「あ、拳正」

木枯らしが吹きすさび、肌に感じる風も冷たく感じられてきた季節の変わり目。
枯葉舞う公園のベンチに横たわる幼馴染の姿を発見して、桜色の制服を着た少女が声をあげた。
通学途中なのか、少女は手にしていた学校指定のカバンを揺らしながら、幼馴染の元に駆け寄っていく。
腰元まで伸びた艶やかな黒髪が風にふわりと揺れ、パタパタとはためく少し短めのスカートから健康的な白い脚が覗く。
少女はベンチの前で立ち止まると、その顔を覗き込むようにして幼馴染の少年へと話しかけた。

「何でこんなところで寝てんのよ、あんた今日も学校サボる気? ちゃんと来なさいよ、このままじゃ中学とは言え卒業できなくなるよ」

少年は覗き込むようにして話しかけてきた少女を薄目で一瞥すると、鬱陶しげに眼を閉じて寝たふりを決め込んだ。
だが、そんなことは関係ないとばかりに少女は構わず少年に向かって話しを続ける。

「あんた今どこで暮らしてんのよ? まさかずっと野宿してるなんて言わないでよ?
 友達の家に泊まってるとかならまだいいけど、まだあそこにいるんじゃないでしょうね?」

耳元で騒ぎ立てる声を躱すように、少年はごろりと寝返りを打った。
しかし少女はそれを逃すまいと、すかさずその方向へと回り込んでいく。

「ちゃんとご飯食べてるの? 自炊できないにしてもジャンクフードばっかじゃなくて栄養とか気にしなさいよね。
 ちょっと聞いてるの? もしもーし、返事くらいしろー。おーい」

無視を決め込む少年に、少女は遂には声だけでなくつんつんと脇腹をつつき始めた。
いい加減耐え切れなくなったのか、少年は大きなため息をつくと諦めたように目を開き少女を見た。
寝ころんだ体制のまま少年はじっと少女を見上げる。

「九十九」
「なによ?」

少年のいつにない真剣な声色に少女は少し身構える。

「パンツ見えてるぞ」
「どっせぃいッ!!」

女子とは思えぬ雄叫びと共に、少女はノータイムで少年の顔面に膝を叩き込んだ。

「いいから、今日こそ学校きなさいよ! 今日来なかったら私にも考えがあるからね!」

怒りを露わにしながらも、最後まで心配事を口して少女はそこから立ち去って行った。
恐らく怒って立ち去ったと言うより、登校時間が差し迫っていたのだろう。

「……痛ってぇ、加減しろよあのアマ」

あの体制で下手に躱すと硬い額で受けてしまう事になりそうだったので、動く事も出来ず。
お蔭で思いっきり鼻っ柱で受けてしまった。
一人残された少年は赤くなった鼻を押さえ、仰向けになって空を見上げる。
冷たい風が吹き、少年の頬を撫でた。

「…………痛え」

見上げた空は曖昧な雲に隠れ灰色に染まっている。
時期に雨が降りだしそうな気配がしていた。


雨を避けるべく拳正が訪れてたのは、当然学校ではなく、とある商店街のアーケードだった。
正確には元商店街。
大した規模ではないものの、それなりに古く、それなりに地元民に愛され、それなりに賑わいを見せていた商店街だったのだが。
近所にできた巨大ショッピングモールの煽りを受けて、すっかり寂れたシャッター街となっていた。
店を畳んだ店主たちは一人、また一人と居を離れ、ついには地区ごと寂れてしまった区画でもある。
近く一帯を取り壊した大規模な改装計画があると言う噂だが、今は不良やホームレスと言った行き場のない連中の溜まり場となっているのが現状だ。
その悪評は周囲に知れ渡っているため地元民で好んで近づく者などいない。

その一角にある小さな元スナックが現在新田拳正が所属している不良グループの溜まり場であった。
所属している、と言っても他グループとの抗争にあたり、助っ人として頼られている用心棒のような立ち位置であるのだが。
報酬や待遇こそ悪くないものの、彼らと深く付き合っているとはいい難い立ち位置であり。
拳正としても必要以上関わらないよう、ここにはあまり立ち寄らないようにしている。

