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 図書室。
 まだ幼い頃のエネリットとエミルは、星座の図鑑を広げ見ていた。
 使い古してボロボロになった小さなその本は、エミルの父親が買ってくれたらしかった。


「星ってね、空気が澄んだ時にはすごく綺麗に見えるんだ」

「パパとママとね、星を見に日本に行ったことがあるんだ。
 そしたらすごくきれいでさ。天の川も、流れ星も見たんだよ」

「ねぇねぇエネリット」

「星って、等級っていうのがあるんだよ。
 一等星が一番明るくて、数が大きいほど見つけるのが大変なの。
 六等星を見つけられる人は、すごい目がいいんだろうね」

「出所したら、一緒に星を見に行こうね。エネリット」

「あっ……でも、その時にはどっちもおじいちゃんかぁ」




 はにかむエミルの話を、エネリットは穏やかに聞いていた。
「エミルは博識ですね。星空博士だ」
「えへへ」

 物心つく前に監獄に入れられたエネリットは、星空の知識はあっても、実際にどういうものかはわからない。
 最近アビスに入れられ、友達となったエミルに、彼の好きな星空の事を色々教わっていた。

「エネリットは優しいから、僕の話をたくさん聞いてくれて嬉しいなぁ。ありがとうね」


 彼がまだ幼い当時、罪を犯したネイティブの子供たちがアビスに少しずつ入り始めていた。
 荒んだ環境で生きてきた彼らは血気盛んで、頻繁に暴力を振るおうとする者も多かった。
 その中で、平和な村で愛されて育ち、感性が優しいエミルはエネリットも接しやすかった。

 最初こそ、エミルは王族のエネリットに対し緊張していた。
 だがエミル自身の元々の人なつこさもあって、二人はいつのまにか打ち解けていた。
 エネリットより4つ上の彼は、お兄さんのような気分になって嬉しかったのもあっただろう。


「そういえばエネリット。今日の夕ご飯、カレーなんだって。一緒に食べよ」
「ふふ。エミルが好きなデザート、取っておきますね」
「ありがと」

 凶悪犯とは程遠いエミルが何故アビスに来たのか、エネリットは深く聞いていない。
 不幸な理由でここに来ざるを得なかった者は多くいる。
 それでも、アビスに来ればみな等しく罪を受ける囚人だ。
 今更気にする必要などない。

 エミルが図鑑を閉じるとき、取り出した栞が煌めく。
 華やかな柄が刻まれたものだった。
 エネリットが以前読んだ日本の歴史書、女性が着ていた着物の柄に近かった。
「これは?」
 エネリットは問う。
「これ?日本に行った時、ママが買ってくれたんだ」
「なるほど」
「えへへ。こればっかりはエネリットにもあげないよ」
 エミルはいたずらっぽくくすくすと笑った。

 そんな時、後ろから、音もなく二人に黒い影が差した。
「……?」
 影に気づき、咄嗟に振り向いたのはエネリットだった。
 そこにいたのは、彼が最近仲良くなった氷月蓮だった。
 氷月は二人の背後にいた。
 その目は、エミルの栞をまっすぐ見ていた。
「どうしました?蓮さん」
「……あぁ。驚かせて悪かったね」
 怪訝に思うエネリットに、氷月は申し訳なさそうに肩をすくめる。
 その姿はいつもの穏やかで親しみやすい彼だった。
「星の話か。確かにロマンを感じるね。
 私の故郷も、夜はよく綺麗な星が見えたものだ」
「蓮さんも星がお好きなんですか!?」
 嬉しげに食いつくエミルに、氷月は困ったように笑う。
「残念ながら、君ほど星に熱心ではなかったが……
 ……そうだ。このアビスにまつわる面白い噂を教えてあげよう」
「?」
 疑問に思う少年二人に、氷月は続ける。
「アビスの中庭には人工太陽があるだろう?
 どうやらそれは夜間も動いていて、美しい星空を映すらしい。
 囚人たちは夜は屋内に移動して、それを見る事は叶わないがーー
 もし本当にそうだったら、少し夢が生まれないかい?
 閉塞的な日々の中の数少ない彩りだ」
「すごい……」
 エネリットの隣のエミルが、氷月の話に目を輝かせていた。

