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第16回トーナメント:予選②




No.5405
【スタンド名】
フローレンス・アンド・ザマシーン
【本体】
奏 璃乃(カナデ リノ)

【能力】
様々な「香り」を生み出す


No.7618
【スタンド名】
レイニー・デイズ
【本体】
磯貝 秋水(イソガイ シュウスイ)

【能力】
液体状の身体を自在に操ることができる




フローレンス・アンド・ザマシーン vs レイニー・デイズ

【STAGE:レジャー施設】◆4aIZLTQ72s





 ――試合をはじめる前に、まず紹介しておかなければならない男がいる。
 男の名は、前田 魅威斗(まえだ みいと)。21歳、東京生まれ東京育ち、天然パーマでちょっとぽっちゃり。
 魅威斗は、今試合で立会を務める、トーナメント運営側の人間だ。
 いわゆる、“トーナメント立会人”である。

 (くっそぉ、やっべぇ~! 緊張するーーーーー!)

 試合会場に向かう電車の中で、魅威斗は自分のメモ帳を何度も見返す。
 彼は、これから立ち会う試合に緊張していた。つい最近までフリーターだった魅威斗の、立会人デビューを飾る試合だったのだ。
 彼のメモ帳には、先輩立会人たちからの教えがびっしりと書き込まれていた。

 ○トーナメントは、選定された少数の立会人の管理のもと、運営する。
 ○立会人は、担当する試合について、勝負内容、判定、その他付随する業務のすべてに責任を負い、個々の裁量で進行する。
 ○立会人は、常に揺らいではならない。

 メモ帳の中身は、新人らしい散らかり様だったが、重要なポイントはしっかり書き留めていた。
 要するに、“それぞれの試合は参加者以上に担当者次第”ということである。公平性を損なうことがなければ、試合は立会人の好きにしていいのだ。
 その分重責も背負うわけだが、それが立会人という職業であり、立場なのである。
 単なる一労働者でしかなかった魅威斗には、まったく経験のないものだった。

 (あーーーー! やべぇぇぇぇぇーーーーーーーーー!)

 魅威斗は額に汗を浮かべて、わしゃわしゃと頭をかいた。
 そうこうしている内に、電車は目的の駅へ到着する。
 心の準備ができていようとそうでなかろうと、もう関係ない。彼は立会人として、自分の仕事をやり遂げるだけ。

 それ以上でも以下でもなく、それ以外のことはできないのだ。


 **

 織星駅から直通バスに乗って、10分。東京の郊外に位置する、織星サマーパークと名付けられたその施設は、
1000000㎡という途方もなく広大な敷地に、プールや遊園地、BBQ場など、夏の娯楽をふんだんに盛り込んだテーマパークである。
 シーズンになると、施設はプールを楽しみにする来場者でいっぱいになる。
 しかしその日、織星サマーパークには従業員たった一人の姿すらなかった。
 第16回トーナメント・第1回戦の舞台に選ばれたからである。

 「ええと、今日の対戦者は……磯貝 秋水(いそがい しゅうすい)と、菊谷 志保(きくや しほ)か」

 パークの入場口の前に立ち、立会人・前田 魅威斗は資料を開きながらひとりごちた。
 魅威斗が確認しているのは、トーナメント運営が用意した参加者のプロフィールである。
 参加者の簡単な経歴や、スタンド能力、トーナメントに参加した目的などが記されており、担当立会人はそれを事前に頭の中に入れておかなければならない。
 試合の直前になってから読むものではないが、まだ立会のイロハも知らぬ魅威斗には、仕方のないことと言えた。
 いまさらになってデータを閲覧していると、魅威斗はあることに気が付き、「あれ?」と声を漏らした。

 「なにこれ? 菊谷 志保の資料、ほとんど何も書いてないじゃないか」

 参加者の一人、菊谷 志保のデータが、名前と年齢以外なにも記されていなかったである。
 対する磯貝 秋水の資料には、顔写真、職歴、スタンドなど、個人情報が洩れなく記載されている。
 二人の資料を見比べると、情報量の違いは一目瞭然であった。

