声が、聞こえる。
『お前の願いはオレに届いた』
煩わしい声が、聞こえる。
『お前が受け入れるなら、オレはお前に手を貸してやろう』
だが、俺は、その声に―――
『お前が取り戻したいものは何だ?』
そんなもの、決まっている。
『その願いに祝福あれ、■■■■』
☆
炎の闘技場(コロッセオ)、因縁収束せし舞台。
凶殺の特殊部隊員は地獄に堕ちた、青き空のエージェントは役目を終えた。
そして創まりの少年は悪夢を思い出して気を失った。
「うおおおおおおっ!!!」
「ああああああああっ!!!」
ここには二人しかいない、拳で殴り合う二人しかいない。
八柳哉太と山折圭介。村を出た者と、村に縛られた者。
ヒーローとヴィラン。因果は逆転し、ねじ曲がった運命の果てに二人は対峙する。
己が信じる願いのため、己が捧げた願いのため。
「ガァッ!!!」
圭介の右ストレートが、哉太の顔に炸裂する。
本来ならば、武術を嗜んでいる哉太の方が有利のはずだ。
八柳流は剣術と中国拳法を組み合わせた流派だ。その過程で武術のあれこれは叩き込まれている。
だが、先程まで八柳哉太は瀕死だったのだ。傷こそ再生したものの、疲労まで無くなるわけがない。
そして、八柳哉太との喧嘩という勝負形式ならば、山折圭介に理がある。
何度か喧嘩して、ヒーローごっこで戦って、日野珠の一件でガチで殴り合って。
喧嘩だけなら、山折圭介は八柳哉太に勝ち越している。
ガキの頃の記憶が、憎悪と友情が入り混じった執念が、山折圭介に対するバフとなる。
「ガッ!?」
だが、哉太だって負けてはいない。
ストレートを受けた反動のまま圭介の腕を掴み、地面に投げ叩きつける。
そのまま組技へ移行、だが圭介も抵抗し膠着。埒が明かないと両者一旦距離を取る。
「おおおおおっ!」
体勢を先に立て直したのは八柳哉太、縮地を以って距離を詰めようとする。
しかし、疲労の溜まった身体では万全の速度は出せない、故に。
「そんな一直線なだけの動き!」
相手の動きに併せ、カウンター気味に拳を置く。
結果、移動した哉太の腹に結果として圭介の拳がめり込んでいる。
「ぐ……ごほっ!!」
空気が吐き出され、堪らず咳き込んだ。
拳を打つではなく置くことによるカウンター、理論上可能であるだけで机上の空論でしか無い戦法。
偶然か必然か、八柳哉太にそれを決めたのは山折圭介の執念の為せる技か。
最も、そんな事を山折圭介は思考すらしていない。ただがむしゃらだった。
そう、ただの喧嘩なのだ、ただの殴り合いなのだ。
そんな術は延長線上でしか無く、下らない矜持と、そんな信念と。
そんな漠然とした心の何かを持ち出してのぶつかり合いにしか過ぎない。
だから、負けられない。
負けるわけにはいかない。
山折圭介はもう戻れない。あの時、光を取り戻すと誓い、正義気取りの特殊部隊員を殺した時から退路は絶たれた。
だが、断ち切られたはずの友情が、目をそらしていた過去が今ここに収束している。
そして、あんな事を言われたら、黙ってなんていられない。
この喧嘩で勝つことで、全ての過去を断ち切る。断ち切らなければ、何も始めることは出来ない。
負けるわけにはいかないのは、八柳哉太だって同じこと。
冤罪からの地獄があった、それでも味方でいてくれた大切な姉弟子がいた。
冤罪を晴らしてくれた、生意気ながらも大切な少女が出来た。
クソみたいな世界だと思っていた人生の中で、それでも差してくれる光があった。
それは月の光と例えられるだろう。陽の光のような明るいものでなく、淋しい心に寄り添うようなそんな月光だ。
つくづく、自分には勿体ないぐらいに大切な誰かだ。そんな、大切な人たちがいるだけでも、それだけで友達を止める理由としてはこれ以上無いぐらい相応しいものだ。
下らないと笑うなら笑え、愚かだと蔑むなら好きにしろ。
闇に落ちたヒーローを光の下に連れ戻すのはその相棒(サイドキック)の役目だと。
道を間違えた友達を無理矢理連れ戻すのは、ヒーローの役目だと。
「ま、だ……まだだぁっ!!」
叫ぶ、そして再び立ち上がろうとする。
「そうだ、そうだよなぁ哉太!」
それを当然だと言わんばかりに、圭介は喜んでいた。
そうだ、お前はそんなやつだと、そういうやつだから友達だったんだと。
だからこそ、乗り越えなければならない最大の壁でもある。
「そうだ、お前はそんな事でくたばるようなやつじゃないよな!!!」
「ああ! 絶対に負けられない! 勝って、お前を止めてやるよ、圭ちゃん!!」
滾る思いは、両者の意志を更に奮い立たせる。
ここは過去と友情を薪代わりに燃え上がる燃焼回廊、友人二人が戦うためだけの焦熱領域である。
喧嘩(けっせん)はまだ終わらない、終わらせてなるものか。
戦うべくして引き寄せられた、集うべくして運命は集った。
しかして、これは宿命でもある。
「止められるものなら止めてみせろ、八柳哉太ァァッッッッ!」
起き上がりを狙うかのように既に圭介は駆けている。
ただし八柳哉太はそれでやられるようなタマではない。
「ぐはっ!!!」
圭介に炸裂する正拳突き。直で食らったのか遠くへと弾き飛ばされた。
膝を付きながらも、その顔は苦痛と共に笑みが浮かんでいた。
「はは、やるじゃねぇか……」
「ああ。でもお前だってまだまだだろ、圭ちゃん」
「そうさ、そうだ!!」
そして再び、殴り合う。
正しくそれは、喧嘩だった。殺し合いではなく、本当にただの喧嘩。
