第16回トーナメント:予選②
No.5405
【スタンド名】
フローレンス・アンド・ザマシーン
【本体】
奏 璃乃(カナデ リノ)
【能力】
様々な「香り」を生み出す
No.7618
【スタンド名】
レイニー・デイズ
【本体】
磯貝 秋水(イソガイ シュウスイ)
【能力】
液体状の身体を自在に操ることができる
フローレンス・アンド・ザマシーン vs レイニー・デイズ
【STAGE:レジャー施設】◆4aIZLTQ72s
――試合をはじめる前に、まず紹介しておかなければならない男がいる。
男の名は、前田 魅威斗(まえだ みいと)。21歳、東京生まれ東京育ち、天然パーマでちょっとぽっちゃり。
魅威斗は、今試合で立会を務める、トーナメント運営側の人間だ。
いわゆる、“トーナメント立会人”である。
(くっそぉ、やっべぇ~! 緊張するーーーーー!)
試合会場に向かう電車の中で、魅威斗は自分のメモ帳を何度も見返す。
彼は、これから立ち会う試合に緊張していた。つい最近までフリーターだった魅威斗の、立会人デビューを飾る試合だったのだ。
彼のメモ帳には、先輩立会人たちからの教えがびっしりと書き込まれていた。
○トーナメントは、選定された少数の立会人の管理のもと、運営する。
○立会人は、担当する試合について、勝負内容、判定、その他付随する業務のすべてに責任を負い、個々の裁量で進行する。
○立会人は、常に揺らいではならない。
メモ帳の中身は、新人らしい散らかり様だったが、重要なポイントはしっかり書き留めていた。
要するに、“それぞれの試合は参加者以上に担当者次第”ということである。公平性を損なうことがなければ、試合は立会人の好きにしていいのだ。
その分重責も背負うわけだが、それが立会人という職業であり、立場なのである。
単なる一労働者でしかなかった魅威斗には、まったく経験のないものだった。
(あーーーー! やべぇぇぇぇぇーーーーーーーーー!)
魅威斗は額に汗を浮かべて、わしゃわしゃと頭をかいた。
そうこうしている内に、電車は目的の駅へ到着する。
心の準備ができていようとそうでなかろうと、もう関係ない。彼は立会人として、自分の仕事をやり遂げるだけ。
それ以上でも以下でもなく、それ以外のことはできないのだ。
**
織星駅から直通バスに乗って、10分。東京の郊外に位置する、織星サマーパークと名付けられたその施設は、
1000000㎡という途方もなく広大な敷地に、プールや遊園地、BBQ場など、夏の娯楽をふんだんに盛り込んだテーマパークである。
シーズンになると、施設はプールを楽しみにする来場者でいっぱいになる。
しかしその日、織星サマーパークには従業員たった一人の姿すらなかった。
第16回トーナメント・第1回戦の舞台に選ばれたからである。
「ええと、今日の対戦者は……磯貝 秋水(いそがい しゅうすい)と、菊谷 志保(きくや しほ)か」
パークの入場口の前に立ち、立会人・前田 魅威斗は資料を開きながらひとりごちた。
魅威斗が確認しているのは、トーナメント運営が用意した参加者のプロフィールである。
参加者の簡単な経歴や、スタンド能力、トーナメントに参加した目的などが記されており、担当立会人はそれを事前に頭の中に入れておかなければならない。
試合の直前になってから読むものではないが、まだ立会のイロハも知らぬ魅威斗には、仕方のないことと言えた。
いまさらになってデータを閲覧していると、魅威斗はあることに気が付き、「あれ?」と声を漏らした。
「なにこれ? 菊谷 志保の資料、ほとんど何も書いてないじゃないか」
参加者の一人、菊谷 志保のデータが、名前と年齢以外なにも記されていなかったである。
対する磯貝 秋水の資料には、顔写真、職歴、スタンドなど、個人情報が洩れなく記載されている。
二人の資料を見比べると、情報量の違いは一目瞭然であった。
「なんだよーこれ。データ集めたの誰だ? まったく……」
資料のチェックを怠った自身の落ち度は置いといて、魅威斗はぶつくさと文句をたれた。
すると、パーク外の駐車場に一台のバスが停まり、中から男が降りてきた。