 「なんだよーこれ。データ集めたの誰だ? まったく……」

 資料のチェックを怠った自身の落ち度は置いといて、魅威斗はぶつくさと文句をたれた。
 すると、パーク外の駐車場に一台のバスが停まり、中から男が降りてきた。
 スーツ姿の初老の男性だった。男性はきょろきょろと周囲を見回したあと、魅威斗の姿を見つけ、歩き出した。
 その姿勢からは、老いは感じない。鍛えられた肉体に漲る力や、若々しさすら感じる。
 魅威斗は、手元の資料を確認した。
 初老の男性は、間違いなく磯貝 秋水本人であった。

 「こんにちは。君がワタシの対戦相手かな?」

 入場口まで歩いてから、秋水が魅威斗に声をかけた。

 「あ、俺……私はこの試合の立会人です。対戦相手じゃありません」
 「ほう、そうかい。君、名前は?」
 「あっ……前田 魅威斗と言います」
 「前田立会人。今日はよろしく頼む……ネクタイが曲がってるぞ?」

 そう言って、秋水は魅威斗の首元に手を伸ばし、曲がったネクタイを直し始めた。
 そうこうしていると、駐車場に別のバスが停まった。中から降りてきたのは、若い女性だった。
 亜麻色の髪に、茜色のワンピース。どことなくあどけなさの残る、美しい顔立ち。
 思わず、魅威斗は彼女に目を奪われる。女性は、二人のもとへ歩み寄り、ぺこりと頭を下げた。

 「遅れました、ごめんなさい!」
 「いやいや、大丈夫だよ……。えっと、貴女はトーナメント参加者の……?」

 直してもらったネクタイをきゅっと締めなおして、魅威斗が尋ねる。
 女性は、はつらつとした声でそれに答えた。

 「はい! 奏 璃乃(かなで りの)と言います。よろしくお願いします!」


彼女の名を耳にして、ん、と魅威斗は一瞬固まった。
 手元の資料を確認しなおして、再度尋ねる。

 「奏 璃乃さん……? え、菊谷 志保さんではなくて?」
 「あ、志保は出られないので……私が代理で来ました」
 「代理……?」

 奏 璃乃と名乗った女性は、いたって普通に、当然のようにそう答えた。
 何も特別なことはないかのような落ち着き方だった。魅威斗は璃乃の表情に惑わされつつも、状況を把握しようとする。

 「えっと、それって……代理参加、ってこと? 菊谷 志保さんの代わりに……君が?」
 「はい、そうです。私が参加します」
 「……な、なにぃ」

 魅威斗は、状況を把握した。把握して、それから混乱した。

 (……代理参加ァ!? 代理参加って、そんなことあんの!? 認めていいのか!? いいんだっけ!?
  やべぇ、わかんねえ! どうすんの!? どうすりゃいいんだ!? どうするのが正解なんだ!?)
 
 額に汗を浮かべて、魅威斗は必死に思考を巡らせる。その様子をみて、秋水が声をかけた。

 「どうした、立会人。なにかトラブルかね」
 「あっ、いや……その……」

 魅威斗はとっさに、璃乃の手をとって、彼女を柱の陰に隠した。
 そして秋水に聞こえない距離で、璃乃に確認しなおす。

 「あのさ、自治会の会議に代わりに出るのとはワケが違うんだ。君、トーナメントのことちゃんとわかってる?」
 「わかってます。私もスタンド使いです。志保に代わって、私が闘います」
 「……!」

 璃乃の目は、まっすぐだった。芯の通った強い瞳で、まっすぐ魅威斗を見据えていた。
 決して、簡単な気持ちでこの場にいるのではない――。それを伝えるには十分すぎるほど熱意のこもった表情だった。
 魅威斗は、少しだけたじろいで、頭をかいた。頭の中には、直前に叩き込んだ先輩立会人の教えを思い返した。

