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第16回トーナメント:準決勝①




No.6297
【スタンド名】
ネクスト・アルカディア
【本体】
ネプティス・アヌヴィッシュ

【能力】
対峙したものの能力に合わせて「定向進化」する


No.5405
【スタンド名】
フローレンス・アンド・ザマシーン
【本体】
奏 璃乃(カナデ リノ)

【能力】
様々な「香り」を生み出す




ネクスト・アルカディア vs フローレンス・アンド・ザマシーン

【STAGE:迷宮】◆aqlrDxpX0s





2人の男が立っていた。
彼らの周囲には暗闇が広がっているばかりで、彼らの眼にも写るのは果てしない闇と隣に立つ自分とよく似た姿の男だけである。
よく似たというより、彼らは双子と言っていいほどまったく同じであった。

ひとつだけ異なる点があるとすれば、片方は右腕が肩からごっそり無く、もうひとりは左腕が無い。
その欠き方さえもまったく一緒だった。

ひとりの男が口を開く。

「『運営』はとんでもない人物を招いたものだな、右近」

右近と呼ばれた男は、呼んだ男同様に首も視線も動かさず応えた。

「それはどっちのことだい、左近」

すると左近と呼ばれた男は口角をあげて不気味な笑い顔を見せる。
そして右近も、というより左近とまったく同じく鏡写しのように同時に笑った。

「君にもわかっているだろう、我らは互いに考えていることは同じ。そうだろう右近」
「とにかく我らの務めはトーナメント優勝者の栄光にふさわしい者を選別することだ、左近」

彼らの顔から笑みがふっと消え、真顔に戻る。

「もちろんだ、右近」
「そのために我々は効率的かつ効果的な方法で彼女らに試練を与える準備を整えたのだ」
「……この悪夢から目覚めることが出来るのははたしてどちらなのか……」


1回戦が終わってから1週間が経っていた。
ネプティス・アヌヴィッシュはそれまでずっと離れたことのなかった地元を離れ、海沿いの街にある安宿に泊まっていた。
食事とたまに海まで散歩に出る以外はほとんど部屋にこもってベッドに寝転がっている。

試合で戦ったあの男は、まるで過去の自分そのものであった。
ネプティスはスタンドをきっかけにみじめだった自分の性分を克服し強くなった。
だが、あの試合で「過去の自分を痛めつけたわたし」はいったいなんなのだ?
なんのことはない、過去のわたしが嫌いだった者達といっしょなのだ。
痛めつけられていた側が、痛めつける側になっていたのだ。

「自分に嫌悪する……」

ネプティスは自分を知る誰にも会いたくなくて、自分のことを知っている人が誰もいない場所に行きたかったのだ。
あの馴染みの喫茶店は名残惜しかった。
喫茶店の店長は、弱さを克服したあとの自分しか知らない数少ない知人だった。
でも店長に会って、トーナメントのことをなんて報告すればいい?

ねえ店長、勝ったよ。対戦相手はまるで弱かった昔の私みたいだった。
戦う気もないのに、ボコボコに痛めつけて、最後は見捨てたの。
私は過去の自分に打ち勝ったのよ。

吐き気がする。

ネプティスはサイドテーブルの上のクシャクシャになった一片の紙を手に取った。
広げてシワをのばすと、そこにはトーナメントの次の試合の開催場所と時間が書かれている。
1回戦終了後に立会人から渡されたものだ。

場所は「迷宮」、そして時間はきょうの午後5時となっていた。

時計を見ると、針は4時59分を指していた。
ネプティスにはなにも焦る気持ちは生まれなかった。

そもそも場所がただの「迷宮」とあってはどこへも行きようがないし
午後5時を過ぎて自分が失格負けになってももはやどうでもいいことだった。
自分には誰かを打ち負かして何かを得ようとする資格なんてないのだ……。
ネプティスはまくらに頭を乗せて目を閉じた。


「起きなさい、ネプティス・アヌヴィッシュ」

暗く冷たい男の声が突然聞こえ、ネプティスは驚いて飛び起きる。
その声が発せられた瞬間に状況が変わったことでぼんやりとしていた気分が吹き飛んでしまった。

「えっ……ここ、どこっ?」

ネプティスはいつのまにか安宿の部屋ではなく、石壁に囲まれた小さな部屋にいた。
壁は石のブロックを積み上げて造られているが、天井はごつごつした岩がむき出しになっており、
どうやら部屋は地上ではなく地下にあるようだった。
冷たく湿った空気がネプティスの肌にまとわりつき、息をすいこむとカビ臭さが鼻をつく。
シングルベッドはいつのまにか歪んだパイプのベッドに変わっており、
部屋にはほかに足元を照らすライトが設置されているだけでほかには何もなかった。

ネプティスが起き上がったとき、目の前には石の壁があり、男の声は背後から聞こえた。
振り返ると、そこには監守の制服を着た男が立っており、その背後には壁のかわりに鉄格子があった。
ネプティスは牢獄の一室にいたのだった。

「ネプティス・アヌヴィッシュ、私はトーナメント立会人の『宇喜田右近』だ。
 開始時間となったので、きみをここへ連れて来たのだ。これよりトーナメント2回戦を始めるにあたって、ルールの説明をする」

ネプティスはその言葉を聞いてはじめて、自分がトーナメントの試合に強制的に連れて来られたのだとわかった。


宇喜田右近と名乗った男は身長が高く頬が痩せこけているが、不気味なほど青白い肌と監守の制服がいやに威圧感を放っていた。
そして、どうやら左腕がないらしく、左の袖が肩からぶらりと垂れ下がっている。

「トーナメント2回戦はこの岩窟の迷宮にて行う。2人の出場者が別の場所からスタートし、先にここから脱出した者が勝者となる」

立会人は困惑するネプティスに構わず、決まりきった文章を読み上げるがごとく淡々と言った。

「あの、私もうこの試合に出るつもりなかったんだけど」
「他の立会人なら、棄権も代理参加も許したのだろう。だが、私は棄権は認めない」

右近立会人は表情も変えずに続けた。

「それに君は棄権するつもりもなかったのだろう? 棄権するつもりならなぜその案内状を捨てずに持っている」

ネプティスが寝転がっていた歪んだベッドに、クシャクシャになった封筒が置いてあった。

「…………そんなの、屁理屈だよ」
「屁理屈ではない、この勝負でもっとも重要なのは決断力だ。あらゆる推測を立てて戦略を練っても、決断力がなければここでは勝てない。
 なあに、参加するか棄権するかすら決められない今の君ではいずれここで負けてしまうだろう」