彼ら二人の、最後の喧嘩勝負だった。
☆
血の味が鉄臭くて不味いと誰かが言うけれど、私はそうとは思わない。
『あなた、最近変よ』
あの運命の日、味わってしまった甘美で濃厚な思い出は、私の脳髄を刺激した。
『私になにか隠してるみたいで。あなたが不倫しないような人だって言うのは分かるの』
柘榴色の雫は、私を誘惑し、私という生き物を染め尽くしてしまった。
『ねぇ、どうしてあなたは何も話してくれないの?』
でも、後悔はない。後ろめたさもない。ただ、嬉しかった。
愛だけでも、恋だけでも、満たされないものがあった。
『ねぇ、どうしてよ。どうして私を見てくれないの!?』
だから、私は思うのです。
「どうして自らの願望(よく)を、我慢しなければならないんですか?」
それを教えてくれたのは、皮肉にもこのウイルス騒ぎでした。
平穏という枷は簡単に砕かれました。それは私という欲望を開放しくれたのです。
☆
「―――だって、仕方がないじゃないですか」
「……っ?!」
それは、大凡人間が出して良い声ではなかった。
湿ったような笑いが幻聴の如く聞こえてくるような、そんな薄ら寒い声だった。
同時だった、アニカの背後にはすみが回り込んでその手を掴み拘束したのが。
うさぎと雪菜ははすみがアニカを拘束した時点で動いたのだが、その内雪菜だけを捕まえた月影が、ナイフを突きつけるかのように勃牙したその凶器を雪菜の首筋に突き立てる。
構えようとしたガラス片がカランと音を立てて地面に転がり落ちる。マスクを外し剥き出しになった月影の吸血鬼としての刃が邪悪に光り輝いていた。
「アニカちゃん! 雪菜さん!」
「おおっと、余計な真似をしないでくださいねうさぎさん。さもないと私かはすみさんが先に、ですよ?」
うさぎを拘束しなかったのは相性の問題に過ぎない。どんな異能を持っていようが、この様な膠着状態に持ち込めれば余地はある。
あの三人の中で、月影らにとって一番の脅威は退魔の血を持つ犬山うさぎ。
アニカの手の内ははすみから既に聞いている。雪菜の異能は二重であると自己申告したが、少なくとも自分が彼女に触れて何かしら悪影響が出る異能では無さそうと判断していた。
もし何かしらあるなら、ひなた死亡前の時点で何かしらの反応があるはずだから。
「……どうして、どうしてなんですか月影さん! どうしてお姉ちゃんを、どうして恵子ちゃんを殺して……」
「我慢できなかったんです」
うさぎの悲痛な問いに、淡々と。
月影の内に蠢いている狂気が言葉の形を取って発露する。
「今まで耐えてきたんですよ。私の根源を、欲求を、願望を。それでも我慢しきれないもの我慢しきれないものですので、パンデミック前から何人か吸いましたけれど」
月影夜帳の原点(オリジン)は血の味である。凡人なら忌避するべきその忌み味は彼にとっては濃厚なワインの一杯のようなものだ。
しかし、血を吸うと言う行為は常軌を逸している。その様な性質が現代社会に受け入れられるわけがない。それでも、どれだけ美食で代用しようとも、伴侶を作り恋をするという行為を以ってしても、その渇きは満たされなかった。
その恋は真実だった。だが、真実をも塗りつぶす狂気があった。
それが月影夜帳という人間の本質であり、決して覆すことの出来ない業そのものである。
その発露が、これだった。かの吸血殺人事件の、元凶だった。
「ですが。私は天使に、リンという少女に出会って、我慢が効かなくなったのでしょう。彼女を逃してしまった後にアニカさんやはすみさん達と出会って、つい欲張りになってしまいました。それに、血を吸う異能だなんて、まさに私に天啓がオリてきたようなものでしたよ」
本来ならば、この騒ぎの内では吸血という欲は抑えるつもりではあった。
その枷を壊してしまったのは一人の少女、純真無垢たる天使の如き"福音(リン)"だ。
その血を堪能したくなった、彼女だけは欲したかった。それが欲望を抑えられなくなったきっかけに過ぎず。
「……用意されたご馳走を前にして、我慢をする理由なんて無かったんですよ、うさぎさん」
「―――」
絶句だった。犬山うさぎは、狂気と正気が入り混じった、月影夜帳の輝きに満ちた瞳で語る持論に、何も言うことが出来なかった。
アニカと雪菜もまた、返す言葉すらなく沈黙していた。アニカとて探偵という職業柄様々な凶悪犯と出会ってきたが、ここまでのサイコパスと出会ったのは初めてだ。
人間を食事と、血の入れ物としか思わぬその思考は。人間ではなく、この村にて生まれてしまった怪異。
月影夜帳は既に、このパンデミックという狂気に当てられた。
ウイルスより異能を得て、真の意味で吸血鬼と成り果てた。
「そうなのよ~。我慢なんてしても苦しいだけ、うさぎも分かってくれるかしら。それに安心して、恵子ちゃんは苦しんで死んだわけじゃないわ。月影さんの中で永遠の幸せの中で生き続けるもの」
「そん、な……そんな、のって……!」
月影の狂気を肯定するかのような、はすみの補足の言葉が続いた。
死んでも、誰かの中で生き続けると本気で信じている。いや、そうさせられたのだ。
吸血鬼の狂気によって、犬山はすみの人格は塗りつぶされている。
その悍ましさとショックで、うさぎの瞳から一筋の涙が流れ落ち、動けなくなった。
「That’s bullshit! 何が、何があいつの中で生き続けるよ!?」
名探偵が、はすみに取り押さえながらも叫んだ。