 (……立会人は個々の裁量で試合を進行させる。そのすべてに責任を負う。立会人は、揺らいではならない)

 深く息を吸って、吐いて、魅威斗は「わかったよ」と一言だけ口にした。
 意を決した魅威斗の目に、もう動揺はなかった。彼の顔は、ようやく立会人のそれに近づいた。
 そして、魅威斗は璃乃の手を取り、再び秋水のもとへ戻る。

 「……話はついたのかな? 立会人」
 「……はい。お待たせしました」

 魅威斗は、ジャケットの裏から鍵を取り出して、入場口の施錠を解いた。

 「奏 璃乃さんの代理参加を認めます。お二方、私についてきてください」

 そういって、魅威斗は秋水と璃乃の二人を、織星サマーパーク園内へと促した。


 **
 織星サマーパークは、屋外と屋内のプールエリアを中心に、その周りを遊園地やキャンプ場で囲んだ施設である。
 秋水と璃乃が魅威斗に連れられてきたのは、屋内プールエリアの手前だった。

 「ここから屋内プールへと入れます。屋内プールは屋外プールと隣接していますから、ここを通れば外へ出ることもできます。覚えておいてください」

 二人へ向き直った魅威斗が、屋内プールを背にして言った。
 
 「あらためて自己紹介をしましょう。私は前田 魅威斗。お二人の試合の立会人を務めます」
 「ワタシは磯貝 秋水。よろしくお願いするよ、お嬢さん」
 「奏 璃乃です。こちらこそ、よろしくおねがいします。磯貝さん」

 互いを見合って、二人はそれぞれ柔らかに笑みを浮かべた。
 そこだけ見れば、これから全身全霊をかけて、次戦への切符を奪い合う間柄とは思わない。
 とても穏やかな邂逅だった。

 「さて、ルールですが……。“相手を気絶させたら勝ち”、それだけです。
  このパーク内でなら、何をしても何を使ってもOKとします。
  ただし、私は血が苦手です。見たくない。“相手を出血させること”……すなわち“ケガを負わせること”は禁止とします。
  その時点で、ケガをさせたほうの負けです」

 二人の挨拶が済んだタイミングで、魅威斗はつらつらと今試合のルールを告げる。
 今回の勝利条件は、“相手を気絶させること”。ただし、出血を伴うようなケガを相手にさせてはならない。
 血生臭いことを嫌う彼らしいルールである。
 
 「失礼、立会人。ケガとはどの程度のことをいうのかな? 打撲傷や脱臼も負けになってしまうのか?」
 「あの、例えば私が磯貝さんを追いかけて、もし磯貝さんが転んでケガをしたら……転ばせたということで私の負けなのでしょうか?」
 「そもそも出血の定義とはなんだ。ひざをすりむいて血が滲めば、それも出血とするのか?」
 「内出血も出血に含まれますか?」

 説明を終えた魅威斗に対し、口々に疑問をぶつける秋水と璃乃。
 うっ、と少しだけ身じろいでから、魅威斗はそれを悟られぬように、声を張り上げた。

 「だぁーっ、うるせえ! とにかくケガさせんなや! やさしく気絶させるんだよ! はい、スタート!」

 参加者の質問攻めに耐えられなくなって、勢いだけで試合を開始させた、その瞬間。
 開始の合図とまったく同じタイミングで、秋水の顔面に“水”が浴びせられた。

 「!!」
 「むおッ!? なんだッ、水!?」

 突然の事態に、秋水は思わず目をつむる。
 水をかけたのは、ひっそりと“水鉄砲”を構えていた璃乃だった。タイミングを見計らい、先手を打ったのは彼女だった。

 (開始の合図と同時に、水鉄砲! 園内の売店で売られているやつを、事前にくすねていたのか!)