今の君では負けるという言葉だけがネプティスの頭に否が応にも残ってしまう。

ああ、そうか。
わかったよ、私は強くなってないんだ。
あのひとを、過去の自分にそっくりだったあのひとを助けられなかったのは、
まだ私が弱かったからなんだ。
この立会人の言葉は癪にさわるけど、やってやろうじゃないか。


「どのみち、この試合では降参することもできない。アリアドネーの糸もない。早くこの悪夢から脱出できるよう考え、行動するのだな」

右近立会人は鉄格子の扉を開き、出ていった。


「この悪夢の迷宮より先に脱出した者が勝者となり、トーナメント決勝へ進出する。冷静な思考と決断力が勝利へのカギとなるであろう」

宇喜田左近と名乗った、右腕の無い立会人が奏璃乃(かなで りの)のいる牢から出ていった。

黒に近い灰色の壁に囲まれ、錆び付いたパイプベッドにちょこんと座る璃乃は、
この牢にはとてもふさわしくない茜色のワンピースを纏い、束ねられた亜麻色の髪は陰湿な色の壁によりいっそう映えている。

奏璃乃は本来の出場者であったはずの菊谷志保の代理としてこのトーナメントに出場し、1回戦を勝利した。
この試合に璃乃はネプティス同様、午後5時になった瞬間にこの牢に瞬間的に移動させられ、
状況の判断がつかないままに左近立会人のルール説明を聞かされた。

「この迷宮から脱出した者が勝利って……まず入ってきた方法もわからないんですけど」

ひとりになった牢の中で璃乃はため息をつく。
牢の中を見回してもヒントになるようなものはない。

「とにかく、行ってみるしかないな……」

璃乃は牢の鉄格子の扉を押し開き、牢の外へ出る。
錆び付いた扉が不快な軋む音をたてた。


立会人は言った。「先に」脱出した者が勝利だと。
ということは自分の対戦者も今同時に迷路に挑戦しているのだろう。
璃乃はそう思い、慎重に迷宮を進む。

迷宮は一般的に知られるオーソドックスな構造になっているようだった。
牢の中と同じく石のブロックを積み重ねて作られた壁はすべて同じ厚さになっており、
通路はカーブしたり上ったり下りたりすることはなく直進のみで、曲がり角は必ず直角に折れていた。
通路の足元には等間隔で足元を照らすライトが設置されており、距離の把握もしやすくなっている。

しかし、立会人はこの迷宮については何の説明もしなかったため
この迷宮がどれぐらいの広さなのか、どんな形をしているかもわからない。

璃乃は立ち止って、じっと考えた。


得体のしれない迷宮を進むために有効な手段は2つある。

ひとつは、壁づたいに歩くこと。
迷宮の入口と出口が迷宮の外周に面している場合、入口に接した壁はかならず出口まで途切れず続いているため確実に出口に向かうことができる。
ただしこの方法は同じ場所を何度も通ることは珍しくなく、出口にたどり着くまでにかなり時間がかかることになる。

もうひとつは、マッピングをしながら進むこと。
紙とペンを用意し、進みながら迷路の構造を紙に書き込んでいくことで、すでに通った道を判別したり、迷路全体の構造を知ることができる。
ただし立会人からは紙やペンなどは持たされていないし、もともと持ってもいない。
頭で覚えようとすると間違いや矛盾が生じやすくなりかえって混乱してしまうことにもなる。

璃乃はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。

「……『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』」

璃乃は自らのスタンドを発現させた。


ネプティスは壁に手をつきながら歩いていた。
同じような風景の連続に飽きてくるが、ペースを変えず歩き続けている。
行き止まりの場所が何度もあったが、それでも壁から手を離さず、行き止まりまで歩いてそれから引き返していた。
何度も同じ場所を通ったような気がするが、ネプティスは構わず壁伝いに歩き続けた。

ネプティスのスタンド『ネクスト・アルカディア』は戦いにおいては相手に臨機応変に対応できるスタンドだが、
ネプティスひとりの場面では基本的に能力は発揮できず、ヴィジョンとしての役割以外にできることはなかった。

いまネプティスにできることは、ただ地道に進んでいくことだけであった。


しかし、それでも発見はあった。
石のブロックを積み重ねた壁に手をついて歩いていたが、ときどき手触りの違うブロックがあることがわかった。
良く調べてみると、そのブロックとまわりのブロックの数個だけが比較的新しいブロックに替えられていたのだ。
強く押したりしても反応はなかったが、一見同じように見える壁でも、隠された何かがあるということは判明した。

さらに、行く先が行き止まりと見えても念のため行き止まりまで進んでいたのだが、
あるひとつの行き止まりの床に『台座』とその上に半球状の『くぼみ』があった。

立会人はこの迷宮については詳しく説明しなかったが、この迷宮の出口とはなにか特別なものなのかもしれない。


もう1キロほどは歩いただろうか、ネプティスはもうひとつあるモノを発見した。

『匂い』である。

ネプティスが迷路を探索していると、時々何かの匂いがすることがあったのだ。
その匂いがするたびに、ネプティス徐々に匂いの判別ができるようになっていた。
ネプティスが気付かぬうちに、彼女のそばには『ネクスト・アルカディア』が漂っていた。


「この場所は……最初のほうに通った道だ、柑橘系が強い。ということは、こっちの道はまだ通ってないね」
壁際に屈みこんでいた璃乃が立ちあがって次に向かうべき道のほうを向いた。

璃乃の屈みこんでいた場所には、足元を照らすために等間隔に設置されたライトがあった。
このライトは璃乃にとってひとつの目印となっていた。

璃乃は、自身が通った通路を判別するために『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』の『香りを生み出す』能力により
ライトに香りをこすりつけながら歩いていた。

さらに、通った順序を判別するために香りを「柑橘系」「フローラル系」「ハーブ系」で混ぜて使っていた。

璃乃は迷宮のライトに香りをつける方法で「マッピング」し迷宮を進んでいた。


「!?」

璃乃は突然立ち止まり、進行方向の先にある曲がり角をじっと見つめた。

思えばあまりにも迷宮は静かすぎた。
これまで聞こえていたのは自分の足音のみ。

迷宮を歩きはじめて30分ほど経った頃、璃乃ははじめて自分以外の足音を聞いた。
その足音はゆっくりと、そして確実に近づいてくる。

(そういえば……私は今まで対戦相手のことを考えなかった。この試合、勝利条件は『迷宮から脱出する』ことだから、
 もし対戦相手が同じ場所、同じ時に迷路に挑戦しているならば、遭遇するのはできれば避けたい)