スナックの内部は掃除などされておらず、寂れ荒廃しているが、とはいえ頻繁に人が出入りているだけあって過ごしやすさはそれなりだ。
雨風をしのぐだけなら十分な場所だろう。
拳正は中でたむろしていた数名の少年に適当に挨拶を躱し、奥で寝るから近づくなとだけ告げ、従業員用の休憩室だったであろう一室へと進んだ。

部屋に入るナリ継ぎはぎだらけの革張りのソファーに勢いよく横たわると、ソファーに空いた穴から空気が押し出され部屋の中に埃が舞った。
窓の外ではポツポツと雨が降り始めてた頃だ。
その雨音を子守唄に拳正は静かに眠りについていった。


あの日も雨が降っていた。

父の誕生日の準備のため、母と共に買い物に出かけた日の朝だった。
連日の激務で運転手が意識を失ったトラックが、信号待ちをしている母子がいる交差点へと突っ込んできたのだ。
直前で運転手は意識を取り戻し急ハンドルを切るも、雨でタイヤがスリップしてトラックの荷台が倒れた。

全てがあっという間の出来事だった。
二人を押し潰さんと迫る死を前に、拳正は動く事も出来ず、何もすることしかできなかった。
ただ自分の名を叫ぶ母の声と、突き飛ばされた衝撃だけが記憶に残っている。

母は強い人だった。
天涯孤独の身で苦労も多かったと聞いているが、自らの不遇を吹き飛ばす太陽のように明るく、荒野に咲く向日葵のような人だった。
だからあの瞬間も迷わなかったのだろう。

自らの命を迷うことなく投げ出して、自分を救ってくれた母を、拳正は誇りに思っている。
だから、母の死は辛く悲しかったけれど、それを引きずるようなマネはしなかった。
残された痛みを、護られた誇りに変えて生きてきた。
その決意は紛れもなく強い心の為せる決意だった。

そして、それに気付けなかった事、それが彼の過ちだった。

母の葬儀が終わった数日後。
寝静まった拳正の胸元に父は刃を突き立てた。
無理心中だった。

『……拳正。ごめんなぁ…………拳正ッ』

グチャグチャに涙で顔を歪めながら、謝罪の言葉と共に繰り返し刃を突き立てる父。
遠のく意識の中でその父の姿を見つめ、彼は己の過ちを悟った。

拳正は母の居ない生活を受け入れ、護られた誇りを胸に携えて下を向くことなく前を向いた。
彼は己の強さに無自覚で、それが当たり前の強さだと勘違いをした。
父も自分と同じように立ち直っているのモノだと、ごく当たり前の様にそう考えてしまった。

それが間違いだった。
その無理解が母を失った父をさらに追い詰めた。

父は母を愛していた。
父の実家はそれなりの名家だったらしく、身寄りのない母との結婚を反対され、駆け落ち同前で飛び出してきたらしい。
そんな大胆な決断を行う行動力があっただなんて普段の父の様子からは想像がつかない。それだけ母を愛していたという事なのだろう。

父は母とは全く性格の違う、穏やかで優しい人だった。
実の息子である拳正ですら一度足りとして父が怒っている姿を見たことがない。
少し気の弱いところがあったが、どんなことも優しく受け入れる海のような人だった。

そしてどうしようもなく弱い、人だった。

その後、病院に担ぎ込まれて入院する事となったが。
日々の鍛錬もあってか、筋肉の壁に守られ幸い重要な臓器に傷はなく、医者も驚くような速度で回復し一月ほどで退院できた。
それは奇跡ではなく、父も躊躇っていたからだろう、と拳正は考えている。

退院した所で、入院中に預かってもらっていた飼い犬が死だことを幼馴染から聞かされた。
老衰だった。結婚前から母が飼っていた老犬で、産まれた時からずっと一緒だった愛犬だった。
けれど母が死んでから目に見えて衰弱していたから、お迎えが近いという気はしていた。
ただ、このタイミングで死なれると、まるで自分の身代わりに死んだように思えて仕方がなかった。