 静かに息を呑む魅威斗の眼前で、璃乃はにっ、と口角をあげて脱兎のごとく駆け出す。
 秋水に先行して、彼女は屋内プールエリアへと入場した。

 「く、目くらましとは……こしゃ――」

 浴びかけられた飛沫を拭いつつ、秋水が閉じた瞼を開こうとした、そのときだった。

 「――クァッァァァッ」

 鼻の奥につんとした痛みを覚えた一瞬、その直後に、灼けるような痛みが秋水の鼻腔を貫いた。
 何が起きたのかはわからなかった。
 理解できたのは、その何かがあまりに強烈だったことと、その何かによって自分の意識が吹き飛ぶ手前だという事実だった。

 (な、なにがおきた……ま、まずい……!)

 消えかかる意識。
 咄嗟に、秋水は左手の人差指を握り、ためらいなくその骨をへし折った。

 「ひぃぃっ!」

 骨の砕ける鈍い音が響き渡る。魅威斗は悲鳴を上げて、秋水は飛びかけた意識を、骨折の激痛で繋ぎ止めた。
 本当に、たったの一瞬で決着がついてしまうところだった。思わず膝をついた秋水は、首の皮一枚つなげたという思いを強く噛み締めていた。

 (あ、危なかった……! なんだ……この強烈な“刺激臭”は!?)

 秋水の鼻を打ち抜き、意識を根こそぎ引き剥がさんとしたもの――それは、“臭い”だった。
 強烈なアンモニア臭を知覚したのは、事が済んでからだった。
 秋水は、その“刺激臭”の源が、顔にかけられた水だと知った。璃乃が発射した水鉄砲の、あの水である。

 (あの水鉄砲……ただの目くらましじゃない! 一撃必殺の“攻撃”だった! あの娘、いったい水に何を混ぜた!?)

 ハンカチで水をふき取り、秋水は自嘲気味に笑う。

 (情けない……ワタシとしたことが、油断した。彼女もスタンド使い、なめてかかれる相手じゃない)

 胸中につぶやいて、秋水は崩れた膝を立て直した。
 そして、スーツの留ボタンを外しながら、璃乃が逃げた屋内プールエリアへと向かう。

 「もう同じ手はくわん。窃盗に、危険物所持……悪さをする子は逮捕しなければな」

 磯貝 秋水――彼は、要人警護を職業とする現役のSP。警視庁警備部の警察官である。
 璃乃のひっかけた水が、皮肉にも、彼の警官魂に火をつけてしまった瞬間であった。


 **

 ケガをさせずに気絶させる――そんな条件を立会人から告げられたとき、秋水はそれほど難しいとは思わなかった。
 要人警護のプロフェッショナルとして、人生の半分以上を生きてきた男である。
 柔道や空手など、武術には自信があったし、スタンド能力も有している。安全に相手を気絶させる方法など、いくらでも思いついた。
 くわえて、このフィールドである。
 プールは、秋水のスタンド能力が極限まで活きる、絶好の場所であった。

 「……はぁ、はぁっ」

 靴を脱ぎ捨てて、璃乃はプールサイドを素足で駆ける。
 屋内プールエリアとはドーム状の建物内部のことを指し、天を仰ぐと太陽の光を遮る白い屋根が一面を覆う。
 ドームの中にプールがあるのだ。したがって熱がこもりやすく、どうにも蒸し暑い。動いているだけでへとへとになる場所である。
 璃乃を追って、秋水もドームの中へ足を踏み入れた。そしてプールサイドを走る璃乃を見つけると、同じように靴を脱ぎ、同じように走り出した。
 
 (はやい……!)