「あ、でも……施錠されてるから外には出れないんだよね?」
「それも含めて夢の話、ということさ。まぁ……刑務官のカードキーをなんらかの形で手に入れられたらいけるだろうが、ね……」
 それから氷月はらしくなく、美しい顔でおどけて見せた。
「ま、子供はいい子で寝ていなさい」
「ちぇっ……」
 エミルがしょんぼりする。


 氷月の話を聞いていたエネリットは、今まで出会った囚人たちから得た情報を思い出していた。
 ーーそういえば、自分より前に入れられた囚人で、スリの達人マーカス=ジョンソンという男がいたはず。
 氷月とエミルが盛り上がる横で、エネリットは脳内で彼に接触する計画を組み上げていた。





 トイレで出会ったマーカス老人は痩せ型で、顔にひどく皺のよった黒人だった。
 禿げが進んだ白髪とぼさぼさの無精髭は、黒ドーナツに粉砂糖をまぶしたようでもあった。

 マーカスはエネリットと目を合わせた途端、三白眼をギョロリと向け威嚇してきた。

「なんだ、坊主」

「こっちに来るな。ハルトナの線香の匂いが移るだろ」

「何か言おうたって無駄だからな。俺はクソガキが大嫌いだからだ」

「さっさと帰れ」

 マーカスはそう言い捨てて、トイレの個室にずかずかと遠ざかり、大きな音を立てドアを強く閉めた。




 共用広間で、エネリットはぐったりしていた。
 囚人や看守の中で彼をよく思わない人間はいた。
 だが、自分が口を開かない内に人に拒絶されるのは初めての経験だった。

 ふと、近くを歩いていた氷月がエネリットに気づく。
「お疲れのようだね」
 いつもと違うただならぬ様子を感じたのか、エネリットの隣に座ってそっと労る。
「……オトナって、難しいですね」
「まぁ。自分のせいじゃない難しさも多くある。今は休んで、ゆっくり気持ちを切り替えるんだ」
 氷月はエネリットを慰め、売店で買ったペットボトルを差し出す。
「飴もいるかい?」
「……お願いします」

 そこにパンを大量に買い込んだイリア婆さんが通りかかり、エネリットと氷月を見つける。
「ほいほいエネリットっっ!!」
 ぴょこぴょこと動き近くへやってくる。
「……イリアお婆さん?ごめんなさい、今はちょっと……」
「しょんぼりしてどうしたんだい!あんたらしくないよっ!」
「あぁ、それは……ちょっとマーカスさんと、色々あって」
「……マーカスだって?」
 イリア婆さんがその名前を聞いた途端、一瞬だけ普段の姦しさがなりを潜める。
「……?イリアお婆さん?」
エネリットが怪訝に思った瞬間、彼女の表情はすぐにいつもの活気を取り戻す。
「あんたぁねぇ、子供がオトナの真似なんてできないんだから!!アタシに任せときなさいっ」
「え?いいですよ、そんな……」
「マーカスは気難しいやつさ。コドモがあんまり好きじゃないんだ。アタシが話を付けとくから!あんたは遊んでなさい!」
「でも……」
「大丈夫っ!大人の魅力で悩殺してやるよ」
「……はぁ」
 しわしわの顔でウィンクするイリア婆さんを、エネリットは疑り深い目で見ていた。
 隣の氷月が、ぽん、とエネリットの肩に手を置く。
「まぁ、イリアご婦人がここまで言うんだ。任せようじゃないか」
「……そう、ですね」
 エネリットはあまり期待していなかった。





 その日の奉仕作業は少し楽しかった。
 新しく入ってきた高性能ミシンで、勉強に見せかけ色々遊んだのだ。

 エネリットは、アビス内の囚人向けの売店でクッキーを購入した所だった。
 頭を使ったので、甘いものを口に入れたかった。

 売店を離れた所だった。
 どこからか、プ、プ、とハーモニカの音が聞こえた。
 特徴のあるその響きは、イリア婆さんがよく演奏するモノだった。

「……イリアお婆さん?」

 エネリットは好奇心に駆られ、音の方向へ行ってみた。

 廊下の奥、奥へと進む。
 アビス内にたむろする悪どい囚人たちも、この周辺には殆どいない。
 この先は、囚人墓所室。
 獄内で亡くなった囚人たちを偲ぶ部屋。
 生者たちは気味悪がってあまり来ない場所だった。
 ハーモニカの音は、そこから聴こえている。
「……」
 墓所室にたどり着いたエネリットは、入り口から部屋の中をそっと覗いた。