そんな狂人の思考で納得できるわけがない。
「あんたがやってることはselfishnessに命を奪っているだけ、そんな理由(わけ)で命を奪う事を正当化しないで!」
「こんな地獄の中で本当に彼女たちが生き長らえられるとお思いで?」
「……っ」
名探偵の啖呵を、吸血鬼は一言で切り捨てる。
異能を得たとは言えか弱い少女たちが最後まで生き残れるか、仮に生き残れるものはいてもそれはただ運が良かっただけの話。
これはある種の救済だ、吸血鬼が掲げるのは一周回ってそれなのだ。
「どうせ苦しむのなら、私に食われて死んだほうがまだ救われます」
月影夜帳は、本気でそう思っているのだ。眷属とされたはすみもまた、同じく。
常人の考えることではない。己が業を抑えられなくなった人間だった残骸(もの)、その末路だった。
「今はまだ殺しません。ですが私の幸福(フルコース)として、その時が来たら苦しまずに楽園へ送って差し上げましょう」
ただし元の人格は保証できませんが、と付け加え、異形のごとく月影が笑う。
「月影さんもそう言ってるから、だからねうさぎ。――余計な真似をしないでくれる?」
「う、うう……」
人が変わったようにはすみは実の妹へと警告する。その声色に、本来のはすみの優しさは微塵も存在しない。正しく月影夜帳という吸血鬼の眷属。その優しさを都合のいい形へと捻じ曲げられた、その哀れな光景。犬山うさぎは泣いていた。動けないまま、涙をポロポロと流し、嗚咽を上げて無力な自分を悔いていた。
「うさぎ……っ」
はすみに拘束されたアニカも、何も出来ない状況だ。
テレキネシスで行動を起こした瞬間に月影が雪菜を噛むと言っているようなもの。
下手に小道具の類を出さないのはそれで打開されかねないのをはすみが警戒しているから。
月影とはすみは、吸血鬼とその眷属だ。事を起こした瞬間最低でも片方が新たな眷属にされるか、殺される。
犬山うさぎも、天宝寺アニカも、動くことが出来ない。
「……我慢する必要はない、ですか」
「ん?」
一人、膠着を破るかのように声を上げた。
哀野雪菜が、迫る人間としての生の終わりを前に微動だにせず。
「本当にそうだったんですか?」
「……何を藪から棒に」
このタイミングで喋りだすとは、時間稼ぎか?などと月影は訝しむ。
実際彼女の異能は月影もはすみも分かっていない。
だからこそ明確に月影がとっ捕まえているという形を取っている。
少なくともうさぎのように、自分たちに明確な対策を取れる異能とは現状では思えない。
元々、物静かな娘だとは思っていたが、この土壇場で言い出すのは虚を突かれた気分ではある。
「……あなたは、逃げただけじゃないんですか」
「―――は?」
そんな彼女の切り出した言葉に、月影は思わず開口した。
この娘は、一体何を根拠に、と。
「そういう形でしか他人と向き合うことが出来ない。他人を人ではなくそういうものとして見ることでしか理解できない。あなたは、そういう人なんですね」
他者とどう向き合うか。人間関係というしがらみにおいて重要なファクターの一つ。
月影夜帳は、表面上こそ他人と接することができても、その実理解者が出来なかった。
あの時を境に、理解者なんで出来るわけがないと諦めていたからだろうか。
「あなたにはその心に寄り添う理解者がいなかったのかもしれないですし、それは可哀想なことかもしれません」
小さな棘のように突き刺さるように、雪菜は月影へと言葉を投げる。
事実、過去の月影夜帳はその本質を、その吸血鬼が如き欲望を誰にも話すことはなかった。自分自身で抑え込んだ。
「そうやって本心を理解されないって諦めてるから、はすみさんのように無理やり従わせるんですね。鍍金で出来た平穏の中で、自分を理解しろと駄々をこねる子供みたいに。理解できないのなら自分の人生の糧になってしまえって」
苦しんで、苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで、そして間違えて。
それは、違えた運命の果てに友をその手で殺してしまった哀野雪菜だからこその言葉。
それは、演劇部という世界において端役ながらも叶和を、舞台にて歌い踊り、演じる者たちを見てきたからこそ培われた観察眼。
月影の本性を知る前にその本質を感じ取ったのも、犬山はすみへの気持ち悪さと首の噛み傷に気づいたのも、その経験からなる積み重ねの賜物だった。
「……あなたに、私の何が分かると」
「わからないです。でも、あなたは有り得たはずの私だと思ってしまったから」
月影夜帳を、自分のIFの未来だとそう雪菜は告げる。
己の醜さから目を背けて、それに言い訳ばかりして受け入れようとせず。挙げ句開き直って自分勝手な理由ばかり考えて、何も考えず自分の衝動のまま。
これは、誰も止めるものがいなかった自分だ。大切な人と仲直りできなかった自分の、有り得た末路だ。
ここまでは醜いものに成り果てなくとも、そんな傲慢を振りかざす殺戮者になっていたのかも知れない。
「……運が良かった、と言われるなら仕方ないことかもしれない。それでも私はそれを吐き出すことが出来たんです。全てが手遅れだったとしても」
二度と後悔なんてしたくはなかった、だから殺して、殺した先にある見えないものを目指したかった。
でもそれは、逃避だった。逃避でしか無かった。自分が決心だと思っていたそれは、ただの言い訳に過ぎなかった。