 初老とはいえ、現職のSPである。璃乃より体力があるのは間違いなく、彼女がどれだけ全力で走っても、距離はぐんぐんと詰められていく。
 100メートル、50メートル、10メートル。対象との間隔が十分に狭まったところで、秋水が仕掛ける。

 「いくぞッ、『レイニー・デイズ』ッ!」
 「!!」

 前方を走る璃乃に向けて、自身のスタンドの名を高らかに叫んだのである。
 突然の宣言に、璃乃は思わず後ろを振り返る。
 しかし、その反応こそが秋水の狙いである。

 「まぬけ! ワタシの『レイニー・デイズ』は、すでに潜行している!」

 すると、璃乃の傍に流れるプールの中から、突如人型のスタンド像が姿を現した。
 磯貝 秋水のスタンド――『レイニー・デイズ』。水のように透き通った、液体のボディを持つスタンドである。
 秋水は、璃乃を追う傍ら、『レイニー・デイズ』をあらかじめプールの中にひそませていたのだ。
 射程内に敵を捉え、満を持して飛び出した『レイニー・デイズ』は、いともたやすく璃乃の背後をとった。
 液状のヴィジョンが人間の手の形を模し、ぴんと指を伸ばして“手刀”をつくる。
 狙うは、無防備にさらけ出した標的の首筋。

 (もらったッ!)
 「うくっ!」

 『レイニー・デイズ』の手刀が、璃乃の首筋にすとんと落ちた。
 SP経験で培った技術と威力で、手刀は効果的に璃乃の脳を揺らし、意識を混濁させる。
 視界がブラックアウトする寸前、璃乃は自らの傍らに、スタンドを発現させる。

 「『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』!」

 花弁のような赤紫色のドレスを纏う、女性型のスタンド――『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』が、倒れかけた璃乃の腰を支えた。
 そして『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』は、指を璃乃の鼻先まで近づけて、ぱちんと打ち鳴らす。
 すると、神経を破壊するほどの猛烈な刺激臭が生まれ、臭いの刃が璃乃の鼻に突き刺さった。

 「~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!」
 「なにッ!?」

 臭いは、嗅覚でなく痛覚を揺さぶり、璃乃の意識を捕まえた。
 声にならない絶叫とともに、璃乃は落ちかけた意識を取り戻し、出し抜けに、秋水へ向けた水鉄砲の引き金を引いた。

 「ちぃっ!」
 
 銃口から放たれた水をかわすため、秋水は自らプールに飛び込んだ。
 璃乃はしばらく水鉄砲を撃ちまくり、水をひとしきり撒いたあと、再び駆け出してその場を離れた。

 (危ない、落ちかけた……! 近づいちゃだめだ、離れなきゃ……!)

 でろりとこぼれた鼻血を拭いつつ、璃乃は屋内エリアを抜けて屋外へと飛び出した。


**

 屋外プールエリアも、基本的には屋内と変わりはない。
 屋根があるかないか、両者の違いはそれだけである。璃乃からすれば、屋根がなく、風通しのよい屋外のほうが、幾分か快適ではあった。
 
 「はぁっ、はっ。ちょっと、休憩しよう」

 敵の姿がまだないのを確認して、璃乃は物陰で少しだけ足を止めた。
 ぺたりと座りこみ、走り続けて乱れた息を整える。

 「はぁ、はぁ」

 先ほどは、『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』の能力で、なんとか危機を乗り越えた。
 あらゆる“香り”を作り出し、物体に纏わせる。それが璃乃のスタンド、『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』の能力だった。
 強烈なアンモニア臭も、使い方次第では人を殺すことも、気付けに使うことも可能なのだ。
 
 「……そうだ。水、入れなきゃ」

 ある程度呼吸が落ち着いたところで、璃乃は空になった水鉄砲を片手に、プールへと近づいた。
 水鉄砲からタンクをはずし、水面に浸して水を取り込む。
 タンクの中に水が満たされて、銃身に取り付けたときだった。

 「……え?」

 璃乃は、タンクがみちみちと不気味な音を立てて、歪んでいくのを目撃した。
 タンクの中で、体積が変化している。イビツな形に膨張していき、プラスチックの器は限界を迎えて破裂する。
 破壊されたタンクの中から、液状の腕が飛び出した。
 『レイニー・デイズ』の腕だった。

