※二次創作的な短編です。
◆
真夜中の大都会。閑散とした市街地。
開発と繁栄によって彩られた都市。
満月の明かりが、無機質な街を見下ろす。
人々は寝静まり、僅かな街灯だけが地上の灯火となる。
沈黙と静寂が、場を包む。
時刻はとうに深夜を過ぎている。
街行く者は、最早誰もいない。
ただ一人、路地を往く少女を除いては。
朱色の髪を持つ少女は、人気のない路地裏を静かに歩いていく。
瀟洒なスーツに身を固めて、ブーツの靴底でステップを刻む。
俯きがちに進みながら、右手に握る手提げの革製トランクを揺らしていた。
こつ、こつ、こつ――。
少女は暗がりを進む。暗がりを歩く。
歩を刻み続けて、やがては足を止める。
俯いた視線が、ゆっくりと上げられる。
彼女が見つめた先。
そこに在ったのは、聳えるような高層ビル。
ある悪名高い“実業家”が所有する施設。
それをじっと見つめて、彼女は微かに笑んだのち。
革製トランクの口を閉ざす錠を、指先で軽やかに解き放った。
軽やかな笑みを、口元に浮かべたまま。
少女はトランクを振り上げ、真上へと放り投げた。
解錠された鞄が、宙へと放られる。
鞄の中に収められた荷物が、ばら撒かれる。
空中を舞う品々に、少女は目を向けなかったが。
重力に従って落下していく“それら”へと、彼女は微笑みかけていた。
重みと質量でふわりと落ちてきた、鳥の翼を思わせる闇色の布(マント)。
少女は掲げた左手でそれを掴み取り、くるりと一回転。
踊るようなステップを踏みながら、その身にマントを纏う。
続けて落ちてきたものは、平たく折り畳まれた絹製の帽子。
マントを纏う所作から立て続けに右手を振るい、帽子を指先で受け止める。
そのまま迫り上がるようにシルクハットの形状へと戻った帽子を、彼女は頭へと身に着ける。
宙高くから落ちてくる、黒い欠片に似た荷物――。
目元や鼻などの顔上部を隠す、鴉のような仮面(マスク)である。
マントを纏い、シルクハットを被った少女は、そのまま仮面を左手でキャッチする。
それは虚構の姿。それは悪党としての象徴。
その手に取った仮面で、彼女は顔を覆った。
そして、革製のトランクは、空中でその姿を変えていた。
一体いかなる技術なのか。一体どのような仕組みになっているのか。
荷物入れに過ぎなかった物体が、アンティーク調の大型多機能拳銃へと“変形”していたのである。
仮面を被った“女怪盗”は、落ちてきた大型拳銃をその手に掴み取り。
腰元に隠していたガンホルスターへと、西部の保安官のように素早く収める。
帽子に仕込まれている“盗聴対策済みの骨伝導式無線機”が、正常に機能することを確認しつつ。
少女は優雅に駆け抜けて、そのまま跳躍――大都市の空へと舞っていく。
グライダーのように展開されたマントが、彼女に宙を舞う翼を与える。
――――開闢の世界を翔る義賊。
――――“怪盗ヘルメス”、ここに参上。
彼女は、真夜中を駆ける。
耳元のジュエルを揺らしながら。
数多の罠を、指先で潜り抜けて。
伝令の夜鳥は、優雅に翔ぶ。
◆
照明も付けられていない、暗がりの部屋。
青みがかった明かりだけが、淡々と灯っている。
幾つもの液晶モニターが、無機質な光を放ち続けていた。
食い散らかされた後の菓子袋、カップ麺を初めとするレトルト食品の容器。
不要になった鉄製のパーツ、開封したまま放置された段ボール箱の残骸。
その他諸々――こじんまりとした室内の床には、幾つものゴミが散乱している。
片隅の角には、適当に詰め込んで縛ったゴミ袋も幾つか放置されている。
しかしアルミ製の棚に置かれた小型のガジェットや電子機器などは、妙に整然と並べられていた。
机に並べられた複数のモニターの前。