彼は考える。
考えるのは苦手だけれど、考えずにはいられなかった。
二人と一匹の命を犠牲にして生き長らえる、それだけの価値が己にあるのだろうか。
生き残ったからには、何か意味があるはずだ。
なら、その意味とはなんだ?
ひとかど人間になるにはどうしたらいいのか。

悪い頭では考えれど方法は見つからず、どこを目指せばいいのかもわからない。
焦燥ばかりが募る。

少年が自慢できるものなど腕っぷしの強さだけだ。
力しか自慢がないのなら、それを突き詰める事しかない。
強さを突き詰めて行けば、価値のある人間になれるかもしれない。

強さ。そう強さだ。
暴走するトラックに見舞われようとも、逆に母を抱えて躱せるだけの強さがあれば。
包丁で刺された程度で動けなくなる軟弱な体でなければ、自殺する父を止められたのはないか。
いや、そもそも寝込みを襲われた程度で不意を突かれる未熟さがなければあんな事にはならなかったのではないか。
全ての原因は己の未熟にあると、そう少年は全ての責を自らの背に負った。

彼らの命に報いるだけの強さを得なければならなかった。
全てを無価値にしたくないのなら、止まる事など許されない。

そう生きなければならなかった。


「っ―――――ぁ」

俄かに周囲の騒がしさを感じて、眠りから目を覚ます。
夢を見た。彼の根源と言っていい始まりの夢だ。
それを振り払うように額を押さえ頭を振る。
ふと窓の外を見れば雨は止んでいたが、雨上りの湿度に全身を温い汗が伝う。

渇きを覚えた拳正は休憩室を出ると、カウンターにある酒の詰まったクーラーボックスからミネラルウォーターを探し当てて取り出した。
彼がアルコールを取らないのは、法律を気にしてという訳ではなくイザと言うとき動きが鈍る事を嫌っての事だ。
ペットボトルを呷り、渇きを潤した拳正は、近くにいた同年代の少年へと話しかける。

「っせぇな。なんかあったのか?」
「あ、おはようございます拳正さん!」
「ぁあ、挨拶いいから、ってかタメなんだから敬語使うなってんだろ、それよりどした?」
「ええ、なんか近くで見かけねえ女が騒いでるみたいで」
「女?」

目的もなく、この辺りに好んで近づく者など殆どいない。
土地勘のないものが迷い込んだか、それとも何か本当に目的があってきたのか。
どちらにせよ、拳正にとってあまり興味のある話ではない。

「んなもん追い返すなり、放置するなり、騒ぐような事じゃねえだろ」
「いや、それがですね、まだ中学くらいのガキらしいんですけど、なかなかお目にかかれないくらいの上玉らしくてですね。
 声かけて引っ張ってこようって奴らがこぞってまして。あ、俺は年上趣味何で行かなかったんっすけど」
「お前の趣味は聞いてねぇよ」
「おっと、失敬。んで飛び出してったのが何人かいるんですけど、袖にされてるらしくて。
 んで、めんどくさいから攫っちまおうなんて強引な奴も出てきたって感じですかね」
「んだそりゃ、相変わらずつまねえ事してんな、お前ら」

心底下らないと言う風に、苛立ちと呆れを含んだ声を漏らす。
ここにいても不愉快になるだけだ、雨が止んだのならここに留まる理由もない。
ちっ、と大きく舌を打つと拳正は出口に向かって歩き始めた。

