きのやまさを

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存命時よりこんにちまで多くの人々から誤解されているが、正しくは「きのやま・さを」が本来の姓・名である。

通称「ホビットのノルド」。

きのやまは、自らが編み出した洗脳受容教育学を河守博士に言葉の遊びと愚弄され、数ヶ月もの間 床に臥せったままだったと伝えられる

生涯

小鳥亡き後、ホロゾンタを引継ぎ、幕末から昭和初期にかけての約80年間、大魔道師として教団の手綱を握った。江戸後期、幕軍として宇都宮城の戦い、上野戦争、会津戦争、函館戦争などに参加し、全て敗走したが、奇跡的に無傷で生き延びる。その神業にも近い生命維持力が、口伝に民衆に広がり、信仰に近い存在となる。その力を頼りに、当時小鳥の死によって崩壊の危機にあったホロゾンタが、首班小鳥斬首の恨みをかなぐり捨てて、首班となることを願い出たのだった。当時、『秘湯』の号で、俳諧師としての道を選ぼうとしていたさをは、数分迷った末、首を縦に振ったという。その奇跡的生命維持力は首班となってからもいかんなく発揮され、大逆事件で逮捕され拷問を開始される直前、拷問担当者が次々と心臓発作を起すという怪奇現象に見舞われ、拷問は無期延期となった。また、逮捕状に判を押した裁判官までが、脳梗塞で倒れるという事態に至り、さをは無罪放免となった。無罪放免となった日を、ホロゾンタでは『チィーレ・チィーレ」(支配からの乖離・飛べ 天井まで、の意)として、記念日に制定されている。

大正デモクラシー下、様々な振興宗教が立つ中、ホロゾンタも他の教団同様、迫害にさらされる。無用な対立を嫌い、さをは教団を解散したように見せかけ、秘密結社として再生する。政府に対して、傀儡教団として立ち上げたのが『近江真理教』であり、そこから森濃という大発明家が後世生まれるとは、流石のさをもまさか予知できなかった。本来の彼の願いであった、俳諧師として生きることは、俳諧師という仕事が消滅したため果たせなかった。しかし、明星派の浪漫主義俳人であった与謝野鉄幹が、まさを自身であるという説がある。ここ数年、パソコンを用いた緻密なデータベース解析により、余りの一致点の多さから、一部の教科書ではその説を取り上げている。

昭和に入り、強い生命維持力を誇ったさをも、寄る年波には勝てなかった。次第に弱っていくとともに、頑固な部分のみが突出し、ホロゾンタをミスリードすることも増えた。九州ホロゾンタのたわいもないミスにこだわり、九州ホロゾンタ末端全員を下関に集め、入水させるという粛清は、キムジョンウンの迫撃砲処刑に勝るとも劣らない残虐なものだったと言う。それはあたかもレミングの集団自殺にも似たものであったと、ホロゾンタの定点観測をひそかに続けていた河守博士は語った。潮の満ち引きによって、ホロゾンタ末端3000人の遺体は、数週間海上の移動を繰り返したという。

引退を周囲から示唆された時、さをは病床にあった。幹部数名から、声明文が読み上げられた時、さをのまなこは大きく見開き、しばらくして一筋の涙が流れた。その瞬間、彼の生命維持力は0となって、自然死であるかのような自殺を遂げる。享年、100歳。


墓所

京都黒谷金戒光明寺(京都守護職本陣跡)
 そこには、ひっそりと人目を忍ぶかのように「會津藩殉難者墓地」の石碑が建つ。敷地面積約三百坪の墓地内には、多数の墓が並んでおり、文久二年から慶応三年までの五年間で亡くなった約二百三十七人と、鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五人の墓がある。また、ここには武士以外にも、使役で仕えたと思われる苗字の無い者、婦人等々、縁者も同様に祀られているという。その内、禁門の変(蛤御門の変)の戦死者は、一段積み上げられた台上、三ヶ所に分けられて二十二人が祀られている。尚、会津松平家が神道であった関係で約七割程の人々が神霊として葬られている。
 きのやまさをの墓地は、大正期後半に建立されている。五十段ににも及ぶピラミッド型に組まれ、黄金の装飾をされた墓地は、ひときわ目を引く威風堂々を形にしたものである。生前、彼が錯乱状態にある時に自身で建てたものだと言われる。現在も、春と秋の彼岸の日に、どこからともなく日本語を解さない苦力がやってきて、金箔を塗り直していくという。そのため、さをの墓所は常に光り輝いているのだ。「のだ」と言われてもなぁ。