それを気づかせてくれたのは、自分を赦してくれたのは。その醜さに寄り添って、背中を押してくれた人たちが居る事を知っている。
だから、哀野雪菜は一歩前に踏み出せた。あの夢で、あの幻想の中で。
「かつてのあなたは、自分の本心を、誰かに話したことはありますか?」
「――」
「受け入れられなくても、話せばよかったんです」
全てを誤ったあの運命の日。何を言いたいのか、何をしたいのかなんて自分でもまるで理解できていなかった。それでも一歩踏み出さないと腐ってしまいそうだと、後悔したままだと思った。
結局、誤ったものは取り返しは付かなくて後悔したけれど、それでも報われたものがあった。砂粒ほどのか細い光でも、一歩進んだ意味はあったのだと。
「何処にも進めなかったあなたは一人です。どれだけ誰かを操ろうとも、あなたはずっと一人のまま。そんなあなたに、負けてなんてやらない。『私達の思いを穢させなんかさせない』」
自分にも、天原創にも。スヴィア先生にも。烏宿ひなたにも、犬山うさぎにも。会って間もない天宝寺アニカにも。
泥を被り、時にはどうしようもない後悔を背負って進んできたものが、それでも無くしてはならないと願うものがあった。どんな残酷な現実でも、それを受け入れ無かったことにせず、それでもなお泥に塗れながら貫きたい思いがあった。
「都合のいい世界だけしか受け入れられないあなたには、絶対に負けない」
「――」
月影には、哀野雪菜という人間がただの少女(りょうり)だと思っていた。
だが、なぜだろうか。それは二人だったようにも思えた。
何も知らない癖して、なのにその言葉を無視など出来なかった。
自分が何も進めなかった、だと。
どうしてそう言える、どうしてそう思える。
『どうして何も言ってくれないの? 私たち友達でしょ?』
どうして、当たり前のように己の瑕疵を他人に話せる?
「―――――苦い」
沈黙。鎮痛。そして苦痛。月影夜帳の中に思い浮かんだのはそれだ。
うら若き乙女のフルコースが目の前にあるというのに、その内の一人がすぐ近くにいるというのに。
「苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い苦い―――!」
口の中が苦い、不味い。豪勢な料理の中に下品なウジ虫が混じり、腹の中をかき混ぜられたように。
不快だ。不快だ不快だ不快だ不快だ不快だ不快だ不快だ不快だ不快だ不快だ―――!
壊れたラジオが音を鳴らすかの如く、不協和音が吸血鬼の口より零れ落ちる。
「……こんなに不快な気分、初めてです」
そう漏らした月影の瞳から、光は消えていた。
不気味な程に、静かで、赤い瞳があった。
血染めの月が如く、揺らいでいた。
「どうしてでしょうね。年端のいかない少女の戯言と、切り捨ててしまえばいいというのに」
「………」
「ああ何故でしょう何故でしょう。どうしてここまでイライラしてしまうのでしょう。何故、何故何故何故何故ナゼ????」
ブツブツと、自らに暗示を掛けるかの如く。月影夜帳という存在の鍍金が剥がれていた。
吸血嗜好という異常。受け入れる受け入れないに関わらず、月影夜帳はその本質を自分の奥底に押し込んだ。それが駄目だと分かっていたからこそ、当初こそは美食に逃避して、恋人も作って。
全て無駄だった。一重に誰にも話すこと無く。いいや、彼は最初から分かっていたのかもしれない。
彼が欲しかったのは自分にとっての理想だけだった。血を吸う事が条理として許される世界だった。
蓋をして、逃げ続けて、どうせ無駄だと勝手に思い込んで。話すという手段すら意味のないものだと逃げ続けて。
「ああそうだ、私は飢えているんだ。飢えていたんだ。だからこんなにイライラしているんだ」
だから、今まで殺してきた。
「理解できないもの」と恐怖し、彼と別れたかつての恋人も。
「訳の分からないもの」と畏怖し、離れることを決めた友人たちも。
自分を信頼してくれた、そんな少女たちも、全部。
自分という世界に収まりきらない塊(もの)を、己の糧として取り込むことで。
衝動、月影夜帳という人間に刻まれた原初の衝動。
取り繕うなんてハナから不可能な、人間から生まれた人でなしそのものだった。
「――ですので」
牙が、伸びる。勃牙する。今まさに雪菜の血を吸わんと。
こうなってしまうとうさぎは黙っていられない。多少戸惑ったが、アニカの強い眼差しを受けて覚悟を決めた。はすみは懐から取り出したスタンガンをアニカに放とうと、"はすみの思った通り"アニカがサイコキネシスを用いスタンガンは机の向こう側へ弾き飛ばされる。
月影が雪菜の吸血を選択したことで、結果うさぎへの『威圧』は解除されてしまったが、どうせ間に合わないから問題なし。あとはアニカが無理に飛び出す可能性を鑑みて、こういう時の為に"わざと防がれる為に"スタンガンを仕舞っておいた。
出来ればこのままスタンガンが通用すればよかったが、アニカの動きをこうして制限できただけでもよしとする。
そして予想通りと言うべきか、動けるようになったうさぎが駆けつけるよりも、月影が雪菜の血を吸う方が早い。アニカの援護があった場合は危なかったかも知れない。だがもう状況は変わらない。
「――雪菜さん!」
「セツナ……!」
二人が叫ぶ。うさぎが手を伸ばそうとするも届かない。
「うふふ、歓迎しますよ雪菜さん」
雪菜が自分と同じモノに変質する瞬間に、歓迎の言葉を送るはすみの妖艶な笑み。