璃乃は後ろを振り返った。20メートルほど先に、ついさっき屈みこんで確認したライトがある。
璃乃はそこからまっすぐここまで進んできたが、途中に一つ分岐点があった。
その分岐した道もまだ進んでいないはず。

「……このまま進むのはよそう、あっちの道から進んでみよう」

璃乃は近づく足音の主に気づかれぬよう、忍び足で来た道を戻り、別の道に進んでいった。


コツ…… コツ……

「…………足音」

壁伝いに進んでいたネプティスにもかすかな足音が聞こえてきた。
その足音は次第におおきく、感覚が早くなっていく。

「まずいな……」

ネプティスの額に汗が一筋流れる。
壁伝いに進んでいるネプティスは進行方向を変えるわけにはいかなかった。
一度壁から離れ、方向を変えてしまえば壁伝いに歩く手段は意味を為さなくなるからだ。

足音がさらに大きくなる。
どうやら足音の主はネプティスの進行方向から向かってくるらしい。

「迎撃する準備をして、ネクスト・アルカディア……
 近づいてくるのは私が迷宮の中で感じ取った『いくつかの匂い』のうちのひとつの持ち主、『花の香り』の持ち主だ」

ネプティスは壁から手を放し、進行方向の曲がり角に意識を集中させた。
靴が石畳を叩く音がはっきりと聞こえ、曲がり角から人影が飛び出した。

「『ネクスト・アルカディア』ッッ!!」

「……ッッ!?」


ネプティスのスタンドは曲がり角から現れた人影に向かって拳を振り下ろした。
突然攻撃を仕掛けられた璃乃はかろうじてスタンドで攻撃を受け止めたが、
すぐさま次の攻撃が迫ってくる。

「待って、私はあなたに攻撃しないッ!」

その言葉を聞き、ネプティスは硬直し攻撃の手が止まった。

『い、嫌だ‥死にたくない‥だ、誰か‥助けて‥‥‥』

一回戦で出会った男の言葉がネプティスの頭の中でリフレインする。


あっさりと攻撃が止んだことに璃乃は内心驚いたが、すぐにネプティスに向きなおった。

「私はトーナメント出場者の奏璃乃。あなたは……私の対戦相手ですか?」
「あ、えっと……はい、そうで…す」
「ということは……」

璃乃は一度、自分が来た道のほうを振り返った。
璃乃にとって、ここで対戦者であるネプティスに遭遇することは予想外のことだった。

「聞いてください、この迷宮には私たち二人のほかに何者かがいます」
「……立会人、じゃなくて?」
「立会人は基本的に勝負の邪魔になるようなことはしないでしょう。
 私は聞いたのです。あなたと出会ったこの方向とは反対側に、もうひとつの足音を」

その言葉を聞いて、この少女は驚くことだろうと璃乃は思っていたが、
意外にも少女は自分たち以外の第三者について受け入れているようだった。

「そうか、じゃああの匂いは……」
「匂い?」

匂い、と聞いて璃乃はぎくりとする。
だがネプティスが考えていたのは璃乃とは別のことだった。

「私は迷路を歩いていて、いくつか気になる『匂い』を感じ取っていた。『花の香り』『柑橘系の香り』そして……『獣の臭い』」

ネプティスがそう言ったと同時に、新たな足音が聞こえる。
石畳を打ちつける、というより何か重いものを落としたような音がする。

その足音は璃乃の背後、璃乃が来た道から聞こえていた。
「さっきの道から……追いかけてきたんだ」
「そうだ、この臭いだ。獣の……臭い」

二人が見つめる通路の先にライトに照らされた大きな影が現れた。
その影は徐々に近づいてきて、その姿が現れていく。

2メートルは超える屈強な男の体に、角の生えた猛牛の頭、手には巨大な斧が握られている。
ギリシャ神話に語られる迷宮に棲む怪物、ミノタウロスそのものだった。

「ヴオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」

耳をつんざくような咆哮は対峙した璃乃とネプティスのみならず、迷宮の石壁をも震えさせていた。
2人が目の前で起こっていることを頭の中で整理する間もなく、ミノタウロスは巨大な斧を両手でつかみ、体をひねらせて背中のほうへぐんと振りかぶった。

「にっ……逃げろ!」
「あっちに、急ごう!」

ミノタウロスに背を向けて駆け出した途端、巨大な斧は二人の背中をかすめる。
斧が石壁に思い切り叩きつけられる音、吹き飛ばされた石のブロックがむこうの壁に激突する音、
積み上げられたブロックが支えを失って崩れ落ちる音、ブロックとブロックの間の砂が煙を立てて撒きあがる音、
すべてが一緒になってあたりをこだまする。

こんなことでは「試合の勝利」など二の次、そう2人は考えざるを得なかった。


奇奇怪怪なる出来事が起こり、悲鳴をあげながらミノタウロスから逃げる2人の様子がモニターに映し出されている。
モニターに食い入るようにその様子を眺めている立会人はとても嬉しそうに口元をゆがませていた。

「楽しいね、右近」
「ああ楽しいさ、左近。人が恐怖し、怯えている様を見るのはとても楽しい」

「彼女は、どう思う?」
「彼女……」

モニターを眺めていた立会人の顔がすっと真顔に戻った。

「ああ右近、運営の招き入れた彼女のことさ」
「左近、それは……奏璃乃、いやその前に菊谷志保のことを言っているのか」

モニターの中の奏璃乃はネプティス・アヌヴィッシュとともに迷宮を駆け巡っている。
璃乃はネプティスを気遣うような様子をたまに見せていて、相手が自分の対戦者であることを忘れているようにも見えた。

「きみだってわかっているはずだよ右近、菊谷志保の正体に」
「ああ左近、我々が報せられていた菊谷志保の情報は、1回戦の前田立会人と同じ」
「『姓名』のみ、それ以外は不明だった」
「それが何を意味するのか……」

「ひとつ、名前以外の情報がそもそも存在しない。つまりは生まれたばかりの赤ん坊である」
「ふたつ、我らが誇る『運営』の情報収集力をもってしても正体を明かせなかった」
「みっつ、『運営』が意図的に隠している……」

その言葉を耳にし、嘲り笑うように立会人は言った。

「ひとつめ、ふたつめについては理屈に合わないじゃないか。
 生まれたばかりの赤ん坊をトーナメントに出そうなんていくらなんでも趣味が悪すぎるし、
 そもそもデータには『生まれたばかりの赤ん坊』とでも書けばいいじゃないか、白紙にする必要はない」
「運営にも正体が明かせない者を、わざわざトーナメントに呼ぶ必要もない。第一、どうやって連絡をとるのだ」