 石造りの広い空間は、圧を伴う冷たい空気に満ちていた。
 その奥で、イリア婆さんは座ってハーモニカを吹いている。
 彼女一人ではなかった。
 その膝に、マーカスの老いた身体が横たわっていた。

 イリア婆さんは普段の騒がしい様子もなく、静かに、ただ淡々とハーモニカを吹く。
 拙いが、その旋律にいつもの明るさはない。
 懐かしさと、どこか悲しさを感じる。
 彼女の膝を枕にしたマーカスは、ただ何も言わずに聴いている。

 二人の側には、死者たちを悼むための簡易的な祭壇がある。
 そこには、どちらかが供えたのか白い花が置かれていた。

 イリア婆さんは目を伏せ、淡々と演奏する。
 やがて、曲が終わる。
 老人マーカスの目から、一筋の涙が溢れた。

「………」
 エネリットは、ただ見ることしかできなかった。

 ふいに、演奏を終えたイリア婆さんがエネリットに静かに顔を向ける。
 そこにいつもの明るさはなく、静謐さを湛えていた。
 エネリットはぴくりと身を震わせ、音を立てぬようにその場を立ち去った。

 いかがわしいものを見たわけではない。
 だが、見てはいけない物を見てしまったような、そんな気持ちだった。





 翌日、エネリットは中庭のベンチに座っていた。
 他のことが手につかず、奉仕作業も失敗続きだった。
 昨日見たあの二人の様子が、頭から離れなかったのだ。

「おい、坊主」

 ふいに、自分が呼ばれと気づき顔を上げる。
 相手の顔を見て内心驚いた。
 一昨日自分を拒絶した、マーカス老人だった。

「……どうしました?」
「その、なんだ。……渡したいものがある」
 ふてぶてしい態度はそのままだったは、相手は少しばつの悪そうな顔をしていた。

 おずおずと、遠慮がちに差し出されたものを見る。
 それは二枚のカードキーだった。
「お前らの担当の刑務官から拝借してきた。その、これで……許してくれないか」
「……マーカスさん?」
「坊主。……エネリット。俺はお前がやっぱり苦手だ。だが、この前は……悪かった」
 エネリットは少しの間呆気に取られたが、昨日までの事を思い出した。
「大丈夫です。マーカスさん、ありがとうございます」
「今日限りだ。使ったら、早めに返してくれ。ーーそれと」
 マーカスは言いづらそうに、しどろもどろに言う。
「……イリアに、よろしく言っておいてくれ」





 エミルのシャワー時間は昼頃で、他の囚人たちとズレていた。
 エネリットはその時間、浴室付近を通らないようにしていた。

 以前、エネリットはシャワーから上がったエミルの姿を見たことがある。
 刑務官に補助してもらい、身体を拭くエミル。
 その背中には、無数の新しい痣があった。

 その時のエミルはエネリットに気づかなかった。
 だがそれ以来、エネリットは入浴時間はその姿を見ないようにした。






 消灯時間も過ぎた頃、エネリットはカードキーを使って房を抜け出した。
 薄暗い廊下を音を立てず歩き、エミルのいる房を目指す。

 進む最中、通り過ぎた房の囚人たちは、各々の有り様だった。
 素直に眠る者、鬱陶しそうにエネリットを見る者、暗がりで何かをしている者。
 エネリットは、また新しく自分の知らない世界を見た気がした。


 エミルの房にたどり着くと、彼はベッドで膝を抱きうずくまっていた。
 彼はそのまま黙り込んでおり、エネリットが小さく声をかけてようやく気づいた。
「……エネリット!?」
 慌てて眼鏡を掛け直すエミルの目は、ひどい隈ができていた。