スーツ姿の初老の男性だった。男性はきょろきょろと周囲を見回したあと、魅威斗の姿を見つけ、歩き出した。
その姿勢からは、老いは感じない。鍛えられた肉体に漲る力や、若々しさすら感じる。
魅威斗は、手元の資料を確認した。
初老の男性は、間違いなく磯貝 秋水本人であった。
「こんにちは。君がワタシの対戦相手かな?」
入場口まで歩いてから、秋水が魅威斗に声をかけた。
「あ、俺……私はこの試合の立会人です。対戦相手じゃありません」
「ほう、そうかい。君、名前は?」
「あっ……前田 魅威斗と言います」
「前田立会人。今日はよろしく頼む……ネクタイが曲がってるぞ?」
そう言って、秋水は魅威斗の首元に手を伸ばし、曲がったネクタイを直し始めた。
そうこうしていると、駐車場に別のバスが停まった。中から降りてきたのは、若い女性だった。
亜麻色の髪に、茜色のワンピース。どことなくあどけなさの残る、美しい顔立ち。
思わず、魅威斗は彼女に目を奪われる。女性は、二人のもとへ歩み寄り、ぺこりと頭を下げた。
「遅れました、ごめんなさい!」
「いやいや、大丈夫だよ……。えっと、貴女はトーナメント参加者の……?」
直してもらったネクタイをきゅっと締めなおして、魅威斗が尋ねる。
女性は、はつらつとした声でそれに答えた。
「はい! 奏 璃乃(かなで りの)と言います。よろしくお願いします!」
彼女の名を耳にして、ん、と魅威斗は一瞬固まった。
手元の資料を確認しなおして、再度尋ねる。
「奏 璃乃さん……? え、菊谷 志保さんではなくて?」
「あ、志保は出られないので……私が代理で来ました」
「代理……?」
奏 璃乃と名乗った女性は、いたって普通に、当然のようにそう答えた。
何も特別なことはないかのような落ち着き方だった。魅威斗は璃乃の表情に惑わされつつも、状況を把握しようとする。
「えっと、それって……代理参加、ってこと? 菊谷 志保さんの代わりに……君が?」
「はい、そうです。私が参加します」
「……な、なにぃ」
魅威斗は、状況を把握した。把握して、それから混乱した。
(……代理参加ァ!? 代理参加って、そんなことあんの!? 認めていいのか!? いいんだっけ!?
やべぇ、わかんねえ! どうすんの!? どうすりゃいいんだ!? どうするのが正解なんだ!?)
額に汗を浮かべて、魅威斗は必死に思考を巡らせる。その様子をみて、秋水が声をかけた。
「どうした、立会人。なにかトラブルかね」
「あっ、いや……その……」
魅威斗はとっさに、璃乃の手をとって、彼女を柱の陰に隠した。
そして秋水に聞こえない距離で、璃乃に確認しなおす。
「あのさ、自治会の会議に代わりに出るのとはワケが違うんだ。君、トーナメントのことちゃんとわかってる?」
「わかってます。私もスタンド使いです。志保に代わって、私が闘います」
「……!」
璃乃の目は、まっすぐだった。芯の通った強い瞳で、まっすぐ魅威斗を見据えていた。
決して、簡単な気持ちでこの場にいるのではない――。それを伝えるには十分すぎるほど熱意のこもった表情だった。
魅威斗は、少しだけたじろいで、頭をかいた。頭の中には、直前に叩き込んだ先輩立会人の教えを思い返した。
(……立会人は個々の裁量で試合を進行させる。そのすべてに責任を負う。立会人は、揺らいではならない)
深く息を吸って、吐いて、魅威斗は「わかったよ」と一言だけ口にした。
意を決した魅威斗の目に、もう動揺はなかった。彼の顔は、ようやく立会人のそれに近づいた。
そして、魅威斗は璃乃の手を取り、再び秋水のもとへ戻る。
「……話はついたのかな? 立会人」
「……はい。お待たせしました」
魅威斗は、ジャケットの裏から鍵を取り出して、入場口の施錠を解いた。
「奏 璃乃さんの代理参加を認めます。お二方、私についてきてください」
そういって、魅威斗は秋水と璃乃の二人を、織星サマーパーク園内へと促した。
**
織星サマーパークは、屋外と屋内のプールエリアを中心に、その周りを遊園地やキャンプ場で囲んだ施設である。