「だが、『運営にも正体が明かせない者を、わざわざトーナメントに呼ぶ必要もない』のなら……何故菊谷志保はトーナメントに出場することになった?」
「とにかく、運営は菊谷志保をトーナメントに出場させることに決めた。……だが、その正体について、現場の我々立会人には報せられていない。つまり……」

「『運営』が意図的に隠しているとしか思えない、そうだろ左近」
「ああ、右近」
「では隠す理由は何だ? まさか立会人ならまだしも、運営本部がひとりの出場者に肩入れするというのか?」
「何の意味がある? だが、運営が菊谷志保個人に肩入れしているという仮説は成り立たない」
「何故?」
「何故なら……」

立会人は再びモニターを眺めた。
迷宮を駆け巡る2人の女性。そこに菊谷志保という名の者はいない。

「菊谷志保が、ここにいないからだ」
「……たしかに、そのとおりだ」
「運営が菊谷志保に肩入れするならば、菊谷志保は1回戦に出ていなければならない」
「ではいったい、どういうことなのだ」

「わかっているはずだよ右近、わたしときみは考えていることは同じ」

モニターを見つめていた立会人はすっと目を閉じて、応えた。

「……たとえばこんな仮説はどうだろうか」

「情報を隠したのは運営ではなく菊谷志保個人だったのだ。自らの情報を隠して自らを出場者として選出、トーナメントに出ようとした」
「だが、そのことがトーナメント運営の人間にバレてしまった」
「過去のトーナメントで、私怨のために組み合わせを意図的に変えた立会人が粛清されたことがあった。
 それと同じように、私情でトーナメントに参加しようとした菊谷志保も粛清された」
「そしてトーナメント本戦には、『菊谷志保の代理』として奏璃乃が現れた。つまり……」

「菊谷志保は、トーナメント運営側の人間だったのだよ」


ふたりはミノタウロスの姿が見えなくなるところまで走り、曲がり角を曲がって足を止めた。
ミノタウロスの足音と荒い鼻息は今のところ聞こえず、どうやらミノタウロスは見失った獲物をしつこく追いまわすようなことはしないらしかった。


璃乃は迷路の湿気を帯びた石壁に背中をあずけ、呼吸を整えてから言った。

「さっきも言ったけど、私の名前は奏璃乃。あなたは?」

璃乃はそばにしゃがみ込んだ銀髪の少女に名前だけを告げ、少女にも名前を言うように促した。

「ネプティス・アヌヴィッシュ……」

ネプティスの声に力はない。
疲れているわけではないが、今起こっている状況を受け入れがたく、困惑しているのだ。

「そう、ネプティス……いったん勝ち負けのことは忘れましょう。ふたりで力を合わせて、出口を探すの」

言葉だけなら気丈にも思えるが、璃乃もネプティス同様声に力はない。



「おそらくは、姿を見つけたときにだけ襲ってくるんだ。
 ずっと追ってきていたら、行き止まりの道で逃げ場を失うんじゃないかと心配したけど……大丈夫なようね」

璃乃は近くにあった壁のライトに近寄り、屈みこむ。

「香りは……ペパーミントとベルガモットが半々、スタート地点からは離れているけど、一度通った場所みたい」
「香り……?」
「ええ、私のスタンド『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』は香りを操作する能力。
 目印になる壁のライトに香りをつけて、その香りの違いで迷路の進行順を記録していたの」

璃乃があっさり自分のスタンド能力を明かしたのは、本心からネプティスと協力して迷路を脱出しようと考えていたからだった。

「そうか……だから香りの嗅ぎわけができるようになったんだ」
「えっ?」
「私の『ネクスト・アルカディア』は、対峙したものの能力にあわせて進化する能力。
 おそらくはあなたのスタンド能力でライトにつけた香りを嗅いだことで、無意識のうちに進化していたんだ」
「……ふうん、なんだか不思議な能力ですね」
「だから私は常に花の香りをまとったあなたが近づいてくるのがわかったし、獣の臭いをもつ者が迷路を徘徊していることもわかった」

ネプティスは璃乃の顔をみたあと、大きく息をはいた。

「それが、まさかあんなバケモノとは思わなかったけど……」
「そうね、こんなの前代未聞だわ」
「そういえば、この迷宮の脱出方法について心当たりがあるんだけれど」
「心当たり?」

ネプティスの言った「心当たり」に璃乃は興味を示し、ネプティスの顔をじっと見る。
璃乃に見つめられ、ネプティスは思わず顔をそむける。
璃乃の目は見ている者を吸い込むような、不思議な魅力を備えていた。
彼女の言動や性格も相まって、まるで誰も彼をも味方にしてしまうような……

「……迷路をじっくり歩いているときに、いくつか気になるものがあった」

ネプティスは璃乃と直接目を合わさず、襟元を見ながら話し続けた。

「色の違う壁のブロック、行き止まりの床にあった台座とくぼみ……」
「そんなものがあったんだ……」
「私は地道に壁沿いに歩いていたから」
「なら……もしかしたら、あの怪物もそうなのかもしれないね」
「あの怪物も?」
「うん、ネプティスさんの言うものがこの迷路を脱出するための手がかりだとして……あの怪物は、出口を守る番人であるとも考えられない?」
「ええと……」

璃乃はネプティスの手を両手で包み込むように握り、言った。

「協力して、ここから出よう。ね?」

やはりこのタイプの人間は苦手だ、とネプティスは思った。


ミノタウロスは斧を肩に担いだまま、のっしのっしと迷宮の中を歩いていた。
遠くの通路をミノタウロスが通り過ぎていくのを、曲がり角からこっそり顔を出して璃乃は見つめている。

「……やっぱり、あの怪物があの道を通り過ぎて、再び戻ってくるまでの時間は毎回同じくらいの間隔ね」
「つまり、同じ道を決まった速度で歩いている」
「怪物は何かを守っている……可能性はあると思うわ」

璃乃は自分の言ったことを確かめるように繰り返した。

「ネプティスさん、あの怪物を私が引きつけている間にネプティスさんは怪物の徘徊ルートを探索してください。何か手掛かりがあるかもしれません」
「あ、あぶなくないんですか」
「私はブロックの色や台座には気付かなかった。わたしが探すより、ネプティスさんが探したほうがいいでしょう?」
「でも……」
「大丈夫です、私には秘策がありますから」

璃乃はにっこりと笑いかけてミノタウロスの徘徊ルートに向かって歩き出す。
ネプティスは曲がり角でじっと座り込んだまま璃乃を見送った。

(何故、他人のために身を張れるんだろう。私はずっと、自分のことしか考えてこれなかったのに)