 「きゃぁぁ!」

 『レイニー・デイズ』は璃乃の腕をつかみ、プールの中へ引き込んだ。
 着水する一瞬、璃乃はびしょ濡れのスーツでこちらに歩み寄る、秋水の姿を目撃した。
 追跡者は、逃亡者の濡れた足跡をたどって、粛々と追ってきていたのだった。

 「ようやく捕えたぞ。もう逃がさん。君にはすまないが……こうするしかない」

 秋水の言葉を正確に聞き取る間もなく、璃乃の身体は『レイニー・デイズ』によってプールの中に沈められた。
 『レイニー・デイズ』は周囲の水と完全に同化して、どこからどこまでがスタンドなのかわからない。
 わかったのは、『レイニー・デイズ』によって璃乃の身体は完全に固定され、浮上できないことだった。
 
 (く、くるしい……)
 「すまないな……。誓って殺しはしない。必ず助ける……だから、勘弁してくれ」
 (溺れる……!)


 水中でもがく璃乃と、その様子を伺う秋水。

 (『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』!)

 『レイニー・デイズ』にがんじがらめにされながら、璃乃はかろうじて使える余力で、『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』の能力をフル発動させる。
 能力の発動から、数十秒。秋水は、プールに起きた異変を察知して、思わず飛びのいた。

 「うおおッ! く、くさぁぁぁぁぁっい!!」

 プールが、およそこの世のものと思えない激臭を放ち始め、水の色すら変わって見えるほどに変質したのであった。
 飛びのいた衝撃で、秋水は足を滑らせ、しりもちをついた。
 眼前に広がるプールは、例えるならまるで地獄の底を流れるどぶ川だった。まったく表現しがたい未知の悪臭を放ち、そこだけ異次元の空間と化していた。
 耐えきれなくなり、秋水はプールの中に置き去りにした『レイニー・デイズ』を解除した。

 「くっ、おえぇぇぇ……」

 拘束の解けた璃乃が、ふわりと水面に浮上したのが見えたが、正直どうしようもなかった。
 異次元の臭いを放つプールに、近づきたくなかった。近づくことは不可能だった。
 狼狽する秋水を横目に、プールから上がった璃乃は再び駆け出す。

 「……また追いかけっこか……」

 走り去る璃乃の背中を眺めながら、秋水はぼそりとつぶやいた。立ち上がろうとすると、足首に痛みが走った。
 どうやら、先ほど足を滑らせたときに、捻ってしまったらしい。
 秋水は患部をさすりながら、近くの物陰まで移動し、壁に背をもたれた。

 「ふぅ……さすがにしんどいの。ちっと休むか……」

 考えてみれば、真夏の蒸し暑いプールサイドを、スーツを着たまま走り回っていたのである。
 いくら鍛えていても、年寄りであることに変わりはない。体力も無尽蔵にあるわけではなかった。
 
 「ちっと休んだら、鬼ごっこ再開じゃい」

 そうつぶやいて、秋水は目を閉じた――。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


     ―――――――――――――――――――――


        ―――――――――――――――


             ――――


              ――


 
              ――


         ―――――――――――――

        
 ――――――――――――――――――――――――――――――


 「――――はっ!」

 突然、何か思い出したかのように秋水が目を開く。
 気が付くと、びしょ濡れだったスーツが若干乾いている。
 そして、秋水の目の前には璃乃と魅威斗がいた。二人は、にこにこと楽しそうに、秋水の顔を眺めていた。

 「……まさか」

 そこでようやく気づいたらしく、秋水は口元に垂れたよだれを拭った。

 「寝てしまったのか、ワタシは……」
 「正解です」

 そう答えて、魅威斗はゆっくりと立ち上がった。

 「――勝者、奏 璃乃!」

 立会人が、勝者の名を高らかに告げる――それは、同時に試合終了の合図でもあった。
 眠りこけて気を失い、負けた。秋水にとって、これ以上ないほど明確な敗北であった。
 それにしたって、まさか寝落ちで負けるとは想像だにしていなかったが。
 