逸話

辞世は「敷島の 大和男の行く道は 紅き着物か 白き着物か」であった。 元ヴォイテム・レリク要員であった安藤昇は、復員後20年ちかい年月が経って俳優・歌手に転向とした当初、在りし日のきのやまが夢枕に立ち、この辞世を詠った後、静かな微笑を浮かべて去っていったと、当時を述懐している。 転向後、思うように仕事が軌道に乗らず、気持ちを腐らせていた安藤は、この夢のお告げに奮励触発され、ようやく迷いを断ち切ることができたという。 また、この時の心情を永劫に記憶しておくために「男が死んで行く時に」のレコーディングに臨んだと、居住まいを正して語ったという。 


「新京極で2011年10月に偶然発見されたノート」

新京極で細々と営業を続けていた古書店『京市屋書店』が、長引く不況の余波で店じまいを余儀なくされた。老夫婦が守り続けてきた多くの書物が、初めて日の目を見ることとなる。それは、徒然草のほぼ完品に近い写本であったり、源氏物語絵巻の欠本であったりした。その中に、ホロゾンタ研究の第一人者とも言える河守博士の未発表ノートがあった。

「ホロゾンタを知れば知るほど、謎は深まるばかりだ。私はもう疲れた。ホロゾンタは、雑賀孫市や式守三太夫のように、その地位に与えられる名前ではないかと仮定したことは、一応の研究の成果である。しかし、ホロゾンタは、平安期の天皇のように御輿に過ぎず、それを利用しようとする者達の傀儡でしかない。何も利用価値のない者を御輿に担ぐ教徒達の真意が、どうしても理解出来ない。むしろ、担ぐことによって生命を奪われる例がほとんどなのに。ホロゾンタを幕末から昭和初期まで支えたきのやまさをなど、真理を愚弄し、言葉遊びにのみ興じる狂犬にしか私には思えない。きのやまさをの魅力は、彼が持つ鉄の爪に集約される。その材質も製造方法も全て不明であるが、人間を何人切り裂いても決して衰えぬ切れ味は、現代科学を持ってしても解明不明である。彼はどこでそれを手に入れたのか。危険な武器をこよなく愛するきのやまさを。そんな人間を、なぜ、八十年も代表に据えたのか。それで何故瓦解しない?何がホロゾンタをまとめている?そもそも、ホロゾンタとは何なのだ?」

河守博士は、かなり混乱していた様子で、ノートの文字は踊っているかのようで、後半はほとんど読み取れない状態だった。
鉄の爪が、X-MENに登場するウルヴァリンの鉄の爪をモデルにしたことは明らかであり、破壊力は本家のアダマンチウム以上であったことは明白である。
しかし、悲しいかな、河守博士の想像力の限界はそこにあった。惜しい所までたどり着きながら、あと一歩の前進が出来なかったのである。その前進とは、ウルヴァリンその人こそが、きのやまさを自身であるという事実である。きのやまさをは、何らかの方法で、時間軸を自由に操る術を身につけていたのであった。時間軸の魔術から解き放たれた時、人は真の自由を知る。異常とも思えることを普遍化する作業こそ、歴史研究である。河守博士は、自身の常識の殻を打ち破れなかったのである。

ちなみに、ウルヴァリンが、日本の忍者をモデルにしている事は余り知られていないが、事実である。黄色い服装は、イエロー=日本人の象徴である。   

在りし日の河守博士

観光地で今も目にする土産である「観光地の名称を染め抜いた提灯」や「将棋の駒形の通行手形」は、さをの発案である。その収入は、ホロゾンタの経済的危機を救った。

さをの癖は、落書きであった。機密文書の空白部分に、それは多く残されている。そのほとんどは、拳闘をする人物画である。

さをにとって、西欧から伝わった自転車は、現実から自らを一時的にせよ素早く遠ざけてくれるものとして、唯一無二の存在であったという。

青年期後半を動乱の京都で過ごした彼は、様々な事件と遭遇した。その一つが、足利尊氏木像梟首事件である。斬られた首を見て、彼の魂はその非道な行為に対し怒りに打ち震えたと言う。当然彼の気持ちは、佐幕派に固まっていく。

