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白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)とは、663年に日本百済復興を成し遂げる為に、新羅連合と戦った出来事

概要

7世紀、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が互いに争っている状態が続いていた。

そのでも新羅は唐と仲が良く、唐の制度を取り入れていたが、唐が高句麗に侵攻すると、高句麗が新羅に侵攻するきっかけとなっていく。

高句麗と百済は、唐と新羅に対抗するため同盟関係を結び、百済は新羅に侵攻。新羅を圧迫するが新羅には勝てず滅ぼされてしまった。

百済滅亡影響を受けたのが日本だった。この頃、日本では大化の改新を行っていて朝鮮半島に対する外交体制を決めなければいけなかったが、国内では唐との関係重視するか百済との関係を重視するかで分かれていた。

日本と百済はから友好関係を結んでいて、さらに百済の王子が日本に亡命していた。

百済は日本と協力して戦うための使いを送ってくる。

選択を間違ったら日本存亡危機に関わる重大決断だったが、日本は百済の願いを承諾して唐と戦うことになった。

これには斉明天皇が関係していた。

日本では蝦夷征服を進めていき、影響力を強めたいと考えていた。

蝦夷地を征服して百済を救えば、朝鮮半島の属国と認められるかもしれないと思った斉明天皇は、中大兄皇子意見を退けて百済を救援する。

日本軍は、当時があった難波宮出発して福岡県北部に向かう。

天皇は前線に立っていたが、福岡県北部に着いたところで病死。中大兄皇子が代わりに指揮をとることになる。

そして朝鮮に侵攻。最初の方は唐がまだ移動途中で新羅のみと戦っていたため、日本の方が優勢だった。しかし土壇場で唐の援軍到着、白村江で戦闘が起こった。

最初の方は日本が優勢だったが唐に押され始め、最終的には崩壊してしまう。結果、1万人の死者を出して撤退する。

これによって百済は滅亡。日本も失敗に終わり、ここから制度強化することとなる。

福岡県大宰府という軍の出張機関を置いて、更に防人を置いて唐の侵攻を阻止しようとする。中の負えの皇子の王子は難波宮から大津遷都し中大兄皇子は天智天皇として即位

唐が攻めたのは日本ではなく高句麗だった。唐は668年に高句麗を滅ぼし朝鮮半島を支配するが、こうなるとは思っていなかった新羅は不信感を抱くようになり両国の関係が悪化していく。

670年に新羅は旧百済の領地に侵攻。さらに清川江以南の朝鮮半島を新羅の領地にする和睦成立し、675年に新羅が朝鮮半島を統一した。

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歴史
最終更新:2026年05月03日 05:47
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