 「……あ」

 秋水は、眠りにつく直前のことを、少しだけ思い出した。
 動き回って、少し疲れて物陰に移動して、そのとき、なんとなく“良い香り”がしたのだ。
 もしや、と思い璃乃を顔を見る。璃乃は、またにこりと笑った。

 「……君の仕業だったか」
 「はい。ラベンダーとカモミールをベースにして、入眠作用のある“香り”をつくりました。
  このエリア全体に、“香り”を撒いていたんです」
 「……なるほど、どうりでやたら走り回ってたわけだ。でも、なぜそんな遠回りをした?
  もっと強い刺激臭で気絶させれば、簡単に決着はついたのでは?」

 秋水の問いは、もっともな疑問だった。璃乃は、静かに答える。

 「そうだと思います。でも、あれ以上強い刺激臭だと、命にかかわりかねません。私にはあれが限界でした。
  “香り”で誰かの命を奪うようなことはしたくない。私は、アロマセラピストなので」

 そう言って、璃乃は立ち上がり、右手を差し出した。
 秋水も差し出された手をとって、立ち上がる。捻った足首がずきずきと痛んだ。

 (ただの“香り”で、人が寝るか……? いや、寝ない。人間の体はそんなに単純じゃない。
  彼女の作る“香り”は、それだけ特別なものということだ。
  人間の本能にダイレクトに触れ、即座に肉体に反応させるような……それほどのシロモノを、彼女は自在につくれるのだ。
  そして、それに胡坐をかかず、ワタシを確実に寝かせるために、できる限り体力を消耗させた……)

 秋水は、璃乃の手を握りながら、彼女のとった戦略を思い返していた。

 (ワタシはこの子を溺れさせようとまでした……。なのにこの子は、ワタシを眠らせることを考え、最初から立ち回っていた……)

 ぐっと目を閉じて、秋水は敗北をかみしめた。

 (――完敗だ……)

 悔しさはあったが、自然と後はひかなかった。それよりも、対戦相手を称賛する気持ちと、すがすがしさが優っていた。


 **
 
 勝負が終わり、三人は織星サマーパークをあとにした。
 あたりはすっかり日が暮れて、遠くの山々に陽が沈みゆく。
 秋水は、魅威斗、璃乃と固い握手を交わし、爽やかにバスで帰って行った。
 もう一本のバスを待つ間、魅威斗は璃乃にひとつだけ尋ねてみることにした。
 
 「一つ、きかせてくれない?」

 璃乃は魅威斗の顔を見て、はい、と答えた。

 「君は、どうしてトーナメントにでたの? 君の望みはいったいなに?」
 「……私の望みは、トーナメントの優勝です」

 風に揺れる亜麻色の髪が、夕陽を浴びて美しく光る。
 
 「私は勝ちます。勝ち続けます。このトーナメントを制して、志保の願いを叶えるまで……。必ず……」

 なにかに堪えるような表情で、腹の底から絞り出したような声で、璃乃はそう答えた。
 なぜ彼女は、菊谷 志保のためにそこまでするのか。
 菊谷 志保の願いとはなんなのか。
 そもそも菊谷 志保とは何者なのか。
 疑問はとめどくなくあふれ出したが、しかし魅威斗は必死に口をつぐんだ。
 人知れず重たい覚悟を背負って闘う彼女のことを、何もかも知ろうとするのは野暮ったく思えたからだ。
 精一杯答えてくれたこと以上のことを、訊けないし、訊かない。
 今はただ、彼女の勝利を見届けた立会人として、静かに祈るだけである。

 “奏 璃乃の前途に、幸多からんことを”。

 それ以上でも以下でもなく、それ以外のことは、前田 魅威斗にはできないのだ。

★★★ 勝者 ★★★

No.5405
【スタンド名】
フローレンス・アンド・ザマシーン
【本体】
奏 璃乃(カナデ リノ)

【能力】
様々な「香り」を生み出す








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最終更新:2022年04月17日 15:37