京に出来た最初の牛鍋屋『山重』にて、糊口を凌ぐため短い期間ではあるが働いていたことがあった。そこで、落ちた肉を洗って客に出すという非道を店主に強いられた。その店主が倒幕派だったことが、まさをの佐幕の気持ちをさらに強くした。

さをが、故郷に残した幼馴染の女性が、久魅である。その彼女が、吉原遊郭に売られていることを伝え聞くやいなや、取るものも手につかず、吉原に向かいその真相を確かめると、果たして、それは事実であった。しかも、すでに自害を遂げていたのである。それを聞いたさをは、置屋店主(小嶋屋五郎)を一刀両断にし、失踪した。

彼にとって、洗髪は禊ぎと同様の意味を持つ行為であり、その姿は鬼気迫るものであったという。

深夜、小腹が減って居酒屋に立ち寄り握らせたおむすびを、橋のたもとから転がり落としたことがある。

知り合いの浪士から、最新式の西洋拳銃(レーザーディスクとも言う)を借りたまま、頂戴したのは愛嬌である。その浪士は、後年、謎の死を遂げた。

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時代の徒花 レーザーディスク 松下科学館所蔵

半ば諦めていた論文の完成を、牛魔王を中心とした浪士達による強引とも表現しうる援助によって遂げることが出来たさをは、それまで否定していた何かを思い知ることになった。しかし、それは彼の理論武装をより強固にしただけだ、と語る識者もいる。

仏像に対し異常に興味を抱いていた彼は、市中の仏像研究場に足繁く通うようになった。しかし、そこに同席した女性剣士に、ふざけて抜刀した刀を巻き取られてしまうと言う失態を演じ、足が遠のいたという。明治期に『滑稽新聞』などの風刺で有名な宮武骸骨の縁者が、さをの抜刀を巻き取った張本人である。

川本による130イニング無失点記録を、さをが操るかたひらの一発で打ち砕いたのは、さすがは東国武士と言うべきであろう。

当時都で流行し始めていた「唐揚げ」であるが、とりわけ彼はそれを好み、必ず大を注文したと言う。

俳諧師を目指した彼の言語センスは突出しており、自らの寝床の臭いを「寝臭い」、余りの睡眠の長さで精神が退廃することを「寝腐る」等と新語を多く開発した。

当時対立していた、記憶媒体書の形式は、『武威英知重数』と『辺恵蛇』であった。主流になりつつあった『武威英知重数』を見限り、より鮮明に後代に残し得るとされた『辺恵蛇』方式をさをは選択するが、十年後、不毛とも言える移し替え作業が待っていた。

『三国志』や『信長の野望』と言う戦術書によって帝王学を学ぼうと日夜励んでいた若き日のさをであるが、八時間分の記録が部屋を訪れた浪士どもによって無にされてしまった時は、人格完成者の彼でさえ怒りを押さえるのに必死の形相だったと小鳥は語った。

函館新政府が明治政府に破れた日、彼はひそかに京に戻り、刀鍛冶になる覚悟を決めていた。主義主張を捨て、市井の一民衆として生きようと思ったからである。しかし、刀鍛冶を訪れた日、たまたまその日が定休日だったため、就職の夢かなわず、彼の決意はあらぬ方向へと転換していく。

彼の部屋に置いてあった鉄の爪を誤って踏むという愚行を小鳥は犯している。その鋭い刃が小鳥の足裏を貫いた様子は、足の甲に突如現れた和歌山の橋杭岩の様だったと、その場にいた皇尊皇は思った。

彼のねぐらの水は、何故か赤い色をしていた。一説によると、そこで多くの浪士が斬り殺された祟りであるという。

『武多』は、彼の困窮していた生活に差す一筋の光明だった。その西洋料理屋は、一定時間を過ぎると半値で商品を放出するという販売スタイルで、威勢は良いが金のない浪士達を陰で支えていた。しかし、その噂を聞いた「お兄さん」と呼ばれる長崎脱藩浪士が、その店で「早く、安くならんっちゃか?」と実も蓋もないことを口走り、その言を聞き気分を害した店主はそのスタイルを翌日から取りやめたという。

