【名前】天城誠志郎
【容姿】178cm、爽やか系イケメン
【生年月日】1973/10/23
【所属】
新潟レンジャース
【利き腕】 右投両打
【守備位置】 外野手
【能力】
3 B74 C12 A86 B76 C62 D50
盗塁B 粘り打ち 広角打法 内野安打○ レーザービーム 積極盗塁 積極守備
3 D57 C11 S90 B76 C62 D54
盗塁A 粘り打ち 広角打法 内野安打○ レーザービーム 選球眼 積極盗塁 積極守備 人気者
3 D55 B75 A84 B79 C63 D50
盗塁B 送球C 粘り打ち 広角打法 内野安打○ レーザービーム 積極守備 人気者
【背番号】
【球歴】
横浜高校→いすゞ自動:92年〜
→日本ハム:95年〜04年
→新潟:05年〜11年
→新潟(コーチ):14年〜
【性格】
温厚でお人好し
【その他】
新潟の二軍打撃コーチ。
2018年度からは巡回コーチに異動する事が発表された。
日本ハム時代は当時売り出し中だったV6にあやかり、球界のV6と言われた。
とても身体能力が高く、遠投は最高126メートルを記録した事がある。
高校時代はショートと外野を兼任していたが、いすゞ自動車入社と同時に外野に専念。
日本ハムへはドラフト3位で入団、2年目から頭角を現すもののレギュラー奪取へはもう一歩のところで足踏みをする日々を過ごす。
しかし6年目の2000年ついに才能が開花、打率.330、11本塁打、21盗塁を記録し外野のレギュラーに定着する。
翌年には44盗塁を記録し井口と同数で盗塁王を獲得した。
日本ハム時代の10年間では打率3割以上2回(00年、04年)、20本塁打を1回(03年)、盗塁王を1回(01年)記録しビックバン打線を支えた。
球界再編騒動で揺れる2004年、新規参入球団である新潟への移籍の意向を突如表明しFA宣言。
FAとしては異例の年俸1/3、3年契約を結び新潟へ入団。
(減額は自ら申し出た)
春季キャンプでは初代キャプテンに任命、以後中心選手として若いチームを引っ張り続けた。
2011年に現役引退。
新潟時代はチーム事情から積極的に長打を狙うスタイルに変えており、盗塁はここぞの場面でしか狙わなくなった。
また、センターやライトのポジションで積極的に若手を使って欲しいという思いからレフトにコンバートしている。
入団の経緯から、新潟ファンからは救世主と呼ばれている。
しかし、これを偽善・茶番だと非難するものも未だ多い。
事実、新潟で活躍していたのは最初の2年間程度であり、それ以降はプレースタイルを変えたことによる打撃不振と故障に悩まされシーズン通して一軍に帯同し続けたことはなく、もっぱら代打やバックアップであった。
引退後は2年間、指導者としての勉強の為に費やすことに。
そして2014年、スイッチヒッター達への指導を期待され古巣新潟へ二軍打撃コーチとして舞い戻った。
指導方針としては褒めて伸ばすタイプ。
優しい性格の為叱りきれないのが玉に瑕。
しかし、スイッチヒッターの苦労を身を以て知っている為教え子からの支持は高い。
ただ、実質メンタルコーチとも言われており、汐井の一軍定着にはあまり貢献していないのではという噂もある。
二軍にスイッチヒッターがいない時期は守備指導なども手広く行なっている。
ちなみにプロ入り後のスイッチ転向は反対派で、もしやらせるなら高卒1〜2年以内にという考えを持っている。
芽の出ない選手を最後の手段でとりあえずスイッチ転向、というのが大嫌い。
曰く↓
- 今まで打てなかったのに何でまたゼロから作り直さないといけないんですか?
- スイッチ舐めんなよ?
- スイッチは右打ちと左打ちをやるんじゃない、両打ちという打法
らしい
同時に、「両打ちの強打者というスケールの大きな選手を育てたい」という思いも強いため
元々スイッチの選手をやめさせるのも嫌い
育成選手時代の新崎に「動きの中で打球を獲る」事の大事さを説き、支配下登録への足がかりを作った。
ファンからは「教えたがりの口だけ野郎で二軍の癌」と言われている...らしいが、その大半はヤフコメ民やツイカス等のアングラ連中である。
最終更新:2017年12月09日 18:03