秋水と璃乃が魅威斗に連れられてきたのは、屋内プールエリアの手前だった。
「ここから屋内プールへと入れます。屋内プールは屋外プールと隣接していますから、ここを通れば外へ出ることもできます。覚えておいてください」
二人へ向き直った魅威斗が、屋内プールを背にして言った。
「あらためて自己紹介をしましょう。私は前田 魅威斗。お二人の試合の立会人を務めます」
「ワタシは磯貝 秋水。よろしくお願いするよ、お嬢さん」
「奏 璃乃です。こちらこそ、よろしくおねがいします。磯貝さん」
互いを見合って、二人はそれぞれ柔らかに笑みを浮かべた。
そこだけ見れば、これから全身全霊をかけて、次戦への切符を奪い合う間柄とは思わない。
とても穏やかな邂逅だった。
「さて、ルールですが……。“相手を気絶させたら勝ち”、それだけです。
このパーク内でなら、何をしても何を使ってもOKとします。
ただし、私は血が苦手です。見たくない。“相手を出血させること”……すなわち“ケガを負わせること”は禁止とします。
その時点で、ケガをさせたほうの負けです」
二人の挨拶が済んだタイミングで、魅威斗はつらつらと今試合のルールを告げる。
今回の勝利条件は、“相手を気絶させること”。ただし、出血を伴うようなケガを相手にさせてはならない。
血生臭いことを嫌う彼らしいルールである。
「失礼、立会人。ケガとはどの程度のことをいうのかな? 打撲傷や脱臼も負けになってしまうのか?」
「あの、例えば私が磯貝さんを追いかけて、もし磯貝さんが転んでケガをしたら……転ばせたということで私の負けなのでしょうか?」
「そもそも出血の定義とはなんだ。ひざをすりむいて血が滲めば、それも出血とするのか?」
「内出血も出血に含まれますか?」
説明を終えた魅威斗に対し、口々に疑問をぶつける秋水と璃乃。
うっ、と少しだけ身じろいでから、魅威斗はそれを悟られぬように、声を張り上げた。
「だぁーっ、うるせえ! とにかくケガさせんなや! やさしく気絶させるんだよ! はい、スタート!」
参加者の質問攻めに耐えられなくなって、勢いだけで試合を開始させた、その瞬間。
開始の合図とまったく同じタイミングで、秋水の顔面に“水”が浴びせられた。
「!!」
「むおッ!? なんだッ、水!?」
突然の事態に、秋水は思わず目をつむる。
水をかけたのは、ひっそりと“水鉄砲”を構えていた璃乃だった。タイミングを見計らい、先手を打ったのは彼女だった。
(開始の合図と同時に、水鉄砲! 園内の売店で売られているやつを、事前にくすねていたのか!)
静かに息を呑む魅威斗の眼前で、璃乃はにっ、と口角をあげて脱兎のごとく駆け出す。
秋水に先行して、彼女は屋内プールエリアへと入場した。
「く、目くらましとは……こしゃ――」
浴びかけられた飛沫を拭いつつ、秋水が閉じた瞼を開こうとした、そのときだった。
「――クァッァァァッ」
鼻の奥につんとした痛みを覚えた一瞬、その直後に、灼けるような痛みが秋水の鼻腔を貫いた。
何が起きたのかはわからなかった。
理解できたのは、その何かがあまりに強烈だったことと、その何かによって自分の意識が吹き飛ぶ手前だという事実だった。
(な、なにがおきた……ま、まずい……!)
消えかかる意識。
咄嗟に、秋水は左手の人差指を握り、ためらいなくその骨をへし折った。
「ひぃぃっ!」
骨の砕ける鈍い音が響き渡る。魅威斗は悲鳴を上げて、秋水は飛びかけた意識を、骨折の激痛で繋ぎ止めた。
本当に、たったの一瞬で決着がついてしまうところだった。思わず膝をついた秋水は、首の皮一枚つなげたという思いを強く噛み締めていた。
(あ、危なかった……! なんだ……この強烈な“刺激臭”は!?)
秋水の鼻を打ち抜き、意識を根こそぎ引き剥がさんとしたもの――それは、“臭い”だった。
強烈なアンモニア臭を知覚したのは、事が済んでからだった。
秋水は、その“刺激臭”の源が、顔にかけられた水だと知った。璃乃が発射した水鉄砲の、あの水である。
(あの水鉄砲……ただの目くらましじゃない! 一撃必殺の“攻撃”だった! あの娘、いったい水に何を混ぜた!?)