一度奈良を訪れたさをは、神鹿を撲殺しようと試みたが、軽くあしらわれた。

困窮する生活の中で、彼が肉体を維持しえたのは、亜米利加の飲み物「ふあんた」からの栄養摂取のおかげであったらしい。安価で日常生活に必要な十分な栄養素を含むその飲み物は、現在「ファンタ」と呼ばれ、摂取カロリーが高いと言うことで、目の敵にされている。何とも皮肉なことだ。

きのやまさを 外伝

京滞在中の若き日のさをを狙って、どういう経緯か一人の刺客が抜刀し鬼のような形相で部屋に踏み込んだことがあった。しかし、さをはその時たまたま皇尊皇と詩吟教室に出かけており、留守であった。刺客は一旦抜刀した刀をそうやすやすと降ろ事も出来ず、返す刀でふすまにその時の気持ちを刻んで帰っていったと言う。

当時の岡っ引きの伝。
「俺は、貴様が春画を買うために仕送りしているわけではない。おやじ」と怒りを漲らせた筆跡で刻まれてました。それは黒雲を従えて天に昇る龍のごとき荒々しさどした。意味はよう分からなんだけど、とにかく背筋が凍るような迫力がありましたわ。

踏み込んだ人物が、さをの父親であったかどうかは定かではないが、さをが定期的に故郷と連絡を取っていたらしい、とは堀滝子の弁である。

堀滝子肖像画 高台寺美術館所蔵

その後、皇尊皇と共に帰宅したさをは、ふすまの文字を見て、何故か腹を抱えて笑ったと伝えられる。幕末特有の気風であろう。

さをの部屋に飾られていたと伝わる天狗の面 京都美術館所蔵

京都滞在中のさをのもっぱらの癖は、深夜に町を徘徊することであった。尊皇攘夷派の暗殺者に命を狙われていると知りつつも、その習慣は改まらなかったと言う。特に、徘徊中に立ち寄るしなそば屋『横綱』は彼のお気に入りで、丁稚がつゆの中に親指をどっぷりと入れ込んで運んできた熱々をすすることにエクスタシーを感じ、射精することさえあったという。また、徘徊中に気勢を上げ、看板などを殴りつけることしばしで、それは誰もとめることが出来なかったとのことである。余りに遠くまで徘徊してしまい、途方に暮れること数十回。夜が明けるのを辻の片隅でじっと待つきのやまの姿が、口さがない京町雀の噂にあがることは当然であった。以下、京町雀の歌ったきのやまを揶揄する歌。
『きのや 恋しや ほーれほい
 そんなに 帰りたきゃ ほーいほい
 寝転んでたら 鬼が来る
 ここは二条じゃ どこまで歩く
 歩き疲れた 帷子ノ辻』  

戦国時代の研究に没頭する余り、幕末ではありえない「いなご」の恐怖におののき、いんにょうえがふざけて「殿、イナゴでござる」と言った時、失神したと言う。それは「疫病でござる」も同様であった。

さをの俳句で現存するものは数十万を超える。地名を巧みにあやつるその技法は、今日も継承者が出ていない。

 瓜買いが 瓜売らずして 宇都宮
 柿食えば 鐘が鳴るなり 淀川
 痩せ蛙  負けるな紅茶 カシミール
 鶏頭の  十四五本も  桃山御陵前
 五月雨を 集めて早し  ドニエプル
 静かさや 岩に染み入る 岩手県
 のど赤き つばくらめ二つ  津 


きのやまさを誕生秘話
 きのやまさをを名乗り始めたのは、上京した後である。幕軍として転戦していた時代は『奈美』と名乗っていたらしい。『奈美』と書いて(さんじょうともみ)と読む。伸一君という同士が戦死して、その名を捨てたという。

