富田松山城

城主

浦上国秀

別名



遺構

曲輪・土塁・石垣・堀・出丸


歴史

築城期は不明であるが、備前焼が本格的な商品になっていた頃には城郭として整備されていたらしい。江戸中期の『備前軍記』には文明15年の福岡合戦の記事の中に片上の城として登場する。文明年間には備前の守護代の浦上氏の出城として存在し、代々浦上氏一族あるいは、有力大名が城主をつとめていたのだろう。その後備前の東半分を領有して戦国大名化した浦上村宗が、享禄四年に死ぬと、その三人の子は不和になり、当主の政宗が播磨国室津城に、次男宗景が備前国和気の天神山城に、三男の国秀が富田松山城に分立して居城を構えた。
兄の宗景に従い富田松山城に移り住んだ国秀はこの城を本格的に改修したとされる。弟の離反に激怒した政宗は翌年に宗景討伐の軍を起こし、手始めに、三石城を落とし、次に富田松山城を攻め落とした。ついで、富田松山城に本陣を敷き宗景を攻めたが決着がつかず終戦となった。その後、政宗の影響力が衰えると、再び富田松山城は宗景の直轄の出城となり、国秀が城主となる。城主は天文年間は、国秀であったが、一時期不明な時期があり、永禄12年には浦上景行であった。宗景の家臣であった宇喜多直家が戦国大名化したため、同年には、宗景の隷下の伊部城を攻め落とし、富田松山城との間で合戦が起きたが、一進一退であった。
後に直家が、備前を併呑すると、旧主宗景の居城の天神山城を攻め落とし宗景を遁走させると、景行の守る富田松山城をも攻め落とした。その時に廃城となった。

概要

片上湾に突き出た備前富士の山頂にある山城。遺構は非常に良好に残っている。山頂部を巧みに使用した城跡で、眼下には片上湾や伊部浦が一望でき、湾の対岸には支城の片上茶臼山城がある。

遺構は、山頂部に不整形な五角形の本丸を置き、本丸周囲は低い土塁が残存している。本丸西側と南側に虎口が存在する。本丸西は、曲輪が5~6段、本丸取り囲むように連続して並んでおり追手とされる場所には、石垣が残っている。一番西は山塊に沿うように細い帯曲輪が延びている。
本丸の東は、曲輪が2つほどあるがその先の尾根は横堀で切断している。さらに尾根の東側には出丸とされる場所も存在するが、西側と比べると防御の手薄感が否めない。

縄張り図


所在地

備前市東片上

交通

自家用車

周辺に駐車スペースはない。

公共交通機関

赤穂線『西片上駅』下車 徒歩 分

登城口

城山北にあるグラウンド麓に案内板があり、そこから登山道が延びている。徒歩40分前後

注意



写真

遠景写真・碑

茶臼山城から 出丸から

城内写真

本丸 本丸土塁
本丸虎口 石垣
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二の丸 三の丸から本丸を望む
三の丸東の堀切 東の出丸

登城記録・感想等

ぴっちゃん 05/8/25(晴)

かなり昔なのであやふやなのですが、図面も書きましたので、図面を見ながら感想を書いてみます。
山道をかなり登った先に出丸があり、そこから一山越えたところにいきなり掘が出現し、そのまま進むと少し広い三の丸があり、三の丸の西をすこし進むと低い土塁に囲まれた楕円形に近い本丸があります。本丸の南と西に虎口があり西に進むと曲輪群がちょうど本丸の東を軸にして円を描くように西と東と南の曲輪が階段状に展開していました。西からの防御を意識した城跡なぁと感心するくらい西側の防御が堅かった記憶があります。なお大手口の石垣は石垣に見えなかった気がします。というのも適当に近くの石をまとめているとか言う感じで置いてあったので。

こた 09/7/4 (晴)



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参考文献

「日本城郭大系 13」「邑久町史」

更新日

2010年03月03日

最終更新:2010年03月03日 04:25
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