概要
7世紀、
朝鮮半島では
高句麗・百済・新羅が互いに争っている
状態が続いていた。
その
中でも新羅は唐と仲が良く、唐の
制度を取り入れていたが、唐が高句麗に
侵攻すると、高句麗が新羅に侵攻する
きっかけとなっていく。
高句麗と百済は、唐と新羅に
対抗するため
同盟関係を結び、百済は新羅に侵攻。新羅を
圧迫するが新羅には勝てず滅ぼされてしまった。
百済
滅亡の
影響を受けたのが日本だった。この頃、日本では
大化の改新を行っていて朝鮮半島に対する
外交体制を決めなければいけなかったが、国内では唐との
関係を
重視するか百済との関係を重視するかで分かれていた。
日本と百済は
昔から
友好関係を結んでいて、さらに百済の
王子が日本に
亡命していた。
日本では
蝦夷の
征服を進めていき、
影響力を強めたいと考えていた。
蝦夷地を征服して百済を救えば、朝鮮半島の
属国と認められるかもしれないと思った斉明天皇は、
中大兄皇子の
意見を退けて百済を
救援する。
天皇は前線に立っていたが、福岡県北部に着いたところで
病死。中大兄皇子が代わりに
指揮をとることになる。
最初の方は日本が優勢だったが唐に押され始め、最終的には
崩壊してしまう。
結果、1万人の
死者を出して
撤退する。
唐が攻めたのは日本ではなく高句麗だった。唐は668年に高句麗を滅ぼし朝鮮半島を
支配するが、こうなるとは思っていなかった新羅は
不信感を抱くようになり両国の関係が
悪化していく。
670年に新羅は旧百済の
領地に侵攻。さらに
清川江以南の朝鮮半島を新羅の領地にする
和睦が
成立し、675年に新羅が朝鮮半島を
統一した。
最終更新:2026年05月03日 05:47