 エネリットは微笑み、カードキーを相手に見せる。
「エミル。行きましょう」
「でも、これがバレたら……」
「そこは、僕がなんとかします」
 突然のことにエミルはしどろもどろになっていたが、期待しているような笑みは消せなかった。
「エネリット。見つかっちゃったら、連帯責任だからね」
「言い出したのは僕だから、大丈夫です。エミルの事は守るから」
「そうは言ってもなぁ……あっ、ちょっと待って!」
「?」
 エミルがベッドから降り、そそくさと机に向かう。
 机の上にあった小さな星空図鑑を手に取り、
「大丈夫。もういいよ!」
「ええ……エミル」 
 エネリットが房の施錠を解いた後、エミルはうきうきを隠せずついてきた。

 二人きり、静かな屋内を歩いた。
 エミルは緊張しながら、エネリットの後ろについていった。
 左腕で、しっかりと星空図鑑を握っていた。
 図鑑に挟まれた栞がきらりと光る。
 エネリットは、エミルの右手を離さないようにした。

 中庭のドアにたどり着く。
 カードキーで施錠すると、カチ、と音がした。
 少年二人はドアを超える。
 いつも慣れ親しんだ、広い空間に出た。





 中庭一面が、ほのかに輝いていた。

 人工太陽は月の代わりをし、限りのあるはずの天井には無数の星屑が輝いていた。
 星空はただ投影された平面的なものでなく、立体を伴い、本当にそこに輝いているようだった。

「きれい……」

 エミルが感嘆の声を漏らす。


「エネリット!すごいよ!図鑑で見たそのままだ!今は冬だから丁度それに合った星がある!見て、大三角!!」
 エミルは静かにするのも忘れ、喜びで辺りを駆け回った。
 冬の大三角。第六角。
 エミルは星空図鑑を手に、さまざまな星をエネリットに指した。

 エネリットは天を仰ぐ。
 偽物かもしれない。
 だがそれはあまりにも精巧で、初めて見たもので、少年にとっては新鮮な体験だった。

 もし星を掴めたら。
 手を上に、ゆっくり伸ばした。
 エネリットの褐色の手を、立体映像の星々が青白く照らした。
「きれいでしょ」
 いつのまにか隣にいたエミルがはにかむ。
「僕も、前よくこうしてたんだ」

「……ぐすっ」
 エミルが啜り泣き始める。
「……っっ、えぅっ……」
「エミル?」
「僕、死ぬまでアビスにいるのかな……外に出たい、やだよ……」
 うなだれるエミルに、エネリットはそっと肩を貸す。
「ぐすっ、パパ……ママ……ごめんなさい……」
 エネリットは自分に寄りかかるエミルが、そのまま泣くのに任せた。
 星々の下、しばらくの間二人はそうしていた。


「おいこらっ!!消灯時間だぞ!!」
 ふいに大人の男の声が聞こえてきて、二人は驚いてそちらを見る。
「まったく、変な時間に開錠されたと思ったら……チビ二人か。ほら、いたずら終わり!帰るぞ!」
 そこにいたのはアンドリュー=オルブライト刑務官だった。
 まだ若いが、アビスに入ってからそれなりに経験を積んでいる。
「……申し訳ありません、アンドリューさん」
 エネリットはエミルをかばうように、アンドリューの前に立った。
「ここの人工太陽が夜空も再現すると聞いて、いてもたっても居られなくなったんです。
 エミルは止めてくれましたが、僕が心配でしょうがなくついてきてくれた」
「おい、いくら聡い子でも大人を舐めてちゃーー」
「僕も見たいってエネリットに言ったんですっ!!」
「っっ」
 エネリットとアンドリューは、一斉にエミルに振り向いた。
「ぼ……僕だって悪いです。僕、またきれいな星を見たかったから……!
 僕のわがままに付き合ってくれたのはエネリットの方です。
 だから、エネリットを見逃してあげてください。お願いします!」
 しどろもどろながらエミルは話す。
 アンドリューは困惑していたが、首の後ろを掻き、
「……まったく、お前らなぁ。ーーちょっとだけだぞ」
「ありがとうございます……!」
 許され喜ぶエミルに、エネリットは内心安堵を覚えた。