ハンカチで水をふき取り、秋水は自嘲気味に笑う。
(情けない……ワタシとしたことが、油断した。彼女もスタンド使い、なめてかかれる相手じゃない)
胸中につぶやいて、秋水は崩れた膝を立て直した。
そして、スーツの留ボタンを外しながら、璃乃が逃げた屋内プールエリアへと向かう。
「もう同じ手はくわん。窃盗に、危険物所持……悪さをする子は逮捕しなければな」
磯貝 秋水――彼は、要人警護を職業とする現役のSP。警視庁警備部の警察官である。
璃乃のひっかけた水が、皮肉にも、彼の警官魂に火をつけてしまった瞬間であった。
**
ケガをさせずに気絶させる――そんな条件を立会人から告げられたとき、秋水はそれほど難しいとは思わなかった。
要人警護のプロフェッショナルとして、人生の半分以上を生きてきた男である。
柔道や空手など、武術には自信があったし、スタンド能力も有している。安全に相手を気絶させる方法など、いくらでも思いついた。
くわえて、このフィールドである。
プールは、秋水のスタンド能力が極限まで活きる、絶好の場所であった。
「……はぁ、はぁっ」
靴を脱ぎ捨てて、璃乃はプールサイドを素足で駆ける。
屋内プールエリアとはドーム状の建物内部のことを指し、天を仰ぐと太陽の光を遮る白い屋根が一面を覆う。
ドームの中にプールがあるのだ。したがって熱がこもりやすく、どうにも蒸し暑い。動いているだけでへとへとになる場所である。
璃乃を追って、秋水もドームの中へ足を踏み入れた。そしてプールサイドを走る璃乃を見つけると、同じように靴を脱ぎ、同じように走り出した。
(はやい……!)
初老とはいえ、現職のSPである。璃乃より体力があるのは間違いなく、彼女がどれだけ全力で走っても、距離はぐんぐんと詰められていく。
100メートル、50メートル、10メートル。対象との間隔が十分に狭まったところで、秋水が仕掛ける。
「いくぞッ、『レイニー・デイズ』ッ!」
「!!」
前方を走る璃乃に向けて、自身のスタンドの名を高らかに叫んだのである。
突然の宣言に、璃乃は思わず後ろを振り返る。
しかし、その反応こそが秋水の狙いである。
「まぬけ! ワタシの『レイニー・デイズ』は、すでに潜行している!」
すると、璃乃の傍に流れるプールの中から、突如人型のスタンド像が姿を現した。
磯貝 秋水のスタンド――『レイニー・デイズ』。水のように透き通った、液体のボディを持つスタンドである。
秋水は、璃乃を追う傍ら、『レイニー・デイズ』をあらかじめプールの中にひそませていたのだ。
射程内に敵を捉え、満を持して飛び出した『レイニー・デイズ』は、いともたやすく璃乃の背後をとった。
液状のヴィジョンが人間の手の形を模し、ぴんと指を伸ばして“手刀”をつくる。
狙うは、無防備にさらけ出した標的の首筋。
(もらったッ!)
「うくっ!」
『レイニー・デイズ』の手刀が、璃乃の首筋にすとんと落ちた。
SP経験で培った技術と威力で、手刀は効果的に璃乃の脳を揺らし、意識を混濁させる。
視界がブラックアウトする寸前、璃乃は自らの傍らに、スタンドを発現させる。
「『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』!」
花弁のような赤紫色のドレスを纏う、女性型のスタンド――『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』が、倒れかけた璃乃の腰を支えた。
そして『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』は、指を璃乃の鼻先まで近づけて、ぱちんと打ち鳴らす。
すると、神経を破壊するほどの猛烈な刺激臭が生まれ、臭いの刃が璃乃の鼻に突き刺さった。
「~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!」
「なにッ!?」
臭いは、嗅覚でなく痛覚を揺さぶり、璃乃の意識を捕まえた。
声にならない絶叫とともに、璃乃は落ちかけた意識を取り戻し、出し抜けに、秋水へ向けた水鉄砲の引き金を引いた。
「ちぃっ!」
銃口から放たれた水をかわすため、秋水は自らプールに飛び込んだ。
璃乃はしばらく水鉄砲を撃ちまくり、水をひとしきり撒いたあと、再び駆け出してその場を離れた。
(危ない、落ちかけた……! 近づいちゃだめだ、離れなきゃ……!)