ネプティスにとって揺らぎなく自分の思う心のままに行動できる璃乃がまぶしく、うらやましく、妬ましくも思えた。
だが、かけられた期待に背くわけにはいかない。
なんとしても迷宮を脱出する手がかりをみつけなくては。璃乃のために、自分のために。

「…………」

だれのために、と思ったときネプティスは素直な疑問を抱いた。

そういえば、これは勝負のはずだった。
先にこの迷宮から脱出した者が勝利だと、片腕のないあの立会人は言っていた。
あの立会人はこの迷宮のことをよく知っているはずだ。あの怪物も含めて。

ならば。

あの怪物も、見境なく襲ってくるあの怪物もこの勝負内容に含まれている。
イレギュラーな存在ではないのだ。

考えすぎか?
結局は勝負を演出するための障害なのかもしれない。

だが現に、あの怪物は私たちにとって協力して越えるべき障害ととらえている。
それは立会人の本意なのか?


考えもまとまらないうちに、遠くから怪物の咆哮がネプティスの耳にも届いた。


何度も、何度も振り下ろされ、なぎ払われる斧から璃乃は逃げ続けていた。
ミノタウロスの動きは力強くとも俊敏ではなく、落ち着けばかわすのは容易だった。
闘牛士のムレタのかわりにワンピースの裾をはためかせ、璃乃はミノタウロスを翻弄し続けている。

「本当ならフラメンコでも踊ってあげたいところだけど……」

璃乃はミノタウロスをネプティスから離すべく、ミノタウロスからつかず離れずして引きつけていた。
だが道の選択を誤り、璃乃は行き止まりに入り込んでしまい出口をふさがれる。

「ヴーッ……ヴーッ……」

ミノタウロスは鼻息荒く、両手で斧を持ち壁を背にした璃乃に近づいていく。

「ヴオオオオオオオオオオ!!!」

思い切り斧を振り上げたところで、璃乃はスタンドを繰り出し退くのでなく逆にミノタウロスに近づいた。

「『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』!!」

璃乃のスタンドはアンモニアの臭気をミノタウロスの鼻元に漂わせる。

「ブムオオオオオオオオオオオッッ!!」

ミノタウロスは苦しみながらも斧を振ることはやめなかったが、狙いを大きく外し斧を壁に激突させる。
大きな音を出して壁が崩れていき、隣の通路へ穴があいた。

「これで出られる……」

アンモニアの臭気に苦しむミノタウロスを置いて、璃乃はネプティスのもとへ戻って行った。


「ここも……ここもだ、ここもそうだ……」

ネプティスは壁に手を当てて、まじまじと観察している。
璃乃が近づいてくることには、「ネクスト・アルカディア」の能力で強化された嗅覚によってわかった。

「花の香り……璃乃さん?」
「ネプティスさん!」

璃乃は通路の奥からネプティスに向かって手を振りながら近づいていく。

「手掛かりは見つかった?」
「それが……色の新しいブロックは見つけられたんですが」

ネプティスは手を広げ、壁に向かって示した。

「この一帯が全部、新しいブロックなんです」
「ええ!?」
「でも押しても叩いても、何の反応もありません。ほかにくぼみのようなものも、くぼみにはめこむものも見つかりませんでした」
「そんな……でももう、あの怪物が戻ってきてしまいますよ!」
「うん……わかってる」

ネプティスは気づいていた。
璃乃が近づいてくるにつれ強くなっていく「花の香り」に続いて「獣の臭い」も近づいてくることを。
ネプティスはほかに手掛かりがないかどうか、「獣の臭い」が近づいてくるギリギリまで探そうと意識を視覚と嗅覚に集中させる。

「……!!」

そのとき、ネプティスははっと何かに気づいたような表情をして再び色の新しいブロックの一帯を見つめる。

「ネプティスさん! 怪物の足音が聞こえてきます、もうまもなく戻ってきてしまいます!!」

それもわかっている。
「獣の臭い」の強さからすると、まだ姿は見えないがもう50mほどまで近付いているだろう。

だが、ネプティスは嗅覚に意識を集中させたことで、「もうひとつの臭い」に気づいた。
それは璃乃の「花の香り」、ミノタウロスの「獣の臭い」、壁のライトの「花や柑橘、ハーブの香り」以外の非常にかすかな臭いだった。
その臭いの正体がなんであるかは今ネプティスにはわからないが、その臭いは確かにその色の新しいブロックのすきまから漏れてくるものだった。
そして……

「璃乃さん、あなたの言ったこと今ならわかる気がする」
「え……?」

ネプティスは璃乃の目を見て話しだした。
怪物がせまっているというのに、ネプティスの目は今までで一番煌きを帯びているように璃乃には思えた。
今までは自分がネプティスをリードしていたはずなのに、いつのまにか自分のほうが彼女のその目に希望を感じはじめている。

「あの怪物は出口の番人であり、そして迷宮を脱出するための手がかり……カギなんだ」

「ブオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

ミノタウロスが雄たけびをあげ、斧を振りかぶりながらふたりに近づいてくる。

「きゃああああああああああああっ!!」

突然の怪物の咆哮に璃乃は思わず悲鳴をあげる。
しかし、ネプティスは怪物のとっている行動をしっかり観察していた。

「そう……そうだよね、怪物は斧を『横に』振りかぶっている。そしてわたしたちがこの色の新しいブロックの壁のそばに立っているとき、
 わたしたちが斧の攻撃をかわしたとしたら……どうなる?」

「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッッ!!」

ミノタウロスは足を前に踏み出し、ネプティスと璃乃に狙いを定め思い切り振りだす。

「璃乃さん、伏せてッッ!」

ネプティスは璃乃の頭と背中を押さえつけると同時に自らもしゃがみ込む。
ミノタウロスの攻撃はネプティスの頭上をかすめ、色の新しいブロックの壁におもいきり激突する。

壁は砕かれた、というよりブロックの継ぎ目から壁はぼろぼろと崩れだした。
そして崩れた壁の向こうには……

「階段だッ!」

ネプティスはずっと見つからなかった落し物をやっと探し当てたような、歓喜にも見た声で目の前にあるものを確認した。
その階段は迷宮の天井以上の高さまで続いており、その先から眩しいほどの光が差し込んでくる。