 少年二人は中庭のベンチに座り、しばらく星を見上げていた。

 そこに、一旦退出したアンドリューが戻ってくる。
「ーーほら、冷えるから。掛けとけ」
 彼は暖かいココアの乗ったお盆と、二人分の小さなブランケットを持ってきていた。

「えへへ。ありがとうございます」
「……アンドリューさん。ずいぶん、お優しいんですね」
 持ってきた物を受け取る少年たちに、アンドリューは満更でもない顔をする。
「……まぁ、な。俺自身、これを誰かに見て欲しかったのかもしれない」
「……?」
「この人工天体を作ったの、俺の親父なんだよ」

 アンドリューは自分の分のココアを一口飲んだ。

「あの人工天体はなーー日中太陽の代わりになるのはそうだが、朝と夜、春夏秋冬は勿論、
 世界中の任意の地点から見た天体の配置を本物のような立体映像で再現できる。
 アビスからのオーダーは、ただ奉仕活動で栽培する野菜の生育を滞りなくできるように、だけだったがーー
 あのじじいは空に関しては突き詰めた変態野郎でな。
 そのこだわりで、誰も必要としない部分まで精緻に作り込んだってわけさ」
「そうなんですね」
 アンドリューが鼻を鳴らす。
「どうせ見ちまったんなら目に焼き付けとけ。家族も、友人も何もかも投げ打って作った親父の遺作だ」
 少年二人は刑務官の話を聞いていた。
 特にエミルは、丸い目を更に大きくしてアンドリューをまじまじと見ていた。
「アンドリューさんは……お父さんがお嫌いだったんですか?」
「ん?どうかなぁ……」
 アンドリューは星を見上げながら、言葉を考える。
「ひっでぇ親父だったが……まぁ、今考えると、憧れてはいたのかもな」





 中庭を出て、アンドリューに先導され、なるべく音を立てないようにアビスの暗い廊下を歩く。
「楽しかったね、エネリット」
「ふふ。そうですね」
 だが、夜の冒険をやってのけた少年二人の興奮は、いまだに冷めやらなかった。
「おい、静かにしろ。俺が怒られるだろ」
 アンドリューは歩きながら注意するが、強くは言えない。

 廊下の分岐点に突き当たる。
 二人の帰る方向は別々だった。
「じゃ、俺は先にエミルを帰らせる。エネリットはここで待っていてくれ。
 ……カードキーの件、他言はしないでやるからな。感謝しろよ」
「お心遣い感謝します、アンドリューさん」
 エネリットの礼を受けたアンドリューは、顰めっ面のまま少し照れた。


「エネリット。僕に星を見せてくれてありがとう」

 去り際、エミルがエネリットに向け振り向く。

「僕たち、ずっと友達でいようね」


 とろけるような笑顔でそう言ったエミルに、エネリットは了承の笑みを返した。
「ーーええ。エミル」





 エネリットが少しの間待っていると、アンドリューが戻ってきた。
「エミルは無事帰したよ。ーーエネリット」
「?どうしましたか?」
「まぁ、あの子のことでーーちょっとおまえに話しておきたい事がある」
 アンドリューは少し間を置き、誰もいないはずの廊下を一旦見渡してから、口を開いた。

「ーー『死へ至る煌めき(エリュシオン・デブリ)』。
 アビスでエミル=ハモンドの超力を検査した医師が、あの子のネオスに付けた名だ」
 アンドリューは一息つく。

「エミルはーーあの子は、ネオスの発現が少し遅れたらしい。
 7歳になってようやく得た超力は、空から小さな石ころを落とす程度だった」
「……」
 エネリットは、彼の話をじっと聞く。

「10歳の時、あの子は友達に超力が発現しない事をからかわれーー
 気づいたら友達も、家族も、街一体が焦土と化していた。
 その本当のネオスは、空から流星を落とす能力だった。
 それは幼いエミルにはコントロールができないモノだったんだ」
「……アビスに来た理由は、そう言う事だったんですね」
「エミルは、小さい頃から星空に憧れ『星を掴めるようになりたい』と強く願っていたらしい。
 それがネオスによって本当に叶ってしまった。ーーあの子は、生まれる時代を間違えたんだ」
「………」
「エネリット。……頼みがある」