でろりとこぼれた鼻血を拭いつつ、璃乃は屋内エリアを抜けて屋外へと飛び出した。
**
屋外プールエリアも、基本的には屋内と変わりはない。
屋根があるかないか、両者の違いはそれだけである。璃乃からすれば、屋根がなく、風通しのよい屋外のほうが、幾分か快適ではあった。
「はぁっ、はっ。ちょっと、休憩しよう」
敵の姿がまだないのを確認して、璃乃は物陰で少しだけ足を止めた。
ぺたりと座りこみ、走り続けて乱れた息を整える。
「はぁ、はぁ」
先ほどは、『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』の能力で、なんとか危機を乗り越えた。
あらゆる“香り”を作り出し、物体に纏わせる。それが璃乃のスタンド、『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』の能力だった。
強烈なアンモニア臭も、使い方次第では人を殺すことも、気付けに使うことも可能なのだ。
「……そうだ。水、入れなきゃ」
ある程度呼吸が落ち着いたところで、璃乃は空になった水鉄砲を片手に、プールへと近づいた。
水鉄砲からタンクをはずし、水面に浸して水を取り込む。
タンクの中に水が満たされて、銃身に取り付けたときだった。
「……え?」
璃乃は、タンクがみちみちと不気味な音を立てて、歪んでいくのを目撃した。
タンクの中で、体積が変化している。イビツな形に膨張していき、プラスチックの器は限界を迎えて破裂する。
破壊されたタンクの中から、液状の腕が飛び出した。
『レイニー・デイズ』の腕だった。
「きゃぁぁ!」
『レイニー・デイズ』は璃乃の腕をつかみ、プールの中へ引き込んだ。
着水する一瞬、璃乃はびしょ濡れのスーツでこちらに歩み寄る、秋水の姿を目撃した。
追跡者は、逃亡者の濡れた足跡をたどって、粛々と追ってきていたのだった。
「ようやく捕えたぞ。もう逃がさん。君にはすまないが……こうするしかない」
秋水の言葉を正確に聞き取る間もなく、璃乃の身体は『レイニー・デイズ』によってプールの中に沈められた。
『レイニー・デイズ』は周囲の水と完全に同化して、どこからどこまでがスタンドなのかわからない。
わかったのは、『レイニー・デイズ』によって璃乃の身体は完全に固定され、浮上できないことだった。
(く、くるしい……)
「すまないな……。誓って殺しはしない。必ず助ける……だから、勘弁してくれ」
(溺れる……!)
水中でもがく璃乃と、その様子を伺う秋水。
(『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』!)
『レイニー・デイズ』にがんじがらめにされながら、璃乃はかろうじて使える余力で、『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』の能力をフル発動させる。
能力の発動から、数十秒。秋水は、プールに起きた異変を察知して、思わず飛びのいた。
「うおおッ! く、くさぁぁぁぁぁっい!!」
プールが、およそこの世のものと思えない激臭を放ち始め、水の色すら変わって見えるほどに変質したのであった。
飛びのいた衝撃で、秋水は足を滑らせ、しりもちをついた。
眼前に広がるプールは、例えるならまるで地獄の底を流れるどぶ川だった。まったく表現しがたい未知の悪臭を放ち、そこだけ異次元の空間と化していた。
耐えきれなくなり、秋水はプールの中に置き去りにした『レイニー・デイズ』を解除した。
「くっ、おえぇぇぇ……」
拘束の解けた璃乃が、ふわりと水面に浮上したのが見えたが、正直どうしようもなかった。
異次元の臭いを放つプールに、近づきたくなかった。近づくことは不可能だった。
狼狽する秋水を横目に、プールから上がった璃乃は再び駆け出す。
「……また追いかけっこか……」
走り去る璃乃の背中を眺めながら、秋水はぼそりとつぶやいた。立ち上がろうとすると、足首に痛みが走った。
どうやら、先ほど足を滑らせたときに、捻ってしまったらしい。
秋水は患部をさすりながら、近くの物陰まで移動し、壁に背をもたれた。
「ふぅ……さすがにしんどいの。ちっと休むか……」
考えてみれば、真夏の蒸し暑いプールサイドを、スーツを着たまま走り回っていたのである。
いくら鍛えていても、年寄りであることに変わりはない。体力も無尽蔵にあるわけではなかった。
「ちっと休んだら、鬼ごっこ再開じゃい」
そうつぶやいて、秋水は目を閉じた――。
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「――――はっ!」
突然、何か思い出したかのように秋水が目を開く。
気が付くと、びしょ濡れだったスーツが若干乾いている。
そして、秋水の目の前には璃乃と魅威斗がいた。二人は、にこにこと楽しそうに、秋水の顔を眺めていた。
「……まさか」
そこでようやく気づいたらしく、秋水は口元に垂れたよだれを拭った。
「寝てしまったのか、ワタシは……」
「正解です」
そう答えて、魅威斗はゆっくりと立ち上がった。
「――勝者、奏 璃乃!」
立会人が、勝者の名を高らかに告げる――それは、同時に試合終了の合図でもあった。
眠りこけて気を失い、負けた。秋水にとって、これ以上ないほど明確な敗北であった。
それにしたって、まさか寝落ちで負けるとは想像だにしていなかったが。
「……あ」
秋水は、眠りにつく直前のことを、少しだけ思い出した。
動き回って、少し疲れて物陰に移動して、そのとき、なんとなく“良い香り”がしたのだ。
もしや、と思い璃乃を顔を見る。璃乃は、またにこりと笑った。
「……君の仕業だったか」
「はい。ラベンダーとカモミールをベースにして、入眠作用のある“香り”をつくりました。
このエリア全体に、“香り”を撒いていたんです」
「……なるほど、どうりでやたら走り回ってたわけだ。でも、なぜそんな遠回りをした?