怪物はバランスを崩して倒れている。
璃乃も無事なようだ。
ネプティスは階段を駆け上がり、光溢れるその場所へ向かっていった。
その先に、迷宮の出口があると信じて。


――モニターで様子を眺めていた立会人は満足そうな表情を浮かべている。

「ネプティス・アヌヴィッシュ……彼女は無限の成長の可能性を秘めている。みろよ左近、あの彼女の嬉しそうな顔を」
「ああ右近、彼女はこの試合だけでも目に見えて成長したと言えるだろう。そして、これからも」

満足そうな立会人の表情はしだいに口元がさらに歪み、卑屈さも備えた顔に変っていった。

「そう、『これからも』だよ左近。なぜならばまだ『勝負は終わっていない』」
「そうだな右近、むしろここが『はじまり』といえるだろう」


「…………えっ」

たしかに階段を上った先はこれまで彼女が巡り続けた迷宮とは雰囲気が違っていた。
黒ずんだ石壁に囲まれ、暗く空気のよどんだ迷宮の様子とは一転し、
その場所はネプティスの上ってきた階段を中心とした広い円形の部屋だった。
天井は真っ白なドーム状となっており、天井と壁全体が発光しているのか、とても明るかった。

それだけだったなら、ネプティスはこの場所を迷宮の出口と思ったかもしれない。
しかし、この場所は迷宮の出口なんかじゃなかった、とネプティスはすぐに理解した。

白いドームの部屋は、床一面を覆うほどの真っ赤な血痕、血糊とところどころこびりついた乾いた肉片、
そして血で汚れた剣や槍、鉈、棍棒などの武器が無造作に転がっていた。

ネプティスは理解する。
自分が感じ取っていた『もうひとつの臭い』、それは『血の臭い』だったのだ。

まばゆい光に包まれてもなお、ネプティスは目の前がさらに真っ白になっていくような感覚を憶える。


ここは迷宮の出口ではなかった。
 別の場所に出口があるのだろうか。

   いや、その前にこの部屋の状況が意味するものはなにか。


    たくさんの血痕、たくさんの武器。



     ここでは以前に誰かが誰かと戦っていた。




      それも一度ではなく、何度も、何度も。





       つまりは、この迷宮から出る方法とは、結局そういうことなのか。






        「先に」脱出したほうが勝利、とはこういうことなのか。






ネプティスは立ち止まったまま、拳を握りしめたまま、床一面に広がる血のキャンバスを見つめたまま、
頭のなかに流れ出てくる思考の津波に飲み込まれんと必死に耐え続けていた。
だが希望の光に煌めいていたネプティスの目は、暗く淀んだ迷宮が如く黒に染まっていった。


少し遅れて階段を上ってきた璃乃も部屋の状況を見て息を呑む。

(……これは一体、どういうこと?)

あまりにも、無慈悲すぎるではないか。

先にネプティスに階段を上られ、半ば勝利を諦めていた璃乃だが
この部屋に立ち入りネプティスに同情したほどだった。


いつになったら終わりが訪れるのか。
なるほどこれはたしかに迷宮だった。
迷い、迷いつづけ、決して外へ出ることはできない。
希望をちらつかせられながら走り回り、そして絶望に堕とされる。

立会人の行った通り、ここは悪夢の迷宮だ。
決して終わりの来ない、悪夢……。

「悪夢……?」

璃乃はふと呟いた。

「そうだ、これは悪夢なんだ……」

同調するように、ネプティスが応える。

「結局は、そうだったんだ」

ネプティスはゆらりと璃乃のほうに振り返る。
彼女の手には足元に転がっていた金属バットが握られている。
バットはところどころ凹んでいるうえに、血糊と頭皮のような乾いてペラペラした肉がこびりついている。

「いずれ私たちは戦って決着をつけなければならなかったんだ。迷宮なんてただの飾りだった。
 ああ、それがこのトーナメントというもの。生きた者が勝ち上がり、負けたものは死ぬ」

ネプティスは金属バットをひきずりながらゆっくりと璃乃に近づいていく。
目は璃乃のほうを見ているが、焦点が合っていない。

「違う! トーナメントは、決してそんなことではない。勝っても勝てなくても何か大事なことを得られることだってある!」
「あなたはそうだったかもしれない……でも、私は違った。1回戦で私は何も得られるものがなかったどころか、自分の嫌なところに気づいてしまった。
 そして対戦相手の彼は……何も得られなかった。いや、むしろすべてを失ったかもしれない」

「違う……違う……!」

璃乃はネプティスが不憫でたまらない。
あまりに可哀想でならない。
だがそれでも、ネプティスの心を変える言葉が出てこない。

まさに悪夢であった。


『この悪夢の迷宮を先に脱出したものが勝者となる』

立会人の言った言葉をネプティスも璃乃も思い出していた。
だが、そこからネプティスと璃乃の導きだした答えは全く違っていた。

「『フローレンス・アンド・ザ・マシーン』……!」

璃乃はスタンドを発現し、ポケットから液体の入った小瓶を取り出した。
璃乃のスタンドが小瓶に手を触れると、璃乃より先に臭いに過敏なネプティスが鼻をつまんで塞いだ。

「あなた……何をッ……!」

ネクスト・アルカディアの能力による定向進化で嗅覚が鋭くなっていたネプティスは、小瓶の中身の正体にすぐ気づいていた。

「よく聞いてください、ここは……この迷宮は、立会人の言った通り悪夢なんです。
 ここはあまりに恐ろしすぎる、あまりに絶望的にすぎる。そして、あまりに現実離れしすぎている」

ネプティスは金属バットを手からだらりとさげ、全身はわなわなと震えている。
璃乃の言葉を聞いてはいるが、その意味まで伝わっているかどうか、璃乃にはわからない。

「もし、あなたが私の言葉を信じてくれるなら、わたしのあとにこの小瓶の臭いを嗅いでください。
 私の考えが間違いでないなら……この悪夢はすぐに終わるはずです!」

そして璃乃は小瓶のコルクをゆっくりと抜き取る。
中から立ち上る臭気が璃乃の鼻腔を介し、脳を刺激させた――――――


「…………!!」

璃乃が気づいたとき、目の前には白い天井があった。
むくりと体を起き上がらせると、四面を白い壁に覆われた病室のような場所にいることがわかった。
そして自分が寝ていたのは迷宮の牢で見たものと同じパイプベッドだった。
しかし牢にあったものとは違い歪みどころか傷もなく、清潔なシーツが張られている。

息を吸い込むとさわやかな空気が肺に送られていく。
小瓶の刺激臭の余韻は全くなかった。
はじめからそんなものを吸い込んでいなかったように。

四面の壁に窓はなかったが、1枚のドアがあった。
璃乃はゆっくりとベッドから降りてそのドアまで歩き、ノブを回して押しあけた。


ドアを開いた先には男が「ひとり」立っていた。
かかとを合わせ、ぴんと背筋をのばして立ち、手を後ろに組んでいる。
その痩せた顔にはどこか見覚えがあったが、璃乃はどうしても思い出せない。