アンドリューは一旦エミルの房のある方向を見、またエネリットに視線を戻す。

「まだ子供のおまえにこんな事を頼むのは酷かもしれない。
 だがどうかエミルを、できる限りでいいから気にかけてやって欲しい。
 あの子はアビスの外だろうと中だろうと、居場所のない子なんだ」

 エネリットもまたエミルが帰った方向を見、それからアンドリューに視線を戻した。

「……ええ。わかっています」






『楽しいなぁ。楽しいなぁ、エミル』

ーーたすけて。やめて。いたい。

『おまえは俺様の、最高の友達だよ。仲良くやろうや』

ーーやめて。やめて。ごめんなさい。

『なぁエミル、そういえばおまえ、ハルトナの王子様とよく一緒だよな』

ーーどうして、エネリットのことを?

『あの子を俺様にぶたせてくれよ。そうすればもうこんな事はしない。悪くはない話だろう?』

ーーいやだ。

『あぁ?』

ーーエネリットは、ダメだ。

『おまえーー自分の立場、わかってるのか?』


ーーエネリットは、おまえがどうこうできる子じゃない。

ーー僕のたったひとりの弟で、僕はエネリットのお兄ちゃんなんだ。

ーーお前があの子に何かするなら、僕はおまえに噛みついてやる。


『そうか。そうかそうか』

『じゃ、おまえは。今日からただのサンドバッグだ』






 アビスから刑務官が出入りする通用口の近く。
 エミルの葬儀が終わったとマーガレットから伝えられ、エネリットは、彼の遺品である栞を受け取った。
「これをおまえに渡してほしい、と生前言っていたそうだ」
「渡してくれて、感謝します」
「治療中にエネリットの話をすると、大層喜んでいた」
「……そうですか」
 エネリットは栞を見下ろす。
 エミルという存在が、随分小さく、軽くなったように思えた。
 マーガレットはエネリットの肩に優しく触れた。
「辛い時は、いつでも頼っていいからな」
「……大丈夫です」
 エネリットは顔を上げ、微笑みを作った。



 マーガレットと別れた後、エネリットは栞を手に廊下を歩いていた。
 自らの房に帰るためだった。

 そんな時、死角からやってきた人物とふいにぶつかった。

「ッッ」
 強めに身体が当たり、エネリットはよろめく。
 相手を見上げると、氷月だった。

「あぁ、すまない。大丈夫かい?」
 彼は申し訳なさそうに礼をした。
「?……こちらこそ、申し訳ありません」
 らしくない氷月の行動に疑問符が付くが、気のせいと思いエネリットは謝る。
 そうしてすれ違い、また歩こうとした時ーーエネリットは、その手から栞がなくなっていることに気づいた。
 エネリットは氷月の背中に呼びかける。
「蓮さん、栞ーー」
 声をかけられた氷月が振り向く。

 表情は微笑みのままだった。
 だがその眼差しの奥は、少年が今まで見たことない憎悪の色を讃えていた。

「ーー、」
 エネリットは黙り、伸ばしかけていた手を戻す。

 氷月は何も言わず視線を戻し、ただ歩いて行った。
 美しい長髪を靡かせ、向こうへ遠ざかっていく。

 エネリットは、その場に立ち尽くしていた。


 なぜ氷月があんな目を向けたのか、それはわからない。
 だが、彼はずっと前からこの瞬間を狙っていた気がした。
 氷月自身の触れてはいけない部分に、意図しないでも触れてしまっていたのだろうか。

 エミルの栞。
 色彩豊かな日本の紋様が描かれていた。

 エネリットは知らなかった。
 かつて、憐れみと共に氷月を抱きしめた彼の母親がいた。
 その時彼女の着ていた着物の柄は、エミルの栞の紋様とほぼ同じだった。

 エネリットが氷月の真意を知ることは、永遠にない。






 16歳になったエネリットは、今年も囚人墓所室に行った。

 冷たく、重い空気で満ちた空間に入る。
 かつてこの部屋の中にいたイリア婆さんとマーカスを思い出す。
 ハーモニカの音は、もう聞こえない。

 作業の報酬金で買った白い花束。
 誰も来ない祭壇に、そっと花を手向ける。
 世界中から犯罪者が集められるアビスは様々な宗派の人間がいる。
 悪質なカルトに利用されるのを防ぐため、祭壇はどこの宗教か特定しない簡易的なものとなっていた。