ゆったりしたクッション付きのチェアに腰掛ける女がひとり。
栗毛の前髪をヘアゴムでざっくりと縛り、耳には最新式のヘッドホンを取り付けている。
身に纏っているのはひどく可愛げのないグレーのスウェット、上下セットである。
その女は――ズボラで自堕落な風体の引き篭もりは、ヘッドホン越しに“顧客”との連絡を取っていた。
「で、潜入後の調子はどう?怪盗ちゃん」
《良好よ。ハッキングは滞りなく出来たわ。
電子ジャミング装置もしっかり働いてる》
――“ドッペルゲンガー”、舞古 沙姫である。
凄腕の犯罪幇助者であり、裏社会の仲介人だった。
数々の犯行に関与しながらも、何者にも決して己の実態を掴ませない。
神出鬼没、正体不明。その超力の性質も併せて、彼女はそうした異名で呼ばれている。
「今回はメカーニカの技術も使ってるからね。
俺だけじゃこんだけのガジェットは作れないし」
《メカちゃんには感謝ね。勿論、貴女にも》
「へへ。分け前は弾んでよ、怪盗ちゃん」
沙姫は貿易商だった亡き“富豪の父”が関与していた流通ルートを利用し、莫大な販路を手に入れた。
そして富豪の両親――実の肉親に非ず――が残した多額の遺産を元手に、裏社会の個人事業主として密かに成功を収めていたのである。
「連中の方の仕掛けは大丈夫そう?」
《ドッペルちゃんのガジェットで全て対策できてる。
“対超力防護コーティング”も問題なく突破できたし、大したことは無さそうね》
「よし。情報収集の賜物ってヤツだわな」
《じきに“保管室”へ到着するわ。ミッション達成まで後少し》
義賊である怪盗ヘルメス、ラテンアメリカの犯罪組織“メルシニカ”。
世界的な政治犯である“革命家(ワールド・オーダー)”――並木旅人という名は知らない――など。
沙姫の顧客は多岐に渡る。どんな顧客も条件次第で引き受ける、まさしく便利屋である。
当人は自堕落な性格ゆえに働きたくなどないのだが、困ったことに沙姫は要領が良かった。
いかに“認識阻害”の超力があれども、要領が良くなければ富豪夫妻からとっくに正体などバレてしまうのである。
単独犯、小口の集団犯罪はバッチコイ。大規模な組織犯罪のニーズにも対応いたします、出来る範囲で。
来るもの拒まず、主義思想問わず、完全中立を貫きます――それが彼女のモットーだった。
結果として沙姫は、その手腕とスタンスによって膨大な範囲の裏稼業に加担している。
ただの犯罪幇助者が後に死刑判決を喰らい、剰えアビスに投獄される筈がないのだ。
尤も、とうの本人はそんな未来など知る由もないのだが。
「あ、いちおう言っとくけど」
《なに?ドッペルちゃん》
「つぎ俺がうっかり敵になっても恨まんでよ」
《分かってるって。“来るもの拒まず”なんでしょ、複雑だけどね》
軽口を叩き合いながらも、ルメスと沙姫はあくまでビジネスパートナー。
お互いの主義には深入りせず、干渉もし合わない。
ましてや本名も知らない。ヘルメスとドッペルゲンガー、二人は異名で呼び合う。
そうした線引きを守ったおかげで、彼女達は今日まで適度な付き合いを続けられている。
それはアウトロー達にとっての処世術であり、最低限の礼儀であり、不要な揉め事を避けるための手段だった。
◆
――広大な一室。殺風景なフロア。
伽藍堂な空間の中央には、ガラスケースの台座が忽然と佇む。
怪盗が狙う、目当ての“宝物”である。
その台座を取り囲む形で、無数の赤外線センサーが張り巡らされる。
まるで蜘蛛が作る巣のように、網目を形成していた。
触れれば即座に感知。侵入者の存在を通報する、鉄壁の防御。
そこへ足を踏み入れた怪盗は、あくまで不敵に笑う。