その男は表情を変えぬまま璃乃に視線を向けて口を開いた。


「おめでとう奏璃乃、きみの勝利だ」


極めて淡々と、その男は言った。
その声を聞いて璃乃は思い出す。
この男は迷宮の牢で自分にルール説明をした宇喜田立会人だと。

しかし、目の前の男にはないはずの右腕がついていた。
そして左腕ももちろんある。

いったいどういうことなのか、と璃乃は思ったが
その理由はこのたったひとことで片づけられることがすぐにわかった。

「……すべては『悪夢』だった」

璃乃はため息交じりにそう言った。

立会人の男はこくりと頷く。


「私は言った、『悪夢の迷宮より先に脱出した者が勝者だ』と。そうだな右近?」

立会人は璃乃から視線を外し、その方向へ向かって話しかけた。
璃乃は振り返り、その場所を見たが誰も立っていない。ただ白い壁があるだけだった。

「まあ私はネプティスには『悪夢から脱出できるよう考え、行動』しろと言ったわけだがな、左近」
「つまり我々は『迷宮の出口を見つけ、外に出る』とは一言も言っていない」

立会人がたった今自分が言ったことに応えるような口調でそう言った。
まるで一人の人間が二人の人間を演じて会話をしているように。

「もちろん君たちの見ていた夢は、我々運営のスタンド能力に影響されたものだ。
 でなければ夢の内容を設定できないし、その夢を複数人で共有することもできないからね」

「あと言っておくが、あの迷宮をいくら探索したところで出口は存在しない。なあ右近」

「ああそうだな左近。奏璃乃、君たちが石壁の向こうのドーム状の部屋を見つけ出したのと同じく、
 たとえば台座のくぼみに宝珠をはめ込んでも別の迷路の入口が現れるだけだ」

璃乃は「二人の」立会人の言うことをただじっと聞いていた。
その顔は怒りを抑えきれないでいるようだった。


ネプティスは迷宮の出口を見つけることに必死だった。
自分もそうだったが、彼女はそれ以上だった。

出口の手がかりを見つけたときはあんなに輝いてた彼女の瞳が、
その先が虚空だと知ったときその目は墨を塗ったように黒くなっていた。

私はあの彼女の目を、表情を、光景をずっと忘れることができないだろう。

これがほんとうの夢だったならよかったのに。

だがこれは夢であって夢でなかった。

迷宮の行き着く先で絶望に染まってしまった彼女は確かにあそこに存在し、今も私の脳に焼きついて消えてくれないからだ。


「進んでも進んでも、迷宮はただ広がっていくばかりで終わりなんてやってこない、まさに悪夢だ」

「そして現実離れした状況、空間、怪物……しだいに迷宮を歩む者は、これはマボロシか夢ではないかと思い始める。君も、ネプティスもそうだったように」

「それはだれしもが思うこと……だがそう『思う』ことと、『思った上でそれを信じ行動する』ことは大きな隔たりがある」

「日常においてもそうだろう? 予測はいくらでも立てられる、だがリスクを負って行動できるかは別の問題だ。なあ左近」

「ああそうだ右近。我々はこの勝負を『決断力』が重要であるものとしている。君にもそう言ったはずだ、奏璃乃。
 これは夢だと予想することはたやすい、だが怪物や対戦者に対し無防備になるリスクを負って、気絶するほどの……
 いや、『目の覚めるような』刺激を我が身に与えるという決断ができるかどうか、それがこの勝負の勝利の糸口である」


璃乃はうつむいて目を伏せ、身体の奥底から湧きあがってくる感情を抑えようと必死だった。
それはもちろん怒り。
だがそれは誰に対してのものか。
自分自身にか、
この立会人か、
それともトーナメントそのものに対してか。

「ネプティス・アヌヴィッシュは確かに迷宮で成長の兆しを見せた。だが、リスクを負う覚悟まではまだ持てていなかった。だから負けたのだ」

「だが奏璃乃、きみはリスクを負って行動することができた。それは君も成長したからか? どうだろう右近」

「いいや左近、彼女は『リスクを負う覚悟』を元から備えていたんだ。そう、『トーナメント参加前から』ね」

その言葉を聞き、璃乃はふと立会人の顔を見上げる。
璃乃の見た立会人の顔は、「すべてを悟っている」かのような表情だった。


「なあ、そうだろう奏璃乃『立会人』よ」


しばらく沈黙が続き、その間互いに視線をそらそうとはしなかった。
ただ、宇喜田立会人は勝ち誇ったような顔つきをしており、にやつきを抑えきれていなかった。
奏璃乃の沈黙が答えを示していた。
その沈黙をもって、宇喜田立会人は「自分たち」の予想が当たっていたことを確信した。


「運営の人間である菊谷志保は、このトーナメントにおいて自らの目的を達するため『自ら』を出場者として登録した」

「だがそのことが運営側に発覚し、菊谷志保は粛清された」

「しかし、それによってトーナメント出場枠にひとつの空席が生まれてしまった」

「そして別の運営の人間が代理を立てる時間もなく一回戦の試合が始まってしまう」

「本来菊谷志保がいなくなったこの試合は、対戦相手であるボディガードの男が不戦勝となるはずだった」

「だがそこに現れたのはきみ、奏璃乃だ」

「菊谷志保の代理を買って出た君を、その試合の立会人は出場者として認めた。そうだな左近?」

「ああ右近。しかし何故運営と出場者しか知りえない対戦場所と時間をきみが知っていた?」

「菊谷志保が出場できなかったのは粛清という運営内の問題なのに、何故きみは菊谷志保が出場できないことを知っていた?」

「それは君もまた運営側の人間であり、菊谷志保に近しい人物だったからなのだ!」


宇喜田立会人の一人二役の演説をじっと聞いていた璃乃は何も言い返そうとはしなかったが、
表情には焦りが見え始めていた。

「……もし、一回戦の立会人が前田立会人のような運営との関係が薄い人物でなく、運営に近しい人物であったなら……
 奏璃乃、君も菊谷志保と同じく粛清されていただろう。君はその多大なるリスクを負って菊谷志保の代理参加をしようとした」

「結果は成功……一回戦の立会人は君が運営の人間と知るには時間も情報も足らな過ぎた。彼は責められまい」

「もし菊谷志保がトーナメントに参加しようとしたのを機と見て、彼女を粛清し自分がまんまとその席に着く……ということだったら
 いっそう面白かったが、君の様子を見るにどうもそうではないようだな」