「い た だ き ま す」
「――ッッッ!」
だからこれは避けられない。吸血鬼の牙が、雪菜の首筋に刺さる。
苦悶の表情を上げる雪菜の表情を肴に、月影は新たなる少女の味を、その濃厚で酸味が効くであろうそのスープを飲み干そうとして。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!?」
絶叫を上げたのは、月影夜帳の方だった。
「つ、月影さんっ!?」
「あがっ、あががっ!? ふぁ、ふぁが、ふぁたふぃのふぁがあああああああっ!?」
驚愕の表情を浮かべるはすみが見たのは、噛んだ箇所から月影の歯が腐り、ボロボロと崩れ落ちる光景。
勃牙した吸血鬼の証は、見るも無惨に黒い煙を上げて歪な形へと変貌した。
これではもう、血を吸うことなんて到底無理な程に。
「あ゛あ゛あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッッッ!!!!!」
「……まさか、こんなあっさり引っかかるだなんて」
口を抑え、壁に凭れ掛かる月影。多少は疲れを見せながらも、首筋を抑えながら月影を見る哀野雪菜の姿。
首筋から漏れ地面に落ちた血液が、全く別の液体へと変貌していたのをはすみは目撃する。
哀野雪菜の『本来の』異能、『傷跡』。己が体液を腐食性の酸へと変化させる。その体液自体は、当人の意志次第となるが、基本的に能力者本人へ悪影響は及ぼさない。
体液ならばなんでも良いのだが、専ら一番効果を及ぼすのは血液だ。
だから"挑発"した。だいそれた口上をペラペラと喋って、月影夜帳が自分の血を吸うという行動を取らせるように。
やったことは至ってシンプル。唯一の懸念はアニカを人質に取ったはすみの事。ただ、自分の異能は『何かしらの強化能力である』とはすみにはバレてしまっていたのが僥倖だった。
二重能力者であることは宣言してしまったが、どうやらお相手側はその2つ目の能力が、月影のようなタイプに対する完全なメタになると、想像だにしなかっただろう。
「アドリブだけは、あの娘には上手だってよく言われてた」
実際の所、月影への言葉は即興で考えたことなので、もしも刺さらなかったらと戦々恐々していた部分はあったけれど。即興劇が得意なのは友人からのお墨付きだ。
「よくも……よくもっ……!?」
「――おねえ、ちゃん!」
黙っていないのは犬山はすみ。主の被害の元凶へ形相を変えるも、縫うよう近づき覚悟を決めたうさぎがはすみへと抱きつく。
漸く解放されたアニカが転がりながらもうさぎと入れ替わるように雪菜の方へと辿り着いた。
「うさぎ、何をっ、ああああああああああああああ!?」
抱きついた途端にあの時と同じ現象。聖なる力を拒絶する、月影に仕込まれた魔の血が反応し、はすみへと激痛を伴い襲いかかる。
「ああああ、うさぎぃ、あなたはぁぁぁぁっ!!!!!」
「お姉ちゃんお願い! 元のお姉ちゃんに戻って!!」
うさぎの意図は分かっている、聖なる力による自身の浄化。
抱きついた時に拒絶反応を起こしたということは、自分の力で無理に浄化できれば元の犬山はすみに戻す事が出来るということ。
だが簡単にはやられない。こうなっては仕方がない。浄化される前に彼女の首を絞め切らんと、はすみの手がうさぎの首を掴む。
「………あああああああああああああああ!!!」
「おねえ、ちゃん……わたし……!」
浄化か、絞殺か。姉妹同士の矜持がぶつかり合う。
とは言うものの、意志の強さというだけなら今の場合なら妹のほうが上回っている。
もっとも肝心の眷属の主は、その牙を無力化されてのたうち回っているご覧の有様だ。
「あ、あ………ぁ……!」
首を絞めるはすみの腕が、力なく落ちる。プシュッ、となにかが吹き出す音。
はすみの首元から黒い血のようなものが流れ落ち、何が起こったのか理解できないような瞳ではすみがうさぎを見つめていた。
その一部始終を悶えながらも見ていた月影の唖然とした反応から、犬山はすみに施された眷属化が解除されたのだろうと、皆は悟ったのだ。
◯
月影夜帳の異能は事実上無力化された。
その特徴的な牙は無様にも腐り落ちて、吸血行為は不可能となった。
威圧にしても、もはや月影を恐れるものは一人もいない。
「It's time to pay annual tax.」
複雑な顔でそうセリフを言いきったアニカを筆頭に。雪菜と犬山姉妹が自分を見ている。
雪菜はまだしも、アニカも犬山姉妹二人も月影にはお世話になったことがある。
「罪を認めて、今後大人しくするなら、安全は保証します」
雪菜の言葉が、一応にも全員の総意の表れだ。
二度とこんなふざけたマネはせず、全てが終わったら大人しく自首をするように、と。
「ふぁ、ふぁたし、は……」
「……月影、さん」
正気に戻ったはすみの瞳が、悲しくも悶える月影を直視する。
どうしてこんな事に、何処で間違えたか、逡巡しようもどうしようもない。
せっかく自由を手に入れたというのに、こんな結末で終わるのは嫌だった。
一度解き放たれた月影夜帳という鳥は、二度と籠の中には戻れないのだから。
そしてはすみはの心中ははそれこそ哀しみだった。
自分が恵子を殺してしまったこと、うさぎを利用していたこと。
そして月影の狂気(くのう)に気づけなかった自分の愚かさを。
だからこそ、せめて月影夜帳には、二度と人を殺してなんて欲しくなかったのだろう。