軽やかに、ステップを刻み。臆することなく突き進む。
「――――無駄だよ」
囁くように呟き、怪盗が右手を振るい。
蜘蛛の巣を払うような動作と共に、パチンと指を鳴らす。
その瞬間、周囲を覆い尽くすセンサーが掻き消えた。
メカーニカとドッペルゲンガー謹製のジャミング装置、ハッキング機器。
いずれも良好。いずれも完璧に機能。
怪盗はセキュリティを掻い潜り、優雅に前進を続ける。
そのままルメスは、ガラスケースに覆われた台座の前へと立つ。
ケースの中に収められてるのは、眩く光る金剛石(ダイヤモンド)。
この施設の所有者である事業家は、数々の土地を強引に買い叩いていた。
自らの“私兵”による威圧と脅迫を繰り返し、利権を貪っていたのだ。
ケースに収められた金剛石もまた、ある地域の鉱脈の所有権を強引に奪い取って採掘した“宝物”である。
その価値と希少性故に、都市部での“展示会”の為にこのビルへと運び出されていた。
ルメスがガラスケースへと触れる――超力は機能しない。
防弾・耐衝撃仕様に加えて、対超力防護コーティングも高水準のものが使用されている。
公権力が主に用いるシステムAの廉価版に過ぎない技術とはいえ、この超力社会においては侮れない代物である。
それを眺めた後、ルメスは左手の改造型デジタルウォッチを操作。
投影型のキーボードを二の腕に展開し、右手ですぐさまコードを入力。
――ハッキング、実行。防護コーティング解除、生体認証システムを改竄。
十秒足らずの行動で、すぐに事が片付く。
「よし」
直後、ガラスケースのロックが解除された。
厳重なセキュリティが施された宝石が、剥き出しになる。
満足げに微笑み、ルメスは金剛石を手に取った。
その輝きを少しばかり眺めた後。
一旦脱いで左手に取ったシルクハットの中へと、ひょいと放り込む。
あらゆる衝撃から物品を守る“秘密の隠し場所”が、帽子の裏側には仕込まれている。
まるで手品である。一体いかなる仕組みなのか、それは怪盗のみぞ知る。
さて、と――ルメスは一仕事を終えて。
飄々とその場から去ろうとした矢先だった。
《――――え、ウソ。マジか》
無線越しに、沙姫のぼやきが耳に入った。
何かぼそぼそと独り言を繰り返し、一人で思案に耽っている。
《あ〜〜〜…………なるほど。そういうこと》
「勝手に納得しないでほしいんだけど。
で、バッドニュースってことでいいのよね?」
そうして一人で何かに気付き、一人で納得した沙姫に釘を刺すルメス。
――十中八九、良い報せではないことは明らかだろう。
ルメスは半ば諦め、受け入れるかのように思う。
《ごめん。その施設、対ジャミング装置あったっぽい》
「オーケー。とびきりバッドね」
そう、悪い予感というものはいつだって当たるのだ。
ジャミング装置による干渉を“感知”する仕掛けが施設には存在していたらしい。
ルメスはやれやれ、と言わんばかりに苦笑して肩を落とす。
尤も、こうしたトラブルなど怪盗稼業では日常茶飯事である。
ルメスはしゃがみ込み、床へと手を触れる――“潜り込む”ことが出来ない。
ハッキングで解除したはずの“対超力防護コーティング”も復活している。
少なくともこの部屋から“潜行の超力”で抜け出すことは出来ないだろう。
サイレンは今もなお鳴り響いている。
部屋の外から、慌ただしい足音が近づいている。
これから訪れる荒事は避けられないだろう。
「――つまり、ここから先は」
しかし、ルメスの口元から笑みは消えない。
彼女の視線は、出入口へと向けられる。
「私の“腕の見せ所”ってわけ」
警報が、繰り返される。
廊下の足音は、激しさを増す。
怪盗は、不敵に立ち続ける。
因みに、いささか信じがたい事実だが。