「あ、もう出られれるんっすか拳正さん?」

拳正は少年の言葉を応えず出口に手をかける。
そのまま、止まることなく出ていこうとしたが、少年の次の言葉を聞いて、拳正はその動きを止めた。

「あ、そう言えば、拳正さんも桜花でしたよね?
 たしかその女も、桜花の制服着た髪の長い女って話でして」


「だーかーらぁ。人捜してるだけだってば! 邪魔しないでよアンタら」
「いいじゃんか、ちょっと付き合えよ」

学生服を着た少女が人気のない裏路地に追い詰められ数名の男たちに取り囲まれていた。
だが、少女は見た目にそぐわぬ気の強さでこれを突っぱね、男たちはほとほと手を焼いているようだ。
業を煮やした男の一人が少女を大人しくさせようと、その手首へと掴みかかる。

「ちょっと放して、放しなさいよ、このやろー!」

だが、その程度で怯む少女ではない。
掴まれた手首を振り払おうと大いに暴れ、振り回した腕が男の目元を掠めた。

「ッ! このアマ、調子に、」

激昂した男が少女に向かって手を振り上げる。
その腕を振り下ろそうという直前、僅かに息を切らした何者かが裏路地へと駆けつけた。

「よぅ、拳正。珍しいな、お前も来た、の…………か?」

拳正の存在に気づき、歓迎するような言葉をかけた男の声が徐々に途切れ、思わず少女を掴んでいた手を放した。
それは、彼らがこれまで見たこともないような形相をした桜中の悪魔だった。
その瞬間、その場に居る全員が思わず本能的に殺されると直感する。

「おい、何やってんだお前」

何を問われいているのかもわからないまま、男たちは咄嗟に弁明しようとするが。
その声が自身たちに向けらた物でないと気づき、少女と拳正の間に視線を行き来させる。

「な、なんだ、拳正の知り合いだったのかよ。
 いや、わりぃ。知らなかったんだよ、許してくれよ。な?」

媚び諂うように卑屈に笑う男に、拳正は無言のまま睨みを利かせる
悪魔と呼ばれているのは伊達ではない。この男は、味方だろうと、気に喰わなければ容赦なくぶちのめす。
そんな風評を知っている男たちは、逃げる様に一斉にその場を後にした。
通り過ぎていく男達には目もくれず、拳正は渦中の少女へと向けて、同じ言葉を繰り返す。

「こんな所で何やってんだよお前」

抜身の刃のような鋭い眼光に射抜かれ、少女は一瞬だけ怯むが、グッと堪えて負けじとその瞳を真正面から睨み返した。

「何やってんのはこっちのセリフよ! あんたこんなところであんな奴らと何してんの?」
「関係ねえだろ。とっとと帰れ」

そう吐き捨て、拳正は踵を返してその場を後にしようとした。
だが、その行く手に立ち塞がる様に少女が回り込む。

「待ちなさいよ! 関係ないわけないじゃん! もうあんな奴らと付き合うのやめなよ!
 南条の家に戻りたくないんなら、おじいちゃんに頼めば住むところくらい探してくれるからさ。なんだったらしばらく家にいてもいいから」

ね? と懇願する様に少女は言う。
けれどその態度がまた拳正を苛立たせる。
苛立ちのまま拳をドンと少女の肩越しに打ち付ける。
打ち付けた老朽化したコンクリートにひびが入り、破片が地面へと崩れた。

「うっせえよ。二度と来るな」

そう吐き捨て。
動きを止めた少女の脇をすり抜けていった。


「あぁクソっ……つまんねぇな」

呟きを漏らしながら、雨上りの人気のない街を歩く。
何をやっても苛立ちが募るばかりだ。
あれからずっと感じている焦燥と虚無がある。
胸元の傷跡から風が吹いている様だった。

ガラの悪い連中に絡まれてる少年を助けたのが始まりだった。
そんな力の振るい方しか知らなかった。
そんなやり方でしか己の価値を証明できなかった。

そんな事を繰り返していたら、何時の間にやら頼まれて拳を振るうようになり、それを利用しようとするやからも現れ始めた。
前に進むしか能がないから、間違った方向に進んでいるにもかかわらず、止まり方が分らない。
本当に頭が悪い。

「ってぇな、どーしてくれんだよこれ」

苛立ちを抱えたまま歩いていると、気付けばガラの悪い連中に囲まれていた。
考え事をしながら歩いてたためか、どうやら別の不良グループの縄張りに不用意に踏み込んでしまったようだ。

