城主 備中守義直、石田二郎為久 遺構 曲輪・石塁・(櫓台)・出丸 所在地 倉敷市真備町尾崎・石田 歴史 備中守義直が築城。天慶4年(941年)4月1日、備前守義直は藤原純友率いる海賊の軍勢と戦い討死した。 その後、年月不詳であるが蘆名為景の子である石田二郎為久が城主であるという。 天文10年(1541年)尼子晴久が毛利元就の吉田郡山城を攻める際には、毛利勢が猿掛城を中心に陣を構え、猿掛城の支城として鳥ヶ獄城からも南麓にある山陽道の要所をふさぎ、尼子勢の補給路を断ったという。 補足 石田為久は元暦元年(1184年)木曽義仲を討ち、褒美として近江国石田村を与えられたという。倉敷市真備町との関係が不明。 概要 山城。呉妹小学校の裏山が城跡。庄氏の居城がある備中猿掛城が指呼の距離にある。近年呉妹小学校の生徒により、案内板が設置されている。なお登城は、毘沙門天のある山から登るのが楽。曲輪は、山頂部の主郭(50×30m)を中心に直線上に七郭連なる連郭式山城で、仮称本丸と西の曲輪の間に石塁が残存する。西の曲輪の南西端には櫓台のようなものも存在する。堀などは見受けられないが、規模はそれなりに大きい部類に入る。 交通 登城口まで。井原鉄道『備中呉妹駅』下車徒歩20分 毘沙門天立像を目指しそこから(尾根づたいに)徒歩40分
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城内写真
縄張り図
登城記録
感想 ぴっちゃん
念願の登城です。が・・どこから登るのか分りません。仕方ないので通称相撲取り山(ため池南麓)から毘沙門を目指してそこから尾根づたいに行く事にします。尾根づたいは一応確か道が付いてたはずです。と・・3つこぶを超えて城跡らしい場所まで来ましたが・・何が何やら分りません。本丸らしいのは分るのですが。南西の櫓台(?)位しかよく分りません。その櫓台の下にも平場があるので曲輪だと思い進みますが途中で自然地形になってきました。戻るのが面倒なのでこのまま降りていくことにしましたが・・、獣道すらないんですが!!危険すぎます。(06/12/30)
写真が全部消えてたので、仕方なく写真を撮りに登ってみました。どうやら荒神様の奥の道から毘沙門天立像まで新しく案内板付で造ってるようです。説明のチラシも山の入り口にありました。倉敷市になってからちょっとましになってる?とおもったり。毘沙門から尾根づたいが一番個人的には近いと思うので尾根を3つ超えていきますが・・、さすがにこちらは整備されてない・・。本丸について図面を描いたり、写真を撮ったり。うろうろしていたらこの城の縄張りが何となく分ってきました。なお、うろうろしてたら前回見落としていた本丸の石垣(石組?)を発見してしまいました。(08/05/04)
再び、従姉妹のちびちゃんたちをつれて散策。山はいつものように荒れていました。どうやら本丸南西にある櫓台?のところに呉妹小学校の子供たちのお手製の立て札(碑?)が新たに作られていました。ちなみに今回も呉妹小学校から降りましたが・・どうやって子供たちは登ってるのでしょう・・道がないんですが・・(この城山は呉妹小学校の遠足ルートらしいのですが・・)(08/10/11)
地図
出典
「日本城郭大系 13」「真備町史」
2009年07月31日
最終更新:2009年07月31日 12:29