甲籠城

城主
伊達四郎兵衛重興
遺構

所在地
新見市唐松
歴史
大永元年(1521年)に伊達四郎兵衛重興が築城し尼子方に属する。
永正14年(1517年)9月甲籠城城主の伊達遠江守とその子伊達常陸介宗衡は楪城城主の新見国経と共に三村宗親・多治部氏の連合軍と戦うも捕縛される。
宗衡の子伊達右京亮信衡が継いで城主となり、天文10年(1541年)穂井田実近(尼子方)と三村家親(毛利方)との合戦の際、三村家親は毛利氏に援軍を求め穂井田軍を取り囲むが、伊達氏・石蟹氏が伏兵として毛利勢の背後から攻めた。
尼子氏が滅んだ後に毛利方に属する。天正3年(1575年)備中兵乱の際には毛利方として三村氏と戦い軍功をあげ備後国甲努郡に知行を得る。信衡の子伊達三左衛門が城主であった元亀元年(1570年)には宇喜多氏・秋上綱平(尼子方)連合軍に攻められ落城した。
大永元年(1521年)2月には伊達四郎兵衛重興が仏性寺を開基し、唐松字真壁には居館址と伝わる四郎兵衛屋敷というものがある。
伊達常陸介宗衡の娘が植木藤資に嫁ぐ。
補足
伊達重興と他の伊達氏との関連が不明。
また築城年について、重興の築城年が間違いなのか?
新見国経書状には「甲籠城」では無く、「唐松要害」とあるので、甲籠城合戦の後に重興が新たに築城したのか、それとも同一のものかが不明。 
概要

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城内写真
   
   
   
   

縄張り図

登城記録
感想

(00/00/00)

地図


出典
「美穀村史」

2009年08月15日

最終更新:2009年08月15日 03:08
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