この歪な世の中には、時折いるのだ。
何処の馬の骨とも分からない盗人とか、あるいは敵対する連中とか。
そういう輩に、“価値ある宝”をまんまと盗まれるくらいなら。
いっそ宝もろとも粉砕してしまえ、なんて考える馬鹿げた悪党が。
この奇怪な世界には、時たま存在しているのだ。
――――そして、けたたましく。騒々しく。
――――狂った咆哮のように、銃声が轟いた。
保管室へと一斉に突入した“警備員”、その数七名。
彼らは屋内へと踏み込むと同時に、横並びの陣形を取った。
そのまま瞬時に短機関銃(サブマシンガン)を構えて、一斉掃射を行ったのだ。
彼らに下された命令はただ一つ――見敵必殺。
盗まれるくらいなら、徹底的に仕留めろ。
容赦はするな、絶対に殺せ。決して逃すな。
故に警備員達は、突入からコンマ数秒で銃弾を浴びせたのである。
「Dia duit (ごきげんよう)。紳士の皆様」
されど、怪盗は未だ健在。
銃弾の雨の中で、怪盗は優雅に微笑む。
死地の中で悠然と佇み、怪盗は不敵に笑う。
怪盗ヘルメスは、其処に在り続ける。
――防弾防刃仕様のマントをひらりと翻し、襲い来る弾丸を全て凌ぎ切ったのだ。
ルメスはそのまま瞬時に床を蹴り、先鋒を務める二人の警備員の眼前へと迫っていた。
ネイティブ世代の身体能力、そして怪盗として磨き上げた体術が成せる瞬発力である。
急接近された二人の警備員は、すぐさまサブマシンガンを構え直す。
しかし、それよりも素早く――ルメスの両手の指先が、前方左右に立つ警備員の短機関銃へと触れる。
「失礼するわ」
怪盗の指先が、流麗に踊った。
次の瞬間――短機関銃が暴発した。
ひしゃげるような音と共に、二人の警備員が仰反る。
金属の部品が弾けて、銃身が炸裂したのだ。
超力、“奥底に潜むもの(サブマリン)”。
自身の肉体をあらゆる物質に潜り込ませる異能。
ルメスは己の指先を短機関銃へと潜り込ませて、内側から内部機構を破壊したのだ。
怯んだ隙を逃さず、ルメスはそのまま勢いよく身体を回転。
低い体勢から放った足払いで、二人の警備員を瞬きの間に横転させた。
そのままルメスは回転の勢いに乗せるように、軽やかな動作で体勢を即座に立て直す。
他の警備員達は陣形を取り直しつつ、すぐさま装備を切り替えて対処しようとした。
ある者は瞬時にナイフを取り出し、ある者は近接戦闘向けの超力を行使せんとする。
しかし、その矢先に――ルメスが動く。
怪盗は瞬時にホルスターへと手を掛け、多機能拳銃を抜いた。
そして刹那の合間、近距離から早撃ちの連射を繰り出した。
立て続けに射出された“非殺傷用の電流弾”が、怪盗を囲む三人の警備員に命中する。
瞬間的な高圧電流によって身体が麻痺し、その場で崩れ落ちるように無力化されていく。
殺人は行わない。それが彼女のモットー。
怪盗としての品位を損ねる行為だからだ。
未だ立ち続ける二人――片割れの警備員が、ナイフを握って怪盗へと迫る。
超力“周波操作”。ナイフの刃が高周波を纏い、あらゆる物質を断ち切る必殺武器と化す。
ルメスは迫る刃を、咄嗟に後方へとステップして回避しつつ。
そのままマントを翻し、内側から“球体”を投擲。
もう片方の警備員もまた、超力を行使していた。
両手から生成した超硬度の鉄網を射出し、ルメスの身動きを止めようとしたのだ。
しかし、それよりも先に“球体”が炸裂――眩い閃光が迸る。
最低限の威力に留まった、携行用の小規模閃光弾である。
咄嗟に怯む警備員二人。しかし、すぐにその意識を集中させる。
開闢後の人類を足止めできるのは、ほんの僅かな時間のみ。
「それでは」
されど、超人戦闘においては、その数秒が命取りとなる。
