城主
新見氏、三村元範
遺構
本丸群・二の丸群・三の丸群・竪堀・横堀・箱堀・石垣
歴史
治承4年(1180年)新見四郎兵衛尉祐信が築城した
文明4年(1472年)楪惟久が城主の頃、
備中松山城城主上野広長に攻められ落城、広長の三男上野内藤維行を城番とする。
文亀元年(1501年)上野維行の時、新見蔵人国経が楪城を攻め、上野維行を備中松山へ退去させる。
永正8年(1511年)秋庭備中守利元が楪城を攻略するも、永正15年(1518年)新見国経が秋庭氏を倒す。
天文2年(1533年)
猿掛城城主庄為資が
備中松山城を攻略する際に楪城城主上野左京亮行経も討死し、上野氏は滅亡、庄為資は楢崎久之丞時信を城番とする。
永禄9年(1566年)新見貞経の時、毛利方の三村家親に攻められ落城する。
元亀2年(1571年)毛利軍は城主楢崎助四郎時忠を攻略し、三村宮内少輔元範を城主とする。
天正3年(1575年)の備中兵乱の際に毛利方の
塩城山城城主多治部雅楽頭景治に攻略され落城。元範は
備中松山城へ逃れる途中の新見市高尾石指早乙女岩(現、新見市立高尾小学校内)にて
粒根城城主伊勢掃部入道国寛と、
竹野城城主三村左介元威と共に戦うも討死した。その後毛利氏は吉川元春の家臣、今田上野介経高、天野勝元を城番とする。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉は楪源太左衛門尉、佐兵衛尉守久父子を楪城城主に任命する。慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で守久と嫡子権太郎貞久が戦死、城番の楪国久(守久三男)は出雲へ脱出し廃城となる。
補足年代や人物の背景に疑問があるためまだまとまっていない。
概要
指定史跡。
縄張り図
所在地
新見市上市
地図
交通
登城口に駐車場あり。(登城口は複数有り)
西側の登城口から徒歩20分。
写真
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遠景 |
本丸 |
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花の丸 |
石垣(草に隠れている) |
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二の丸との間の曲輪 |
二の丸から高梁川を望む |
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二の丸 |
横堀Ⅰ |
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三の丸 |
大堀切 |
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横堀Ⅱ |
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登城記録・感想等
ぴっちゃん (09/08/12)
総延長一㎞近くある巨大な城跡で、夏場に行ったのですが夏場でも比較的訪れやすい城跡になっています。本丸から二の丸にかけて草苅などされて公園整備されているので非常に遺構がわかりやすいです。(ただし、側面の石垣は冬場の方が良い)遺構面は(破壊されている)本丸よりも二の丸などの方が状態が良く、堀切などを隔てかなり南に位置する三の丸は公園整備されてはいませんが、こちらは手が加わってない分かなり状態がよいです。
本丸や二の丸からの景色は良く眼下に高梁川を望むことができ、北は遠く千屋のほうまで。南は支城群がある山々が望めます。
備北最大級の城跡であると共に(単調ではありますが)遺構も良く残っていますので、縄張りを書くのにもそれなりに楽しかったです。また城跡に興味が無くとも、散策するには良い場所だと思います。
こた (09/08/12)
執筆中
参考文献
「日本城郭大系 13」
更新日
2009年10月10日
最終更新:2009年10月10日 03:32