「この辺では見ねえ顔だなお前、ガキの来るとこじゃねぇぞ?」
「おいガキ、とりあえず財布置いてけ財布」

何やら肩でもぶつかったのか、因縁をつけられているらしい。
相手は四人。全員拳正よりも二周りは大きい体格をしてる。
高校生か、もしかしたらそれ以上の年齢かもしれない。

「あんだ、お前その眼ぇ? なに睨んでくれちゃってる訳ぇ?」
「あ、俺こいつ知ってるぅ~。確か何とかの悪魔とか呼ばれて調子のってるやつぅ~」
「マジかよ、桜中の悪魔ってんなガキだったのかよ。下らんねぇ噂だったなおい」

すきっ歯が目立つギョロ目の男が、そう言ってクケケケと笑った。

「相手する気分じゃねえんだ。見逃してやるからすっこんでろ」

興味なさげにそれだけ言って、拳正は立ち去ろうとする。
だが、そんな事を言われた男達が素直にそのまま通すはずもなく。

「噂通り、調子乗ってんな、こいつ」
「絞めとくぅ? 絞めとくぅ~?」

どうやら躱せそうにない流れに、ため息をつく。
四人とも素手、武器を隠し持っているような様子もない。
ならば片付けた方が早いか、と拳正が意識を切り替えようとしたその時である。

「お、どぅしたぁ?」
「なに、喧嘩売られてんの?」

裏路地からガラの悪い男がぞろぞろと姿を現した。
20人はいるだろうか。その中には明らかに日本人ではない外見をした者や二メートル近い大男も見受けられる。
各々の手には鉄パイプや釘バットと言った獲物が握られており、中にはこれ見よがしにバタフライナイフをチラつかせる輩もいる。

「おっと、今更逃がさねぇからなぁ~?」

数にビビった相手を逃すまいと、男たちが拳正の周囲を取り囲む。
その中からサングラスをかけた金髪の男がニヤニヤと笑いながら拳正に近づき、その肩に手を回した。

「じゃあ場所移そうか、悪・魔・ちゃん」


近場の公園に場を移し開始されたそれは、もはや喧嘩とも呼べない一方的なものだった。
腰が抜けたのか、立ち上がる事もできなくなった敗者の胸ぐらを勝者が掴み、無理矢理に引き上げる。

「も、もう…………勘弁」
「おいおい、喧嘩売ってきたのはそっちだろ? ちったあ根性見せろよ、なあ、おい」

倒れこむ数名の男たちの中心で、立っているのは新田拳正ただ一人だけだった。
その拳正は傷一つ負ってないどころか、息一つ切らしていない。
なにせ、十発も打ってない。
圧倒的だった。
それだけの打撃で、拳正は集団をあっという間に壊滅させた。

まず拳正は集団の中で一番強そうな黒人の大男へと迷わず突撃し、これを一撃で昏倒させた。
その時点で勝負は殆ど決まった。
集団の三分の一は急性すぎる展開についていけず呆気にとられ、三分の一は最も強い男があっさりやられたことに戦意を失った。
残りの三分の一は完全に冷静さを失い、無謀にも拳正に向かって真正面から飛び掛かっていく。

そして愚直に突っ込んできた輩を2、3人吹っ飛ばしたところで、大半の者は実力の差を悟り蜘蛛の子散らすように逃げていった。
残ったのは命知らずが数名と、恐怖で足がすくみ動けなくなった憐れな子羊だけである。
それらを一切の容赦なく打ちのめし、現在の状況に至る。

「…………つまんねえよ。テメェらなんでそんなに弱いんだ」

掴んだ襟元を引き寄せ、男へと凄む。
だが男は短い悲鳴を上げて怯むばかりで碌な回答は期待できそうにない。
元より独白のようなモノで、返答を期待しての問いではないのだろうが。