 かつて、「きのやまさを」はどこで区切るか、どのような漢字を当てるかについて研究者の間で熾烈な議論が繰り広げられたが、冒頭に書いたように「きのやま さを」が定説である。
 しかし、中原中也を例にとって説明すれば、現在「なかはらちゅうや」と呼称するのが常道であるが、『ランボウ詩集』の中に「N・NAKAHARA」の自署が残っている。よって、本来は「なかはらなかや」と読むべきであると言えよう。しかし、実際の運用がそうではないところから、きのやまさをについても、長年親しまれてきた「きのや まさを」が正しいとする説を私も取りたい。

 ある暮れ方のことである。当時、奈美(さんじょうと・もみ)と名乗っていたさをは、函館において、いよいよ終焉のときを迎えようとしていた。隊長である土方歳三が戦死し、部隊としての戦闘行動が取れなくなり、遊撃隊として奮戦したものの、しょせん多勢に無勢。。彼自身疲れ果て、路上に倒れ伏している時に、新政府軍大尉「カール・大弾・ロジャース」によって所属と名前を問われた。その時に口をついて出たアメリカンジョークが「まい ねいむ いず きのやまさを」だったと言う。なお、「きのやまさを」にどのような英単語が当てはまるかは、現在も不明である。

 大胆不敵を比喩でなく具現化したような「きのやま」であったが、ただ一人苦手とする人物がいたようだ。その名は、堀タキコ。言わずと知れた、幕末に咲いた経済学の権威であり、時代に散ったあだ花である。マルクス・エンゲルスによる『資本論』を上回る経済論理を構築していながら、その存在が知られたのはすでに『資本論』が世に出たずっと後であった。
戒名は「綿森院銭金必取大姉」。

 さをと皇尊皇に関する研究論文『稀有なペテン師ども』が、平成24年11月11日付、インターネット上で流布された。作者不詳のこの論文は、きのやまさを研究に新たな視点から、今までにない切り口で踏み込んでいる。著者は、市井の研究者にしてはあり得ない参考文献・資料の量から、いずれかの研究機関(国内に限定しない)に所属する人物もしくは研究グループだと推察される。
 その論文で、上京するまでは寡黙であったさをが、皇尊皇と出会ってから異常な饒舌となる謎に迫っている。ケージで飼われているげっ歯類が回転車内を生涯全力疾走し続ける徒労のごとく、皇尊皇の口車に乗せられていたのが真相であるとの結論に至っている。無論、口車に乗せられていることをさをは自覚しており、自分の意思で走り続けていたと見るのが正しい。また、皇尊皇も自らをその口車に乗せてともに走り続けるという、荒唐無稽を具現化したかのような行動を取っている。二人を同じ車に乗せたのは「ペテン」であると、その論文では喝破しており、ペテンを異常に愛する二人にとって、悪の相乗効果・嘘の核分裂とも形容できる禁断の出会いであったと結論付けている。
 ペテンと一言で言えども、その中身や質は全く異質なものである。嘘も方便・嘘から出た真・嘘つきは泥棒の始まり・ 嘘も追従も世渡り・ 嘘も誠も話の手管・ 嘘をつかねば仏になれぬなど、嘘をモチーフとした言葉は多々ある。こよなくペテンを愛した二人にとって、嘘は生活の一部を超え、肉体の一部であった。彼らの高尚な嘘は、もはやアカデミックと表現せざるを得ないほど、ギミックに満ちながらも文学的であったという。ここで断じておかねばならないのは、鯛谷が生前五万回は投げかけたという「ぶっとばすぞ!」の言葉が一度も実現化しなかったというのは、嘘ではないということ。嘘とは、ある目的意識や展望を持った上で用意周到に練られた修辞であり、口癖とは違う。それを意識していた二人は、ペテン師と呼ばれることを渇望していた。また、一時期、ペテンで糊口をしのいでいたとも伝え聞くとかや。合掌。


 「おもしろき こともなき世を おもしろく」を辞世の句として詠んだバッドニュース・アレンが、さをの私生活を記録した書物「THANKS GOD ITS THEM INSTEAD OF YOU」(日本語訳 「彼らがお前でなかったことを神に感謝しろ」)によれば、さをにとって大切なものは戦いの中で大きく変貌をとげ、後に植木等に伝承されるスーダラ主義(=無常観)に逢着したという。

