くか」
「はいっ」


 歩いて行くと、人気の少ない岩場にやってきた。更に奥に行けばロッククライミングくらいはできそうな切り立った崖が見えるが、そこまで進む前に立ち止まり、入り江のあたりで休むことにした。
 小さな弧を描く入り江には、白っぽい石と波の低い海が広がっている。水面の色の深さから、少し沖の方へ行けば泳げそうだと考える。といっても流石にあの服で泳ぐわけにもいかないかと思い直して、水際で歩いているヒサを見る。履き物を指に引っかけて歩く姿は右に左にふらつき気味で、見ていてはらはらした。
「靴、もってやろうか?」
「波の届かない辺りに置けば大丈夫ですよー」
 そう言って、とことこと岩の上に靴を置く。俺もそこに行って腰を下ろすと、水際でぱしゃぱしゃと音を立てるヒサの姿を眺めた。強い日差しを浴びた白い服が少しだけ透けていて、黒い影が細身のラインを浮かび上がらせる。
「っと」
 一度目を瞑った。リセット、リセット。日差しで邪念を焼き尽くす。
 もう一度目を開くと、ヒサがきょとんとこちらを見ていた。
 気にするなと笑う。えへへと笑い返された。再び胸の奥で何かがむくむくと膨らんでいく。そしてヒサはとことこと距離を縮めてきた。白い服の裾がひらひらと揺れて、足下で揺れている。
 というか、裸足で岩場は、危ない。今更気付いた。
 欲望と言い訳が手を取り合って、こっちの足も前へと出た。近づいて行き、両手を伸ばす。ヒサの肩と膝の後ろに腕を入れると、そのまま体を抱き上げた。羽のように軽い、とはいかなかったが、それでもやっぱり体の細さは腕越しに伝わってくる。あまりに華奢で、強く抱きしめたら簡単に折れてしまいそうだった。おかげで邪念が引っ込んだ。
 しかしひっこませねーぞーと、ヒサが抱きついてくる。いや、ヒサはそんな事を言っていない。首と肩に腕を回されて、回しきれずに余った手の平がなんだか楽しそうにぽむぽむ背中を叩いてくる。
「って何をやってる」
「抱き上げられたので喜んでみましたっ」
 ぎゅー、と言って、体を押しつけ、頬を肩に乗せてくる。口から紡がれた湿った空気が耳元をそわそわとくすぐっていく。
 が、こちらとしては、心地良いと言うより合点がいかないという気持ちが強かった。妙に、機嫌が良すぎやしないか? また何か抱えているのか? いや抱えているのは俺なんだが。そういうことではなく。
「……どうしたんだ?」
「わたし、ソーイチローに抱き上げられて喜ばなかったことはないと思いますよ」
「……そういうわけではなく」
「あとですね、ずっとくっついたりしたかったんです。ぎゅー」
 だから……あー。ぎゅーされたらまあいいかと思えてきた。
 前はこっちの心配のしすぎですれ違ったりもしたし。あまり深く気にしてはいけない。
 溜息を押し殺して苦笑をこぼす。愚痴や不満から笑いに変わった分が成長の幅というやつだろう。そう考えてみると、大した進歩のような気がするから不思議だ。
「言いたいことあったら、言ってくださいね」
 と、こっちの反応がおかしかったからか、ヒサが眉根を八の字に寄せていた。どうしてこう、こっちの様子にいちいち気付く事が出来るのか、少しだけ不思議でもある。しかし、ここは先に相手の不思議を解決しよう。
「いや、この間の電話から、妙に甘えるので……嫌な事でもあったのかと思った」
「わたし、今たいへんご機嫌よろしいので何かまずいことでも……ああ」ヒサは口を開けて笑った。「あの時はちょっと、調子がおかしかったんです。悪いと言うのでもないのですが。あの時はすごくくっつきたかったんですけど、まあ電話で触れないのは仕方ないです」
「そうか」
 そういう時に側に居てやれないのは少し悔しいな。そう思ったが、今はそれを表に出すよりもする事がある。
 ヒサを抱きしめ返すと、「ふふー」と再びぎゅーされた。
 海と汗の匂いが鼻をくすぐっていく。目を瞑れば腕に抱えた感触と一緒に何度でも思い出せそうだ。
「今のうちに抱きしめとかないとな」
「はい。いっぱいしてください」
 素直じゃないか、とか言ってみたくなる気持ちを胸の奥で閉じ込めると、こぼれた余韻が笑いになって口からこぼれた。
「もっといっぱいこうしてられたらいいんですけど。まあ、会えば会えた分だけ甘えてしまいそうです……」
 少しだけ残念がるような声に、甘やかしたくなった。
「甘えていいぞ?」