これでも加減はしている。
それでもチンピラじゃまるで相手にならない。
これではただの弱い者いじめだ。
こんな事がしたい訳じゃないのに。
これでは何の意味もなさない。

度重なる暴力行為が問題視され、道場も破門された。
強さを求めていたはずなのに、進めば進む程遠ざかっていく。

底なし沼を全力で駆け抜けていくような感覚。
進もうとすればするほど深みにはまってゆく。
前に進んでいたはずなのに、泥のようなしがらみが絡まって、どこにも行けなくなる。
学校も、義理の両親も、お節介焼きの幼馴染も、身に纏わりつく何もかもが煩わしい。

「つまんねぇんだよ、お前ら全部…………ッ!」
「ひっ!」
『その辺にしとけ、坊主』

すぐ背後からあ制止の声がかかり、振り下ろそうとした腕が掴まれる。
日本語ではなかった。
どうやら中国語のようである。
子供のころから中国人が師範を務める道場に通っていたため、日常会話くらいなら理解はできた。

『あ゙? んだお前、ホームレスか?』

背後を睨みつけながら中国語で返す。
腕を掴んでいたのは白鬚の老人だった。

『離せよ』

拳正は掴まれた腕を振り払おうとするが、まるで万力で固定されたようにピクリとも動かない。
ならばと、腕を掴まれたまま、逆腕で老人の脇腹に掌打を打ち込む。

だが、その掌打が直撃するよりも早く、クンと掴まれた腕を捻られ、拳正の体が風車のように回転した。

完全に体勢を崩された。
その回転速度に上下の感覚も失い受け身も取れそうにない。
だが、その体は地面に叩きつけられることもなく、綺麗に一回転して何事もなかったかのように両の足で着地させられた。

「なっ…………!?」

手首から手を放し拳正の両手にポンと手を載せ老人はニカっと笑う。
遊ばれていいる。
今のは老人にとって文字通り赤子の手をひねるようなものだろう。

拳正は後方に距離を取り、構えを取った。
全身の怖気が立つなど何時ぶりの事か。
あの一瞬で理解した。
目の前にいるのは出会ったことすらない次元の魔人であると。

『止めとけ、止めとけ。構えを見るに、実力の差が分らないほど未熟って訳じゃあないんだろう?』

老人は言う。それは紛れもない事実である。
勝ち目など万が一にも見えてはいない。
だが、勝ち目があるとかないとか、そんな細かいことはどうでもいい。
彼はただ戦いたいから戦うだけだ。

「―――――ふっ」

息吹と共に駆ける。
踏み込みはこれ以上ないと言うほど最速。
打ち出した拳は渾身を込めた絶招。
今の新田拳正の出せる全てを込めた全霊の一撃である。

だがそれを受けるは、その尽くを凌駕する魔人である。

老人はその拳をいとも容易く見切ると、礼とばかりに打を繰り出だす。
避ける事も叶わずその直撃を受けて、新田拳正は空を飛んだ。


『よう、目ぇ覚めたか小僧?』

意識を取り戻した拳正の傍らで老人は酒を呷っていた。
拳正の相手をした時もすでに酔っていたのだろう。
これが現時点での老人との差である。

「くそ……ッ。動けねぇ」

起き上がろうとするが完全に体が動かない。
どうしようもないので諦めて天を仰いだ。
見上げる空は、すっかり夜の色に染まっていた。

拳正とて無敵だったという訳ではない。
嘗て通っていた道場の師範や師範代などと言った、彼よりも強い存在は幾らでもいるし敗北の経験などいくらでもある。
だが、流石に一撃で伸されたのは生まれて初めての事である。

『カカッ。加減したとはいえ俺の一撃喰らって生きてるは運がいいな坊主』
「運がいい、か」

生きているのは運がいいのだろうか。
空の漆黒を見つめ、その心中に訪れるのは、いつも感じているあの感覚。

ああ。また、死に損なったな、と。

母から助けられた瞬間も、父に刺されて意識を取り戻した瞬間もそう感じた。
死に場所を逃しているような感覚。
何のために生かされたのか。

その答えを強さに求め、今だ至らず敗北を喫した。
だが今の気分はそう悪くない。
未熟なのは知れたこと、頂に届かぬなら目指すしかない。
目指す先、到達点が少しだけ見えた気がする。