「まだ、ふぁたしは。ふぁたしゔぁぁぁぁぁぁぁ―――!」
「―――!!!」
だが、月影夜帳は諦めない。
唯一この状況を打開するための手段がまだ残っている。恵子とひなたの血を吸って手に入れた「放電」と「発電器官」。その異能を使い強大な電力を周囲に放出することでこの場からの脱出だけは出来るかも知れない。
バチバチと月影の周囲を迸る電撃を前に、アニカたちは警戒を隠せない。
だが、事態は誰もが予想もしない結末を迎えた。
「――あ゛?」
溶けた牙の、そのドロリとした欠片が。月影の身体にポツリと落ちて、肌を少し溶かして食い込んだ。
そして、それに反応して、己が発生させた雷撃が月影自身へと襲いかかったのだ。
「ひゃあああああああああああああ――――――!??!?!!?!?!?!?!?」
「月影さん――!?」
「Mrツキカゲ!?」
アニカたちが叫ぶも、不幸にも月影に起こった予想外が、月影自身の『威圧』が。
多少なりともアニカ達を怯えさせ、動けなくさせてしまった。
『放電』の威力は当人のストレスの具合によって左右する。基本的に使用者本人への影響は及ぼさないが、それ以前にこれは元々は月影夜帳の異能ではない。
そしてかつ、『発電器官』は接触を解することでの放電の発生。それを、溶けた歯の欠片が。未だ腐食する酸がこびり着いた欠片が条件を満たし、それを雷撃の発生点として。
その雷撃そのものが、月影夜帳の罪を裁くかのように、彼の身体を焼き尽くした。
薄れゆく意識の中、月影夜帳は何も考えることは出来なかった。
電撃が弱まると同時に、異能が消えゆく感覚と、己の命が尽きる感覚が迫る。
嫌だ、やっと自由になったのに、と。手を伸ばす気力すら失った中で。
最後に、威圧が解けたのか自分へと手を伸ばしていた犬山はすみの姿をその記憶に刻み込みながら、吸血鬼の生は終わりを迎えたのだ。
――その亡骸を、灰へと変えながら。
【月影夜帳 死亡】
■
灰へと変わった月影の亡骸を前に、アニカたちは最低限の黙祷を捧げていた。
パンデミック前から吸血殺人事件を起こしていたろくでなしとは言え、こんな最後を辿っても良い人間だったのだろうか。
はっきり言って、月影が自滅した理由は四人には分からなかった。いや、人間ではなく怪異へと成り果てた存在を、今まで吸ってきた魂が裁きを下したというのだろうか。
もしくは、ストレスによる異能の進化が、月影夜帳という怪異を完全な吸血鬼へと変えてしまったが為、か、だから死した後に灰となったのだろう。
そんな事を、考える余裕も暇も無いのが今の四人の現状ではあるのだが。
今でも特殊部隊員と戦っているであろう山折圭介、天原創と、その救援に向かった八柳哉太を助けるために。
「……お姉ちゃん」
「……」
黙祷の中で、月影の亡骸の一番近くにいたであろう犬山はすみに妹は声を掛けた。
今の彼女は月影の影響下から脱したものの、"その間の記憶"はちゃんと刻まれている。
この手で字蔵恵子を殺したという結果だけが、彼女には残っている。
その罪悪感で、後悔で押しつぶされないかが、心配だった。
「大丈夫です、今まで迷惑かけて申し訳ありません」
それでも、その記憶にショックを受けながらも、立ち止まれる理由なんて犬山はすみにはない。
取り返しの付かない過ちを犯してしまった、それはもう二度と覆せない。
明るい未来へと羽ばたけたはずの少女の命を奪ったのは、紛れもない自分であるという事実を噛み締めながら。
「……急ぎましょう、創くん達が心配です」
「……That's right」
重苦しいながらも、決意だけはあった。悲しみながらも、歩みを止めないと足掻く者の姿があった。
それ以上の追求は、誰もすることはなかった。
「……さようなら、月影さん」
去り際に、その残った残骸に祈りを捧げるように、はすみが呟いた言葉は。
誰にも聞こえること無く、風に流れていった。
それは、心からの、追悼の言葉だった。
☆
拳の打ち合いだけが続く。殴り、蹴り、時には投げ。
それは、正しくガキの喧嘩だった。
武術もない、技もない。だたただシンプルな攻防の応酬。
焔の闘技場で、たった二人だけが殴り合う。
『おれ! カナタって言うんだ!』
『おれはけいいち! けーちゃんって呼んで!』
リフレインする過去。シャボン玉のように生まれては消え、また生まれては消える。
忘却では非ず、焚べられた燃料として注がれ、譲れない信念の上でただ彼らは戦い続ける。
殺すか、救うか。
「「ああああああああああああああああ!!!!!!」」
お互いの頬に、クロスカウンター。
画面にモロに受け、鼻血を吹き出しながら倒れる。そしてまた立ち上がる。
殴り合って、蹴り合って。もはや両者は見える生傷ばかり。
口から漏れ出した血を拭い、殺意とも似た視線でお互い睨み合い、そしてまた、殴り合う。
『おれ、ぜってーヒーローになる!』
『だったらおれが先にヒーローになってやるよ!』
思い出は再び思い出され、燃料となる。
「まだ、まだぁっ!」
「俺だってまだ、倒れられるかぁ!」
殴られ、蹴られ、回避し、投げ投げられ叩きつけられ。
炎だけが燃えている。いざ天は終着点をご照覧しておられよう。
『なぁ、圭ちゃんって、光の事が好きなのか?』
『……????』
『信じてくれ圭ちゃん! 俺はなにもやってない!』
『この期に及んでまだ嘘を付くのかよ、哉太!』
『ふたりとももうやめてよぉ!』