 ……けど、言い慣れない事はやっぱり言い慣れないというか。言葉にした瞬間に猛烈な違和感に襲われて、ヒサの顔が見られなくなった。海の方を眺めながら言い訳をこぼす。
「まあ、俺は甘えられるのが大好きだ」
「そ、そおいうことを言うとですね、際限なく甘えてしまいます……」すりすりと頬をすり寄せられる。
「だから」
「もうバレたかと思ってたんですが、わたし、かなりの甘えたがりで……うう」
 動きが止まった。互いに互いに回した腕に力を込めると、体がぴったりとくっついた。
 しばらく、波の音だけが響く。遠慮するな、我慢するな、無理するな。いや、そうじゃないなと考えて。
 ああもうだから言わせるな、と羞恥が顔を熱くする。
「甘えていい」
「……はい」
 聞こえるか聞こえないかわからなくなるくらい、波に連れ去られそうな声がする。
 連れて行かせまいと、腕に力を込めてみる。
「か、かなりばかっぽくというか 動物ぽくなったりもしますがだいじょうぶですか……にゃーとか言いだしますが」
「いいぞ」にゃー? よくわからないが肯定する。
 ヒサが面を上げる。鼻先が触れそうなほどの所から、少しだけ力のこもった目でこっちを真っ直ぐ見上げてくる。小さな唇が開いた。白い歯の向こうで舌が上下した。
「……、にゃー」
 言い終えた瞬間にがばっと再び抱きついて来た。耳が赤いので、顔がどうなっているか想像するのは容易い。笑いながら抱きしめていると、体を掴む手に少しだけ力が込められた。それすらくすぐられているくらいにしか感じられなくて、ほほえましい。
「ソーイチロー。……なまえ、よんでください」
「ヒサ」
 呼びかけると、ぴくりと体が揺れた。少し揺れている気がする。むくむくと胸の奥で膨らんでいく悪戯心が、唇から囁きをこぼす。
「……ヒサ、ヒサー……」
「ちょ、わー」
 がばっと面を上げられた。真っ赤の顔は、驚きにぎょっと見開いた瞳と、わなわなと震える唇で面白い感じに動揺を表していた。よし、あと一撃。驚くヒサの耳元に口を寄せて、短く、明瞭な声で。
「ヒサ」
 抱きしめていたからだから力が抜けた。あれ、と思っていると、頬を何か湿った物が触れていく。だがその正体に思い至る頃には、ヒサは再び顔を埋めていた。ぽんぽんと、手首で背中を叩きながら苦笑する。
「悪かった」
「悪くないです」
 なんだそれは。不満があるのか無いのか照れているのかもっと照れたいのかとにかくまあよくわからないけどいいか俺も照れてきた。ともかく、そろそろ座ろう。足が疲れてきた。
 という事で岩の上に腰掛ける。日差しに焼かれた岩はずいぶんと熱かった。口にしたら、お前ほどじゃないと文句を言われそうだったが。
「くらくらするだけです」言い訳っぽくヒサは言った。顔はまだ埋めている。
「体はだいじに」
「いえ体調不良とかではなく!」
 それはわかってる。
 ヒサはぱっと面を上げると、むむっと挑むように睨みつけてから、口を耳元に寄せてきた。
「ソーイチロー」
「うん?」
 顔が離れた。不満が唇を尖らせて、口から唸りを紡ぎ出す。
「……ソーイチローは耳平気なんですね」
 なんだそれは。
 こっちが首を傾げていると、ヒサはふうっと息を吐いて笑った。何か彼女の中でも思う所があったのかもしれない。だがその気づきが不安に変わり、不安が言葉を生むよりも早く、再びヒサは腕を伸ばして体をぺったりとくっつけてきた。
 細い手が背中に回される。抱きしめると言うよりも、抱きつくと言うよりも、触れ合うような優しさで。
 落ち着いた声が、風に混じった。
「だいすき」
 ……。
 なんて言えば良いのかわからなくて、頭の中がからんからんと音を立てる。
 昔なら不安が心に影を落としただろう。今は、それがやってくる気配はない。
 時間と共に重なり合うものが、それを形にしていくのだと自分はもう知っている。
 わからないなら、黙っていてもいい。
 代わりにそっと、抱きしめ返す。
 ……ああ。なんだ。
 際限なく甘えているのは、俺の方じゃないか。


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引渡し日:2011/04/02


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最終更新:2011年04月02日 19:33