それから拳正は足繁く公園に通い、幾度も老人に挑み、幾度も敗北を繰り返した。
老人は鬱陶しげに拳正をあしらおうとしていたが、食料か酒を持っていけば相手をしてくれたので手土産を持っていくのが習慣となっていた。

老人に如何に一泡吹かせるかに忙しくなったので、助っ人稼業は廃業した。
おかげで都合のいい休憩所はなくなったし、収入もなくなった。
両親の保険金が入った通帳は置きっぱなしで家出したので喰うに困ったが、それまでに比べて気分は悪くなかった。
幾分か生きやすくなった気がする。

とはいえ、先立つものがなければ暮らしていけないのもどうしようもない事実である。
なので出ていった父方の実家に戻ることにした。
あれだけ啖呵を切って出ていったのだ、戻りたくない気持ちも、戻りづらいという気持ちも当然あったが。
前に進むために必要な事ならば、どんなことでもすると決めた。

道は見えた。もう迷うことはない。


既に人の居なくなった夕暮れの放課後。
少年と少女が二つの机を合わせ、向い合せに座りながらノートにペンを走らせていた。

「しっかし、あんたも一時期に比べたらだいぶ落ち着いたよね、ちゃんと学校にも来るようになったし」
「ま、目指す先が見えたからな、焦る事もなくなったつーか」

ペンで頭を掻きながら、少年は何故か妙に気恥ずかしげにそう答えた。

「何それ? あんた何か目指してたの? 強くなりたーいくらいの事しか考えてないバカだと思ってたけど」
「まぁ間違ってねぇけどよ、バカだのはお前にだけは言われたくねぇよ」
「あのねぇ。それが遅れまくったあんたの勉強に付きあってあげてる優しい優しい幼馴染へのセリフ?」
「へーへー。そこの公式間違ってっぞ先生」
「ぐッ……ふーんだ。赤点ギリギリの私が教師で悪うございましたねー」

ふてくされた様に少女は口を尖らせる。
少年は子供じみた幼馴染の反応に苦笑した。

「んなこたねぇよ。感謝してる」
「ん。ならよし、大いに感謝せよ」

そう言って、互いにノートに向かって集中する。
会話が途切れ、教科書のページをめくる音とペンの奔る音だけが、静かな放課後に響いていく。

「でさぁ、拳正」

視線をノートに落としたまま少女が口を開く、
はらりと落ちた髪を、ペンを持った手でかき上げる。
夕日に照らされ、幼さの残る少女の顔がその一瞬どこか大人びて見えた。

「あんた、進路どうすんの?」

何でもない事を聞くように、少女は幼馴染にそう尋ねた。
その問いに少年は手を止め顔をあげる。

「そうだな。とりあえず俺、あの家出るわ」
「出るって……」
「また家出するって訳じゃねえよ。ちゃんと断って、土方でもやりながら適当に一人暮らしでもするさ」

その答えが気に喰わなかったのか、少女は眉を寄せて不満げな声をあげる。

「高校はどうすんのよ」
「高校ってお前……俺が進学できるわけねえだろ。正直卒業できるかも怪しいぜ?」

自らがこれまでしてきた行為の報いだ。
少年はこれを当然の結果だと受け入れている。
だが、少女は違った。
受け入れてなどいなかった。

「ダメ。高校くらいは出な拳正」
「ダメっつわれてもなぁ。俺が今から勉強して受かるとこなんてないだろ。内申最悪だし。
 だいたい学費だって払えねえよ。保険金も正直そんなに余裕はねえぞ」