『ばかやろう、ばかやろう、ばかやろう……!』
『二度と俺たちに近づくんじゃねぇ、もうお前とは絶交だ』
『だから、お前もお前の仲間もそんな奴らに殺されるな!!絶対に死ぬんじゃねえぞ!!!』
記憶、思い出、断片。欠片。信念、矜持、後悔、悔恨、拭いきれぬ過ち。
数多の因果を飲み込んで、数多の絶望すらも抱え込んで、思い出は混線し。
彼らの世界がここから終わる。彼らの未来はここに始まる。
いざ、終わりの刻は間近。叩きつけろ、奴よりも早く。
「……次で、終わりだ。哉太」
「それは、こっちのセリフだよ、圭ちゃん」
構える。お互い疲労が限界値に達した上で、あと一撃で倒れそうな身体を奮い立たせて。
それでもなお、その目を見開いて、見果てぬ未来(ゆめ)と、掴むべき願いを手にするために。
さぁ、決着をつけよう。
沈黙。そして――二人は駆け、交錯して。拳が、近づいて。
「俺の――勝ちだぁっ!!!」
「お前の――負けだぁっ!!!」
迫る、お互いの拳が。喰らえば負けが決まる、今残された気力を乗せて放つ最後の一撃。
迫る、迫る、拳が迫る。――山折圭介だけには、何故かそれがスローに見えた。
人が突発的な危険状態に陥った際、見える景色がスローモーションになるタキサイキア現象と呼ばれるものがある。
皮肉にも、再生にある程度助けられた八柳哉太はそれに入らず、もはや意志だけで戦う身体になっていた山折圭介だからこそ突入した世界(ゾーン)。
故に、哉太の拳を、既の所で顔を下げて、避けた。
「――ッッッ!」
「終わりだ、哉太!!!!」
炸裂する山折圭介渾身の拳、直撃し意識が朦朧となる八柳哉太。
薄れゆく景色の中、勝ち誇った圭介の顔だけが映し出され、勝者と敗者は決定づけられた。
――はずだった。
「カナタぁぁぁぁっ!!!!」
「―――!!!!!」
少女が、少年の名を呼ぶ。
力が湧き上がる、再び立ち上げれと心が叫ぶ。
大切な人、天宝寺アニカの自分の名を呼ぶ声に応じ、立ち上がる!!!
「ばか、な――――!?」
信じられないものを見る目で、その奇跡を目の当たりにする。
だったら、もう一発と、追撃の為に駆け出す。
だが、もう遅い。既に、遅いのだ。
「――え」
圭介の眼に映し出されたのは、居ないはずの存在だった
ほんの一瞬、ただの幻覚。そう、ただの幻覚であるはずなのだ。
『悲しそうな顔をした日野光』が、『哉太を護るように手を広げて立ちふさがる』光景なんて。
「――ひか、り――――――」
ほんの一瞬の硬直。幻覚は覚め、現実へと引き戻される。
その硬直だけが、その硬直こそが、勝敗を決する最後の要因。
再び迫る、八柳哉太。正真正銘、この喧嘩最後の一撃。
「俺、の――――!!!」
そして、圭介のその顔に。
「勝ち、だぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!!!!」
「ぐ、ああああああああああああっっっ!!!!!!!?」
過去と現在(いま)と、願いを込めたその拳が。
山折圭介の敗北を告げる、最後の一撃が叩き込まれ、決着は付いた。
◯
どうして、お前なんだ。哉太。
「カナタ、しっかりして!!」
「はは、アニカ……俺、無茶しすぎたな」
「バカ、バカバカバカ!!!!」
どうして、お前には、いるんだ。
「……俺が気を失っている間に、終わったんですね。……あの、雪菜さん」
「死んじゃったかもって、心配した。……ごめん、今は抱きつかせて」
どうして、お前にだけは。いるんだ。
俺の隣には、誰もいないのに。
「……圭介くん」
「気を失っているみたいですけれど、圭介くんをこのまま放っておけませんし、彼を運んで役所に戻りましょう」
あいつすら、俺を見放したのに。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして、お前だけ。
憎い。
お前が憎い。
違う。そうじゃない。
俺は、俺から全てを奪った世界が憎くて仕方がなくて。
――俺はただ、俺の日常(せかい)を、取り戻したかったんだ。
『お前の願いはオレに届いた』
声が聞こえる。
淀むような世界の中に、男の声が聞こえる。
黄金の髪、赤い紅玉の瞳、黒き鏡の右足。
まるで、ゲームの中に出てくる魔王のような。
『お前が受け入れるなら、オレはお前に手を貸してやろう』
煩わしい声が、聞こえる。
だが俺は、その声にがとても心地よかった。
そうだ、あいつにだけ奇跡がやってくるなんて不公平だ。
そうか、お前を呼んだのは俺の意志だったんだ。
俺の願いだったんだ。
――『穏やかな滅びなど許さぬッ!!隠山に!忌まわしき血族に!朝廷に!未来永劫の苦しみを!!!』
――『お願いかみさま、私たちをたすけて。あいつらを殺して。私たちに酷いことする国のえらいひとたち全員ころして』
俺じゃない誰かの記憶を見た。
かつてお前を呼んだのは、俺だけじゃなかったんだな。
―――『未来永劫の苦しみを。山折の地に呪いあれ。』
―――『―――春陽(しゅんよう)ッ!』
この村の憎しみが、お前をこの世界に呼び寄せるきっかけだったんだな。
そしてもう一度、あの時のように、山折村の住人である俺の願いに応えて、ここに来たんだな。
『お前が取り戻したいものは何だ?』
そんなもの、決まっている。
「俺が欲しかったのは、俺のためだけの世界だったんだ。光がいて、あいつらがいて、いつまでも続くあの世界を」