「……、……」
 エネリットは目を伏せ、黙祷する。
 エミル。イリア婆さん。ティガード。マーカス。
 外に出ることも叶わず、アビスの中で亡くなった人々。

 マーカス老人はイリア婆さんが亡くなった数日後、刑務官相手に暴れ死傷者を数名出した。
 その結果死刑の罪状が足され、二ヶ月後に執行された。
 彼が突然暴れた理由は、ある刑務官にイリア婆さんを侮辱されたからだと、誰かが言っていた。

「……、……」
 エネリットは黙祷を終え、顔を上げる。
 獄死した囚人たちの遺体がどこに行くのか。それはわからない。
 だが、遺体が何処にあろうとも、祈ることはしたかった。

 ふと入り口から、石畳をこつん、と踏む音がした。
 エネリットは、そちらにゆっくりと目を向ける。

 そこには囚人服でも刑務官の制服でもない、私服らしきものを着たアンドリューがいた。
「アンドリューさん?」
「……なんだよ、お前も来てたのか」
 アンドリューは気まずそうに頬をかく。その手には、青い花束があった。
「その格好……どうしたんですか?」
「アビスを退職するんだ」
 アンドリューは祭壇の前に歩み寄り、青い花束を供えた。

「理由を、聞いていいですか?」
「まぁ、昔なじみに誘われたのもあるが……
 娑婆で、エミルみたいに自分の超力に苦しむ子供を、
 アビスに来ちまう前に助けられないかって思ったんだ。
 とてつもなく高い理想なのはわかってるがーー」
「ーー夢だとしても、理想を持つことは大事です。僕はそう思います」
「……おまえ、そんな事言うやつだったか?」
「ふふ」
「……まぁいいや」
 アンドリューは頬を掻く。
「あの時お前ら二人に、親父の遺作を肯定してもらった。
 それまで俺は親父から目を背けてたけど、どこかであいつを認めたかったのかもしれない。
 この感情の名前がわかるまでだいぶ経っちまってーー
 気付けばエミルは、俺が手を出せないまま天国に行っちまった。
 ……あの子には、ひどい事をしたよ」
「……あなたとの約束が守れなくて、申し訳ありません」
「いいんだ。子供には重荷が過ぎる」

 アンドリューは顔を伏せ、黙祷する。
 エネリットは、しばらくその様を見ていた。

「じゃあ……な、エネリット」
 黙祷を終えたアンドリューは、ゆっくりとエネリットに向き直す。
「アンドリューさん。いい未来を、願っています」
「ああ。……エネリット、幸せになれよ」

 アンドリューが去り、囚人墓所室には暗澹たる空気が戻る。
 エネリットは一人、そこにいた。

「……エミル」
 エネリットは、懐から何かを取り出した。
 それは、かつてエミルが持っていた星空図鑑だった。

 手のひらサイズの、ボロボロに使い込まれた図鑑。
 だが、それはエミルにとって大切だった物で。
 エネリットはかつて一緒に中庭に行った時、『星を見せてくれたお礼に』ともらったのだ。

「ーーエミル。ありがとう」

 エネリットは顔を祭壇に上げ、かつての友に礼を言った。


 エネリットは生来の性分で、相手に深く感傷する事はない。
 だが、自分の在り方を肯定してくれる人々に対しては、それに見合った敬意は払いたかった。


 物自体は重要ではない。
 例え親しい人が亡くなっても、自分が生きて忘れなければ相手の想いを未来に繋げられる。
 彼らが遺した物は、その触媒となり得る。


 エネリットは踵を返し、部屋からゆっくりと歩き去る。

 エネリットが去り、囚人墓所室はもう誰もいない。
 ハーモニカの音もとうに消えた。
 だがその祭壇には、二つの花束が置かれていた。

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最終更新:2026年04月19日 07:51