 大の虫嫌いであったさをは、海外分教所では同志として功績を称えられているファーブルについて、それを日本国内で信者に伝えることを禁じたという。ヒトラーの「わが闘争」の日本語訳が、日本人にとって都合の悪い部分を削除されていたのと酷似している逸話である。さをにとって、日本で昆虫記がこれほどまでにもてはやされることは心外なことであった。さをのカニ嫌いの理由は、漢字で書くと「蟹」であったからだと言う。

かのカフカの『変身』は、主人公のグレゴール・ザムサが目が覚めると芋虫になっている(甲虫の説もあり)変身譚であるが、それを原書で読んださをは、気絶を数度繰り返したと言う。彼の虫嫌いを裏打ちする逸話である。

皇尊皇と料亭に出かけた折、海老料理を食べるさをに、皇は「海老は虫よ」と言い放った。さをは激しく嘔吐し、それ以来海老を遠ざけたと言う。
皇の発言の意図は不明である。

戊辰戦争時、起死回生をはかるため、フォッサマグナに数本のくさびを打ち込み爆破し日本を分断するという案を上層部に上奏するが、榎本武揚はそれを聞いて「イッツ ジョーク」とうなり、捨て置いたとのことだ。

彼は愛馬として、サラブレッドよりもポニーを好んだ。特に、鈴鹿生まれの黄色い毛並みを好んだという。愛馬の名は歴代「美威賭」が引き継がれ、彼にこよなく愛されたという。ただ、彼の最終目標は、海外馬の戦闘馬の純血種「ゑ洲婦浬」であったとも伝え聞くところではある。

猫好きで有名な彼である。教団幹部となった彼は、椅子に腰掛け膝の上に猫を抱きその頭をなでながら、部下の頭を踏みつけて厳しく叱責したという。部下を踏みつけながら発せられる、猫に同意を求める「なぁ、サスケちゃん。なんで、こんな失敗するかなぁ?」という猫なで声は、それを聞いた者を震え上がらせたという。

ポーランドで、彼の子孫と名乗るポーランド人が名乗り出たが、売名行為であることは間違いないだろう。

きのやま双子説を風説として流布させていた張本人は、小鳥であると、皇尊皇が語っている。

 幼少期のきのやまが狂気を演じていたというのは有名な話である。齢七つにして発心集に感銘したきのやまは、隅田川の渡し守として九歳まで身を隠し通したという。一旦は実家に連れ戻され、両親の監視下に置かれたが隙を見て脱走。大和国は多武峰、談山神社に身を寄せる。寺の下僕として、精神薄弱を装いながら、糊口を濡らすのみの状態で庭掃除を主な生業として働き続けた。しかし、その卓越なる才能は隠し果せるものではなく、徐々にその徳の高さを周囲に知られるようになり、最終的にはたった三年で僧都にまで上り詰めてしまう。しかし、そんな処遇は決して彼を喜ばせるものではなく、早朝に朝日に向かって自慰を繰り返したり、男根をプロペラのごとく猛烈に回転させレシプロ機の様に離陸を試みたりと、狂気を演じる態度は年々エスカレートしていく一方だったと、談山神社絵巻にはそれを描写した絵と共に記録されている。その記録によれば、彼が離陸に成功したことが明らかであり、ライト兄弟が人力飛行を遂げる1903年を遡ること五十数年、まさに自らの身一つをもって天高く空を舞っていたというのは、痛快な事実である。近隣の高市村や三輪方面では、「晴れた日には談山神社から天狗が降りてくる」と人々を驚愕させ、聞き慣れぬ高周波の音に恐れおののいたとのことである。その音が近づいてくると、人々はわれ先と屋内に身を隠し、その騒ぎに巻き込まれ不遇の死を遂げた人が十指では足りぬということである。

以上の逸話の映画化を図った宮崎駿であったが、男根をプロペラにする描写に三年以上の時間をかけて制作している途中に頓挫。やむなく「風立ちぬ」へと大きく軌道修正して発表したのは、公然の秘密である。その折作られた幻のアニメーションは、何物かによって盗み出された後、アメリカで地下オークションにかけられ、250億円で落札されたとの事である。
最終更新:2014年01月04日 00:01