あるいは父方の実家に泣きつけば、学費の一つくらいはなんとかなるかもしれないが。
正直それはしたくないというのが本音だろう。

だが、その程度の懸念は予測していたのか。
少女は自身ありげな顔で机の横にかけていた自らの鞄を開き、その中から一つの封筒を取り出した。
ん。とぶっきらぼうに突き出されたその封筒を受け取り中身を確認する。
それは学校案内のパンフレットだった。

「そこ受けな。その学校、一芸入試の特待生を募集してて、それに受かれば学費免除だから」
「いや、そんな評価されるような特技もないぞ俺」
「知ってる、あんた体力だけしか能ない癖してスポーツやってるわじゃないもんね」

辛辣極まる意見だが事実なので反論のしようがない。

「という訳で用意したのがこちらです」

少女は料理番組のようなノリで今度は鞄から一枚のチラシを取りだし、少年の目の前に突き付けた。

「格闘大会ぃ?」
「そ。優勝すれば実績になるでしょ」

なるかなぁー? と懐疑的に呟きながら、少女の持つチラシをに目を通していく。
開催は二週間後、場所は二駅ほど離れた都市部である。

「……って、これ一般じゃねえか」

学生大会などの年齢制限のある大会ではなく、年代別などの区切りない一般向けの大会の様である。

「その辺はよくわからんから知らん! とにかく優勝してこい」
「いや優勝とか無茶言うなよ。最近連戦連敗で自信なくしてんのによ」

連敗と言っても、ここ半年近く公園の老人として戦ってない訳なのだが。
当然の様にその全てに敗北しており、彼の自信は絶賛へし折れ中である。

「えっ、そうなの」

自信なさげな返答が意外だったのか、彼女の勢いも徐々にしぼんでいった。
彼女なりに考えた策だったのだろう。
目論見が外れて、がっくりと肩を落とす。
その様子を見て、少年は少しだけため息をつき、彼女の手からチラシを霞め取った。

「ま、出るだけでてみるさ。お前の事だからエントリーはしてあんだろ?」

形はムチャクチャだが、少女は少年の諦めたモノを拾い上げくれた。
その気遣いには素直に感謝している。
どうせ、負けても失うものなど無いのだ。
今の自分の立ち位置を知るいい機会だろう。

「と言うか、俺はいいとして、お前は進路どうすんだよ?」
「え、私もそこ受けるけど? 一芸で」

当たり前のことの様に少女は言う。

「お前なんか一芸あったっけ?」
「ふっふっふ。君の知らない間に、私も実績を重ねているのだよ拳正くん」

そう自信ありげなドヤ顔で、鞄から今度はパンフレットを取り出した。

「次から次へと、お前のカバンは何が詰まってるんだよ」
「夢と希望だぜ」
「何キャラだよ」

bとサムズアップする幼馴染を無視して、パンフレットに目を通す。
それは日本刀の展示会のパンフレットだった。

「そこの小さなスペースなんだけどね。お爺ちゃんの知り合いの館長さんに頼み込んで作品を展示させてもらったの。
 まぁ、お爺ちゃんにはまだ早いって反対されたんだけど……」

お爺ちゃん子である少女が祖父に逆らうのは珍しい事である。
それでも強硬したのは、恐らく入試に向けての実績作りが目的だろう。
少年と同じ高校へと進むために。

「それなりに評判いいんだってさ。次もお願いしたいくらいだって褒められたんだから」
「へぇ。そりゃ何よりだな」
「うーん。けど本格的に力入れるんなら邪魔になるし、髪切ろっかなぁ」

そう言って少しだけ名残惜しげに毛先を弄ぶ。

「それにいい事ばっかでもなくてさ、それ以来、私の所に変なスカウトが来るようになってさぁ。
 今はお爺ちゃんが追い返してくれてるんだけど……まあ、なんかあったら相談するわ」
「おう、任せとけ」

会話はそこで途切れる。
再び二人はノートへと向き合った。
ひとまず卒業できなければ、進学も何も始まらない。
今は勉学へと立ち向かう時である。

その後、少年が無事卒業し高校へと進学できたのか、その結果は語るまでもなく。

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最終更新:2015年05月06日 00:52