『その願いに祝福あれ、山折圭介』
そして俺の意識は、闇へと沈む。
全ては、俺の願いを叶えてくれることを約束してくれた。
――魔王カラトマリ・テスカトリポカの為に。
いいや、新たなる魔王(おれ/オレ)の。ヤマオリ・テスカトリポカが為に。
■ ■ ■
「な、何っ!?」
「what's happening!?」
世界の刻が止まったようだった。さっきまで燃え盛っていた古家屋の炎は一瞬の内に消え去った。
理解できなかった。天原創が哀野雪菜の涙によって目を覚まし、八柳哉太はアニカに泣きながら抱きつかれて安堵の声を上げて。犬山姉妹が気絶した山折圭介を役場まで運ぼうとした。
その直後に、世界が悲鳴を上げた。
異常だけがあった。山折圭介を中心に猛烈な暴風が吹き荒れて、6人は吹き飛ばされる。
吹き飛ばされたと言っても一瞬のことで、山折圭介から少し距離を離された程度。
だが、本当の異常はそこからだった。
気絶したはずの山折圭介が立ち上がる。
その髪色を金色が入り混じったものへと変質させて。
その瞳を全てを焼き尽くす獄炎の朱へと変貌させて。
漂わせるその気配は、まるで魔王のようで。
「――あー……、あー……」
"山折圭介"だったものが、声を上げる。
嘲笑う獣如き、全てを俯瞰する重圧のような凶声。
まるで、新しく手に入った身体を均すような、そんな気の抜けた声で。
「――さて、ここに来るのも一年ぶりだな。オレにとってはほんの少し前のことだが」
「―――!」
"山折圭介"を視て、真っ先に天原創が反応する。
驚愕と困惑が入り混じった顔で、信じられない者を見る眼で。
"それ"は、そんな顔をする天原創を見据え、ニヤリと顔を歪めた。
「―――カラ、トマリ?」
天原は言う。あれはカラトマリだと。
その言葉を、誰がまともに受け入れられようか。
山折圭介だったものが立ち上がり、変貌したと思えばそれが"カラトマリ"だと。
何なら、その天原本人すら、戸惑っているのだから。
「カラトマリ? Mr.カラトマリですって!? That's an incredible!」
「……圭ちゃんが、烏宿……?」
特に、衝撃が大きかったのは、未名崎から烏宿の名前を聞いていたアニカと哉太。
ウイルス騒ぎの元凶であるかもしれない存在が、目の前に居て、それが山折圭一であるという現実が意味不明の極みだった。現実的にあり得ない光景が、今まさに現実として彼ら彼女らに叩きつけられている。
「……だが、でも。……じゃあ、その姿、は……」
「それは、圭介(おれ)が望んだことだ。こいつが、オレを呼んだんだ。だから圭介(おれ)はオレになった」
天河の困惑をよそに、それに答えるように"山折圭介(カラトマリ)"は、語る。
山折圭介が望んだから、山折圭介が呼んだから。これは、"カラトマリ"になったのだと。
だからこそ、山折圭介はカラトマリになったと、さも当然のように。
「……まあ、この身体になっちまった以上は、もう烏宿じゃねぇけどな」
「……どういう、意味だ。お前は、お前は一体何なんだ!? お前は……一体……」
哉太の振り絞るような言葉に対し、"山折圭介(カラトマリ)"は嗤った。
まるで玩具を見るような眼で、面白いものを見るような眼差して。
そして。
「改めて名乗りと行こう。オレは魔王カラトマリ。カラトマリ・テスカトリポカ。――いや、この身体だとこう名乗るべきだな」
「魔王ヤマオリ。ヤマオリ・テスカトリポカってな。ああ、テスカトリポカってのは、この世界の神様の中でちょっと気に入ったから名前を拝借させてもらっただけだ。深い意味は無いから安心しろ」
■
1945年、8月6日。
山折村の地下深く、第ニ実験棟にて死者蘇生は達成された。
尤も、それが死者蘇生なのではなく、異界から召喚された魔王(かみ)の憑依によるものでなければ。
魔王を呼び寄せたのは人の願いだ。第一実験棟にて使われた検体たちが抱いた憎しみに、彼ら彼女らが信じ崇めたある即身仏の、■■■の憎悪によって。
身体を得た神は、望みを叶えた。その場に居た第二実験棟の研究員及び軍部関係者。そして第一実験棟の研究者及び実験等の関係者全員を。
――その暴威によって、滅び尽くした。たった一人、後に天原創という少年を産む事になるある研究員の一人娘を除いて。
魔王(かみ)は死体を戦士(ジャガーマン)に変えて、手駒を増やし、現世にて潜んだ。
ある世界平和を願う少年の願いに気まぐれに付き合い、自分が手を貸してあるウイルスを生み出し。
情報を得るために、テロ組織との独自のパイプを組み上げて。
地球人類滅亡の危機という『自分には関係のないイベント』に対し、ある研究員に遊び半分にそれを教えたり。
そして、つまらない未来をより面白くしようと、生き残りの殺害に出向いた際に気まぐれに見逃した少年に細工を施して。
後に、南米の死と戦争の神の名を自らに加え。カラトマリ・テスカトリポカと名乗ったその異界の魔王は。
再び山折村の人間の憎悪によって呼び寄せられ、新たなる身体に顕現した。
かつて、魂だけの存在だった"それ"が初めて身体を手に入れた時。
魔王となった彼が名乗りし原初の名前があった。
それは黒き太陽だった。それは全てを飲み込む漆黒の威光だった。この世で最も輝き、ドス黒く悍ましき光を放つ黄金。
かの異界において、その魔王はこう名乗っていた。
―――――"アルシェル"と。
最終更新:2023年12月23日 22:06