「君は本当にやさしい性格の持ち主のようだ。対戦相手にもかかわらず相手をいたわることを怠らない。
 君は真剣に菊谷志保の代理として、菊谷志保の目的を果たさんと試練に挑んでいるようだ」

璃乃の額から脂汗が滲み出る。
璃乃は宇喜田立会人の言動からその本意を探ろうと必死だった。

「それで……あなたはどうするつもりなんですか。私を粛清するおつもりですか」

宇喜田立会人はわざとらしく両手を胸元でぱっと開いて言った。

「まさか! そんなつもりはありませんよ、『我ら』は前田立会人の判断を尊重します。なあ左近」

「ええ右近、我々は『面白ければそれでいい』のです。我ら立会人の多くがそうであるように。ねえ奏『立会人』?」

奏璃乃は何も応えようとはせず、部屋の出口へ向かい外へ出ようとドアノブをつかんだところではっと振り返った。


「彼女は……ネプティスさんはどうなったのです!」

「聞きたいですか? ……聞かないほうがいいと思いますが」

そうは言いながらも宇喜田立会人はにやにやと笑いながらモニターのスイッチを入れた。
モニターには迷宮を走り回るネプティスの姿が映し出されている。

「彼女はこのとおり、まだ『目覚めて』おりません。現実にはあなたの隣の部屋のベッドにずっとおりましたが、
 あなたが悪夢を脱したあともずーっと迷宮を彷徨いつづけています」

「そんな……」

「あなたの忠告も聞かず、それどころか我を失った彼女は、『気絶して』もぬけのからになったあなたをさらに金属バットで殴りつづけました。そうだね右近?」

「ああ左近。奏梨乃、きみがベッドから起きてドアを開ける直前までその映像がモニターに映し出されていた。その様子を見ずにすんでよかったですね」

「…………!」


モニターに映し出されたネプティスを見て璃乃は絶句する。
ネプティスが璃乃に見せた、希望の煌めきに満ちた顔はすでに面影がない。
こわばった表情で頭髪をくしゃくしゃにさせ、手には血のこびり付いた鉈が握られている。
迷路を徘徊する怪物を見つけるや否や叫び声をあげてその鉈を振るう。


「ネプティスさんはたったひとりで、迷宮の数々の難解な謎を解きあかし、襲い来る数々の怪物を倒しながら出口のない迷宮を進み続けています」

「『リスクを負う覚悟』がないから彼女は迷宮を進み続けているのですが……
 数々の難関を越え、彼女は目まぐるしいほどのスピードで精神的に成長しています。『人間として』はどうかわかりませんが」

「いずれ彼女も目を覚ますことになるでしょう。要はショックを受けたり攻撃を受けたりして気絶すれば夢から覚めるのですから。
 ただ、成長し続けていることがそれを困難にしているようですが」

「ならば、彼女が目覚めるのは『リスクを負う覚悟をする』能力を得たとき。その時彼女は比類なき強さを得ているでしょう……怪物じみた、ね」


いつのまにか部屋に奏璃乃の姿はなかった。
ネプティスの姿を見ていることに耐えられなかったのか、
それとも彼女がネプティスを救えなかった事実をこれ以上突きつけられたくなかったからなのか。


璃乃は、ネプティスを救うことができたのである。
自分が敗北することになっても、刺激臭を溜めこんだ小瓶を自分より先にネプティスに吸わせればよかったのだ。

では何故璃乃はそうしなかったのか。

菊谷志保の願いを叶えるためだった。

トーナメントに優勝して、菊谷志保が果たすはずだった願いを実現する。

そのために璃乃はネプティスを見放したのだ。

少なくとも璃乃自身はそう思っていた。


優しすぎるがために、彼女は自ら業を背負う。



璃乃のいなくなった部屋で宇喜田立会人は問いかける。

「菊谷志保の願い、もとい奏璃乃の願いを聞けなかったな左近」

「からかいすぎたな右近、まあ決勝でもないのにここで聞くのは無粋だ。その願いは次の戦いで語ってもらうとしよう」

「ああ左近、我々は彼女が目を覚ますまで、彼女の活躍を楽しむとしよう……」




――台座のくぼみに、倒したミノタウロスの首飾りの宝珠をはめ込んだら新たな道が開けた。

 蛇の群れを払った先に見つけた宝箱に赤い鍵が入ってた。

 ドームの部屋の奥の壁に小さな鍵穴を見つけた。赤い鍵を回すと隠し扉が現れてさらに鍵付きの扉があった。

 また階段を降りて迷宮の中を探そう。

 ああ璃乃さんごめんなさい、私はきっと迷宮を脱出してみせる。

 あなたを死なせてしまったけど、あなたのぶんまで私は生きる。
 
 ああ、またミノタウロスだ。振るった斧をかわしながら脚を斬りつければバランスを崩して倒れる。
 
 その隙に鉈で首を叩き落とせばすぐに動かなくなる。簡単だ。

 なんでこんなのろまを怖がっていたのか、いまではわからない。

 別の場所で見つけた扉には牛の頭の紋章とカウンターが備え付けられていた。

 カウンターによればあと16体のミノタウロスを倒せばあの扉は開くはずだ。

 鉄球の転がる坂道の奥に宝箱が見える。あれこそドームの鍵付き扉の鍵が入っている宝箱に違いない。

 スタート地点の牢の壁を壊したら、下に向かう階段が現れた。

 そうか、もしかしたら最初はここから入ってきたのかもしれない! そうすると出口もここに……

 階段をおりて通路をすすむと奥にミノタウロスがあらわれた。

 ふりかえるともう一たいのミノタウロスがいる。

 ほそい道で、はさみうちするつもりか。

 ああこれでいっきににたいのミノタウロスをたおせて、カウンターがすすむ。

 なにもこわいものなんてない

 じぶんでも よくわかる わたしは せいちょうしている

 すべてを なにもかも のりこえるちからを わたしはてにいれる

 このめいきゅうを だっしゅつして

 だから さっさとかかってこい

 にたいいっしょに たおしたら わたしは もっと もっと つよくなる

 さあこい こい こい こい こい こい こい こい こい



「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!」

ネプティス・アヌヴィッシュの咆哮が迷宮内に響き渡る。

★★★ 勝者 ★★★

No.5405
【スタンド名】
フローレンス・アンド・ザマシーン
【本体】
奏 璃乃(カナデ リノ)

【能力】
様々な「香り」を生み出す








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最終更新:2022年04月17日 15:56