囁くような声が、警備員達の耳に割り込む――。
「これにて、おしまい」
二人の意識が、回転した。
地に付いていたはずの両足が、宙に浮いていた。
警備員はそのまま成す術もなく、床へと叩きつけられた。
怪盗の多機能拳銃から、鞭のようなワイヤーが射出され。
そのまま薙ぐように銃身を振るい、二人の脚を瞬時に絡め取ったのだ。
◆
逃がすな、追え、追え――――。
叫ぶような怒声が幾度も繰り返される。
警報音は、けたたましく響き続ける。
絶対に逃がすな、行け、行け――――。
施設を守る番人達が幾度も吠える。
警報音が、騒々しく轟き続ける。
床を蹴る音、床を駆け抜ける音。
幾重にも交わり、廊下に木霊し続ける。
怒声、銃声。激しく交錯を続ける。
しかし、それらが実を結ぶことはない。
怪盗は、疾走を続けていた。
無機質な通路を走り抜け、数多の追跡を掻い潜っていた。
迫る警備員を、次々に凌いでいく。
ある時は俊敏に振り切り、ある時は電流弾で制圧し。
ある時は体術で一蹴し、そして駆け続けていく。
番人達は、怪盗を捕らえられない。
風のように吹き抜ける怪盗に、追い付くことが出来ない。
蝶のように、怪盗は優雅に舞う。
燕のように、怪盗は俊敏に翔る。
彼女を制することは、誰にも叶わない。
「奴を逃がすな――――!!」
警備員が、叫ぶ。
「奴を追え――――!!」
警備員が、吠える。
「奴を、止めろ――――!!」
警備員が、喚く。
「奴を――――ッ!!」
そして、袋小路へと。
警備員達は、遂に辿り着く。
――――そこは、展望室だった。
ガラス張りの壁面から、都市全体を一望できる空間。
高階層からの情景。街の各所に、夜の灯火が微かに浮かび続けている。
夜の街を背負い、怪盗は立ち続けていた。
マントを翻し、宵闇の街を見下ろしてから。
後方で短機関銃を構える警備員達を、ふっと一瞥した。
怪盗は、微笑み続ける。
優美な気品を崩さず、警備員達を流し見る。
向けられる銃口を意に介さず、余裕と風格を滲ませていた。
「お前は、一体……ッ!!」
警備員の一人が、声を漏らす。
追跡を掻い潜り、追撃を掻い潜り。
窮地を前にしても笑みを崩さぬ、怪盗へと向けて。
その銃を構えながら、睨みつけた。
「私は、怪盗ヘルメス――――」
怪盗は、笑みと共に答えた。
その言葉と共に、彼女は床を蹴る。
直後に、銃声が轟く。銃声が鳴り響く。
怪盗の顔には、恐怖も動揺も存在しなかった。
「――――世界の“絶望”、盗ませていただきます」
そして、怪盗は飛んだ。
ガラス張りの壁へと目掛けて、駆けた。
弾丸が届くよりも先に、壁面へと触れて。
“潜行”の超力によって、ガラスを透過して突破する。
怪盗が、上空へと翔ぶ。
夜の街、その遥か彼方を舞う。
恐れることも、臆することもなく。
その身を、虚空へと委ねる。
靡くマントが、翼のように広がる。
空中に投げ出された怪盗が、自らの体勢を制御する。
そのまま風に乗り、彼女の姿は――。
宵闇の果てへと融けていく“鳥”となった。
銃を下ろして、警備員達は呆然と佇んでいた。
静寂を切り裂く、嵐のような真夜中。
風のように現れた幻想が、現実を煙に巻いて。
まるで手品の如く、“観客”を翻弄して。
そして彼女は、一時の夢のように飛び去っていった。
彼らはただ、夜の闇を見つめることしか出来なかった。
静寂に包まれた街。仄かな輝きの灯る都市。
無機質な世界を包み込む、紺色の空――――。
そんな情景の中へと飛び去った、鮮やかな鳥(ヘルメス)。
幾ら空を見つめても、その姿はもはや何処にも無い。
怪盗ヘルメスは、一夜の幻想として消えていった。
◆
最終更新:2025年12月24日 07:15