もっと強い刺激臭で気絶させれば、簡単に決着はついたのでは?」
秋水の問いは、もっともな疑問だった。璃乃は、静かに答える。
「そうだと思います。でも、あれ以上強い刺激臭だと、命にかかわりかねません。私にはあれが限界でした。
“香り”で誰かの命を奪うようなことはしたくない。私は、アロマセラピストなので」
そう言って、璃乃は立ち上がり、右手を差し出した。
秋水も差し出された手をとって、立ち上がる。捻った足首がずきずきと痛んだ。
(ただの“香り”で、人が寝るか……? いや、寝ない。人間の体はそんなに単純じゃない。
彼女の作る“香り”は、それだけ特別なものということだ。
人間の本能にダイレクトに触れ、即座に肉体に反応させるような……それほどのシロモノを、彼女は自在につくれるのだ。
そして、それに胡坐をかかず、ワタシを確実に寝かせるために、できる限り体力を消耗させた……)
秋水は、璃乃の手を握りながら、彼女のとった戦略を思い返していた。
(ワタシはこの子を溺れさせようとまでした……。なのにこの子は、ワタシを眠らせることを考え、最初から立ち回っていた……)
ぐっと目を閉じて、秋水は敗北をかみしめた。
(――完敗だ……)
悔しさはあったが、自然と後はひかなかった。それよりも、対戦相手を称賛する気持ちと、すがすがしさが優っていた。
**
勝負が終わり、三人は織星サマーパークをあとにした。
あたりはすっかり日が暮れて、遠くの山々に陽が沈みゆく。
秋水は、魅威斗、璃乃と固い握手を交わし、爽やかにバスで帰って行った。
もう一本のバスを待つ間、魅威斗は璃乃にひとつだけ尋ねてみることにした。
「一つ、きかせてくれない?」
璃乃は魅威斗の顔を見て、はい、と答えた。
「君は、どうしてトーナメントにでたの? 君の望みはいったいなに?」
「……私の望みは、トーナメントの優勝です」
風に揺れる亜麻色の髪が、夕陽を浴びて美しく光る。
「私は勝ちます。勝ち続けます。このトーナメントを制して、志保の願いを叶えるまで……。必ず……」
なにかに堪えるような表情で、腹の底から絞り出したような声で、璃乃はそう答えた。
なぜ彼女は、菊谷 志保のためにそこまでするのか。
菊谷 志保の願いとはなんなのか。
そもそも菊谷 志保とは何者なのか。
疑問はとめどくなくあふれ出したが、しかし魅威斗は必死に口をつぐんだ。
人知れず重たい覚悟を背負って闘う彼女のことを、何もかも知ろうとするのは野暮ったく思えたからだ。
精一杯答えてくれたこと以上のことを、訊けないし、訊かない。
今はただ、彼女の勝利を見届けた立会人として、静かに祈るだけである。
“奏 璃乃の前途に、幸多からんことを”。
それ以上でも以下でもなく、それ以外のことは、前田 魅威斗にはできないのだ。
★★★ 勝者 ★★★
No.5405
【スタンド名】
フローレンス・アンド・ザマシーン
【本体】
奏 璃乃(カナデ リノ)
【能力】
様々な「香り」を生み出す
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最終更新:2022年04月17日 15:37